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霊的苦難に応じた慰め

NO. 13

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1855年3月11日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」。――IIコリ1:5


 あなたは、自分の苦悩からの憩いを求めているだろうか? あなたがた、災いと悲しみの子らよ。ここは、あなたがその重荷を降ろし、その心労から逃れられる場所である。おゝ、患難と悲惨の子らよ。あなたは、ひとときの間、自分の痛みと悲嘆を忘れたいと願っているだろうか? ここはベテスダである。あわれみの家である。ここは、神があなたを元気づけ、決してやまないあなたの苦悩を押しとどめるために設けられた場所である。神の子どもたちが好んでいたがる所である。なぜなら、ここで彼らは艱難の最中にあっても慰めを、悲しみの中にあっても喜びを、患難の中にあっても慰安を見いだすからである。世俗的な人々ですら、この聖書には、また私たちの聖なるキリスト教信仰には、きわめて慰めに満ちたものがあると認めている。私は、その何人かについて、このようなことさえ聞いたことがある。すなわち、そうした人々は、自らの論理によってキリスト教をなきものにし、それが真実でないことを証明した(と自分で考えた)後で、自分がこの上もなく慰めに満ちた妄想をぶちこわしにしてしまったことを認め、それが真実でないことをしみじみと考えて、ほとんど泣きそうになったと打ち明けているのである。確かに、愛する方々。もしそれが真実でないとしたら、泣いて当然であろう。もし聖書が神の真理でなく、――もし私たちが神の贖罪蓋の回りに寄り集まることができないとしたら、産婦のように腰に手を当てて[エレ30:6]、歩き回ってしかるべきである。もし世の中であなたが持ち合わせているものが、あなたの理性だけであり、地のはかない喜びだけであるとしたら、――もしあなたが神から何も与えられておらず、天空を越えたいかなる希望も、現世のものを越えたいかなる隠れ家も、地上的なものを越えたいかなる解放も有していないとしたら、あなたは泣いて当然であろう。――あゝ! 胸も張り裂け、目も腫らさんばかりに泣くがいい。とめどなく流す涙に身もやせ衰えるがいい。あなたは雲という雲が自分の頭上にとどまるように頼み、川という川が自分の目から流れ落ちるように頼むであろう。というのも、あなたの嘆きは「自然の生み出しうる、水から成るものすべてが必要」だからである[ジョージ・ハーバート]。しかし、神はほむべきかな。私たちには慰めがあり、聖霊による喜びがある[ロマ14:17]。それは、他のどこにも見いだせない。私たちは地上をくまなく捜したが、一粒も宝石を発見しなかった。この堆肥の山なす世界を一千回もひっくり返してみたが、いかなる尊い物も見いださなかった。だが、ここに、この聖書の中に、このほむべきイエスの信仰に、私たち神の子らは、慰めと喜びを見いだした。そして、心からこう云えるのである。「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれている」、と。

 本日の聖句には、私があなたの注意を引きたい4つのことが含まれている。第一のことは、予期すべき苦難である。――「私たちにキリストの苦難があふれている」。第二に、注目すべき区別である。――それらはキリストの苦難である。第三に、経験すべき釣合いである。――私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれている。そして、第四に、栄誉を帰すべきお方である。――「慰めもまた《キリスト》によってあふれている」。

 I. さて私たちの最初の区分は、《予期すべき苦難》である。私たちの聖なる使徒は、「私たちにキリストの苦難があふれている」、と云っている。私たちは、キリスト者の武具を身につける前に、自分に期待されている任務がいかなるものか知っておくべきである。しばしば募兵係軍曹は、どこかの物知らずな若者の手にシリング貨を握らせては、女王陛下の軍隊に入るのはいいことだぞ、君は単に赤く燃え立つ軍旗のもとで行ったり来たりしていさえすればいいのだ、辛い軍務など全くない、――事実、君はただ兵士になるだけでいいのだ、そして栄光めざして突き進めばいいのだ、と云う。しかし、キリスト者のしもべが十字架の兵士を徴募するときには、決して人をそのように欺きはしない。イエス・キリストご自身、「費用を計算せよ」、と云われた[ルカ14:28参照]。主が求めておられる弟子は、最後までやり抜く――「りっぱな兵士として苦しみをになう」*[IIテモ2:3]――心構えがないような者では決してない。私は時々、キリスト教信仰があまりにも誇張して描かれているのを聞いて、不愉快になることがある。確かに、「その道は楽しい道で」はあるが[箴3:17]、キリスト者が何の悲しみや困難も味わうことがないというのは真実ではない。確かに、屈託のない朗らかさや、足取りも軽い愛があれば、この世の中を、さほど大きな憂鬱や艱苦なしにくぐり抜けていくこともできよう。だが、キリスト教によって人が困難にさらされなくなるというのは真実ではない。事実、私たちはそのことについて、それとは違った云い方をすべきである。キリストの兵士よ、もしあなたが入隊するとしたら、あなたは激しい戦闘を行なわなくてはならないであろう。あなたは、羽根布団など持てず、戦車に乗って天国に乗りつけることなどありえない。でこぼこ道を踏みしめ、山々を攀じ登り、数々の川を渡渉し、何匹もの龍と戦い、何人もの巨人を打ち殺し、幾多の困難に打ち勝ち、大いなる試練を忍ばなくてはならない。それは天国への平坦な道ではない。嘘ではない。人々は、そこをほんの少し歩いただけで、それが荒れた道であることを見いだしてきたからである。それは喜ばしい道であり、世界中で最も楽しい道ではあるが、それ自体として容易な道ではない。それが喜ばしいのは、同伴する仲間たちのゆえであり、頼りにできる甘やかな約束の数々のゆえであり、私たちの《愛するお方》が、この広大な荒野に生い茂るあらゆる茨の薮の中を常に私たちとともに歩いてくださるがゆえである。キリスト者は困難を予期する。「あなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しまないようにしなさい」*[Iペテ4:12]。というのも、あなたが真に神の子どもである限り、あなたの《救い主》はあなたに、ご自分のものを受け継がせておられるからである。――「あなたがたは、世にあっては患難があるであろうが、わたしにあっては平安を持つであろう」*[ヨハ16:33]。もし私が何の困難も受けないとしたら、私は自分が家族の一員であることを信じないであろう。もし私が決して試練に遭わないとしたら、自分が天国の相続人だとは信じないであろう。神の子どもたちが、鞭を逃れることはできないし、そのようなことはありえない。地上の親たちなら、わが子を甘やかすこともありえるが、天の御父は決してご自分の子らを甘やかすことがない。「主はその愛する者を懲らしめ」、お選びになったすべての子に、鞭を加えられる[ヘブ12:6]。神の民は苦しまざるをえない。それゆえ、キリスト者よ。それを予期しておくがいい。もしあなたが神の子どもだとしたら、それを信じ、それを待ち受け、それが来たときには云うがいい。「よろしい。苦難よ、私はお前を予想していた。お前は赤の他人ではない。私はお前を絶えず予想してきたのだ」。甘んじて試練を待ち受けているとき、それは、計り知れないほど、あなたの試練を軽くするものである。実際、もしあなたが、一日でも楽にしのげたとしたら、不思議に思うがいい。一週間もの間、何の迫害も受けないままでいられたとしたら、それを尋常ならざることと考えるがいい。そして万が一あなたが、一箇月もの間、心の内奥から全く吐息をつかずに暮らせたとしたら、それを奇蹟中の奇蹟とみなすがいい。しかし、困難がやって来たときには、こう云うがいい。「あゝ! これは私が待ち受けていたものだ。そのしるしは天国への海図につけられており、この岩礁は記載されている。私は自信をもってこれで航海しよう。私の《主人》は私を欺かなかったのだ」、と。

   「なぜに嘆くや、汝が欠け、憂い、
    試し、痛みを?――主はかく予言(つ)げぬ」。

 しかし、なぜキリスト者は困難を予期しなくてはならないのだろうか? なぜキリストの苦難が自分にあふれることを予期しなくてはならないのだろうか? ここでしばし立ち止まるがいい。私の兄弟よ。私はあなたに、あなたが試練を忍ばなくてはならない4つの理由を示そうと思う。まず上を見上げてから、下を見つめ、それから自分の回りを見渡し、それから自分の内側を見るがいい。そうすれば、キリストの苦難があなたのうちにあふれるべき4つの理由が見てとれるであろう。

 上を見上げるがいい。あなたの天の御父が見えるだろうか? きよく、聖なる、いかなるしみもない、義にして、完全なお方が見えるだろうか? あなたは、自分がいつの日かこのお方に似た者となる[Iヨハ3:2]のを知っているだろうか? 自分が簡単にこのお方のかたちと同じ姿になれる[ロマ8:29]などと考えているだろうか? あなたは、大いに精錬が必要ではないだろうか? 困難という挽き臼によって大いに粉砕されること、患難というすり鉢とすり粉木で大いにすりつぶされること、苦悶という責め車のもとで大いに挫かれることが必要ではないだろうか? あなたは、自分の心が神のようにきよくなるのは簡単だと思うのだろうか? 自分の腐敗をそれほどすぐに取り除き、天の父が完全なように、完全になる[マタ5:48]ことができると思っているのだろうか?

 もう一度、目を上げるがいい。あの明るく輝く霊たちが見分けられるだろうか? 雪花石膏よりもきよく、パロス大理石よりも汚れない純白の衣を身にまとった霊たちが見えるだろうか? 彼らが栄光の中に立っているのを見るがいい。彼らの勝利がどこからやって来たか尋ねるがいい。彼らの中のある者らは告げるであろう。――自分たちは血の海を泳ぎわたってきたのだ、と。彼らの額についている、栄誉の焼き印を見るがいい。見よ、彼らの中のある者らはその両手をあげて、それがかつては火で焼き尽くされたことを告げる。他の者らは剣で切り殺され、野獣にひき裂かれ、乏しくなり、悩まされ、苦しめられた[ヘブ11:37]。おゝ、あなたがた、高貴な殉教者の大群よ。あなたがた、生ける神の栄えある集団よ。あなたがたが血の海を泳がなくてはならなかったというのに、私が毛皮の襟巻と外套にくるまって天国に乗りつけるなどということが望めるだろうか? あなたがたが苦難を耐え忍んだというのに、私がこの世の贅沢で首が回らなくなるなどということがあるだろうか? あなたがたが戦って支配しているというのに、私が戦闘もせずに支配するなどということがありえるだろうか? おゝ、否。神の助けによって私は、あなたがたが苦しんだのと同じように苦しむことを予期するであろう。あなたがたが多くの苦しみを経て天の御国をかちとったのと同じように[使14:22]、私もそうなることを予期するであろう。

 次に、キリスト者よ。あなたの目を下に向けるがいい。あなたは自分の足下にいかなる敵どもがいるか知っているだろうか? そこには地獄があり、その獅子どもがあなたに敵対しているのである。あなたはかつてはサタンの奴隷であった。いかなる王も自分の臣下をみすみす失いはしないであろう。あなたは、サタンがあなたのことを喜んでいるとでも思うだろうか? こともあろうに、あなたは敵国に寝返ったのである。かつてあなたは、アポリュオン[黙9:11]を君と仰ぐしもべであったが、今やイエス・キリストのりっぱな兵士[IIテモ2:3]なのである。だのにあなたは、悪魔があなたのことを喜んでいると思うだろうか? 否である。もしもあなたが、あなたが回心した瞬間のサタンを見たとしたら、驚くべき光景を目にしたであろう。あなたが自分の心をキリストにささげるや否や、サタンはその蝙蝠のごとき翼を広げて地獄へ舞い降り、そのすべての議官を召集して、こう号令した。「底知れぬ穴の子らよ。暗闇のまことの世継ぎらよ。お前たち、以前は光を身にまといながらも、われとともに、いや高き地位から堕落せしものどもよ。わが奴隷がまたひとり、われを見放した。われは、わが家の子をまたひとり失った。きゃつは裏切って《万軍の主》めの側についたのだ。おゝ、お前たち、わが同輩どもよ。われとともに暗闇の諸力を助けるものどもよ。ありとあらゆる手立てを尽くして、きゃつを滅ぼせ。われは命ずる。きゃつにお前たちの猛烈な矢の雨を浴びせかけよ。きゃつを苦しめよ。地獄の犬どもを吠えたてさせよ。悪鬼どもに取り巻かせよ。きゃつを死ぬまで攻めたて、悩ませよ。われらの腐敗せし燃える海の臭気で絶えずきゃつの鼻腔を満たせ。きゃつを迫害せよ。奴は裏切り者だ。一息たりともつかせるな。われには、きゃつをここに鉄石の鎖で縛っておくことはできぬし、ここできゃつを苦しめ、責め苦を与えることは決してできぬがゆえに、お前たちに命ずる。あらん限りの力を尽くして、きゃつが死ぬ日まで、きゃつにわめきたてよ。きゃつがかの川を越えるまで、苦しめよ。嘆かせよ。責め苦を味あわせよ。あの下郎めは、われに背いて、《主》のしもべとなったのだ」。あなたが主を愛したまさにその日に、地獄ではこのような光景が繰り広げられたのである。ではあなたは、今のサタンが、そのときよりもあなたを愛しているとでも思うだろうか? あゝ! 否。彼は常にあなたを攻撃している。というのも、あなたの敵は、「ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回って」いるからである[Iペテ5:8]。それゆえ、キリスト者よ。自分の足下を見るときには困難を予期するがいい。

 それから、神の人よ。あなたの回りを見渡すがいい。眠っていてはならない。あなたの目を開き、あたりを見回すがいい。あなたはどこにいるだろうか? あなたの隣にいる人は、あなたの友だろうか? 否。あなたは敵地にいるのである。これは邪悪な世である。私が思うに、人々の半分はキリスト教信仰など鼻にも引っかけないと公言しており、自分は敬虔な者だと公言する者の多くも口先だけである。「人間に信頼し、肉を自分の腕とする者はのろわれよ」*。――「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」。――「身分の低い人々は、むなしい」*。大衆の声など一文の値打ちもない。また、「身分の高い人々は、偽りだ」*。これは、一層悪い[エレ17:5、7; 詩62:9]。この世は信頼のおけるものでも、頼りになるものでもない。真のキリスト者は、この世をも、「いかな地の富 ほまれをも」、もろともに足で踏みつける。私の兄弟よ。あなたの回りを眺めるがいい。あなたは、何人かの立派な心をした人々、強く勇敢な人々が見えるであろう。何人かの真実な魂をした、真摯で誠実な人々が見えるであろう。何人かのキリストを忠実に愛する人々が見えるであろう。だが、おゝ、光の子どもよ。私はあなたに云う。あなたは、ひとり真摯な人に出会うたびに、二十人の偽善者に出会うであろう。あなたを天国に導こうとするひとりの人を見いだすところで、あなたを地獄に押しやろうとする二十人を見いだすであろう。あなたは、友人たちの国ではなく、敵どもの国にいるのである。この世が大方は良いものだなどと決して信じてはならない。多くの人々がこの世をつかむことによって指に火傷をしてきた。多くの人が、自分の手をこのガラガラ蛇の巣――この世――につっこむことによって傷つけられてきた。眠り込んでいる蛇の、目も綾な色合いを見て、害など及ぼされるはずがないと考えた。おゝ、キリスト者よ! この世はあなたの友ではない。もし世が友だとしたら、あなたは神の友ではない。というのも、この世を友とする者は、神の敵だからである[ヤコ4:4]。そして、人々から蔑まれている人は、しばしばエホバから愛されているのである。人よ。あなたは敵地にいる。それゆえ、困難を予期するがいい。「あなたのパンを食べた者までが、あなたにそむいて、かかとを上げる」*ことを予期するがいい[詩41:9]。愛する者たちが離れ去っていくことを予期するがいい。あなたが敵の国にいる以上、敵兵が至る所にいると確信するがいい。寝るときには、自分が戦場で眠りにつくのだと考え、歩くときには、あらゆる垣根のかげで待伏せされていると信ずるがいい。おゝ! 用心するがいい。用心するがいい。この世は決してあなたが眼を閉ざしていてよい善良な世界ではない。人よ。自分の回りを見渡すがいい。そして、物見櫓の上にいるときには、困難が確実にやって来ると思うがいい。

 しかし、さらに、あなたの内側を見つめるがいい。ここには、いやというほど私たちに困難をもたらす小世界がある。ひとりのローマ人はかつて、自分の心に窓があればいかに良いことか、そうすればあらゆる人々にそこで何が行なわれているかが見えるだろうに、と云った。私は、自分にそんな窓がなくて心底よかったと思う。あったとしても、それを、かつてのアプスリー記念館と同じくらい堅く閉ざしておくであろう。あらゆる鎧戸が閉まっているように注意するであろう。私たちの中のほとんどの者は、そのような窓があったとしたら、大いに鎧戸を必要とするであろう。しかしながら、しばし、あなたの心の窓をのぞき込み、そこにあるものを観察してみるがいい。罪がそこにある。――原罪と腐敗がある。また、それだけでなく、自我がまだ内側にいる。あゝ! たといあなたが決して悪魔から誘惑されないとしても、あなたは自分で自分を誘惑するであろう。たといあなたと戦う敵が全くいなかったとしても、あなた自身があなたにとって最悪の敵となっていたであろう。たといこの世というものがなかったしても、それでもあなた自身は十分悪者だったであろう。というのも、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」からである[エレ17:9]。信仰者よ。あなたの内側を見つめるがいい。自分の五臓六腑に癌が巣くっているのを知るがいい。自分の内側に爆弾をかかえていること、それがほんのかすかな誘惑の火花1つで爆発するものであることを知るがいい。あなたの心の内側に、何か悪いものがいること、とぐろを巻いた蝮が、いつなりともあなたに咬みつき、あなたを困難と、痛みと、言葉に尽くせぬ惨めさに巻き込もうとしていることを知るがいい。キリスト者よ。自分の心に用心するがいい。そして、悲しみと、困難と、心労を見いだすときには、内側を見つめて云うがいい。「まことに、私がかかえている不信仰な悪い心を考えれば、こうした仕打ちに遭うのも当然だ」、と。さて、兄弟キリスト者よ。わかっただろうか? 困難から逃れる望みは何1つないのである。では、何をすべきだろうか? 逃れる見込みは万に1つもない。私たちは苦難と患難を忍ばなくてはならない。それゆえ、それを朗らかに忍ぼうではないか。私たちの中のある人々は、神の連隊の士官たちであって、私たちは敵軍の狙撃兵全員の標的である。私たちは前線に立って、あらゆる射撃に耐えなくてはならない。神の士官のうち、だれひとり戦闘中に倒れる者がいないとは、何というあわれみであろう! 神は常に彼らを守ってくださる。矢が激しく飛来しようと、信仰の大盾[エペ6:16]がそれらをみな防ぐ。また、敵が猛り狂うときこそ、神が最も喜んでおられるときなのである。こういうわけで、この世がその歩みを続けようと、悪魔がののしろうと、肉が起こり立とうと、私たちにとって知ったことではない。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって……圧倒的な勝利者となる」からである[ロマ8:37]。それゆえ、すべての誉れを神にのみ帰すがいい。苦難を予期するがいい。――これが私たちの第一の点である。

 II. さて、第二に、ここには《注目すべき区別》がある。私たちの苦難は、キリストの苦難と呼ばれているのである。さて、苦難それ自体はキリスト教の証拠ではない。多くの人々は、神の子どもたちではなくとも、種々の試練や困難を受けている。私は、ある人々がやって来ては、哀れっぽく鼻を鳴らし、こう云うのを聞いてきた。「私は自分が神の子どもであると知っています。なぜなら、私は借金を負っているからです。貧乏だからです。困難に遭っているからです」。果たしてそうだろうか? 私は、おびただしい数のならず者が、それと同じような状況にあるのを知っている。そして私は、あなたがたまたま貧窮しているからといって、こうした者ら以上に神の子どもであると信じはしない。神の子どもたちでなくとも、困難と苦悩の中にいる人々はごまんといる。それらは神の家族に特有の運命ではないし、もし私のキリスト者としての希望の根拠が、種々の試練を経験しているということ以外にないとしたら、私は実際、非常に貧弱な根拠しか持っていないことになるであろう。しかし、そこには注目すべき区別がある。こうした苦難は、キリストの苦難だろうか? そうではないだろうか? ある人が不正直を働き、そのため牢屋に入れられたとする。臆病者で、そのため人々から侮蔑のののしりを受けたとする。信用ならない者であって、それゆえ人々から村八分にされているとする。だが、その人は自分は迫害を受けていると云うのである。迫害だと! とんでもない。それは身から出た錆である。自業自得である。しかし、そうした人々は、こう考えて自分を慰めようとするのである。自分は、他の人々から毛嫌いされているのだから、「神に愛される者」なのだ、と。その実、それは本人の自業自得にすぎない。彼らは、しかるべき生き方をしていない、それゆえこの世から罰を受けて当然である。愛する方々。用心するがいい。あなたの苦難がキリストの苦難であるようにし、自分から出た苦難でないように用心するがいい。というのも、もしそれらが自分から出たものだとしたら、あなたは何の慰籍も得られないからである。それらがイエスの苦難である場合にのみ、私たちは慰めを受けられるのである。「よろしい」、とあなたは云う。「私たちの苦難がキリストの苦難であるとは、どういうことなのか?」 知っての通り、聖書の中で「キリスト」という言葉は、時として、キリストとともにある全《教会》を意味することがある。例えば、第一コリント12:12であり、今は思い出せない他のいくつかの箇所がそうである。だが、あなたは、こう語る聖句を思い起こすであろう。「私は……キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」[コロ1:24]。さて、かしらなるキリストがある程度の量の苦難をお忍びになった以上、そのからだも、ある程度の重みを負わざるをえない。私たちの患難は、神秘的なキリスト[キリストのからだ]の苦難である。キリストの教会の苦難である。というのも、あなたも知るように、たといある人が、頭は天に達し足は地の上にあるほど背が高くありえたとしても、それは同じからだであり、頭は足の痛みを感じるだろうからである。それと同じく、私のかしらは天国にあり、私は地上にあるが、私の嘆きはキリストの嘆きであり、私の試練はキリストの試練であり、私たちの患難をキリストがお苦しみになるのである。

   「われ感ず、汝が 吐息と呻きを
    汝れはわが身の 骨肉なれば。
    汝が苦しみに かしらも痛まん。
    されど無駄なく、つゆ徒(あだ)ならじ」。

 真のキリスト者の試練は、カルバリの苦悶と同じくらい、キリストの苦難なのである。

 それでもあなたは云う。「私たちは、自分の困難がキリストの試練かどうか見分けたい」。よろしい。もしあなたがキリストのために苦しんでいるとしたら、それらはキリストの苦難である。もしあなたが真理のために苦しみを耐えるよう召されているとしたら、それはキリストの苦難である。もしあなたが自分自身のために苦しむなら、それはあなた自身の罪に対する刑罰であろう。だが、もしあなたがキリストのために苦しみを忍ぶなら、それらはキリストの苦難である。「しかし」、とある人は云う。「今どき何の迫害があるというのか? この現代にキリスト者がキリストのために苦しまなくてはならないなどということがあるのだろうか?」 苦しむだと! 方々。しかり。今朝、しようと思えば私は、「隠し事をば打ち開く」こともできよう[『ハムレット』]。耐えがたいほどの偏狭さや、ほとんどメアリー女王の時代に劣らぬほどひどい迫害について、語り聞かせることもできよう。今は単に私たちの敵どもが、権力と法を手にしていないだけのことである。私は、ある人々について語ることができよう。その人々は、ただ単に、この蔑まれた若僧の――この喚きちらす奴の――話を聞きに来ることを選んだというだけの事実によって、あらゆるもののかすと見られることになるのである。私のもとを訪れる多くの人々は、私の唇から真理の言葉を聞いたというだけの理由で、惨めで不幸せな生活をしいられている。それでも、いま云ったようなすべてにもかかわらず、この人々は今それを聞くことを望んでいる。私は確信しているが、私が前にしている方々の多くは、そういう人々の辿ってきた道を私が語るとしたら、はらはらと涙を流すはずである。――ある人々が私にひそかに書いて寄こしたところ、この人々は、自分の好む人物の話を聞くことを選ぶという理由により、キリストのため苦しまざるをえないのだという。何たることか。いいかげんに、人々が自分の思う通りの人の話を聞くのを選べてよい頃ではなかろうか。たとい私が他の教役者たちのようなしかたをしたがらないとしても、私には自分の好む通りに説教する権利がないのだろうか? たといないとしても、私は思い通りにするであろう。――それだけである。そして、他の人々には、そう望むとあらば、今日の貴族や長官たちに、本当にこの男が聖職者かどうか伺いを立てなくとも、私の話を聞く権利がないだろうか? 自由! 自由! 人々は自分の好きなようにふるまうがいい。しかし、自由――どこにそれがあるだろうか? あなたがたは、それは英国にあると云う。確かに英国には、ある程度の自由はあるが、徹底的な自由はない。しかしながら、嬉しいことに、ある人々はこう云うのである。「よろしい。私の魂は益を受けています。そして、人々が好き勝手に何を云おうと、私は真理に、また、自分の魂の徳を建て上げる言葉を聞ける場所に、堅く結びつき続けます」、と。話をお聞きの愛する方々。そうし続けるがいい。そうし続けるがいい。そして、もしあなたがたがキリストのために苦しむとしたら、それはキリストの苦難なのである。もしあなたがたがここに来たのが、単にそれで何か得をするためだったとしたら、あなたの苦難はあなた自身から出たものであろう。だが、あなた自身の魂の益のほか何も得をするものがない以上、これからも、そうし続けるがいい。そして、何と云われようと、あなたの迫害は、栄光において一層輝く冠をあなたにかちとるであろう。

 あゝ! キリスト者よ。これは私たちを気高くするものである。私の兄弟たち。自分の試練がイエスの試練であると考えるとき、私たちは誇らしく、幸せになるものである。おゝ! 思うに、戦場で《鉄の公爵》[ウェリントン公]とともに戦った老兵士にとって、こう云えることは何がしかの栄誉であったに違いない。「自分は、あの幾多の戦いに勝利をおさめなさった、ご立派な公爵様のもとで戦うのだ。公が勝利なさるときには、その栄誉の一部はわれわれのものにもなるのだ」。キリスト者よ。あなたはイエスと肩を並べて戦っているのである。キリストがあなたとともにおられるのである。あらゆる打撃はキリストめがけて加えられる打撃である。あらゆる中傷は、キリストに浴びせられる中傷なのである。この戦いは主の戦いである。勝利は主の勝利である。それゆえ、勝利へ向けて進むがいい! 私は、ある偉大な司令官の話を思い出す。彼は、多くの栄光ある勝利をかちとった後で、自軍を一つの隘路に入らせた。ところが、そこで敵の大群によって完全に包囲されてしまった。翌朝には戦闘が避けられないことを知った彼は、そのため、露営の間を歩いて、自分の兵士たちがどんな気分にあるか――意気阻喪していないかどうか――に聞き耳を立てて回った。ある天幕の前に来て、耳をすませたところ、彼はある男がこう云うのを聞いた。「そりゃあ、俺たちの将軍閣下は、えらく剛勇無双なお方さ。だが、その閣下も今回は利口とは云えねえな。俺たちの送り込まれた場所ときたら、負け戦になるに決まってらあ。敵軍には、あれだけ多くの騎兵がいるし、あれだけ多くの歩兵がいらあな」。それから、その男は友軍の兵隊の数を指折り数えて、これこれだけしかいないと云った。そのとき、かの司令官は、この話を聞いて、その天幕の垂れ幕をゆっくり開くとこう云った。「お前はわしを何人分と数えるのだ? お前は歩兵と騎兵の数を数えた。だが、わしを何人分だと数えるのだ?――わしを、かくも多くの勝利をかちとってきた、おまえの力ある指揮官を?」 さて、キリスト者よ。私は云いたい。あなたは、キリストを何人分と数えるだろうか? 何人分と記帳するだろうか? 一人分ではない。一千人分でもない。主は、「万人よりすぐれ」たお方である[雅5:10]。しかし、それ以上のお方である。おゝ! 主を桁違いに高い人数として記帳するがいい。そして、あなたが自分の味方や助け手を勘定するときには、キリストをすべてのすべてとして記帳するがいい。というのも、キリストにおいて勝利は確実だからである。――勝つこと必定だからである。

 III. 私たちの第三の点は、《経験すべき釣合い》である。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストの慰めもまたあふれている。ここには、ほむべき釣合いがある。神は常に1つの天秤を保っておられる。――こちら側には、ご自分の民の試練を置き、そちら側には、彼らの慰めを置かれる。あなたは常に、試練の方の皿がほとんど空っぽのときには、慰めの方の皿もほぼ同じ状態であることに気づくであろう。また、試練の皿が一杯になっているときには、慰めの皿が同じくらい重くなっているのに気づくであろう。というのも、私たちにキリストの苦難があふれているのと全く同じように、慰めもまたキリストによってあふれているからである。これは、純然たる経験の問題である。あなたがたの中のある人々は、それについてほとんど何も知ることがない。あなたはキリスト者ではなく、新しく生まれておらず、回心しておらず、新生していない。それゆえ、あなたがたは決してこの、神の子どもの苦難と慰めとの間にある素晴らしい釣合いを悟ったことがないのである。おゝ! これは神秘的なことである。黒雲が最も濃く集まるときに、私たちの内なる光が常に最も明るく輝くというのである。夜が垂れこめ、嵐がやって来つつあるときに、天の船長は常にその乗組員たちの最も近いところにおられるのである。これは、ほむべきことである。私たちは、最も打ちひしがれたときにこそ、キリストの慰めによって最も引き上げられるのである。なぜそうなるかを示させてほしい。

 最初の理由は、試練は慰められる余地をより大きくするからである。何にもまして人に大きな心を持たせるのは、大いなる試練である。私が常に見いだすところ、ちっぽけで、みじめな人々――からし種ほど小さな心しか持っていない人々――は、決して大きな試みを受けたことのない人々である。自分の同胞たちに何の同情心も持っていないような人々――他の人々の悲しみのために決して涙を流すことのない人々――は、めったに自分自身わざわいを受けたことがない。大いなる心は、大いなる困難によってのみ形作られる。困難という踏み鍬は、慰めの貯水池を深く掘り、慰めの入るべき、より大きな余地を作り出す。神は私たちの心にお入りになる。――それが一杯になっているのにお気づきになる。――そこで私たちの種々の慰めを壊し始め、心を空にしようとなさる。そのとき、そこにはより大きな余地が恵みのために生ずるのである。人は卑しめられれば卑しめられるほど、大きな慰めを有するようになるのが常である。私は、ある日ひとりの農夫と一緒に歩いていたときのことを覚えている。――彼は、農夫ではあったが、深く教えられており、実際、農夫たちは大学出の紳士たちの多くよりも格段にまともな説教者になるはずである。――その彼は私に云った。「これは間違いのないことだがね、兄弟。もしあんたかわしが、一吋でも地面より高く上がるようなことがあったら、わしらはその一吋分だけ背が高くなりすぎとるのだよ」。私はそれは真実だと信ずる。というのも、私たちは低く横たわれば横たわるほど、その分地面に近くなる。――私たちの困難が私たちを卑しめれば卑しめるほど――、私たちは慰めを受けるのによりふさわしくなる。そして神は常に私たちが慰めに最もふさわしいときに、私たちに慰めをお与えになる。それが、なぜ私たちの試練と同じ割合で慰めが増し加わるかという1つの理由である。

 それからさらに、困難は私たちの種々の恵みを発揮させ、私たちの種々の恵みを発揮させることそのものが、私たちをより慰めに満たし、幸福にするものだからである。にわか雨が最も降るところでは、草が最も青々としている。私が思うに、アイルランドの霧や霞こそ、同地を「緑の島」としているのである。そして、あなたが濃密な困難の霧と、悲しみの霞を見いだすところではどこでも、常に鮮緑の心を見いだすのである。神の慰めと愛という美しい鮮緑色の草木に満ちているのである。おゝ、キリスト者よ。あなたはこう云っていてはならない。「燕たちは、どこへ行ってしまったのか? 彼らはいなくなっしまった。死んでしまったのだ」、と。彼らは死んではいない。彼らは紫の海をかすめて飛び、遠い国へと行ってしまってはいる。だが、彼らはやがて再び戻って来るであろう。神の子どもよ。花々が枯れてしまったと云ってはならない。冬が花々を殺してしまった、花々はなくなってしまった、と云ってはならない。あゝ! 否。冬が花々にその雪の外套を着せたとしても、それらはその頭を再びもたげ、じきに生気を吹き返すであろう。神の子どもよ。雲に隠されたからといって太陽が消されてしまったと云ってはならない。あゝ! 否。太陽はその背後にいて、あなたのために夏を蒸留している。というのも、太陽が再び姿を現わすときには、方々の雲に四月の雨を降らせるのにふさわしくした後であり、それらはみな、甘やかな五月の花々の母となるからである。そして、おゝ! 何にもまして、あなたの神が御顔をお隠しになるときには、神は自分のことなど忘れてしまったのだと云ってはならない。神は、ただ、あなたが神をよりよく愛するようになる間、ほんの少し遅れておられるだけである。そして、神がやって来られるときには、あなたは主にある喜びを有するであろう。言葉に尽くすことのできない喜びに踊るであろう。待つこと、それは私たちの恵みを発揮させる。待つこと、それは私たちの信仰を試す。それゆえ、望みをいだいて待つがいい。というのも、約束は遅れることはあっても、決して遅くなりすぎることはありえないからである。

 私たちが自分の困難においてこそしばしば最も幸福であるという、もう1つの理由は、このことである。――そのとき私たちは、最も親密な神のお取扱いを受ける。私は、心からの知識と、まぎれもない経験から語っている。私たちが、いついかなる時にもまして親しい神のお取扱いを受けるのは、艱難の中にある時にほかならない。納屋が満杯になっているとき、人は神なしでも生きることができる。財布が黄金ではちきれそうになっているとき、私たちはそれほど祈らなくともどうにかやって行ける。しかし、ひとたびあなたのとうごまが取り去られてしまうと[ヨナ4:7]、あなたにはあなたのが必要となる。ひとたび家から種々の偶像が一掃されると、そのときあなたは、行ってエホバを尊ばざるをえない。あなたがたの中のある人々は、当然しかるべきほどの半分しか祈っていない。もしあなたが神の子どもだとしたら、あなたは鞭で打たれるであろう。そして鞭で打たれるとき、あなたはあなたの御父のもとに走って行くであろう。快晴の日には、子どもは自分の父親をどんどん追い越して歩いて行く。だが、道の真ん中に獅子がいると、その子は飛んできて父親の手を握る。万事が好調でうまく行っているとき、子どもは半マイル近くも父親の前を走って行ける。だが、ひとたび獅子が出てくると、「お父さん! お父さん!」、となり、ひしと父親にしがみつくのである。キリスト者もそれと全く同じである。すべてが順調だと、キリスト者は神を忘れてしまう。エシュルンは肥え太ると、神を足で蹴り始める[申32:15]。だが、その種々の希望を取り去り、その喜びを吹き飛ばし、その幼子を棺に横たわらせ、その作物をしなびさせ、その家畜を牛舎からいなくならせてみるがいい。父親のがっしりとした肩を墓に入らせ、子どもたちを父なし子にしてみるがいい。――そのとき、まことに神は神となられるのである。おゝ、私を裸にしてみるがいい。私の持ち物すべてを取り去るがいい。私を貧しくし、乞食にし、一文無しにし、無力にし、水がめを粉々に打ち砕き、希望を粉砕し、星々を消し去るがいい。太陽を吹き消し、月を暗闇で覆い隠し、私を虚空の中に、友もなく、助け手もないまま、全く孤絶させるがいい。それでも、「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます」[詩130:1]。この世の何にもまして麗しい叫びは、山々の底からの叫びであり、いかなる祈りにもまして心の奥底から出る祈りは、深い試練と艱難を経つつある魂の深淵からの祈りである。こういうわけで、それらは私たちを神のもとへ連れ来たり、私たちはその分だけ幸福になるのである。というのも、それこそ幸福になる道――神のそば近くを生きる道――だからである。それで種々の困難があふれかえるときには、それらは私たちを神のもとに追いやり、そのとき慰めがあふれるのである。

 ある人々は、種々の困難を重しと呼ぶ。まことにその通りである。大きな帆に順風を受けつつある船には、底荷が必要である。種々の困難は、信仰者の底荷である。彼の目は、自分の魂の船底にたまる汚水を汲み出し、自分を沈ませずにおく吸水器である。しかし、もし種々の試練が重しだとしたら、私はあなたに幸いな秘訣を告げるであろう。重しをしてあなたを浮かせるということがあるのである。もし私に重しが鎖で縛りつけられているとしたら、それは私を下にとどめておく。だが私に、いくつかの滑車と、ある種の装具があるとしたら、私は重しをして私を持ち上げさせることができる。しかり。世の中には、種々の困難をして私を天国に引き上げさせるということがあるのである。かつてひとりの紳士がある友人に、その美しい馬について尋ねたという。その馬は、放牧地のあちこちで草を食んでいたが、その足には重り木がつけられていたのである。「なぜ、あんなに美しい動物に重り木などをつけておくのだね?」 「それはですね」、と相手は答えた。「私は、あれを失うくらいなら、いくらでも重り木をつけておく方が絶対にましだからですよ。あれは、垣根を飛び越える癖があるのでね」。それこそ神がご自分の民に重り木をつける理由である。神は、彼らを失うよりは彼らに重り木をつけようとなさるのである。というのも、もし神が彼らに重り木をつけないと、彼らは垣根を飛び越えて、いなくなってしまうからである。彼らは、あちこち踏み迷わないように、つなぎ繩を必要としており、彼らの神は彼らを艱難で縛っておき、彼らをご自分の近くにとどめて、彼らを保ち、彼らを御前に置いておかれるのである。何とほむべき事実であろう。――私たちの困難があふれるとき、私たちの慰めもまたあふれるのである。

 IV. さて私たちは、私たちの最後の点をもってしめくくろう。そして、願わくは聖霊がもうひとたび私を強めてくださり、あなたに二言三言語ることができるようにしてくださるように。《そこには栄誉を帰すべきお方がおられる》。キリスト者が深い苦悩の中でも喜べるというのは事実である。まことに、彼らを牢獄に入れても、彼らはそれでも歌うであろう。多くの鳥たちと同じく彼らは、その檻の中でこそ最も美しく歌う。まことに、波また波が彼らの上を越えて行くときも、彼らの魂は決して沈まない。まことに彼らは、自分たちの頭を常に水面上に出しておき、彼らをして暗い、暗い夜の中でも歌わせる助けとなる浮力を身の回りに有している。「神はそれでもわれとともにあり給う」。しかし、だれに私はその栄誉を帰すべきだろうか? だれにその栄光はささげられるべきだろうか? おゝ! イエスにである。イエスにである。というのも、この聖句は、これがみなイエスによってなされると云っているからである。私は、自分がキリスト者だからというので、困難の中でも喜びが得られるのではない。――必ずしもそうではない。困難が常に変わらずキリスト者たちに慰めをもたらすという事実はない。むしろキリストこそ私のもとに来られるのである。私が自分の私室で病気になっているとしよう。するとキリストが階段を上って来て、私の寝台のかたわらに座り、甘やかなことばを私にかけてくださるのである。私は死にかけている。縮みあがるほど冷たいヨルダン川の水が私の足に触れている。私は自分の血が澱んで、凝結するのを感じる。私は死なくてはならない。だがキリストは、その御腕を私に回して、こう云われる。「愛する者よ。恐れてはならない。死ぬことは祝福されることであり、死の川は、その水源を天国に有しているのだ。それらは苦くはなく、花蜜のように甘い。それらは、神の御座から流れているからだ」。私がその流れを歩いて渡ろうとすると、大波が私の回りに押し寄せてきて、私は自分の心と肉体が弱り出すのを感じる。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」[イザ41:10]。さて、私は無限の未知の世界の境界に達している。この国は、「その領域より、ひとりだに旅人の戻ることなき」かの国である。私は、その薄暮の領域に入ることにほとんど怯えを感じる。だが、ある甘やかな声がこう云う。「わたしは、あなたが行く所ではどこででも、あなたとともにいる。もしあなたがよみに床を設けても、そこでもわたしはあなたとともにいる」[詩139:8参照]。それで、私はなおも進み続け、死ぬことに満足する。イエスが私を力づけてくださるからである。主は私の慰めであり、私の希望である。あゝ! あなたがた、この比類なき御名イエスを知らない人々。あなたがたは、いまだかつて旋律にされうる調べの中でも最も甘やかな調べを失っているのである。あゝ! あなたがた、イェスという、この一語に含まれている尊い短詩によって一度も魅了されたことのない人々。あなたがた、イェス(Jesu)がI - ES - U(I ease you[われ汝を休ません])を意味していることを知らない人々。あなたがたは、あなたの人生の喜びと慰めを失っているのである。そして、あなたがたは、みじめで不幸せに生きなくてはならない。しかし、キリスト者は喜ぶことができる。キリストは決してその人を捨てず、決して離れず、その人とともにおられるからである。

 ここで、様々な立場にある人々ごとに、二言三言語らせてほしい。――第一に、困難を予期しているあなた、そして、それらが予期されるがゆえに非常に悲しんでいるあなたに一言語りたい。市井の人々の助言を受け入れるがいい。「案ずるより産むがやすし。取越し苦労はせぬがよい」。そして、私の助言に従うがいい。あなたの困難を実際以上に近づけてはならない。というのも、いやでもそれらが、じきにあなたに襲いかかるのは確実だからである。私の知っている多くの人々は、自分たちの試練がやって来もしないうちから、いらだっている。一体全体、それが何の役に立つだろうか? もしあなたが、そこに何か有益なものがあると示せるなら、私はそうし続けるように云おうと思うが、私にとっては、御父がその子どもの背中を鞭で打つというだけで十分であり、その子が自分で自分を懲らしめることなど不要と思われる。困難をこわがっているあなたは、なぜそうしなくてはならないのか? その試練は決してあなたに降りかからないかもしれない。また、もしそれが来るとしても、それとともに強さもやって来るであろう。それゆえ、不吉な予感がすると云って、呻きながら座りこんでいる人よ。

   「信仰の 目当てはついぞ われをして
    より少なき楽しみ 得さすにあらじ」

何たることか! 立てよ! 立てよ! なぜあなたは座り込んだまま凍え死のうとするのか? 困難が来るとき、そのときには、男らしく強い心でそれと戦うがいい。着の身着のままその流れに飛び込み、それを泳ぎわたるがいい。だが、おゝ! それが来る前から恐れていてはならない。

 それから、困難のもとにあるキリスト者よ。私はあなたにも一言云いたい。私の兄弟よ。あなたは、こうした困難の中にある。あなたは、患難の波の中に入り込んでいるではなかろうか。不思議はないであろう? 兄弟よ。あなたは前にもそこに何度もいたことがある。だが、あなたは云う。「あゝ。これは今まで私が有した中でも最悪のものだ。私は今朝ここまで石臼を首にくくりつけてきた。私の心は鉛の山のようだ。私はみじめだ。不幸せだ。私はひどく落ち込んでいる」。よろしい。だが、兄弟よ。あなたの困難があふれているように、あなたの慰めもあふれているのである。兄弟よ。あなたは、あなたの立琴を柳の上にかけてはいないだろうか? 私は、あなたがその立琴を全く壊さなかったことを喜んでいる。それを柳の上にかけるほうが、それを壊すよりもよい。それを決して壊さないようにするがいい。あなたの困難について気に病むかわりに、そのことを喜ぶがいい。そのとき、あなたは神に栄誉を帰すであろう。キリストの栄光を現わすであろう。困難の深みの中でもあなたが歌うなら、罪人たちをイエスのもとに引き寄せるであろう。というのも、そのとき彼らはこう云うからである。「結局、キリスト教信仰にも一理あるに違いない。さもなければ、この人がこれほど幸福であるはずがない」。

 それから、絶望にかられんばかりになっているあなたにも、一言云いたい。わたしは今朝、できるものなら、私の両手を差し伸ばしたいと思う。――というのも、私の信ずるところ、説教者は百手の巨人ブリアレオースたるべきだからである。彼は、千もの手をもって自分の聴衆をひとりひとり引き寄せ、彼らに語りかけるのでなくてはならない。ここにいる、ひとりの人は全く絶望している。――ほとんどあらゆる希望が失われている。兄弟よ。私はあなたのすべきことを告げてもよいだろうか? あなたは主甲板から足を踏み外した。あなたは海中にある。大波があなたの回りにある。あなたには何の希望もないように思われる。あなたは藁を掴んでいる。今あなたは何を行なうべきだろうか? 行なう? 否。あなたは、困難の海に横たわり、その上に浮かんで、静かにしているがいい。そして、神が神であられることを知るがいい。そうすれば、あなたは決して滅びはしない。いかにあがいても、もがいても、あなたは深みに沈んでいくであろう。だが、じっと横になっているがいい。見よ。救命艇がやって来るのである。キリストがあなたを助けにやって来られるのである。じきに主があなたを救助し、あなたのあらゆる難局からあなたを救い出してくださるであろう。

 最後に、あなたがたの中のある人々は、この説教に何の関心も全く持ってはいない。私は決して、自分の聴衆をこの点で欺こうとしはしない。私は決して彼らに、私の語っていることすべてが、私の話を聞いているすべての人々に関係していると信じさせようとはしていない。神のことばの中には種々に異なった立場の人々がある。この日、あなたがたは、自分自身の心を探り、果たしてあなたがたが神の民かどうかを見てとるべきである。私の仕えている主は生きておられる。この場には、2つの種別の人々がいる。私は貴族政治と民主政体との間の区分を容認しはしない。私の目にとって、また神の御目においても、あらゆる人は平等である。私たちは1つの肉と血から造られている。私たちは、陶磁器の紳士たちと、土器の貧民たちがいるなどと考えはしない。私たちはみな同じ種類の鋳型でできている。その区別は1つであり、1つだけである。あなたがたはみな、神の子どもたちであるか、悪魔の子らであるかである。あなたがたはみな新しく生まれているか、罪過と罪との中に死んでいるかである。この問いを自分の耳の中で響かせることこそ、あなたのなすべきことである。「私はどこにいるだろうか? 燃え上がる剣を手にした、彼方の暗黒の暴君が私の王なのだろうか? それとも私は、エホバ-イエスを自分の力とし、自分の大盾とし、自分の《救い主》としているだろうか?」 私はあなたに、答えるよう無理強いはしない。そのことについては、何もあなたに云おうとは思わない。ただ、自分でこの問いに答えるがいい。自分の心に語らせるがいい。自分の魂に語らせるがいい。私にできるすべては、その問いを提起することだけである。神がそれをあなたの魂にあてはめてくださるように! 私は神に切に願う。どうかこの問いを人々の胸に送り込み、その矢を深々と突き刺してくださるように。

   「イエスはわがもの! 今われ覚悟す。
    上なく辛き 折に向かうを。
    困難の風よ 吹きまくれ。
    慰め溶け行け 雪のごとく。

   「しなびし木々も 作物の不作も、
    よく妨げえじ、永久(とわ)の希望を。
    よし世は変われど 主は同じ主なり。
    さらば誇らしめよ われを御名にて」。

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霊的苦難に応じた慰め[了]
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