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愛する者に特有の眠り

NO. 12

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1855年3月4日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。――詩127:2


 肉体の眠りは神の賜物である。そう古のホメーロスは語った。彼は、眠りのことを、雲から降って、トロイの古都市を囲んで宿営する戦士たちの天幕にとどまるものと叙述している。また、ウェルギリウスも、パリヌルスが船のへさきの上で眠りに落ちたと語る際、そのように歌っている。眠りは神の賜物である。私たちは、頭を枕につけて、からだをゆったりしさえすれば、自然と眠りにつくに違いないと考える。しかし、そうではない。眠りは神の賜物であって、いかなる人であれ、その目を閉じることができるのは、神がその眼瞼に御指を置いてくださればこそである。《全能者》がその人の体にふわりと、爽やかな影響力を送って、その人の思念を静謐な状態へと和らげ、その人がかの至福の安息の状態――私たちが眠りと呼ぶもの――に入れるようにしてくださればこそである。確かに、ある種の薬や麻酔剤を服用すれば、人はほとんど死んだも同然になり、それを眠りを呼ぶこともできる。だが、健康な肉体の眠りは、神の賜物である。神がそれを授け、神が私たちのために毎夜揺りかごを揺らしてくださるのである。暗闇の窓帷を引いてくださるのである。太陽にその燃える眼差しを閉ざさせてから、やって来て、こう云ってくださるのである。「眠れ、眠れ、わが子よ。わたしがお前を眠らせてあげよう」。あなたは、寝台に横たわっても、まんじりともできない苦しさを思い知ったことがなかっただろうか? ダリヨスについてこう云われていることが、あなたについても云えたかもしれない。「王は、その楽士たちを呼び寄せたが、眠けを催さなかった」*[ダニ6:18 <英欽定訳> 参照]。あなたは眠ろうとしたのに、そうできなかった。健康な睡眠をもたらすことは、あなたの力を越えているのである。あなたは、何か特定の対象に精神を集中させて、それだけをじっと考えていれば、じきに眠れるだろうと想像する。だが、それでも眠れないことに気づく。まるで全地があなたの前で引っかき回されたかのように、一万もの物事が、あなたの脳裡を通り過ぎていく。今まで目にしたことのある、ありとあらゆるものが、走馬灯のように眼前で踊り狂う。それは目を閉じても消え去らない。あなたの耳にも、頭にも、脳裡にも、あなたを眠らせまいとする物事が満ちている。ただ神おひとりだけが、目もくらむような帆柱の上で少年水夫の目を閉じさせるのと同様、王侯に休みを給うお方なのである。いかに役立つ道具や手立てをもってしても、神の助けがなければ眠りにつくことはできないからである。

 神こそ、精神を忘却にひたし、私たちを眠りにつかせ、私たちの肉体を清新にさせ、翌日の骨折り仕事のために私たちの元気を回復させ、力強く起き上がれるようにしてくださるお方にほかならない。

 おゝ、愛する方々。私たちは眠りということで、いかに感謝すべきであろう。眠りは、私の知る限り最上の医者である。眠りは、地上のいかなる名医にもまさって、疲れ切った骨々が感ずる多くの苦痛を癒してきた。眠りは最上の治療薬である。薬剤術のあらゆる目録に記された、あらゆる薬品名の中でも、特上のものである。実に眠りのようなものは他にない! それが、ひとしく万人のものであるというのは、何というあわれみであろう! 神は眠りを金持ちの特典にはしておられない。貴人や富者にしかそれを与えず、彼ら特有の奢侈品としてひとりじめできるようにはしておられない。あらゆる人に授けておられる。しかり。もし何か違いがあるとすれば、労働者の眠りは、その食物の乏しさ豊かさに関係なく、甘やかだということである。骨を折って働く者は、その働きゆえにいやが上にも健全な眠りにつく。柔弱な贅沢者が寝台の上で眠れずに輾転反側しているのを尻目に、休む間もなく働いている労務者は、その頑健で強靭な手足をくたくたに疲れさせて、その固い寝床に飛び込んで眠ってしまう。そして目覚めると、神に感謝すべきことに、元気回復しているのである! 愛する方々。あなたがたは、夜あなたに安眠を与えてくださる神に、自分がいかに多くを負っているかわからないだろうか? 少しでも眠れない夜を過ごしたとしたら、この祝福のありがたみがわかるであろう。もし何週間も寝台の上でまんじりもできない苦しい夜を過ごしたとしたら、あなたは自分に対する神のお恵みに感謝するであろう。しかし、それは神の賜物なのである。最も尊い賜物なのである。これは、取り去られて初めてその値打ちがわかる。しかり、そうしたときでさえ私たちは、その真価を当然しかるべきほどには評価できないであろう。

 詩篇作者によると、世の中には自分を眠らせようとしない人々がいるという。利得のためか野心のためか、こうした人々は早く起きては、遅くに休む。この場にいる私たちの中のある人々も、それと同じ過ちを犯しているかもしれない。私たちは朝早く起きては、重厚な書物の頁をめくり、知識を獲得しようとする。夜を徹して起きていては、燃え尽きたともしびにたしなめられ、日が昇ろうとする時刻だと知らされる。その間、私たちの目は痛み、脳はずきずきし、心臓は動悸がしているのである。私たちは、身をすり減らし、疲れ切ってしまう。早く起きては、遅く休み、そのようにして辛苦の糧を食べている。あなたがた多くの実業人は、そのようなやり方で身を粉にして働いている。だからといって私はあなたを咎めはしない。早起きや夜更かしを禁じはしない。だが、あなたに、この聖句を思い出させたいと思う。――「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。そして、神がその愛する者に備えてくださるという、この眠りについてこそ、今朝の私は、神の御助けを得つつ、語ろうと思う。――神の子どもたちに特有の眠り――神が「その愛する者」に備えてくださる眠りについて語ろうと思う。

 眠りは、神のことばの中で、悪い意味で用いられることがある。それは、肉的で世俗的な人々の状態を表現する言葉である。ある人々は、肉的な安逸と怠惰さという眠りについている。それについてソロモンはこう語る。刈り入れ時に眠る愚かな子らは、恥知らずであり、刈り入れ時が過ぎ、夏が終わったときに救われることはない、と[箴10:5参照]。眠りはしばしば、怠惰と、死と、無関心の状態を表現しており、あらゆる不敬虔な人々は、この言葉のような状態にあるとされる。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています」。「ほかの人々のように眠っていないで……私たちは昼の者なので……慎み深くしていましょう」[ロマ13:11; Iテサ5:6、8]。多くの人々は、無精者の眠りをむさぼっている。そうした人は、怠惰さの寝台の上で休んでいるが、やがて来たるべき時は、すさまじい目覚めとなるはずである。そのとき、その人は、自分が見習い期間を無駄に費やしてしまったことに気づき、自分の人生の黄金の砂粒があだに砂時計から落ちてしまったことに気づき、自分がたどり着いた世界には、いかなる恩赦令も可決されず、いかなる希望も、いかなる隠れ家も、いかなる救いもないことに気づくのである。

 他の箇所を見ると、眠りは、肉的な油断の象徴として用いられていることがわかる。多くの人々がそうした状態にある。肉による油断の中で身を横たえて眠っていたサウルを見るがいい[Iサム26:5]。――このように語ったダビデとは大違いである。「平安のうちに私は身を横たえます。主よ。あなたが、私を安らかに住まわせてくださいます」*[詩4:8]。アブネルは、そこに横になっており、彼の回りに全軍が横になっていた。だがアブネルは眠っていた。眠り続けるがいい。サウルよ。眠り続けるがいい。だが、お前の枕元にはひとりのアビシャイが立っており、その手に槍を握ったまま、こう云っているのである。「私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください」。それでも彼は眠っている。何も知らずに眠っている。これこそ、あなたがたの中の多くの人々である。あなたの魂は危険な状態にありながら眠っている。サタンが立っており、律法は腕を撫しており、復讐は逸り立っており、すべてがこう云っている。「彼を殺してもよいでしょうか? 私は彼を一気に殺しましょう。二度と彼は起き上がることはありません」。だがキリストは云われる。「やめよ、復讐よ。やめよ」。見よ、その槍は、今しも、ぶるぶると震えている。――「やめよ。もう一年だけ見逃してやれ。この者も、まだ自分の罪という長い眠りから目を覚ますことがあるかもしれない」。罪人よ。私はあなたに告げる。シセラのように、あなたは滅ぼす者の天幕の中で眠っているのである[士4:18-21参照]。あなたは、豪勢な皿から凝乳と蜂蜜を食べたばかりかもしれない。だがあなたは、地獄のとば口で眠っているのである。まさに今、敵は鎚と鉄のくいを持ち上げて、あなたのこめかみに鉄のくいを打ち込み、地に刺し通そうとしているのである。そして、あなたは、永遠の苦悶という死の中に永遠に横たわることになるのである。――もしそれを死と呼べるとしたらだが。

 それから、聖書の中では、情欲という眠りについても言及されている。それは、サムソンがその髪の毛のふさをそり落とされたときのような眠りであり、多くの人々が罪にふけっているときのような眠りである。そして目覚めたとき彼らは、自分が裸にされ、失われ、破滅していることに気づくのである。さらに、怠慢という眠りもある。あの娘たちについて、こう云われているような眠りである。「みな、うとうとして眠り始めた」[マタ25:5]。また、ペテロや、ヤコブや、ヨハネを打ち負かした、悲しみの眠りもある[ルカ22:45]。しかし、これらのいずれも神の賜物ではない。それらは、私たちの性質のもろさに付随しているのである。私たちが堕落した人間であるがためにやって来るのである。それらが私たちをじわじわとむしばむのは、私たちが失われ、破滅した両親の子どもたちだからである。こうした眠りは神の祝福ではない。また、神がそれらを、その愛する者にお授けになることもない。いま私があなたに告げたいのは、神がお授けになる眠りがいかなるものであるか、ということである。

 I. 第一に、時として神がその愛する者にお与えになる奇蹟的な眠りがある。――それを神は、《今は》賜っておられない。その種の奇蹟的な眠り、あるいは、むしろ昏睡に落ちたのがアダムである。彼は悲しみながら、孤独な眠りについた。だが、目を覚ましたときには、もはやそのような者ではなくなっていた。というのも、神は、そのとき人に与えていた中でも最上の賜物を彼に与えておられたからである[創2:21-25]。それと同じ眠りにアブラムも陥った。こう云われている。深い眠りがアブラムを襲い、彼は横になって、煙の立つかまどと、燃えているたいまつを見た。そのとき、ある声が彼に云った。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」[創15:1]。このような神聖な眠りに、ヤコブもついたことがあった。石を自分の枕とし、垣根を自分の窓帷とし、天空を自分の天蓋とし、風を自分の楽の音とし、野の獣らを自分の召使いとして、彼は横になって眠りについた。夢見るうちに、彼は地に立てられている1つのはしごを見た。その頂は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた[創28:11-12]。そのような眠りにヨセフも陥った。彼が夢に見ていると、他の束が彼の束におじぎをし、太陽と月と7つの星が彼に従っていた[創37:7-9]。ダビデもしばしば、今しがた読んだように、そうした、自分にとって甘やかな眠りとなる休みをとった。そして、そのような眠りにダニエルもついた。彼はこう云っている。「私が顔を伏せて眠っていると、見よ。主は私に云われた。『起き上がって、自分の足で立ちなさい』」。そして、さらに、そのようなものが、私たちのほむべき主の父と思われていた人物の眠りであった。夜の幻の中で、ひとりの御使いが彼にこう云った。「ヨセフよ。立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています」*[マタ2:13]。これらは、奇蹟的な眠りである。神の使いが、神のしもべらに眠りという魔法の杖で触れると、彼らは眠った。ただ私たちが眠るようにではなく、不可思議な眠りにつかされた。彼らは、通常の眠りの十倍もの深みに潜り込み、眠りの大海に潜水し、そこで目に見えざるものを見、知られざるものと言葉をかわし、神秘的で不可思議な音声を聞いた。そして、彼らは、目覚めたときにこう云った。「何という眠りだろう! 確かに、この眠りは私にとって甘やかなものであった」。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。

 しかし、今の時代の私たちが、そのような眠りにつくことはない。多くの人々は、何か非常に素晴らしいものを夢に見るが、ほとんどの人々が夢に見るのはたわごとである。ある人々は夢見を信じている。そして、確かに神は、夢や幻の中で私たちに警告してくださる。私は神がそうなさるのは確かだと思う。夢の中で自分が受けた警告や、利益について、1つや2つは話せる人はどこにでもいる。しかし、私は決して夢に信頼を置きはしない。私は、ロウランド・ヒルがある女性に告げたことを思い出す。この女性は、自分がこれこれのことを夢に見たので、自分は神の子どもであると思うと云っていた。「奥様。ご自分が眠っているときにしたことなど、気にしてはなりません。目覚めているときにあなたが何をなさるかにこそ、目をとめましょう」。それが、夢に関する私の意見である。私は、決してだれかが自分はキリスト者だという夢を見たからといって、その人がキリスト者だとは信じない。というのも、夢に基づくキリスト教信仰は、人を一生の間、夢見る者にしてしまうだろうからである。――そして、そのように夢見る者が、それ以外に何も頼るべきものを持っていない場合、最後には、すさまじい目覚めに至るであろう。

 II. 第二のこととして、神はその愛する者に、安らかな良心の伴った眠りを与えてくださる。あなたがたの中のほとんどの人は、王立美術院の展覧会で、あの素晴らしい名画――『アーガイルの眠り』――を見たことがあると思う。その中で彼は、まさに自分の処刑が行なわれる前の日の朝、横になって寝入っていた。そこには何人かの貴族が立っていて、ほとんど気もとがめんばかりに彼を見つめている。看守もそこにして、手に持つ鍵を鳴らしている。だが、その男は熟睡している。翌日の朝には首が胴体から切り離され、ひとりの男がそれを掲げて、「これが反逆者の首だ」、と云うはずだというのに。彼が眠っていたのは、安らかな良心を持っていたからである。いかなる悪も行なっていなかったからである。さらに、ペテロを見てみるがいい。あなたは今まで、あの尋常ならざる箇所に注目したことがあっただろうか? そこには、ヘロデが翌日ペテロを引きだそうとしていたと云われている。だが、見よ。ペテロがふたりの兵士の間で寝ているときに、御使いがペテロを叩いたという[使12:6]。翌日には十字架にかけられるか、斬殺されることになっていたというのに、彼はふたりの兵士の間で寝ていたのである! 彼は気に病んでいなかった。その心が晴朗だったからである。彼は何も悪を行なっていなかった。彼は、「神に従うのが正しいか、人に従うのが正しいか、判断してください」、と云うことができた[使4:19参照]。そして、それゆえ彼は横になり、眠っていたのである。おゝ、方々! あなたは、安らかな良心の伴った眠りがいかなるものか知っているだろうか? あなたは今まで、他の激しい中傷の的となったことがあるだろうか?――あらゆる人々から打ち叩かれ、蔑みの対象となり、――物笑いの種、酔いどれの歌となったことがあるだろうか? そして、結局は自分の心のきよさゆえに、何の心配もないかのように眠ることがいかなることかを知っているだろうか? あゝ! あなたがた、借金を負っている人々。――あゝ! あなたがた、不正直な人々。――あゝ! あなたがた、神を愛さず、キリストを愛していない人々――私はあなたがたがどうして眠れるものか不思議に思う。というのも、罪は鋭くとがったとげをいくつも枕の中に入り込ませるからである。罪は人の寝床に短剣を入れる。それで、人がどちらを向こうとそれがその人を刺すのである。しかし、安らかな良心は、魂を眠りにつかせる音楽の中でも最も甘やかなものである。不眠の悪霊は、安らかな良心――神との正しい関係にある良心――を有する人、こう歌える人の寝床にはやって来ない。――

   「この世と、己れと、汝あるとも、
    眠らんとす我れ 安らかならん」。
   「主はその愛児に かく備えたもう」。

 しかし、自分がキリスト・イエスにあって選ばれていることが全くわからないあなたに、《救い主》の血という贖い代に全く信頼を置いていないあなたに、告げさせてほしい。――聖霊によってこれまで全く召されたことのないあなたに、これまで全く新生したことも、新しく生まれたこともなかったあなたに、――そのあなたに告げさせてほしい。あなたに、このような眠りはない。あなたは、自分の良心は安らかだと云うかもしれない。自分はだれにも悪いことはしていない、自分が神の法廷で責任を負わされることなど少しもないと信じている、と云うかもしれない。しかし、方々。あなたは自分が罪を犯したこと、また、自分の美徳で自分の悪徳を贖えないことを知っている。罪を犯した者は、たとい一度しか罪を犯さなくとも、死ななくてはならないと知っている。ある絵に1つでも傷があれば、それは完璧な絵ではない。たといあなたが一度しか罪を犯したことがなくとも、あなたは、その罪を取り去るものを有していない限り、そのため罪に定められるはずである。あなたはこの眠りを知ってはいない。だが、キリスト者は知っている。キリスト者のもろもろの罪はみな、「古のアザゼルのためのやぎの頭」の上にあるとみなされたからである[レビ16:21参照]。キリストは、キリスト者のすべての罪のために死んでおられる。その罪がいかに途方もなく大きなものであっても関係ない。今や《神の書》には1つたりとも、キリスト者を責める罪は記されていない。神は云われる。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」[イザ43:25]。今やあなたは眠ることができる。なぜなら、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」からである。

 III. さらに、満ち足りた心を伴う眠りをも、キリスト者は享受している。この世の中には、何と僅かしか満足している人がいないことか。だれかに一千ポンドの報酬を与える際、すでに相手は満ち足りているのだから、与えすぎではないかと懸念を覚える必要など決してない。というのも、もし別のだれかがやって来て、その報酬を奪ったとしたら、その人は自分の不満足さを実証するに違いないからである。私たちはみな、大なり小なり、自分の境遇に満足していないのではないかと思う。人類の大部分は、常にあちこちを飛び回っている。決して落ちつくことがなく、決してどこかの木に舞い降りて自分の巣を作ろうとはせず、常にある木から別の木へと行きつ戻りつしている。この木は十分青くない、あの木は十分高くない、この木は十分きれいでない、あの木は十分見栄えがよくない。こうして彼らは常に飛び回り、決して腰を落ちつけて巣を作ることがないのである。キリスト者は自分の巣を作る。そして、かの高貴なルターが云ったように、「向こうの木の上の小鳥のように、その人は今晩の食事をとっている。――その人は、翌日の朝食がどこにあるか知らない。風がその木を揺らす間、そこにとまっている。自分の目を閉じて、頭を羽根の下に入れて眠る。そして、朝になって目覚めるときには、こう歌う。

   『弱者(よわき)よ、やめよ、労し嘆くを
    神が明日に 備え給わば』。」

このようにほむべき満足を得ている人のいかに僅かしかいないことか。――だれがこう云えるだろうか。「私に足らざる ものはなし。下界で欲すは ごく僅かなり。――しかり。この余に 何も望まず。――われは満ち足り――満ち足れり」。あなたは、今しがた、美しい賛美歌を歌った。だが、あなたがたの中の多くの人々は、それを歌う権利が全くなかったのではなかろうか。なぜなら、あなたはそう感じていなかったからである。

   「御旨にて我れ 休み捨つべし
    わが願いはただ この一つのみ
    生くにも死にも 授けたまえや
    汝が格別の 愛のしるしを」。

あなたは、地上ではイエスの他に何も望まないと云えるだろうか? 自分は完全に満足している、――自分には満ち足りた心を伴う眠りがあると、本気で云えるだろうか? あゝ! 否。まだ見習い職人であるあなたは、一人前の職人になるまで吐息をついている。一人前の職人になったあなたは、親方になるまで呻いている。そして親方たちは、引退のときを切望しており、いざ引退すると、自分の子どもたち全員が身を固めることを切望する。人は常に、先のこと先のことを望み見ている。人は、決して港に着くことのない海員であり、決して的に達することのない矢である。あゝ! キリスト者には眠りがある。ある夜、私は眠ることができず、ぐるぐる思い乱れる中で、この聖句に出会い、これと親しく会話を交わした。――「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。そうした物思いにふけりながら夢の国の境目にあった私は、自分がある城の中にいるような気がした。その重厚な城壁の回りには、深い濠が巡らしてあった。歩哨たちが昼夜の別なくその城壁をゆっくりと行ったり来たりしていた。それは見事な古い要砦で、敵に向かって堂々と威勢を張っていた。私は、自分が寝床の上に横になっていると思った。しかし目を閉じるや否や、喇叭が鳴った。「戦闘準備! 戦闘準備!」 そして、その危険をしのいだ後で私は再び横になった。すると、またもや、「戦闘準備! 戦闘準備!」が鳴り響き、私は再び飛び起きた。私は全く眠ることができなかった。私は武具を身にまとい、常に甲冑をよろったまま動き回り、一時間ごとに城の天辺に駆け上っては、新たな警鐘を鳴らした。敵軍は西から攻めてくるかと思えば、東から攻めてきた。私は、この城のどこか奥深くに財宝があると思っていた。そして、私の任務は全力を挙げてそれを守ることであった。私は、それが自分から取り去られるのではないかと怯え、恐れ、身震いした。そのとき私は目を覚まして、こう思った。いくら壮麗な塔でも、そんな所で暮らすのは真っ平御免だと。それは、不満足の城、野心の城、人が決して眠ることのできない城であった。常に、「戦闘準備! 戦闘準備! 戦闘準備!」なのである。敵軍は、至る所に出没する。最愛の財宝を守らなくてはならない。眠りは、この不満足の城の吊り上げ橋を決して渡ることがない。そのとき私は、それを別の物思いで置き換えようと考えた。私は、あばら屋の中にいた。それは、詩人が、美しくも愛すべき場所と呼ぶ類のものであったが、私には気にならなかった。私はこの世に何の財宝も持ち合わせがなく、ただ1つ自分のふところに、輝く宝石を持っているだけであった。そして私は、胸に手を当てて眠ることにし、暁の光が射すまで目を覚すまいと思った。その宝とは、安らかな良心と神の愛であった。――「人のすべての考えにまさる平安」*であった[ピリ4:7]。私は眠った。満ち足りる心を伴った家で、自分の有するものに満足して眠りについたからである。行くがいい。あなたがた、度を超した吝嗇家たち! 行くがいい。あなたがた、貪欲な野心家たち! 私は、不安の絶えないあなたの生き方をうらやみはしない。政治家の眠りはしばしば破られる。吝嗇家の夢は常に不吉である。利得を愛する者は決して安眠できない。だが神は、「その愛する者には」、満ち足りる心によって、「眠っている間に、このように備えてくださる」。

 IV. さらにまた、神は、その愛する者には、未来に関する魂の平穏さを伴った眠りを備えてくださる。おゝ、かの暗い未来よ! かの未来よ! かの未来よ! 現在は順調かもしれないが、あゝ! 次の風が花を全部枯らしてしまうかもしれない。そうしたら私はどうなるのか? あなたの黄金を握りしめるがいい、吝嗇家よ。「富は翼をつけて飛んで行く」*からである[箴23:5]。その赤子を胸に抱きしめるがいい、母親よ。荒々しい死の手があなたからその子を奪い去るかもしれないからである。自分の名声を見つめ、それに瞠目するがいい、おゝ、野心に満ちた人よ! しかし、ちょっとした噂話1つで、あなたは心の臓まで切りつけられ、群衆の声によって高く引き上げられたのと同じくらい低く沈み込んで行くはずである。未来よ! ありとあらゆる人の中でも、未来に怯える必要がないのはキリスト者だけである。主はその愛する者には、来たるべき時に起こることについて、幸いな眠りを備えてくださる。

   「わが行く末の 果ては知らねど
    高きも低きも われ悩まさず。
    かくてわが魂(たま) 安らぎを受く。
    わが主の定め 上もなければ」。

生きるべきか死ぬべきかは、私にとってはどうでもよい。自分が「あらゆるもののかす」であるか、「王が栄誉を与えたいと思う者」であるかは、どうでもよい[Iコリ4:13; エス6:6]。私の御父によって与えられるものである限り、何事も同じようなものである。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。あなたがたの中の何人が、自分自身のものは何もほしくないという、この幸いな地点に達しているだろうか? 願いが1つしかないということは甘やかなことである。だが、それよりも良いのは、願いが何1つないということである。――現在はキリストを喜び楽しむことに、将来はキリストの御顔を仰ぎ見る期待に全くわれを忘れていられるということである。おゝ、わが魂よ! もしお前がキリストを有していないとしたら、お前にとって未来はいかなるものとなるであろう! だがもし未来が苦く暗くとも、お前の主であるキリストがそれを聖めておられる限り、それが何であろう? 聖霊が、今もお前に勇気と、精力と、強さを与えておられるとしたら、それが何であろう? ガイオン夫人とともに、このように云えるのは、何とほむべきことであろう!――

   「ことごと等し。よし愛 我れに、
    生死を定め、安苦負わせど。
    わが魂 痛みに 禍(まが)を感じず、
    安き健やかに まことの幸(さち)なし。

    ただこの善のみを わが魂(たま)焦がる。
    みむねを選び、欲の目を去り、
    王座とあばら屋、甘きと嘆き、
    みこころなれば、迷わずあるを。

    十字架の重荷は 汝が戒めにして――
    世に死に、もはや 罪には生きず、
    責めを受くるも 忍びて動かず、
    暗礁、港を かわらず喜ぶ」。

このような状態に達することこそ幸いである。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。あゝ! もしあなたの心の中に我意があるなら、それを根こそぎにしてくださるよう神に願うがいい。あなたには利己愛があるだろうか? 聖霊に懇願して、それを追い払っていただくがいい。というのも、もしあなたが常に神のお望み通りに行なおうとするなら、幸いにならざるをえないからである。ある善良な老女のことを聞いたことがある。あばら屋に住んでいた彼女は、一片のパンと少量の水しか持っていなかったが、祝祷のように両手をあげてこう云ったという。「あらあら! こんなにまでもいただいて、キリストまでいただけるんですか?」 それは、私たちが受けるに値するものにくらべれば、「こんなにまでも」なのである。また私は、死にかけていたある人の話を読んだこともある。生きることを望むか、死ぬことを望むかと問われて、その人は云った。「それについては、何の願いもありませんや」。「でも願えるとしたら、どちらを選びますか?」 「どっちも選ばんでしょうよ」。「でも、もし神が選ぶようお命じになったとしたら?」 「私のかわりに神様が選んでくださいとお頼みしますよ。私は、どっちがいいか、わからんですから」。何と幸いな状態か! 何と幸いな状態か! 完全に黙って従おうというのである。――

   「御手に身(み)ゆだね
    みこころのみ知る」。

「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。

 V. 第五のこととして、安心を伴う眠りがある。ソロモンは、その寝台を武装した者らに取り囲ませて眠った。それで安心して眠りについた。だが、ソロモンの父親は、ある夜、むき出しの地面で寝た。――王宮でではなく、――自分の城の城壁を取り巻く濠もなく、――だが、彼はその息子と同じくらい安らかに眠った。というのも、彼はこう云っているからである。「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから」[詩3:5]。さて、ある人々は、決してこの世で安心を感じることがない。私は、話をお聞きの方々の半分はそう感じているのではないかという気がする。かりに私が、いきなり声を張り上げて、こう歌うとしたらどうだろうか。――

   「われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば。
    幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」

あなたは、これはあまりにも高すぎる教理だと云うであろう。そして、私は答えるであろう。あなたにとっては、ほぼ間違いなくそうである。だが、これは神の真理であって、私にとって甘やかな教理なのだ、と。私が知り、かつ喜んでいること、それは、もし私が父なる神の予知に従って予定されているとしたら、自分は救われるに違いなく、もし御子の血によって買い取られたとしたら、自分は失われることがありえない、ということである。というのも、イエス・キリストが、ご自分の贖われた者らのひとりたりとも失うなどということは不可能であろうからである。さもなければ、主はご自分の労苦に満足するはずがないであろう[イザ53:11]。主が、ひとたび良い働きをお始めになったならば、それをなし続けてくださると私は知っているのである[ピリ1:6参照]。私は決して自分が脱落するとか、失われるとか恐れはしない。私の唯一の恐れは、私が最初に正しくなかったのではないかということである。だが、私が正しいとしたら――もし私が真に神の子どもであるとしたら――、たとい太陽が狂気にかられ、酔いどれのように宇宙をよろめき歩き出すだろうなどと私が信ずることがあるとしても、――たとい星々がその道筋からはずれて、今のように測ったように闊歩するかわりに、バッコス神の踊りのような滅茶苦茶な道筋をぐるぐると回り始めると信ずるとしても、――否、たといこの大いなる宇宙がことごとく神の中に沈んで行き、「あぶくが、それを浮かべた波涛の下に一瞬にして沈み込むように」なると考えることすらありえたとしても、理性であれ、異端であれ、論理であれ、雄弁であれ、神学者たちの枢密会議であれ、一瞬たりとも、神の子どもが滅びうるなどという邪悪な示唆に私の気が引かれることはないはずである。これによって私は確信をもってこの地上を踏み歩むことができる。しばらく前にひとりのアルミニウス主義者と議論したが、その人はこう云っていた。「あなたは幸せな人に違いありませんね。というのも、もしあなたの云うことが真実だとしたら、あなたは、今すでに天国にいるのと同じくらい、天国に行くことが確かだからです」。私は、「ええ、私はそれを知っています」、と云った。「そうしたら、あなたは心労や悲嘆などに全く煩わされることなく暮らすことができ、朝から晩まで幸せに歌っていられるはずですね」。私は云った。「そのはずです。そして私は、神のお助けがある限り、そうしているつもりです」。これこそ安心ということである。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。もし死んだなら天国に入るのだとわかっていること、――いま自分が存在しているのを確信しているのと同じくらい確かに神が永遠の愛で私を愛してくださっている以上、また、神が不変のお方であられる以上、神がひとたび私を愛されたならば決して私を憎むことはありえないと確信していること、――自分が栄光の御国に入るに決まっているとわかっていること、――これは、あらゆる重荷を軽くし、私の足を雌鹿のようにして、私を高い所に立たせるに足ることではないだろうか? 安心とは何と幸いな状態であることか! 「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。

 また、私の愛する方々。この地上には、いかに大きな困難の最中にあってさえ、安心して眠りにつける人々がいる。あなたは、エゼキエル書のあの箇所を覚えているだろうか? こう記されている。「彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る」[エゼ34:25]。何と奇妙な寝場所ではなかろうか! 「森の中で」とは。向こうの彼方には狼がおり、密林の中には虎がおり、空中には鷲が高く舞っている。暗い森の中には盗人たちの群れが巣くっている。だが、「気にすることはない」、と神の子どもは云う。

   「神をおのれの 隠れ場とせば
    上なく安けき 住まいをぞ得ん。
    みかげのもとを 日中(ひなか)は歩み、
    こうべに安らぎ 夜にはやどる」。

 私はしばしばマルチン・ルターを賞賛し、彼の泰然自若さに驚嘆してきた。だれもが彼を悪し様にののしっていたとき、彼は何と云っただろうか? かの詩篇に目を向けるがいい。――「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」[詩46:1-2]。それよりも、はるかに取るに足らないしかたではあるが、私もマルチン・ルターと同じ立場をとるように召されてきた。中傷の的、笑いと嘲りの種とさせられてきた。だが、それはまだ私の心をくじいてはいないし、今後もくじきはしないであろう。私が、この静謐な状態を楽しんでいられる限りはそうである。――「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。しかし、これまでのところ私は、私を中傷したり、私の悪口を云おうとする人々すべてに向かって、どうぞ飽きるまでご自由にそうしていてください、と告げるものである。私の座右の銘は、cedo nulli――われ何者にも屈さじ――である。私は、いかなる人間にも媚びを売ったことはない。だれにも私の牧会する教会に出席するよう頼んだことはない。私は、自分の好むことを、自分の好むときに、自分の好むしかたで宣べ伝える。おゝ! 何と幸いな状態であることか。――たとい意気消沈と苦悩を味わうことはあっても大胆さを貫き、――行って、膝を屈めて、私の御父にすべてを告げ、それから自分の私室から降りてきて、こう云うことができるというのは。――

   「よしわが顔に 汝が御名ゆえの
    恥と責めとが 浴びせらるとも
    ことほぎ迎えん 咎めも恥も。
    そは汝れ我れを 覚えたまわば」。

 VI. 神がその愛する者に備えてくださる最後の眠りは、幸いな立ち退きという眠りである。私は、多くの主のしもべたちの墓のそばに立ってきた。地にあって威厳ある者ら[聖徒たち]の幾人かを葬ってきた[詩16:3]。そして、地の下に置かれた棺の中で眠る兄弟に別れを告げるとき、通常はこの言葉で弔辞を語り出すことにしている。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。親愛なるイエスのしもべたちよ! そこに私は彼らが見える! 私が彼らについて云えるただ1つのこと、それは、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」、ということである。おゝ! 幸いな眠りよ! この世は、右へ左へ変転絶え間がない。だが、その墓の中で彼らは休みを得る。そこには何の悲しみもない。いかなる吐息も、いかなる呻きも、不死の舌にて歌わる歌に入り混じることはない。私が死者にこう語りかけるのも当然である。――「兄弟よ。あなたはしばしばこの世の戦闘を戦ってきた。あなたには、あなたの心労があり、試練があり、困難があった。だが今あなたは去った。――未知の世界へとではなく、彼方にある光と栄光の国へと去った。眠るがいい、兄弟よ! あなたの魂は眠りはしない。あなたは天国にいるのだから。だが、あなたのからだは眠りにつく。死はあなたを、あなたの最後の寝床に横たわらせた。それは冷たいかもしれないが、聖なるものとされている。湿っぽいかもしれないが、安全である。そして、復活の日の朝、御使いのかしらがその喇叭を口にあてるとき、あなたは起き上がるのである。『「『……主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」』[黙14:13]。あなたの墓の中で眠るがいい、私の兄弟よ。あなたは栄光へと起き上がるのだから」。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。

 あなたがたの中には死ぬのを恐れている人々がいる。恐れるのも当然である。あなたにとって死は悲しみの始まりだからである。そして、それが近づくとき、あなたは、かのヨハネの黙示録の御使いの声を聞くかもしれない。「第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る」[黙9:12]。方々。もしあなたが備えもなく、回心もせず、救われもしないまま死ぬとしたら、「ただ、さばきと……激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]。私はボアネルゲ[雷の子]のように語る必要はない。というのも、これはあなたにとって、よく知られた真理だからである。神もなく、キリストから離れ、「イスラエルの国から除外され」[エペ2:13]ているあなたが受ける相続地は、地獄に堕ちた者の間にしかない。――悪鬼ども――苦悶にもだえる者ども――悲鳴をあげる亡霊たち――いかなる安息も見いだすことなく彷徨する魂たち――の間にしかない。――

   「おゝ、燃える硫黄の波はたけらん。
    永遠に、おゝ、永遠に失われし者よ!」

「必ず来る御怒り!」 「必ず来る御怒り!」 「必ず来る御怒り!」

 しかし、愛するキリスト者の兄弟よ。なぜあなたが死ぬのを恐れるのだろうか? さあ、私にあなたの手を取らせてほしい。

   「汝れとわれには 恵みによりて
    《救い主》の名 知らされてあり。
    じきにわれらは 天つ家で会わん。
    果て、望み、道の 等しかれば」。

 あなたは、天国が、ほんの狭い流れのすぐ向こう側にあることを知っているだろうか? あなたは、そこに飛び込んで、泳ぎ渡るのを心配しているだろうか? 溺れることを恐れているだろうか? 私には底に足がつく。――それは良いことである。あなたは、自分が沈んでしまうと考えているだろうか? 御霊の声を聞くがいい。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない」[イザ41:10; 43:2]。死は尽きざる喜びの門口である。なのにあなたは、そこに入るのを怯えているのだろうか? 何と! 腐敗から解放されるのを恐れているというのか? おゝ! そう云ってはならない。むしろ、喜んで横たわり、イエスにあって眠るがいい。そして祝福を受けるがいい。

 これで私は、自分の主題の解き明かしを終える。ただ、あなたがたが出口から出て行く前に、1つだけあなたに尋ねたい問いがある。あなたは、自分がここで言及されている「愛する者」に属していると真剣に、また厳粛に信じているだろうか? このような問いを発する私は無礼かもしれない。私は以前にもそう非難されたことがある。だが、私は決してそれを否定したことはない。むしろそれを自分の手柄としたい気がする。しかし、真剣に、かつ厳粛に私はあなたに尋ねる。――あなたは自身が愛する者の中にいると知っているだろうか? そして、もしあなたがそれを試してほしいというなら、3つの試験をごく手短に与えさせてほしい。それで、話を終わりにしよう。世の中には三種類の説教者がいる、とよく云われる。――教理的な説教者、経験的な説教者、実際的な説教者である。さて、私が思うに、キリスト者も3つの部分からなりたっている。――真の教理と、本物の経験と、良い実践である。

 さてそれでは、あなたの教理についてである。それによってあなたは、自分が主の愛する者であるかどうかを部分的に知ることができよう。ある人々は、人が何を信じていようと大したことはないと考えている。恐れながら、真理は《常に》尊いものであり、真理の極小の原子たりとも探し出す価値があるのである。近年では、種々の分派が以前ほど激しくぶつかりあってはいない。ことによると、それは良いことかもしれない。だが、そこには1つ悪い点がある。人々は、以前ほど自分の聖書を読んでいないのである。人々は、自分には何の問題もないと考えているのである。さて私の信ずるところ、私たちは大筋では何の問題もないかもしれないが、私たちが互いに矛盾するところでは問題がないはずがない。そして、あらゆる人が聖書を調べて、どちらが正しいかを見てとろうとするのはふさわしいことである。私は、自分のカルヴァン主義を、あるいは信仰者のバプテスマという自分の教理を、聖書で調べた結果に服させることを心配してはいない。ひとりの学識ある不信心な貴族が、あるときホイットフィールドにこう云った。「先生。私は不信心者です。私は聖書を信じていません。ですが、もし聖書が真実だとしたら、あなたは正しく、あなたに反対するアルミニウス主義者たちは間違っています。もし聖書が神のことばだとしたら、恵みの諸教理は真実です」。そして、さらにつけ足して、もし聖書が真理であると認める者がいたなら、できるものならカルヴァン主義を論駁してみるがいいと挑戦してやりますよ、と云ったという。原罪、選び、有効召命、最終的堅忍といった諸教理、また、カルヴァン主義と呼ばれるこうしたすべての偉大な真理は――とはいえ、カルヴァンはそれらの創始者ではなく、この主題について有能な著述家また説教者であったにすぎないが――、私の信ずるところ、イエス・キリストにある《福音》の本質的な教理である。さて、私はあなたがこれらをすべて信じているかどうか問うものではない。――あなたがこれらすべてを信じていないこともありえる。だが私の信ずるところ、あなたは天国に入る前にはそうなるであろう。私の確信するところ、神はあなたの心を洗ってくださったのと同じように、あなたの頭をも、あなたが天国に入る前には洗ってくださるであろう。神は、あなたを、あなたの教理において正しくしてくださるであろう。しかし私は、あなたが自分の聖書を読んでいるかどうかは問いたださなくてはならない。私は、今朝のあなたが私と異なる意見を持っていることについて咎めだてしているのではない。私が間違っていることもありえる。だが、私が知りたいのは、果たしてあなたが聖書を調べて、何が真理か見いだそうとしているかということである。そして、もしあなたが聖書を読んでいないとしたら、もしあなたが教理を受け売りしているだけだとしたら、もしあなたが会堂に来て、「私はあの話が気に入らん」、と云うとしたら、それが聖書の中にある限り、あなたがそれを気に入ろうが気に入るまいが、何になるだろうか? それは聖書的な真理なのか、そうではないのか? もしそれが神の真理だとしたら、それを高く称揚しようではないか。それはあなたの好みに合わないかもしれない。だが、思い出してほしい。イエスにある真理は、決して肉的な人々の趣味に合うものでなかったし、私の信ずるところ、今後も決して合いはしないであろう。あなたがそれを愛さない理由は、それがあなたの高慢をあまりにも深く切り刻むからである。それは、あなたをあまりにも低く沈めすぎるのである。ならば、教理によって自分自身を探るがいい。

 それから、経験的な試験を忘れないように注意するがいい。残念ながら私たちの間には、あまりにも僅かしか経験的なキリスト教信仰がないのではないかと思う。だが、真の教理があるところには、常に生きた経験があるはずである。方々。経験的な試験によって自分を試してみるがいい。あなたは今まで、自分のみじめさ、自分の堕落、自分の無力さ、自分の罪における死を身にしみて経験したことがあるだろうか? あなたは今まで、キリストにあるいのち、神の御顔の光の経験、腐敗との葛藤を感じたことがあるだろうか? あなたは、恵みを――聖霊が与えられたことを――キリストとの交わりが植えつけられたという経験を得ているだろうか? もしそうなら、あなたは経験的な試験において正しい。

 そして、しめくくりに、実際的な試験に気をつけてほしい。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです」[ヤコ2:17]。罪のうちを歩む者は、悪魔の子であり、義のうちを歩む者は光の子である[Iヨハ3:8-10]。正しい教理を信じているからといって、自分が正しいと考えてはならない。正しく信じていながら、行ないが悪い人々はごまんとおり、彼らは滅びるのである。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」[ガラ6:7]。

 これで終わりである。最後に一言お願いしたい。あなたの人生のはかなさにかけて、――時の短さにかけて、――永遠という現実のすさまじさにかけて、――あなたが犯してきたもろもろの罪にかけて、――あなたが必要とする赦しにかけて、――地獄の恐怖の恐ろしさにかけて、――時間にかけて、――永遠にかけて、――すべての良いものにかけて、――すべての聖なるものにかけて、――ぜひともあなたにお願いしたい。自分の魂を愛しているというなら、果たして自分が、神がその眠りを備えてくださるという、愛する者の中にいるかどうかを調べ、見てとるがいい。願わくは神があなたを祝福してくださるように。

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愛する者に特有の眠り[了]

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