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民のキリスト

NO. 11

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1855年2月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「わたしは……民の中から選ばれた者を高く上げた」。――詩89:19


 疑いもなくこの言葉は、本来はダビデについて語られたものに違いない。彼は民の中から選ばれた者であった。彼の家柄は尊敬されるものではあったが、傑出した名門というわけではなかった。彼の一門は敬虔ではあったが、高貴なものではなかった。エッサイや、オベデや、ボアズや、ルツといった名前は、いかなる王家の記憶も呼び覚まさず、いかなる古代の貴族や、誉れ高い家系の追憶を喚起するものでもなかった。彼自身について云っても、彼の唯一の職業は、羊飼いの少年のそれであった。―― 子羊を胸にだきかかえたり、乳を飲ませる雌羊を導いたりする羊飼い――正しく、高潔な魂と、豪胆な勇気を持った素朴な若者ではあったが、ただの庶民――民のひとりであった。しかし、これはユダの王冠にとって、いかなる名折れでもない。神の御目において、この若き英雄の出自は、彼を聖なる民族の王座に据える何の障害にもならなかったし、いかに高慢な家系や家柄の賞賛者であっても、あえてこの民衆出身の君主の剛勇さと、知恵と、その統治の正しさとに、一言も非難の言葉をあてこするようなことはしないであろう。

 私たちの信ずるところ、イスラエルあるいはユダが、ダビデほどすぐれた支配者を得たことは絶えてなかった。そして私たちは大胆に主張するが、この「民の中から選ばれた」人物の統治は、いかに高貴な生まれの帝王たちや、いかに連綿たる王たちの血が流れている王侯たちの統治よりも、その栄光においてはるかに輝かしいものである。しかり。それだけでなく、私たちの主張するところ、彼の生まれや教育の卑しさは、彼が支配する資格を減じさせるどころか、彼を、より一層その職務にふさわしい者とし、より一層その義務を適切に果たさせるものであった。彼は多くの人々にとって必要な法を制定することができた。彼は、彼らのひとりだったからである。――また、しかるべきしかたで民を支配することができた。彼は、「彼らの骨からの骨」、また、「彼らの肉からの肉」、――彼らの王であるのと同じく、彼らの友であり、彼らの兄弟――だったからである。

 しかしながら、この説教で私たちは、ダビデについて語ることはせず、主イエス・キリストについて語りたいと思う。というのも、この聖句で述べられているように、ダビデは、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの傑出した予型だからである。キリストは民の中から選ばれたお方であった。そして、この方について御父は、「わたしは、民の中から選ばれた者を高く上げた」、と云うことがおできになる。

 この真理の説明に入る前に、私の説教の教理について、いかなる反対も起こらないように、もう一言だけ言明しておきたい。私は云う。私たちの《救い主》イエス・キリストは、民の中から選ばれたが、これは主の人性についてのみである。「まことの神よりのまことの神」[ニカイア信条]としての主は、民の中から選ばれたのではなかった。そのようなお方は、主のほか、ひとりもいなかったからである。主は、その御父のひとり子であられ、「すべての世に先立って、父より生まれ」たお方である[ニカイア信条]。主は神と同格にして、同等であり、等しく永遠のお方である。それゆえ私たちは、イエスが民の中から選ばれたことについて語るとき、人間としてのイエスについてしか語ってはいない。私たちは、自分の《贖い主》の真の人性について、あまりにも忘れがちだと思う。主はどの点から見ても一個の人間であられたし、私はこう歌うのを愛しているからである。

   「かつて ひとりの人ありき
    カルバリに死せる まことの人ありき」。

主は、人間と神が融合した存在ではなかった。――2つの性質は決して混合させられてはいなかった。――主はまことの神であられ、その本質や属性は全く損じられていなかった。また主は、それと同等に、まことに、また真に人間であられた。その人間としてのイエスについてこそ、今朝の私は語るものである。そして、それを私は心から喜んでいる。私は、受肉という輝かしい奇蹟の人間的側面を眺め、イエス・キリストを私の兄弟として扱うことができる。――主は、私と同じ定命の運命の中に住み、私と同じ痛みと病と格闘し、人生の行軍において私に同伴し、しばしの間、死という冷たい一室で私と眠りをともにされたのである。

 この聖句では、3つのことが語られている。まず第一に、キリストの出自である。――主はその民のひとりであられた。第二に、キリストの選びである。――主はその民の中から選ばれた。そして第三に、キリストの高挙である。――主は高く上げられた。見ての通り、私が選んだ3つの言葉は、いずれも E の字で始まっている。それは、あなたの記憶を助けて、より一層これらのことを覚えておけるようにするためである。――出自(extraction)、選び(election)、高挙(exaltation)と。

 I. 最初に取り上げたいのは、私たちの《救い主》の《出自》である。今週、また過去数週間にわたって私たちは、新聞紙上で、門閥に関する多くの苦情を読んできた。私たちが受けている政治統治は――しかも、世間の非常に多くの人々が堅く信ずるところ、非常に劣悪な政治統治は――、貴族階級に属する特定の数家族によって行なわれている。私たちは、当然しかるべきように、民の中から選ばれた人々によって統治されてはいない。これは、わが国の政治体制における根本的な不正である。――支配者たちが、私たちによって選ばれているときでさえ、ほとんど私たちの中から選ばれることはないのである。知性や思慮分別の独占権を握っているはずのない数家族が、政府内で昇進する専売特許を有しているかに思える。逆に、一般庶民や、職人や、商店主たる人々は、いかに良識を有していようと、政府の一員に立身することはありえないのである。私は政治家でも何でもなく、いかなる政治的説教を語るつもりもない。だが、民衆に対する私の同情は表明せざるをえない。また、キリスト者としての私たちが、「民の中から選ばれた者」によって支配されていることを喜んでいると云わざるをえない。イエス・キリストは民の人である。民の友である。――そう、彼らの一員である。確かにキリストは、いと高き御父の御座に着いてはいるが、「民の中から選ばれた者」である。キリストは、貴族のキリストと呼ばれるべきではない。貴人のキリストではなく、王のキリストではない。そうではなく、「民の中から選ばれた者」である。こうした考えこそ、民の心を鼓舞し、彼らの魂をキリストに、またキリストが創始者であり完成者である聖い信仰に、堅く結び合わせるべきものである。今から私たちは、この黄金の楔を金箔に打ち延ばし、その真実さを精密に検分してみよう。

 キリストは、その生まれそのものからして、民のひとりであった。確かに、主は王家の家柄に生まれた。マリヤとヨセフはふたりとも、王族の子孫であった。だが、その栄光は去っていた。ユダヤの王座には外国人が着いており、正統な継承者の方は、大槌と手斧をつかんでいた。主が誕生した場所をよく注意してみるがいい。主は馬小屋に生まれた。――角のある雄牛が餌を食べる飼い葉桶の中に寝かされた。――主の唯一の寝床は家畜のまぐさであり、主のまどろみはしばしば牛馬の鳴き声で破られた。主は、生まれながらの王子とも云えた。――だが、確かに主には、ご自分に伺候する王侯然とした召使いたちなどいなかった。主は紫の衣を着せられもせず、刺繍された衣類をまとわされもしなかった。王たちの大広間は主の足によって踏まれることなく、君主たちの大理石の宮殿は、主の幼い微笑を受ける栄に浴さなかった。主の揺りかごの周囲にやってきた訪問者たちに注目してみるがいい。まず最初に羊飼いたちがやって来た。彼らが道に迷ったとは一言も書かれていない。しかり。神が羊飼いたちをお導きになった。神は、かの賢者たちの道案内もなさったが、彼らは道に迷った。これは、しばしばあることである。羊飼いたちがキリストを見いだすのに、賢者たちは見失うのである。しかしながら、博士たちと、羊飼いたちの両方ともやって来た。両方とも、その飼い葉桶を囲んで膝まずき、キリストが万人のキリストであられたことを示した。主は、博士たちだけのキリストではなく、羊飼いたちのキリストでもあられた。――単に粗野な羊飼いの《救い主》であったばかりでなく、知識人の《救い主》でもあられた。というのも、

   「これよりは だれも除かることはなし。
    自らを 除き去る者ならざれば。
    賢く典雅な粋人も
    無知な野人も 迎えらるべし」。

 その誕生そのものにおいて、主は民のひとりであった。主は、人口稠密な町に生まれたのではない。むしろ、ひなびたベツレヘム――「パンの家」――の村に、《人の子》は、勿体ぶった露払いなど何もなく、宮廷風の儀典喇叭で先触れされもせずに、来臨なさった。

 主の教育も、私たちの注意を引くべきである。主は、モーセと違い、乳離れするや君主たちの学寮で教育を受けるようなことはなかった。富貴の家に生まれた人々がすぐに染まるような、あの気取った態度とともに育てられはしなかった。主は、あらゆる者を見下す公達として育ちはしなかった。むしろ父親が大工だったので、父親の仕事場で精出して働いたに違いない。ある奇抜な著者がこう云っている。「それはイエスにふさわしい場所であった。というのも、彼は、地上から天国まで届くはしごを作らなくてはならなかったからである。では、なぜ主が大工の息子であってならなかっただろうか?」 私たちはアダムが受けた呪いを重々承知している。「あなたは、顔に汗を流して糧を得……る」[創3:19]。たといあなたが、聖き子イエスを見たとしても、他の子どもたちと全く見分けがつかなかったであろう。何の汚れもないきよさがとどまっていた点を別として、その顔立ちには何の変哲もなかった。私たちの主が公生涯に入ったとき、それでも主は変わっていなかった。主の身分はいかなるものだったろうか? 主は紫と緋の衣を着ていただろうか? おゝ! 否。主は田舎者の単純な衣を着ていた。――その衣は「上から全部一つに織った、縫い目なしのもの」で、何の飾りも刺繍もついていない、単純素朴な一着であった[ヨハ19:23]。主は、贅沢三昧を続けながらユダヤ全土を旅して、威風堂々たる様子を見せつけていただろうか? 否。主はその難儀な道を骨折って進み、スカルの井戸の縁石に腰を下ろした[ヨハ4:6]。主は、他の人々と同じく、貧乏人であった。主には、取り巻きとなる廷臣たちなどいなかった。行をともにしたのは、漁師たちばかりであった。また、主がお語りになるとき、滑らかで、洗練された言葉を用いただろうか? 主は、アマレク人の王のように、優美な足どりで歩んだだろうか? 否。主はしばしば粗野なエリヤのように語った。 歯に衣着せずに、その本心をあからさまに語った。主は、民の人として民に語った。決してお偉方にへつらったりしなかった。決して卑屈になったり、ぺこぺこしたりせず、立ち上がって、こう叫んだ。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。忌わしいものだ。白く塗った墓ども」*[マタ23:13-29]。主は、いかなる階級の罪人をも容赦しなかった。身分も富も、主にとって何の違いも生じさせなかった。主は、サンヘドリンの金持ちたちにも、ガリラヤで骨折って働く農民たちに対するのと同じ真理を口にした。主は、「民のひとり」であった。

 主の教理に注意するがいい。イエス・キリストは、その教理において民のひとりであった。主の福音は、決して哲学者の福音ではなかった。深遠にすぎるものではなかった。それは、決して難解な言葉や専門的な語句の中に埋もれようとはしない。きわめて単純なものであって、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」、ということに思いを致せる人であれば、だれでも救いに至る知識を得られる[マコ16:16]。こういうわけで、世間で賢いとされる人々は、真理の知識を蔑み、嘲りながらこう云うのである。「何とまあ、最近では鍛冶屋すら説教できるし、鋤で耕していたような輩が説教者になるのだ」。その一方で、聖職者連中はこう詰問している。「何の権利があって奴らは、われわれの認可も受けずに、そのようなことをしておるのか?」 おゝ! 何と悲しい事態であろう。福音の真理が、その平易さゆえに軽んぜられるというのである。私の《主人》が、排他的になろうとしない――才幹や博識のある人々によって独占されようとしない――がゆえに軽蔑されるというのである。イエスは、知識人のキリストであるのと同じく、無知な人間のキリストでもある。というのも、主は「この世の取るに足りない者や見下されている者を」お選びになったからである[Iコリ1:28]。あゝ! 私は真の科学や、本物の教育を愛してはいるが、わが国の教役者たちが神のことばを哲学で水増ししていることについては、嘆き、かつ悲しむものである。彼らは知的な説教者になろうと欲して、模範的な説教を語ろうとする。だがそれは、大学生や神学教授で一杯の部屋には非常に適したものであっても、一般大衆にとっては何の役にも立たない。そこには、平易さも、暖かさも、熱気もなく、堅実な福音の内容すら欠けている。残念だが、わが国の大学教育は、私たちの諸教会にとって大した足しになっていないのではないだろうか。それはしばしば、青年の共感を民衆から引き離し、教会内の知的で富裕な少数者に結びつけることとなっているからである。学問という共和国の同胞市民となることは悪くないが、それよりはるかにすぐれているのは、天国という御国の有能な教役者となることである。一部の大学者のように、有力者を惹きつける優秀な人となるのは良いことだが、それよりさらに有用な人とは、やはりホイットフィールドのように、「市場の言葉」を用いる者であろう。というのも、悲しい事実ながら、高い地位と福音はめったに和合することがないからである。また、さらに知ってほしいのは、キリストの教理が民の教理だということである。それは、共同体の中の一階層の、一派閥の、一種別の福音となるべきものではなかった。恵みの契約は、ある特定の階級の人々だけのために定められているのではなく、いかなる立場の人々であれ、何人かは必ずそれにあずかる人がいるのである。金持ちではあっても、イエスの在世中、その弟子となっていた者らは僅かながらもいたし、今もそうである。マリヤや、マルタや、ラザロは、裕福であった。また、ヘロデの執事の妻を初めとする貴族階級に属する者らも何人かはいた。しかしながら、これらはほんの数名でしかなかった。主の会衆は、下層階級――大衆――庶民からなっていた。「大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた」[マコ12:37]。その教理は、分け隔てを許すようなものではなく、あらゆる人を生まれながらの罪人とし、神の御前で等しく扱うものであった。あなたがたの父はただひとり、「あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたはみな兄弟だからです」*[マタ28:8-10]。こうしたことこそ、主がその弟子たちにお教えになった言葉であった。その一方で主は、ご自身においては、謙遜の鏡であり、地上のあわれな子らの友、人類を愛するお方となられた。おゝ、あなたがた、富を誇る人々! おゝ、あなたがた、自分の白手袋をはめていてさえ貧者に触ることのできない人々! あゝ! あなたがた、司教冠と司教杖を持つ者たち! あゝ! あなたがた、大聖堂と絢爛豪華な飾り聖具を有する者たち! これが、あなたがたが《主人》と呼ぶお方なのである。――民のキリスト――民の中のひとり! だがしかし、あなたがたは、その民を見下し、あざけっている。――蔑んでいる。彼らは、あなたの意見では何者だろうか? 烏合の衆だ――下層民だ。何たることか! もはやあなたがたは、キリストに仕える教役者だなどと自称してはならない。いかにしてそのようなことがありえようか? あなたがたがその華麗さと威光から降りてきて、貧者の間に身を置き、彼らを訪ねるというのでない限り、――あなたがたが、わが国にうようよいる大衆の間を歩き、彼らのイエス・キリストの福音を宣べ伝えるのでない限り、そのようなことはありえない。確かあなたがたは、漁師たちの末裔だとか? あゝ! 否。あなたがたが自分の威厳を脱ぎ捨てて、漁師のように外へ出て、民の人々となり、その民に宣べ伝え、その民に語りかけるのでもなければ、――あなたがたが、その壮麗な座席の上でだらりと寄り掛かっているのをやめ、自分の民草からしぼりとった金銭で金持ちになるのをやめるのでなければ、そのようなことはありえない!

 キリストに仕える教役者は、自分の《主人》が民のキリストであられたことを覚えて、人類全体の友となるべきである。喜ぶがいい! おゝ、喜ぶがいい! あなたがた、大衆よ。喜べ! 喜べ! キリストは民のひとりだったのである。

 II. 私たちの第二の点は、《選び》である。神は云っておられる。「わたしは……民の中から選ばれた者を高く上げた」。イエス・キリストは選ばれた。――えり抜かれた。何をどうしようと、この選びという醜悪な教理は立ち現われてくるものである。おゝ! ある人々は、この言葉――選び――を聞くや否や、両手で頭をかかえて呟く。「私はこのくだりが過ぎ去るまで待つことにしよう。後から何かもっと私の好みに合うものが出てくるだろう。もしかしたら」。他のだれかは云う。「二度とこんな場所に来るものか。あの男は超カルヴァン主義者ではないか」。しかし、その男は超カルヴァン主義者ではない。その男は、自分の聖書の中にあったことを口にした。――それだけにすぎない。彼はキリスト者である。そして、あなたには彼をそうした悪名で呼ぶ何の権利もない。――もし本当にそれが悪名であるとしたらだが。というのも私は、人々から何と呼ばれようが、決して赤面したりしないからである。ここには、はっきり記されている。「民の中から選ばれた者」。さて、これは、イエス・キリストが選ばれた、という以外の何を意味しているだろうか? 天国の相続人たちが選民であったことを信じたがらない人々も、この節で宣告されている真理を否定することはできない。――イエス・キリストは選びを受けたのである。――御父はキリストを選んだのである。民の中からお選びになったのである。人として、主は民の中から選ばれ、民の《救い主》となり、民のキリストとなった。さて今、私たちは考えをまとめて、神の選びに伴う並外れた賢さを発見してみようではないか。選びは、決して盲滅法なものではない。いかなる特定の個人が選ばれる際にも、そこには常に何か隠れた理由がある。その動機が私たち自身の中にも、私たち自身の功績の中にもないことは確かだが、被造物の行ないからはるかにかけ離れた何かひそかな理由、神ご自身のほか何者も知ることのない、何か強力な理由が常にあるのである。イエスの場合、その動機は明白である。そして私たちは、エホバの閣議にあえて闖入しようとするまでもなく、そうした動機をつきとめることができよう。

 1. 最初に私たちが見てとるのは、民の中からだれかを選ぶことによって、正義は完全に満足させられる、ということである。かりに、神が私たちのもろもろの罪を償うために御使いをひとり、お選びになったとする。――ひとりの御使いが私たちの贖いにとって必要な、膨大な量の苦しみと苦悶に耐えることが可能であったと想像してみるがいい。だが、その御使いがすべてをなし終えた後でも、正義は決して満足させられはしない。というのも、この単純な理由があるからである。律法はこう宣言している。――「罪を犯した者は、《その者が》死ぬ」、と[エゼ18:4、20]。さて、人間は罪を犯している。それゆえ人間が死ななくてはならない。正義の要求するところ、死が人間を通して来たように、復活といのちも人間を通して来るべきである。――ちょうどアダムにあってすべての人が死んだように、別のアダムにあってすべての人が生かされるべきである。その結果、イエス・キリストが民の中から選ばれることが必要だったのである[Iコリ15:21-22; ロマ5:17]。というのも、たとい彼方の御座近くで光り輝いている御使い、かの堂々たるガブリエルが、その輝きをわきへ置き、この地上に降りて、痛みに耐え、苦悶を忍び、死の納所に入り、忌まわしさのきわみたる悲惨な生を、呻きながらくぐり抜けたとしても、それらすべての後でも、彼は、曲げることのできない正義を満足させたことにはならないであろう。なぜなら、人間が死なくてはならないと云われており、その以外のしかたでは、その宣告は実行されていないからである。

 2. しかし、イエス・キリストが民の中から選ばれた、もう1つの理由がある。それは、それによって全人類が誉れを受けるからである。あなたは知っているだろうか? 私が、たといガブリエルから頼まれたとしても 御使いになどなりたくはないということを。たとい彼が自分と立場を交換してくれと懇願しても、私は承知すまい。私はその交換によってあまりにも多くのものを失い、彼はあまりにも多くのものを手にするであろう。あわれな、弱く、無価値な者であるにせよ、私は人間であり、人間である以上、そこには人類に伴う威厳がある。――かの堕落の園でかつて失われたが、復活の園で再び得られた威厳がある。事実、一個の人間は、一個の御使いよりも偉大なのである。――天国において人間は、天使たちよりも御座のそば近くに立つのである。黙示録にはこう記されているはずである。御座の回りには二十四人の長老たちが立っており、それを遠く囲むように御使いたちが立っていた、と[黙5:11]。全教会の代表者たるその長老たちは、仕える霊[ヘブ1:14]たちよりも、はるかに神のそば近くにあるという栄に浴していた。しかり。人間は――選ばれた人間は――、神をのぞいて、宇宙で最も偉大な存在なのである。人間はそこに堂々と着座している。――見よ! 神の右の座に、栄光を輝かせながら、人間が着座している! 私に問うてみるがいい。だれが《摂理》を支配し、そのすさまじく神秘的な仕組みを方向づけているのかと。私はあなたに告げよう。それは、ひとりの人間である。――人間キリスト・イエスである、と。私に問うてみるがいい。だれが過ぐる月の間、方々の川を氷の鎖に繋いでおき、今それらを冬のいましめから解き放っているのかと。私はあなたに告げよう。ひとりの人間がそうしたのだ。――キリストがそうしたのだ、と。私に問うてみるがいい。だれが義をもって地を審くために来るのかと。私は云う。ひとりの人間である。現実の、まぎれもない、ひとりの人間が、審きのはかりを手に持ち、あらゆる国民を自分の回りに呼び出すはずである。また、だれが恵みの通路となっているだろうか? だれが御父のあわれみすべての卸問屋なのだろうか? だれが恵みの愛すべての集大成なのだろうか? 私は答える。ひとりの人間である。――人間キリスト・イエスである。そしてキリストは、人間として、あなたを引き上げ、私を引き上げ、私たちを最高の身分につけておられる。そもそも神は、私たちを御使いよりいくらか劣るものとして造り、今や、アダムにおける私たちの堕落にもかかわらず、私たち――神の選民――に栄光と誉れの冠をかぶらせ、私たちをキリスト・イエスにおいて、天上のご自分の右の座に着かせてくださった。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためであった[詩8:5; エペ2:6-7]。

 3. しかし、私の兄弟たち。それよりもさらに甘やかなものを眺めてみよう。なぜ主は民の中から選ばれたのだろうか? 私の心よ、語るがいい! お前に真っ先に浮かぶ理由は何だろうか? というのも、心の考えは最上の考えだからである。頭から出た考えはしばしば何の役にも立たないが、心の考え、魂の深い黙想、これらはホルムズの真珠のように値がつけられないからである。たとい詩人としては二流でも、その人の歌がその心から迸り出たものだとしたら、それは、ただの頭から発された生気のない作品よりも、ずっと私の魂の琴線を打つはずである。さあ、キリスト者よ。あなたの主の選びは、あなたの主が民の中から選ばれたのは、いかなる甘やかな理由からだと思うだろうか? それは、主が、血縁というほむべき絆によって、私の兄弟になれるようにするため――このためではなかっただろうか? おゝ! キリストと信仰者との間に、いかなる関係があるだろうか? 信仰者はこう云うことができるのである。

   「すべての者にすぐれてある方、
    まさに友なる名に 値すなり。
    その愛、兄弟(はらから)のそれにまさりて、
    変わらず、尽きず、果てぞなき」。

私には、天にひとりの偉大な兄がいるのである。私は時々、道端で少年たちが、うちの兄貴に云いつけてやるぞ、と云うのを聞いたことがある。そして、私もしばしば敵の攻撃を受けるとき、同じことを云ってきたのである。――「天におられる兄に云うことにしよう」、と。私は貧しいかもしれないが、富んでいる兄がある。私には王である兄がいる。私は、地上の王たちを治める君主の弟なのである。そして、その兄は、自分が玉座についているというのに、私が飢えたり、事欠いたり、乏しくなったりすることをお許しになるだろうか? おゝ! 否。彼は私を愛している。兄として私を思いやっている。彼は私の兄なのである。しかし、それにもまして、おゝ、信仰者よ! 考えてみるがいい。キリストは単にあなたの兄弟であるだけでなく、あなたの夫なのである。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主」[イザ54:5]。妻が喜びとするのは、夫の広い胸板に自分の頭をもたせ、その力強い両腕がいつでも自分のために働き、自分を守ってくれると完全に確信していること、夫の心臓が常に自分への愛に鼓動しており、夫の持ち物も、地位も、ことごとく自分のものなのだ、夫の人生の共有者たる自分のものなのだ、と完全に確信していることである。おゝ! 私の魂と、常に尊いイエスとの間に、甘やかな縁が結ばれていることを、聖霊の影響によって知ることの素晴らしさよ! 確かに、これは私の魂のすべてを音楽にかき立て、私のからだの原子一粒一粒を、感謝に満たして、キリストへのほめ歌を歌わせるに十分である。さあ思い出させてほしい。私が自分の血の中でもがく赤子のように、野原に捨てられていたときのことを。思い起こさせてほしい。主が、「生きよ!」、と云ってくださった、あの類なき瞬間のことを[エゼ16:6]。そして決して忘れさせないでほしい。主が私を教え、私を育て上げ、ある日、私を義によってご自分の妻としてくだろうとし、御父の王宮で私に婚礼の冠をかぶらせてくださったことを。おゝ! 言葉に尽くすことのできない至福よ! この思いが、それを言葉にしようとする私の口を回らせなくなるとしても不思議はない!――キリストは、民のひとりなのである。それは、あなたや私と近しい縁でつながった者となるため、身受け人となるため、買い戻しの権利のある親類となるため、近親者となるためであった。

   「血の絆にて 罪人と合わされ
    われらのイエスは 栄えに昇りぬ。
    その敵どもみな 滅ぼしたまえり。――
    罪もサタンも、地も死も地獄も、この世をも」。

聖徒よ。このほむべき考えを、金剛石の首飾りのように、あなたの記憶の首に巻いておくがいい。それを、金の指輪のように、追憶の指にはめておくがいい。そして、それを王ご自身の印形のように用いて、あなたの信仰の嘆願に捺印し、その効力をゆめ疑わないがいい。

 4. しかし、ここで、別の考えも浮かび上がってくる。キリストが民の中から選ばれたのは、――私たちの必要を知り、私たちに同情することができるようになるためであった。ご存じのように、ある昔話によると、世界の半分は残り半分がどのように暮らしているか知ってはいないというが、それは非常に真実である。私の信ずるところ、金持ちの中には、貧乏人の苦悩がいかなるものか全く見当もつかないという人々がいる。彼らは、自分の日ごとの糧のために労働するということがどういうことか全く考えもつかない。彼らは、パン価の上昇が何を意味するか、ごくおぼろげにしか思い描けない。彼らはそれについて何も知らない。そして、私たちが、民のひとりであったためしがないような人々を権力の座につけるとき、彼らは私たちを統治するわざを全く理解していないのである。しかし、私たちの偉大な、栄光に富むイエス・キリストは、民の中から選ばれたお方であり、それゆえ私たちの種々の必要を知っておられる。誘惑と痛みを主は私たちに先立って苦しみ、病に耐えた。というのも、十字架にかけられていたとき、焼きつけるように照りつける太陽が、猛烈な熱をもたらしたからである。疲労――それに主は耐えられた。主は疲労困憊して井戸の傍らに腰をおろしたからである[ヨハ4:6]。貧乏――主はそれを知っていた。主は時には、この世が知ることのないパン[ヨハ4:32]以外に、何も食べるパンがなかったからである。家なしになること――それも知っていた。狐には穴があり、空の鳥には巣があったが、主には枕する所もなかったからである[マタ8:20]。私の兄弟たるキリスト者よ。あなたに行くことができるところで、キリストがあなたの前に赴かなかった場所は、罪深い場所はのぞき、1つもない。死の影の暗い谷の中にも、あなたは主の血染めの足跡を見るであろう。――その血糊にまみれた足跡を見るであろう。あゝ。そして、氾濫したヨルダン川の深い水辺ですら、あなたがその岸辺の間近に行けば、あなたは云うはずである。「ここに人の足跡がある。だれの足跡だろう?」 身を屈めて見るとき、あなたはそこに釘の跡を見分けるはずである。そして、云うはずである。「これは、イエス様の足跡だ」、と。主はあなたに先立ってそこにおられたのである。その道をなだらかにしてくださったのである。墓に入られたのである。それは、墓という所を、贖われた人々の王家の寝室とし、彼らが労働着をわきに置いて、永遠の安息の外衣を身につける小部屋とするためであった。私たちが行くことのある、ありとあらゆる場所において、契約の使い[キリスト]は私たちの先駆者であった。私たちが担うあらゆる重荷は、かつてインマヌエルの肩に背負わされていた。

   「主の道は わが道よりも 険しく暗し。
    わが主キリスト苦しみて などわれ不平を云うべきか」。

私は大きな試練の中にある人々に語りかけている。愛する旅の仲間よ! 勇気を出すがいい。キリストは、この道を聖別してくださった。かの狭い道を《王》ご自身の、いのちへの道としてくださった。

 もう1つの見方を語りたい。それだけ語って私は、第三の点に移るであろう。あちら側には、今、ひとりのあわれな魂がいる。イエスのもとに行きたいと願い求めていながら、自分は正しく行くことができないのではないかと非常に大きな悩みを感じている。また私は、多くのキリスト者がこう云っているのを知っている。「ええ、私は自分がキリストのもとに来たのであればよいと思います。でも、正しい来方をしていなかったのではないかと心配なのです」。親愛なるデナム氏の賛美歌選集の1つには、小さな脚注が付されており、そこで彼はこう云っている。「ある人々は、自分が正しい来方をしなかったのではないかと心配している。さて、だれひとり、御父が引き寄せなさらない限り来ることはできない。それで私の理解するところ、もし彼らが、とにもかくにも来たのだとしたら、彼らが来た際に誤っていたなどということはありえない」。そのように私も理解する。もし人々がいずれにせよ来ているのだとしたら、彼らは正しく来たに違いない。ここには、あなたがとるべき見方がある。あわれな、キリストのもとに来つつある罪人よ。なぜあなたは行くことを心配しているのか? 「おゝ!」、とあなたは云う。「私はあまりにもひどい罪人です。キリストも私にはあわれみをかけてくださらないでしょう」。おゝ! あなたは私のほむべき《主人》のことがわかっていない。主は、あなたが考えるよりもずっと愛に満ちておられる。私もかつては同じように考えるほど邪悪な者であった。だが私は、主が私の考えていたよりも一万倍もいつくしみ深いことを見いだしたのである。私はあなたに告げる。主は愛に満ちておられ、恵み深く、いつくしみ深い。主の半分ほども善に満ちた者はひとりもいない。主はあなたの想像をはるかに絶するほどいつくしみ深いお方である。主の愛は、あなたが恐れるよりも大きく、主の功績は、あなたのもろもろの罪よりもずっと力がある。しかし、それでもあなたは云う。「私は自分が正しく来ることができないのではないかと心配です。自分は、受け入れられるような言葉を使わないと思います」。私は、それがなぜかをあなたに告げよう。それは、キリストが民の中から取られたことを、あなたが覚えていないからである。もし女王陛下が明日の朝私をお召しになるとしたら、あえて云うが私は、自分がどんな種類の服を着ればいいか、どんな歩き方をすればいいか、どんな宮廷儀礼を守ればいいか、などといったことで非常に心配になるとは思う。だが、もしもこの場にいる私の友人たちのひとりが私を招いてくれるとしたら、私は、くよくよ考え込んだりすることなど全くなく、すぐその人に会いに行くであろう。その人は民のひとりであり、私はその人を好いているからである。あなたがたの中のある人々は云う。「どうすれば私はキリストのもとに行けるのでしょうか? 何と云えばいいのでしょうか? どんな言葉を使えばいいのでしょうか?」 もしあなたが自分よりも目上の人のもとに来るのだとしたら、そのように云ってもよいかもしれない。だが、主は民のひとりなのである。ありのままのあなたで、あわれな罪人として来るがいい。――襤褸をまとったままのあなたで、不潔なままのあなたで――あなたのあらゆる邪悪さをまといつかせた、素のままのあなたで来るがいい。おゝ、良心に打たれている罪人よ。イエスのもとに来るがいい! 主は民のひとりである。もし御霊があなたに罪を感じさせておられるのだとしたら、いかにして行くべきかなどと研究していてはならない。とにかく来るがいい。呻きとともに来るがいい。吐息とともに来るがいい。涙とともに来るがいい。――どんな来方であれ、来さえすればよい。主は民のひとりだからである。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい」[黙22:17]。ここで私は、1つの例話を口にしたいという思いに抵抗できない。聞いた話だが、砂漠では、隊商が水に欠乏し、水を発見できない恐れがあるときには、一頭のらくだとその乗り手を、ある程度の距離をおいて、一行に先んじて送り出す習慣があるという。それから、少しあけてもう一頭を送り出し、それから少し間隔をおいて、もう一頭を送り出す。最初の者は、水を見つけると、ほとんど身を屈めてそれを飲みもしないで、「来なさい!」、と叫ぶことになっている。次の者は、その声を聞いて、「来なさい!」、という言葉を繰り返し、その人に一番近い者がやはりその叫びを引き取って、「来なさい!」、と叫び、ついにはその荒野全体が、「来なさい!」、という言葉で響き渡るようになる。それと同じく、この節は、こう云っているのである。「御霊と花嫁が、まず真っ先に、『来なさい』、と云う。それで、それを聞く者は、『来なさい』、と云うのである。『だれでも渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい』、と」。この絵図をもって私は、キリスト・イエスが選ばれた理由の検分をやめにしたい。

 III. さて、いま私は、主の《高挙》をもってしめくくろうと思う。「わたしは……民の中から選ばれた者を高く上げた」。あなたも思い出す通り、この高挙について語る場合、それは実は、キリストというお方における選民全員の高挙にほかならない。というのも、キリストのご身分のすべて、またキリストの持ち物のすべては、私たちのものだからである。もし私が信仰者だとしたら、主がその高く上げられたご人格において受けておられるお立場に、私もついているのである。というのも、私はキリストとともに天の所に座らされているからである[エペ2:6]。

 1. 最初に、愛する方々。神格との結合へと高められること自体、キリストのからだにとっては、十分すぎるほどの高挙である。それは、私たちの中のだれひとり受けることのありえない栄誉であった。私たちは、決してこのからだが、ひとりの神と結び合わされることなど望みはしない。そのようなことはありえない。かつて受肉は一度なされた。――その一度限り二度となされない。他のいかなる人についても、「この方は御父と1つであり、御父はこの方と1つであられた」、などと云うことはできない。他のいかなる人についても、このように云われることはない。《神格》がこの方のうちにお住まいになり、神はこの方の肉において現われ、御使いたちに見られ、霊から義と宣言され、栄光のうちへと至らされた、と[Iテモ3:16参照]。

 2. さらに、キリスト者たちは、主の復活によって高く上げられた。おゝ! 私は、私たちの《救い主》の墓へと忍び入ることができたとしたら、どんなによかったかと思う。それは大きな一室であったろう。その内側には、どっしりとした大理石の石棺が安置されており、おそらく重々しい蓋が乗せられていたであろう。さらに入口の外側には、巨大な石が置いてあり、番兵たちがその前で見張りをしていた。三日間、そこでこの眠れるお方はまどろんでおられた! おゝ! 私は、その石棺の蓋を持ち上げて、この方を眺めたいと願ったであろう。青ざめたまま、この方は横たわっている。その面には血の筋がある。この方を丁重に葬った、あの女たちも、そのすべてを洗い落としはしなかったのである。

 死は勝ち誇りながら叫んでいる。「俺様はこやつを殺したのだ。俺様を滅ぼすはずの、あの女の子孫[創3:15]は今や俺様のとりこなのだ!」 あゝ! 残忍な死が何と呵々大笑したことか! あゝ! いかにその、やせこけた眼瞼を開いてねめつけ、云ったことか。「俺様は、あの威張りくさった勝利者を押さえ込んだのだ」。「あゝ!」、とキリストは云われた。「だが、私はお前を打ち負かす!」  そして主が、さっと身を起こすと、石棺の蓋はがらんと持ち上がった。そして、この、死とハデスとのかぎを持っているお方は[黙1:18]、死をつかまえると、その鉄の四肢を粉微塵にすりつぶし、彼を地に叩きつけて、こう云われた。「おゝ、死よ。わたしはお前の呪いとなろう。おゝ、ハデスよ。わたしはお前の破壊者となろう」。主が外へ出られるや、今度は番人たちが逃げ去った。目を瞠るような栄光と、燦然たる光の輝きと、まばゆいばかりの神々しさとともに、主は彼らの前に立たれた。キリストはそのとき、その復活によって高く上げられたのである。

 3. しかし、主はその昇天において、いかに高く上げられたことか! 主は都を出て山の上に行かれ、その定めの時を待たれた。その間、弟子たちは主に付き添っていた。その昇天に注目するがいい! その一団に別れを告げると、主は次第に上へと昇って行かれた。さながら湖から霞が、あるいは、もやの立ちのぼる川面から雲が上へ昇って行くように、高く主は昇って行かれた。ご自分の強大な浮揚力と弾性によって、いと高き所へと昇られた。――エリヤのように火の馬車によって連れ去られたのではなかった。古のエノクのように、神が彼を取られたので、彼はいなくなった、と云うこともできなかった。主は、ご自分の力で行かれた。そして私は、主が昇って行かれる間、御使いたちが天国の狭間胸壁から見下ろして、こう叫んでいる姿が見えるように思える。「見よ、勝利をおさめた英雄がやって来るのを!」 そして、主がいやまして近づいたときには、再び彼らは叫んだ。「見よ、勝利をおさめた英雄がやって来るのを!」 そのようにして、天界の原野をわたる主の旅は終わりを迎える。――主は天国の門にお近づきになる。――つき従う御使いたちは叫ぶ。「永遠の門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ!」* 壁に張り出した柵の中から、輝かしい衛兵らが問いかける。「その栄光の王は、だれか」*。そのとき、幾千万もの口から、声を合わせて一斉にどよめきが発され、大波のような調べとなってその真珠の門を打ち、たちまちそれを開門させる。「強く、力ある主。戦いに力ある主」[詩24:7-10]。見よ! 天国の防壁が開け放たれ、智天使らが、その君主を迎えようと転がるように走り出てくる。

   「天使ら遠くより あるじの戦車を
    持ち来てその主を 御座へと運びぬ。
    輝く翼 打ち鳴らしつ云えり。
    『救いのぬしの みわざはなれり』」。

 主がその通りを行進するさまを見るがいい。いかに国と権力が主の前に平伏することか! 冠という冠が主の足下に置かれ、御父がこう云われる。「よくやった。わが《子》よ。よくやった!」 その間、天国はこの叫びを響きわたらせる。「よくやった! よくやった!」 主はそのいと高き御座に登られ、《父なる神格》の隣に着座なさる。「わたしは、民の中から選ばれた者を高く上げた」。

 4. 私が言及したい、キリストの最後の高挙は、やがて来たるべき時代に、主がその父ダビデの王位に着き、すべての国々をお審きになるときのことである。

 あなたも気づくように、私は、キリストが千年期の間にこの世の王として受けるはずの高挙のことを省いている。私は、それを理解しているようなふりはしないし、それゆえ、この点には触れずにおくものである。しかし、私の信ずるところ、イエス・キリストはやがて審きの座にお着きになり、「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け……ます」[マタ25:32]。罪人よ! あなたは、審きがあると信じている。毒麦と麦が、いつまでも両方とも育つままにされることはありえないこと、――羊と山羊がいつまでも1つの牧野で草を食んではいないことを知っている。だが、あなたは、あなたを審くことになる当のお方について知っているだろうか? あなたを審くことになるそのお方が、ひとりの人間であることを知っているだろうか? 私はひとりの人間と云う。――かつてはさげすまれ、拒否された、ひとりの人間である。

   「主 いずれ来べくも、かつてと違い、
    謙卑のうちにて 来ることあらじ。
    仇の前にて 卑しめられず、
    倦みも、疲れも、悲哀も知らず」。

あゝ! 否。そのかしらのまわりには虹があり、右手にはその統治のしるしたる太陽を持ち、月と星々を足で踏み、それが、ご自分の御座の台のちりとして、頑丈な光の雲となる。数々の書物が開かれる。――かの、生きている者と死んだ者との双方の行ないが内側に記されている、浩瀚な書物の数々である[黙20:12]。あゝ! いかに、かの蔑まれていたナザレ人は、そのすべての敵の上に勝利に満ちて着座されることか。もはや嘲りも、あざ笑いも、愚弄もない。あるのは、聞くだに恐ろしい1つの悲惨な叫び声である。「御座にある方の御顔から、私たちをかくまってくれ」*[黙6:16]。おゝ、あなたがた、話を聞いている方々。今はイエスとその十字架を軽蔑の眼差しで見ている方々。あなたのために、私は身震いがする。おゝ、獲物に襲いかかる獅子よりも獰猛なのは、ひとたび激怒にかられた愛である。おゝ、蔑んでいる人々! 私はあなたがたに警告する。その日には、かの《悲しみの人》の穏やかな眉宇には、深々としわが刻まれるであろう。かつては、あわれみの露の滴によって潤っていた瞳には、その敵どもに対する雷光が閃くであろう。かつては、私たちを贖うため十字架に釘づけられた御手は、あなたを断罪するための雷電をつかむであろう。さらに、かつては、「疲れた人は、わたしのところに来なさい」、とお語りになった御口は、雷鳴よりもすさまじい轟音の、恐ろしい言葉を発するであろう。「のろわれた者ども。離れて行け」。罪人よ! あなたがたは、《ナザレの人》に対して罪を犯すのは些細なことと考えるかもしれないが、そのようにすることによってあなたは、自分が義をもって地を審くお方を怒らせていたことに気づくであろう。そして、あなたがたは、自分の反抗ゆえに、永遠の御怒りという大海の中で、苦悶の波また波を耐えることになるであろう。願わくはそうした運命から、神があなたを救い出してくださるように! しかし私は、あなたに警告しておく。あなたがたはみな、ある令嬢の話を読んだことがあるであろう。その結婚式の当日、二階に上がった彼女は、古い衣装だんすを見て、軽い茶目っ気を起こし、一時間くらい隠れていよう、そして友人たちに自分を探し回らせようと考えた。だが、1つのばね錠が待ち伏せており、彼女を永遠に閉じ込めてしまったのである。人々が彼女を見つけだすことはなかった。何年も過ぎ去った後で、場所ふさぎの古い家具を運び出そうとした人々が見つけ出したのは、宝石のはめこまれた指輪や、美しい装身具をそこここにまといつかせた、骸骨の骨であった。彼女は、冗談のつもりで、上機嫌でそこに飛び込んだが、永遠に閉じ込められてしまったのである。若い方々! 自分の罪によって永遠に閉じ込められないように用心するがいい。陽気な一杯の杯――それがすべてである。「ほんの一瞬はいっているだけだわ」。そう彼女は云った。しかし、そこには秘密のばね錠が待ち伏せていたのである。ほんのひとたび悪所に足を踏み入れる。――ほんの一回だけ廉直な通り道から足を踏み外す。――それがすべてである。おゝ、罪人よ! それがすべてである。しかし、あなたは、そのすべてがいかなることか知っているだろうか? 永遠に閉じ込められるということである。おゝ! それを避けたければ、よく耳を傾けるがいい。――というのも、私には、もうほんの僅かな時間しか残っていないからである。――私はあなたにもうひとたび「民の中から選ばれた」この《人》について告げようと思う。

 あなたがた、高慢な者たち! 私はあなたに一言云いたい。あなたがた、上品なあまり足を地面につけようともしない者たち! あなたがた、自分の同胞たる定命の者らを軽蔑して見下す者たち。――自分の方が見栄えのいい衣裳を着ているからといって、仲間の芋虫を軽蔑する、高慢な芋虫たち! あなたがたは、このことについてどう考えるだろうか? もしあなたが救われることがあるとしたら、民の人があなたを救うしかないのである。群衆のキリスト――大衆のキリスト――民衆のキリスト――このお方が、あなたの《救い主》となるしかないのである! あなたは身を屈めなくてはならない。高慢な人よ! あなたは自分の華麗さをわきへ置かなくてはならない。さもなければ決して救われないであろう。民の《救い主》が、あなたの《救い主》とならなくてはならないからである。

 しかし私は、高慢も消し飛んでいる、あわれな震えつつある罪人に向かっては、この慰めに満ちた確証を繰り返すものである。あなたは罪を遠ざけたいだろうか? 呪いを避けたいだろうか? 私の《主人》は、今朝このように云えと私に告げておられる。――「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。私は、ひとりの善良な老聖徒の言葉を思い出す。ある人が、イエスのあわれみと愛について語っており、こう云ってしめくくった。「あゝ、これは驚くべきことではないでしょうか?」 これに対して、この老女は云った。「いいえ、ちっとも驚くべきことではありませんよ」。しかし、一同は驚くべきだと云った。「なぜでしょう」、と老女は云った。「それは、まさに主にふさわしいことではありませんか。全く主にふさわしいではありませんか!」 あなたは云う。そのようなことをする人がいるなどと、信じられようか? だが、「おゝ、しかり! それこそ、まさに主のご性質なのだ」、と云えよう。それと同じく、もしかするとあなたは、キリストが自分を――自分のように咎ある生物を――救おうとなさるなどとは、信じられないかもしれない。だが私はあなたに告げる。それは、まさに主にふさわしいことである。主はサウロをお救いになった。――私をお救いになった。――あなたをも救うことがおできになる。しかり。それだけでなく、主はあなたを救うことを望んでおられる。なぜなら主は、いかなる者であれ、ご自分のところに来る者を、決してお捨てにならないからである[ヨハ6:37]。

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民のキリスト[了]
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