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未来の至福の希望

NO. 25

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1855年5月20日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。――詩17:15


 福音は、その友たちとその敵たちとの、どちらに最も恩義をこうむっているであろうか。これは答えに窮する問いである。確かに、神の御助けによって、その友たちは福音のために大きなことをなしてきた。彼らはそれを異国で宣べ伝え、死をも恐れず、墓の恐怖をも笑い飛ばし、キリストのためにはすべてを賭け、そのようにして自分の信ずる教理の栄光を現わしてきた。だが、キリストの敵たちも、意図せずして、それと同じくらいの貢献をしてきたのである。というのも、敵がキリストのしもべたちを迫害したとき、彼らは遠く追い散らされ、あらゆる所に行ってみことばを宣べ伝えることになったからである。しかり。敵たちが福音を踏みにじるとき、それは、医学書に記されているある種の薬草のように、ますます急速に成長してきた。そして、聖なる書の頁について云えば、そのいかに多くの尊い箇所を私たちは、神のもとにあって、キリストの十字架の敵たちに負っていることか! イエス・キリストがなさった話の多くは、キリストがその敵たちによって答えることを強要されなかったとしたら、決して説教されなかったであろう。彼らが種々の反論を持ち出さなかったとしたら、私たちは、主がお答えになった甘やかな言葉を聞くことがなかったであろう。それと同じことが詩篇についても云える。もしダビデが敵たちから激しい試練に遭わされなかったとしたら、もし敵兵たちがその矢を彼に射かけなかったとしたら、もし彼らが彼の人格を誹謗し、中傷しようとしなかったとしたら、もし彼らが彼を痛切に悩ませ、その窮状の中で彼に叫ばせなかったとしたら、私たちは、ここに見いだすような、経験から出た貴重な発言の多くを見ることはなかったであろう。救い出された後の彼が記した、その聖なる歌の大部分、また、無謬の神に対する彼の信頼を物語る、その栄えある文章のあらかたを読めなかったであろう。もし苦悶という鉄の手で彼からしぼり出されなかったとしたら、私たちはこれらすべてを失っていたはずである。もしダビデに敵たちがいなかったとしたら、彼はその詩篇を書き記さなかったであろう。だが、山でしゃこが負われるように狩り立てられ[Iサム26:20]、臆病なかもしかが狩人の犬たちに追われるように駆り立てられたとき、彼はしばし待って、シロアの小川に両脇をひたし、山の頂上に立っては、少々あえぎながら、天の大気を吸い込み、その倦み疲れた手足を休ませた。そのときこそ、彼が神に栄誉をささげたときであり、そのときこそ、彼は声をあげて、かの大いなるエホバ、自分のために勝利を得てくださったお方のために叫んだのである。この文章の前段には、悪人が義人にもたらしている大きな悩みが叙述されており、その中で彼は、未来の至福の希望によって自分を慰めている。「しかし、私は」、と目を高くあげて、この族長は云う。「しかし、私は」、とエン・ゲディの洞窟に住む首領は云う。――「しかし、私は」、とかつての羊飼いの少年、まもなく王の冠を戴くはずの人物は云う。――「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。

 今晩この箇所を眺めるにあたり、私たちがまず第一に注目したいのは、その精神であり、第二に、その内容である。そして第三に、しめくくりとして語りたいのは、その中に含まれている対比である。

 I. まず第一に、《この発言の精神》である。というのも、私は常に、ある人がものを書いている際の精神、あるいは、人が説教している際の精神を喜んで眺めたいからである。事実、そこには、その人が用いている言葉よりも、はるかに多くのことが含まれているのである。

 さて、あなたは、何がこの言葉の精神だと思うだろうか? 「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。

 最初に、この言葉には、完全にねたみから自由にされている人の精神が息づいている。注目するがいい。この詩篇作者は、これまで悪人について語ってきた。「彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります」。「彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します」[詩17:10、14]。しかしダビデは彼らをねたんではいない。「行くがいい」、と彼は云う。「富む者よ。お前のあらゆる富とともに。――行くがいい。高ぶる者よ。お前のあらゆる高慢とともに。――行くがいい。幸せな者よ。お前の大勢の子宝とともに。私はお前をねたまない。私としては、私の境遇は異なっている。私は、お前を眺めても、お前の持ち物をほしがらずにいられる。私は、あの戒め、『むさぼってはならない』、をよく守っていられる。というのも、お前の持ち物の中に、私の愛に値するものは何もないからだ。私は、お前の地上の宝に何の値打ちも認めない。私は、お前のきらめく塵の堆積をうらやましいとは思わない。というのも、私の《贖い主》が私のものだからだ」。その人は、ねたみを越えている。なぜなら、そうした喜びが自分にとっては何の喜びにもならないと考えているからである。――そうした境遇は自分の性分に合わないと考えているからである。それゆえ、その人は目を天に上げて云う。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見……るでしょう」。おゝ! 愛する方々。ねたみから自由であるということは幸いなことである。ねたみは、被造世界を荒廃させる呪いである。エデンの園そのものですら、ねたみの風に吹きつけられていたとしたら、損なわれ、もはや美しくはなくなっていたであろう。ねたみは黄金を変色させる。銀を曇らせる。ねたみが熱い太陽に息を吹きかけたとしたら、太陽を消してしまうであろう。その凶眼を月に注いだとしたら、その全面は血の色に変じ、星々は恐慌を起こして飛び回るであろう。ねたみは天に呪われている。しかり、それはサタンの初子――悪徳の中で最もよこしまなものである。ある人に富があったとする。だがそこにねたみがあれば、その瑞々しい木の根っこには虫が食いついているのである。ある人が幸福だったとする。だが、もしその人が他の人の境遇をねたんでいるとしたら、幸福であったはずのものは、その人の惨めさとなる。なぜなら、それが、だれか他の人の幸福ほど大きなものでないからである。しかし、私がねたみから自由にされているとしよう。神が私に与えておられるものに満足しているとしよう。こう云えるとしよう。「あなたはあなたの物を持っているがいい。私はあなたをねたみはしない。――私は私の物で満足している」、と。しかり。私が、自分の同胞たちの喜びを喜べるほどの愛を彼らに対していだいているとしよう。彼らがたくさん持てば持つほど私もそのことを喜べるとしよう。私のともしびは、彼らのともしびが私よりも明るく輝いているからといって、その輝きを減らしはしない。私は彼らが富み栄えることを喜ぶことができる。そのとき私は幸福である。というのも、私が他の人々の喜びを喜び、彼らの楽しみを私のものとすることができるとき、私の回りのすべてが私を幸せで満たすことになるからである。ねたみ! おゝ! 願わくは、神が私たちをそれから自由にしてくださるように! しかし、実のところ、この世の何にもまして、ねたみを取り除くことのできるもの、それは、自分が、地上にではなく、天国に何物かを有していると信ずることである。もし私たちが、この世にあるすべての物事を眺めてもこう云えるとしたらどうであろう。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見るでしょう。私は、やがて満ち足りるでしょう!」 そのとき私たちが他の人々をねたむことなどありえない。なぜなら、彼らの境遇が、私たちに特有の嗜好にかなうことなどないからである。雄牛が獅子をねたむだろうか! 否。それが屠肉を食らうことなどありえないからである。鳩は、鴉が腐肉に舌なめずりをしているのを見て愚痴を云うだろうか? 否。それは別の食物を常食としているからである。鷲は、鷦鷯(みそさざい)のちっぽけな巣をねたむだろうか? おゝ、否! それと同じように、キリスト者は、鷲のように高く上り、その大きな翼を張り伸ばし、星々の間にある自分の高巣、神がその人のために巣を作ってくださった場所へと天翔て、こう云うのである。「しかし、私は、ここに住まおう。私はこの地上の卑しい場所を軽蔑して眺める。あなたがた、強大な皇帝たち。私はあなたがたの偉大さをねたまない。あなたがた、強大な戦士たち。私はあなたがたの盛名を望まない。おゝ、クロイソスよ。私は富貴を求めない。おゝ、カイザルよ。私はあなたの権力を願わない。私にはそれとは別のものがある。私の受ける分は主である[詩119:57; 哀3:24]」。この聖句には、ねたみから自由にされた人の精神が息づいている。願わくは、神がそれを私たちに授けてくださるように!

 それから第二に、見ての通り、この節には、未来をのぞき込んでいる人の雰囲気が漂っている。この箇所をよくよく読めば、それがみな未来に関係したものであることがわかるであろう。なぜなら、こう書かれているからである。「しかし、私は、……でしょう」。これは現在とは何の関わりもない。「しかし、私は何々しています」、とか、「何々なのです」、などと云ってはいない。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき……満ち足りるでしょう」、と云うのである。詩篇作者は墓の彼方の来世を見越している。やがて自分が眠りにつくことになる狭い死の床を見渡して、「目ざめるとき」、と云っている。未来を見る目を有する人の何と幸いなことか。世俗の事がらにおいてすら、私たちは現時点を越えてものを見通せる人を尊ぶし、手に入るそばから湯水のように自分の金を使い散らす人はすぐに襤褸をまとうことになるであろう。現在しか見ずに生きる人は馬鹿である。だが、賢い人々は、未来の事がらに気を配る。ミルトンがその著書を記したとき、ことによると彼は、自分が生きている間はほとんど名声を得られないと知っていたかもしれない。だが彼は云った。「私は、この頭が墓に横たわるとき、誉れを受けるであろう」、と。このように、他の著名な人々も、土の水がめが砕かれるまで待ち、ともしびが燃えてゆくにまかせたのである。栄誉については、彼らはこう云った。「私たちはそれを未来にゆだねよう。後に得られる名声こそ、しばしば最も長続きするものなのだから」。そして彼らは、「でしょう」、によって生き、未来を糧にしていた。いつの日か、「私は満ち足りるでしょう」、と。同じように云うのがキリスト者である。いま私は王侯のような声望を求めない。私は喜んで待ちたい。私には、将来支払いを受けるべき財産がある。現世では猫の額ほどの土地もほしくはない。――天国にある自分の領土、神がご自分を愛する者に備えておられる、かの広大にして美しい領土を手に入れるまで私は待っていよう。私は十分に満足して、腕組みをして、あばら屋の中に座っていよう。というのも、私は神の邸宅、「人の手によらない、天にある永遠の家」[IIコリ5:1]を受けることになるからである。あなたがたの中には、未来を糧にして生きるとはいかなることか知っている人がいるだろうか?――期待を糧にして生きること――来世で得るはずのものを糧にして生きること――天国から滴り落ちる、いのちの木の何滴かの雫を自分の祝宴とすること――荒野に下った、期待というマナを糧として生き、神の御座から迸り出る美酒を飲むことを知っているだろうか? あなたは一度でも、希望という、かの偉大なるナイアガラ瀑布のもとに行き、歓喜とともにその飛沫を飲んだことがあるだろうか? というのも、天の飛沫はそれそのものが人の魂にとっては栄光だからである! あなたは一度でも、未来を糧にして生きて、こう云ったことがあるだろうか? 「しかし、私は、やがて、これこれを手に入れるであろう」、と。左様。これこそ、人を駆り立てることのできる最高の動機である。これこそルターをあれほど大胆にしたものであったと私は思う。彼は、その王侯や領主たちという大聴衆を前にして立ち、こう云ったのである。「私は、私の書いた言葉が真実であるものとして立つ。死ぬまで立ち続けるであろう。神よ我を助け給え」。彼は、こう云ったに違いないと思う。「私は、やがて満ち足りるであろう。私は、今は満ち足りていないが、じきにそうなるであろう」、と。そのためにこそ、宣教師は嵐の海に乗り出すのである。そのためにこそ、その人は野蛮人の住む浜辺を踏みしめるのである。そのためにこそ、その人は苛酷な風土へと入って行き、いのちを危険にさらすのである。なぜなら、その人はやがてやって来る報酬があると知っているからである。時として私は、友人たちから何か親切にしてもらうとき、笑いながらこう告げることがある。私にはお返しできませんが、天におられる私の《主人》へのおごりにしておいてください、そうすれば、あなたがたは、目ざめるとき、彼の御姿に満ち足りるでしょうから、と。多くの事がらについて、私たちは到底、現世では報われることを望みえない。だが、それは死後、御座の前で思い起こされるであろう。当然支払うべきものとしてではなくて、恵みとして思い起こされるであろう。[ロマ4:4参照]。それは、私が前に聞いたことのある、ひとりの貧しい教役者と同じである。その人は、ある田舎の教会に説教しに歩いていく途中で、自分よりも、はるかに富裕な地位を占めている教職者に出会ったという。この教職者は、貧しい教役者に向かって、これから説教してどのくらい得るのを期待しているかと尋ねた。「ええと」、とその人は云った。「クラウン1つですよ」。「おやおや!」、と教職者は云った。「わしは、いかなる場合も、一ギニー以下では説教者しないことにしておるよ」。「おゝ!」、と相手は答えた。「私はクラウン1つで満足しなくてはなりません。しかも、今は自分のクラウンを手に入れられないのですよ。未来になるまでは、手に入らないのですよ」。この教職者にはほとんど想像もつかないことだったが、この教役者が意味していたのは、「しぼむことのない、いのちの冠(クラウン)」だったのである![ヤコ1:12; Iペテ5:4] キリスト者よ! 未来を糧に生きるがいい。現世では何も求めず、自分がイエスの似姿になってやって来るとき、また、イエスとともに賞賛され、イエスの御顔の前であがめつつ膝まづくときに、自分が輝くことになるのを期待するがいい。詩篇作者は、未来に目を注いでいた。

 またさらに、この点においてあなたは、この聖句を書いた時点で、ダビデが信仰に満ちていたことを見てとれよう。この聖句には確信の香りが匂い立っている。「しかし、私は」、とダビデは云う。そこには、もしかすると、などは全くない。「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。もしだれかが今このように云ったりしたら、狂信者だと呼ばれるであろう。「私は御顔を仰ぎ見、満ち足りるでしょう」、などと云うのは、増上慢とみなされるであろう。そして、今のこの世にいる多くの人々は、決して人が、「私は知っています。確信しています。確かです」、などと確実に云うのは不可能であると考えていると思う。しかし、愛する方々。この世に生きている神の民のうち、ひとりやふたりではなく、むしろ何万もの人々が、自分自身の存在を疑いえないのと同じくらい確かな確信をもって、こう云うことができるのである。「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」、と。この高く、卓越した立場に到達するのは、ことによるとさほど容易ではないかもしれないが、可能なことなのである。私たちは、もはや、自分は希望している、と云うのではなく、自分は知っている、と云えるようになり、もはや、そうなってほしいと思う、と云うのではなく、そうなると確信している、と云えるようになるのである。私には、幸いな確信がある。私にとって、それは確かなことである。私は確信している。というのも、神が私にまざまざとご自分を現わしてくださったので、今やそれはもはや、「もしかすると」や「ひょっとすると」ではなく、積極的な、永遠の、必ずやこうなる「でしょう」、なのである。「私は……目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。この場には、そうした種類の人々がどのくらいいるだろうか? おゝ! もしあなたがそのように語っているとしたら、困難に遭うのを予想しなくてはならない。神は、強い信仰を与えておいて、火のように燃える試練に遭わせないことは決してないからである。ある人に、「でしょう」、と云える力を与えておいて、その人をお試しにならないことは決してない。堅固な船を建造しておいて、それを荒れ狂う嵐に乗り出させないことはない。あなたを強大な戦士にしておいて、あなたの腕前を戦闘で試そうとするつもりがないことはない。神の剣は用いられなくてはならない。由緒ある天のトレドの業物は、かの悪い者の武具に打ちつけられなくてはならない。だがしかし、それは砕けはしない。決して折れることのない、掛け値なしのエルサレム鋼でできているからである。おゝ! 「私は何々でしょう」、と云える信仰を有するのは、何と幸いなことか。あなたがたの中のある人々は、それを全く不可能だと考えている。それは私も承知している。だが、それは「神からの賜物」[エペ2:8]であり、求める者にはだれにでも与えられる。そして、今この場にいる罪人のかしらその人でさえ、いざ死ぬことになるずっと前から、こう云えるようになれるのである。「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見……るでしょう」、と。私には、その年老いたキリスト者が見えるようである。その人は貧窮しきっている。その屋根裏の住まいでは、瓦の隙間から星が見える。そこにその人の寝台がある。服はよれよれで、あちこちが裂けている。暖炉には数本の薪が突っ込んである。それが最後の薪である。その人は自分の椅子に腰かけている。その麻痺した手はぶるぶるとふるえ、その人は明らかに死期に近づいている。最後の食事は前日の昼に食べたきりである。立って眺めるとき、この貧しく、弱く、もろい、その人のようになりたいと思う人がどこにいるだろうか? しかし、その人に聞いてみるがいい。「老人よ。あなたは、あなたの屋根裏部屋とカイザルの宮殿と取り替えたいと思うだろうか? 老いたキリスト者よ。あなたは、この襤褸服を捨てて富を手に入れ、あなたの神を愛するのをやめたいと思うだろうか?」 たちどころに、いかなる憤りがその人の目に燃え上がるか見るがいい! その人は答える。「しかし、私は」、ほんの数日もしないうちに、「正しい訴えで、主の御顔を仰ぎ見るでしょう。じきに満ち足りるでしょう。この地上では、そのようなことは決してないでしょう。困難が私の受ける分であり、試練が私の相続分でした。でも私には、『人の手によらない、天にある永遠の家』[IIコリ5:1]があるのです」。高値をつけるがいい。値をつり上げるがいい。両手一杯の黄金を差し出してみるがいい。その人の前に、そのキリストを捨てるよう、ありったけのものを積み上げるがいい。「キリストを捨てないか?」 その人は云うであろう。「否。絶対に否!」、と。

   「わが信仰の 立ちし限りは
    我れはねたまじ この世の富を」。

おゝ! 信仰に満ち、確固とした確信を有しているのは、何と栄光に富んだことであろう。その人は、こう云えるのである。「私は、あなたの御顔を仰ぎ見るでしょう。目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」、と。

 これまでのところは、ダビデの精神についてであった。これは、まことに大いに範とすべきこと、この上もなく願わしいことの1つである。

 II. しかし、さて第二に、《この箇所の内容》である。そして、ここで私たちは、神の御助けにより、その深みそのものへと飛び込むであろう。というのも、神の御霊なしには、私は全くあなたに語ることができないと感じているからである。私は、人々に語る資格を得させるような何の賜物もタラントも持ち合わせていない。私には、高き所からの霊感が必要である。さもないと私は、他の人々と何ら変わるところがなく、何1つ云うべきことがない。願わくは、それが与えられるように。それなしに私は唖だからである。この聖句の内容については、ここには二重の祝福が含まれているように思われる。最初のことは、仰ぎ見ることである。――「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見」。そして次のことは、満ち足りることである。――「私は、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。

 ではまず最初のことから始めよう。ダビデは神の御顔を仰ぎ見ることを期待していた。私の兄弟たち。それはいかなる眺めとなるであろう! あなたは神の御手を見たことがあるだろうか? 私はある。時として神は、御手で空をすっぽりと覆い、雲でそれを暗くなさることがある。時として私は、夜の穂が闇の翳りとともにのろのろと歩いているとき、神の御手が見えることがある。雷電を放つ神の稲光が雲を割り、天を引き裂くときに、見えることがある。ことによるとあなたは、もっと穏やかなしかたで御手を見たことがあるであろう。それが雨を注ぎ、それをさざなみ立つ細流とし、やがては滔々たる川にしていくときである。あなたは御手を嵐の大洋に見てきた。――星々を散りばめた空に、花々で美しく飾られた大地に見てきた。そして、いかなる生者も、神の御手の驚異を知り尽くしてはいない。神の被造世界の素晴らしさは、それを理解するのにひとり分の人生では足りないほどである。その深みに飛び込んで見るがいい。その細密な各部分に注意を釘付けにするがいい。次に望遠鏡を手に取り、はるか遠くの諸世界を見てみるがいい。そのとき私は、神の御手のわざすべてを目にできているだろうか?――御手のすべてを見ているだろうか? 否。その織物の百万分の一も見てはいない。未熟な彗星たちを太陽に抱かせて暖めさせ、諸惑星に壮大な軌道を描いて周回させる、かの大いなる御手、全宇宙を支え、すべての存在をつかんでいる、かの大いなる御手、――その大いなる御手を、だれが仰ぎ見られるだろうか? だが、もし神の御手がそのようなものだとしたら、その御顔はいかなるものとならざるをえないだろうか? あなたは時として神の御声を聞いて、おののいたことがある。私自身、畏敬の念に打たれつつ、だがしかし、素晴らしい喜びをもって、激しい雷鳴の中に轟く大水の音のような神の御声を聞いたことがある。あなたは一度も立って聞いたことがないだろうか? 地がゆるぎ、動き、天空そのものがその楽の音を控えるとき、神がその素晴らしい、深い、低く響く御声でお語りになるのを。しかり。あなたはその御声を聞いたことがある。そして、そうした雷鳴を聞くときには常に、愛にみなぎる、途方もなく素晴らしい喜びが私の魂に入り込んでくる。それは私の御父が語っておられるのであり、私の心は父の声を聞いて飛び跳ねる。しかし、あなたは決して神が御声を張り上げるのを聞いたことはない。雷鳴の轟きなど、囁きにすぎない。しかし、もしそのようなものが御声だとしたら、神の御顔を仰ぎ見ることはいかなるものとならざるをえないだろうか? ダビデは云った。「私は、御顔を仰ぎ見るでしょう」。アルテミス神殿について語られているところ、それはあまりにも壮麗に黄金で飾られ、あまりにも光輝いていたため、その玄関の門番は、そこに入るあらゆる人に常にこう云っていたという。「自分の目には気をつけなされ。自分の目には気をつけなされ。気をつけておらぬと、目がくらんで目しいてしまいますぞ」。しかし、おゝ! かの栄光の眺めよ! かの大いなる現われよ。神の眺めよ! 顔と顔を合わせて神を見ること、天国に入ること、また、義人が天空の星々のように明々と輝くのを見ること。だが、何にもまさることに、かの永遠の御座を一瞥すること! あゝ! そこに神は座しておられる! 私が神を描写しようとするなど、ほとんど冒涜であろう。この大いなる主題にとって、私の貧弱な言葉が何と無限に遠く力及ばぬことか! しかし、神の御顔を仰ぎ見ること、私はその御目の光輝について語ることはすまい。愛と情愛のことばをお語りになるその御口の威光について語りはすまい。しかし、その御顔を仰ぎ見ること。《神格》の最深海へと没入し、その無窮の広がりに我を忘れたことのあるあなたも、そのごく僅かしか告げることはできない! あなたがた、高貴な、「この幾千年も天国に住まってきた者たち」なら、ことによると知ってはいるかもしれないが、それを告げることはできないであろう。御顔を見ることがいかなることかを。私たちはみなひとりひとり、そこに行き、不死性を身に帯びなくてはならない。蒼穹を越えて上り、いのちの川に身を浸さなくてはならない。稲妻よりも高く飛翔し、星々をも乗り越えなくてはならない。そうしなくては、神の御顔を見ることがいかなることかを知ることはできない。言葉でそれを述べるはできない。そこで私はそのことに手をつけはすまい。詩篇作者の希望は、自分が神の御顔を見ることであった。

 しかし、この喜びには、独特の甘やかさが入り混じっていた。なぜなら、彼は、自分が神の御顔を、正しい訴えで、仰ぎ見ることになると知っていたからである。私は自分の御父の顔をこの地上で見たことがなかっただろうか? しかり。「鏡にぼんやり映る」ように見たことはある[Iコリ13:12]。しかし、キリスト者は時として、その天的な瞬間に地上が失せ去り、精神から物質が脱がされるとき、神を仰ぎ見たことがなかっただろうか? ある時期には、露骨な物質主義が静められ、内なる永遠の火が燃え上がるあまり、天の火にほとんど触れそうになることがある。そうした時期、どこかの引きこもった場所で静まり、一切の地上的な思いから自由にされるときに私たちは、自分の足から靴を脱いだ。自分の立っていた場所が聖なる地だったからである。そして私たちは神と言葉をかわした! エノクが神と語り合ったのと全く同じように、キリスト者もその御父と親密な交わりを有してきた。神の愛の囁きを聞き、神の心を間近に感じ、自分の悲しみ、自分の呻きを神の前に注ぎ出したことがあった。しかし結局においてキリスト者は、自分が正しい訴えで御顔を仰ぎ見たのではないと感じてきた。そこには、あまりにも多くの罪があるため目は曇らされ、あまりにも多くの愚かさ、あまりにも多くの脆弱さがあるため、私たちのイエスを明晰に眺め見ることができなかったのである。しかし、ここで詩篇作者は云っている。「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見……るでしょう」、と。その華々しい日が起こり、私が私の《救い主》を顔と顔を合わせて見るとき、私は主を「正しい訴えで」見るであろう。天国にいるキリスト者は、その衣にしみ1つ有していないであろう。きよく純白であろう。しかり、地上においてもキリスト者は、

   「御血にてきよく 天使のごと白し」。

しかし、天国において、その白さはいやまして明らかになるであろう。今、それは地によって曇らされたり、このみじめな肉の世のちりで覆われたりすることがある。だが天でキリスト者は磨きをかけられ、その翼を洗ってきよめられるであろう。そして、そのときその人は、神の御顔を正しい訴えで見るであろう。わが神よ。私は、私があなたの御顔の前に、あなたご自身と同じくらいきよい者として立つことになると信じます。私はイエス・キリストの義を得ることになるからです。そこでは、神の義が私に着せられているでしょう。「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見るでしょう」。おゝ、キリスト者よ。あなたはこのことを楽しめるだろうか? 私がそれについて語れなくとも、あなたの心はそれについて瞑想しているだろうか? 神の御顔を永遠に仰ぎ見ること。その眺めに浴すること! 確かに、あなたにそれを理解することはできない。だが、その意味を思い量ることはできる。神の御顔を正しい訴えで仰ぎ見ることを!

 第二の祝福は、手短に語ることにするが、満ち足りることである。詩篇作者は云う。その人は、目ざめるとき、神の御姿に満ち足りるであろう、と。満ち足りる! これは、キリスト者が天国に入ったときに受ける、もう1つの喜びである。現世で私たちは、決して完全に満ち足りることはない。確かに、キリスト者は自分自身に満ち足りている。その人は、慰めに潤う泉となるものを内側に有しており、堅固な満足を楽しむことができる。しかし、天国は真の、本物の満足の家である。信仰者が天国に入るとき、私の信ずるところ、その人の想像は完全に満ち足りるであろう。その人が、そこで目にすることになるとずっと考えてきたものすべて、聖なる考えのすべては、具象化するであろう。あらゆる偉大な観念は現実となり、あらゆる栄光に富む想像は、手でふれ、目で見ることのできるものとなるであろう。その人の想像は、天国にまさるものを何1つ考えつくことはできないであろう。そして、その人が永遠を通じてずっと座っているとしても、その栄えある都の光輝をしのいで輝かしいものは何1つ思いつけないであろう。その人の想像は満ち足りるであろう。また、そのときその人の知性は満ち足りるであろう。

   「そこで我れ見て、聞いて知るなり、
    地上(ここ)で願いて、望みしすべてを」。

現世では、だれが自分の知識に満ち足りるだろうか? 私たちには、自分の知りたい秘密がないだろうか? 自然の奥義には私たちの入ったことのない深みかあるではないだろうか? しかし、かの輝かしい状態において私たちは、自分の知りたいだけのことを知ることになるであろう。記憶も満ち足りるであろう。私たちは過ぎし歳月の追憶を振り返って眺め、自分が地上で耐えてきたこと、行なったこと、苦しんだことのすべてに満足するであろう。

   「かの日、みどりの 花咲く丘に、
    倦みしわが魂(たま) 座り憩いて、
    我をも忘る 歓喜とともに、
    踏みにし労苦 数え直さん」。

希望は、もしそのようなものが天国にあるとしてだが、満ち足りるであろう。私たちはその後の永遠を希望するし、それを信じているであろう。しかし私たちは、自分の希望については絶え間なく満ち足らされるであろう。そして、全人的に満足するあまり、神のいかなるお取り扱いにも、変えてほしいと願うようなことは、ただの1つもないであろう。しかり。ことによると私は、あなたがたの中のある人々が意義を唱えることを云うかもしれない。――だが、天国にある義人は、失われた人々の滅びについても全く満ち足りるであろう。私は常々、地獄にいる失われた人々を見ることができたとしたら、彼らのために泣くに違いないと考えていた。彼らの恐ろしいむせび泣きを聞き、そのすさまじい苦悶に引き歪んだ顔を見ることができたなら、確かに彼らを可哀想に思うに違いない。しかし、天国には、そのような感情は全くないとされている。信仰者はそこで、神のあらゆるみこころに満ち足りることになる。そして、神が最善になさったのだという思いの中で、失われた人々のことも全く忘れ果ててしまう。彼らの滅びでさえ、彼ら自身の過誤によるものであり、神はそのことにおいて無限に義しくあられるのだ、と。たとい私の両親が地獄にいる私を見ることができたとしても、彼らは、自分たちは天国にいるが、私のために一滴も涙を流さないであろう。というのも、彼らはこう云うだろうからである。「これが正義です。大いなる神よ。そして、あなたの正義は、あなたのあわれみと同じほどにあがめられなくてはなりません」。そしてさらに、彼らはこう感ずるであろう。神はその被造物よりもはるかに高みにおられるので、こうした被造物たちが粉砕されることによって神の栄光がいや増し加わるとしたら、自分たちは、それを見ることで満足する、と。おゝ! 私の信ずるところ、天国において私たちは、人々を正しく評価することになるであろう。現世において人間は、私たちにとって大事なものと思える。だが、天国において彼らは、収穫のため畑を耕す際に一掃される、地べたを這う僅かばかりの昆虫のようにしか見えないであろう。ちっぽけなひとすくいのちりとしか見えないであろう。あるいは、それまでさんざん害をなしてきたがために、根絶するしかない雀蜂の巣か何かにしか見えないであろう。私たちがいと高きところで神とともに座し、他の国々をいなごのように見下ろし、「島々を細かいちりのように」みなすとき[イザ40:18、22]、彼らは、この上もなく小さなものに見えるであろう。私たちはあらゆることに満ち足りるであろう。不平不満など1つもないであろう。「私は……満ち足りるでしょう」。

 しかし、いつだろうか? 「私は……目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。しかし、目ざめるまでは、そうならないであろう。しかり。現世では困難が起こる。あなたも知るように、天国には、神の御姿で目ざめたことのない者たちがいる。事実、天国にいる人々のうち、そのように目ざめた者はひとりもいない。彼らは、自分たちの魂については、決して一度も眠らなかった。この目ざめとは、彼らの肉体に関するものである。肉体は、まだ目ざめてはいない。――むしろ、今なお眠りについている。おゝ、地よ! お前はこの大いなる死者の寝室である。この世界は、何と広大な眠りの家であろう! これは、1つの広大な共同墓地である。義人は今なお眠っている。だが彼らは、復活の朝に目ざめるとき満ち足りることになる。「しかし」、とあなたは云う。「彼らは今は満ち足りていないのだろうか? 彼らは天国にいる。彼らが悩んでいるなどということがありえるだろうか?」 しかり。彼らは満ち足りてはいない。天国に入り込むことのできる不満がたった1つある。――祝福された人々の肉体が、まだそこにはない、という不満である。1つ比喩を用いさせてほしい。それが、私の云いたいことを、ある程度は説明するであろう。あるローマ人征服者が戦争に出かけて行き、大勝利を得たとする。その後、彼は、自分の兵士たちとともに自宅に入り、翌日まで愉快に過ごしたいと切望するはずである。そして、その翌日には、その町を出て行き、それからもう一度、凱旋式によって再入城するであろう。さて、もしこのような云い回しを用いてよければ、聖徒たちは、いわば、自分たちの肉体なしに天国にもぐり込んでいるのである。だが、その肉体が目ざめることになる最後の審判の日には、その凱旋の戦車に乗って天国に入城するであろう。私には、その壮大な行進が見えるようである。だれよりも真っ先にイエス・キリストが、人間として、その頭に冠をいただき、その輝く栄光の肉体をもって先頭に立つはずである。私は、私の《救い主》が最初に入って来られるのを見る。その背後にやって来るのは聖徒たちである。彼らは、全員がその手を打ち鳴らしつつあり、全員がその黄金の立琴に手をかけており、凱旋式によって入ってくる。そして、彼らが天国の門に到着し、その扉が大きく開いて栄光の王を迎え入れるとき、今こそ御使いたちは、凱旋軍を迎える住民たちのように窓という窓に、また屋根の頂に鈴なりになって、街路を通過する彼らを見下ろし、天国の薔薇をまき散らしては、彼らに向かって、声も限りにこう叫びに叫ぶであろう。「ハレルヤ! ハレルヤ! 《全能》の主なる神は支配される!」 この栄えある日に、「私は満ち足りるでしょう」。その日、神の御使いたちのすべてがやって来て、その凱旋式を見て、神の民は神とともに戦勝者とされるのである。

 ここで、1つの思想を忘れてはならない。それは、詩篇作者によると、私たちが神の御姿に目ざめることになる、ということである。これは魂に関連しているであろう。というのも、義人の霊は、その幸い、聖潔、きよさ、無謬、永遠、痛みからの解放において、神に似たものとなるはずだからである。だが、特に、これは肉体に関連していると私は思う。なぜなら、これは目ざめについて語っているからである。肉体は、キリストの似姿となるはずである。何という思想であろう! これは――悲しいかな、今晩取り上げた多くの思想と同じく――言葉で示すには荷が勝ちすぎる思想である。私はキリストの似姿で目ざめることになっている。私は、キリストがいかなるお姿をしているか知らないし、ほとんど想像もできない。時として私が大きな喜びとするのは、十字架刑に遭っておられるキリストをじっくり眺めることである。私は人々が何と云おうと気にしない。――私は、私の死に給う、十字架につけられた《救い主》の画像から益を引き出してきたことを知っている。また、私は、その茨の冠と、刺し貫かれたわき腹と、その血の滴る手と足と、そうした血糊の滴のすべてが滴り落ちている主を見つめる。だが私は、天国におられる主を思い描くことはできない。主はあまりにも輝かしく、あまりにも栄光に富んでおられる。人間を通して、あまりにも神が輝いておられる。その目は燃えるともしびであり、その舌は両刃の剣のようであり、その頭は雪のように白い髪の毛で覆われている[黙1:14、16]。主は《年を経た方》[ダニ7:9、13]であり、雲を帯として巻いておられ、お語りになると、それは大水の音のようである[黙1:15]! 『黙示録』に書かれた記述を読んでも、主がいかなるお方であるかを告げることはできない。それらは聖書の言葉遣いであって、私にはその意味が理解できない。だが、それらがいかなる意味であるにせよ、私は自分がキリストの似姿で目ざめることになると知っている。おゝ、私たちの中のある者たちが天国に行くとき、それは何という変化となることか! そこには、救いの言葉を口にしながら戦いの中に倒れた人がいる。その両足は吹き飛ばされ、そのからだは軍刀でめった斬りにされている。だがその人が天国で目ざめるとき、自分のからだが、押しつぶされても、不具になってもおらず、傷だらけでもなく、切り刻まれても、怪我をしてもおらず、キリストの似姿になっていることに気づくのである。そこには、長年の間、その倦み疲れる道を杖にすがりながらよろめき歩いてきた老婦人がいる。時は彼女の額に皺を刻んできた。やせ衰え、足も不自由なまま、彼女の肉体は墓に横たえられる。しかし、おゝ! 老いた婦人よ。あなたは若さと美しさをもってよみがえるであろう。他の人は、生前は奇形のからだをしていたが、目ざめるときにはキリストの似姿で目ざめるのである。私たちの顔かたち、姿かたちがいかなるものであったにせよ、天国においては、美しい者が、かつて奇形であった者たち以上に美しくなることは決してない。地上で輝いていた者たち、並びもなき者たち、最も美しい者らの間にいた者たち、その眼差しで人々を魅了してきた者たちは、いま見過ごしにされ、無視されている人々にまさって天国で輝くことは全くないであろう。というのも、彼らはみなキリストに似た者となるからである。

 III. しかし、しめくくりとして、《ここには、非常に悲しい対比が暗示されている》。私たちはみな眠ることになる。ほんの数年もしたら、この場にいる全員はどこにいるだろうか? クセルクセスが泣いたのは、まもなく彼の全軍が消え去ってしまうからであった。いかに私はここに立って泣くのが当然であることか。なぜなら、もう数年もすれば、他の人々がこの場所に立ち、こう云うだろうからである。「先祖たちは今、どこにいるのか」[ゼカ1:5]。善なる神よ! だが、それが真実ではないだろうか? 現実ではないだろうか? すべての人がなぎ払われることになるではないだろうか? それは、どろどろと溶け崩れていく1つの大きな眺めではないだろうか? あゝ! その通りである。この光景はすぐに消え失せ、あなたも私もそれとともに消え去る。私たちは、ただの見せ物でしかない。この人生は、「人間が演ずる一場の芝居」でしかなく、それから私たちは緞帳のかげに行き、自分の化粧を落として、神と語り合う。私たちは、生き始めた瞬間に、死に始める。やがて挽き切られてあなたの棺を作ることになる木は、すでに育って何年にもなっている。土地はあなたがた全員のための用意ができている。しかし、この光景はじきにもう一度現われるはずである。短い夢を1つ見て、大急ぎのうたたねを1つすれば、この眺めがことごとく再現するはずである。私たちはみな目ざめるであろう。そして、私たちが今この場に立っているように、私たちはともに立つ、ことによると、これよりもずっと混み合って密集して立つことになる。しかし、そのとき私たちは同一水準に立つであろう。――富者も貧者も、説教者も聴衆も。そこには1つしか区別はない。――義人と悪人である。最初私たちはともに立っているであろう。私にはその光景が目に見えるようである。海は沸騰している。天は真っ二つに引き裂かれ、雲は戦車のような形に変じ、その上に乗ったイエスが、火の翼を伴い、空を切ってやって来られる。その御座が据えられる。主はそこに着座される。1つうなずくと、主は全世界を黙り込ませる。主はその指を上げて、数々の大いなる運命の書を開かれる。時の間になされたもろもろの行ないが記されている、私たちの審査の書が開かれる。その指先によって主は、上天の万軍に合図し、「分けよ」、と云われる。「全宇宙を分けよ」。あっと云う間もなく、全地は2つに分かれる。この分割がやって来るとき、私はどこにいることになるだろうか? 私は、彼らがみな分かたれ、義人が右にいるのが見えるようである。彼らに向かって主は、楽の音よりも甘やかな声で云われる。「来るがいい! あなたがたは、ずっとこちらに来続けていた。――あなたの前進を続けるがいい! 来るがいい! こちらに来ることは、あなたの人生の本分だったのだから、それを続けるがいい。こちらに来て、最後の一歩を踏むがいい。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初まる前から、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい』*」[マタ25:34]。すると、今や悪人だけが残される。そして彼らの方に向かって、主は云われる。「離れよ! お前たちは、自分の人生の間中、離れて行きつつあった。わたしから離れて行くことはお前の本分だった。お前たちは云った。『あっちへ行け。お前の道など真っ平ごめんだ』、と。お前はずっと離れ行きつつあった。それを続けて、最後の一歩を踏むがいい!」 彼らは恐れて身動きできない。立ちつくしている。《救い主》は復讐者となっておられる。かつてはあわれみを差し出していた御手は、今や正義の剣を握っている。御恵みを語った御口は、今や雷鳴を発している。そして、本気で殺す気で主はその剣を振り上げ、彼らをなぎ払われる。彼らは獅子を前にした鹿のように逃げ散り、底知れぬ穴の顎の中へと入っていく。

 しかし、決して私は、救われるためにあなたが何をすべきかも告げずに説教をやめたいとは思わない。今朝、私は不敬虔な人々、罪人たちの最悪の者らに向かって説教し、多くの者が泣いた。――私は多くの心が溶かされたものと期待したい。――神の大いなるあわれみが語られるのを聞いて泣いた。今晩、私はまだそれを語っていない。時として私たちは、異なる筋道を取らなくてはならない。それが神の御霊の導きであると思う。しかし、おゝ! あなたがた、渇いている者、重荷を負っている者、失われて滅びている者よ。あわれみは、今一度あなたに向かって語りかけている! ここに救いの道がある。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。「だが、信じるとはいかなることでしょうか?」、とある人は云う。「キリストが私のために死んだことを私は知っています、と云うことでしょうか?」 否。それは信じることではない。その一部分ではあるが、すべてではない。どんなアルミニウス主義者もそれは信じているし、そうした教理を報じている、世のいかなる人もそれは信じている。そうした人は、キリストがすべての人のために死んだと考えているからである。こういうわけで、それは信仰ではない。むしろ、信仰とはこのことである。あなた自身をキリストにゆだねることである。ある黒人は、お前は何をして救われたのか、と聞かれたときに、珍無類の云い方をした。「旦那様」、と彼は云った。「おらは、エス様の上にべたっと寝そべって、そこで横になっとるですだ。御約束の上にべたっと寝そべって、そこで横になっとるですだ」。そして、あらゆる悔い改めた罪人に向かって、イエスはこう云っておられる。「わたしは完全に救うことができる」[ヘブ7:25]。では約束の上にべたっと身を投げ、こう云うがいい。「ならば、主よ。あなたは私をも救うことがおできになります」。神は云っておられる。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。主に身をゆだねるがいい。そうすれば、あなたは救われる。「あゝ!」、とある人は云う。「私は自分が神の民のひとりではないのではないかと恐れるのです。いのちの書には自分の名前が書かれていないのですから」。だが、書かれていないのは非常によいことである。もし聖書があらゆる人の名前をそこに載せていたとしたら、非常に膨大な書物となっていたであろう。また、たといあなたの名前がジョン・スミスであり、あなたがその名を聖書の中に見たとしても、もしあなたがいま神の約束を信じていないとしたら、確かにあなたは、それはだれか他のジョン・スミスであると思い込むに違いない。かりにロシア皇帝が、あらゆるポーランド人難民に向かって、母国に帰るよう布告を発したとする。あなたには、ひとりのポーランド人難民が、その大きな掲示が壁にかかっているのを見て、喜色を浮かべてこう云うのが見える。「ようし、私は故郷に帰ってよいのだ」。しかし、ある人が彼に云う。「これはワレウスキーとは云っていませんよ」。「その通り」、と彼は答えるであろう。「だが、これはポーランド人難民と云っている。ポーランド人というのが私の名前で、難民というのが私の苗字なのだ。ならば、これは私のことだ」、と。それと同じように、聖書の中にあなたの名前は書かれていなくとも、それは失われた罪人と云っているのである。罪人というのがあなたの名前で、失われたというのがあなたの苗字なのである。それゆえ、なぜ来ようとしないのか? それは「失われた罪人」と云っている。――それだけで十分ではないだろうか? 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。「ええ、でも」、と別の人が云う。「私は自分が選ばれた者でないのを恐れているのです」。おゝ! 愛する魂よ。そのことで自分を悩ませてはならない。もしあなたがキリストを信ずるなら、あなたは選ばれた者なのである。だれであれ、イエスのあわれみを身にまとう者は選ばれた者である。というのも、選ばれた者でない限り、人は決してそうしないはずだからである。だれでもキリストのもとに来る者、その血によるあわれみを期待する者は、選ばれた者であり、その人は後で自分が選ばれた者であることを見てとるようになる。だが、悔い改めを悟るまでは、選びを悟れると期待してはならない。選びは、あなたがた小さい者たちが、悔い改めという学校に通った後でなければ入学することのない大学なのである。自分の本を後ろから読み出してはならない。主の祈りを唱える前からアーメンと云ってはならない。「天におられる我らの父よ」、から始めれば、やがて、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」へと至るであろう。だが、「御国」から始めたら、「我らの父」に戻るまでには、さんざん苦労するであろう。私たちは信仰から始めなくてはならない。この一言から始めなくてはならない。――

   「わが手にもてる もの何もなし」。

神は、無から世界を造られたように、常にご自分のキリスト者たちを無からお造りになる。そして、今晩何も持っていない者は、求めて来さえするなら、恵みとあわれみを見いだすであろう。

 しめくくりに、私がひとりの貧しい婦人について聞いたことのある話を告げさせてほしい。その婦人が回心して、いのちに至らされたのは、ただある路地を奥へと歩いていったときに、ある戸口のところに腰かけていた子どもが、こう歌うのを聞いたことによってであった。――

   「われ 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

これは、ほむべき歌である。家に帰って、これを歌うがいい。そして、この短い言葉を正しく理解できる者、自分がイエスなしでは空虚であると感じられる者、だがキリストのうちにすべてを有している感じられる者は、天国から遠く隔たっているだけでなく、信仰において、そこにいるのである。また、その結果として、神の御姿にあって目ざめるとき、そこにいることになるであろう。

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未来の至福の希望[了]

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