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ダビデの辞世の歌

NO. 19

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1855年4月15日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「わが家は、このように神とともにはないが、それでも、彼はとこしえの契約を私に立てておられる。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる」。――IIサム23:5 <英欽定訳>


 この章の冒頭には、これはダビデの最後の言葉であると記されている。それまでも、彼の霊感された唇からは、幾多の尊い文章がこぼれ落ち、彼の奏でる立琴の弦からは、その指により熾天使のごとく妙なる音楽が流れ出ていた。だが今、その甘やかな声は死によって黙らされようとしており、今、エッサイの子はその先祖たちとともに眠ろうとしていた。確かに彼の枕頭に詰めかけ、死なんとする君主の最後の証しを聞くのは良いことであったに違いない。しかり。私たちは想像を逞しくし、御使いたちですら、しばしの間、その俊敏な飛翔をとめ、この死に行く勇者の私室を訪れ、その最期の歌に耳を傾けたがったであろうと思う。世を去りつつある聖徒の言葉を聞くのは、常に幸いなことである。私たちはいかに多くの純良な思想を、愛する義人の寝室で得てきただろうか? 私は、ある臨終の床でかつて得た、1つの甘やかな思想を覚えている。ひとりの死につつある人が、詩篇の1つを読み聞かせてくれるように願った。17篇が選ばれ、その人は6節のところで止まらせた。「耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください」。そして、かすかな囁き声でこう云った。「あゝ、主よ。私はもう喋れません。声が出ません。あなたの耳を傾けてください。私の口元に耳を寄せ、私の言葉を聞いてください」。弱り果てて死につつある人、そのいのちが急速に衰えつつある人のほかに、このような思想を考えつくことはできなかったであろう。天国に近づいたときの聖徒たちの言葉――その人々がヨルダン川の岸辺に立ったときの言葉――を聞くのは良いことである。しかし、これは特別の場合である。これはダビデの最期の言葉なのである。これは人間の発言以上の何かである。私たちには、主の御霊が彼によって語り、御霊の言葉が彼の舌にあったと告げられているからである。これは、彼の結びのことばであった。あゝ! 思うに彼は、回らぬ舌でこの言葉を語ったとき、地から舞い上がって、天の合唱に加わっていたのである。彼はこの文章を地上で口にし始めたが、天で語り終えたのである。彼は、「わが家は、このように神とともにはない」、と口を切ったが、その天国への飛翔を速めるにつれて、なおもこう歌った。「が、とこしえの契約が私に立てられている。このすべては備えられ、また守られる」。そして、今や御座の前で彼は常に、同じ曲を賛美しているのである。――「とこしえの契約が私に立てられている。このすべては備えられ、また守られる」、と。愛する方々。私が望みとしているのは、今朝、私たちの中の多くの人々が、この節に声を合わせられるようになり、自分の舌にこの節を上せつつ、この地上での巡礼を終えたいと希望するようになることである。

 私たちが第一に注意したいのは、この詩篇作者が自分の家に悲しみをかかえていたということである。――「わが家は、このように神とともにはないが」。第二に、彼は契約に信頼を置いていた。――「とこしえの契約が私に立てられている」。そして第三に、彼には心の満足があった。というのも、彼はこう云っているからである。――「まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる」。

 I. この詩篇作者は、自分の家には悲しみがあったと云っている。――「わが家は、このように神とともにはないが」。人みなだれしも、自分の来し方を書かざるをえなくなったとしたら、非常に大量の「が」を用いずにはすまない。もしあなたが、聖なるみことばの中に記されている何らかの人物の伝記を読むとしたら、読み終わる前には、常に、「が」か、「しかし」を見いだすであろう。ナアマンは勇士であり、その主君に重んじられていた、らい病にかかっていた[II列5:1]。いかなる状態にも常に、「が」があり、いかなる境遇にも不幸なものがある。大理石の柱にも暗い隈があり、夏の空にもちらほらと雲があり、音楽にも何らかの不協和音があり、黄金にも不純物がある。それでダビデは、羊小屋から引き上げられた人物、勇敢な戦士、巨人たちの征服者、偉大な国の王ではあったが、それでも、その幾多の「が」を有しており、彼が有していた「が」は、彼自身の家に関することだったのである。自分の家に有する「が」こそ、最悪の問題である。私たちは、野にいる猛獣を愛しているわけではないが、私たちが最も憎むのは、私たちの地所をうろついているか、私たちの住まいの床をのし歩いているときの獅子である。茨が最も悩みの種となるのは、それが私たちの寝床の中に入っているときであり、それを私たちの枕の中に感じるときである。内戦は常に最も激越である。――私たち自身の一族である敵こそ真の敵である。思うに、ことによるとダビデは、「わが家は、このように神とともにはないが」、と云ったとき、部分的には、自分の職務について語ろうと意図していたのかもしれない。もしだれか他の人がダビデの職務――彼の国の統治――を眺めたとしたら、「ダビデの統治は卓越さの鏡である」、と云ったであろう。彼の王家はきわめて正しく整えられており、その臣下のほとんどは、全く彼に不平を云うことなどできなかった。だがダビデは、人間よりも偉大で鋭い目が、自分の上に注がれていることを覚えていた。そして彼は、自分の帝国と自分の家について口にし、語っているのである。――というのも、知っての通り、聖書における「家」という言葉は、しばしば私たちの仕事、私たちの職務、私たちの務めを意味するからである(「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」[II列20:1])。――彼は云う。人間の前では、私の家は、よく掃除されて、きちんとかたづいているかもしれないが、神にとってそれは、私が願うほどのものではない、と。おゝ、愛する方々。私たちの中のある人々は、同胞の人間たちの前では何の罪も意識せずに歩むことができる。私たちは同じ定命の者たちの凝視を受けて立とうとしさえする。私たちはこう云ってのける。「主よ! あなたは、私に罪のないことを知っておられます」*[ヨブ10:7]。私たちは、この曲がった今の世の前では潔白である。私たちは、彼らの間を世の光として歩んでおり、神の助けにより、大きなそむきの罪を全く犯さずにすんできている。私たちは、自分の品行が批判されることを心配していないし、いかなる人の目によって吟味されることにも恐れを感じない。というのも、私たちは、神の恵みによって自分が、のっぴきならない羽目に置かれずにすんできたのを感じているからである。神が私たちを守っていてくださるので、悪い者は私たちに触れることがないのである[Iヨハ5:18参照]。しかし、いくらこのように潔白を意識していても、――いかほどの高潔さをもって同胞の人間たちの前に立っていようと、――神の御目の中に出るとき、いかに私たちは一変することか! あゝ、愛する方々。そのとき私たちは、「主よ! あなたは、私に罪のないことを知っておられます」、とは云わない。むしろ地べたにはいつくばり、「汚れている、汚れている、汚れている」、と叫ぶ[レビ13:45参照]。そして、らい病人が自分の熱くなった額を、人目につかない冷たい小川を流れる水で冷やすように、私たちも自分のからだをシロアムの流れに浸し、キリストのわき腹から川と流れる水と血によって自分を洗いきよめようとするのである。私たちは自分の家が「このように神とともにはない」のを感じる。確かに私たちは、イエスというお方にあっては罪から解放され、御使いたちも同然に白くされてはいるが、それでも、自分自身として神の御前に立つときには、こう告白せざるをえない。人間たちの前では、いくら私たちが正直で、廉潔で、正しく、聖なる者であるとしても、それでも私たちの家は「このように神とともにはない」、と。

 しかし、私が想像するに、このダビデの言葉の主たる意味は、彼の家族――彼の子どもたち――を指し示している。ダビデはその子どもたちにおいて多くの試練を受けてきた。しばしば善良な人々は、自分の息子や娘たちから大きな悩みを味わう定めにあった。確かに、一部の家庭が、平和と幸福をまさに体現していることは私たちも知っている。そこでは、父と母が家庭礼拝においてともに膝をかがめ、その子どもたちは、――子どもの数が多かろうと少なかろうと――、そのほとんどが自分の心を神にささげている姿が見られる。私は、この世の砂漠にあって、肥沃な緑地のように立っている家庭を1つ知っている。そこには、神の福音を宣べ伝える息子たちがおり、主を恐れ、主を愛するように育ちつつある娘たちがいる。そのような家庭こそ、まさにこの人生の荒野を旅する巡礼において、疲れ切った魂を心楽しませる休み場である。おゝ! 幸いなことよ、神が祝福しておられる家庭は。しかし、別の家々を見ると、子どもたちが親にとって試練となっているのがわかる。多くの心悩む父親は云うであろう。「わが家は、このように神とともにはない」、と。また、あなたがた、敬虔な母親方は、泣きぬれた目を天に上げて云うであろう。「私の家はこのように神とともにはありません」、と。あなたの誇りであった、あなたの長男は、今やあなたの恥辱となり果てている。おゝ! 彼の忘恩の矢がいかにあなたの魂に突き刺さったことか。また、いかにあなたが痛切に感じていることか。いっそ、その子が幼児のうちに葬られていた方が、――その子が光を見ることなく、生まれた瞬間に死んでしまっていた方が、生き長らえて今のような生き方をするようになるよりも、ずっとよかった。成人したその子が、私の生を惨めなものとし、私の人生の悲しみとなるよりも、ずっとよかった、と。おゝ、不敬虔で、不従順で、浮かれ騒ぎ、放蕩無頼を続ける息子たち。確かにあなたは、敬虔な母親の涙を知ってはいないに違いない。知っていたとしたら、自分の罪をやめようとするはずである。私は思う。青年よ。あなたは、いかに切に罪を愛していようと、好んで自分の母親に涙を流させようとはすまい。では、母上の懇願によってあなたは罪をやめないだろうか? あなたは自分の母親を踏みにじることができるだろうか? おゝ! あなたは地獄に向かって疾駆しているが、母上の涙ながらの哀願によって、あなたはその狂気の疾走をとどめさせられないだろうか? あなたは、自分にいのちを与え、その胸で大切に自分をいつくしんでくれた人を悲しませようというのだろうか? 確かにあなたは、このしらが頭の母上を、悲しみながらよみに下らせようと決心してよいものか、長いこと葛藤し続けるはずである。さもなければ、罪はあなたを獣のようにしてしまったのだろうか? あなたは石にも劣るのだろうか? 人としての情は消え失せてしまったのだろうか? かの悪い者は完全にあなたの主人となっているのだろうか? 彼があなたの心のあらゆる優しい親愛の情を枯渇させてしまったのだろうか? 立ち止まれ! 若き放蕩息子よ。そして、考えよ!

 しかし、キリスト者の方々。この点であなたがたは、ひとりきりではない。もしあなたがたに家族の悩みがあるとしたら、同じ悩みを負ってきた他の人々がいるのである。エフライムを思い出すがいい! 神はエフライムをおびただしい数の部族に増してくださると約束なさったが、それでも第一歴代誌7:20-22にはこう記されている。「エフライムの子たちは、シュテラフ、その子、ベレデ、その子のタハテ、その子のエルアダ、その子のタハテ、その子のザバデ、その子のシュテラフ。それに、エゼル、エルアデであるが、彼らはこの地の生まれであるガテの人々に殺された。彼らが家畜を奪おうとして下って行ったからである。彼らの父エフライムは、何日もの間、喪に服したので、彼の兄弟たちが来て、彼を慰めた」。アブラハムでさえ、自分の子イシュマエルの問題があり、そのことで神に叫び求めた[創21:11]。エリについて考えてみるがいい。大祭司として神に仕えていた人物で、民のさばきつかさでありながら、彼は自分の息子たちを治めることができなかった。そして、それゆえの彼の嘆きは大きかった。あゝ! 福音にある私の兄弟たち。あなたがたの中のある人々は今朝、自分の手を天に上げて、深く、厳粛に、力を込めてこの言葉を云えるであろう。――それを太文字で書き記せるであろう。というのも、それはあなたがたの中のある人々にとって真実きわまりないことだからである。――「わが家は、このように神とともにはないが」、と。

 この点を後にする前に私は、このように自分の家と家族の中で試みと苦悩を受けつつある方々に対して、何を云わなくてはならないだろうか? 第一に、私の兄弟たち。あなたにはこう云わせてほしい。自分の境遇に「が」を有することは必要である。なぜなら、もしそれがないと、あなたは自分が何をするかわかっているからである。あなたは地上に非常にふかふかの巣を作り上げ、そこに横たわって眠りこけるであろう。それで神は、あなたの巣に一本の茨を入れておき、あなたが歌うようにしておられるのである。昔の著述家たちの云うところ、夜啼鳥は茨の間にとまっているときほど美しく鳴くことはなかったという。なぜなら、彼らによると、茨が夜啼鳥の胸を刺して、その歌を思い出させるからである。あなたもそれと全く同じである。あなたがたは、雲雀のように、何か困難がそばを通って脅かされない限り、自分の巣の中で眠りこけてしまう。だが、そうするときあなたは自分の翼を張り広げ、求愛の歌をさえずりながら、太陽を迎えに起き出すのである。試練が送られるのは、あなたがこの世に嫌気をさすようになるためである。苦味があなたの飲み物に入れられるのは、あなたがたが天の露に頼って生きることを学ぶようになるためである。地上の食物に胆汁が混ぜ合わされているのは、あなたがたが天から下るマナのうちにのみ、まことのパンを求めるようになるためである。あなたの魂は、悩みがなければ、何の満干も波もない海のように、悪臭を放つ、不快なものとなるであろう。コールリッジが叙述している、驚くほどの凪の後の海と同じく、そうした魂は感染毒と死を生み出すであろう。

 しかしさらに、このことも思い起こすがいい。おゝ、自分の子どもたちによって試みられている人よ。――祈りはあなたの悩みを取り除くことができる。この場にいる敬虔な父親や母親である方々、家族の中で苦しみを受けつつある、そうした方々のうち、ひとりとして、やがてその試練が取り去られない人はいない。信仰は神ご自身と同じくらい全能である。というのも、それは星々の運行を導く御腕を動かすからである。あなたは自分の子どもたちのためにずっと祈ってきたのに何の成果も見ていないだろうか? また、こう云ったことがあるだろうか? 「もう祈るのはやめにしよう。私が祈りを積めば積むほど、あの子たちは悪くなっていくように見えるし、私の試みは激しくなるのだから」、と。おゝ! そう云ってはならない。疲れ切った見張り人よ。約束は遅れることはあっても、必ずやって来る。なおも種を蒔くがいい。そして、それを蒔いたならば、あなたが地に埋めた一粒ごとに一滴の涙をこぼすがいい。おゝ、あなたの種を心労の涙に浸すがいい。これほど生命を与える混合剤の浸礼を受けた種粒が、土塊の下で腐ることはありえない。では、もしあなたが、光の相続人となったわが子を見ることなく死んだとしたらどうだろうか? その子たちは、あなたが死んだ後でさえ回心するであろう。また、あなたの骨が墓に葬られ、あなたの息子がそこに立って、一時間ばかりあなたの記憶を呪うとしても、その子がひとり静かに思い巡らし、冷静になって思い起こすときにも、それを忘れはしないであろう。そのときその子はあなたの祈りと、あなたの涙と、あなたの呻きについて考えるであろう。あなたの助言を思い出すであろう。――それが身を起こし、たといその子が罪の中に生きていたとしても、それでもあなたの言葉は、霊界から長々と続く1つの声のように響き、馬鹿騒ぎのただ中にあるその子を怯えさせるか、御使いがこう囁いたかのようにその子を天へと魅了するであろう。「栄光へとついて来るがいい。そこには、かつてあなたのために祈ってくれていた、あなたの親がいるのだ」、と。それでキリスト者はこう云うことができるのである。「わが家は、このように神とともにはないが、今後そうなることがありえる」、と。それゆえ、私はなおも待つであろう。というのも、おびただしい数の回心の事例があるからである。ジョン・ニュートンについて考えてみるがいい。彼は奴隷商人にすらなったが、それでも引き戻された。希望し続けるがいい。決して絶望してはならない。気弱な心は決して人々の魂をかちとることがないが、堅い信仰はあらゆるものをかちとる。それゆえ、祈りのため目を覚ましているがいい[Iペテ4:7 <英欽定訳>]。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」[マコ13:37]。そこにはあなたの悩みがある。この小さな杯は、この詩篇作者がこう歌ったときの杯と同じ患難の海から満たされている。「わが家は、このように神とともにはないが」。

 II. しかし第二に、ダビデは契約に対する信頼を有していた。おゝ! 地上の物憂さから目を上げて、天上の光輝を見るのは何と甘やかなことか! この世の嵐に翻弄されてやまない帆船から跳躍し、契約という堅い大地の上に立つのは、何と素晴らしいことか! そのようにダビデもしたのである。自らの「が」を片づけた上で、彼はほむべき「それでも」を差し入れている。おゝ! それは、宝石のちりばめられた「それでも」である。「それでも、彼はとこしえの契約を私に立てておられる。このすべては備えられ、また守られる」 <英欽定訳>。

 さて、この1つ1つの言葉に順々に注意してみよう。まずダビデがこの契約を喜んだのは、それがその起源において天来のものだからである。「それでも、《彼は》とこしえの契約を私に立てておられる」。おゝ、この《彼》という言葉の何と偉大なことか。これはだれだろうか? 私の教父や教母が私のために契約を結んでいるのではない。――そうしたたわごとに耳を貸してはならない。それは、人間が私のために結ぶ契約でも、人間が私と結ぶ契約でもない。だが、「それでも、《彼は》とこしえの契約を私に立てておられる」。それは、その起源において、天来のものであって、人間的なものではなない。キリスト者がより頼んでいる契約は、自分が幼児の頃に受けた滴礼の契約ではない。彼はそれを何度となく破ってきた。というのも、彼はしかるべきほどには「この悪の世の虚飾と空虚さを拒絶し」てこなかったし、「肉の情欲のすべて」をも拒絶してこなかったからである。また、その人は、法衣を着た聖職者が顔にふりかけてくれたあの聖水の滴によって真に新生してもいない。キリスト者がより頼み、堅く立っている契約は、神がその人と結んでおられる契約である。「それでも、《彼は》……立てておられる」。だが待て。わが魂よ。神は、永遠の父は、お前とはっきり契約を結ばれた。しかり。かの神、暗闇の中に住み[I列8:12]、そのみいつのうちにただひとり永遠に支配しておられる神。かの神、一言で世界を存在させ、それをアトラスのごとくその双肩で支え、あらゆる被造物の運命をその指先に置いておられる神。かの神が、そのご威光から身をかがめ、お前の手を取って、お前と契約を結んでくださるのである。おゝ! これは1つの偉業ではなかろうか? 真に理解できたとしたら、私たちの心を永遠に陶酔させるであろう途方もないへりくだりではなかろうか? おゝ! その深みよ! 「《彼は》とこしえの契約を私に立てておられる」。ある国の王が私と契約を結んだのではない。――それでも大したことであったろう。ある国の皇帝が私と盟約を結んだのでもない。否。地上の王たちの《君主》が、《シャダイ》が、あらゆる肉なる者の《主》が、千歳のエホバが、永遠のエロヒムがそうなさったのである。「彼はとこしえの契約を私に立てておられる」。おゝ、ほむべき思想よ! これは天来の起源を持つものである。

 しかし、その特定の適用に注意するがいい。「それでも、彼はとこしえの契約を《私に》立てておられる」。ここには、一個人としての私にとっての、その甘やかさがある。

   「おゝ、かの流れ、甘き眺めぞ、
    たましい贖う 主の血の河は。
    神より堅く 知らされたれば、
    神との和解 主われに得しと」

主が世界を和解させてくださったことなど、私にとってどうでもよい。私が知りたいのは、主がを和解させてくださったかどうかである。神が契約を立てられたことなど大した問題ではない。私が知りたいのは、神がに契約を立ててくださったかどうかである。ダビデは自分の胸に手を当てて、こう云うことができた。「それでも、彼はとこしえの契約を《私に》立てておられる」。残念ながら私は、今の時代にもてはやされているキリスト教信仰を非難せずにいるのは間違いだと思う。というのも、それは群衆のものたるキリスト教信仰であって、個人が受けとる個人的なキリスト教信仰ではないからである。あなたは、ある人がこう云うのを聞くであろう。「ええ、私は義認の教理を信じています。私は、人々が信仰によって義と認められると思います」。しかり。だが、あなたは、信仰によって義と認められているだろうか? 別の人はこう云う。「私は、私たちが御霊によって聖なるものとされると信じています」。しかり。全くその通りであるが、あなたは、御霊によって聖なるものとされているだろうか? よく聞くがいい。人が個人的な敬虔さについて語りすぎると、常軌を逸しているとそしられるのが常である。かりにあなたが心の底から本気で、「私は自分が赦されているのを知っています。自分が赦された罪人であると確信しています」、と云うとする。――あらゆるキリスト者は時としてそう云えるであろうし、不信仰でさえがなければ、常にそう云うものである。――かりにあなたが、「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、自分の罪は1つも、かの黒い巻き物に載っていないことを確信しています。私は、イエスの赦しの血潮によって自分が、今まで一度もそむきの罪を犯したことがないかのように罪から全く解放されていると確信しています」、と云うとする。そのとき人々は、それは常軌を逸していると云うのである。よろしい。それは、喜ばしい常軌の逸脱である。神のことばによる常軌の逸脱である。そして私が神に願うのは、私たちの中のより多くの人々が、この聖なる、ほむべき常軌の逸脱にふけることができるようになることである。というのも、私たちは、消費すべき無限の大金を有するときには、いくらでも常軌を逸した使い方をしてよいからである。自分の富を使い果たすことがないとわかっているときには、私たちはいくらでも浪費してよい。おゝ! このように云えるとは、何と甘やかなことであろう! 「それでも、彼はとこしえの契約を《私に》立てておられる」。あなたが私に、私の兄弟が救われたと告げても、それは何にもならない。私は、自分の友人が栄光に達するであろうことを非常に喜んでいるし、あなたがた全員と出会えるとしたら喜ぶであろう。だが、結局のところ、問題は、「私はそこにいるだろうか?」、である。

   「われは、その場に 立ちてあらんか、
    御顔の笑みを 仰ぐ者らと」。

さて、キリスト者よ。あなたはこのことを個人的に適用できよう。この契約はあなたのために立てられている。人よ。あなたの目を開くがいい。その契約にはあなたの名が記されている。それは何だろうか? ただの平凡な英国人の名前かもしれない。そこには、決して「議員」だの「文学修士」だの「卿」だのといった称号がくっついてはいない。だが、それが何であろう。その名は、この契約の中に記されているのである。もしあなたが、天におられるあなたの父の家族聖書を取りおろすことができたとしたら、――その記入欄にはあなたの名が記されていることに気づくであろう。おゝ、ほむべき思想よ! 私の名前――まぎれもない、他のだれの名でもない、私の名があるのである。そして、そのとき、私の目は主を見る。余人の目ではない。喜ぶがいい。キリスト者よ。これは個人的な契約である。「それでも、彼はとこしえの契約を私に立てておられる」。

 さらに、この契約は、その起源において天来のものであるばかりか、その継続期間において永遠のものである。私はこれまで、私の話を聞いた相当多くの人々から匿名の手紙を受け取ってきた。その書き手たちは、非常な臆病者(私が常に忌み嫌う人種)であるため、自分の名前を署名できないのである。そうした手紙は、いかなる運命に遭うかわかっているはずである。それらに下す当然の罰として、私はそれらを真っ二つに引き裂き、火中に投ずる。私は、その書き手たちが同じような運命に遭わないでほしいと思う。しかしながら、そうした人々の中の何人かは、私が永遠の福音を宣べ伝えているからといって、私に意義を唱えるのである。私は、他の福音を宣べ伝えようなどとは決して思わない。というのも、他の福音が私たちに差し出されたとしても、そのようなものを受け取りたくはないからである。ただ永遠の福音こそ唯一、永遠の神にふさわしいと私が考えるものである。それは、私の確信するところ、永遠を通じて生きることになる魂に慰めを与えることのできる唯一の福音である。さて、あなたは「とこしえの契約」がいかなる意味か知っているはずである。それは、いかなる始まりもなく、決して決して終わることのない契約を意味していた。ある人々は、御民に対する神の愛に永遠の性質があると信じていない。アルミニウス主義に立つ愛する方々。あなたは、このような歌詞の歌をあなたの集会で歌ったことがあるだろうか? ――もちろん、あるはずである。――

   「おゝ、しかり。われ イエスを愛す、
    まず主ぞ われを 愛し給えば」。

これは素晴らしいカルヴァン主義的な賛美である。これがだれの賛美歌集に入っているか、私たちも知ってはいるが、それは関係ない。よろしい。では、もしイエスがあなたを、あなたが彼を愛する前に愛してくださったのだとしたら、なぜあなたは、彼が常にあなたを愛してこられたことを信じられないのだろうか? もしあなたが、「彼はいま私を愛しています」、と云うとしたら、実はあなたはこう云っているのである。「彼はきのう私を愛していましたし、永遠に私を愛してくださいます」、と。神には、のほか何もない。過去だの未来だのというようなものはない。そして、永遠の選びなどといったことについて議論するのは、全く何の役にも立たない。なぜなら、もし神が一度でもご自分の民をお選びになったとしたら、――そして、私たちはみな、神が今は御民を選んでおられると認めているが、――神がそうなさったのが百万年前のことだとあなたが云おうが云うまいが私にとってはどうでもよい。なぜなら、神には過去などというものがないからである。神にはすべてがである。神は、過去のものも未来のものも、ご自分の目では現在としてごらんになっておられる。神がいま私を愛しておられることさえわかればよい。その「いま」という言葉は、神の辞書では、永遠を意味している。神がいま私の罪を赦しておられることだけわかればよい。それは、神が常に私を赦しておられたことを意味している。というのも、神の行ないは永遠の行ないだからである。おゝ、永遠の契約を知るのは何と甘やかなことか! 私は、私の福音を、他の五万もの福音とも交換しようとは思わない。私は確固たる救いを愛している。そして私は、それが最初に宣べ伝えられるのを聞いたとき、――すなわち、もし私が信ずるなら、神の恵みが私を一生の間支え、決して私を地獄に陥らせず、むしろ私は自分の人格を汚れないものとして保ち、私の同胞の被造物たちの間をきよく、聖なる者として歩むことになると聞いたとき、――私はこう云った。「これこそ私のための福音だ。永遠の福音だ」、と。信仰者が脱落し、その後立ち返ることもありえるとする、あの砂のように不安定な福音について云えば、それは、この地上で最も邪悪な嘘っぱちである。もし私がそれを信ずるとしたら、私は、日曜日には福音を語り、聖くしているが、月曜日には堕落し、火曜日にはまたキリスト者となり、「私は恵みから落ちたが、再び持ち直したのだ」、と云うことになるであろう。しかし、いま私が、真のカルヴァン主義的キリスト者として、自分自身のうちに有していたいと願うもの、また、他の人々のうちにも見たいと願うもの、それは絶えることなく一貫しているいのちである。また、私には、信仰者が脱落したり回復したりすることが可能であるなどとは考えられない。そうしたことが不可能であると主張する多くの箇所を読んできたからである。自分の内側には、決して消されることがありえないものがあるのだということ、自分が決して脱ぐことのない連隊服を身にまとっていること、それを脱ぐには、まだ自分が一度も入隊していなかったと証明せざるをえないこと、それは、地上最大の防護手段である。おゝ! それは私を、私の神に近づけておくものである。しかし、いったんそれを疑ったが最後、あなたは私が日の下で生きている最も悪質な人格となるのを見るであろう。福音からその永遠性が奪われてしまえば、私のすべてが奪われてしまうのである。親愛なる老ウォッツ・ウィルキンソンは、かつてジョウゼフ・アイアンズから、「私は、神の愛の、契約による永遠性をあなたが説教してくださるのが大好きですよ」、と云われたとき、こう云った。――「あゝ!」、とこの老聖徒は云った。「それを説教しないで、福音に他に何があるのだね?」 兄弟よ。他に何があるだろうか? もし私たちが永遠の福音を宣べ伝えないとしたら、福音には一文の価値もない。不確かなものならは、他のどこででも手に入るであろう。だが聖書においてのみ、私たちは永遠の物事を手に入れるのである。

   「われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば。
    幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」。

 しかし、その次の言葉に注意するがいい。というのも、これは甘やかな言葉であり、私たちはその一部分をもなおざりにできないからである。このすべては備えられる。「秩序は天国の第一法則である」。そして、神は無秩序な契約を有してはおられない。それは秩序だった契約である。世界の始まる前に神がそれを計画したとき、そのすべてはもれなく備えられた。神はそれを整然と整えられた。正義が完全に満足させられ、だが、あわれみもそれと調和して繋ぎ合わされるように整えられた。神はそれを、復讐が全く余すところなく成し遂げられ、だが、あわれみが罪人を救えるように計画された。イエス・キリストは、それを確定すべくやって来られ、その贖罪によって、そのすべてを備えられた。主はご自分の血潮を一滴残らずお支払いになった。ご自分の愛する民の身代金をびた一文未払いにはせず、そのすべてを備えられた。そして聖霊は、これを甘やかに適用するとき、常に秩序をもって適用し、そのすべてを備えられる。時として御霊は、私たちがその秩序を理解できるようにしてくださるが、たとい私たちにそうできなくても、これだけは確信するがいい。この契約は、よく整えられた契約なのだ、と。私は、ある土地を買った、ひとりの人の話を聞いたことがある。その契約が作成されつつあるとき、その人は、自分の方が弁護士よりもよく物を知っていると考えていた。だが、知っての通り、人が自分で弁護士になるとき、馬鹿を見る依頼人もまた自分だという。この場合も、その人は馬鹿を見る依頼人となった。その人は、あまりにもずさんな契約書を作成したために、ほんの数年もしないうちに、それが何の役にも立たないことがわかり、自分の財産を失ってしまったのである。しかし、私たちの御父の契約は、この上もなく厳格に公明正大な規則に沿って作成されており、そのようにして、すべてが備えられている。たとい地獄そのものがそれを調べ回しても、――たといそれが悪霊どもの秘密会議で回覧されたとしても、彼らはそこにいかなる不備も発見できないであろう。そこには天の法廷の専門用語があり、最後には大きな証印が押されており、イエスの署名が、ご自分の血によって記されている。このようにして、「このすべてのことが備えられている」 <英欽定訳> のである。

 ことという言葉は原語にはなく、私たちはそれを、「こと」としてばかりでなく、者たちと読み替えることもできる。このすべての者たちが備えられている。――この契約に名前のあがっている、すべての者たちが備えられている。このすべての者たちが備えられており、そうした者たちは約束に従ってやって来る。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。おゝ、私の愛するキリスト者よ。ほんのしばし、この約束のもとに立ち止まるがいい。というのも、これは、あなたの渇きをいやし、あなたの疲れを回復させる、尊い水の甘やかな泉だからである。「このすべてが備えられる」。これ以上にあなたは何が必要だろうか? あなたは、あなたをひきとめる恵みが必要だろうか? 「このすべてが備えられ」ている。祈りの霊がもっと求められるだろうか? 「このすべてが備えられ」ている。もっと信仰を増したいと願っているだろうか? 「このすべてが備えられ」ている。あなたは、自分が最後まで持ちこたえられないのではないかと心配しているだろうか? 「このすべてが備えられ」ている。ここには回心させる恵みがあり、罪を赦す恵みがある。義と認める恵み、聖なるものとする恵み、堅忍させる恵みがある。というのも、「このすべては備えられ、また守られる」からである。取り落とされているものは何もない。それで、私たちがいつ行こうと、そこにはすべてが天的な秩序のうちに蓄えられているのを見いだすのである。高名な医者ガレノス[c.130-c.200]は、人体についてこう云っている。すなわち、その骨々は非常に精妙に組み合わされ、あらゆる部分が非常に美しく秩序だっているため、一部分でも変えてしまえば、その調和と美を損なわずにはいられない。また、たとい私たちが完全な人間を描こうとしてみても、いかに英知をふりしぼろうと、今あるままの人間以上に素晴らしい出来ばえの存在を形作ることはできないに違いない、と。この契約も、それと全く同じである。もし私たちがそれを改変するとしたら、それを改善することはできないであろう。そのあらゆる部分は美しく一致している。私は常に、福音の契約を説教しているときには自分が揺るぎないと感ずる。もし、何か他の福音を説教するとしたら、私はもろく、無防備である。だが、神の契約という堅い地盤の上に立っているため、私は、力のやぐらにあるように感じ、すべての真理をつかんでいる限り、地獄の悪鬼どもが私の城を強襲することさえ恐れはしない。永遠の福音を信ずる人は、それほど揺るぎないのである。いかなる論理も、それに抗することはできない。わが国の説教者たちが人々に永遠の福音を語り伝えさえすれば、人々はそれを、雄牛が水を飲むように飲むであろう。あなたは、人々が神の真理を愛することに気づくであろう。しかし、神の福音が厚く覆われ、あかりが枡の下に置かれている限り[マタ5:15]、人々の魂が真理を愛するようにされることは期待できない。私は神に祈るものである。そのあかりが枡を焼き尽くし、あかあかと光を放つようになるように、と。

 しかし今、この契約の説明の結びとして、それは守られるものである。もし私が金持ちだったとしたら、自分の富を申し分のないものとするために望むことはただ1つ、それが守られる、ということである。というのも、富は翼をつけて、飛んでいってしまうものだからである。健康は大きな祝福である。そして、それを最大の祝福とするために私たちがそこに書き足したいと願う述語はただ1つ、その健康が「守られる」ということである。私たちには親族があり、私たちは親族の人々を愛してる。あゝ! もし私たちが、この人々について「守られる」と書き足すことができさえすれば、それは何という祝福となることであろう。私たちは、地上では何事についても「守られる」と云うことはできない。その言葉を書くことのできる唯一の場所は、この契約の上だけである。ここにおいてのみ、「このすべては備えられ、また守られる」のである。さて、今朝この場には、自分の契約をなくしてしまったと考えている、あわれな兄弟が集っている。あゝ! 兄弟よ。あなたは、かつては神の御前で安らかなときを過ごし、甘やかな楽しみを得ていたが、今のあなたは陰鬱で、疑いの中にある。あなたは自分の契約書をなくしてしまったのである。よろしい。あなたに云わせてほしい。たといあなたが自分の契約書をなくしてしまったとしても、それにもかかわらず、この契約は失われてはいない。あなたが自分の手にこの契約を握っていたことは、まだ一度もない。あなたは単に、その写しを持っていたにすぎない。あなたは、自分の権利書をはっきり読んだと思っていた。だがあなたは決して、権利証書そのものを読んだわけではない。あなたは契約書の写しを握っていたにすぎず、あなたはそれをなくしてしまったのである。この契約そのものは、どこにあるのだろうか? それは神の御座の下にある。天の公文書保管所の中にある。契約の箱の中にある。イェスのふところの中にある。その御手の上にある。その御胸の上にある。――それはそこにある。おゝ! もし神が私の救いを私の手中に握らせてくださったとしたら、私は十分もすれば失われているであろう。だが、私の救いはそこにはない。――それはキリストの御手の中にある。あなたは、あのジョン・ニュートンの有名な夢について読んだことがあるであろう。それを私は記憶の許す限りあなたに話してみたいと思う。彼は自分がある船に乗って海に出ていると考えていた。そのとき、ひとりの輝く御使いが舞い降りてきて、彼に1つの指輪を贈って、こう云った。「この指輪をはめている限り、あなたは幸せであり、あなたの魂は安全ですよ」。彼はその指輪を指にはめ、それが自分の所有になって幸せに感じた。そのとき、そこに広大な海の深みから1つの霊がやって来て、彼にこう云った。「そんな指輪をするなど愚の骨頂だぞ」。そして、その霊は彼を甘言で丸め込み、ついに彼を説得して、指輪をはずさせ、それを海へと投げ込ませたのである。そのとき、その海の深みから、猛烈なものがいくつも飛び出してきた。山々は轟き、その火山性溶岩を噴き上げた。全地が火と燃えて、彼の魂はすさまじい動揺を覚えた。まもなく、1つの霊がやって来て、下に飛び込むと、その指輪を拾い上げて、彼の前にかざしてこう云った。「さあ、あなたは安全です。私がこの指輪を救い出したのですから」。それでジョン・ニュートンはこう云うことができた。「それをもう一度私の指にはめさせてください」。「いえ、いえ。あなたは、これを大事にとっておくことができませんからね」。そういうと御使いは舞い上がり、その指輪を持っていってしまった。それで、そのとき彼は、自分が守られるであろうことを感じた。これからは、それが上の天国にある以上、いかなる地獄の甘言も、二度と彼からそれを取り上げることはできないからである。私のいのちは、「キリストとともに、神のうちに隠されてある」[コロ3:3]。もし私が自分の霊的生命を自分の所有物として持っていたとしたら、たちまち自滅してしまうであろう。だが、それは私のところにはない。また、私が自分自身を救うことはできないように、キリスト者としての私自身を、私は破滅させることができない。というのも、私のいのちはこの契約の中にくるみこまれており、それは天におられるキリストのもとにあるからである。おゝ、何と栄光に富む、尊い契約であろう!

 III. さて、私たちの今朝の瞑想のしめくくりである。詩篇作者は、その心に満足を感じていた。彼は云っている。「これこそ私の救いと願いのすべてだ」、と <英欽定訳>。私は、満ち足りた世俗の人をひとり探し出すまで、どこまでも馬に乗って行くなどという務めは好きになれそうもない。おそらく、いかなる馬であれ、その足がすりへるまで捜しても、決してそのような人は見つからないであろう。私は、老いてしらが頭になるまで捜しても、ある場所に行かない限り、決してそうした幸いな人を発見できないと思う。――その場所とは、「すべてが備えられ、また守られ」ているような契約が立てられている人の心の中である。宮殿に行っても、そこに満足はなく、掘っ立て小屋に行っても、――詩人は甘やかな隠棲所と、ほむべき満ち足りた思いについて語っているが――そこに満足はない。一生が良いもので満たされるような[詩103:5]、唯一の堅固な満足が見いだされるのは、真の信仰者のうちのみである。自分自身からは心を離し、この契約によって満足させられている人のうちのみである。ダビデを見るがいい。彼はこう云っている。「私の救いについては、私は守られている。私の願いについては、私は満ち足りている。これが私の救いと願いのすべてだからだ」、と。彼は、自分の救いに満足している。道徳家を連れてくるがいい。その人は、救いをかちとろうと、さんざん苦労し働いている。あなたは、もし自分が死んだとしたら、天国に行くと確信しているだろうか? 「ええと、私は他の人たちと同じくらい善良にやって来ましたし、云ってよければ、死ぬ前には、もっと宗教的に向上していると思います」。だが、その人は私たちの問いに答えることができない。宗教的な人を連れてくるがいい。――私が云うのは、単に外面的に宗教的な人という意味である。あなたは、もし死んだとしたら、天国に行くことは確かだろうか? 「ええと、私は教会か会堂に定期的に出席しています。でも、『彼はとこしえの契約を私に立てておられる』、なんて思い上がったことは云えません」。わかった。行ってよろしい。そのように、私は何人でも人々を引き出すことができるが、その中のひとりとして、「これこそ私の救いのすべてだ」、と云うことはできないのである。そうした人々は、もう少し補うべき何かが欠けており、あなたがたの中のほとんどの人々は、自分が死ぬ前にその少しを補おうと思っている。ある老いたユダヤ人ラビがこう云っている。いかなる人も、その最期の日の一日前には悔い改めるべきである、と。そして私たちは、自分の命日がいつか知らない以上、きょう悔い改めるべきである。いかに多くの人々が、自分がいつ死ぬことになるか知っていられたらと願っていることであろう。というのも、その場合、そうした人々は、それよりもほんの少し前に悔い改めをし、回心するに違いないと夢想しているからである。左様。もしあなたに対して、あなたが死ぬのは来週の日曜の12時20分であると啓示されたとしたら、あなたは12時まで罪の中で生活し続け、それから、「まだ、丸々20分は残っているさ」、と云うであろう。そのように云い続けて、その12時20分に達し、あなたの魂は永遠の炎の中に沈んでいくことになるであろう。これが「ぐずつき」である。それは時間泥棒であり、私たちの人生を盗み出すものである。また私たちは、たとい自分が土に還る時を知っていたとしても、今の自分以上にそのための備えができるわけではない。あなたは、自分の救いをすべて有していると云えないであろう? しかしキリスト者はそう云える。キリスト者は、虎列剌や悪疫のただ中を歩んでいても、こう感じることができる。たとい、この矢が自分を襲ったとしても、死は自分にとってはいのちへの門口である、と。その人は横になり、死が迫っていることを、ほとんど全く嘆かずにいられる。というのも、その人は自分の救いをすべて得ているからである。自分の幾多の宝石は自分の胸のうちにあり、それらは天で輝くことになる宝玉なのである。

 それから詩篇作者は、自分の願いのすべてを有していると云っている。人の心を満たすことのできるものは、《三一の神》のほかない。神は人間の心を三角形にお造りになった。人間たちは何世紀もの間、その三角形を地球で埋めようと試みてきたが、そうすることはできなかった。いみじくも古の詩人クォールズ[1592-1644]が云うように、《三一の神》だけが三角形を埋められるのである。満足を得たければ、キリストを自分のものとし、天国を手に入れ、栄光をかちとり、契約を得るしかない。というのも、この契約という語は他のすべてのものを含んでいるからである。「私の願いはすべて」――と詩篇作者は云っている。

   「われ地に何も 望まず、上つ
    わが主の愛に 幸福(さち)を得たれば」

私が唯一、願い、行ないたいと思うことは、一生の間キリストとともに生きて、幸いを得て、それから天国に上って、キリストをじかに前にして生きることである。そこにおいてこそ、

   「百万歳(とせ)もて この眸は見張らん、
    救いの主の 麗しきをば。
    無窮の代々に われはあがめん、
    わが主の愛の 妙なる不思議を」。

 私とは教理の点で同意しない友人の方々に、一言だけ云わせてほしい。私の愛する方々。私は決して自分と正反対の信条を有する方々のいずれをも教会から破門したいとは思わない。ただ、その方々には、ぜひとも私がその方々と違った意見を持つこと、また、自由に語ることを許してほしいし、もしその方々が私に許してくれないとしても、その方々は私がそうすることをよくご存じのはずである。しかし、私は、この永遠の契約という思想に耐えられないという愛する方々に対して、これだけは云っておきたい。結局、あなたにはこの言葉を変えることはできないであろう? あなたがそれを好まないとしても、こう書かれているのである。「神はとこしえの契約を私に立てておられる」*、と。そして、あなたは、自分の聖書を読むときに、そこには自分にとって非常に解決困難な箇所がいくつかあると、告白せざるをえないであろう。ことによると、あなたはそうした箇所をあなたの聖書から取り除くこともできるかもしれないが、それでも、それらを天来の真理の中から抹消することはできない。あなたは、神が不変であられることを知っているであろう? 神は決して変わることがない。――あなたはそう知っていないわけにはいかない。聖書がそう云っているのだから。聖書の宣言するところ、神はひとたび良い働きを始めたならば、それを最後までやり遂げてくださる[ピリ1:6]。もう泡沫のごとき注解者たちを読むのはやめて、あるがままの聖書を手に取るがいい。そして、もしあなたがそこに永遠の愛を見てとらないとしたら、あなたの目がどこかおかしいのである。そして、それは私がどうこうする問題ではなく、眼科医院の領分である。とこしえの、永遠に守られる、血で贖われた義を見てとれないとしたら、私は全くあなたが真理に回心することを絶望する。現在のような偏見をもってあなたが聖書を読んでいる限りそうである。キリスト教界において、こうした昔ながらの福音の諸真理をより目立たせてきたことは、私の特権であった。私は、私の兄弟たちの多くが、その図書室の棚に羊皮か山羊皮で縛って保存している、黴臭い、古い二折判の本を喜びとしてきた。新しい方の本については、他の人々におまかせする。おゝ! もし私たちが、かの時代――最良の人々が私たちの牧師たちであった時代――清教徒時代――に戻ることができたなら、どんなによいことか。おゝ! 清教徒的な福音が再び掲げられるとき、そのとき私たちは、眠たげな聴衆や、空っぽの会堂や、眠気を誘うような説教者たちや、真理を語れず、耳障りの良いことしか語れない人々を見ることなどなくなるであろう。むしろ私たちは、「いと高き所に、栄光が、神に……。地の上に、平和が、御心にかなう人々にある」のを見るであろう[ルカ2:14]。家に帰って調べてみるがいい。私は、自分が真実であると信ずることをあなたに語ってきた。もしそれが真実でないとしたら、その間違いを突きとめるがいい。自分の聖書を自分で読み、徹底的にこの問題を追求することによって、その間違いを突きとめるがいい。あなたがた、不敬虔な人々。これまでのところ、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできずにきたあなたについては、神のことばが、キリスト者に対してばかりでなく、あなたに対しても語りかけていることを思い起こすがいい。そして、聖書が、こう云っていることを思い起こすがいい。「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。聖書は恵み深く約束している。だれでもキリストのもとに来るなら、決して捨てられることはない、と[ヨハ6:37]。これは、無代価の福音である。空気のように無代価で、生きてそれを吸い込めさえする者なら、だれでも、それを吸い込むことができる。それゆえ、この場にいる、あらゆるあわれな魂は生かされ、自分の咎を感じ、キリストのもとに来ることができるのである。

   「良心により 逡巡(まよう)なかれ、
    ふさわしくなりて、と夢見るなかれ」。

あなたに必要な証拠はただ1つ、あなたがキリストの必要を感ずることだけである。そして、思い出すがいい。もしあなたがただ一度来さえするなら、――ただ信じさえするなら、――あなたは永遠にわたって安全になるのである。物質が破滅し、世界と世界が衝突し、宇宙が劫火に燃え上がり、あらゆる地上の物事が壊滅する最中にあっても、あなたの魂は、神の無代価の恵みという契約によってなおも永遠に守られているに違いない。願わくは神が今、あなたに力を与え、イエスを信ずる信仰によってあなたをご自分の子としてくださるように。

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ダビデの辞世の歌[了]

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