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最後の戦いに関する思想

NO. 23

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1855年5月13日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。――Iコリ15:56、57


 聖書は何にもまして詩的な本の1つであり、その文体は言葉に尽くせぬほど崇高なものではあるが、云っておかなくてはならないのは、それが常に一貫して現実のありのままの姿を伝えている、ということである。そこには1つとして、引き歪められた事実や、真実の粉飾などはない。その主題がいかに暗いものであれ、聖書は、それを明々と照らし出す一方で、そこに関わる陰鬱さを決して否定することがない。パウロの手紙のこの章は、稀代の名文とたたえられて差し支えないものだが、これを読むときあなたは気づくであろう。人間の死後やって来るものについてパウロがいだいている歓喜と誇りの途方もなさは、人が、「もしこれが死ぬということなら、今すぐ世を去ってもよい」、と叫びたくなるようなものである、と。次のような文章を読んで喜ばなかった者、心を高揚させられなかった者、聖なる火で満たされなかった者がいるだろうか? 「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」[Iコリ15:52-55]。だが、こうした壮麗な言葉遣いのすべて、この大胆な雄弁の迸りのすべてにもかかわらず、彼は死が陰鬱なものであることを否定してはいない。彼の比喩そのものでさえ、それを暗示している。彼は死を笑い飛ばしていない。「なあに、死ぬことなど大したことではないさ」、と云いはしない。彼は死を一匹の怪物として描写し、とげを有するものとして語り、そのとげの力がどこにあるかを私たちに告げ、この勝利の叫びにおいてすら、その勝利を何の助けも受けていない肉に帰すのではなく、こう云うのである。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」、と。

 このような聖句を選ぶとき、私は、ここから説教することはできないと感じる。その思想に私は圧倒され、口ごもらざるをえない。この素晴らしい聖句の力強い意味を伝えるに足るほど偉大な言葉を発することはできない。たとい私に全人類を寄せ集めたほどの雄弁があろうと、たとい私が、「あの人が話すように話した人はいまだかつてありません」(あの神々しいナザレの人だけは唯一の例外だが)、と云われるような語り方をしたとしても[ヨハ7:46]、これほど広大な主題をことごとく語り尽くすことはできないであろう。それゆえ私は、そのようなことができるふりはせずに、私の頭から紡ぎ出せるいくつかの思想をあなたに提示することにしよう。

 今晩、私たちは3つの事がらについて語りたいと思う。第一に、死のとげについて。第二に、罪の力について。そして第三に、信仰の勝利について。

 I. 第一に、《死のとげ》についてである。使徒は死を、一匹の恐ろしい竜、あるいは怪物として描き出している。この怪物は、あらゆる人のもとにやって来て、ひとりひとりが自分でそれと戦わなくてはならない。使徒は、私たちの中にそれを逃れられる者がだれかいるなどという希望を全く与えていない。彼は、《死》という河に橋がかかっているとは全く告げていない。死ぬことなしに、存在のこの状態から別の状態へと浮かび上がれるなどという希望は、これっぽっちも差し出していない。彼が描写するこの怪物は、まさに私たちの通り道に立ちはだかり、それと私たちは、ひとりひとり、個人個人が、別々に、ひとりぼっちで戦わなくてはならない。あらゆる人が死ななくてはならない。私たちはみな、かの黒い流れを渡らなくてはならない。ひとりひとりが、かの鉄の門を通り抜けなくてはならない。現世から来世へと、死を経ずして行くことはできない。そこで使徒は、これを逃れる見込みは全くないと私たちに告げた上で、その戦闘へ向けて私たちの勇気を奮い起こさせようとするのである。だが、彼は、私たちがこの怪物を撃ち殺せるという希望を全く与えていない。私たちが自分の剣をこの怪物の心臓に突き刺し、死を打倒し、打ち負かせるとは云っていない。むしろ、この竜を指さして、こう云っているかのように思える。「人よ。あなたにこいつは打ち殺せない。あなたが自分の足をこいつの頭に載せて、そのかしらを踏み砕ける望みは全くない。だが、1つだけできることがある。――こいつの持っている一本のとげを、あなたは引き抜くことができる。あなたは死を足で踏み砕くことはできないが、その致命的なとげを抜き取ることはできる。そうすれば、この怪物を恐れる必要は何もない。もはやそれは怪物ではなくなり、むしろ、瞬時に飛びかけては、あなたを天高く軽々と運んでくれる御使いとなるからである」。では、この竜のとげはどこにあるのだろうか? どこを私は打たなくてはならないのだろうか? そのとげとは何だろうか? 使徒は私たちに告げている。「死のとげは罪である」、と。いったんそれを切り落とせば、確かに死はやるせない厳粛なものではあるが、それに恐怖せずともよいのである。むしろ、その怪物のとげを掲げ持って私はこう叫べるのである。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」、と。ここで、「死のとげは罪である」、という事実について詳しく述べてみよう。

 1. 最初に、罪が死にとげを植えつけるのは、罪が死を世界にもたらしたという事実からである。人々は、もし死が罰であることを知らなかったとしたら、もっと死ぬことに満足できるであろう。もし私たちが一度も罪を犯したことがなかったとしたら、私たちは何らかの手段で現世から来世へと行くことになっていたはずだと思う。アダムから今に至るまでの無数の人間全員が、これほど小さな地球上にひしめいていたとしたら、十分な居住空間がなくなっていたであろう。それほど莫大な人口が存在していただろうとは考えられない。むしろ、そこには、しかるべき時に私たちを取り去り、無事に天国へ連れていくための、何らかの手段が備えられていたであろう。神は、ご自分のエリヤたちひとりひとりのために、火の戦車と火の馬をお備えになったかもしれない[II列2:11]。あるいは、エノクについて云われているように、私たちひとりひとりについても、こう宣言されていたのかもしれない。「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」[創5:24]。このようにして、死ぬこと――それを死と呼べるとしてだが――、この肉体を離れて神とともにあることは、何の恥辱でもなかったであろう。事実、それはこの上もない栄誉となっていたことであろう。それは、魂の最も高遠な憧憬、すなわち、この世でつかの間の生を送り、その後、そこから高く上って、自分の神とともにいるようになるという願いにかなうものであったろう。そして、最も信心深く敬虔な人の祈りにおいて、その最も崇高な嘆願の1つは、こう願うことであったであろう。「おゝ、神よ。私の出発の時、私があなたといられるようになる時を、どうか早め給え」。このように罪なき存在たちは、自分たちの出発について考えるとき、おののきはしなかったであろう。というのも、その門は象牙と真珠でできており――今のように鉄でできてはおらず――、その河は、現在の「死の苦しみ」[Iサム15:32]とは似ても似つかぬ不老不死の美酒となっていたであろうからである。しかし、悲しいかな! 死は今、罪の罰なのである。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」[創2:17]。「アダムにあってすべての人が死んでいる」[Iコリ15:22]。彼の罪によって、私たちひとりひとりは罪の刑罰に服するものとなり、このようにして、罰である死には、そのとげがあるのである。最良の人、この上もなく聖いキリスト者、だれよりも聖なる者とされた理知の人、最も近しく、最も親密な神との交流を有する魂にとってすら、死にはとげがあると思わざるをえない。なぜなら、罪が死の母親だからである。おゝ、罪の破滅的な産物よ。私がお前に怯える理由はただ1つ、お前の生まれにあるのだ。もしお前が私のもとに《誉れとして》やって来たとしたら、私は今でさえヨルダンを渡渉できよう。そして、その冷たい波が私を囲むときも、私はそのうねりの中で微笑むであろう。ヨルダンの川がいっぱいに溢れるとき、私の歌もまたあふれ、私の声の流れるような音楽が、その大水の流れるうねりと1つに合わさっていったであろう。「ハレルヤ! 栄化された者らの地へと渡るは幸いなるかな」。これが、死のとげが罪である1つの理由である。

 2. しかし、私はこれを別の意味においても取り上げなくてはならない。「死のとげは罪です」。――これは、次のように云っているのである。すなわち、死を人間にとって最も恐ろしいものとしているのは、赦されない場合における罪である。たとい、それが使徒の正確な意図でないとしても、それでも、これは大いなる真理であり、私はそれをここに見いだせるのである。もし罪が私に重くのしかかり、それが赦されていなかったとしたら、――もし私のそむきの罪が赦罪を得ていなかったとしたら、――もしそうした事実があったとしたら(私は、それが事実でないことを知り、喜んでいるが)、それは、まさに私にとって死のとげとなっていたであろう。ある人が死の間際に、自分の過去の人生を顧みているとする。その人は死にとげを見いだすであろう。そして、そのとげとは、その人の過去の罪であろう。ある征服者が臨終の床についていると想像してみるがいい。その人は、若い頃から血塗られた生き方をしてきた。戦陣で育てられたその人は、幼いときから角笛に唇をあて、幼児期から軍鼓に手を馴染ませていた。戦を好む性格で、名声と歓呼の声を喜びとし、戦塵と、ぐしゃぐしゃに丸められた血染めの衣を愛していた。人々が栄光と呼ぶ人生を送ってきた。町々を強襲し、国々を征服し、大陸を略奪し、世界を圧倒してきた。見るがいい。その人の旗が玄関広間にかけられ、栄光のしるしがその人の盾につけられているのを。その人は、地上で最も誇り高い戦士のひとりである。しかし今、その人は死のうとしている。横たわり、今まさに息を引き取ろうとしているその人の死に、何が恐怖をつきまとわせるだろうか? それは、その人の罪であろう。ある帝王が死にかけている姿を私が見ているとしよう。彼は威儀を正して横たわっている。彼の回りを、その廷臣や議官たちが取り巻いている。だが、そこには他のだれかがいる。彼のそばにぴったり寄り添って、黄泉から来た1つの霊が立っている。それは、すでに世を去ったひとりの女の魂である。彼女は彼を見下ろして云う。「人でなし! 私の夫は、お前の野心のために、戦争で殺されたのよ。私はやもめにさせられ、父親をなくした可哀想な子どもたちと私は飢えに苦しめられたのよ」。そして彼女が消え去ると、その夫がやって来る。血まみれの傷口を次々と開くと、彼はこう叫ぶ。「かつて私はお前を主君と呼んだ。だが、お前は、その卑しい貪欲により不義の戦を起こした。ここの、この傷を見るがいい。――私は、あの攻囲戦でこの傷を受けたのだ。お前のために私は真っ先に攻城梯子に登った。この足は城壁の天辺に立ち、私は勝ち誇って自分の剣を振り回した。だが地獄で私は苦悶の中から目を上げる。卑しむべき卑劣漢めが。お前の野心が私を早めにここに追いやったのだ!」 憎しみのこもった目を向けながら、彼は消え去る。それから別の霊が、また別の霊が、そして別の霊がやって来る。自らの墓場から起き上がって、彼らは彼の寝台の回りに忍び寄り、彼に取りついて悩ませる。この陰鬱な行進はぞろぞろと続き、死にかけている暴君を見下ろして行く。彼は目を閉じる。だが、冷たく骨ばった手が自分の額に置かれるのを感じる。彼は震え出す。死のとげが彼の心の中にあるからである。「おゝ、死よ!」、と彼は云う。「この広大な地所、この強大な領土、この威勢と権力を後に残すこと――それも辛いことではある。だが、この男たち、この女たち、このみなしごの子どもたちと、顔と顔をつき合わせて、『あなたもまた私たちに似た者になってしまった』*という言葉を聞かされるのは、――また私が退位させた王や、私が打倒した君主どもが私の耳元で鎖をジャラジャラ鳴らし、こう云うのを聞かされるのは! 『あなたはわれわれを滅ぼした者。だが暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか! どうしてあなたは一瞬のうちに、あなたの栄光と誇りから叩き落とされたのか!』」[イザ14:10、12参照] ここにあなたは、死のとげが人の罪であることを見てとるであろう。自分が死ななくてはならないことは、その人を刺さないであろうが、自分が罪を犯したこと、自分が血まみれの男であること、自分の手がおびただしい数の殺人によって赤く染まっていること、――こうしたことこそその人を本当に苦悩させるのである。というのも、「死のとげは罪」だからである。

 あるいは、別の人物について考えてみるがいい。――ひとりの教役者である。その人は世間の前に立ち、自分で福音と称するものを宣告してきた。その人は著名な説教者であった。おびただしい数の人々が彼の口から出てくる言葉を一言も聞き漏らすまいと押し寄せ、彼の雄弁の前には国々も驚嘆させられ、何万人もの人々が彼の声に身震いをした。しかし、彼の説教者生活は終わった。講壇に立つことのできる時期は過ぎ去った。別の立ち場所、別の会衆が彼を待っており、彼は別の、自分よりもすぐれた説教者の言葉を聞かなくてはならない。そこに彼は横たわっている。彼は自分の務めに不忠実であった。真理を宣べ伝えて、信徒たちの心を打つかわりに、哲学を宣べ伝えて、彼らを魅了してきた。そして、自分の寝台の上で喘いでいる彼、人間の中でも最悪にして最も呪われた存在である彼、――というのも、確かに彼にまさる悪人はいないからである。――そこに、1つの魂が穴の中からやって来て、彼の顔を見つめてこう云う。「私はかつてあなたのもとに、罪ゆえに震えながらやって来た。私があなたに天国への道を尋ねると、あなたは、『これこれの良い行ないをしなさい』、と云った。それで私がそうしたが、いま私は罪に定められている。あなたは私に偽りを告げたのだ。あなたは神のことばを平易に宣言しなかったのだ」。その魂が消滅するや、たちまち次の者が現われる。それは不信心な人物であった。そして、臨終の床についているこの教役者を見下ろすと、こう云う。「あゝ! お前はここにいたのか。俺は一度、お前の祈りの家に足を踏み入れたことがある。だがお前は、俺には全然理解できないような説教をしていた。俺は耳を傾けた。お前の口から何か、俺の魂を燃やして、俺を悔い改めさせるような真理を何か聞きたいと思った。だが、俺にはお前が何を云っているかわからなかった。それで、今の有様というわけよ」。亡霊は足を踏み鳴らし、この人はぶるぶると震え出す。なぜなら、彼はそれがすべて真実であると知っているからである。それから、寝台で横になっている彼の前に、全会衆がよみがえる。彼はその種々雑多な一団を眺める。老人たちの白髪頭も、若者たちのきらめく眼差しも目に入る。そして枕に頭をもたせたまま彼は、過去の自分の人生におけるあらゆる罪を脳裡に描き出し、こう云われるのを聞く。「出て行くがいい! 自分の務めに不忠実だった者よ。お前は虚栄と威厳に対する自分の愛を脱ぎ捨てることをせず、このようには語らなかった。

   『二度と説教できない者であるかのように、
    また、死に行く者が死に行く者らに向かってするかのように』」

おゝ! この教役者にとって、自分の務めを手放すのは辛いことかもしれない。死ぬのは辛いことかもしれない。だが、何よりも悪いこと、それは死のとげが自分の罪であり、自分の教区が地獄まで自分の後を追って来て泣きわめくのを聞くことであり、自分の会衆、自分が道を迷わせた会衆が、種々雑多な大集団となって、わらわらと自分を追いかけてくるのを目にすることである。自分は真の預言者ではなく、にせ預言者であり、平安がないのに、「平安だ、平安だ」、と云い[エレ6:14; 8:11]、神のことばを荒々しく、また、単刀直入に語っていなくてはならなかったときに、嘘で彼らを欺き、音楽で彼らを魅了していたのである。まことに、これは真実であり、真実である。こうした人間にとって、死のとげは自分の大きな、自分の途方もない、自分の憎むべき罪であろう。彼は他の人々を欺いたのである。

 このような二枚の全身画を描き出した上で私は、あなたがたのひとりひとりについての小画像も提示することができよう。私は描写できるであろう。おゝ、酒に溺れている人よ。あなたの杯が飲み干され、あなたの酒類がもはやあなたの好むほど甘くなくなり、胆汁よりも苦いものがあなたの飲む甘露となり、一時間もしないうちに虫どもがあなたの体を肴に謝肉祭を開くであろうときのことを。私はあなたが、徒に費やされた自分の人生を振り返ってみている姿を描写できよう。また、おゝ、悪態をつく人よ。私は、そのときのあなたが、記憶によって耳の中にこだまする、自分の数々の呪詛の言葉によって狼狽している姿が目に見えるように思う。また、情欲と邪悪さをまといつかせた人よ。他の人々を堕落させ、誘惑してきたあなたが、そのとき、死のとげを突きつけられている姿が私には見える。いかにぞっとさせられ、いかに恐怖させられることか! あなたは、激痛に呻いているわけではない。苦悶に身をよじっているわけでもない。あなたの心臓と肉体がめっきり弱ってしまったわけでもない。だが、そのとげは、あなたの罪であろう。この場に、「呵責」という言葉を正しく書ける人が何人いるだろうか? 私が願うのは、あなたが決してその言葉のすさまじい意味を知らずにすむことである。呵責、呵責! あなたは、その語源を知っているであろう。それは、噛むという意味である。あゝ! 今の私たちは自分のもろもろの罪と踊り回っている。――それは私たちにとって陽気な生活である。――私たちはそうした罪の手を取って、真昼の太陽のもとで楽しくはしゃぎまわり、踊りに踊って、喜びながら生きている。しかし、やがて、そうした罪は私たちに噛みつくのである。私たちが手で撫で、一緒に遊んだ仔獅子が噛みついてくるのである。幼い毒蛇、その鮮やかな青色に目を楽しまされる蛇は、噛みつくのである。私たちの魂が呵責が一杯になるとき、それはとげで刺すのである。私は、呵責がいかにすさまじい力を有しているか、いくつかの話を告げようと思えば告げることができよう。それは、地獄の最初の激痛である。かの穴に続く控えの間である。呵責をいだくということは、かの底知れぬゲヘナの火から立ち上る炎の火花を感ずることである。呵責を感じるということは、永遠の苦しみが魂の内側で始まることである。死のとげとは、赦されざる、悔い改められていない罪であろう。

 3. しかし、もしも罪の追憶が死のとげであるとしたら、罪の来たるべき姿はいかなるものとならざるをえないだろうか? 愛する方々。私たちは、罪が後にいかなるものとなるかについて、じっくり見つめることがめったにない。私たちは、罪が現在いかなるものであるかは見てとっている。初めに種、次に苗、次に穂、次に穂の中に実がはいる[マコ4:28参照]。それは願いであり、想像であり、欲望であり、見ることであり、味わうことであり、行動することである。だが、その次に罪はいかなる発展をするだろうか? 私たちは罪が育っていく姿を観察してきた。それが最初はごく小さなものでありながら、次第に大きくなり、ついには山ほどに膨れ上がるのを見てきた。それが、「人の手のひらほどの小さな雲」に見えたのに[I列18:44]、次第にかさを増し、ついには黒雲で天を覆い、苦々しい大粒の雨を降らすのを眺めてきた。しかし、その次の状態で、罪はいかなるものとなるだろうか? 私たちは、そこまでは進んできたが、罪とは決して立ち止まることのないものである。私たちは、それがどこまで育ってきたかを見てとったが、それはどこまで育っていくだろうか? というのも、それは私たちが死ぬ時点ではまだ熟しきっていないからである。それは、さらに熟れていかなくてはならない。すでに熟しつつあるが、永遠にその蕾を開き続けなくてはならない。私たちが死んだ瞬間に、正義の声はこう叫ぶ。「血の泉を封印し、赦しの泉をふさぎなさい。聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。汚れた者はますます汚れを行ないなさい」[黙22:11参照]。そして、それ以後、人はますます汚れの度合を深め続ける。その人の情欲は膨れ上がっていく。その人の悪徳は増し加わっていく。こうした悪の情動のすべては十倍も猛烈に燃え上がり、自分と似たような者らと入り混じり、恵みの抑制が全くなく、みことばが宣べ伝えられることもない中で、人間はどんどん悪い者となっていく。そして、その人の罪がどこまで育っていくか、だれに知れよう? 時々私は、人間が死ぬ時のことを、ある有名な絵になぞらえてみることがある。それは、あなたがたも国立美術館で見たことがあるはずの、メドゥーサの首を掲げるペルセウスの絵である。その首には、それを見た者すべてを石に変える力があった。そこには、一本の槍を手にしたひとりの戦士がいる。彼は石に変えられ、硬くなり、その投げ槍を手にしたまま立っている。別の者は、衣のかげに短剣を隠し持ち、まさに突き刺そうとしている。だが、今や動きをとめた、一個の冷たい暗殺者の彫像となっている。別の者は、待ち伏せしている人のように、こっそり忍び寄ろうとしており、その場で岩に固化したまま立っている。一目その頭を見ただけで、凍りついて石となってしまったのである。よろしい。それが死である。私の前に死が突きつけられたときの私の状態に、私は永遠にとどまらなくてはならない。私の霊が去るとき、もし私が神への賛美を歌っているのを神が見いだされるならば、私は天国で賛美を歌うことになる。私が神への呪詛を吐き出しているのを神が見いだされるならば、私は地獄でそうした呪詛を口にし続けることになる。死が私を置き去りにしたところで、審きが私を見いだすのである。私は、死んだときのままの私で、永遠に生きるのである。

   「いかな恩赦令(ゆるし)も 下ることなし
    我らが急ぐ 冷えし墓には」。

それは永遠、永遠、永遠である。あゝ! 近頃は、一団の異端者たちが、罰は短期間でしかないと語り、神は魂を何年かの間だけ流刑に処し、その後、彼らを死なせるのだと宣べ伝えている。一体そうした連中は、自分たちの教理をどこで学んだのかと思う。神のことばの中には、こう書かれている。ひとりの御使いが片足を地に、片足を海に据えて立ち、生きておられるが一度は死んだお方をさして、「もはやはない」、と誓っているのである[黙10:6 <英欽定訳>]。しかし、もしもある魂が一千年経た後で死ぬことがありえるとしたら、それはの中で死ぬことになるであろう。もし百万年が経過し、それから魂が消去されることがありえるとしたら、そこにはというものがあるであろう。というのも、年というものがある以上、そこには時があるからである。しかし、方々。この御使いが、「もはやはない」、という言葉を語ったとき、物事はそのとき永遠になるのである。諸霊は、幸福か災厄かの、そのやむことなく、とどめられることもない循環を続けていくであろう。というのも、それを止めるいかなる時もないからである。それが止まるという事実があるとしたら、そこには時が暗示されるであろう。だが、あらゆることが永遠になるのである。というのも、時は存在をやめるからである。ならば、今の自分がどこにおり、いかなる者であるかを考えることは、人間にとって非常に理にかなったことである。おゝ! 2つの広漠たる海に挟まれた、狭き地峡に立って震えるがいい。というのも、天の神のほかに、あなたが永遠の未来に送り出されるまでどれだけあるか知る者はいないからである。願わくは神の恵みによって、最後の時が来たときの私たちが、それに備えをしていられるように! 盗人のように、それは音も立てず、姿も見せずに、夜闇に隠れて忍び寄る。ことによると、ここに私が立って、無遠慮にその暗く隠された事がらを語っている間にも、ぬっとその手が突き出され、回らぬ舌でもぐもぐ語っているこの口を沈黙させてしまうかもしれない。おゝ! 天にお住みで、至高の権力をお持ちの、永遠の《王》なる方よ。その時が、時間を浪費している際の私のもとに押し入るようなことがないようにさせ給え。むしろ、高き瞑想に包まれ、わが大いなる《創造主》を賛美しつつある私を見いだすようにさせ給え。そうすれば私は、わが人生の最後の瞬間に碧空を越えて急ぎ、このわが霊の二枚の翼を、その生来の要素に浸して、それから、あなたとともに永遠に住まうであろう。――

   「嘆きと罪の 世より離れて
    永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる」。

 II. 「《罪の力》は律法です」。

 私は、この怪物といかに戦うべきかを示そうとしてきた。――それは、そのとげを引き抜き、滅ぼすことによってである。私はその戦闘のための備えをしている。確かに私は罪を犯してきた。それゆえ、私は死にとげを植えつけてきた。だが、私はそれを取り除こうと努力するであろう。私はそうしようとする。だが、この怪物は面と向かって私を笑い飛ばし、こう叫ぶのである。「罪の力は律法なのだ。お前は、罪を滅ぼしたければ、どうにかして律法を満足させなくてはならないのだ。罪は、お前の涙によっても、お前の行ないによっても取り除くことはできない。というのも、律法がその力だからだ。そして、お前が律法の復讐を満足させるまでは、――お前がその要求の最後の一銭を支払うまでは、俺様のとげを取り去ることはできないのだ。罪の力そのものが律法だからだ」。いま私は、努めてこの、罪の力は律法であるという教理を説明しなくてはならない。ほとんどの人々は、罪には全く何の力もないと考えている。「おゝ!」、と多くの人は云う。「われわれは、幾多の罪を犯してきたかもしれない。だが、われわれはこれから悔い改めよう。そして、われわれの人生の残りにはもっと良い人間になろう。疑いもなく神はあわれみ深いお方なのだから、われわれを赦してくださるであろう」。そして私たちは、多くの神学者たちがしばしば罪について、それが非常に軽微なものであるかのように語っているのを聞く。彼らに、人間が何をすべきであるか問うてみるがいい。深い悔い改めなど全く要求されず、天来の恵みの真の内的な作用や、自らをキリストの血に投げかけることなど全く要求されない。彼らは決して、完全な贖いが成し遂げられたことについて私たちに告げることがない。実際、彼らは、何か朦朧とした贖いの観念をいだいている。すなわち、キリストが死んだのは、単に形だけの問題として正義を満足させるためではあるが、私たちのもろもろの罪を豊かに取り除くことや、私たちに代わって現実に罰を苦しまれたことに関しては、彼らは、神の律法がそのようなことを要求しているとは全く考えない。考えていないと私は思う。というのも、私は一度たりとも彼らが、私たちの主イエス・キリストの積極的な満足と代償について主張するのを聞いたことがないからである。しかし、それなくして、いかに私たちは罪の力を取り除けるだろうか?

 1. 罪の力が律法であるというのは、まず第一に、この点においてである。すなわち、律法が霊的なものであるため、私たちは罪を犯すことなしに生きることが不可能である。たとい律法が肉的なものでしかなく、肉についてのみ関わるものだったとしても、――たといそれが単に公然たる、あからさまな行為だけに関係しているとしても、それでも私は、私たちが罪を犯さずに生きられるかどうか疑問に思う。だが十戒に目を向けて、そこに、「むさぼってはならない」、という言葉を読むとき[出20:17; ロマ7:7]、私はそれが私の心の願いにまで関わっていることがわかる。「姦淫してはならない」、と云われてはいるが[出20:14]、だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのだとも云われているのである[マタ5:28]。それで、罪とは、単に行為だけではなく、思いなのである。単なる行ないではなく、想像そのものなのである。おゝ、さて、罪人よ。あなたはいかにして罪を取り除けるだろうか? 思いそのもの、あなたの精神の内なる作用、こうしたものが犯罪なのである。――これが咎であり、何にもまして陰険なものなのである。さて、罪には力があるではないだろうか? 律法は、罪を勢いづけていないだろうか? 罪を途方もない力で鼓舞してはいないだろうか? その力は、あなたのありったけの力をもってしても、あなたのそむきの罪の途方もなく大きな暗黒を拭い去ることなど期待できないほどではないだろうか?

 2. それからさらに、律法が罪に力を植えつけているというのは、この点においてである。――すなわち、律法は、その厳格な要求の一画すらも目こぼししようとはしない。律法は、それを破るあらゆる人に向かって、「私はあなたを赦さない」、と云う。あなたは、人々が神のあわれみについて語るのを聞く。さて、もし彼らが福音を信じていないとしたら、彼らは律法の下にあるに違いない。だが、律法のどこで私たちはあわれみについて読めるだろうか? もしあなたがその戒めを読み通すならば、それらの後には呪いこそ記されているものの、いかなる赦しも提供されてはいない。律法そのものは、それについて語ってはいない。それは、いかなる刑罰も軽減することなく、こう大喝している。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。たといあなたがたの中のだれかが、行ないによって救われたいと願ったとしても、覚えておくがいい。たった1つの罪であなたの義は損なわれるのである。この地上の澱のしみが1つでもあれば、神があなたの手から求めておられる完璧な義の美しさは損なわれるのである。もしあなたがたが行ないによって救われるとしたら、兄弟たち。あなたがたは御使いと同じくらい聖くなくてはならない。イエスと同じくらいきよく、無原罪でなくてはならない。というのも、律法が要求しているのは完全さであり、それ以下の何物でもないからである。神は、断固たる復讐をもって、ご自分に完全な従順をもたらすことのできないあらゆる人を打ち倒される。もし私が、神の御座の前に出たとき、完璧な義を自分のものとして申し立てられないとしたら、神はこう云われるであろう。「お前はわたしの律法の要求を満たしてこなかった。呪われた者よ、離れよ! お前は罪を犯した。死なくてはならない」。「あゝ」、とある人は云う。「それでも私たちは、いつかは完璧な義を持てるのではないだろうか?」 しかり。私は第三の点として、そのことについて語るであろう。キリストに感謝すべきかな。キリストは、ご自分の血により、ご自分の義により、私たちに勝利を与えてくださる。花婿が自分の花嫁を装身具で着飾らせるように、私たちを宝石を身にまとう花嫁として飾ってくださる。

 3. だがさらに、律法が罪に力を与えるというのは、この事実からである。すなわち、あらゆるそむきの罪について、律法は罰を要求する。律法は決してその負債をびた一文まけることがない。それは、「罪と罰」、と云う。それらは盤石の鎖によって互いに結びつけられている。縛りつけられていて、断ち切ることができない。律法は、罪とあわれみについて語らない。あわれみは福音においてやって来る。律法は云う。「罪を犯すなら、死ね。そむくなら、罰を受けよ。罪を犯せば地獄である」。このように、これらは1つに結び合わされている。いったん私が罪を犯したとして、私が厳格な正義の足下に行けたとする。すると、彼女は、盲人ででもあるかのように、はかりを手に掲げている。私は云うであろう。「おゝ、《正義》よ。思い出してください。私はかつては聖い者でした。思い出してください。これこれの時に、私が律法を守ったことを」。「ええ」、と《正義》は云う。「私があなたに借りがあるとしたら、それはみな返されるでしょう。私は、あなたが行なってもいないことのために、あなたを罰しはしません。ですが、おゝ、罪人よ。あなたはこの罪悪を覚えていますか?」 そして彼女は大きな重りをはかりに載せる。罪人は震えて、こう叫ぶ。「しかし、あなたはそれを赦すことがおできにならないのですか? それを投げ捨ててはくださいませんか?」 「いいえ」、と《正義》は云って、別の重りを載せる。「罪人よ。あなたはこの罪悪を覚えていますか?」 「おゝ」、と罪人は云う。「どうか、あわれみのゆえに、なかったことにしていただけませんか?」 「私があわれみを持つことはありません」、と《正義》は云う。「あわれみには、自分の宮殿があります。ですが私は、ここで赦しとは何の関わりもありません。あわれみはキリストに属しています。もしあなたが正義によって救われたければ、あなたは自分で完全な正義を有していなくてはなりません。もしあなたが私のもとに救いを求めてやって来るなら、私はあなたを助けるためにあわれみを持ち込みはしません。彼女は私の代理人ではありません。私は彼女なしに、ひとりここに立っているのです」。そして、さらに彼女ははかりを手に取っては、別の不義を載せ、別の罪悪を載せ、別の途方もないそむきの罪を載せる。そして、そのたびにこの男は、それを見逃してくれるように泣訴し、哀願する。《正義》は云う。「いいえ。私は罰金を取り立てなくてはなりません。私はそうすると誓ったのであり、何としてもそうします。あなたは自分の身代わりとなる者を見つけられますか? 見つけられるとしたら、そこには私があわれみを持てる唯一の余地があります。私はその身代わりの者から取り立てることにしましょう。ですが、身代わりの者の手からでさえ、私は一銭も残さず受けとります。私は何の軽減もしないでしょう。私は神の厳格にして断固たる正義なのです。私は罰金を改めることも、減額することもしません」。彼女はまだそのはかりを手に持っている。嘆願しても無駄である。「決して私は変わりません!」、と彼女は叫ぶ。「私に血を持って来なさい。耳を揃えて代価を持って来なさい。びた一文まかりません。さもなければ、罪人よ。あなたは死ななくてはなりません」。

 さて、愛する方々。私はあなたに問う。あなたが律法の霊的な性格を考え、それが要求する完璧さ、またその断固たる厳格さを考える場合、あなたは自分の人格における死のとげを取り去る用意ができているだろうか? あなたは、自分で罪に打ち勝つ望みがあるだろうか? あなたは何らかの義の行ないによって、まだ自分の咎を帳消しにできると当て込めるだろうか? もしあなたがそう考えているとしたら、行くがいい。愚か者よ。行くがいい! おゝ、狂人よ。行くがいい! あなたのうちに働かれる神なしに、恐れおののいて自分の救いを達成するがいい。行くがいい。砂であなたの縄をなうがいい。行くがいい。空気の金字塔を建てるがいい。あぶくで家をこしらえて、これは永遠に保つのだと考えるがいい。だが、知るがいい。それは一場の夢にすぎず、すさまじい目覚めに至るであろう。というのも、人が目覚めたときにそれまで見ていた夢を軽蔑するように、あなたの幻影やあなたの義もそれと同じことになるからである。「罪の力は律法です」。

 III. しかし今、最後のこととして、私たちの前にあるのは、《信仰の勝利》である。キリスト者こそは、この死という竜を打ち倒せる唯一の戦士であり、そのキリスト者ですら自分ひとりではそうすることができないにせよ、それを成し遂げたときには、こう叫ぶのである。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。もうひとたび私はあなたに、いかにしてキリスト者が、イエス・キリストの功績によって、平然と死を見つめることができるかを示したいと思う。

 最初に、キリストが罪の力を取り去ったというのは、この点においてである。すなわち、主は律法を取り除かれた。私たちは、束縛の下にはなく、恵みの下にある[ロマ6:14参照]。律法が私たちの指導原理ではなく、恵みがそうなのである。誤解しないでほしい。私が何かをしなくてはならない原理――すなわち、律法の原理、「行なえ、さもないと罰せられるぞ。あるいは、行なえ、さもないと痛い目に遭うぞ」――は、キリスト者の生き方の動機ではない。その原理は恵みである。「神は私のためにこれほど大きなことをしてくださった。私は神のために何を行なうべきだろうか?」 私たちは、そうした意味において、律法の下にはなく、恵みの下にあるのである。

 それからキリストが律法を取り除いたというのは、こういう意味においてである。すなわち、主は完全にそれを満足させてくださった。律法は完全な義を要求している。キリストは云われる。「律法よ。お前は、それを受け取っている。わたしに欠点があるか見てみよ。私は罪人の身代わりの者である。私はお前の戒めという戒めを守ってきたではないだろうか? どこでわたしがお前の法を破っただろうか?」 「ここに来るがいい。わが愛する者よ」、と主は云って、《正義》に向かってこう声を張り上げなさる。「わたしが自分の衣を着せた、この者に何か欠点があるか見てみよ。わたしは彼を自分の血で洗った。彼をその罪からきよめた。すべての過去は過ぎ去った。将来について云えば、わたしは聖化によってそれを確保した。罰について云えば、わたしは自らそれを背負った。愛のきわみの一飲みによって、わたしはこの者の破滅を飲み干した。わたしは、彼が受けていたはずの苦しみを身に引き受けた。彼が堪え忍ぶべきであった苦悶を堪え忍んだ。《正義》よ。わたしはお前を満足させたではないだろうか? わたしは、かの木の上でこう云わなかっただろうか? また、そのとき、お前もそれと声を合わせなかっただろうか? 『完了した! 完了した!』、と[ヨハ19:30参照]。わたしは、完全無欠な贖いを成し遂げなかっただろうか? もはや決してこの者が死んで、その咎の償いをする必要などないほどの贖いを成し遂げなかっただろうか? この、かつては罪に定められていたが、今は、義と認められた霊の完全な義を、わたしは完成させなかっただろうか?」 「はい」、と《正義》は云う。「私は十分に満足しており、満足以上のものすら感じています。もし可能でありさえしたら、この罪人が、しみ1つない義を自分自身でもたらした場合以上に満足です」、と。そして今、この後でこのキリスト者は何と云うだろうか? 大胆に彼は死の領土にやって来て、そこにある門に入り、こう叫ぶのである。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか!」[ロマ8:33] そして、彼がこう云ったとき、この竜はぽとりとそのとげを落とし、彼は墓に下っていく。彼は悪鬼どもが鉄の枷につながれて横たわっている場所を通り過ぎる。彼らの鎖を目にし、彼らが住んでいる地下牢を覗き込む。そして、その牢獄の扉をくぐり抜けるとき、彼はこう叫ぶ。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか!」 彼らは唸り声をあげ、その鉄のいましめに噛みつき、ひそかにシューシューと呪いの声を吐くが、彼に対して何の訴えをすることもできない。さて、彼が高々と上っていくのを見るがいい。彼は神の天国へ近づき、その門に相対するが、《信仰》はなおも勝ち誇って叫ぶ。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか?」 そして、中から1つの声が発せられる。「キリストではありません。彼が死んでくださったのです。神ではありません。神が義と認めてくださるのです」[ロマ8:33-34参照]。イエスに受け入れられて、信仰は天国に入り、またもや彼女は叫ぶ。この、しみ1つない、贖われた人々の間にあってさえ、「だれが神に選ばれた人々を訴えるのですか?」 今や律法は満足させられている。罪は失せ去っている。そして今や確かに私たちは、かの竜のとげを恐れる必要はなく、パウロが云ったように云うことができる。それは、パウロが詩情の粋にまで駆け上がったときに発した言葉、――その詩情の美しさのあまり、教皇そのひとが、順序を入れ換えて拝借しているほどの言葉である。――「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」[Iコリ15:55]。

 もし今晩それが必要だとしたら、私はあなたに復活について語ることができよう。私はあなたに、それがいかに死のとげを取り去るものであるかを告げることができよう。だが、私はこの単純な事実を述べるだけでよしとしたい。すなわち、「死のとげは罪であり」、「罪の力は律法」であり、キリストは私たちに勝利を与えてくださり、それは、そのとげを取り除き、罪の力を除去することによってであり、それは、主の完全な従順によってなされる、ということである。

 さて今、方々。この場には、自分のためにキリスト・イエスは死なれたのだ、という希望を少しでもいだいている人々が何人いるだろうか? こうした問いかけを、あなたがたのひとりひとりに向かって、この上もなく厳粛に投げかけるとき、私は、人の心に土足で踏み込みすぎているだろうか? だが私は今晩、神の御前に立っているかのように、自分の頭からあなたの血の責任を取り除きたいと思う。私は、ここに立って、この心にあたう限りの、ありったけの熱心さをこめて訴える。あなたは死ぬ用意ができているだろうか? 罪は赦されているだろうか? 律法は満足させられているだろうか? あなたは、かの河を目にすることができているだろうか?

   「たましい贖う 主の血の河を。
    神より堅く 知らされたれば、
    神との和解 主 汝れに得しと」

 おゝ、あなたは今、自分の胸に片手を当て、もう片手を聖書の上に置いて、こう云えるだろうか? 「神のことばと私は一致している。ここにある御霊の証しと、そこにある証しとは1つである。私は、自分のもろもろの罪との縁を切っている。自分の悪い習慣を放棄している。私は自分自身の義を忌み嫌っている。私が信頼しているのはただイエスの行ないだけである。私はただ主にだけより頼んでいる。

   『わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん』」

もしそうなら、今のままのあなたが死ぬとしても、――突然の死は突然の栄光である。

 しかし、話をお聞きの方々。私はあなたに真実であるべきだろうか? それとも、自分の魂に嘘をつくべきだろうか? どちらにすべきだろうか? この場にいる方々の多くは、人の弔いの鐘が鳴り響くたびに、「私は用意ができているだろうか?」、と自問すべきではないだろうか? そして、その方々は、「できていない」、と云わざるをえないはずである。私は今晩、預言者になるつもりはない。だが、もしそう云ってよいとしたら、残念ながらあなたがたの中の半分以上の人々は、死ぬ用意ができていないと思う。それは真実だろうか? しかり。この語るものに、自身自身、その問いを投げかけさせてほしい。「私は、私の《造り主》に面と向かって出会う用意ができているだろうか?」 おゝ、座席の中で居住まいをただし、自分の魂をこの厳粛な問いで試してみるがいい。ひとりひとり自問してみるがいい。「もし死ぬことになったら、私は用意ができているだろうか?」 私は、ある人が自信たっぷりに、「私は知っている。私を贖う方は生きておられることを」、と云うのが聞こえるような気がする[ヨブ19:25参照]。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」[Iコリ10:13]。私は、別の人が震え声でこう云うのも聞こえる。

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    われは優しき 御腕に身を投ぐ。
    主こそわが身の 力にして義、
    わがイエスにて わがすべて」

しかり。何と甘やかな言葉であろう! 私は、ミルトンの『失楽園』よりも、この一節を書きたいと思う。これは、信仰を有する魂の真の状態を、比類なき筆致で描き出すものである。しかし、私は別の人がこう云うのも聞こえる。「私は、そのような問いに答えたくない。私はきょう、鬱陶しい気分になるつもりはない。きょうの外の天気は、暗澹としているかもしれないが、自分から暗い気分になろうとは思わない」、と。若者よ。若者よ。自分の道を行くがいい。若い日にあなたの心を喜ばせるがいい[伝11:9]。だが、こうしたすべてのゆえに、主はあなたをお審きになるであろう。あなたはどうしようというのか? 無頓着な魂よ。あなたの友人たちがあなたを見捨て、あなたがひとり神と残されるときに、どうしようというのか? 若者よ。今のあなたは、ひとりぼっちになりたくないではないか。木の葉が落ちても、あなたは飛び上がるであろう。一時間でもひとりきりにされると、耐えがたいほどの憂鬱を感ずるであろう。しかし、あなたはひとりきりになるであろう。――そして、それは、ひとりきりで陰鬱になることであろう。――永遠にひとりきりで神とともにいることであろう! ヨルダンの川がいっぱいに溢れるとき、あなたはどうしようというのか? 神が夕まぐれに、その御手であなたを取り去られ、あなたに弁明をお求めになるとき、あなたはどうするだろうか? 「お前は、お前の日々の始めにあたり、何をしていたか? お前の人生をどのように費やしてきたか?」、と神が云われるとき、どうするだろうか? 「お前が成人したときの年月はどこにあるか?」、と神から尋ねられたとき、どうするだろうか? あなたが無駄にしてきた幾多の聖日について神が問いかけ、あなたの後半生がいかに費やされたかをお尋ねになるとき、どうするだろうか? そのとき、あなたは何と云うつもりだろうか? 口をつぐみ、何も答えられず、あなたは立ちつくすだけであろう。おゝ、私は切に願う。もしあなたが自分を愛しているというなら、気をつけるがいい! 今すぐ永遠のいのちという厳粛な問題を考え出すがいい。おゝ! こう云ってはならない。「なぜそんなに熱心にならなくてはならないのか? なぜ、そうまで急がなくてはならないのか?」、と。方々。もしあなたが寝台に横になっており、あなたの家に火がついているのを私が見たとしたら、その火は家の下の方で燃えており、あなたは、あと5分間は安全に眠っていられるかもしれないが、私は、ありったけの力をふりしぼって、あなたを寝台から引きずり出すか、こう叫ぶであろう。「起きろ! 起きろ! 下が火事だぞ!」 それと同じ状態にあるのが、あなたがたの中のある人々である。その人々は地獄の口の上で眠り込み、破滅の穴の上でまどろんでいるのである。私はあなたを目覚めさせるべきではないだろうか? 多少聖職者としての型を破っても、自分の愛する同胞に向かって語る者のように語るべきではないだろうか? あゝ! もし私があなたを愛していないとしたら、私がここにいる必要はない。あなたの魂をかちとりたい、また、可能であれば、私の《主人》に何がしかの誉れをかちとりたいと願えばこそ、私はこのように自分の心をあなたの前で注ぎ出そうとしているのである。主は生きておられる。罪人よ。あなたは地獄の上で、たった一枚の板切れの上に立っているにすぎず、その板切れは腐っているのである。あなたは、その穴の上で、たった一本の綱によって吊り下がっており、その綱の撚り糸はちぎれつつあるのである。あなたは、古のディオニュシオスが宴席の最上座につかせた男[ダモクレス]に似ている。彼の前には、贅を尽くしたご馳走が並んでいたが、その男は食べなかった。というのも、その頭上には剣が髪の毛一本で吊るされていたからである。あなたもそれと同じである。罪人よ。あなたの杯を満たし、あなたの快楽をきわめ、あなたの魂を高揚させるがいい。だがこの剣が見えるだろうか? この次あなたが劇場に座ったとき、上を見上げて、この剣を見るがいい。この次あなたが居酒屋に行ったとき、この剣を見るがいい。この次あなたが商売において神の福音の規則を笑い飛ばしたとき、この剣を眺めるがいい。あなたにそれは見えないが、それはそこにあるのである。今まさに、神がガブリエルにこう云うのが、あなたに聞こえるかもしれない。「ガブリエルよ。この男は、この公会堂の座席に座り、話を耳にしているが、まるで耳に入っていないようだ。お前の刀を鞘から抜き放て。その燦然たる剣でこの髪の毛を断ち切り、この凶器をこの男の上に落とすがいい。そして、この男の魂と肉体を切り離してしまうがいい」。待ってくれ! ガブリエルよ、待ってくれ! この者の命をとるのは、もう少し待ってほしい。もう一時間だけ待ってやってほしい。この者も悔い改めるかもしれない。おゝ、この者を死なせないでほしい。確かにこの者は、この二三箇月、日曜の夜にはこの場に通ってきていながら、話を聞いても涙1つこぼしたことがなかった。だが、待ってくれ。ひょっとすると、これから悔い改めるかもしれない。イエスも私の懇願を後押しして、こう声を上げられる。「どうか、もう一年だけ、そのままにしてやってほしい。木の回りを掘って、肥やしをやってみるから。そうしたら、今は土地ふさぎでも、これから実を結ぶかもしれない。切り倒して、火に投げ込まずにすむかもしれない」、と[ルカ13:8参照]。おゝ、神よ。感謝します。あなたはこの者を今晩は切り倒されません。だが、明日はこの者の最後の日かもしれない。あなたは、今しがた日が沈むのを見たが、二度と日が上るのを見ることはないかもしれない。気をつけるがいい。神の福音の言葉を聞き、神の祝福とともに家路につくがいい。「主イエス・キリストの御名を信じる者は、だれでも救われる」*[ロマ10:13]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。「主はご自分に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」*[ヘブ7:25]。「主のところに来る者を、主は決して捨てません」*[ヨハ6:37]。「これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者はだれでも来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」*[黙22:17]。

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最後の戦いに関する思想[了]

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