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第24章

ジェームズ・グラントと他の友人たち

『モーニング・アドバタイザー』紙、スポルジョン氏を擁護す――ジェームズ・グラントの前半生――全般的な批評――スタンボーンでの記念礼拝――エクセター公会堂とニューパーク街会堂――成就せざる予言

 故ジェームズ・グラント氏は、ロンドンにおけるスポルジョン氏の最初期の友人たちのひとりであった。そしてグラント氏は、当時、首都の日刊紙の中では、『タイムズ』紙に次ぐものと格付けられていた『モーニング・アドバタイザー』紙の編集者として、力強く、広汎な影響力を振るうことができた。グラント氏の日刊新聞こそ、おそらく、この若き牧師の才幹を心から認めた――あるいは、公明正大な批評という名の下で彼に忠告を差し出すことを企てた――最初の新聞であった。この敏腕編集者の名前は、この伝記でこれから語られる部分に何度か現われるであろう。それゆえ、ここで彼に関するいくつかの事実を記しておけば、読者は、なぜ彼がこれほど、スポルジョン氏が心にかけていた使命に対して強く意気に感じたかをより理解しやすくなるであろう。

 ジェームズ・グラントは、スコットランドのエルギンの生まれで、ニューパーク街会堂の牧師よりもほぼ三十歳年長であった。その牧師に対して彼がたちまち強い好感をいだいたのは、両者が神学的に一致していたからである。グラント氏は、早くも1820年にはロンドンの各紙への寄稿を始めており、その七年後、彼と親戚のひとりは、『エルギン新報』を創設した。1833年、彼はロンドンに居を移し、チャールズ・ディケンズが在籍していた時期か、その前後の『モーニング・クロニクル』紙に関わり合うようになった。その翌年、すなわち、スポルジョン氏が誕生した年[1834年]にグラント氏は、『モーニング・アドバタイザー』編集部への任命を受け入れ、それから三分の一世紀後に引退するまで、同編集部にとどまり続けた。1850年、同紙は恒久的に見開き二面紙に拡張され、グラント氏は編集主幹となった。こうした領域において、この若きスコットランド人は疲れを知らぬ働き人となり、その結果、この日刊新聞はその地位を大いに向上させられることとなり、この編集主任は自分の地歩を盤石のものとした。それは、同紙の所属している酒類販売免許取得人協会のうるさ型たちが彼を解任しようとしてあれこれ画策したにもかかわらず微動だにしなかった。

 グラント氏の家庭はスコットランド分離教会に属していた。だが彼は、その若き友たるニューパーク街会堂の説教者と同じく、年若い頃にバプテスト派の見解を奉ずるようになった。彼は、ジェームズ・ハリントン・エヴァンズと、バプティスト・ノエル閣下が連続して牧会していた、ベッドフォード通りジョン街の会堂に出席していた。一時期グラント氏は、『メトロポリタン・マガジン』の編集者兼経営者であった。その発行費は――六十年前のことだが――いかにも昔風で、毎月3シリング6ペンスであった。これらすべてに加えて、彼は一連の書籍の執筆をもくろんだ。それだけでも、ほとんど一生分の仕事になるような書籍の執筆である。トマス・T・リンチのような批評家は、「せせらぎ」論争の際に『モーニング・アドバタイザー』が参与した部分に対する仕返しとして、グラントのキリスト教信仰的な告白と、酒類販売免許取得人たちの新聞で彼が行なっていたような特徴を比較して云々しようとした。だが、他の人々はこの件をもう少し別の角度から見ていた。こういうわけで、ひとりの権威者は宣言していたのである。このような編集者が『モーニング・アドバタイザー』紙と関連を持っていることから生じた種々の好都合な点については、多くのことが語られうる、と。「このような日刊新聞の主幹として、このような人が存在していることは、言葉に尽くせないほどに重要なことである。宗教的な問題を挿入することによって、彼は善のために運動し、途方もない意義を持つものとなった。そうした点で、『アドバタイザー』紙は、多くの人々にとって驚異である。というのも、それはしばしば、キリスト教雑誌でさえ見逃すような、重要なキリスト教礼拝式についての報告を掲載しているからである」*1

 こうした人物が、報道人にしてキリスト教の教師たるジェームズ・グラントであった。彼は、スポルジョン氏がロンドンにやって来た時には、その最盛期を迎えており、自分の編集している日刊紙の発展について何年か気をもんだ後で、人生における成功の絶頂にあった。ニューパーク街が突如として様変わりしたとき、その知らせは、この英国新聞界でも名うての編集部に届くまでに、決してもたつきはしなかった。この鵜の目鷹の目の新聞には、起こりつつある事態に関する情報がとうに届いており、編集長自らニューパーク街会堂に出向いて、何がこの、最近までほとんど閑古鳥が鳴いていた会堂に入りきれないほどの群衆を引き寄せているのか、その目で確かめようとした。『モーニング・アドバタイザー』紙は、この説教者に関する意見を――もちろん、全体としては好意的な調子で――掲載したが、それから数箇月後に最初の説教集が出版されたとき、この主題が以下のように再び取り上げられることになった。――

 「ほぼ十二箇月前に、スポルジョン氏がエクセター公会堂において、それまでその広壮な場所に集まった中でも最もぎゅう詰めの聴衆を前に説教していたとき、私たちは、説教者および神学者としての彼の資質に格別な注意を促した。私たちは何はばかることなく、だが、真摯な友情の念から、彼の欠点と思われたものを指摘すると同時に、彼がかくも年若い人物である以上――その時点では成年[二十一歳]にも達していなかった――、時の経過とともに、当時私たちが欠陥であると述べた事がらのすべてではないにせよ、そのあらかたは取り除かれるであろうとの希望のみならず、信念を表明した。――時間によって識別力は成熟させられ、精神は円熟するからである。だが最近、サザク区はニューパーク街にある彼自身の会堂で彼の話を聞いた私たちは、非常な欣快の念とともにこう述べるものである。私たちは、彼の語る内容にも語りようにも、格段の向上を認めることができた。それは決して、スポルジョン氏の教理的な見解が変化したということでも、それを例証し、強く主張し、適用する彼の流儀が変化したということでもない。むしろ、自分と異なる立場を採る人々の見解に取り組む際の彼に、あまり喧嘩腰の部分が見られなくなったということである。彼は、福音を伝える他の説教者たちの中でも、彼の考えるところ――そして、私たちも、大筋において彼の判断は正しいと思うが――自分たちの高い召しに不忠実である説教者たちについて、それほど荒々しく語るところが少なくなっている。さらにスポルジョン氏には、その講壇上の様子という点においても、著しい、満足の行くような向上が見られる。彼は、未回心の人々の回心を訴えかけることにおいては、これまでも常に真剣であったし、信仰者の喜びや悲しみ、希望や恐れについて述べるときには、心底から感情を露わにするように力をこめて語っていた。だがしかし、こう云うのは奇妙なことだが、そこには時として不遜に聞こえる言葉が散見され、私たちの知るところ、それが彼を愛し賞賛してやまない友人たちにも、しばしば大きな痛みをもたらしてきたのである。幸いなことに私たちは、この点においても格段の改善を認めることができると云える。とはいえ、彼の内容にも話しようにも、まだまだ大きな向上の余地があるとつけ加えざるをえないことも事実である。本書の序文には、あまり感心できないような精神がちらほらと見受けられる。また、本文そのものの多くの箇所にも、趣味の悪い部分がある。愛によって人の感情をおもんぱかり、穏やかな云い回しを用いるという点では、まだまだ不足がある。そうした云い回しを用いても、決して明確な福音教理を忠実に唱道し、強く主張する妨げにはならないはずである。さらに彼に望まれるのは、人間にゆだねられた中でも最も厳粛かつ責任ある働き――すなわち、堕落した人間に対して天国からのあわれみを宣言するとともに、その使信を拒絶する者に伴うすさまじい結末について告げること――に携わっている際には、細心の注意を払って、いかなる意味においても、決して不遜に思えるような言葉を避けるということである。私たちは、衷心からスポルジョン氏に促したい。聴衆をにやりとさせたり、自分たちが集った目的を軽く思わせるような表現を用いるのは厳に避けてほしい。私たちの前にある本の中には、そうした表現が少なからず見受けられ、それらを目にするのは、講壇の神聖な使命について正しい見方をいだくいかなる者にとっても、きわめて痛ましいものであるに違いない。

 「スポルジョン氏の説教におけるこうした欠陥を私たちは、以前にまさって心安だてに指摘するものである。なぜなら、彼は多種多彩な点において非凡な人物だからである。ジョージ・ホイットフィールドの時代以来、キリスト教信仰のいかなる教役者も、このバプテスト派の説教者がこれほどの短時日のうちに獲得したほどの大評判を得たことは一度もない。ここにいるのは、ほんの若僧でありながら――二十一歳にしかなっていない、まぎれもない青二才である。――他にくらべるものもない、現代最も人気のある説教者である。女王陛下の領土内のいかなる者も、これほど莫大な数の聴衆を引き寄せることができ、特に祝された場合、これほど完全に自分の聴衆を魅了し、その心を喜ばせることのできる人はいない。良心に対する彼の訴え、無頓着な者に対する彼の諫言は、まさに圧倒的な迫力を有する雄弁の見本ともいうべきものである。悔悟しない状態の中で生き、死んでいく人々の末路を宣言するとき彼は、膨大な会衆を恐怖させ、身震いさせる。彼が彼らのすさまじい運命を、その眼前で真に迫る色彩で描き出すと、ほとんど自分がすでにその暗黒と絶望の領域にあるかのように想像させられるのである。その序文で彼が私たちに告げるところ、彼の説教のいくつかによって生み出された印象の大きさは、1つの講話の結果、二十件もの回心が確認されたほどだという。云うまでもなく、その他にも、いかに多くの救いに至る変化がその聴衆の上に及ぼされてきたかは、来たるべき世になって、その重要かつ意外な啓示が行なわれるとき初めて知られるであろう。

 「この有能で雄弁な説教者が、キリスト教界の地平に最初に姿を現わして、その光明によって首都の大衆の目を眩惑したとき、私たちが心配したのは、彼が日々飲まされる人気という大杯に酔いしれてしまうのではないか、あるいは、突然獲得したその評判を、多様性の乏しさによって保てなくなるのではないか、ということであった。だが、いずれの結果も起こらなかった。彼が人間として福音の説教者として、いかなる欠陥を有していようと、大衆の喝采によって損なわれることがなかったことだけは文句なしに述べることができる。本質的に彼は決して自負心に乏しい方ではない。だが、それは、その名声がいかに日々高まっていこうと、肥大するどころか、最初に彼が私たちの驚嘆せる凝視の的として突然現われたときよりもずっと謙遜になり、ずっと落ちついたものとなっているように思われる。

 「また、説教者としての彼の卓越性が長続きしないのではないかという私たちのさらなる恐れについて云えば、私たちは喜んでこう云うものである。私たちの心配は、その後の事態によって、これ以上ないほど事実無根であったことが証明された、と。衰えたものは何1つない。むしろ逆に彼は、ある意味では、時の推移とともに向上していさえする。私たちは、彼の驚くような独創性が、最初の頃よりも、さらに大きく引き立たされてさえいるように思う。彼の内容の多様さは――もちろん、彼の教理についての多様さではなく、《天来の》真理を彼が講解し、例証し、適用する際の多様さは――、これまでと同じようにすぐれたものなのである」*2

 これは寛大な、また、それと同時に、偏見のない意見を表明しようとして記されたものであった。そしてこの説教者には、グラント氏が、急場の時には自分を支持してくれる友人であることが見てとれた。スポルジョン氏は、今や世間で押しも押されぬ地位を占めたと思われていた。彼を礼賛する人々はこれまでになく多かった。しかし、ニューパーク街の牧師が数々の悪口を乗り越えつつあり、新しい友人たちを引き寄せつつある一方で、彼の力になる報道界の盟友たちが極度に役立つことになる時は、急速に近づきつつあったのである。

 この時期に刊行されたのが、『バプテスト信仰告白:(証明聖句付き):1689年ロンドン総会に集える教役者および伝道者による採択版。序文:C・H・スポルジョン師』、であった。この若き牧師は、この『告白』によって、同教派の父祖たちの信仰内容がこの上もなく見事に要約されているとみなした。そして同書は、本来の意図としては、後代の人々の信仰を堅めるためのものではあるものの、実は、論争において非常に役に立つ小規模の神学体系であり、特に若い人々や、一般にあまりよく物を知らない階級の人々にとって有用であると彼は考えた。生涯最後に至るまでスポルジョン氏は、この小著を高く評価していた。

 「ロンドン大学のとある大学院生」もまた、『C・H・スポルジョン師とは何者か? 一大学からの声』を出版した。この小冊子の内容は、ふたりの学生の交わす対話であり、その目的は、ロンドン中が噂しているかのように思える説教者について、このような観察者たちがどのように考えるかを示すことにあった。それなりに力強く書かれたこの冊子は、スポルジョン氏の価値と、その広大な影響力についての寛大な賛辞とみなされた。

 この年の5月27日火曜日に、スポルジョン氏は、少年期を過ごしたスタンボーンを訪れ、彼の祖父の在任五十周年記念式で説教を行なった。その説教の主題聖句はイザヤ書46:4――「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」――であった。同時代の新聞記事において、この興味深い祝祭は、以下のように叙述されている――

 「先の日曜日に、スタンボーンの岡農園には、公の告知によって、おびただしい数の群衆が集まり、ジェームズ・スポルジョン師の在任五十周年が祝われた。師は、同村において牧会四十六年目に達したばかりの、《独立派会堂》の牧師である。相当の準備を積んで開かれた諸集会には、おそらく千五百人から二千人の人が出席していたであろう。公の奉仕を執り行なったのは、スポルジョン氏の身内の人々であり、ロンドンのC・H・スポルジョン師は説教、彼の弟(神学生)はその介添え、彼の父親が集会の霊想を導いた。周辺の諸教会の教役者たちの多くは、その会衆とともに、非常な遠方から集っており、スタンボーン集会の老牧師に対する彼らの敬意を証ししていた。何度か行なわれた霊想的な礼拝と説教は、全体として、この折にふさわしいものであった。献金は惜しみなくささげられた。その説教の中で、この説教者は、トマス・ビニー師の著書、『ふたつの世を最大限に活用せよ』に対して辛辣な批判を加えた。同書は、『最近の異端的な神学』の見本だと非難したのである。説教が終わったとき、ひとりの教役者が立ち上がり、ビニー師に対するスポルジョン氏の所見に抗議した。これによって全会衆が騒然となった。ある人々が拍手し、『その通り!』、と叫ぶかと思うと、別の人々は、『そいつを叩き出せ!』、と叫んでいた。しかしながら、件の教職にある紳士は、ビニー氏を擁護して食い下がり、ビニー氏の著書の趣旨は、『今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です』[Iテモ4:8]、という聖書的教理を証明し、例証することにあったのだと説明した。彼は云った。『私は、公の虚言を口にしたかどでスポルジョン氏を非難します』。これに答えてスポルジョン氏は、発言者が彼の人気を利用して自分の名前を売りたがっているのだと非難した。そして彼はその後、この痛ましい場面をしめくくる祈りにおいて、こう嘆願した。すなわち、主が、彼の犯した罪において彼を赦してくださり、まず行って個人的に当人と会って叱責するという聖書の規則に従わずに行なったことを悪であると感じられるようにしてくださるように、と」*3

 その間も、この若い牧師が引き続き《日曜学校》の働きに寄せていた関心は、折にふれ、如実に現わされてきた。《日曜学校》の校長のカトラー氏および書記のキンバー氏がその職務を辞任したとき、スポルジョン氏は、ある夏の晩、平日夜の礼拝後に、彼らに対して、教師一同になり代わり、「彼らの過去の奉仕に対する愛情と感謝の記念品を贈呈している」。しかるべき演説がなされた後で、一方の人物には時計が贈られ、もう一方の人物は何冊かの書籍を受け取った*4

 拡張されたニューパーク街の会堂は、会衆の必要を到底満たすものではなかった。このため、試しに毎日曜日の午前中は会堂を使用し、夜にはエクセター公会堂を借りて、スポルジョン氏の話を聞きに集まってくるのが常の大群衆に対応することになった。この大会堂で再び礼拝式を行なうことが開始されたのは6月8日、その説教の主題聖句はヘブ7:25であった。――「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」。だが、こうした新たな手筈をもってしても、期待されたような成果は上がらず、ストランド街の大通りを部分的にふさいでしまう群衆は、全く減少のきざしを見せなかった。とはいえ、エクセター公会堂そのものの所有者たちは、その建物が単一の教派の代表によって独占的に使用されることを快く思わなかった。この時点で、この説教者は、その見解を「不敬」であり、「冒涜的」であり、「悪魔的」でさえあると誤り伝えられていたのである。それで彼は人々に向かって、もし自分の意見が本当はいかなるものか知りたければ、『信仰告白』を読むように指示した。一方、ひとりの訪問者が同公会堂における礼拝式および、その周囲の状況を次のように描写している。これは実は、こうした礼拝式が行なわれていた時期の後半の頃の様子を物語っているのだが、そうした集会および、こうした記憶に残る機会のすべての特徴を非常によくとらえているため、私はそれをこの場所で示すことにする。――

 「数週間前に私は、何人かの友人と連れ立って、彼の話を聞きにエクセター公会堂へ出かけた。impromptu[ふいに思い立って]の訪問だったので、私たちには入場券の用意がなく、公会堂に着いた十時から、会堂の扉が開く定時の十時半まで、ストランド街で待たなくてはならなかった。その間、見ている私たちを面白がらせたことに、東から来たものであれ西から来たものであれ、乗合馬車という乗合馬車から、少なくともひとりはエクセター公会堂に乗客が降りてくるのだった。一台の乗合馬車など、その乗客の全員を降ろしていった。公会堂は人いきれで呼吸困難になるほどだった。実際、人々が立錐の余地もなく詰め込まれている様子は、まるで缶樽に詰め込まれた無花果の実としか云えなかった。それでも、熱気と、多くの人々が感じていたに違いない途方もなく窮屈な姿勢にもかかわらず――というのも、非常に多数の人々は最後まで立ち通しだったからである。――、私は一同が礼儀正しく、信心深い様子をしているのを見て嬉しく思った。聴衆の大多数は男――若い男たち――であり、女は、ざっと見て十分の一ほどしかいなかった。そして、この群衆の中に立っているとき、どの人々も彼について敬愛に満ちた口振りで語り、彼の行なっている善について話しているのを聞くことは、本当に幸いな満足させられることだった」*5

 多くの観察者たちにとって、こうしたことすべてには何も永続的なものはなかった。スポルジョンは、単に流星のような、一時は華々しく輝いても、たちまち消え失せ、忘れ去られてしまう、つかの間の奇観の1つにすぎなかった。この時期には、これと似たような予言が、いかにしばしば行なわれたことか! 「彼の人気は長続きするだろうか?」、と人は口々に云い交わした。そして、当時人気のあった雑誌の1つは、この年のやや遅くになってから、その問いに対してこう答えを返した。――

 「彼の人気は長続きするだろうか? われわれは、きわめて疑わしいと思う。彼の人気は、いかなる堅い基盤にも立っていない。彼の話を聞きに集っている何千もの人々は、単に好奇心からそうしているにすぎない。人間は羊の群れによく似ていて、一頭が垣根をくぐり抜けると、別の一頭が続き、さらにもう一頭が続き、……ついには群れ全体が狂気のように殺到するのである。スポルジョン氏の会衆についても、大方はこの類である。だが、流れはすぐに変わり、彼を置き去りにするであろう。また、それより良い理由、とまでは云わなくとも、それとは異なる動機からやって来る者たちについて云えば、彼が彼らを長く引きとめることはまずありえないであろう。スポルジョン氏には、1つだけ弁護できる点がある。彼は非常に若い。――22歳でしかない。彼がもう少し年をとれば、……自分の初期の経歴や、奇天烈な発言の大部分が忘れられるように願うであろう」*6

 

エクセター公会堂で説教するスポルジョン

  


*1 『バプテストの使者』、第4巻、149。[本文に戻る]

*2 『モーニング・アドバタイザー』、1856年2月18日付。[本文に戻る]

*3 『人民の説教者スポルジョン』、pp.57-58 における引用文。この同時代の記録者は、スポルジョン氏がスタンボーンで諸集会を執り行なったのが日曜日であったかのように記している点で間違っている。彼が祖父と幼少期に過ごした場所を訪ねたのは、実は火曜日のことであり、そのとき語られた説教は、実質的には前々日の曜日にニューパーク街会堂の会衆に向かってなされた説教と同じであった。『ニューパーク街会堂講壇』、No.81-82参照。[本文に戻る]

*4 『バプテストの使者』、第4巻、95。[本文に戻る]

*5 『人格の特徴』、第2巻、p.100-101[本文に戻る]

*6 『絵入りタイムズ』、1856年10月11日号。[本文に戻る]


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