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第22章

結婚――日曜学校の働きへの関心

スポルジョン氏、トンプソン嬢と結婚す――ニューパーク街会堂の様子――日曜学校教師たちによる歓待――説教集の第1巻――『自由人』による評価――「なぜ人気があるのか?」――ある博士の『小冊子』

 1856年の年頭にスポルジョン氏がニューパーク街会堂で行なった説教は、数年前にコルチェスターで彼自身の回心の手段となった聖句――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」――イザ45:22に基づくものであった。すでに述べられた、あの永久に記憶されるべき日曜日にこの説教者が経験したことについて、彼自身が特に言及した。

 スポルジョン氏がスタンボーンで幼児だった頃に、近郷から愛される教育の場であったハイベリー学校では、かつて管財人であったトマス・ウィルソン氏が常々、生徒たちに、「婚約する」ことなど考えないように忠告していた。なぜなら、手に入れるに値する女性であれば、世間でいかなる種類の立場を占めるかわからないような男性を受け入れることなど考えようとしないであろうからである。若くして結婚したとはいえ、実質上スポルジョン氏は、この忠告に則って行動した。というのも彼は、ロンドンにやって来たときには、愛の駆け引きなどに全く未経験だったらしく思われるからである。その当時、ファルコン広場にロバート・トンプソン氏という人物が住んでいた。そして、オルニー家のひとりが、そのひとり娘のスザンナの素晴らしさに、この若き牧師の注意を最初に引いたのである。彼女は1856年1月8日にC・H・スポルジョン夫人となった。

 米国人のウェイランド博士がこの国にいたとき、また[スポルジョンの自宅のある]ウェストウッドを数年前に訪問したとき、彼はこの件に関連したいくつかの事実を聞き込んできており、それは一般の人々にも興味深いことであろう。彼に告げられたのは、スポルジョン氏がロンドンで最初に説教した際に関することであった。ウェイランド博士によると、「その日曜日の朝、そこに出席していたのは、おそらく八十名程度であった。執事たちは人々を出て来させて、なるべく盛大な聴衆にしようと多大な努力を行なっていた。その執事のひとりが、ひとりの若い婦人のところに赴き、こう云った。『日曜日には、ぜひ来てください。田舎からひとりの青年がやって来ることになっているのですが、私たちはできるだけ見ばよく迎えたいのです』。その若い婦人は出かけて行き、その田舎出の青年を見、彼が説教するのを聞いた。彼女はこのことを自分で私に告げてくれた。それ以来彼女は、何度となく彼の姿を見た。そして事実、それから数年後に彼女は、彼を末永く自分のものとしたのである。そして、彼女が彼にとって、また世界にとって何という祝福であったかは、ただ永遠のみぞ知ることであろう」。

 その結婚式は、フィンズベリー会堂のアレグザンダー・フレッチャー博士によって執り行なわれ、その様子全体は、この種のこととして目撃されたものとしては、ことのほか常ならぬものであった。「その日は暗く、じめついた、肌寒い朝だったにもかかわらず、8時過ぎには、明るく華やかな装いに身を包んだ五百人もの婦人が、多くの紳士に同伴されて、会堂の扉を包囲していた。これは教会員および個人的な友人たちであった。その時点から群衆は急激に増え始め、往来がふさがれて車や歩行者の通行が妨げられたことにより、事故を防ぐためにM地区の警察から一分隊が派遣されるほどであった。会堂の扉が一斉に開かれたとき、人々は中へ殺到し、三十分もしないうちに、多くの熱心な訪問者たちの前で扉が閉ざされてしまった。その人々も、早めに来た、もっと幸運な来客たちと同じように、入場券に恵まれていたのだが」*1。ある報道によると、約二千人の人々が寒風吹きすさぶ1月の大気をもものともせずに会堂の中に入ろうとやって来たが、その願いはかなわなかった。フレッチャー博士が新郎新婦のためにささげた祈りは、ことのほか熱のこもったものであったという。その後で会衆は、心からの思いをこめて、賛美歌「み救いのたえなる調べよ」を大合唱した。新郎新婦は、会堂に集まった全員から幸福を祈る思いに送られて出発していった。だが彼らの新婚旅行は、実のところ、欧州大陸を短く訪れる程度にとどまった。十二日後の日曜日である1月20日に、この牧師は再びニューパーク街会堂で説教していたのである。説教者が《至福の光景》についての説教を行なったのは、彼が常にまさる幸福な精神状態を覚えていたためであろうか。

 1856年2月10日の日曜日の朝、ニューパーク街でスポルジョン氏は、《特定バプテスト基金》のための説教を行なった。同基金は、百三十九年もの間ロンドンに存在していたものである。その目的は、老衰した、あるいは困窮した教役者たちを救済することにあったが、年間にして総額四百ポンドが神学生たちの教育のために投ぜられる一方で、職についたばかりの若い牧師たちの多くのために、毎年相当数の書籍贈与がなされていた。スポルジョン氏は、力強い寄付金のための訴えをした。だが、本当の意味では何も欠けることがないであろうとの彼の信仰は、彼の説教の主題となった聖句に表わされていた。――「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」――詩34:10。

 翌日の晩、スポルジョン夫妻は、今や新しい教室を設けられて喜んでいるニューパーク街《日曜学校》の教師たちの招待客となった。その会の目的は、牧師とその花嫁に敬意を表することであった。というのも、自分自身かつては日曜学校教師だった者として、スポルジョン氏は、ロンドンにやって来た当初から、ずっと日曜学校の働きには、この上もなく暖かな関心を寄せていたからである。至る所で大きな興奮が渦巻き、このような機会に最高のもてなしをしようと、教師たちはいかなる労苦も出費も惜しむことなく、この歓迎会を成功させようとした。食べ物はいずれも最上のものがふるまわれ、温室の供しうる、えり抜きの花々や植物が食卓を飾っていた。お茶の後で、校長であるカトラー氏が、「良心の自由」という版画の校正刷りを牧師に贈呈した。それは、十七世紀のウェストミンスター神学者会議の模様を描き出したものであった。何人かの人々が祝辞を述べ、スポルジョン氏自身も挨拶をした後で、一同は会堂へと移り、毎週行なわれる祈祷会の時を持った。その会衆のほぼ全員が、後で教室を通り抜けて、その絵を眺めては、賞賛の声をあげた。

 日曜学校の働きの進展に対する、この牧師の熱心は、自分の会衆だけに限らなかった。この頃に出版された、「来なさい。子たちよ」と題された説教は、西ケント日曜学校連盟のために行なわれたものである。また、ハノーヴァー広場講堂で行なわれた、「カルバリへの訪問」という別の説教は、同地区の貧民学校の1つのためになされた。同時代人の評者によると、後者は、「まさにこの人気説教者に独特のものであって、その熱心さと力強さは、その数日後にハワード・ヒントン氏が絶賛するほどであった。氏は、私たちの教派に属する諸神学校で教育を受けたバプテスト派の説教者たちの集会で、それを入念な研究課題とすべきだと推賞したのである」*2

 この講話に含まれた言葉の端々から十分うかがえるのは、この若き牧師が今なお日曜学校の働きに思いを燃やしていること、また、語っている内容を実際の経験によって理解している人物に特有の、非常な力をもって語っていたということである。

 毎週刊行されてきた説教の合本第1巻が出版された。その序文を読むと、種々の方面で、人々がいかに多種多様な感情をこの試みについていだいていたかがわかる。この説教者は、度を越した賞賛と、はなはだしい罵詈雑言を浴びせかけられていた。だが彼は、こうした講話が回心をもたらすものとして用いられてきたがゆえに、いかなる悪口にも動じないと告白している。この暗黒の世を見回して、こうした説教が広く流布することを通して何が達成されてきたかを見てとったとき、この説教者は心慰められたばかりでなく、敵対する批評家たちに対する、自分が最も願っていた種類の回答を得たのである。スポルジョン氏はたまたま、病床に寝たきりになっていたひとりの婦人を訪問することがあった。彼女は十年間、全く起き上がることのできないまま、床に伏していた。だが彼女は、自分が暗闇から光に立ち返らされたと告白し、毎週の説教が彼女の魂にとって脂肪であり髄であったと云い切った。そのとき、この若き牧師は、これが印刷工たちをも、説教者自身をも大いに元気づけるものだと思ったという *

 この、エクセター公会堂とニューパーク街で行なわれた説教の第1巻が出版された時期に、バプテスト派の新聞である『自由人』は、その創刊後一年を経ており、文壇におけるバプテスト派の評価をそれなりに高めるようなしかたで刊行されていた。とはいえ、多くの人の考えるところ、その編集者たちは、どちらかというと、あまり厳密でない神学的立場をとっていると思われていたが。この説教集の書評にあたった執筆者は、その仕事を行なうことに、無視できない困難が伴っているのを感じたらしい。というのも、思い切って率直な意見を書き記そうとすれば、この説教者を公然とけなしていると噂される人々に味方しているのではないかとみなされるか、彼に対して不公平な取扱いをする危険があったからである。それにもかかわらず、万難を排しても、「キリスト教的愛の精神によって」、正直な評価が下されるはずであった。

 ロバート・ホールや、トマス・チャーマズや、エドワード・アーヴィングといった偉大な雄弁家たちが世を去って以来、スポルジョン氏ほど評判となった現代の説教者がいなかったことは認められた。だが、ニューパーク街の牧師が彼らと同じ等級のひとりだと思っては間違いであった。「スポルジョン氏の取り柄が何であれ――そして、彼にはいくつか類まれな長所はあるが――、それは前世代の偉大な説教者たちを特徴づけていた美点とは非常に異なる種類のものである。彼らは全員、巨大な推理力と、洗練された嗜好と、深遠な学識と、該博な神学的知識の持ち主であった。こうしたすべての資質をスポルジョン氏はほとんど有していない。また、彼に対して正当な扱いをすれば、彼もそうしたものがあるふりをしてはいない。少なくとも、時を得ない何らかの瞬間を除いては確実にそうである。しかし、おそらく有能な判者のだれしも認めるところであろうが、アーヴィングであれホールであれ、否、チャーマズでさえ、福音を貧民たちにもたらすという点では、この現代の雄弁家ほど誂え向きの伝え手ではなかった。彼らの著作は、多くの世代を越えて存続するであろうし、いつまでも今日と同様に清新なものであろう。スポルジョン氏の説教集は、もしかするとたちまち永遠に忘れ去られてしまうかもしれない」。

 それでも、この説教者が疑いようのない天才の持ち主であることは認められた。強烈な想像力、平易で口語的な話ぶり、熱烈な情熱、これらがことごとく見事に結び合わされている様子は、彼の話を聞くいかなる人も、「彼に対する敬意の念をいだかずには」いられないほどであった。もちろん、常に鋭敏で、識別力にすぐれた、「思慮深い」人々に関しては、云わなくてはならないことがあった。――

 「たとい彼の荒唐無稽な考えによって反発を覚えさせられるとしても――そして、思慮深い人々ならば、そうした反発を覚えるに違いないであろうが――、その反発は、たちまち何らかの純粋な感情のほとばしりによって埋め合わされて、こう思い出させられることであろう。彼の荒唐無稽さは若者の過ちにすぎず、こうした突出物の現われる素材は、あらゆる時代において使徒たちや殉教者たちが形成された地金なのだ、と。あなたは彼の愚かさを許してやるであろう。それらは、彼の疑いようもない真摯さと情熱的な熱心を思えば、何ほどのものでもないからである。あなたは願うであろう。これほど才能豊かな精神が、現在の危険な立場に召される前に、もっと教養を積むことが可能であればよかったのに、と。だが、実状はいかんともしがたいために、あなたは感謝をもってそれを受け入れ、《知恵に富み給う神》が、その導き手となり守り手となってくださるように祈るであろう」。

 『自由人』は、この若き説教者の成功を喜んだだけでく、それが「長続きし、増し加わる」ことを希望していた。だが、この評者の目に彼の欠点と思われるものは、遠慮なく指摘された。単なる様式上の傷や、良識を逆なでするような発言、例えば、「流れるような雄弁がわめき声になだれ込み」、「時として荘厳の極致さえに達するほど舞い上がった想像力の飛翔が、『向こう側』へ墜落する」ことなどは看過された。俎上に上げられた欠点は、「知的なものというよりは道徳的なものであり、いやまさって矯正の必要があった。なぜなら、それらは時の経過とともに、ますます明白な、嘆かわしいものになっていくであろうからである」。それらは弱さの源泉となり、頑なに放置されれば、「極度にひどいものとなる」はずであった。

 ほぼ四十年の時が流れた後で、こうした友好的な助言者によって指摘されたこの説教者の短所について読むのは、教えられることである。この助言者は、最も手厳しいときも愛によって語ろうと申し出ていた。ではこうした欠点とは――本当のものであれ、想像上のものであれ――何だっただろうか?

 「実際、もしかすると、私たちはそれらをみな、一括りにまとめるのが正しいかもしれない。――虚栄という悪徳である。それらはみな、この多産の根から生じているように思えるからである。おそらくは、この根を発祥として、彼の向こうみずな聖書解説方法や、度を越した自分語りや、同輩キリスト者や同輩教役者たちに対する罵倒癖が出じたのであろう。そして、残念ながらそれらは、彼の人気を膨れ上がらせるのを助けている、不合法的な魅力だと思う。確かにわれわれが真摯に信ずるところ、スポルジョン氏は、こうした欠点のゆえに彼を愛するような追従者たちを、自分から真っ先に叱責するであろうが。二十一歳の青年が、七十年も生きてきたかのような口ぶりで自分の経験を語るのを聞くのは面白いこと、だが痛ましくもあることである。『私が一生を通じて常に悟らされてきたところ』、と云うようなときの彼は、何らかの輝きに包まれているに違いない。さもなければ、聴衆は一斉に失笑を漏らすであろう。だが、それよりさらに性質が悪いのは、彼がほとんどあらゆる説教でアルミニウス主義者をこきおろしていることである(明らかに彼は、アルミニウス主義の信条を理解していない)。……これほど若年の人物が、これほど深い odium theologicum[頑迷なる神学者間の憎悪]に染まっているのを見るのは悲しいことである。……もしも、すでに彼が、神の御前では自分と同じくらい真摯な、また同じくらい聖い人々に対する鼻持ちならない悪口を説教するばかりか出版することさえできているとしたら、彼がこの『心から憎む』才能によって自分の回りにお世辞たらたらのおべっか使いの大群が寄り集まることに気づくとき、いかなる程度の下品さにまで下落せずにいることがありえようか?」

 こうしたことが、この非常に率直な友人の意見であった。彼は、推薦の言葉と同じく、注意や警告を発することをも義務と考えていたからである。疑いもなく、この説教集の第1巻の中には、スポルジョン氏自身、初期の講話を改訂しようという一度は立てた計画を実行に移していたとしたら、改変したであろうようないくつかの事がら、あるいは表現形式が含まれている。しかしながら、彼の教理は後年にいだいていたものと完全に同一である。また、そこには、この『自由人』紙の率直な評者が思ったほど多くの砕け波[暗礁を示す]があったわけではなかった

 その間、多くの人々はなおもスポルジョンの無類の人気に困惑していた。ちょうどその頃に、ある神学博士が、時下の問題に関する一冊の小冊子を発行し、彼としては満足の行く形で問題を解決したらしかった。その一方で彼は、いくつかの非常に必要とされる助言と自分で考えるものを差し出していた。この博士は、『自由人』の評者ほど率直な厳しさは示していなかった。「兄弟。そこの椅子に腰をかけさせてほしい」、とこの立派な人物は述べている。「貴君のそばで私は、心からの祝意を貴君に表わすという義務を果たし、その特権を楽しめることだろう。私は、天来の《摂理》によって、かくもすみやかに貴君が教役者として卓越した立場に引き上げられたことへの祝辞を述べ、それとともに、そうした立場――栄誉とともに危険にも満ちている立場――を知る者として思わさせられる、父親からともいうべき助言をいくつか添えることにしたい」*3

 このように心暖まるしかたで自己紹介した後で、この立派な博士は、すぐさま自分の若き友の人気という主題に言及している。――

 「貴君の伝道活動は、道徳的奇観ともいえるほどの声名に達している。貴君が立っている立場の高さは、ホイットフィールドの時代以来、いかなる教会のいかなる教役者も――実際、1つだけ、例外があると云えなくもないが――達したことのないものである。貴君は、他のいかなる名前の魅力によっても集まることのないほど大勢の聴衆を前にすることができる。貴君は、名誉ある1つの教会を卓越したものに引き上げ、――ことによると、(噂を根拠にしての話だが)それを霊的な貧困さから富裕さへと引き上げたとさえ云い足せるかもしれない。貴君が足を踏み入れた場所は、いかに控え目に云っても、倦怠が『閑古鳥の問屋をしている』ような所であった。それが、僅か三年足らずのうちに、貴君を器として、大人数の、心を合われた、熱心で、精力的な教会を有することになったのである。それには、首都のいかなる他の教会も、その人数と、燃える熱心と、活発な努力において匹敵できない。『最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強い』会衆となったのである。」。

 そうした国内における事情とともに、地方においてもニューパーク街の牧師は、伝道者として、十八世紀の信仰復興で活躍した最大の説教者たちと同じくらいの好意を受けていた。この博士は続けて云う。――

 「活発な精神と、強壮な肉体的精力に恵まれた――mens sana in corpore sano[健全な肉体に健全な精神は宿る]――貴君は、すべてを貴君の《主人》への奉仕に集中させ、これにより疲れを知らぬ伝道者となった。東西南北において――英国で、ウェールズで、スコットランドで――貴君の説教は民衆によって感謝され、神によって祝福されている。いかなる場所も、この『若きホイットフィールド』を聞きに集まる群衆を収容できるだけの大きさはない。また多くの場合に貴君は、この栄光ある福音を、緑なす大地の芝地を床とし、蒼穹を天蓋として宣べ伝え、無数の大群衆に対して、『このいのちのことば』[使5:20]を告知してきた。このようにして貴君の名前は、わが国のほとんどの教会および多くの家庭の中で『誰もが知っている言葉』となってしまった。そして、このサザクの若き牧師は、その地位をわが国の著名人士の間に占めるに至り、中でも教会関係者の間における彼は、『最高位の者よりも高い』[伝5:8 <英欽定訳>]」。

 見る目のある者ならばだれにとっても明らかな真実である、こうしたことを認めた後で、この博士は、さらにいや高い点において、彼の祝意を表わした。彼は、スポルジョン氏の説教から生み出された種々の実際の結果に注意を払っている。――

 「用いられることこそ、道徳分野における法である。これは、キリスト教の牧会活動に関していえば、人間の魂の道徳的革新と、救いに至る回心を意味する。これ以下の何物も、『キリストの福音の敬虔な仕え人』の願いを満足させることはできない。それゆえ、こうしたすべての人々は、自分の成功の大きさを量る際に、十分に確証された回心の実例の数をもってするであろう。それこそ、神の祝福の下にあって、彼らの牧会的労苦から生まれる実なのである。この試験にかけられるとき、いま私が祝辞を呈している人物の牧会活動は、私の見知る限りの、あるいは私が何らかの真正な情報を有する限りの、いかなる牧会活動をも越えたものである。彼の述べるところ――又聞きだが――、彼の牧会活動を媒介として、過去一年の間に一千人以上もの人々が神に回心したと見込まれるという。また、この短期間の、しかし成功した牧師職の期間における、彼の首都および地方における勤労の結果、真理からそれてさまよっていた、あるいは真理を一度も知ったことのなかった人々が、数千人も聖潔と神へと至らされるか回復されたという。『これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである』[マタ21:42]。私は、英国の諸教会におけるキリスト教信仰の状況について多少は知っているものだが、以下のような自分の信念を明言することにいささかもためらいはしない。すなわち、現在、安息日ごとにキリスト教啓示の根本的な真実さを告げ知らせている数千人の人々――幸いなことに彼らの名前はレギオンである――の中でも、そのひとりとして、貴君のように、この短い年月の間に、自分の牧会活動の成果として、何千人もの人々を自らの教会や他の諸教会の交わりに加えてきたと真実に云える者はいない、と」。

 この執筆者の精神にとって、こうした事実は十分に異様なものであり、事情を深く調べれば調べるほど、いやまさって異様なものと思われた。この説教者は、ほんの二十一歳になったばかりであった。彼は、いかなる社会的地位も、例外的な教育上の利点も有していなかった。大学の学位など何も受けていなかった。彼の唯一のガマリエルは彼自身の父親であった。だがしかし、英国の、あるいは世界の首都において、この若き説教者は、カンタベリー大主教すら望むべくもないほど多数の聴衆を引き寄せることができたのである。これは、いかなる道徳的決疑論者も満足な説明をつけられない事実と思われた。しかしながら、いかなる結果も何か原因がなくてはならない以上、この主題に何らかの光を投ずることは可能であったろう。この博士は、自分の若き兄弟にこう問うている。「貴君が、キリストに仕える教役者として、これほど受け入れられ、成功をおさめていることについて、私たちはいかにして説明できるだろうか?」 そして、語を継いで云う。――

 「貴君の教役者経歴において、貴君は、悪意や偏見を持つ者たちからの敵対的な攻撃にさらされてきたばかりか、有徳で賢明な人々からの意図せざる誤解にも遭ってきた。貴君をけなす人々を全員、心の目の前に置いて、私は自分の知る限りにおいて彼らが云っていることを吟味してみよう。私はひとりの人に尋ねる。『なぜ彼はあれほど人気があるのでしょうか?』 その人は答える。『彼には、大がかりな演劇的天才と、音楽的な声と、演説者としての非常な雄弁があるからだ』。しかし、こうした説明を受け入れるのは相当の無理がある。過去の人類の歴史において、いなかる演劇的天才も、いかに評判を呼ぶ雄弁も、いかに音楽的な調和も、これほどのことをなしとげたことはなかった。マコーレーも、ギャリックも、ジェニー・リンドも、レイチェルも、ゴフも、そうしたことはできなかった。劇場はその『人気役者』を月ごとに変えなくてはならず、歌手は別の地域に移住しなくてはならず、雄弁家は『極めてまれに姿を現わす』のではなくては、その名前の魅力で確実かつすみやかに聴衆を集めることはできない。また、この現象をことさらに際立たせているのは、貴君が、講壇の回りに大群衆を集めているということである。講壇は、決して芸人が人をひきつけたり、快楽で人が刺激されたりするような場所ではない。私は貴君について証言するが、貴君の刊行された説教集から判断する限り、わが国における、また今の時代における不潔な趣味と、堕落した官能性と、不道徳な慣行とを、これ以上強く非難しているような教役者は、私の知る中ではひとりもいない。――これと同じくらい強く非難している人がもしいるとしても、ごくまれである。もしも、不潔な大衆の趣味に迎合しようとすることに人気が直結しているとしたら、私の見るところ、貴君が教役者として英国で人気を獲得できる見込みは、――皆無とまでは云わなくとも――ほとんどないであろう。貴君は、ただ罪を断罪するだけでなく、それを断固として、また con amore[心から熱心に]行なっている。『しかし』、と別の人は云う。『彼は非常に独創的だ。――その話しようだけでなく、内容についてもそうなのだ。――それで、彼の独創性こそ人気の的なのだ』、と。私の愛する友よ。私は、かの高徳の人々――今は神とともにある人々――の神学について何がしかを知っているものであるが、彼らの著作について、貴君は私と同じくらい、あるいは、おそらく私よりもずっと精通している。そして、私はためらうことなく云うが、貴君の神学的意見は、ギルや、トップレディや、ハーヴェイや、ロウメインのそれと実質的に一致しているのである。だが、その神学の基調や特質の中に私は、彼らの、あるいは貴君の人気を説明するようなものを何1つ見いださない。少なくとも、私を満足させるほどの理由は全くないのである」。

 しかし、スポルジョン氏自身、自分がなぜこれほど人気を博し、これほど用いられているのか、はっきり説明するよう求められたとしたら、返すべき答えはあったかもしれない。この博士は、彼が確実にこう答えるだろうと感じていた。「私は何者でもありません。神がすべてです。私の人気と成功は、みな神の主権のおかげでしかありません」、と。これは非常にふさわしいこと云々であった。だがそれは、十分な説明ではなかった。神は、その主権によって働かれるが、決して理由なしにお働きにはならない。その理由は常に見てとれるわけではないにせよ、そこには常に理由がある。では、いかにして、この説明がつくだろうか?

 「もし私が、貴君の説教する中身に、貴君の人気の秘密を発見できないとしたら、貴君の説教のしかたにおける特異性のうちに、何らかの理由を発見できるだろうか? 私の判断するところ、ここにこそ、その秘密の説明が見いだせるだろうと思う。貴君には強い信仰があり、その結果、強烈な真剣さがある。ここにこそ、サムソンの頭髪と同様、貴君の力の秘密があるのである」。

 続いてこの博士は、若き説教者に向かって、その信仰に堅くとどまり、すでに始めたように《昔ながらの福音》を宣べ伝え続けるように勧告した。そうする場合、「貴君の前には、いかに誉れと幸いを受け、いかに用いられるべき見込みが輝かしく開けることか!」 さらに、こう付言されている。「諸教会の中における星として、それも相当に巨大な星、桁外れの輝きを放つ星として、貴君は自分にもたらされた栄光を、燦然とふりまく栄誉を与えられるであろう。そして、貴君は、自分に割り当てられた走路を走り終えた後で究極的には――だが、その日よ、はるか先のことたれ!――暁の星が没するように沈んで行くであろう。――

   「『その没するは 冥(くら)き西方(かなた)の影になく、
    空の嵐に にじみ消ゆにもなく、
    天国(あま)つ光に 溶け行くにあり』。」

 こうした類の言説は、今日の読者にとっては、非常に珍しく興味をそそられるものである。また、これらは、こうした初期の時代における、この若き牧師の異常な人気を明確に証言している。これは、彼がロンドンで働き出してから、まだ二年になるやならずやの時期だったのだが。この頃の彼は、それ以前よりも多くの人々と急速に親交を深めつつあった。そして、事の自然な成り行きとして、こうした温情ある達意の文章が、スポルジョン氏を弁護するために、折にふれ現われるようになった。彼には、持ちの良さが見え始めていた。そして、それこそ、真正な地金の確かなしるしであった。また、やはり一段と明らかになりつつあったのは、彼が一切、説教によって自分の利を求めるつもりがない、ということであった。外部説教者として多くの地方で説教していたにもかかわらず、ロンドンにおける三年目が終わった時点で、この説教者自身は、旅費その他の必要経費のために、非常に家計が逼迫していることに気づいたからである。

  


*1 『ブリティッシュ・バナー』、1856年1月10日付。[本文に戻る]

*2 『バプテストの使者』、第4巻、153。[本文に戻る]

*3 『なぜ人気があるのか? C・H・スポルジョン師との一時間』、ある神学博士著。ロンドン、1856年。[本文に戻る]


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