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第23章

「せせらぎ」論争

議論の起こり――トマス・トーク・リンチ――ジェームズ・グラントと『モーニング・アドバタイザー』紙――キャンベル博士――スポルジョン氏、『キリスト者の私室』誌で発言す――リンチ氏の返答――論争の結果

 この時期に行なわれた「せせらぎ」論争は、スポルジョン氏に大きく関わるもので、彼も論戦に加わるほどであった。それゆえ、私たちの偉大な説教者のいかなる伝記も、神学畑におけるこの「打ち合い」に一章を割かない限り、完全なものとはならないであろう。この論争がかつてキリスト教界を揺さぶった激しさは、後世の私たちが一驚させられるほどである。詳細に踏み込む必要はない。スポルジョン氏自身がこの議論に参加した部分が明らかになる程度に、主要な事実だけ簡潔に述べれば十分であろう。

 1855年11月、一冊の小さな本が出版された。『心と声の賛美歌集――せせらぎ』、と題されたこの本の著者、トマス・トーク・リンチは、グラフトン街で少人数の会衆が集まる一会堂の牧師であった。1818年生まれの彼は、なおも青年期をさほど後にしていない若さの持ち主で、すでに月刊誌『クリスチャン・スペクテイター』への寄稿家として知られていた。だが、このような furore[騒動]を生み出した詩的な小編の数々は、国内が辛酸を嘗めていた1854年およびその後数箇月の間に書き上げられたものであった。著者は、そうした詩作活動に大きな慰めを見いだしたと云われている。

 当初、この本はとりたてて注意を引かなかったが、その状況は、ジェームズ・グラント氏の評論が『モーニング・アドバタイザー』紙に現われるに及んで一変した。その記事で筆者は、いかにも寛大な率直さをもって考察を加えた人らしく、こう認めている。すなわち、リンチ氏は気立ての良い、知的で、教養のある人物であり、詩的な精神すら大いに持ち合わせている、と。だが、それと同時に、この作品は、真のキリスト教信仰が何に存しているかを知る者たちに悲しみを吹き込むものでもあった。ジェームズ・グラント氏はこう続けている。――

 「私たちは、遺憾と痛みの念をもって、こう云わざるをえない。この本には、確かに多くの箇所で洗練された感情の発露が見られはするものの、最初から最後まで、生きたキリスト教信仰や、福音主義的な敬神の思いは、ひとかけらも含まれていない。たといそうしたものがあるとしても、少なくとも私たちには見当たらなかった。時たま――だが、それすら比較的にまれである――《救い主》の御名が差し挟まれる。だが、ただの一度たりとも、その神性や、その贖罪の犠牲や、その仲保者職が認められることはない。また、人間のうちなる堕落性や、回心および聖化のみわざにおける御霊の働きは、この本の最初の頁から最後の頁に至るまで、遠回しにすら認められていない。ほとんどすべてが、理神論者によって書かれたものであっても不思議はない。そして、この《賛美歌集》の大半は、自由思想家たちの会衆によって歌われてもよいものである。……ウォッツや、ドッドリジや、ハートや、クーパーや、ニュートンや、モンゴメリその他の人々の賛美歌は、無数の実例とともに、悲しみの時期にあり、死の床にある信仰者にとって、言葉に尽くせない慰めの源であることを証明してきた。だが、そのような状況のもとにある信仰者たちの手に、このような本を握らせたり、その章句の何がしかを朗読するとしたら、それは何と冷酷な嘲弄であろう! 著者には、もしそうしたことが喜びであるというなら、この本のような内容を書き記して出版する完璧な権利がある。だが、そのときには、本書の前書きで明言しているように、それを「キリスト教詩歌」などと偽り称するかわりに、その真の性格付けを示すべきであった。これは、《自然》の美や恩恵に対する単なる賛辞にすぎない、と。あるいは、もし彼が、もっとましな表現を好むとしたら、「《自然》を通して、《自然の神》を眺める」試みである、と*1

 この評論について、キャンベル博士の伝記作家たちはこう述べている。「こうしたものが、『せせらぎ』論争を生じさせた批判の真髄であった」*2。彼らは、この議論を冷静な、常識あるしかたで語っており、一方に偏した過激な表現に走らない文学的素養を十分備えたキリスト者らしくふるまっている。この点において、ファーガソンおよびモートン・ブラウン両博士が示したのは、天晴れな模範である。というのも、ある種の著述家たちは、戦いの騒音や硝煙がとうに過ぎ去った後でも、この「せせらぎ」論争そのものにおける最悪の様相のいくつかを復活させようと願っているかに見えるからである*3。『ブリティッシュ・バナー』紙のキャンベル博士、そして『モーニング・アドバタイザー』紙のジェームズ・グラントが間違いを犯したということは考えられるが、彼らが悪人であった――無知な不徳義漢であった――などということは、反対陣営の方でも、よほど度を越した狂信者以外には、考えられもしないことであったろう。

 『せせらぎ』に関するグラント氏の寸評に最初に答えたのは、『教会評論』誌であった。『教評』は、過ぎにし時代にはロバート・ホールやジョン・フォスターといった錚々たる人々と関係していたものである。この時点で同誌は、新任の編集者を戴いたばかりであり、おそらくはそれがゆえに、発表される意見という意見が、いやまさる疑念をもって見られたのであろう。そのうちに、『モーニング・アドバタイザー』は、『教評』に掲載された寸評を批評し、これに答えて後者は、十数名もの非国教会系の指導的な教役者たちによって署名された抗議文を公表した。「これは、この事件における新しい特徴であった。――実際に、評論ということに関する新しい特徴であった」、とキャンベル博士の伝記作家たちは述べている。「ここに、ひとりの人物の意見を圧倒し、ひとりの人物の断罪を断罪するために、一団の助力者たちが戦場に押し寄せてきたのである」。もちろん、大新聞の主幹であるグラント氏は、簡単に抑えつけられはしなかった。彼は《抗議文》を再公表し、それに数々の論評を加え、問題の賛美歌のいくつかを引用した上で、《抗議者たち》の何名かに、そうした歌を自分の会衆に配って歌わせたいのかとねじこんだ。この《抗議者たち》の一団には、ヘンリー・アロンや、ニューマン・ホール、トマス・ビニーといった人々が含まれていただけに、この騒動は広がっていった*4

 キャンベル博士は、この喧嘩騒ぎに最後に加わった非国教会系の編集者であった。だが、いざ彼が口を開くと、この騒ぎは非常に大きなものとなった。そこには、いささかの逡巡もためらいもなかった。「『せせらぎ』は」、全体として見たとき、「英語で発行されたこの種の書物としては最も非聖書的なものである」。同博士は、「七つの手紙」を公表し、それらを「英国内の独立派系およびバプテスト派系の全神学校の学長および教授たち」に宛てて書いた。彼は、リンチ氏の賛美歌集には、ユニテリアン派の用いている賛美歌集にまさって明確に福音主義的な真理は含まれていないと主張した。

 スポルジョン氏は、この論争について云うべきことがあり、その講義や説教の中でそれとなくこの主題に触れはしたかもしれないが、この問題に関する彼の主たる発言は、『キリスト者の私室』誌を通してなされた。すでに説明されたように、ニューパーク街会堂の牧師は、友人であるチャールズ・ウォルターズ・バンクス氏との友情から、きわめて定期的に同誌に寄稿していたのである。『私室』誌にとっては不幸なことに、同誌は『せせらぎ』に対してすでに好意的な評価をしていたらしいが、一方でスポルジョン氏が自分でこの件の吟味に着手した際には、きわめて異なる結果に至った。こういうわけで、リンチ氏はこう述べることになった。「『私室』は今、多少は筋の通ったところを見せ始めている。私に対する同誌のこれまでの態度はばかげたものであった。だが、その新しい取り組み方において、同誌に一層の知恵が与えられてほしいと願う私は、より賢くなった同誌が成功をおさめてほしいと心から願うことができる」。リンチ氏自身は、スポルジョン氏がこの議論の中で取った部分について、このように言及している。――

 「この論争に伴った一連の珍妙な出来事の中でも、『キリスト者の私室』誌のふるまいは特筆に値する。読者は、『キリスト者の私室』について聞いたことがあるだろうか? まことにそれは、物珍しさに欠けてはいない私室である。それは小さな一銭雑誌で、折り紙の舟を作れる程度の大きさで、その舟は一瞬の楽しみの後で沈んでしまう。風は実に気まぐれなものだが、この文書ほどめまぐるしくは変わらない。実際これは、風がその向きを変えるように、見たところ大した理由もなしに、その考えを変える。1855年12月28日、『せせらぎ』出版直後の同誌の意見によると、本書は、『精神を輝かせて快活にし、――それがしかるべき基調の感情を失っているときには回復させ、幸いかつ聖なる思想で高く引き上げ、――魂の荒廃した、わびしい場所に肥沃さと新緑をまとわせ、日々の生活の試練と失意のただ中にあって、勇敢に戦う備えをさせる』ためにうってつけの詩文に満ちた書物だという。『私室』は、こうした意見を例示するものとして3篇の賛美歌を引用し、そのしめくくりには、当然のように、『本書が広く普及すること』を心から願っていた。しかし、3月21日に同誌は、それが一度も本書を見たことがなかったと云い出し、5月16日には、本書のことを、『リンチ氏なる人物によって作詩された、ちっぽけなガラガラ』と呼んだのである。これは、同誌と私の双方にとって失墜とも云えることであった。しかしながら、事態は最悪に達した後で好転し始めた。それで、5月23日には、『私の意見』がやって来た。すなわち、この重要な機関誌を通して世に伝えられた、スポルジョン氏の意見である。スポルジョン氏は、彼が『この問題の本質が潜んでいる場所の深みをほとんど見通す』ことができないと認めている。彼は云う。『ことによると、この賛美歌集は、見かけほど麗しくはないのかもしれない』。彼は、この人魚たちの『きらめく眼差し』を十分に見つめて、彼女たちが魚のような胴体と蛇のような尾を有しているのではないかと疑っている。しかし彼は、当該の尾を見はしなかったと告白した。事実、それは彼にとって――あるいは、他のだれにとっても――見通せないほどの深みに置かれているのである。スポルジョン氏の批評を私は信用できると思う。唯一、彼の方にあるもの――つまり、私に反するもの――は、悪意から出てはいない生意気さにすぎない。これは、グラントやキャンベルよりも、はるかにすぐれた能力や鑑識眼を明示していた。ここに示された人物の眼識は、もしも、かの強烈な、だが不健全な香りたる《人気》によってくらまされないとしたら、さらに天的な輝きとともに輝くことができるであろう。ただし、私にはそれが、まだそこまでは達していないと思われる。スポルジョン氏はしめくくりに、「昔からの信仰は勝利を得るに違いない」、と述べている。これには私も完全に同意する。ただし、果たして彼の年齢で、この世の悲しみや争いの中にあっても、昔からの信仰がいかなるものであるか知るほどに十分な経験を積んでいるかどうかは疑わしいところである。彼は云う。『私たちは、じきに真理を、山羊皮の手袋ではなく、甲冑の籠手をもって扱わなくてはならなくなるであろう。――聖なる勇気と誠実という籠手で』、と。左様。そうなるであろう。また私たちの中には、すでにそうしている者もいる。そして、ことによると、『音楽に合わせて戦う』魂を持ち合わせている人間は、

   『困惑せる叫びの中でも 安らかな
    勝利への 確信もちつつ』、

だれにもまして固く武器を握り、だれにもまして強く、また暖かく友を抱擁する者であるかもしれない。スポルジョン氏は5月23日に語った。そして、10月になった今、『私室』は、ほとんど考えに窮しているかに思える。一、二週間前に、それは私をアポロにたとえ、プリスキラとアクラに向かって、私をお茶に誘い、『主の道をより完璧に教える』ように勧めた。私が目にした同誌の最新号は、私が『上首尾をおさめる』ようにとの希望を表明していた。確かに私も、そうなるだろうと希望するものであり、ただちにそうなりたいと希望している。この論争の行く末についても同様である。のらくらしていられる時間などないからである」。

 論争の広がりとともに、論争の発端となった『せせらぎ』は、その大部分が忘却されてしまったに違いない。この戦闘の焦点は、正統信仰の基準や否定的神学ということへ移っていったからである。こういうわけで、全体としてこの論争には、疑惑の一掃という効果があった。それがもたらした結果は、ある権威筋が私たちに告げているように、概して、「神の教会にとって底知れぬほどの善」であった。辛辣な批判や罵りは、一方の陣営に限られてはいなかった。だが、喜ばしいことに、公然たる戦いを繰り広げた論敵たちの多くは、後には親しい友人同士となった。おおむね、こうした人々の大半は、おそらく口をそろえて、諸処の教会に善がもたらされたと告白したであろう。キャンベル博士およびグラント氏と同じように、スポルジョン氏もそれ以外の何物も望んではいなかった。彼らがこうした行為によって求めていたのは、名声でも勢力の拡張でもなかった。それゆえ自分たちの行なったことによって真理が勝利を得たのを見いだしたとき、この指導者たちは、自分たちのあらゆる骨折りが報われたと感じたに違いない。「はっきり証言できるが、こうした熱心な討論によって、宣教活動には強大なはずみがつけられることとなった」、とある者は云う。「ここ数年来のうちで、これほど明らかに福音の枢要な要素が知れ渡ったことはない」。いくつかの場合においては、牧会活動そのものが再び活性化されたように思われる。ひとりの説教者はこう書き記している。「私は、今ほどキリストの贖罪の犠牲を、そのすべての豊かさにおいて明確に、かつ取り違えようのないしかたで説き教えるべきだと感じたことはない」。また、別の説教者はこうつけ加えている。「この悲痛な討論を糧として私たちは、よりキリスト教が用いられるべき計画に、新たに、また一致して取り組むことになるであろう」。確かに利益を得たのは真理であった。

  


*1 『モーニング・アドバタイザー』、1856年2月7日付。[本文に戻る]

*2 「私たちは、これを信ずるに足る評論と認めるものである。疑いもなく、こうした文章を書き記した人物は、キリスト教の名を冠したあらゆるもの、または、ある程度まで明確にキリスト教体系の特徴を表わしているあらゆるものの重要性について、深く心から確信していたに違いない。それは過誤ではないし、過誤であると申し立てることもできない。誠実で、至極当然のことを求めているにすぎないからである。この評論は、リンチ氏の尊敬されるべき点や、美点や、学識や、天分を十二分に認めている。公にされた限りの部分においては忌憚なく責任を問うている一方、個人的な事情に関わる内容への言及は慎んでいる。これは、いかなる公的な人物によって刊行されたいかなる書物についても、あってしかるべき立場である。そして私たちは、過去の年月を越えて振り返るとき、このことが一度でも疑われたり、この批判があれほどの反対を巻き起こしたりしたことが、ここから推察される人柄に鑑みると不思議に思われるのである」。――『神学博士ジョン・キャンベルの生涯』。法学博士ロバート・ファーガソン・法学博士モートン・ブラウン共著。p.367。[本文に戻る]

*3 このようにして、『講壇年代記』、p.438で、その著者は、トマス・トーク・リンチについて語る際に、こう云っている。――「彼の不徳義な攻撃者たちについて弁護できる唯一の理由らしきものは、彼らは、猟犬が自分の吠え立てる月光の甘美で輝かしい神秘について理解できないのと同じくらい、彼を理解することが完全に不可能だった、ということである。ただ1つ不思議なのは、なぜ彼らがたちまち鞭を受けて黙らされることがなく、自分たちの手に余る高尚すぎることに干渉するのを禁じられなかったか、ということにほかならない。ことによると、リンチ氏が精進を続けて、下界の喧噪に全く取り合わないでいたとしたら、氏個人にとっては良いことだったかもしれない。しかし、『沈思と受苦』によって彼は過敏になっていた。そして、彼の義なる魂は、こうした無知な不徳義漢たちの不法な行為によって悩まされたのである。それは、彼自身のためばかりでなく、思想の自由と広がりに対する、彼らの表立った、横柄な反対のためであった」。[本文に戻る]

*4 「こうした教職にある紳士たちは、何のためにこの戦場に現われたのだろうか? 彼らにとっても、『教会評論』にとっても、彼らがかの賢人の忠告、『争いが起こらないうちに争いをやめよ』[箴17:14]を顧み、グラント氏の批判や抗議など黙殺し、それが自由に浮沈するがままにまかせていた方が、この件に干渉したりするよりも、はるかに良かったであろうに。何にもまして深く嘆かわしいのは、教職にあるこうした十五名の紳士たちの立場が、自ら進んで、また無思慮にも、この一件の中に巻き込まれてしまい、非常に恐ろしいことながら、彼らの陣営が、超越的神学――かつては生き生きと成長していた多くの教会にとって、最も致命的な葉枯れ病となってしまった影響力――へと如実に傾倒していく前兆となったことである」。――『バプテストの使者』、第4巻、116。[本文に戻る]


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