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パウロの最初の祈り

NO. 16

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1855年3月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「そこで、彼は祈っています」。――使9:11


 神は、迫害を鎮圧する多くの方法を持っておられる。神は、ご自分の教会が、敵どもに傷つけられたり、外敵によって圧倒されるままにしてはおかれないし、悪人の道を鎮めるか、ひっくり返すための手段に事欠いてはおられない。普通、神は、2つの方法によってその目的を遂げられる。迫害者を混乱させることによってそうなさることもあれば、格段にほむべきしかたとして、迫害者を回心させることによってそうなさることもある。神は占い師を狂わせなさる。ご自分に逆らい立つ者を完全に滅ぼし、自滅の道を辿るにまかせ、最後には、神の教会に向かって「あはは。あはは」と云おうとしていた者の上に、勝利の嘲笑を浴びせかけなさる。しかし、そうでない時には、この場合のように、神は迫害者を回心させなさる。このようにして、神は外敵を友に変化させなさる。福音に打ちかかる戦士を、福音のために立つ兵士にされる。暗闇の中から光をお引き出しになる。食らうものから蜂蜜を得られる[士14:14]。しかり。岩地のような心からアブラハムの子孫をお起こしになる[マタ3:9]。それこそサウロの場合であった。これほど激越に偏狭な人物を思い描くことは不可能である。彼は、人々がステパノを石で打ち殺しているとき、その血しぶきを浴びていた。その残虐さにおいて彼は相当に図抜けており、人々が自分たちの着物をサウロという名の青年に預けておいたほどであった[使7:58]。エルサレムに住み、ガマリエルの私塾に学んだ彼は、《ナザレの人》の弟子たちと常に接触していた。彼は、彼らをあざ笑い、道で通り過ぎるときには罵った。彼らの信仰を禁ずる法制定を得て、彼らを死に追いやった。そして今やその総仕上げとして、この、血の味を覚えた人狼は、飽きるほど男や女の血をすすろうと、狂い猛ってダマスコへ行こうと決心する。そこでキリスト者どもを捕縛して、エルサレムに引っ立てて行き、彼らに、自らの異端と、古の信仰からの逸脱に対する、当然の処罰と彼が考えるものを味わせるためである。しかし、おゝ! 神の力の何という驚異であろう! イエスはこの男が狂気の経歴を辿るのをおしとどめられた。彼がその槍止めに槍を支い、キリストめがけて突撃しつつあるまさにそのとき、キリストは彼と対決し、彼を馬から振り落とし、地べたに叩きつけては、こう問われたのである。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」[使9:4]。それから主は、恵み深くも彼の反逆心を取り除き、――新しい心と正しい霊を与え、――彼の目的と目標を転じ、――ダマスコに連れて来ては、――三日の間、昼も夜も意気消沈させておき、――彼に語りかけ、――神秘的な音を彼の耳にさざめかせ、――彼の魂全体を火と燃やしてくださった。また、ついに彼が三日間の茫然自失から跳ね起きて、祈り始めたとき、イエスこそ天国から降って、幻の中でアナニヤのもとに来て、こう云われたお方であった。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています」。

 第一に、本日の聖句は、1つの告知であった。「そこで、彼は祈っています」。第二に、それは、1つの議論であった。「というのも、そこで、彼は祈っています」 <英欽定訳>。それから、しめくくりに私たちは、本日の聖句をあなたの心に適用してみたいと思う。心への適用は神おひとりのみわざであるとはいえ、今朝、みことばが宣べ伝えられる間に、神がその適用をしてくださると私たちは固く信じたい。

 I. 第一に、ここには《1つの告知》があった。「タルソのサウロを尋ねなさい。そこで、彼は祈っています」*。特に前置きなしに、これが1つの事実の告知であったと云わせてほしい。それは、天において注目されていた事実、御使いたちにとって喜ばしい事実、アナニヤにとって驚愕させられる事実、また、サウロ自身にとって新奇な事実であった。

 それは天において注目されていた事実の告知であった。あわれなサウロは、あわれみを求めて叫ぶように導かれ、彼が祈り始めるや否や神は聞き始めなさった。この章を読む中で、あなたは神がいかなる注意をサウロに払っておられるかに注目させられないだろうか? 神は、サウロが住んでいた通りを知っておられた。「立って、『まっすぐ』という街路に行きなさい」。彼が滞在していた家を知っておられた。「ユダの家に尋ねなさい」。彼の名前を知っておられた。それはサウロであった。彼の出身地を知っておられた。「タルソのサウロを尋ねなさい」。そして、彼が祈っていることを知っておられた。「そこで、彼は祈っています」。おゝ! 輝かしい事実は、祈りが天で注目されているということである。あわれな心砕けた罪人は、自分の私室に上って、膝をかがめても、ただ吐息と涙という言葉で自分の呻きを発することしかできない。見よ! その呻きは天のすべての立琴に調べを響かせ、その涙は神によって捕えられ、天の涙壺へと入れられて永久に保存されるのである。もろもろの恐れによって言葉を出せない人の嘆願すら、《いと高き方》は何もかも理解しておられる。その人は、一滴の涙をぽろりとこぼすだけかもしれないが、「祈りは涙の落ちること」である。涙は天国の金剛石であり、吐息はエホバの御座の音楽の一部である。というのも、たとい祈りが

   「いかにつたなき 言葉なりとも、
    童子(わらべ)もそれを 語りうべし」。

それと同じく、祈りは、

   「いとも気高き 詩歌にて
    高きみいつに 届くなり」。

この思想について、もうしばし詳しく話させてほしい。祈りは天で注目されている。おゝ! 私は、あなたがたの中の多くの方々が、いかなる状態にあるかわかっている。あなたは考えている。「たとい私が神に向かっても、――たとい私が神を求めても、私のように取るに足らない、罪に汚れた、卑しい者など、神が注目なさるはずがない」、と。愛する方々。そのような異教徒めいた考えをいだいてはならない。私たちの神は、決して永遠の夢の中に座り込んでいる神でも、ご自分でも見通せないほど分厚い暗闇を身にまとっているお方でもない。神は、聞く耳を持たないバアルとは違う。確かに神は、国と国との戦いなど注意していないかもしれない。王たちの壮麗さや華麗さなど一顧もなさらない。軍楽の高まりなどに耳をお貸しにならない。人間の勝利だの誇りなど顧慮なさらない。だが、悲しみに満ちた心があるところ、涙で一杯になった目があるところ、苦悶に震える唇があるところ、深い呻きや悔悟の吐息があるところであればいずこであれ、エホバの耳は大きく開かれている。神はそれをご自分の記憶の帳簿にご記入なさる。私たちの祈りを、薔薇の花びらのように、ご自分の記憶の書の頁の間にはさみ、その書物が最後になって開かれるとき、そこから芳しい香りが立ちのぼるのである。おゝ! あわれな罪人よ。この世で最もどす黒く、薄汚れた性格をした罪人よ。あなたの祈りは聞かれており、今でさえ、神はあなたについて云っておられるのである。「そこで、彼は祈っています」、と。どこでだろうか?――納屋の中でだろうか? どこでだろうか?――私室の中でだろうか? 今朝のあなたの寝台の傍らでだろうか? あるいは、この公会堂の中でだろうか? あなたはいま、自分の目を天におずおずと向けているだろうか? 語るがいい。あわれな心よ。私には、たった今あなたの唇が、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と呟くのが聞えたではないだろうか? 罪人よ。私はあなたに云う。この世には、電信機よりも速いものが1つだけある。知っての通り、今では私たちは、ある使信を送ると、たちまちその答えを受け取ることができる。だが、電流よりも早いもののことが聖書には記されている。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」[イザ65:24]。ならば、あわれな罪人よ。そのようにあなたは注目されているのである。しかり。あなたは御座に着いておられる方によって聞かれているのである。

 また、これは、天にとって喜ばしい事実の告知である。本日の聖句の前には、「見よ」、という言葉が記されている <英欽定訳>。というのも、疑いもなく、私たちの《救い主》ご自身、喜びをもってそれをごらんになったからである。聖書には、一度だけイエスが微笑みを浮かべられたことが記されている。それは、主が目を天に上げて、こう声を上げられたときのことであった。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[ルカ10:21]。私たちの魂の《羊飼い》は、ご自分の羊が安全に囲いに入れられているのを幻のうちに見て喜んでおられるのである。さまよう者を家に連れ帰るとき、霊において凱歌を挙げられるのである。私は、主がこの言葉をアナニヤにお語りになったとき、パラダイスの微笑みの1つが主の眼差しから輝いていたと思う。「見よ」、わたしは、わたしの敵の心をかちとったのだ。わたしは、わたしを迫害する者を救ったのだ。今しも彼は、私の足台のもとで膝をかがめているのだ。「見よ。彼は祈っています」 <英欽定訳>。イエスご自身が、率先して歌い出し、この新しい回心者のことを喜び歌いつつ楽しんでおられたのである。イエス・キリストは喜んでおられた。そして、迷子にならなかった九十九匹の羊にまさって、いなくなった羊のことを嬉しがっておられたのである[ルカ15:6]。

 また、御使いたちも喜んだ。左様、神の選びの民のひとりが生まれるとき、御使いたちはその揺りかごを取り巻いて立っている。その子が成長し、罪に陥っても、御使いたちは彼について行き、そのすべての道の後を追う。彼らは、彼の多くのさまよいを、悲しみをもって見つめる。かの美しき妖精は、自分の愛する者が罪を犯すたびに涙をこぼす。ほどなくして、その人が福音の訪れのもとに連れて来られる。その御使いは云う。「見よ。彼が耳を傾け始めた」。御使いはもう少し待つ。みことばが彼の心にしみ通って行き、一粒の涙が彼の頬をつたい落ち、ついに彼は魂の底から泣く。「神さま。こんな私をあわれんでください!」 見るがいい! 御使いはその翼を打ちならして天国に舞い上がっては、云うのである。「御使いの兄弟たち。聞いてください。『見よ。彼は祈っています』」。そのとき彼らは天国の鐘を鳴らす。彼らは栄光において歓喜にあふれる。さらに彼らは喜びの声をもって叫ぶ。というのも、まことに私はあなたに告げるが、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、天で、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」*[ルカ15:7、10]。彼らは、私たちが祈るまで私たちを見守っており、私たちが祈るとき、彼らは云うのである。「見よ。彼は祈っています」、と。

 さらに、私の愛する方々。天国には、御使いたち以外にも、喜んでいる他の霊たちがいるであろう。それは、私たちに先立っていった友たちである。私は、さほど天国に親戚があるわけではないが、そこには、私が心から愛する人がひとりいる。疑いもなく、その人は、私のためにしばしば祈ってくれたに違いない。というのも、それは、まだ幼い赤ん坊だった頃の私の子守をし、育ててくれた女性だからである。いま彼女は栄光の御座の前に立っている。――突然そこへ連れ去られていったのである。私が思い描くところ、彼女は、自分の愛しい孫息子を見下ろし、その子が罪や、悪徳や、愚かさの道を辿っているのを見ていたであろう。彼女は、悲しみとともに眺めていたはずはない。というのも、栄化された者たちの目にはいかなる涙もないからである。また、後悔とともに眺めていたはずはない。なぜなら、神の御座の前にある者たちにそのような感情は持てないからである。だが、あゝ! 主権の恵みによって私が祈りに向かわされたその瞬間、ひとり私が膝をかがめ、心の葛藤を覚えていたとき、私は彼女がこう云ったのを見るような気がする。「見よ。彼は祈っています。見よ。彼は祈っています」、と。おゝ! 私には彼女の顔つきがまざまざと見える。彼女は、一時に2つの天国を、二倍の至福をいだいていたように思われる。自分自身のうちにある天国と、私のうちにある天国である。――彼女にはこう云えたからである。「見よ。彼は祈っています」。あゝ! 青年よ。彼方では、あなたの母上が黄金の通りを歩いている。母上は、今このとき、あなたを見下ろしている。母上は、あなたがほんの幼子にすぎないときに、あなたをあやし、あなたを胸に抱き、あなたをイエス・キリストにささげた。母上は天国からあなたを見つめてこられた。幸福とも合わせ持てる強い心配とともに見つめてこられた。今朝、母上はあなたを眺めている。青年よ。あなたは何と云うだろうか? キリストは、その御霊によってあなたの心の中で、「わたしのところに来なさい」[マタ11:28]、と云っておられるだろうか? あなたは悔い改めの涙をこぼしているだろうか? 私はあなたの母上がこう叫んでいるのが見えるような気がする。「見よ。彼は祈っています」、と。母上は神の御座の前で再び膝をかがめ、云っている。「感謝します。おゝ、永遠の恵みに満ちた主よ。地上において私の子どもであった彼は、今、光においてあなたの子どもとなりました」。

 しかし、ある罪人の回心について、他のだれよりも喜んでいる者がひとり天国にいるとしたら、それは教役者である。神に仕える真の教役者たちのひとりである。おゝ、話をお聞きの方々。あなたがたは、神に仕える真の教役者がいかにあなたの魂を愛しているかほとんど考えもしない。ことによると、講壇に立って人々に説教するのは楽な務めだと考えているかもしれない。それで済むとしたら、これは楽な務めだったかもしれないが、神もご存知の通り、私たちがあなたに語りかけるとき、あなたが救われるか罪に定められるかは、ある程度まで私たちが何を云うかにかかっているのだ、と考えるとき、――もし私たちが不忠実な見張り人だったとしたら、あなたの血の責任が私たちに問われることを思い起こすとき[エゼ33:6]、――おゝ、善なる神よ! 私が自分の生涯において何千人、何万人もの人々に説教してきたこと、また、ことによると云うべきではなかった数多くのことを私が口にしてきたかもしれないことを思い起こすとき、それは私を愕然とさせ、震えおののかせる。ルターによると、彼は自分の敵たちと対決することはできても、自分の膝を震わせずに講壇の階段を上ることはできなかったという。説教は子どもの遊びではない。労苦や不安なしになすべきことではない。これは厳粛な務めである。それは、永遠との関わりにおいて眺めるとき、恐ろしい務めである。あゝ! いかに神に仕える教役者があなたのために祈っていることか! もしあなたが、その人の私室の窓の軒下で耳を澄ませることがあったとしたら、あなたはその人が日曜の夜ごとに、自分の説教について、それを貧弱にしか語れなかったと呻くのを聞いたことであろう。その人が神にこう訴えるのを聞いたことであろう。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか? 主の御腕は、だれに現われたのか?」[イザ53:1] あゝ、天で憩いに入ったその人があなたを見つめるとき、――その人が祈っているあなたを目にするとき、いかに両手を打ち鳴らして、こう云うことであろう。「見よ。あなたが私にくださったあの子を! 見よ。彼は祈っています」。私は確信する。私たちは、だれかが主を知るように至らされるのを目にするとき、溺れていた自分の同胞を救い出した者と同じような気がするに違いない。大水に巻き込まれたあわれな人がいる。その人は水底に引き込まれつつあり、沈みつつあり、溺れるしかない。だが、私が飛び込んで、その人をしっかと掴み、岸に引き上げ、地面の上に横たえる。医者がやって来る。その人を診て、その手をその人に当てて、こう云う。「残念ながら、もう死んでいるようです」。私たちは、あらん限りの手を尽くす。できる限りのことをして息を吹き返させようとする。私は、自分がその人の救助者であるかのように感ずる。そして、おゝ、いかに私が身をかがめて、その人の口に自分の耳を近づけることか! ついに、私は云う。「息をしている! 息をしている!」 そこに何という喜びがあることか! その人は息をしている。まだいのちがある。そのように私たちは、その人が祈っているのを見いだすとき、こう叫ぶのである。――彼は息をしている。まだ死んではいない。生きているのだ。というのも、人は、祈っている限り、罪過と罪の中で死んではいないからである。むしろ、いのちに至らされ、御霊の力によって生かされているのである。「見よ。彼は祈っています」。これは、神から注目されているというだけでなく、天において喜ばしい知らせである。

 次のこととして、これは人々にとって、何にもまして驚愕させられる出来事であった。アナニヤは、驚きのあまり両手を上げた。「おゝ、わが主よ。だれが祈るにせよ、まさかあの男が祈っているとは! そのようなことがありましょうか!」 他の教役者たちはどうか知らないが、時として私は、会衆の中の特定の人々に目をとめて、こう云うことがある。「よろしい。彼らは非常に有望だ。彼らは救われると思う。みわざがなされつつあることは確実だ。すぐに私は彼らから、主が彼らの魂のために何をしてくださったか聞かされることになるはずだ」。ところが、ことによると、じきに彼らの姿は見えなくなり、私は全く彼らを目にしなくなってしまうのである。だが、そのかわりに、私のいとも良き《主人》は、私のもとに、私が何の望みも持っていなかったような人々のひとりを送ってくださる。――社会のくずで、酔いどれで、堕落していた者が、主の恵みの栄光をたたえるためにやって来るのである。そのとき私は、驚きのあまり両手を上げて、こう考える。「他のだれが来るにしても、まさかあなたがやって来るとは」。私は、しばらく前に起こった、ある折のことを思い出す。年の頃六十ほどの、あわれな男がいた。その人は、荒くれ者の水夫で、村一番の悪人のひとりであった。飲んだくれているのが常で、御名を呪ったり、悪態をついたりするのが嬉しくてたまらない様子に見えた。しかしながら、その人は、ある聖日に会堂にやって来た。そのとき説教していたのは私の近親の者だったが、主題の聖句は、エルサレムを見下ろして涙を流しておられるイエスに関する箇所であった[ルカ19:41-44]。そこで、このあわれな男は考えた。「何と! イエス・キリストが、わしのような、みじめな奴のためにも泣いてくれたってのかい?」 その人は、キリストから心にかけてもらうには自分が悪人過ぎると考えていたのだった。とうとうその人は、その教役者のもとに来て、こう云った。「先生。六十年もの間、わしは悪魔の旗のもとで航海してきやした。いいかげんに、主人を変えなきゃいけねえ時分す。わしあ、前の船の底に穴をあけて、彼女を沈没させてやりてえです。そしたら、わしは、新しい船に乗り込んで、《インマヌエル太子》の御旗のもとで航海しまさあ」。そのとき以来、その人は祈る人となった。心の底から誠実に神の前を歩む人となった。だが、その人こそは、だれにとっても、まさか思いもよらない人物であった。なぜか神は、考えにも及ばぬ人々をお選びになる。金剛石を一顧だにせず、玉砂利をつまみ上げられる。というのも神は、「石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」からである[マタ3:9]。神は錬金術師よりも知恵に富んでおられる。黄金を精製するだけでなく、卑金属を宝石に変化させなさるのである。最も不潔で、最も卑しい者を取り上げては、それらを栄光に輝く者へと変じさせ、罪人であった人々を聖徒とし、聖ならざる者であった者らを聖なる者となさる。

 サウロの回心は異様なことであった。だが、愛する方々。それは、あなたや私がキリスト者となったことよりも異様だろうか? あなたに尋ねさせてほしい。もしも、だれかが何年か前のあなたに向かって、あなたは教会に属することになり、神の子どもたちの中に数えられることになるのですよ、と告げたとしたら、あなたは何と云っただろうか? 「馬鹿も休み休み云いなさい。私は、あなたの云うような、とりすましたメソジストたちのひとりではありませんよ。私は宗教がかった者になるつもりなどありません。私は自分の好きなように考え、好きなように行ないたいのです」。あなたや私はそう云ったではないだろうか? では、一体全体どうして私たちはここに来ているのだろうか? 自分に及んだ変化を見つめるとき、それは、まるで夢のように思われる。神は、私たちの家族の中でも、私たちより優秀な多くの者らを取り残しなさった。では、なぜ神は私たちを選ばれたのだろうか? おゝ! それは異様なことではないだろうか? 私たちは、アナニヤがしたように驚きのあまり両手を上げて、こう云うのではないだろうか? 「見よ、見よ、見よ。これは地上の奇蹟、天上の驚異です」。

 私がここで云いたい最後のことは、こうである。――この事実は、サウロ自身にとって新奇なことであった。「見よ。彼は祈っています」。このどこに新奇なことがあるだろうか? サウロは一日に二度、祈りの時間に神殿に詣でるのを常としていた。もしあなたが彼に同行できたとしたら、あなたは彼が次のような美しい言葉を口にするのを聞いたことであろう。「主よ。私はほかの人々のようにゆする者や、取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」、等々[ルカ18:11-12参照]。おゝ! あなたは彼が見事な雄弁を神の御座の前に注ぎ出しているのを見いだしたであろう。だがしかし、この聖句は云う。――「見よ。彼は祈っています」。何と! 彼はそれまで一度も祈ったことがなかったのだろうか? しかり、一度もなかったのである。それまで彼がなしてきたことはみな、何にもなっていなかった。それは祈りではなかった。ひとりの老紳士についてこんな話を聞いたことがある。その人は子どもの頃、こう祈るように教えられたという。「どうか神様が、父上と母上を祝福してくださいますように」。それで、その人はこの祈りを七十年間、両親が死んだ後も祈り続けたのである。その後、神は、その無限のあわれみによって、この人の心に触れてくださった。そして神に導かれてその人は、自分が常にこの形式に従ってきたにもかかわらず、全然祈ってはいなかったことを悟らされたのである。サウロもそれと全く同じであった。彼は、自分の大仰な雄弁を並べ立てていたが、それらは全く何にもなっていなかった。彼がその長い祈りを唱えていたのは、見せかけのためであった。それはことごとく役立たずであった。今こそ、真の嘆願がやって来たのである。そして、こう云われているのである。「見よ。彼は祈っています」。あなたは、人が自分の《造物主》に耳を貸してもらおうとあれこれ試みている姿が見えるだろうか? その人がいかに立っていることか! その人は、《全能者》の御座の前でラテン語を語り、弱強五歩格の無韻詩を口にする。だが神は、何の注意も払うことなく、無関心に平然と構えておられる。そこで、その人は別の様式を試してみる。祈祷書を手にとり、再び膝をかがめては、かつて編纂された中でも最良の古い祈りを、楽しげに唱えてみる。だが、《いと高き方》は、その人の空疎な形式を一顧だにされない。とうとう、このあわれな人は、その本を投げ捨て、自分の無韻詩など忘れて、こう云う。「おゝ、主よ。キリストのゆえに、お聞きください」。「この者を聞くがいい」、と神は云われる。「私には、彼の声が聞こえた」、と。そこに、あなたの求めてきたあわれみがある。心からの祈りを一度することは、形式だけの祈りを一万回することにまさっている。魂から発した私たちの祈りは、冷淡な無数の朗唱にまさっている。口と頭だけからしか生じていない祈りのことを、神は忌み嫌いなさる。神が愛するのは、心の奥底から出てきた祈りである。これは、ぶしつけな言葉かもしれないが、私は云いたい。今朝この場には、その一生の間、一度も祈ったことのない人々が何百人もいる、と。あなたがたの中のある人々は、一度も祈ったことがない。そちら側にいるひとりの青年は、両親に向かって、一人暮らしをするようになったら、自分は毎朝毎晩、一定の祈りの形式を唱えますと云ってきた。しかし、彼は恥ずかしいので、それをやめてしまった。よろしい。青年よ。あなたが死ぬことになったら、何をするだろうか? あなたは「死の門ひらく その合言葉」を持っているだろうか? 「祈りによって天国に入る」ことになるだろうか? 否。そうはならない。あなたは神の御前から追い出され、追い払われるであろう。

 II. 第二に、ここには《1つの議論》がある。「というのも、見よ。彼は祈っています」 <英欽定訳>。それは、何よりもまず、アナニヤの安全のための議論であった。あわれなアナニヤは、サウロのところに行くのを恐れていた。彼は、それを獅子の穴に足を踏み入れるも同然だと考えた。「もし私が彼の家などに行ったら」、と彼は思った。「私を見た瞬間に、彼はたちまち私をエルサレムに引っ立てて行くであろう。私はキリストの弟子のひとりなのだから。そんなところへ行ってたまるものか」。だが神は、「見よ。彼は祈っています」、と云っておられる。「よろしい」、とアナニヤは云った。「それで私にとっては十分だ。もし彼が祈っている人間だとしたら、私を傷つけはしないであろう。もし彼が真に敬虔な人間だとしたら、私は安全だ」。祈っている人には、常に信頼が置けると心決めしておくがいい。なぜかはわからないが、不敬虔な人々でさえ、真摯なキリスト者には常に敬意を払うものである。家の主人は、結局は祈っているしもべを雇いたがるものである。たとい自分ではキリスト教信仰を心がけていなくとも、敬虔なしもべを置いておき、そうしたしもべの方を、そうでない者よりも、信頼したがるものである。確かに、祈っていると公言している、あなたがたの中のある者らは、自分の中にこれっぽっちも祈りを有してはいない。しかし、真に祈っている人を見いだすときには常に、莫大な黄金をもその人に託すがいい。というのも、もしその人が本当に祈っているとしたら、あなたには、その人を恐れる理由が何もないからである。ひそかに神との交わりをしている者は、公に信頼されてよい。私は、贖罪蓋を足繁く訪れている人には常に心安いものを感じる。スイスのどこかで一緒に旅をしていた、ふたりの紳士の逸話を聞いたことがある。ほどなくして彼らは、森の真ん中に踏み入ってしまった。あなたも、そうした土地の旅館について人々が話している陰気な話を知っているであろう。それらに投宿することがいかに危険なことか。ふたりのうちのひとりは不信心者であったが、キリスト者である道連れに云った。「私はここに泊まることに全く気が進まないよ。実際非常に危険だもの」。「そうだね」、ともうひとりが云った。「試してみようよ」。それで彼らは、ある家に行ったが、それはあまりにも胡散臭そうで、ふたりのうちのどちらもそれを好まなかった。そして彼らは、故郷の英国にいたらどんなによいことかと考えた。そうこうするうちに、亭主がこう云った。「旦那方。あっしはいつも、寝る前に家族と聖書を読んで祈ることにしておりやす。旦那方は、あっしが今晩そうしてもかまいませんでしょうか?」 「もちろん」、と彼らは云った。「全然かまいませんとも」。彼らが二階に上ったとき、不信心者は云った。「私はもう全然怖くなくなったよ」。「なぜだい?」、とキリスト者は云った。「宿の亭主が祈っているっていうからね」。「おゝ!」、と相手は云った。「ならば、結局、君もキリスト教信仰を多少は評価していると見えるね。なぜって、人が祈っているからと云って、君はその人の家で眠りにつけるというんだからね」。そして、驚くべきことに、彼らはふたりともぐっすり眠ったのである。彼らは甘やかな夢を見た。というのも、彼らは、ある家が祈りを屋根とし、敬神の念を壁としているところに、彼らに害を加えるような者は住んでいるはずがないと感じたからである。では、これがアナニヤにとっての議論であった。彼が安全にサウロの家に行くことができるという議論であった。

 しかし、それにもまして、そこにはパウロの真摯さを示す議論があった。隠れた祈りは、真摯なキリスト教信仰の最良の試験の1つである。もしイエスがアナニヤに向かって、「見よ。彼は説教しています」、と云ったとしたら、アナニヤはこう云ったであろう。「それをしていても、彼が騙りでないとは云えません」。もし主が、「彼は教会の集会に通っています」、と云ったとしても、アナニヤはこう云ったであろう。「彼はそこに、羊の皮を着た狼として入ったのかもしれません」。しかし主が、「見よ。彼は祈っています」、と仰ったとき、それは十分な議論であった。ひとりの青年が私のもとにやって来て、自分が感じてきたこと、自分が行なってきたことについて語るとする。最後に私は、「膝まづいて祈りなさい」、と云う。「全然そうしたくはありません」。「かまいません。何としてでも祈りなさい」。彼は身をかがめて膝まづき、ほとんど一言も云えない。呻いたり、泣いたりし始め、膝まづいたまま、とうとう口ごもりながらこう云う。「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください。――私は最悪の罪人です。こんな私をあわれんでください!」 そのとき私は多少は満足し、こう云う。「私は、あなたの話すことは、全部どうでもよいと思っていました。あなたの祈りを聞きたかったのです」。しかし、おゝ! もし私が彼をイエスまで辿ることができたとしたら、もし私が、行ってひとり祈る彼の姿を見ることができたとしたら、そのときは私は安心するものを感じるであろう。というのも、ひそかに祈る人は真のキリスト者だからである。単に日ごとの霊想書を読んでいるだけでは、人が神の子どもであるという何の証拠にもならないであろう。もしあなたがひそかに祈っているとしたら、そのときあなたは真摯なキリスト教信仰を有しているのである。もし真摯なものだとしたら、多少のキリスト教信仰の方が、山ほどの見せかけよりもましである。自宅での敬虔さこそ、最良の敬虔さである。祈ることが、あなたに罪を犯すのをやめさせるか、罪を犯すことが、あなたに祈ることをやめさせるかである。心における祈りは、回心が本物であることを証明する。ある人は真摯であっても、真摯に間違っているかもしれない。パウロは真摯に正しかった。「見よ。彼は祈っています」、は彼の信仰が正しいものであるという、最良の議論であった。もしだれかが私に、キリスト教信仰の大要を告げてくれませんか、と頼んだとしたら私は、それはこの1つの言葉――「祈り」――である、と云うであろう。もしだれかが私に、「何がキリスト者経験の全体を網羅しているでしょうか」、と問うとしたら、私は、「祈りです」、と答えるであろう。人は、祈れるようになる前に、罪を確信させられているに違いない。祈れるようになる前に、自分にはあわれみがあるという何がしかの希望を持っているに違いない。事実、あらゆるキリスト者の美徳は、この言葉、祈りの中にしまい込まれているのである。あなたが祈りの人であると私に告げさえするなら、私はただちにこう答えるであろう。「私は、あなたのキリスト教信仰が本物であることを、それが真面目なものであることに劣らず、全く疑いません」、と。しかし、もう1つの思想を語らせてほしい。それでこの主題から次に移ろう。これは、この人物が選ばれていた証拠であった。というのも、その直後にこう記されているからである。「見よ。あの人は……選びの器です」*[使9:15]。私はしばしば、人々が《選び》の教理についてあれこれ思い悩むのに気づく。何度となく私は、選びについて説教したというかどで私を咎める手紙を誰かから受けとるのである。私はこう答えるしかない。「それは聖書の中にあることである。行って、私の《主人》に向かって、なぜそれを聖書の中に載せたのか尋ねるがいい。私にはどうすることもできない。私は単に、仕える者にすぎず、上からの使信をあなたに告げるものである。もし私が下男だとしたら、自分の《主人》の使信を玄関先で変更すべきではない。私はたまたま天の大使となっている者であり、自分の受けとった使信を変えるつもりはない。もしそれが間違っているのなら、その大本に苦情を提出するがいい。それが筋というものであり、私にそれを変えることはできない」。さて、説明として、これだけは云わせてほしい。ある人は云う。「どうすれば私は、自分が神の選民であるかがわかるでしょうか? 私は自分が神の選民でないのではと思うと心配でなりません」。あなたは祈っているだろうか? もし、「見よ。彼は祈っています」、と云えるとしたら、「見よ。あの人は選びの器です」、とも云えよう。あなたには信仰があるだろうか? もしあるなら、あなたは選民である。これらが選びの目印である。もしあなたがそのいずれも有していないとしたら、あなたには、自分が神の所有とされた民に属していると結論する何の根拠もない。あなたには信じたいという願いがあるだろうか? キリストを愛したいという切望があるだろうか? キリストのもとに行きたいという願いが百万分の一でもあるだろうか? また、それは実質的な願いだろうか? それはあなたに、熱心な、涙ながらの哀願をささげさせているだろうか? もしそうなら、選ばれていないのではないかなどと決して心配することはない。というのも、真摯な心で祈る者はだれしも、世界の基の置かれる前から、愛にあってキリストの前で聖く、責められるところのない者となるように、神によって定められているからである。

 III. さて、《適用》である。私の愛する方々。今朝、あなたがたを家路につかせる前に、私に一言二言告げさせてほしい。私はこの主題により良く入ることができないのを残念に思う。だが、私の栄光に富む《主人》は、私たちひとりひとりに、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じてお求めになられる。私は、自分のなすべきほど厳粛にこの真理を心に迫らせることができないことを深く自覚している。それにもかかわらず、「私の働きは神とともにあり、私のさばきは、私の神とともにある」*[イザ49:4]。そして最後の審判の日には、私の誤りが識別力にあったこと、魂に対する真摯な情愛にあったのではないことが明らかにされるであろう。第一に、神の子どもたちに対して語りかけさせてほしい。私の愛する兄弟たち。私たちが神の子らである最良の目印が、私たちの敬虔の念に見いだされるべきであることはわかるではないだろうか? 「見よ。彼は祈っています」。よろしい。では、その自然な結果として、私たちが祈りにあることが見いだされれば見いだされるほど、私たちの証拠は一層明るいものとなるということにはならないだろうか? ことによると、今朝のあなたは、自分の証拠を失っているかもしれない。あなたは、自分が神の子どもかどうかがわからない。それではあなたに、あなたがどこで自分の確信を失ったか告げることにしよう。――あなたはそれをあなたの私室で失ったのである。キリスト者の信仰が後退する場合、いかなるときも、そのさまよいは、その人の私室から始まる。私は、自分の実感を語っているのである。私はしばしば神から後退したことがある。――むろん最終的に転落したわけではない。だが、しばしば私は、以前に楽しんでいた神の愛の甘やかな味わいを失ったことがある。私はこう叫ばざるをえなかった。

   「われ知る、かつての憩いの時を。
    その追憶ぞ 今なお甘き!
    されど残るは 空虚(うつろ)な痛み!
    この世の何も 満たしえじ」。

私は説教するために神の家に行っても、火も活力もなかったことがある。私は聖書を読んできたが、そこには何の光も照らされず、神との交わりを持とうとしてきたが、全くうまく行かなかった。それがどこから始まったかを告げようか。私の私室から始まったのである。私は、祈ることを、ある程度、やめてしまっていたのである。私はここに立ち、自分の過ちを告白するものである。私は、自分が神から離れ退く場合、それが常にそこから始まることを認める。おゝ、キリスト者よ。あなたは幸いになりたいだろうか? 大いに祈るがいい。勝利を得たいだろうか? 大いに祈るがいい。

   「祈り閉ざさば わが戦(いくさ)絶ゆ。
    祈らば信者の 武具輝かん」。

ベリー夫人はこう云っていたものである。「私は、世界中の宝を積まれても、私の部屋から出て行きはしません」。ジェイ氏はこう云っている。「もし十二人の使徒たちがあなたの近くに住んでいて、そこに自由に行き来できるとして、この交流があなたを私室から引き離すものだとしたら、彼らは、あなたの魂にとって真実に有害なものとなるであろう」。祈りは、この世で最も高価な船荷を運んでくる船である。最も豊かな収穫を生じさせる土壌である。兄弟よ。あなたは、朝起きたときには、取引があまりにも急を要しているため、口早に一言か二言唱えただけで、この世に飛び出して行き、夜には、へとへとに疲れ切っていて、神にその日の残りくずをささげる。その結果、あなたは神と何の交わりも持たなくなる。私たちが今以上に真のキリスト教信仰を有していない理由は、今以上に祈っていないからである。私はこの首都であちこちの会堂に行くことがあるが、そこには非常に大人数の会衆が見受けられる。だが、平日に彼らの祈祷会に行くと、十二、三人しか見当たらないのである。それでは、神が私たちを祝福することなどありえるだろうか? 現状がこのようなものであるとき、神が御霊を私たちに注ぐなどということがありえるだろうか? 神には、そうする力もおありになるが、それは神のご配剤の秩序に沿ったものではないであろう。神はこう云っておられる。「シオンは、陣痛を起こすときに、子らを産む」*[イザ66:8]。自分には、より多くの祈りが必要である。こうした思いをいだいて、あなたの教会あるいは会堂へ行くがいい。あなたがたの中の多くの人々は、今朝、この場とは何の関わりも有していない。あなたは、自分の属する礼拝所にいるべきである。私は、他の諸会堂の信徒たちを盗もうなどとは思わない。そうした人々などいなくとも、私の話を聞こうという人々はいくらでもいる。しかし、あなたは、今朝罪を犯したとはいえ、この場にいる間は、自分の益になるだけのことを聞いていくがいい。家に帰って、自分の教役者に云うがいい。「先生。私はもっと祈らなくてはなりません」、と。他の人々を促して、より一層祈らせるがいい。自分ひとりしかいないときでさえ、祈祷会を持つがいい。そうすれば、もし何人そこにいたかと尋ねられたならば、「四人」と云うことができよう。「四人ですと! どうしてそんなことがありましょう?」 「なぜって、そこには私自身と、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神がいたからです。そして私たちは、豊かで本物の交わりを一緒に持ちました」。私たちには、真の敬虔が大いに注ぎ出されることがなくてはならない。さもないと、私たちの諸教会の多くはどうなるであろう。おゝ! 願わくは神が、私たちをみな覚醒させ、私たちを祈りにかき立ててくださるように。祈るとき、私たちは勝利を得るようになるからである。私は今朝、サムソンが狐たちをそうしたように、あなたがたを捕まえて、祈りというたいまつをくくりつけ、麦束の間に解き放って、すべてをボウボウ燃え立たせたいと思う[士15:5]。私は、自分の言葉によって大火災を起こし、すべての教会を火と燃やし、神の御座へのいけにえのように、その全部から煙を吹き出させたいと思う。もしあなたが祈っているとしたら、あなたには自分がキリスト者であるという証拠がある。祈ることが少なければ少ないほど、あなたのキリスト教が本物であると信ずべき理由は少なくなる。そして、もしあなたが祈ることを全くないがしろにしているとしたら、そのときあなたは息をすることをやめているのであり、あなたが、それまで一度でも息をしていたのかどうか、不安になってしかるべきであろう。

 そして今、私の最後の言葉は不敬虔な人々に対するものである。おゝ、方々! 私はいま、自分がこの場にいないですませられたら、どんなによいかと願いたい気がする。というのも、敬虔な人々に語りかけることが厳粛な務めであるとしたら、私があなたがたを取り扱うときには、いかにはるかにまさってそうであることか。私たちは、2つの間違いを犯しはしないか恐れるものである。一方では、あなたを自分自身の力に頼らせるような語り方をしてしまうのではないかと考え、もう一方では、あなたを怠惰と安逸の眠りに寝つかせるような語り方をしてしまうのではないかとおののく。私の信ずるところ、私たちの中のほとんどの者は、あなたに対して説教する最もふさわしいしかたについて、何がしかの困難を感ずるものである。――福音が宣べ伝えられるべきであることを疑っているのではない。――むしろ私たちは、あなたの魂をかちとるようなしかたで福音を宣べ伝えたい、と願っているのである。私は見張り人のように感ずる。町の守りについていながら、ひどい眠気のさしている見張り人である。肉体の弱さによって打ち負かされそうになりつつも、その人が、いかに熱心に目を覚ましていようと苦闘することか。自らの責任を思い出すことによって、その人は奮起させられる。その人の問題は意志の欠けにではなく、力の欠けにある。そして、私が希望するのは、主に仕える見張り人たち全員が、そのように忠実であろうと切望するとともに、自分の不完全さをわきまえていることである。まことにキリストに仕える教役者は、エディストン灯台の老灯台守のように感ずるであろう。寿命は急速に尽きつつあるが、全身の力をふりしぼっても、死ぬ前にもう一度、這うように階段を上り、燈火を整えようとするのである。おゝ、願わくは聖霊が私たちに力を与えて、この灯台の炎を燃やし続けさせ、あなたを取り巻く岩礁や、浅瀬や、流砂について、あなたに警告させてくださるように。そして、私たちが常にあなたをイエスに導き、自由意志だの被造物の功績だのに導くことがないように。もしも、罪人たちへの説教という重要な問題において、私がいかに熱心に天来の導きを求めてきたかを私の友人たちが知っていたとしたら、彼らの中のある人々が感ずるように、私が罪人たちに間違った語りかけ方をしていると思い描くようなことはないであろう。私は、神が私にお命じになっておられる通りに行ないたいと願っており、もし神が私に、干からびた骨に語りかけよ、そうすればそれらは生きる、とお告げになるとしたら、私はそれを行なわなくてはならない[エゼ37:4-5]。たとい、そうすることで他の人々を不快にさせるとしても関係ない。さもないと、私は自分自身の良心において罪に定められ、神から罪に定められるであろう。さて、いかなる者にも呼び起こせないあらゆる厳粛さをもって、私に云わせてほしい。祈りのない魂は、キリストのない魂である、と。主は生きておられる。決して祈ったことがないというあなたは、神もなく、希望もなく、イスラエルの国から除外された者である[エペ2:12]。呻きがいかなるものかも、流れ落ちる涙がいかなるものかも全く知らないというあなたは、生きた敬虔さに全く欠けているのである。私に尋ねさせてほしい。方々。果たしてあなたは今まで、自分がいかに恐ろしい状態にあるか考えたことがあるだろうか? あなたは神から遠く離れている。それゆえ神はあなたに怒りを発しておられる。というのも、「神は日々、悪人に対して怒る神」だからである[詩7:11 <英欽定訳>]。おゝ、罪人よ。私はあなたの目を上げさせる。見るがいい。眉根を寄せた神の渋面を。というのも、神はあなたに対して怒っておられるからである。そして私はあなたに乞い願う。自分を愛しているというなら、ほんの一瞬でも、よくよく考えてみるがいい。今のあなたのまま生き続け、最後には祈りもなく死ぬとしたら、あなたに何がふりかかるかを。臨終の床でほんの一度祈るだけで救われるなどと考えてはならない。臨終の床における祈りは、普通は、臨終の床における猿芝居であって、何にもならない。それは天国で澄んだ響きを立てる金貨ではなく、偽善の刻印が押された、卑しい金属からできたものである。用心するがいい。方々。私に尋ねさせてほしい。もしあなたが決して祈ったことがないとしたら、あなたはどうなるだろうか? もし死が永遠の眠りであるとしたら、それは、あなたにとっては良いことであろう。だが、そうではない。もしあなたが地獄に堕ちていることに気づくとしたら、おゝ、拷問のごとき苦痛! しかし私は、それらを叙述しようと試みることで、あなたの感情を苦しめようとは思わない。願わくは神があなたに、失われた者らの苦悶を決して感じさせないようにしてくださるように。ただ、こう想像してみるがいい。いま燃える炎の中にいる、あわれでみじめな者らは、こう云っているのである。「おゝ、ほんの一滴でもこの焼け焦げた舌を冷やす水がありさえすれば!」[ルカ16:24参照] いかにその舌が、火ぶくれだらけの唇からだらりと垂れ下がっていることか! いかにそれが、まるで燃え木ででもあるかのように、その口蓋の皮をずるりと剥けさせ、火傷を負わせることか。その人が一滴の水を求めて泣き叫ぶのを見るがいい。私はしめくくりに、こう云うだけで十分であろう。あわれな罪人よ。あなたにとって地獄の中の地獄とは、それが永遠に続くという思いであろう。あなたはそこから神の御座を見上げるが、そこには、「永遠に!」、と記されているであろう。地獄に堕ちた者らが、その苦悶の燃える焼きごてを揺すると、それは「永遠に!」という音を鳴らすであろう。彼らが泣きわめくとき、その声は「永遠に」響きわたるであろう!

   「『永遠に』と 書かれし責め具、
    『永遠に』と 書かれし鎖、
    『永遠に』ぞ 火の中に燃ゆ。
    『永遠に』ぞ、永久(とわ)に支配す」。

何と陰鬱な思いであろう! 「もしここを出られさえしたら、私は幸せになれるのだ。もし解放の希望さえあれば、私は安らかになれるのだ。だが私はここに永遠にいるのだ!」 方々。もしあなたがたが永遠の苦悶から逃れたければ、もしあなたがたが祝福された者の中に数えられたければ、天国への道は祈りによってしか見いだせない。――イエスに対する祈り、御霊による祈り、神の贖罪蓋における懇願によるしかない。「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ」*[エゼ33:11]。「主は情け深く、あわれみ深い」*[詩111:4; 145:8]。主のもとに行き、云おうではないか。「あなたは私たちの背信をいやし、喜んで私たちを愛し、恵み深く赦してくださいます。あなたの御子の御名のゆえに」、と[ホセ14:4参照]。おゝ! もし私が本日、ひとりの魂をかちとることができたとしたら、私は満足して家に帰るであろう。もし二十人でも手に入れることができるとしたら、大喜びするであろう。私は、多く有すれば有するほど、多くの冠をかぶることになろう。かぶる! 否。私はそれを一挙にすべて受け取っては、イエスの足下に投げ出して云うであろう。「私にではなく、私にではなく、ただあなたの御名にのみ栄光を、永遠に帰してください」、と[詩115:1参照]。

   「祈りの定めは 持ち来たらん、
    神与えんとす 祝福を。
    いかに永らえど、御民は祈る。
    そは祈る間のみ 彼ら生くれば。

   「では、汝れ黙して なお横たわるや、
    主の汝が祈り 立ちて待てるに。
    わが魂(たま)、汝れには 高きに友あり、
    起きて探れよ 上なる富を。

    祈り支ゆは 弱き魂、
    思いはくじけ、言葉途切れど、
    祈れ、口きく 力なくとも、
    祈れ、イェスへの 信仰をもて」

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パウロの最初の祈り[了]

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