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第21章

スポルジョン氏と『愛国者』

この説教者の生涯と事績に関する長文の論評――種々の特徴――美点と短所――ニューパーク街会堂における除夜礼拝

 ロンドン最古の非国教徒系新聞、『愛国者』紙は、説教者としてのスポルジョン氏にいささかなりとも長文で批評を加えた最初の新聞であったと思われる。そして、この若き牧師について表明された種々の意見は、概して寛大で、奨励するようなものであった。1855年の秋、スコットランド訪問のすぐ後に掲載された彼の生涯と事績に関する論評は、『タイムズ』紙の四段分に当たるものであった。

ニューパーク街会堂で説教するスポルジョン

 多少の伝記的な事実が記された後で、特に言及されたのは、説教者自身がエクセター公会堂で触れた不信心への誘惑であった*。それから、彼の説教について非常に寛大な評価がなされている。――

 「私たちの見たところ、彼は突飛でも異常でもない。彼は明瞭で音楽的な声をしている。その言葉遣いは平易で、その様式は流暢だが、きびきびとしている。話の順序は明晰で整理されており、その内容は健全で適切である。彼の口調と精神には心からの温かみがこもっており、その評言は常に簡潔でぴりっと刺激がきいている。時として親しげな話し言葉風になりはしても、決して軽薄になったり、粗野になることはなく、まして卑俗になることはない。この一編の説教だけで判断する限り、彼はカルヴァン主義と呼ばれる形の福音を平易に、忠実に、力強く、また情愛をこめて宣べ伝える説教者になると思う。また、私たちの判断をより好意的なものとした理由は、彼には年齢に似合わぬ堅実さがある一方で、非常に若年の説教者たちにつきものの、ごてごてと装飾過多な文体がほとんど全く見られない点である」。

 週刊の『ニューパーク街講壇』の各号は、今やきわめて広く配布されており、『愛国者』の論評家も、それらを何部か精読した後で、この説教者に対する自分の意見が「やや修正された」ことを認めていた。印刷された講話の何編かに見られる特徴は、この説教者が、当初想定されていたよりも桁外れの人物であることを示していた。だが、それと同時に彼は、先に考えられたよりも、「突飛な」所が皆無というわけではなかった。しかしながら、こうした言及は、「ためにする批判」ではなかった。というのも、「これほど他人の意見に全くとらわれない演説家に向かって欠点や過誤を指摘しても、ほとんど何の役にも立たないであろう」からである。スポルジョン氏は、自らの告白するところ、善を施すための手段について、あまりやかましくなかった。彼はスコットランドの人々に向かって、彼らが自分を理解していないと告げたことがあった。――「左様。何となれば私は、その方があなたがたの魂を回心させられると思ったならば、地に足をつけて説教するよりは、逆立ちして説教するであろう。私は、自分がどう説教するかに、特にこだわりはしない」。そして、「あのわめき散らす奴」と一部で呼ばれるこの人物は、こう云ったことがあった。「私の座右の銘は、Cedo Nulli――われ何者にも屈さじ――である。私は、いかなる人間にも媚びを売ったことはない。だれにも私の牧会する教会に出席するよう頼んだことはない。私は、自分の好むことを、自分の好むときに、自分の好むしかたで宣べ伝える」*。彼は、いかなる芸術上の規則によって縛られることも拒否した。それで彼は、明らかにうぬぼれとは無縁であったが、批評家はこのような説教者をありのままに受け取り、生地のままの彼を評価せざるをえなかった。これは公正なことであった。だが、批評家は、もしかすると、スポルジョン氏自身の謙遜にすぎる自己評価を鵜呑みにしてしまう間違いを犯したかもしれない。――そうした自己評価こそ、ある程度までは、彼が教育や、自分の生涯の事業のための適正な準備なしに、忽然と世に現われたのだという意見を広める原因となったであろう。「私が何者で、また、いかなる者か思い起こしてほしい」、と彼は云ったことがある。「――ほんの子どもで、微々たる教育と、微々たる学識、能力、才能しかない」*。神の御霊がおられなければ、彼は語ることができないと断言した。「私は、人々に語る資格を得させるような何の賜物もタラントも持ち合わせていない。私には、高き所からの霊感が必要である。さもないと私は、他の人々と何ら変わるところがなく、何1つ云うべきことがない」*。後年の彼であれば、このようには語らなかったであろう。そして、こうした言葉が語られたとき、おそらくそれは誤解の種となったであろう。だが、彼自身のへりくだった自己認識にもかかわらず、『愛国者』は彼の独創性を見抜いていた。――

 「それがいかなる原因から生じているにせよ――生来の性格の力からにせよ、その土台にさらに加えられた神の恵みの活力からにせよ――、公刊されたスポルジョン氏の数々の説教には、彼を傑出した人物として際立たせているものがある。説教様式には、様々に異なる模範があり、そこに独創的なものが打ち立てられるのはまれなことである。だが、彼は独創的な天才であるように見える。ジェイの勢いと、ロウランド・ヒルの平易さに、彼はあふれるほどの――粗野さとは云わぬまでも――親しみやすさを加えている。それはハンティングドン系の過激なカルヴァン主義的説教者たちが有していたのと同じ親しみやすさにほかならない。『キリスト教界において、こうした昔ながらの福音の諸真理をより目立たせてきたことは、私の特権であった』、と彼は云う*。しかし、先に言及した数々の特性は、何らかの模倣だなどは全く考えさせないような形と様相で立ち現われており、それが独特の性向であるとの意見に人を傾けさせるのである。様式においても、構成においても、論じ方においても、そこには何のわざとらしさも、作為も、手の込んだ造りも見られない。それでいながら、それぞれの講話には、前段があり、中段があり、結論があり、その主題はきちんと導入され、言明され、論じられ、補強され、適用されている。しかし、すべては何の努力もなしに、日常会話と同じ気安さと伸びやかさをもって、技巧をこらすことなくなされていつつ、力がこもっており、自ずから生じた表現があるのである。『私は、これだけは確信している。――私は、私の知る限りのことをあなたに告げており、何もかも包み隠さずに語っている。私は雄弁家ではない。だが、私の心から湧き上がるままのことをあなたに告げている』、と彼は云う*。また、『私の心よ、語るがいい!』、と別の箇所では叫んでいる。『というのも、心の考えは最上の考えだからである』*」。

 初期の頃のスポルジョン氏は、自己中心主義者だと執拗に責められていた。だが、『愛国者』の目によると、こうした非難は、「自分の来し方、感情、習慣に対して彼が行なう特徴的な言及」といったものに和らげられている。これこそ、事の真相であった。こうした初期の説教やその他の発言を注意深く読む人であればだれでも、この人物がそれまでいかに生き、いかに働いてきたかという人物描写を、それなりに示せるだけの材料を集められたであろう。このようにして私たちは、『愛国者』が引き続いて示していったように、この人物が古の時代の書物を読む喜びを見いだしていると語っていること、また、新しい書物をほとんど顧みないこと――この傾向は、後年には捨てられたに違いないが――を見いだすのである*。それから、私たちが見いだすところ、彼は、自分の精神的諸機能の秩序をほぼ完全に聖書に負っていたと告白している*。キリストが彼の太陽であった。そして彼は、奇抜な云い回しによって、他の種々の学芸をこの中心を取り巻く衛星として回転させるよう聴衆に助言していた。カルバリの山こそ、若者がその書斎あるいは観測所を建てるべき場所であった。さらに、このように若年の頃から彼はこう告白していた。すなわち、以前の彼は自分の知識を「まるでごちゃ混ぜに」しておいたものであったが、今やすべてがしかるべき場所に納まり、求めや必要に応じて即座に用いることができるようになっているのだ、と。自然や、書物や、身の回りのあらゆるものから易々と例話を引き出せる彼の卓越した手腕にも注目された。そして、もちろんそれは、それなりのしかたで、独特の天才の趣を示していた。この説教者の様式における、それよりも魅力に乏しい特質にも着目され、それらについて『愛国者』は次のように述べていた。――

 「時として彼は、疑いもなく、粗野に近い無作法な話し言葉に陥ることがある。『もし』、と彼は述べる。『私があなたがた全員を喜ばせるだろうようなこと以外、何も語るべきでないとしたら、一体全体、私は何をすればよいだろうか?』* 後段のような、問題となる話し言葉が生ずるのは、一度や二度のことではない。さらに悪いことに、『善なる神よ!』、だの、『天にかけて否!』だのといった訴えが見られるのである。彼は、自分にとって真実でありふさわしいと信じられることだけを説教すると断言する同時に、『真理を語ることにおいて口をつぐむことなく、口ごもることなく、どもりもしない者から、正直な英国人の聴衆が離れ去るなどいうことは』全く恐れていないという所信も述べている*。以下の文章を彼の云い回しの見本として引用することにおいて、公平を期すために認めておくが、これほどその場にそぐわない言葉というものも極めてまれである。――『私は今朝、サムソンが狐たちをそうしたように、あなたがたを捕まえて、祈りというたいまつをくくりつけ、麦束の間に解き放って、すべてをボウボウ燃え立たせたいと思う』*」。

 これとは対照的に、「はなはだ高度な雄弁さ」を示す多くの事がらが引用されている。また、これらの説教が警句やぴりっとわさびの利いた言葉に満ちていること、その多くが奇抜なもので、そこにまぎれもない天才の刻印が押されていることは認められている。いくつかの箇所が長々と引用されており、すべてが多かれ少なかれ力強いものである。この論評は、しめくくりにいくつかの短所を列挙している。スポルジョン氏は、彼と意見を異にする人々に対して、あまり寛容ではないと考えられていた。そして、他の人々を審こうとする彼の習慣は、「愛がなく、増上慢である」と考えられた。この論評家はさらにこう云っている。――

 「彼の痛烈な皮肉や毒舌から免れる幸運な者がだれかいるか、と問われたとしたら、私たちは実際、答えに窮するであろう。あらゆる者が順々に、この早熟の新米の槍玉にあげられている。彼だけが首尾一貫したカルヴァン主義者であり、他のあらゆる者は鼻持ちならぬアルミニウス主義者か、放縦な無律法主義者か、不忠実な恵みの諸教理の信奉者なのである。大学教育は、民衆に対する青年の同情心を引き離さざるをえない。そして、『実際、農夫たちは……格段にまともな説教者になるはず』*なのである。選びの教理は、『現代においてあざけられ、憎まれている』*。『現代の日和見的な宗教』は、『福音主義的な居間でしかみることができない』*。『聖日には非常に敬虔な説教者でありながら、平日の間は、非常に不敬虔な説教者となる者たちが何と多いことか!』* 『一度たりとも』、彼は自分の兄弟教役者たちが『私たちの主イエス・キリストの積極的な満足と代償について主張するのを聞いたことがない』*。こうした人間をとる漁師たちは、『最高に優雅な絹の綱と、金銀の釣針で漁をしようと一生を費やしている。だが、それにもかかわらず魚は食いつこうとしない。その一方で』、とこの自己満足な非難者はつけ足している。『私たちのようにがさつな人種は釣針を何百もの魚に食いつかせている』*。それよりも『がさつ』なことは――そのようなことが可能だとしてだが――、スポルジョン氏が、自分と同じ特別な流派に属していない神学者たちを取り扱うしかたである。『特にアルミニウス主義的な倒錯は、その生まれ故郷たる地獄の穴に再び沈み込むべきである』。恵みから最終的に脱落することがありえるという彼らの観念は、『最も邪悪な嘘っぱち』*である。スポルジョン氏は、真の信仰者の最終的堅忍という慰めに満ちた、聖書的教理を思いのままにいくら力強く持ち上げてかまわない。だが、これは、反対者に対する悪罵毒舌にふけらなくともできたであろう。彼は、私たちがここに引用したよりもさらに野卑な毒舌にふけっていたのである。また、アルミニウス主義者であれカルヴァン主義者であれ、心正しいいかなる人にとっても、彼が全く同じくらい痛烈に無律法主義者を扱ったことは、そうした埋め合わせにはならないであろう。自分は困難に陥っているから神の子どもなのだと思い込んでいる信仰告白者に対して、彼はこう答えている。『私は、おびただしい数のならず者が、それと同じような状況にあるのを知っている』*。しかしながら、彼は、無律法主義の放縦さの原因を福音の歪曲にあるとするときには、あまりにも慈悲深すぎる。というのも、それは、より正確には、福音を「ほかの福音」ですげ換えているいことに原因があるからである。しかし、こうしたことは詳しく述べている余裕はない。さもなければ、スポルジョン氏がその教理的熱心によって過ったいくつかの間違いを指摘することもできるが。それゆえ私たちは、この訓告とともに彼に暇乞いをするものである。――より勤勉に、慎み深い精神を身につけるようにすること――結局において、そうした精神を彼は豊かに有していないわけではないのだから。自分の若さと未熟さを覚えていること。教役者職にある兄弟たち――自分よりも年長で経験ある人々――を十把一絡げに非難しておきながら、自分が敵意ある論難にさらされていることに不平を云うのは片手落ちであること。そして最後に、自分が述べた、この非常に正しい指摘を心に留めておくこと。『ジョン・ノックスは非常に大いなることを行なった。だが、ことによると彼は、もう少し愛があれば、さらに大いなることを行なったかもしれない』*。その愛は、『人のした悪を思わない』*[Iコリ13:5]のである」*1

 非国教徒系の新聞雑誌上で、スポルジョン氏の生涯と事績に注目した最初期の、また最も優秀な批評の1つとして、ここに抜粋したこの『愛国者』の長文記事は、当時大いに注意を引いたものである。全体として、これは偏見なしに執筆されたものと思われ、筆者は、この若き説教者の人気を説明する、桁外れの資質を認めようとする正直な願いを示している。同時に、弱点とみなしたものを率直に指摘してはいるが。いかに偉大な人物にも、ある程度は人格的な欠陥があるものであり、さもなければ、その人は人間ではないであろう。だが、おそらくスポルジョン氏の欠点として文句をつけられた事がらのいくつかは、もし彼が最初からあれほどの悪口や誤伝にさらされなかったとしたら、これほどあからさまにはならなかったであろう。

 1855年の大晦日の晩、ニューパーク街会堂は除夜礼拝に集った満員の人々で混み合っていた。スポルジョン氏は詩篇90篇の最初の12節を講解し、哀歌2:19――「夜の間……立って大声で叫び」云々――からの説教も行なった。12時2分前に、説教者はその講話中に口をつぐみ、全員に向かって沈黙の祈りをささげるように要請した。それは全く心打たれる光景であった。その場にいた何人かは今もなお、そのときのことを記憶にとどめている。こうした時が持たれたのは、福音を宣べ伝えるための好機としてであったらしく、伝えられるところ、この深夜の礼拝では、多くの悔悟者が出たという。当時、除夜礼拝は、現在のように人気のある慣例ではなかった。だが、スポルジョン氏が説明したように、彼はいつ何時であれ福音を宣べ伝える用意があったのである。

 この満員の集会は、祈祷会と云えたであろう。というのも、牧師以外の人々も祈ったからである。そして非常に熱烈に嘆願されたのは、1856年が幸いなときとなるようにとの祈りであった。牧師も信徒も、彼らの行く手に何が待ち受けているか、いかに露ほども悟っていなかったことか! すでに手がけていた大いなる、また広範囲にわたる働きは、確かにあらゆる方向へと拡張されていくはずであった。だが、火のように燃える試練もまた近づきつつあった。そのときには、その働きと働き手とが、尋常ならざるしかたで試練に遭うことになるのである。

  


*1 『愛国者』、1855年9月21日号。[本文に戻る]

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