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十字架につけられたキリスト

NO. 7 - 8

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1855年2月11日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」。――Iコリ1:23、24


 神はいかなる軽蔑をこの世の知恵に浴びせかけておられることか! それをいかに無に帰し、ないも同然にされたことか! 神は、それに自分の結論を出させた後で、その愚劣さを証明なさった。人は自分たちが賢いと誇っていた。神を完全に見いだすことができると云っていた。そこで神は、彼らの愚劣さが決定的に論駁されるようにと、彼らにそうする機会をお与えになった。神は仰った。「この世の知恵よ。わたしはお前を試そう。お前の云うところ、お前は力ある者で、お前の知性は広大にして無辺、お前の目に見通せぬものはなく、お前はあらゆる神秘を解明できるという。今、見よ、わたしはお前を試す。お前に1つの大問題を解くように命ずる。ここに宇宙がある。星々はその天蓋をなし、野や花々はそれを飾り、大水がその面を流れている。わたしの名はそこに記されている。神の、目に見えない本性は、被造物によって、はっきりと認められるであろう。哲学よ。わたしはお前にこの問題を与える。――わたしを見いだすがいい。ここには、わたしの作品がある。――わたしを見いだすがいい。私が造った驚異の世界の中から、わたしをしかるべく礼拝するしかたをつきとめるがいい。お前には、それを行なうに足る余裕を与える。――資料は十分にある。雲を見、地上を見、星々を見るがいい。お前には、十分な時間を与える。わたしはお前に四千年を与え、何も干渉するまい。お前自身の世界を好きなように扱うがいい。お前には、ふんだんに人々を与えよう。わたしは、賢者や巨大な知性の持ち主を作り出すからだ。お前は彼らを地上の主と呼ぶだろう。お前には、雄弁家たちを与えよう。哲学者たちを与えよう。わたしを見いだすがいい。おゝ、理性よ。私を見いだすがいい。おゝ、知恵よ。できるものなら、わたしの性質をつきとめてみるがいい。お前に力があるというなら、私を完全に見いだすがいい。だが、もしお前にそうできないとしたら、お前の口を永遠に閉ざすがいい。そのとき、わたしはお前に、神の知恵は人の知恵よりも賢いことを教えよう。しかり。神の愚かさが人よりも賢いことを教えよう」。では、人間の理性は、この問題をいかにして解いただろうか? 知恵は、その偉業をいかにして達成しただろうか? 異教徒の国々を眺めてみるがいい。そこには、知恵の探求の結果が見られる。イエス・キリストの時代に、あなたは地上がべっとりと汚穢に覆われているのを見たであろう。――地は途方もない規模の、一個のソドムとなり果て、腐敗し、汚れ、堕落し、口にするもおぞましい悪徳にふけり、一瞬の想像にのぼせることすら忌まわしい情欲の数々に没頭していた。私たちの見いだすのは、人々が木切れや石ころの前に這いつくばり、自分たちよりも不道徳な、よろずの神々を崇めている姿である。実際、私たちが見いだすのは、理性が自らの堕落ぶりを血と汚物にまみれた指で完全に書きとめ、自分の行なった無数の下劣な行為によって、自分を自分のすべての栄光から永遠に切り離している姿にほかならない。理性は神を礼拝しようとはしなかった。「はっきり認められる」お方の前にひれ伏そうとはしないくせに、他のあらゆる被造物を礼拝した[ロマ1:20]。地を這う爬虫類も、鰐も、毒蛇も、ありとあらゆるものが神になりえた。だが、天の神だけは絶対に認められなかった。悪徳が1つの儀式とされ、最大の犯罪が宗教へと昇華されることもあったのに、真の礼拝について理性はまるで知らなかった。あわれな理性! あわれな知恵! どうしてお前は天から落ちたのか! 暁の子、明けの明星のように、お前は失われた[イザ14:12]。お前は自分の結論を書き記したが、その結論は愚劣さのきわみであった。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」[Iコリ1:21]。

 知恵には時間があった。十分な時間があった。知恵は自分にできるあらゆることを行なった。そして、それは全く卑小なものだった。知恵は世界を悪化させた。自分が手を出す前よりも悪化させた。そして今、神はこう云っておられるのである。「わたしは愚かさによって知恵を打ち負かそう。お前の呼ぶところの無知によって、お前の科学を一掃しよう。今や、謙遜で、子どものような信仰によって、お前の手の積み上げた巨大な知的体系のすべてを木っ端微塵に粉砕しよう」。神はその軍隊を招集なさる。キリストがその喇叭を口に当てると、勇士たちがやって来る。漁師の服を身にまとい、ガリラヤ湖地方の訛りをした、貧しく、卑しい舟乗りたちである。おゝ、知恵よ! ここにお前を辱める勇士たちがいるのである。これこそ、お前の思い上がった哲学者たちを打ち負かす英雄たちにほかならない! この者たちは、瓦礫となったお前の要塞の城壁の上に、自分らの長旗を立てることになる。この者たち、そして彼らの後継者たちは、福音を世界に高く打ち立てることになる。それをお前は馬鹿にして笑い、愚かとあざけるだろうが、それは丘々よりも高く掲げられ、天の天に至るほどの栄光に輝くであろう。その日以来、神は常に使徒たちの後継者を起こして来られた。私は自分が使徒たちの後継者であると主張する。それは、いかなる直系の系譜によるものでもなく、私が使徒と同じ役目と特権を有しているからである。私も、パウロその人が召されていたのと劣らず、福音を宣べ伝えるように召されているからである。パウロと同じくらい多くの罪人を回心させてはいなくとも、神の祝福によって、ある程度までは、そうさせている。それゆえ、私はここに立つ。パウロが愚かと云われたように愚かな者として、ペテロや、こうした漁師たちのだれかれが愚かと云われたように愚かな者としてではあるが、それでも私は、真理の剣を握りしめる。――ここに来て、「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」。このお方は、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵」なのである。

 本日の聖句を取り上げる前に、ごく手短に、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるとはいかなることであると私が信じているかを告げさせてほしい。愛する方々。私が思うに、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるとは、決して、日曜の朝夕ごとに、集った人々に向かって、ひとくさり哲学を開陳して、この《聖なる書》の真理を無視することではない。私が思うに、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるとは、決して、神のことばの主立った教理の数々を省いて、霧か霞でしかないような、明確な真理を全く含まない宗教を説くことではない。私の考えるところ、十字架につけられたキリストを宣べ伝えていない人とは、キリストの御名を一言も口にせずに、1つの説教を語りおおせることのできる人である。あるいは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えていない人とは、聖霊のみわざを省き、聖霊について一言も語らず、実際、聞き手の方が、「聖霊のおられることは、知りもしませんでした」、と云いかねなくなるような人々である。さらに私の個人的な意見によると、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるとは、決して、今の時代にカルヴァン主義と呼ばれているものを宣べ伝えることなしにはありえない。私には自分の考えがあり、それを常に大胆に申し立てるものである。カルヴァン主義というのは仇名である。カルヴァン主義とは福音であり、福音以外の何物でもない。私は、行ないによらない信仰による義認を説教せずに福音を説教できるとは思わない。あるいは、恵みの配剤における神の主権を説教しもせず、人を選び、変わることなく、永遠で、不変の、何物にも打ち勝つ、エホバの愛を称揚しもせずに、福音を説教できるとは思わない。あるいは、キリストがご自分の選民、すなわち選ばれた民のためだけに成し遂げた、独特の贖いを福音の根拠とすることなしに、福音を説教できるとは思わない。あるいは、聖徒たちが召された後で脱落することもありえるような福音や、神の子らが信じた後で断罪の火で焼かれることも認めるような福音を理解することはできない。そのような福音を私は忌み嫌う。聖書の福音はそのような福音ではない。私たちは、それとは異なるしかたで十字架につけられたキリストを宣べ伝える。そして、あらゆる反対者に向かって、「私たちはキリストのことを、そのようには学びませんでした」*、と答える[エペ4:20]。

 この聖句には3つのことが含まれている。第一に、福音は拒絶されるということ。――「十字架につけられたキリスト……ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう」。第二に、福音は勝利するということ。――「ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては」。そして第三に、福音は賞賛されるということである。「神の力、神の知恵なのです」。

 I. 第一に、ここで《福音は拒絶されている》。人はこう想像するかもしれない。神がその福音を人間にお送りになったとき、あらゆる人はおとなしく耳を傾け、へりくだってその諸真理を受け入れようとしたはずだ。神に仕える教役者たちが、福音によっていのちは光に至らされるのだ、と告知しさえしたら、あらゆる人は耳をそばだて、目を釘づけにされ、心を大きく開いて、その真理を受け入れただろう。そう私たちは考えたはずである。自分の同胞らを好意的に判断して、こう云ったはずである。この世にいかに卑しく、いかに堕落し、いかに汚れ果てた者があろうと、真理の進む道の前に石を転がしておくほどの怪物はいまい、と。私たちには、そのような考えは思いも及ばない。だが、それこそ真実なのである。福音が宣べ伝えられたとき、人々は、それを受け入れ賞賛するかわりに、一斉に罵声を上げた。彼らは福音にがまんがならなかった。その最初の《説教者》を丘の崖っぷちまで引きずって行き、そこから投げ落とそうとした[ルカ4:29]。しかり。それどころか、彼を十字架に釘づけにし、古今いかなる人間にも負わされたことのないほどの苦悶によって、死なんとするいのちを絶え果てさせた。彼の選び出した教役者たちは、この世の子らから憎まれ、忌み嫌われた。耳を貸されるかわりに笑いものにされた。あらゆるもののかす、人間の屑のように扱われた[Iコリ4:13]。古の時代の聖なる人々を見てみるがいい。敵どもがそれなりの権力を握っていた場合、彼らがいかに至る所で町から町へと追われ、迫害され、悩まされ、苦しめられ、石で打ち殺されたことか。人類のこうした友人たち、――こうした真の博愛家たち、――この、愛で一杯の心と、あわれみに満ちた手と、天上の火を含んだ唇と、聖なる感化力に燃える魂をいだいていた人々、――こうした人々は、陣営にもぐりこんだ間者、人類の共同戦線からの脱走兵ででもあるかのように扱われた。実際には最良の友であったのに、敵であるかのように扱われた。愛する方々。今の人々が、その当時より僅かでも福音を好んでいるなどと考えてはならない。人間は日々改善されつつあるという考えがあるが、私は信じない。人間は日々悪化しつつある。多くの点で、人は以前よりも良くなっている――外側は良くなっている――かもしれないが、内側の心は今なお変わっていない。今日の人間の心を解剖してみれば、一千年前の人間の心と全く同じであろう。あなたの胸の内側にある苦い胆汁は、古のシモンの胸にあった苦い胆汁と同じくらい苦々しいものである[使8:23]。私たちの心の中には、神の真理に対する同じ潜在的な反抗心がある。こういうわけで私たちは、古の人々と全く同じような、福音をあざ笑う人々を見いだすのである。

 福音が拒絶されることについて語る中で、私は、2つの種別の人々を指摘したい。双方とも同じくらい真理を蔑んでいる人々である。ユダヤ人は真理をつまずきとし、ギリシヤ人はそれを愚かとみなした。さて、この二種類の非常に立派な紳士たち――ユダヤ人とギリシヤ人――だが、私はこうした古代に生きていた個々人を非難の対象とするつもりはない。むしろ彼らを、非常に大きな選挙区から選出された、1つの大議会の議員たちとみなしたいと思う。私が努めて示したいのは、たとえユダヤ民族全体を排除したとしても、世界にはまだ、ユダヤ人の名に値する、キリストをつまずきとする残りの人々がいるだろう、ということである。また、たとえギリシヤが地震か何かによって呑み込まれ、国家としては消滅したとしても、そこにはまだ、福音を愚かとするギリシヤ人がいるであろう。私はただ、ユダヤ人とギリシヤ人をあなたに紹介し、彼らから、しばしあなたに語りかけてもらおうと思う。それはあなたに、あなたの代理となっているこの紳士たち――人々を代表者たち――を見てとらせるためである。彼らは、いまだ天来の恵みによって召されていないあなたがたの多くの代理人として立っているのである。

 まず最初はユダヤ人である。彼にとって福音はつまずきである。当時のユダヤ人は立派な人物であった。あらゆる格式ばった宗教は、彼のうちに凝り固まって体現されていた。彼は非常に敬虔に神殿に詣でていた。持てるものはみな、はっかやクミンに至るまで、その十分の一を納めていた。彼は一週間に二度も断食するため、うら悲しい、やつれた顔をしていたであろう。その額の真ん中には、律法が吊り下げられていた。そこには経札があり、衣のふさはぞろ長く、どう見ても異邦人の犬に間違われることはなかった。彼が生粋のヘブル人でないなどと思う者はだれひとりいなかったであろう。彼は聖徒たちの子孫であった。敬虔な家族の出であった。正しく良い人間であった。あの、宗教などないも同然のサドカイ人たちには我慢がならなかった。彼は、徹底的に宗教的な人間であった。自分の会堂の正当性を声高に云い立てていた。ゲリジム山の神殿など認めようとしなかった。サマリヤ人とは倶に天を戴かず、彼らと何の関わりも持とうとしなかった。彼は第一級の宗教家であり、非常に洗練された人であり、律法の諸儀式を愛する、道徳家の鏡であった。それで彼は、キリストの噂を聞いたときには、それは何者かと尋ねた。「大工の息子だとさ」。「何だと!」 「大工の息子で、母親の名はマリヤ、父親の名はヨセフということだ」。「それだけでも、とんでもないと増上慢ではないか。まさにそれこそ、そいつがメシヤでない動かぬ証拠だ。で、そいつは何と云っているのだ?」 「それが、こう云っているのだ。『忌わしいものだ。律法学者、パリサイ人たち』」。「やくたいもない」。「それだけではない。『だれも、肉の行ないによっては、天の御国に入れない』、と云っているのだ」。そのユダヤ人は、自分の経札に一度に2つも結び目を作っていた。自分の衣のすそを二倍に長くしようと考えていた。その自分があのナザレ人を拝むだと! 否、否。彼はイエスの弟子が通りを横切っただけで、その場所が汚されたと考え、その足跡も踏もうとしなかった。あなたは彼が、自分の遠い先祖の宗教を放棄しようとするなどと考えるだろうか?――シナイ山に由来する宗教――契約の箱と、それを覆うケルビムとに存していたあの古い宗教、それを彼が放棄する? 否である。下劣な詐欺師――それが彼の目に映るキリストにほかならなかった。彼はそのように考えた。「私にとってつまずきだ! そのようなことを聞いてはいられない! 聞こうとも思わない」。こういうわけで彼は、この《説教者》の雄弁に聞く耳を持たず、まるで耳を貸そうとしなかったのである。親愛なるユダヤ人殿。おさらばだ。あなたは自分の先祖たちとともに眠っているが、あなたの子孫は今なお地上を放浪する、さまよえる民族である。おさらばだ。あなたと私にはもう何の縁もない。悲しいかな! みじめで哀れな人。あなたのつまずきだったキリストは、あなたの《審き主》となり、あなたの頭上には、あの声高な呪いが貼り付いていることだろう。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」[マタ27:25]。しかし私は、ここエクセター公会堂にも、このユダヤ人殿を見いだすはずである。――このユダヤ人についての説明があてはまる人々――イエス・キリストがつまずきとなっている人々を見いだすはずである。ここで、あなた自身をあなたに――あなたがたのうちの何人かに――紹介させてほしい。あなたも敬虔な家柄の出ではないだろうか? しかり。また、あなたにも、自分の愛する宗教がある。――その外殻、外見、外観、外皮に関する限り、あなたはそれを愛している。あなたは、たとえ全世界と引き替えにしようと、その典礼法規の一言たりとも変更を許さず、その愛すべき迫持の1つたりとも取り壊されることを許さず、極彩色の聖画がきらめく硝子窓の一枚たりとも外されることを許そうとはしない。また、そうした事がらを一言でも悪く云う人がいれば、たちまちその人を異端者呼ばわりしようとする。あるいは、ことによるとあなたは礼拝所などという場所には行かないかもしれない。だがあなたは、あなたの先祖たちが礼拝していた、どこかの質素な古い集会所、いわゆる非国教徒の会堂を愛している。あゝ、それは美しい簡素な場所である。あなたはそれを愛し、その種々の典礼を愛している。その外観を愛している。だれかがその場所を悪く云おうものなら、何と腹立たしく感ずることか? あなたは、そこで行なわれていることが、どこでも行なわれるべきだと考えている。実際、あなたの教会こそ模範的な教会なのである。あなたが通っているような所こそ、あらゆる人が集うべき種類の場所にほかならないのである。そして、もし私が、あなたにはなぜ天国に行ける希望があるのですか、と尋ねたら、あなたはこう云うかもしれない。「私はバプテストだからです」、とか、「私は監督派だからです」、とか、それ以外のいずれかの教派の一員だからです、と。それがあなたである。私は、イエス・キリストがあなたにとってつまずきであることを知っている。もし私がやって来て、あなたがいくら神の家に通っても何にもなりませんよ、と告げたとしたらどうであろう。もし私が、これまであなたがさんざん歌ったり祈ったりしてきた時間はみな、神の御前では無に等しいのですよ。あなたは、偽善者で形式主義者なのですから、と告げたとしたらどうであろう。もし私が、あなたの心は神に対して正しくありません。心が正しくない限り、いくら外的なことをしても何の役にも立ちませんよ、と告げたとしたら、あなたが何と云うかはわかりきっている。――「あんな若僧の話など二度と聞くものか」。それはつまずきなのである。もしあなたが、形式主義を持ち上げるような話の聞ける場所に足を踏み入れていたとしたら、――もしあなたが、「これをしなくてはならない、あれをしなくてはならない、そうすればあなたも救われるであろう」、などと教えられていたとしたら、――あなたは一も二もなくそれに賛成していたであろう。しかし、この場にいる途方もない数の人々は、外面上はきわめて宗教的で、非の打ち所のない性格に見えながら、人を新生させる聖霊の影響を一度も受けたことがない。カルバリの十字架の前で一度も這いつくばったことがない。そこにいる十字架につけられた《救い主》に、一度として切なるまなざしを向けたことがない。人の子らのためにほふられたお方に、一度もその信頼を置いたことがない。彼らが愛しているのは薄っぺらなキリスト教信仰である。だが、それよりも深いことが語られると、お説教はたくさんだ、と非難するのである。あなたは、キリスト教信仰に関わる外的なものをすべて愛しているかもしれない。だがそれは、人を、その着ている服でだけ愛し、相手自身には全く気を遣わないようなものであろう。その場合、あなたが福音を拒絶する人々のひとりであることは明らかである。あなたは私が説教するのを聞こうとするであろう。私が外的な物事について語っている間は、注意深く耳を傾けるであろう。私が道徳について訴え、酩酊に反対し、安息日を破ることがいかに憎むべきことかを示している間は、何の問題もないであろう。だが、いったん私が、「あなたがたも、回心して子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」*[マタ18:3]、と云うと、――あなたは神から選ばれていなくてはならない、と云うと、――あなたは聖霊によって回心させられなくてはならない、と告げると、――あなたは云うであろう。「こんな奴は狂信者だ! 除け、除け! そんな話は我慢がならん」、と。十字架につけられたキリストは、ユダヤ人――儀式尊重主義者――にとってつまずきなのである。

 しかし、このユダヤ人には、別の見本も見受けられる。その人は、その意見において徹底して正統的である。形式や儀式のことはどうでもよい。その人は、健全な教理を学べる礼拝所に通う。真実以外の何も聞こうとはしない。人々が良い行ないと道徳を有することを好む。善良な人で、だれも後ろ指をさせない。ここにも、その人はいる。日曜日には欠かさず自分の会衆席につく。取引における正直さでは、いかなる点でも人後に落ちない――と想像される。何かの教理について尋ねられれば、それについて長々と論考を聞かせることができる。実際その人は、書こうと思えば聖書の中の何についても――そしてそれ以外のきわめて多くのことについて――小論文を書けるほどである。その人は、ほとんど何でも知っている。そして、ここ、その頭脳の暗い屋根裏に、その人のキリスト教信仰は居を定めている。その人の最良の客間はずっと下った心の中にあるのだが、その人のキリスト教信仰は決してそこに行くことはない。――それは閉め出されているのである。そこにその人は金銭を――富と世俗性を――入れている。あるいは他の何かを――自己愛や高慢を――入れている。もしかするとその人も、体験的な説教を聞くことが愛しているかもしれない。その人は、それをことごとく賞賛する。事実、健全なものなら何でも愛している。しかし、それでいながらその人は、自分の内側に何1つ健全なものを有していない。あるいは、すべてが健全でありながら、何の実質もない。その人は真実な教理を聞くのを好むが、それは決してその人の内なる人を刺し貫くことがない。その人は、人に涙を見せたことがない。十字架につけられたキリストという栄光に富む主題をその人に向かって説教しても、決してその頬を涙が流れ落ちることはない。聖霊の大いなる影響力についてその人に告げてみるがいい。――その人はあなたを賞賛するが、決してその魂が聖霊の御手で扱われることはない。神との交わりについて、《神格》の最深海に没入することについて、その広大無辺さに呑み込まれることについて告げてみるがいい。――その人は、それを聞くのを愛しているが、決してそれを経験することがなく、決してキリストと交わりを持つことはない。従って、いったんあなたが心の奥底に突き入り、その人を俎上に上げ、あなたの手術刀を取って、その人を切り開き、その人自身の心を示し、それが生来いかなるものであるか、それが恵みによっていかなるものにならなくてはならないかを見せ始めると、――その人は飛びすさり、それに耐えることができない。そのようなことを全く欲さない。――心でキリストを受け入れ、受けとめるなどということを欲さない。頭では十分に愛してはいながら、それはその人にとってつまずきであり、それをその人は退けるのである。愛する方々。あなたはここに自分自身が見えるだろうか? 他の人々があなたを見ているように、あなた自身を見ているだろうか? 神があなたをごらんになっているように、あなた自身を見ているだろうか? というのも、もしそうするなら、ここにいる多くの人々は、古の人々にとってキリストがつまずきであったのと同じく、キリストをつまずきとしているからである。おゝ、あなたがた形式主義者よ! 私はあなたに云おう。おゝ、あなたがた、殻は食べても、実を忌み嫌う者よ。おゝ、あなたがた、衣装や装束は好んでも、それを身にまとった美しいおとめの方は一顧だにしない者よ。おゝ、あなたがた、上塗りやめっきは賞賛しても、純金を忌み嫌う者よ。私はあなたに云おう。あなたに尋ねよう。あなたのキリスト教信仰は、盤石の慰めをあなたに与えているだろうか? あなたは真っ向から死に直面して、「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」*、と云えるだろうか[ヨブ19:25]? あなたは夜に目を閉じて、自分の夕べの祈りとしてこう歌えるだろうか?

   「われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば」。

あなたは苦しみゆえに神をほめたたえることができるだろうか? あらゆる試練が奔流のように押し寄せているとして、その中に飛び込み、泳ぎ渡ることができるだろうか? 獅子の穴の中を勝ち誇って行進し、患難を笑い飛ばし、地獄に公然と挑戦できるだろうか? そうできるだろうか? 否! あなたの福音はへなへなしたものである。口先だけの空威張りで、力あるものではない。私はあなたに願う。そのようなものを振り捨てるがいい。そのようなものは持つ値打ちがない。そして、神の御座の前に出るとき、あなたはそれがあなたを裏切ることに気づくであろう。そして、そのように裏切られたあなたは、かわりのものを何1つ見いだせないであろう。というのも、失われ、滅びに至り、破滅したあなたは、今は「つまずき」となっているキリストが、あなたの《審き主》であることに気づくはずだからである。

 私はユダヤ人を見いだした。では今からギリシヤ人を発見しなくてはならない。それは、ユダヤ人とは全く異なる様子をした人である。その人にとって経札は、まるでくだらないことである。衣の長いふさは見下げ果てたことである。その人は、宗教の種々の形式にはこだわらない。実際、つば広の帽子だの、見せびらかしになるようなあらゆることには、強い嫌悪の情を催す。その人は雄弁を高く評価する。巧みな云い回しを賞賛する。奇抜な表現を愛する。最新刊書を読むのを好む。その人は一個のギリシヤ人であって、その人にとって福音は愚かである。ギリシヤ人とは、近頃はほとんどの場所で見いだされる紳士である。大学でも製造されることがあるが、大学院では絶えず造られつつあり、あらゆる場所で生み出されている。証券取引所におり、市場におり、店を営み、馬車を乗り回し、貴族であり、紳士であり、どこにでもおり、宮廷にすらいる。その人は博覧強記の人である。何を尋ねても知らないことはない。古代の詩人やだれかれの引用をしてみるように云えば、それが口をついて出てくる。もしあなたがイスラム教徒で、自分の信仰の主張を訴えるとしたら、その人は忍耐強くあなたに耳を傾けるであろう。しかしもしあなたがキリスト者で、イエス・キリストについて語りかけるとしたら、その人は云う。「お説教はよしてくれ。そんな話を聞かされるのは真っ平だ」、と。このギリシヤ紳士はあらゆる哲学を信じているが、真の哲学だけは信じない。あらゆる知恵を学んでいるが、神の知恵だけは学ばない。あらゆる知識を追求するが、霊的な知識だけは求めない。あらゆるものを愛しているが、神がよしと認めるものだけは愛さない。人間の作り出したあらゆるものを好むが、神から出たものは何1つ好まない。それはその人にとって愚かなのである。途轍もなく愚かなのである。あなたが1つでも聖書の教理を語ったが最後、その人は耳を閉ざしてしまう。もはやあなたと一緒にいたくないと思う。それは愚かなのである。私はこうした紳士に何度も何度も出会ってきた。一度そうした人に会ったとき、その人は私に、自分は全く何の宗教も信じないと云った。そして私が、自分には信仰があるので、死ぬときには天国に行ける望みがありますよ、と云うとその人は、それは非常に心慰められることとは云えようが、自分は宗教を信じないし、自然の命ずるがままに生きていくのが最善だと確信している、と云った。それとは別の折に、そうした人はあらゆる宗教をほめそやし、宗教というものはそれなりに非常に良いものであり、すべてが真実だと信ずる、と云っていた。その人は、いかなる種類の宗教であれ、人が真摯でありさえすれば、結局すべては問題なくなることに何の疑いも持っていなかった。私はその人に、自分はそうは思わない、神によって啓示された宗教は1つしかない、――神の選民の宗教、イエスの賜物である宗教は1つしかないと自分は信ずる、と語った。するとその人は、あなたは心が狭いですよ、と云い、さようなら、と行ってしまった。その人にとってそれは愚かだったのである。私はお話にならなかったのである。こうした人は、何の宗教も好まないか、あらゆる宗教を好むかのどちらかである。別のとき私はその人の外套釦をつかんで、信仰について少々論じ合った。その人は云った。「それはみな、とても良いことですね。それは真のプロテスタントの教理だと信じますよ」。しかし、すぐに私が予定について何か云うと、その人は云った。「それは好きではありません。多くの人はそれを説教して、ひどいことになったんですよ」。それで私が無代価の恵みについて二言三言口にすると、その人はそれに我慢がならなかった。それはその人にとって愚かだったのである。その人は、洗練されたギリシヤ人で、自分が選ばれていないとしたら間違いだと考えていた。その人は決してこの箇所を好まなかった。「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」[Iコリ1:27]。その人は、これが聖書の信用を非常に落としていると考えていた。そして、聖書が改訂されるときには、そこが削除されるに違いないと信じていた。そのような人に向かって――というのも、そうした人は今朝、まず間違いなく、この風に揺れる葦[マタ11:7]を聞きに来ているだろうからである――私はこう云わなくてはならない。あゝ! 俗界の知恵に満ちた賢い人よ。あなたの知恵は、ここではあなたを立たせているであろう。だが、ヨルダンの川がいっぱいに溢れるとき、あなたはどうしようというのか? 哲学は、あなたがこの世を歩いている間は十分頼りにできるかもしれないが、その川は深く、あなたにはそれ以上のものが必要となるであろう。もしあなたが、その大水の中で、いと高き方の御腕に支えられることも、約束によって励まされることもなければ、あなたは沈むに決まっている。人よ。あなたにいくら哲学があろうと、あなたは沈むであろう。いかに知識があろうと、沈んでいき、永遠の苦しみという、すさまじい大海へと押し流されていくに決まっている。そこにあなたは、未来永劫とどまることになるのである。あゝ! ギリシヤ人よ。これはあなたにとって愚かかもしれないが、あなたは《このお方》が自分の《審き主》であることをやがて見てとるであろう。そしてそのとき、かつての自分が、神の福音など愚かであると云った日のことを悔やむはずである。

 II. さて、ここまでは福音が拒絶されることについて語ってきたが、これからは手短に、《福音が勝利する》ことについて語りたいと思う。「ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」。そこにいる人は、福音を拒絶し、恵みを蔑み、それを迷妄だとして笑い飛ばしている。ここにもそれを笑い飛ばしている別の人がいる。だが神は、その人をとらえて膝まづかせるであろう。神は云われた。「わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」[イザ55:11]。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」[イザ53:11]。たとえある罪人が救われないとしても、別の罪人は救われるであろう。ユダヤ人とギリシヤ人は決して天国の住民を減らしはしない。栄光の聖歌隊は、ユダヤ人やギリシヤ人のあらゆる反抗によっても、その歌い手をひとりたりとも失わない。というのも、神がそう云われたからである。ある者は救われる。ある者は救い出される、と。

   「滅びよ。神に 忌まるるべき徳も、
    己の主をば 侮る愚者も。
    愛の主により なされし救い
    汝がものならず――義人に要らず。

    見るや 道行くひと誘う遊女の
    醜くやつれ 街に立ち
    朝な夕なに 夕な朝なに
    汝が蔑むと同じほど 己を忌むを。

    恵みの雨は 大滝となり
    彼女に注ぐも 汝を拒めり。
    知恵の精華は かく告げり、
    ひと罪に死に いのちは賜物なりと」。

たとえ義人や善人が救われず、福音を拒絶するとしても、他の者たちは召され、救い出されるはずである。というのも、キリストはご自分の苦しみの功績をも、ご自分の血で買い取った者たちをも失うことがないからである。

 「召された者にとっては」。私は今週、「召された」という言葉を説明してほしいという短信を受け取った。なぜなら、ある箇所では、「招待される[召される]者は多いが、選ばれる者は少ない」[マタ22:14]、と云われているのに、別の箇所では、召された者はみな選ばれているに違いないかのように見えるからである。さて、召しには2つあると述べさせてほしい。私の古き友ジョン・バニヤンが云うように、「めんどりは、2つの呼び方をする。普通の呼び声は、日がな刻々と聞こえる。だが、特別な呼び声は、自分のひなを呼び寄せるときだけしか出さない」。そのように、ある召しは一般的な召しで、あらゆる人に対してなされる。あらゆる人がそれを耳にする。多くの人々はこれによって召される。あなたがたはみな、今朝その意味で召されているが、ごく僅かな人々しか選ばれてはいない。もう1つは特別な召し、子どもたちに対する召しである。知っての通り、職場で鳴る鐘は、人々を召して働きにつかせる。――それは一般的な召しである。だが父親は扉の所に行って、「ジョン、夕食の時間だよ」、と呼ばわるではないだろうか。――それは特別な召しである。多くの人々は一般的な召しによって招かれるが、彼らは選ばれていない。特別な召しは子どもたちだけのためのものであり、それこそ、この聖句で意味されていることである。「ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」。その召しは常に特別なものである。私がここに立って人々を召しても、だれひとり来はしない。あまねく罪人たちに説教しても、何の善も施されない。それは、夏の夜の雲間に閃く、無音の雷光のようである。美しく、壮麗だが、それによって打たれた物があるなどと聞いた人がいるだろうか? しかし、特別な召しは天からの稲妻である。それはどこかに落ちる。それは胸当てと草摺の間を射抜く矢である[II歴18:33]。人を救う召しは、イエスが、「マリヤ」とお呼びになり、彼女が、「ラボニ」と答えたときの召しに似ている[ヨハ20:16]。私の愛する方々。あなたはその特別な召しについて少しでも知っているだろうか? イエスはあなたの名を呼んで召したことがあるだろうか? あなたは、彼があなたの名をあなたの耳に囁き、「わたしのところに来なさい」、と云われた時のことを思い起こせるだろうか? もしそうなら、あなたは私が、それについて次に云うことを正しいと認めるであろう。――すなわち、それは有効な召しである。そこには、いかなる反抗の余地もない。神がその特別な召しによってお招きになるとき、いかなる者も抵抗できない。あゝ! 私は自分がキリスト教信仰を笑い飛ばしていたことを知っている。私はそれを蔑んでいた。忌み嫌っていた。だが、その召しが来た! おゝ、私は行きたくなかった。しかし、神は云われた。「あなたは来なくてはならない。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来るのだ」[ヨハ6:37参照]。「主よ。行きたくありません」。「しかし、あなたは来なくてはならない」、と神は云われた。そこで私は教会に行った。何も聞くものかという決意をもって行ったことすらあった。だが、聞かずにはいられなかった。おゝ! そのことばがいかに私の魂のもとに来たことか! そこに抵抗する力などあっただろうか? 否。私は投げつけられた。あらゆる骨が砕かれたように思えた。私は有効な恵みによって救われた。愛する方々。私はあなたの経験に訴えたい。神があなたの手をお取りになったとき、あなたは神に抵抗できただろうか? あなたは、自分の教役者に何度も逆らってきた。病にも屈さなかった。病気もあなたを神の御足のもとに連れて行かなかった。雄弁もあなたを確信させなかった。だが神が御手をもって働き始めたとき、あゝ! いかなる変化が起こったことか。馬に乗ってダマスコヘ向かっていたサウロのように、天からのその声は云った。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」*[使9:4-5]。それからは、決して先に進めなかった。それは有効な召しであった。また、やはり同じような召しでイエスは木に上ったザアカイを招かれた。「ザアカイ。降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」*[ルカ19:5]。ザアカイは網にかかった。自分の名を聞いた。その召しは彼の魂にしみ通った。木の上にとどまっていることはできなかった。というのも、《全能の》衝撃が彼を引き下ろしたからである。また私は、神の家に来て異様な経験をした人々の例を語ることができよう。そのとき彼らは、自分の性格が寸分違わずにまざまざと描き出されるのを聞き、こう云った。「この先生を私のことを云っているのだ。私のことを云っているのだ」。主人の手袋を昨日盗んだその若者に私が語りかけているであろう、まさにそのとき、イエスは彼を悔い改めに召しておられる。この場にも、そうした人がいるであろう。そして、その召しがある特定の人のもとにやって来るとき、普通それは特別な力をもってやって来る。神はその人の教役者に絵筆を与えて、それをいかに用いて――肖像画のように――写生すべきかを示される。そして、このようにしてその罪人は特別な召しを聞くのである。私が特別な召しを与えることはできない。神だけがお与えになることができ、私はそれを神におまかせする。ある人々は召されるに違いない。ユダヤ人やギリシヤ人は笑うであろうが、それでもそこには、ユダヤ人であれギリシヤ人であれ、召される者らがいるのである。

 さて、この第二の点のしめくくりにあたって、大いなるあわれみなのは、多くのユダヤ人が、自分を義とする思いを捨てさせられてきた、ということである。多くの律法主義者が、その律法主義を捨ててキリストのもとにやって来ているし、多くのギリシヤ人が、自分の天稟を神の福音の御座の前にひれ伏させている。私たちの間には、多少ともそのような者らがいる。クーパーが云うように、

   「われらは誇る。福音に打たれし富者を、
    また、宝冠つけつつ祈る者を。
    橄欖の きらめきに似て 彼らは見せん、
    高き梢の いくばくかの実りを」。

 III. さて、第三の点は、《福音は賞賛される》、ということである。神に召された私たちにとって、それは神の力、神の知恵なのである。さて愛する方々。これは、あなたの魂と神との間の、純然たる経験の問題でなくてはならない。もし今朝あなたが神から召されているとしたら、あなたにはそれがわかるであろう。むろん私も、キリスト者がこう云わざるをえない時があることは承知している。

   「こは わが切に知らんと欲し、
    しばしば不安をかき立てしこと。
    われ主を愛すか さにあらざるか、
    われ主のものなるか、さにあらざるか」。

しかし、もしある人が一生の間、一度も自分がキリスト者であるとわからないとしたら、その人は決してキリスト者ではない。もしも一瞬たりとも確信を感ずることがなく、一度も、「今や私は、自分がどなたを信じているか知っています」、と云うことがないとしたら、こう云っても残酷ではないと思う。その人が新しく生まれていることなど、絶対にありえない、と。というのも私は、人が新しく生まれていながら、それがわからないなどということが、どうしてありえるのか理解できないからである。人が殺された後でよみがえったならば、どうしてそれがわからないなどということがありえようか。死からいのちへ移っていながら、それがわからないなどということがどうしてありえようか。暗闇から素晴らしい光の中に至らされていながら、どうしてそれを知らずにいるなどということがありえようか。私がこの古い詩句を高らかに歌うとき、確かに私にはそれがわかっているのである。

   「罪より放たれ 安けく歩まん
    主の血ぞ われの自由の証し
    御足のもとに われくつろぎて
    かつての咎びと 永久に仕えん」。

目が喜びに潤む瞬間がある。そして私たちは云うことができる。「私たちは確信しており、自信があり、確かである」。私は、いま疑いに陥っているいかなる人をも落胆させたいとは思わない。しばしば陰鬱な疑いが猛威を振るうことはある。自分は召されていなかったのではないか、と恐れる時期がある。キリストに自分があずかっていることが疑わしく思われるときがある。あゝ! これは何というあわれみであろう! あなたを救うのが、あなたがキリストをつかんでいるか否かではなく、キリストがあなたをつかんでおられることにかかっているというのは! 何と甘やかな事実であろう。あなたがいかにキリストの御手をつかんでいるかではなく、キリストがあなたの手をつかんでおられることによって、あなたが救われるというのは。だが私が思うに、あなたもいつかは――何らかの折には――自分が神から召されていることを知っているべきである。もしそうなら、あなたは私の講話の次の部分についてこれるであろう。それは、純然たる経験の問題である。すなわち、救われた私たちにとって、「キリストは神の力、神の知恵なのです」。

 福音は、真の信仰者にとって、力あるものである。キリストこそ神の力である。しかり。神の福音のうちには、あらゆる描写を越えた力がある。かつての私は、[コサックの頭目]マゼッパのように、情欲という暴れ馬にくくりつけられ、手足を縛られ、何の抵抗もできずに、野を駆けていた。地獄の狼どもがその後を追いながら、私のからだと魂を、しかるべき正当な餌食として求めながら吠え猛っていた。そこに1つの強大な一団がやって来て、その暴れ馬を止め、私の手縄を切り、私を下ろし、私を自由にしてくれた。さて、ここには力があるではないだろうか? しかり。そこには力がある。そして、それを感じた者はそれを認めるに違いない。かつては私も、自分のもろもろの罪という古く強大な城塞に住み、自分の行ないによりかかっていた時があった。その城門にひとりの喇叭手がやって来て、開門を命じたのである。私は怒って張り出し門の上から彼を叱りつけ、お前など絶対に入らせるものかと云った。そこに、ひとりの慈愛に富んだ顔つきの立派な人物がやって来た。その両手には、釘を突き通した傷の跡があり、その両足にも釘の跡があった。その人は、自分の十字架を持ち上げると、それを大槌のように用いた。最初の一撃で私の偏見の門扉は揺れ動いた。二撃めでそれはさらに震え、三度目には崩れ落ちて、その人が中に入って来た。そして云った。「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしはあなたを永遠の愛で愛したのだから」。力あるもの! あゝ! それは力あるものである。私はそれをここで、この心で感じている。私の内側には御霊の証しがあり、それが実力あるものであることを知っている。なぜなら、それは私を征服したからである。それは私をひれ伏させた。

   「価なき 主の恵みのみ わが愛を
    先から末までかちとりて 堅く魂保つなり」。

福音は、キリスト者にとって力あるものである。神の国の進展のために、宣教師として青年を献身させ、父と母を離れさせ、遠国へ赴かせるものは何だろうか? そうするのは、力あるものである。――福音である。そこにいる教役者をして、虎列剌の真っ直中でも、がたぴしいう階段を上らせて、その猛烈な病気にかかって死にかけている人の病床のかたわらに立たせるものは何だろうか? それは、その人に自分の命をかけさせる力あるものに違いない。その人にそうするよう命じているのは、キリストの十字架の愛である。ひとりの人をして、その同胞の大群衆の前に立たせることができるもの、たとえ何の準備もしていなくとも、十字架につけられたキリストのほか何も語るまいと決意させるものは何だろうか? ヨブ記にいう戦いに臨んだ軍馬のように、その人にいななかせ、赫々たる働きをさせるものは何だろうか? そうするものは力あるものである。――十字架につけられたキリストである。そして、あの臆病な女性を大胆にし、じめついた夕べに暗い路地を歩ませては、伝染性の熱病の犠牲者を訪ねさせ、そのそばに座らせるものは何だろうか? 何が彼女に、盗人どもの住みかを通り抜けさせ、放蕩者や俗悪な者らを通り過ごさせる強さを与えているのだろうか? 何が彼女に影響して、その死の納骨堂に入らせ、そこに座って慰めの言葉を囁かせているのだろうか? 黄金がそうさせているのだろうか? 彼らは貧しすぎて黄金を与えることなどできない。名声がそうさせているのだろうか? 彼女は決して人に知られることなどなく、この地上の傑出した婦人たちの間に名を記されることなどない。何が彼女にそうさせているのだろうか? 利得に対する愛だろうか? 否。彼女は、自分が高き天の前には何の報いも受けないことを承知している。何が彼女を突き動かしているのだろうか? それは彼女の心に及ぼされている福音の力である。キリストの十字架である。彼女はそれを愛している。それゆえ彼女は云うのである。――

   「あめつち全土(すべて) わがものなるとも
    そは げに小(ち)さき 贈物(ささげもの)なり。
    驚くばかりの この主の愛の
    求むは わが魂(たま)、命と、すべて」。

しかし私には別の場面も目に映る。ひとりの殉教者が火刑柱のもとへ引っ立てられている。鉾槍を持った兵士たちが取り囲み、群衆はあざ笑っている。だが、その人はしっかりと歩を進め続ける。見るがいい。彼らはその人の胴体の真ん中を鎖で火刑柱に縛りつける。その人の周囲に薪束を積み上げる。炎がつけられる。その人の言葉を聞くがいい。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」[詩103:1]。炎はその人の足のあたりに燃え上がっている。火が骨に達するまでその人を焼いている。その人が手を上げてこう云うのを見るがいい。「私は知っている。私を贖う方は生きておられる。火が、このからだを滅ぼそうとも、私は、私の肉から主を見る」*[ヨブ19:25-26]。見るがいい。その人が火刑柱をしっかと掴み、それを愛しているかのように口づけするのを。また、こう云うのを聞くがいい。「人から縛られる鎖の一本ごとに、神は私に黄金の鎖を与えてくださる。この薪束の1つ1つごとに、またこの不名誉と恥辱のゆえに、神は私の永遠の栄光の重みを増してくださる」。見よ。その人の下半身はことごとく焼き尽くされてしまっている。それでもその人はその苦悶の中で生きている。ついに、頭を垂れると、上半身が前に崩れる。そして、身を伏せるその人から、このような声が聞こえる。「わが霊を御手にゆだねます」。方々。いかなる驚異的な魔術がその人にかかっていたのだろうか? 何がその人を強くしたのだろうか? 何がその人を助けて、そのむごたらしさに耐えさせたのだろうか? 何がその人を炎の中でも泰然とさせていたのだろうか? それは力あるものであった。十字架につけられたキリストの十字架であった。というのも、「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵」だからである。

 しかし、別の場面を見るがいい。そこには何の群衆もいない。静かな部屋である。粗末な寝床と、わびしい寝台がある。かたわらに医者が立っている。そこにひとりの少女がいる。肺病のために青白い顔をしている。すでに長い間やせこけた頬をしており、時折そこに赤みがさしても、それはこの欺きがちな病魔による死の赤みである。そこに彼女は青ざめたまま、ぐったりし、やつれて、死にかけている。だが、彼女の顔に浮かぶ微笑みを見るがいい。あたかも天使を目にしたかのようである。彼女が語ると、その声音には音楽が響いている。古のジャンヌ・ダルクでさえ、この少女の半分も強くはなかった。彼女は、その死の床で龍と格闘している。だが彼女の落ち着き払った様子を見るがいい。彼女の死の詩を聞くがいい。

   「わが魂を 愛するイエスよ
    飛ばせ給え われを御胸に。
    わが近くで わたつみのうねり
    なおも風雨の猛るとき
    かくまい給え 救いのきみよ
    生のあらしの過ぎ去る日まで。
    無事に港へ導き給え。
    おゝ、遂にはわが魂を受け入れ給え」。

そして、微笑みとともに彼女が地上で目を閉じると、天国で目を開くのである。何が彼女にこのような死に方をさせられるのだろうか? それは救いを得させる神の力である。十字架である。十字架につけられたキリストである。

 残された僅かな時間では、他の点について講ずることはできない。だらだら引き延ばした長たらしい説教であなたを飽き飽きさせることは決して私の本意ではない。だが、一瞥なりとも、もう1つの言葉を眺めておかなくてはならない。キリストは、召された者らにとっては、神の力であると同様、神の知恵である。信仰者にとって福音は、知恵のきわみであり、たとえ不敬虔な者らにそうは見えなくとも、それは堕落によって歪まされた彼らの判断力のせいである。

 一般大衆の精神を長年とらえている1つの考えによると、宗教的な人間はめったに賢い人ではないという。常々、不信心者や、無神論者や、理紳論者のことは、深い思想と広大な知性の持ち主として語られている。そして、キリスト者の論争家は、まるで敵の手で倒されるのが確実であるかのように、震え上がっているのが常である。しかし、これは純然たる間違いである。というのも、福音は知恵の精髄だからである。知識の粋、真理の宝庫、数々の神秘的な秘密の啓示だからである。そこに私たちが見てとるのは、いかに正義とあわれみが結ばれうるかである。そこに眺められるのは、いかなる容赦もないはずの律法が完全に満足させられ、主権の愛が勝利のうちに罪人を奪い取っている姿である。それについて瞑想することで精神は広げられる。そして、矢継ぎ早に閃く栄光の光とともに、それが魂に開かれていくにつれて私たちは、そこに明らかにされている深遠な知恵に唖然とさせられてしまう。あゝ、愛する方々! もしあなたが知恵を求めているとしたら、あなたはそれが、そのすべての偉大さをもって歴然と示されているのを見てとるに違いない。それは、積み重なり合う雲のうちにではなく、地の基の堅固さのうちにでもなく、――空の軍隊の整然たる行進のうちにではなく、海の波浪の間断ない動きのうちにでもなく、植物の華やかで美しい姿のうちにでもなく、驚異的な神経組織や、血管や、腱を有する動物たちのうちにでもなく、否、《創造主》の最後の、そして《至高の》作品である人間のうちにすらない。しかし目を転じて、この大いなる光景を見るがいい!――十字架上の受肉した神を。定命の者らの咎のためなされた身代わりの贖いを。天の復讐を満足させつつあるいけにえを。そして、反逆した罪人の解放を。ここには絶対的な知恵がある。王位に着き、王冠を戴き、栄光を与えられた知恵がある。あなたがた地の人々よ。盲目でなければ賞賛するがいい。そして、あなたがた自分の知識を誇りとする者どもよ。崇敬とともに頭を垂れて、自分の技巧のすべてをもってしても、これほど神にとって正しく、これほど人にとって安らかな福音をこしらえることはできなかったと認めるがいい。

 愛する方々。覚えておくがいい。福音は、それそのものが知恵である一方、それを学ぼうとする者らに知恵を授けもする。福音は若者に知恵と思慮を与え、わきまえのない者に悟りを与える。信仰をもってイエスにある真理を賞賛し、それを心から愛する者は、他のいかなる科学の分野においても、それを人より有利に追求できる正しい位置についているのである。告白するが、私はいま自分の頭の中に1つの棚を持っており、自分の読むあらゆるものをどこに置くべきかこころえている。何を学ぼうと、それをどこに納めればいいかこころえている。かつての私は、本を読むと、自分のあらゆる知識をまるでごちゃ混ぜにしておいたものである。だがキリストを知ってからの私は、キリストを私の太陽として中心に置き、その周りでそれぞれの科学を惑星のように回転させ、より劣る科学をそうした惑星の衛星にしている。キリストは私にとって神の知恵である。私は今あらゆることを学ぶことができる。十字架につけられたキリストという科学は、科学の中で最も卓越したものであり、それは私にとって神の知恵なのである。おゝ、若者よ。あなたの書斎をカルバリの上に築くがいい! そこにあなたの観測所を建て、信仰によって天地の高遠な事物を調査するがいい。ゲツセマネの園の中に隠者の独房を設け、あなたの顔をシロアムの水で洗うがいい。聖書をあなたの規範的な権威書とするがいい。――論争のある問題における、あなたの最終的典拠とするがいい。その光をあなたの照明とすれば、あなたはプラトンよりも賢くなるはずである。古代の七賢人より真に博識な者となるはずである。

 さて、私の愛する方々。ここで私は厳粛に、また熱心に、神の御前であるかのように、あなたに訴えたい。あなたがたが今朝ここに種々雑多な動機から集っていることは承知している。あなたがたの中のある人々は、好奇心から集っている。他の人々は、毎週決まって私の話を聞きに来ている。ある人々は1つの場所から、そうでない人々は別の場所から来ている。今朝あなたは、私が何と云うのを聞いただろうか? 私はあなたに、キリストを拒絶する2つの種別の人々について語った。形式以外の何物でもない宗教を有する宗教家と、私たちの福音を愚かと呼ぶこの世の人である。さて、胸に手を当てて今朝、自分に問いかけてほしい。「私は、そうした人々のひとりではないだろうか?」、と。もしそうなら、自信満々に地を歩むがいい。そして、ここに入って来たときと同じあなたのまま出て行くがいい。だが、こうしたすべてのことのゆえに、主があなたを審くことになると知るがいい。あなたの喜びも楽しみも夢のように消え去り、「基なき、まぼろしの伽藍のごとく」永遠に吹き払われることを知るがいい。さらに、おゝ、人よ。ことによると私が、いつの日か、地獄の奥底のサタンの数ある広間の中で、あなたを見いだすことになるかもしれないと知るがいい。そこではおびただしい数の霊たちが、胸に手を当てながら、永劫にぐるぐる回り続けているであろう。もしあなたの手が透明で、あなたの肉が透明であれば、私はあなたの手と肉を透かして、内側にあるあなたの心が見えるであろう。では、それはいかに見えるだろうか? それは、火の枠の中に置かれているではないか。――火の枠の中に。そして、そこであなたは永遠に回り続ける。あなたの心の内側は、尽きることのないうじ虫に喰われ続ける。――決して死ねない、永遠に苦しみ続けるあなたの心の周囲には火の枠がある。善なる神よ! この人々をして、なおもキリストを拒絶し、蔑むことのないようにさせ給え! むしろ、今この時を、彼らの召される時となさせ給え。

 いま召されている、あなたがた残りの人々に対して、私は何も云う必要はない。あなたは、長く生きれば生きるほど、福音が力強いものであることを見いだすであろう。キリストによって深く教えられれば教えられるほど、聖霊の絶えざる影響のもとで生きるようになり、福音が力あるものであることを知るようになり、それが知恵あるものであることを理解するようになるであろう。願わくは、あらゆる祝福があなたがたの上にとどまるように。そして、夕方にも神が私たちと一緒に来てくださるように!

   「よし人や 御使いたちが 地を掘りて
    金の宝庫を 輝かすとも
    十字架の教えに 寄せぬれば
    いかなる黄金も 金滓(かなくず)と見ゆ。

    神けがす 悪人ばらが 蔑みて
    イエスの真理を 切り捨つとも
    われらは恥も 名折れも恐れず
    主の御名により 歌い 勝ち得ん」。

十字架につけられたキリスト[了]

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