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年老いた者の神

NO. 81 - 82

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1856年5月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂

本説教の内容は、1856年5月27日火曜日、エセックス州スタンボーンにおける彼の祖父ジェームズ・スポルジョン師の在任五十周年記念式においても説教された。


「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」。――イザ46:4


 今週の火曜日に私は、きわめて特殊な事情の下で、立って話をすることになっている。このような事情が起こることは、めったにないであろう。――ことによると、今まで一度も起こったことがないであろう。もしかすると、老教役者自らが人々に語りかけた方が、ふさわしかったのかもしれない。だが、それにもかかわらず、これは祖父自らが選んだことであるので、しかたがないことである。私はこの第3節から慰めを得ることにしよう。すなわち、神は私たちの人生の終幕における神ではあられるが、人生の始まりにおける神でもあられる。神は、胎内にいる時から私たちをになっておられ、それゆえ子どもも白髪の人と同じように神に信頼することができる。そして、白髪頭に特別な祝福を与えるお方は、若い者の頭にも――彼らがご自分の子どもたちでありさえすれば――格別ないつくしみを授けてくださるのである。

   「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
    あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」。

まず、この聖句の教理を解き明かさせてほしい。それから、いかにその教理を、特に老年期において、実践すべきかを示させてほしい。

 I. 《この聖句の教理》として私が云いたいのは、神の愛が常に不変であり、永続し、変わらない性質のものだということである。神は宣言しておられる。神は単に若い聖徒の神であり、中年の聖徒の神であるだけでなく、揺りかごから墓場に至るまでのあらゆる年代の聖徒たちの神であられる、と。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする」。あるいは、ラウスが麗しく、また、実に適切に訳しているように、「あなたがたが年老いても、わたしは同じである。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」。

 ということは、ここには二重の教理があることになる。すなわち、私たちの年齢にかかわらず、神ご自身は同じであられる。また、私たちに対する神のお取扱いは、摂理においてであれ、恵みにおいてであれ、背負うことであれ、救い出すことであれ、同じように変わることがない

 この教理の最初の部分――神ご自身は、私たちがいかなる年齢にあろうと変わることがない――については、何の証明も必要ないに違いない。聖書は、その幾多の証言によってはっきりと、神が不変の存在であられ、その額にはいかなる老年の皺も刻まれず、その力は時代を経ても弱ることがないと宣言している。だが、もし証明を必要とするとしたら、私たちは外に目を向けて自然を眺めることもできる。そして、私たちの定命の人生のような短期間のうちに神が変わることはありえない、と自然から推察できる。神が七十年にわたって同じであられることは、自然の事物がそれ以上もの長い歳月にわたって同じ特徴と姿を保っているのを見いだすとき、困難なことと思われるだろうか? 太陽を見よ! 私たちの父祖たちをその日々の勤めへと導いた太陽は、今も私たちを照らしている。また夜の月も変わってはいない。――全く同一の衛星が、その主人たる太陽の光をきらめかせている。岩々も同じではないだろうか? また、多くの古木は、途方もない年月の間ほとんど同じであり続け、何世紀にもわたって生き続けるではないだろうか? 地球も、その大部分が同じではないだろうか? 星々はその光を失っているだろうか? 雲は今なおその雨を地上に降らせていないだろうか? 海洋は今も、潮の満ち引きという、その大いなる脈を打っていないだろうか? 風は今も唸り声をあげるか、地上に優しい息吹を吹きかけていないだろうか? 植物はこれまでと同じように生長していないだろうか? 収穫は変わっただろうか? 昼と夜という契約[創8:22]を神はお忘れになっただろうか? 神は、また別の洪水を地上にもたらしたことがあっただろうか? 大水は今なお、海への出入りを繰り返していないだろうか? ならば確かに、もう何年もすれば消え失せ、「焼けてくずれ去る」[IIペテ3:10、12]はずの、変わり行く自然が、七十年という周期が何度繰り返されても同じであり続けている以上、自然よりも偉大であられ、全世界の創造主であられる神が、これほど短い間にも同じ神であり続けられないなどということは信じられないではないだろうか? それで十分ではないだろうか? さらに別の証拠もある。私たちに、新しい神がおられるのだとしたら、聖書を持つべきではないであろう。神が変わられたとしたら、私たちには新しい聖書が必要であろう。しかし、いま幼児が読んでいる聖書は、白髪の人が読んでいるのと同じ聖書である。私は、自分の《日曜学校》に持っていった聖書を、白髪頭になり、天来の力以外のあらゆる力が失せてしまったときも、自分の寝床の中で読みふけるであろう。人生の明け方において、私が最初に自分を神に聖別したときに私を励ましてくれた約束は、老衰のためにかすんだ私の目が、天の陽射しによって輝かされ、はるか彼方の、永遠に住みたい世界の輝く幻を見るときも、私を励ましてくれるであろう。神のことばは今も同じである。約束の1つたりとも取り除かれてはいない。種々の教理は同じである。種々の真理は同じである。神の宣言はみな永遠に変わらないままである。そして私は、神の《書》が歳月によって影響されないという事実そのものからして、神ご自身が不変であるに違いなく、神の齢は神を変えないと論ずるものである。私たちの礼拝を見るがいい。――それは同じではないだろうか? おゝ、白髪の人たち! あなたがたは、自分が子どもの頃、どのようにして神の家へ連れて来られたかよく覚えているであろう。そして、あなたがたは、いま聞いているのと同じ賛美歌を聞いた。それらはその味わいを失っただろうか? その音楽を失っただろうか? 祈りがささげられるとき、時としてあなたがたは、あなたの年老いた牧師が同じ嘆願を五十年前にも祈っていたことを思い出す。だが、その嘆願は常に変わらず良いものである。それは今なお変わっていない。同じ祈り、同じ解き明かし、同じ説教。私たちの礼拝はみな同じである。そして、多くのこととともに、この建物は、最初に人々がバプテスマによって神に献堂したときと同じ神の家である。確かに、私の兄弟たち。もし神が変わったとしたら、私たちは新しい形式の礼拝を制定しなくてはならないであろう。もし神が不変でないとしたら、私たちは私たちの神聖な礼拝を、何か新しい方式でささげる必要があったであろう。だが、自分が父祖たちと同じように、同じ祈りをもって拝礼し、同じ詩篇を歌っているのを見いだしている以上、私たちは、神ご自身が不変であられるに違いないと信じてよい。

 しかし、私たちには、神が今も変わっておられないという、さらに良い証拠がある。私たちはこのことをあらゆる聖徒たちの甘やかな経験によって悟ることができる。彼らは、彼らの若い日の神が、彼らの後半生の神でもあられると証ししている。彼らは、キリストが「朝露のような若さ」[詩110:3 <英欽定訳> 参照]を有しておられると認める。彼らが主を最初に、明るく輝くインマヌエルとして見たとき、彼らは主の「すべてがいとしい」[雅5:16]と思った。そして、いま彼らが主を見るとき、彼らは主の美しさが一点たりともかすんでおらず、その栄光のひとかけらすら欠け落ちてはいないのを見てとっている。主は全く同じイエスであられる。彼らが最初に主に身をゆだねて安らいだとき、彼らは主の双肩が自分を軽々とになえるほど力強いと思った。そして彼らは、主の御肩が今も変わらず強大であるのを見いだしている。彼らは最初、主のいつくしみが愛に満ち、主の心があわれみで脈打っていると思った。そして彼らはそれが今も同じであるのを見いだしている。神は変わっておられない。それゆえ彼らは「滅ぼし尽くされない」[マラ3:6]。彼らはその信頼を神に置いている。なぜなら、彼らはまだいかなる変化も神のうちに見つけていないからである。神のご性格、ご本質、ご本性、そしてその行ないはみな同じである。さらに、最後を飾ることとして、私たちは、不変の神を思い描けないとしたら、神を思い描くことなどできない。変わってしまった神など神ではない。私たちは、いったん自分の精神が可変性という思想を取り込むのを許したが最後、《神格》の観念など把握できなくなるであろう。ならば、こうした事がらすべてから、私たちは結論するものである。「私たちが年をとっても、神は同じようにする。私たちがしらがになっても、神は背負う」*、と。

 2. この教理のもう1つの面は、こうである。神はそのご性質において同じであるだけでなく、そのお取り扱いにおいて同じであられる。神は私たちを、これまでしてこられたのと同じように背負い、同じように救い出し、同じように運んでくださる。そしてここでもやはり、神のその子どもたちに対するお取扱いが同じであることを証明する必要はほとんどない。特に、神の約束が、時代時代に対して結ばれたものではなく、人々に対して、人物に対して、人間に対して結ばれたものであることを思い起こすときにそうである。近頃、一部の教役者たちが宣言するところ、ある特定の年代は、他の年代よりも回心させられやすいという。ある人々の話によると、福音について聞かされてきた人が三十歳を越えてしまうと、その人が救われる見込みは全くないのである。だが、これほど真っ赤な嘘が、これほどぬけぬけと講壇で口にされたことはいまだかつて一度もなかったと思う。というのも、私たちは、この目で見て知っているからである。四十代、五十代、六十代、七十代、否、墓場の間際にいるような八十代にあってさえも、おびただしい数の人々が救われてきたことを。確かに、聖書の中でも、ある種の約束は何らかの特定の状況に対してなされている。だが、主たる、大きな、壮大な約束の数々は、罪人としての罪人と結ばれているのである。それらは、選民に対して、選ばれた人々に対して、その年代や状態に関わりなく結ばれている。私たちは主張する。老人になった人は、若い人と全く同じしかたで義と認められることができる。キリストの衣は、ほんの幼子と同様に、成人した強壮な人をも十分に包み込むことができる。私たちの信ずるところ、キリストの血は、七十日分の罪と同じように七十年分の罪をも洗い流すことができる。「神にはえこひいきなどはない」[ロマ2:11]し、いかなる年代も神にとっては同じことであり、「キリストのところに来る者を、キリストは決して捨てない」*[ヨハ6:37]。そして確かに、聖書にあるあらゆる良いものは、ある時期のみならず、いかなる時期にも良いものであるに違いない。私が着ている完全な義の衣は、年月とともに変わるだろうか? 御霊の聖めは、年月が経つとほころびるだろうか? 数々の約束はぐらつき出すだろうか? 契約は、崩れ去るだろうか? 私には、永遠の丘[創49:26]が溶け去ることなら考えられる。とこしえの山[ハバ3:6]が、その頂上の雪のように崩れ去ることなら夢想できる。大海洋が分かれた火焔の舌でなめ尽くされることも思い描ける。太陽がその軌道上で停止することも考えられる。月が血に変わることも想像できる。星々が夜の丸天井から落ちてくることも思い描ける。「自然の破壊と諸世界の瓦解」[J・アディソン]も想像できる。だが私には、神が御民にお与えになったただ1つのあわれみも、ただ1つの契約の祝福も、ただ1つの約束も、ただ1つの恵みも、変化することなど思い描けない。というのも私は、それらの1つ1つに不変性の刻印が押されているのを見いだしており、それを単なるあて推量の上に置くべき何の理由も有していないからである。私の見いだすところ、聖書のどこを繰ってみても、千年前、二千年前、三千年前の聖徒たちの経験は、今の聖徒たちの経験とまるで異なっていない。そして、もし神のあわれみがダビデの時代から今の私の時代まで変わっていないことに気づくとしたら、何千年も同じままであられる神が、七十年もの短期間のうちにお変わりになるなどということが考えられるだろうか? 否、やはり私たちは、神が私たちの青年期のみならず老年期にも、私たちを背負い、私たちを運んでくださると主張するものである。しかし、それだけでなく、私たちには生き証人がいる。生きた証しがある。私は、この場所の一階席から、また桟敷席から、ひとりやふたりではない、二十人、否、百人もの生き証人を呼び出すことができるであろう。その人たちは、立ち上がってあなたに告げるであろう。神は昔と同じように今も彼らを背負ってくださり、今なお彼らを運んでくださっている、と。私は、友人たちに訴えかける必要はない。さもなければ、彼らは自分の会衆席に立ち上がり、流れ落ちる涙で頬をぬらしながら云うであろう。「若者よ、若者よ。あなたの神に信頼するがいい。神は私をお捨てにならなかった!」 私の見いだすところ、――

   「主の民 老いても 受くるべし
    主権(かしこ)く永久(とわ)なる 主の愛を。
    かしらを白髪(しらが) 飾るとも
    子羊のごと 抱き運ばれん」。

向こう側の年老いた友に聞くがいい。年老いたキリスト者のだれにでも聞いてみるがいい。果たして神が少しでもその人をお捨てになったかを。そしてあなたはその人が首を振り、こう云うのを聞くであろう。「おゝ、若者よ。たとい私がもう七十年生きられるとしても、神をなおも信頼するであろう。なぜなら私は、主なる神が私を導いてくださったすべての道において、裏切られたことがなかったのだから。約束は何1つたがうことなく、ことごとく実現したのだ」。そして私は、その人がこの集会の中で手を挙げて、こう云っているのが見えるような気がする。「私に悔やまれることは自分の罪だけです。もしもう一度人生をやり治せるとしたら、私が望むのはただ1つ、私を同じ《摂理》の手にゆだね、今と全く同じ恵みに導かれ、支え保たれていくことです」。愛する方々。私たちはこれ以上あなたに証明する必要はない。生きた証人たちが証ししているからである。神はその約束を成し遂げられた、と。「なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」。

 II. しかし、いま私たちは私たちの本当の主題に達する。すなわち、《特別の時期としての老年期》を考察すること、また、それゆえに、神の愛が変わらないものであることに注目することである。――神は、そのしもべたちが老年にあるときも、彼らを運び、援助してくださる。私は、自分の説教している相手を年老いた人々とすることについて、何か弁解する必要があるなどとは想像もできず、夢にも思えない。私も、人々が自分を紳士や淑女と呼び、自分の年齢を隠したがるのを常とする、種々雑多な愚かしい集団の中にいたとしたら、多少はためらいを感じたかもしれない。だが、私はこの場所ではそうしたものと何の関わりもない。私は老人は老人と呼ぶし、老女は老女と呼ぶ。本人が自分のことを年老いていると考えるかどうかは、私にはどうでもよい。私は、六十歳を越えた人、あるいは七十代や八十代の人は老人だと思う。老年期は、独特の記憶と、独特の希望と、独特の憂慮と、独特の祝福と、独特の義務がある時期である。だがしかし、こうしたすべてにおいて、人間は独特だが、神は同じであられる。

 1. 第一に、老年期は独特の記憶がある時期である。事実、それは記憶の時代である。私たち若い者らは、少し前にこれこれの事があったのを思い出す、などと云う。だが、私たちの記憶など、父たちの記憶にくらべれば何ほどのことがあろうか? 私たちの父は、私たちが見通せる三、四倍もの長さの時間を振り返るのである。老人は、何と独特の記憶を有していることか! いかに多くの喜びを思い出せることか! いかにしばしばその胸を歓喜と幸福に高鳴らせてきたことか! いかにしばしばその家は多くのものによって喜ばされたことか! いかに多くの収穫祭を見てきたことか! いかに多くの葡萄の酒ぶねを踏んできたことか! いかに多くの笑いが炉火の回りにさざめくのを聞いてきたことか! いかにしばしば、その子どもたちはその人の耳に大声で叫び、その人の回りで喜んだことか! いかにしばしば、その人自身の目が楽しみにきらめいたことか! いかに多くのミツァルの山[詩42:6]を見てきたことか! いかにしばしばその人は主との甘やかな宴席に連なったことか! いかにしばしばイエスとの交わりの時を有したことか! いかに多くの神聖な礼拝に出席したことか! いかに多くのシオンの歌を唄ったことか! いかに多くの祈りがかなえられてその霊が喜ばされたことか! 後ろを振り返るとき、その人は神の数々のあわれみを幾千もつなぎ合わせることができる! そして、それらすべてを眺めてその人は、自分がくぐり抜けなくてはならなかった多くの困難についても考えを及ぼし、こう云うことができる。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来たものだ」[詩23:6参照]。神は、白髪になるまでその人とともにおられ、老年になるまでその人を背負ってこられた。その人が過去を振り返るときの喜びは、神がお変わりにならない証拠である。

 また、いかに多くの悲しみを彼は得てきたことか! いかにしばしばこの老人は病の部屋へ赴いたことか! いかにしばしばこの年老いた姉妹は苦しみの床に横たわったことか! いかに多くの病気を振り返ることができることか! いかに多くのつらい苦悩と苦痛のときがあったことか! いかに多くの困難と、弱さと、墓に近づく時期があったことだろうか? いかにしばしばその老人は、いかなる旅人も戻ってきたことのない領域の間近でよろめいたことだろうか? いかにしばしば御父の鞭をその肩に感じただろうか? だがしかし、すべてを振り返るとき、その人はこう云うことができる。「私が年をとっても、神は同じようになさる。私がしらがになっても、神は背負われる」、と。また、いかに頻繁にこの老人は墓地へ行き、多くの愛する者たちを葬ってきたことだろうか? ことによると、その人は、そこに愛する妻を横たえたかもしれない。また、そこに泣きに通っているかもしれない。あるいは、夫が眠りにつき、妻がまだ生きているのかもしれない。息子や娘たちをも、その老人は思い出すことができる。――ほとんど生まれるや否や、天国へとひったくられていったわが子を。あるいは、もしかすると、青春の盛りまで生きることを許された後で、その若々しい輝きの最中で切り倒されてしまったわが子を。自宅の炉辺に迎え入れてきた老友たちのいかに多くを葬ってきたことだろうか? いかに頻繁にその人はこう叫ばざるをえなかったことか。「友人たちは離れていったが、『兄弟よりも親密な《友》もいる』*[箴18:24]。このお方に私はなおも信頼し、このお方に私の魂をなおもゆだねよう」、と。

 そしてさらに、いかにしばしば誘惑が、この尊ぶべき聖徒を粉砕してきたことか! いかに多くの疑いや恐れとの争闘を経てきたことか! いかにしばしば敵と格闘したことか! いかに何度となく自分の信仰を捨てるよう試みられたことか! いかに頻繁に戦いの激戦区に立たざるをえなかったことか。だがしかし、その人は、あわれみによって保たれ、完全に切り倒されはしなかった。その人は天国への路に踏みとどまる力を与えられた。いかにその足が旅に痛んでいることか! いかに道の険しさによって水ぶくれになったことか。だが、その人はあなたに云うことができるであろう。こうしたすべての事がらにもかかわらず、キリストは、「今日まで私を守ってくださり、私を手放さないでくださった」、と。そして、その人の結論は、「私が年をとっても、神は同じようにする。私がしらがになっても、神は背負う」*、である。

 年老いた聖徒の禿げ上がった頭を見るとき、私たちは1つの悲しい所見に言及せざるをえない。すなわち、いかに多くの罪をその人は犯してきたことか! あゝ! 愛する方々。あなたは、いかにきよく生きてきたとしても、こう云わざるをえないであろう。「おゝ! いかに私は罪を犯してきたことか。若い頃も、中年の頃も、この身に弱さがへばりついてしまったときでさえも! 私がもっと聖くしていられたなら何とよかったことか! いかにしばしば私は神を捨てたことか! いかに頻繁に神からさまよい出たことか! 悲しいかな! いかに頻繁に私は神を怒らせたことか! 神を信頼しない理由など何もなかったときも、いかに頻繁に神の約束を疑ったことか! いかに頻繁に私の舌は、私の心に反して罪を犯したことか! いかに常に私は自分でも正しく、すぐれていると知っていたことに違反したことか! 私は今、自分の灰色の老年にあって、こう云わざるをえない。――

    わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん。

私は今なお――

   『恵みの記念碑(かたみ)、
    血にて救わる 罪人なるぞ』。

今の私の唯一の望みは、キリストの血であり、いかにキリストが私をこれほど長く保つことがおできになったのか驚くほかはない。まことに私はこう云える。『私が年をとっても、神は同じようにする。私がしらがになっても、神は背負う』*、と」。

 2. 年老いた人は、独特の希望をも有している。その人は、私や、この場にいる若い友人たちのような希望は持っていない。この世における将来については、ほとんど望みがない。その望みは小さな空間に縮まってしまった。そして、その人はあなたに、自分の期待と願いのすべてが何であるかを、二言三言で告げることができる。しかし、その人には1つの希望があり、それは、その人が最初にキリストを信頼したときに持ったものと全く同じである。それは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともなく、彼らのために天にたくわえられており、真理により、神の御力によって守られていて、救いへ至る」希望である[Iペテ1:4-5参照]。その希望について少し語らせてほしい。そうすれば、あなたはそのキリスト者がそれまでと全く同じであること、白髪になるまで神がその人を同じように扱っておられることがわかるであろう。尊ぶべき私の兄弟よ。何があなたの希望の根拠なのだろうか。それは、あなたが最初にキリスト教の教会に加わったときにあなたを励ましていたものと同じではないだろうか? そのときあなたは云った。「わたしの望みはイエス・キリストの血にかかっています」。私はあなたに問う。兄弟よ。何が今のあなたの希望だろうか? 確かにあなたはこう答えるであろう。「私が救われると期待しているのは、自分が長年奉仕してきたからでも、神の御国の進展のために身をささげてきたからでもありません」。

   「わが身の希望(のぞみ)は ただ主にあらん。
    わが助けはみな 主よりぞ来たる。
    主はわが甲斐なき かしらを覆い、
    みつばさの影に 入らしめたもう」。

では、私の兄弟よ。何があなたの希望の根拠だろうか? もしあなたが、なぜ自分をキリスト者であると信じているのか、その根拠を問われるならば、あなたは云うであろう。「それは、私が教会総会で証ししたのと寸分もたがわぬ理由です」。私は、その総会の前に出たとき、こう云いました。「私が自分を神の子どもだと信ずるのは、自分が罪人であると感じ、神が私に与えてくださった恵みによってイエスを信頼することができるからです」、と。こうした根拠を有する人ならだれでも常に、いま自分を神の子どもであると信じてよいはずだと思う。時としてあなたは何らかの――あなたの云うところの――証拠を有する。だが、あなたの種々の恵みや美徳がぼやけてしまい、それらが見えなくなるときもある。陰鬱な疑いがはびこり、あなたはこう告白するに違いないであろう。自分の疑いを取り除く唯一の道は、行ってもう一度こう告白することだ、と。――

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    われは優しき 御手に身を投ぐ。
    主なおもわが身の 力にして義、
    わが《救い主》にて わがすべて」。

また、その希望の対象あるいは目当ても、やはり同じではないだろうか? あなたが最初に、かの小さな門をくぐり抜けたとき、何があなたの望みだっただろうか? 左様。あなたの望みは、かの祝福された者らの地へ至ることであった。天国に対するあなたの希望は変わっただろうか? あなたは今、それ以外の何か、それ以上の何かを願っているだろうか? 「いいえ」、とあなたは云う。「私は、歩き出したとき、いつの日か自分はイエスとともにいることになると思っていました。それこそ今の私が待ち望んでいることです。私は、私の希望が全く同じであると感じます。私はイエスとともにいたい、イエスのようになりたい、そしてありのままのイエスを目にしたい[Iヨハ3:2]のです」。そして、その望みの喜びも全く同じではないだろうか? あなたは、あなたの教役者が天国について説教し、その真珠の門や輝く金の大通り[黙21:21]について告げたとき、いかに喜ぶのを常としていたことか! そして、それは、今のあなたの目にその美しさを少しでも減じているだろうか? あなたは覚えていないだろうか? あなたの父の家で家庭礼拝をしていたとき、ある晩、みなでこう歌ったときのことを。――

   「幸なるわが家、エルサレムよ、
    その名は常に われに慕わし。
    わが労苦はいつ 終わらんか、
    喜び、安き、汝がうちに」。

あなたは今そう歌えないだろうか? あなたはエルサレム以外の都を何か欲しているだろうか? あなたは覚えているだろうか? あなたが子どもだった頃、いかに人々が時として神の家で立ち上がり、こう歌うのを常としていたかを。――

   「ヨルダン川の 荒るる岸辺で
    われは目を上ぐ 希望の国へ!」

その賛美歌は、今のあなたにとって、当時のあなたにとってよりも、さらに味わいを深めていないだろうか? あなたは今やそれを、あなたの老父がよく歌っていたように、堅固な心をもって、だが、震える唇によって歌えるのではないだろうか? そのときあなたをうっとりさせた希望は、今のあなたをもうっとりさせている。あなたは同じ合言葉で出立した。今も天国はあなたの故郷である。

   「そこに住まうは 汝が親友(とも)親族(みうち)。
    そこで統(す)べるは 《救主》(すくい)の汝が神」。

これらすべては、やはり証明していないだろうか? 私たちの希望は、ある程度は以前よりも引き締まったものになってはいるものの、それでも、「私たちが年をとっても、神は同じようにする。私たちがしらがになっても、神は背負う」*ことを。

 3. さらに、老年は独特の憂慮の時期である。老人は、私たちのように多くの事がらを心配してはいない。というのも、その人は心を煩わせるものをそれほど多く有していないからである。その人は、かつてのように新規に商売を始める気苦労などしない。自分の小さい家族に気がかりな目を向けることもない。しかし、その人の憂慮は、別の方面でいささか増してきている。その人は、かつてそうであったよりも、自分の肉体的な組織について、ずっと憂慮している。今のその人は、昔のように走ることができない。むしろ、ずっと落ちついた歩調で歩かなくてはならない。「水がめが井戸のそばでこわされる」*[伝12:6]のを、恐れることがある。というのも、「粉ひき女たちの声が小さくなる」からである。その人は、もはやかつて有していたような願望の力を持っていない。そのからだはよろめき出し、揺れ出し、震え始める。この古屋敷はこの五十年もの間、立っていたのである。だれが永遠に保つ家など期待するだろうか? 漆喰がはげ落ちたところもあれば、木摺(きずり)が欠け落ちたところもある。そして、ちょっとした風が吹いてそれを揺らすようなときには、その人は即座にこう叫ぶ。「私たちの住まいである地上の幕屋は今にもこわれそうだ」[IIコリ5:1参照]。しかし、私が先に告げたように、この独特の憂慮は、神の忠実さのもう1つの証拠なのである。というのも、今やあなたが肉体の楽しみをほとんど有していないとき、あなたは神が全く同じであることを見いだしていないだろうか? また、こうしたことには「何の喜びもない」[伝12:1]、と云えるような日々が来たとしても、それでも、「私は神に何の喜びも感じない」、と云えるような日々は来ていないからである。むしろ逆に、

   「被造(つくられ)し川 みな干(かわ)くとき
    御いつくしみぞ つゆ変わらざる。
    かく汝がのぞみ 満ち足りてあり
    高き御名をば 誇り歌わん」。

もし神が、強くて若い時代のあなたの神でしかないとしたら、あなたは神が自分を愛しておられるのは、自分が神のために行なえる奉仕のためだと考えたかもしれない。だが、今やあなたは、あわれな、疲れ切った年金受給者である。これほど神が変わらない神であるという良い証拠があるだろうか? なぜなら、神はあなたがご自分のためにほとんど何も行なえないときも、あなたを愛してくださるからである。私はあなたに云うが、あなたの肉体的苦痛でさえ、神の愛の証拠である。神はあなたの古屋敷を一本ずつ解体し、それをより輝かしい世界に、二度と取り壊されることがないように再建しておられるからである。

 そして、また思い出すがいい。もう1つの憂慮がある。――肉体の衰えのみならず、精神の衰えもある。老年になっても若年の頃と同様にずば抜けた才能を有していた老人たちという尋常ならざる事例には事欠かない。だが大半の場合、精神はどこかしら、特にその記憶力が、損なわれていく。老人は、確かに、五十年前、六十年前、七十年前になされたことは覚えているという異様な事実はあるものの、昨日なされたことは覚えていられない。彼らは、自分が覚えていたいことのあらかたを忘れてしまう。だが、それでも彼らは、自分たちの神が全く同じであることに気づく。神のいつくしみが、自分たちの記憶力にかかってはいないことに気づく。神の恵みの甘やかさは、彼らの味覚にはかかっていないのである。彼らが説教のごく僅かしか覚えていられないときも、それでも彼らは、それが自分たちの心に、それほど物忘れがひどくなかった頃と同じように、良い印象を残していくのを感じる。また、このようにして彼らは、自分の精神が少々衰えるときも、神が白髪になった老年の彼らを背負い、彼らにとって常に同じであられるという証拠を得るのである。

 しかし、老年における主たる憂慮は死である。若者も早死にすることはある。だが老人は必ず死ぬ。若者が眠るときには、城の守りを固めた中で眠るようなものである。だが老人が眠るときには、攻撃中の眠りである。すでに敵は突破口を開いており、その城郭に強襲をかけている。白髪頭の老いた罪人は、白髪頭の馬鹿者である。だが、年老いたキリスト者は、年老いた賢者である。しかし、年老いたキリスト者でさえ、死については独特の憂慮がある。その人は自分が自分の目標からさほど離れているはずがないことを知っている。いわゆる事故死を抜きにした、自然の道行きにおいてさえ、もうほんの数年もすれば、疑いもなく自分が自分の神の前に立たざるをえないことを感じている。もう十年か二十年のうちに自分が天国にいるだろうと思う。だが、いかにその十年か二十年が短く思われることか! その人は、乗合馬車は遠く離れているのだからのんびりしていよう、などと考えている人のようにはふるまわない。むしろ、今から旅に出かける人のようであり、御者の吹き鳴らす警笛が街路を下ってくるのを聞きつつある人のようであり、準備を整えつつある人のようである。今その人の1つの憂慮は、信仰に立っているかどうか自分を吟味すること[IIコリ13:5]である。その人は、もしいま自分が間違っているとしたら、恐ろしいことだと思う。一生の間いたずらに信仰を告白してきていながら、土壇場になって、自分がただの虚名のほか何も得ておらず、今までの苦労が水の泡となることに気づくのは恐ろしいと思う。そのような虚名など、死によって一掃されざるをえないのである。その人は今、福音とは何と厳粛なものかと感じる。この世が無であるように感じる。自分が運命の法廷に近いことを感じる。しかし、愛する方々。注目するがいい。それでも神の真実さは同じなのである。その人は、より死に近づいているとしても、より天国に近くなっているという甘やかな満足を得ているからである。そして、たといその人が今までにまさって自分を吟味する必要があるとしても、その人には自分を吟味するためのより多くの証拠もある。「よろしい。私はこれこれの機会に主が私の祈りを聞かれたことを知っている。これこれの時に主が、この世に対しては現わさないようなしかたで、ご自分を私に現わしてくださったことを知っている」。そして老人たちは、大きな吟味を迫られるとはいえ、そのためのより偉大な数々の材料をなおも有している。そして、ここでもまた、この壮大な真理のもう1つの証拠があるのである。神は云われる。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」。

 4. そして今、もうひとたび、老年には、その独特の祝福がある。少し前に私は、ある老人のもとに近づいたことがある。とある記念礼拝で説教していたときその人に目をとめたのである。そして私はその人に云った。「兄弟。知っておられますか。私にとっては、この会堂全体の中で、あなたほどねたましい人はいないのですよ」。彼は云った。――「ねたましいですと。いやはや、わしは八十七歳になるのですよ」。私は云った。「ええ、本当にそうです。なぜなら、あなたは、あなたの故郷にそんなに近いのですから。また、私は思うのです。老いるということには独特の喜びがあり、私たち若い者は、それを今は味わうことができないのです。あなたは杯の底まで達しています。そして、神の葡萄酒は、人の葡萄酒とは違います。人の葡萄酒は最後には澱になりますが、神の葡萄酒は飲むほどに甘味と深みを増していくのです」。彼は、「それは、まことに真実なことです。お若い方」、と云い、私と握手した。私の信ずるところ、老年には、私たち若い者たちが全くあずかり知らぬ祝福があるのであり、それがいかなるものか私はあなたに告げてみたい。第一のこととして、老人には語るべき良い経験がある。若い人々は、単に約束のいくつかを試しているだけにすぎない。だが、老人は1つずつそれを熟考し、こう云うことができる。「そら、私はそれを試したことがある。それも、また、それも」。私たちは、そうした約束を読み通して、「私は、これらが真実であると希望する」、と云うが、老人は、「私は、これらが真実であると知っている」、と云うのである。そして、それからその人はその理由をあなたに告げ始める。その人は、その1つ1つに歴史を有している。それは、歴戦の勇士が自分の勲章の1つ1つに歴史を有しているのと変わらない。その人は、それらを取り出して、云うのである。「主がこのことを私に啓示してくださったときのことを話して進ぜよう。それは、わしが妻を失ったまさにそのときだった。息子を葬ったまさにそのときだった。自分のあばら屋を追い出されて、六週間も仕事にありつけなかったまさにそのときだった。あるいは、それとは別のときに、わしが足を折ったときだった」。その人は、そうした約束の歴史をあなたに告げ始め、こう云う。「そら! 今のわしは、これらがみな真実であると知っておるよ」。何と幸いなことであろう。それらを払い出し済みの手形のようにみなせるとは。現金化された古い小切手を持ち出して、こう云えるとは。「わしは、これらが本物であると知っておる。さもなければ、支払われなかったであろうからな」。老いた人々は、若い人々がいだくような教理的な疑いを持たない。若い人々は疑いがちだが、年を取ると、信仰において堅実で、確固とし始める。私にとっての喜びは、老いた兄弟たちの何人かをつかまえては、御国の良い事がらについて話をしてもらうことである。彼らは、一部の若い人々がしているように真理を二本の指でつまみあげているのではない。何者もそれを彼らから奪い取れないように、がっちりとつかんでいるのである。 ロウランド・ヒルはあるとき、説教の途中で、話の筋をいささか失念してしまった。そこで彼はこの聖句に目を向けた。――「主よ。私の心はゆるぎません」*[詩57:7; 108:1]。「お若い方々」、と彼は云った。「ゆるがない心を有することにまさるものはない。何年もの間ずっと主を求めてきた後で、いま私の心はゆるがない。今や私は、選びや、その他いかなる教理についても何の疑念も持っていない。もし人が私に新しい理論を持ち出すとしても、私は、『消え失せろ!』、と云う。私は真理だけを厳しく堅く守る」。ひとりの老紳士が少し前に私に手紙を寄こして、私が少し高飛車ではないかと云った。その人の云うところ、その人も私と同じ教理を信じてはいるが、私と同じ年の頃は、そう考えていなかったという。私は彼に告げた。正しく始めることは、正しく終わるのと同じくらい正しいことであり、最初に正しくしていることの方が、後になってからたくさんの過誤をこすり落とさざるをえなくなるよりもましでしょう、と。かつてひとりの田舎の人が私のもとに来てこう云った。「あゝ、お若い方。あなたはあまりにも深遠な聖句を持ち出しましたな。あなたはそれを、なかなか手際よく扱いましたが、それは老人の聖句ですよ。そして、私は、あなたがそれを宣言するのを聞いて心配になりましたよ」。私は云った。「神の真理は、年齢に左右されるのですか? もしもあることが真実だとしたら、それを私から聞こうが、他のだれかから聞こうが同じことです。そして、もしあなたがそれをどこか他のところでよりよく聞けるのだとしたら、いつでもそうしてくれてかまいませんよ」。それでも彼は、神の尊い真理が若い人々にふさわしいものだとは考えなかった。しかし、私はそれらが神の子どもたち全員にふさわしいと主張するものである。それゆえ、私はそれらを喜んで宣べ伝えるのである。しかし、何と幸いなことか。人生において、あなたが自分の信仰のための良い錨地を得る立場に到達することは。――そこでは、あなたはこう云えるのである。

   「地獄(よみ)の作りし わざみなが
    狡猾(さか)く信仰 襲うとも」、

私はそれらに対してあまり礼儀正しくはふるまうまい。――

   「我れ虚言(そらごと)と そを呼びて
    心に福音 結びつけん」。

そして私が思うに、老いたキリスト者には、別の種類の独特の喜びがある。すなわち、その人には、私たち以上に独特なキリストとの交わりがある。少なくとも、もし私がジョン・バニヤンを正しく理解しているとしたら、彼は私たちにこう告げているのだと思う。私たちが天国のごく間近に達するとき、そこには非常に輝かしい土地があるのだ、と。「巡礼者たちはすでに魅惑郷を通過し、ベウラ(配遇ある者)の国に入りかかっていた。そこの空気は非常にかぐわしくて快く、道はその中を真直ぐに通っていたので、そこで暫く休んでみずからを慰めた。その上ここで絶えず鳥のさえずりを聞き、日毎にもろもろの花が地にあらわれるのを見、また山ばとの声をこの地で聞いた。この国では太陽は昼も夜も輝いていた。それは、死の陰の谷より彼方にあって、巨人絶望者も力及ばず、ここから疑惑城は望み見ることもできなかった。ここでは目指す都も視界のうちにあり、そこの住民たちにも何人か会った。この地は天国の国境であったから、輝ける者たちが常に歩いていたのである。この地ではまた花嫁と花婿との契りは新しく結ばれた。実際ここでは『花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる』のである。ここでは穀物もぶどう酒もこと欠かなかった。ここでは巡礼の旅の間探し求めていたすべての物がゆたかにあった。ここでは都の中から高らかに語る声が聞こえた、『シオンの娘に言え、見よ、あなたの救は来る。見よ、その報いは主と共にあると』。ここでは国中の住民が二人を呼んで、『聖なる民、主にあがなわれた者……』と言うのであった」*1。そこには、あなたが近づくにつれて独特の親しい交わりがあり、パラダイスの門が独特に開かれ、独特の栄光の幻がある。天の都の輝く光に近づけば近づくほど、大気が清浄になるのは当然のことである。それゆえ、老人には独特の祝福が伴っている。というのも、彼らはキリストとのこの独特の交わりをより多く有しているからである。しかし、これらすべては、キリストが同じであられることを証明するだけである。なぜなら、地上的な喜びがより少なくなるとき、主はより多くの霊的な喜びを与えてくださるからである。それゆえ、やはりこのことは事実となるのである。――「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」。

 5. さて、最後に、年老いた聖徒には独特の義務がある。ある種の事がらは、善良な人には行なうことができるが、他の者はだれも行なうべきでなく、うまく行なうこともできない。そして、それは神の忠実さの1つの証拠である。というのも、主はご自分の年老いた子らについて、「彼らは年老いてもなお、実を実らせ」る[詩92:14]、と云われるからである。そして、実際に彼らは実を実らせる。私は、それらのいくつかをあなたに告げることにしよう。

 証しは、老人たちの独特の義務の1つである。さて、かりに私が立ち上がって、「私は正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」、と云うとすると、だれかがこう答えるであろう。「何と、君はまだ二十二歳にもなっていないのに、それについて何を知っているというのだい?」 しかし、もしひとりの老人が立ち上がって、「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」[詩37:25]、と云うとしたら、その証しには何という力がこもることか! かりに私があなたにこう云ったとする。「あなたにいかなる困難や試練があろうと神に信頼するがいい。神が決してあなたを捨てないことは私が証言できる」。あなたは答えるであろう。「おゝ、そうだとも、お若いの。だが、あんたはまだ、多くの困難に遭ったことがない。あんたが神の子どもだったのは、この六年間だけではないか。どうしてあんたに、それがわかるね?」 しかし、そこに老いたキリスト者が立ち上がる。――そして、私はよく覚えているが、あるとき、ひとりの老キリスト者が聖餐台で立ち上がって、こう云った。「愛する兄弟たち。私たちは、再びこの卓子の回りに集まりました。そして私が思うに、ひとりの老人にできることは、その主人の証しをすることしかありません。この五十四年の間、神は私の神であられました。そして私は、その神に難癖をつけることはありません。私はキリスト教信仰の道が楽しい道であり、その通り道は平安であることを見いだしました[箴3:17]」。ご存じのように、もしあなたが老人の語るのを聞くとしたら、あなたはその人が語ることに、より大きな注意を払う。その人が老いているという事実からそうする。私は故ジェイ氏の話を聞いたことを覚えている。私は思った。もし同じ説教を若い男から聞いたとしたら、これほど高く評価しはしなかっただろう、と。だが、そこには非常な深みがあるように思われた。なぜなら、それは墓の間近に立つ老人から出たものだったからである。それは過去のこだまが、私のもとにやって来て、私に、私の神の真実さを聞かせてくれるかのようであった。私が未来のために信頼していいのだ、と。証しは、老人たち、老女たちの義務である。彼らは、できるところであればどこででも、神の真実さを証言し、彼らが老いて白髪頭になった今も、神は彼らをお捨てにならない、と努めて宣言すべきである。

 年老いた者の独特の務めたるもう1つの義務がある。すなわち、若い信仰者を慰める働きである。私の知る限り、若者を回心させるのに、だれよりもふさわしいのは、心の優しい老人たちである。私の知るところ、この国のある地方に下っていくと、《教会》の益のためには、一日も早く絶滅してほしいと私が心から願う独特の品種の老人たちがいる。彼らは、若い信仰者を見るや否や、その人を疑惑の目で眺め、その人が偽善者であることを期待する。彼らはその人の家に押しかけては、満足の行くあらゆるものを見いだす。だが彼らは云う。「私が若かった頃には、そんなに自信に満ちてはいなかったものだ。若者よ。君は、もう少し控え目にしていなくてはならない」。それから、いくつかの困難な問いかけがなされ、そのあわれな、年若の神の子どもは、やいのやいのと難癖をつけられ、疑惑の目で眺められる。なぜなら、その人は彼らの基準に達していないからである。しかし、私が言及しているのは、この場にいる何人かの方々のような人のことである。私はそうした人と語り合うのを嬉しく思う。そうした人たちは厳しいことを告げずに、優しい言葉を口にし、こう云ってくれる。「私が若かった時分には無分別なものでした。実際、自分が年少だったとき、こんな質問に答えられなかったことは、自分でもわかります。だから、もう少し年の行った人なら答えられるようなことを、今のあなたから聞こうとは思っていませんよ」。そして、若いキリスト者が彼らのもとに行くと、彼らは云う。「心配することはありません。私は大水を渡ってきましたが、それで溺れることはありませんでした。火の中もくぐってきましたが、焼かれはしませんでした。神に信頼しなさい。『あなたがたが年をとっても、神は同じようにする。あなたがたがしらがになっても、神は背負う』のですから」。

 それから、老人の務めたるもう1つの働きがある。すなわち、警告の働きである。もし老人が路の真中に出ていって、あなたに止まれと叫ぶとしたら、あなたは、幼い男の子がそうした場合よりも素早く立ち止まるであろう。後者の場合、あなたは、「すっこんでろ、この小僧めが!」、と云って道を急ぐであろう。老人の警告には大きな効果がある。そして、無分別な者を導き、軽率な者に警告するのは老人の独特の働きである。

 さて私のし残したことは、適用だけである。そして私は、3つの種別の人々に語りたいと思う。

 若い人々よ。この聖句には、何と尊い思想が含まれていることか。――「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは見捨てない」*! あなたがたは、安全な投資をしたがっている。よろしい。これこそ十分に安全な投資である。銀行は破産するかもしれないが、天国が破産することはありえない。岩は崩れ去るかもしれず、岩の上に家を建てても壊れることもある。だが、もし私がキリストの上に建てるとしたら、私の幸福は永遠に安泰である。若者よ! 神のキリスト教信仰は、あなたが死ぬまでなくならない。神の慰めを、あなたの一生の間に使い尽くすことは決してできない。むしろ、あなたの喜びの皮袋は、七十年飲み続けた後でも、最初に口をつけたときと同じくらい満々であることに気づくであろう。おゝ! 自分よりも長持ちしないようなものを買ってはならない。「良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」[イザ55:2]。おゝ! 若いキリスト者であるとは、何と心楽しいことか! 明け方から神を愛し、神に仕え始めるとは、何と幸いなことか! 最上の老キリスト者とは、かつて若いキリスト者であった人々である。一部の年老いたキリスト者たちにはほとんど恵みがない。その理由は、――彼らが一度も若いキリスト者であったことがないからである。おゝ! 私が時々考えてきたところ、もし天国に入る恵みを豊かに与えられることになる[IIペテ1:11]人がだれかいるとしたら、それは年若い頃に主を知るよう導かれた人である。承知の通り、天国に入ることは船が港に入るようなものである。ある人々は、ほとんど奇蹟によって、「火の中をくぐるようにして」[Iコリ3:15]、引き船で引かれてくる。他の者たちは、帆を一枚か、二枚かけただけで入ってくる。――彼らは、「かろうじて救われる」[Iペテ4:18]。だが、別の者たちは、その帆をすべて張り伸ばして入港し、こうした人々は、「神であり救い主であるお方の御国にはいる恵みを豊かに加えられる」*[IIペテ1:11]。若い人たち! 朝早めに船出した船こそ、神の停泊所に入る恵みを豊かに有することになるのである。

 さて、あなたがた中年の人たち。あなたは商売に没頭しており、自分の老年がいかなるものとなるかを時々考えている。しかし、あなたが明日のことについて考えるとき、あなたに対する神の約束が何かあるだろうか? あなたは云う。「かりに私がだれそれのような老人になって、周囲の人々の荷物になるとしたら、いやなことだ」。だが、神のなさることに差し出口をしてはならない。神の定めは神にまかせるがいい。多くの男たちは、自分は救貧院で死ぬだろうと考えていたのに、大邸宅の中で死んだ。また、多くの女たちは、街路で死ぬだろうと考えていたのに、自分の寝床の中で、幸せで安楽に死んでいった。そこには、摂理の恵みと永遠のあわれみに対する賛美の歌があふれていた。中年の人よ! ダビデが云っていることに、もう一度聞くがいい。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」。ならば、進み続けるがいい。もう一度、鞘から剣を抜き放つがいい。「この戦いは主の戦いだ」[Iサム17:47]。あなたが老衰していく年月のことは主にゆだね、あなたの現在の年月を主にささげるがいい。いま主のために生きるならば、主は決してあなたが老いたとき、あなたを投げ捨てはなさらない。老年期のために物を貯め込み、神の御国の進展のために出し渋ってはならない。むしろ、未来のことは神に信頼するがいい。「商売においては勤勉に」しているがいい。だが、勤勉すぎることによって――貪欲で利己的になることによって――自分の霊を損なわないように用心するがいい。覚えておくがいい。あなたが、

   「下界で欲すは ごく僅かにて、
    その僅かをも 与えらるべし」。

 そして最後に、信仰における私の愛する父たち、またイスラエルの母たちよ。あなたがたの喜びのために、この言葉を受けてほしい。あなたが陰鬱な気分にふけって、炉辺に座り込み、愚痴をこぼしたり怒って怒鳴ったりしている場面を若い人々に見られてはならない。むしろ、朗らかで、幸せに歩き回るがいい。そうすれば彼らは、キリスト者となることは何と幸いなことかと思うであろう。もしあなたが無愛想で、気難しくしているとしたら、彼らは主があなたをお捨てになったのだと考えるであろう。むしろ常に笑顔を浮かべているがいい。そうすれば、彼らはこの約束が成就されたのだと考えるであろう。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」。私は切に願う。ぜひ、幸せな気質となるようにし、朗らかな気分になるように努めてほしい。というのも、子どもはむっつりとした老人からは逃げ去っていくからである。しかし、朗らかで幸せそうにしている祖父を愛さないような子どもは世の中にいない。あなたは、天国の日光をあなたの顔に受けているなら、私たちを天国に導くことができる。だが、もしあなたが不機嫌で、いらいらしているとしたら、私たちを全然導きはしないであろう。というのも、そのとき私たちはあなたと一緒にいたいとは思わないからである。神の民とともに陽気にしているがいい。そして、人々の前で努めて幸せに生きるがいい。というのも、そのようにしてあなたは私たちに、こう決定的に証明することになるからである。――あなたがたが年をとっても、神はあなたがたとともにおられ、あなたの力が失せるときにも、なおもあなたを保ってくださる。願わくは《全能の神》が、あなたがたを祝福してくださらんことを。《救い主》の御名によって! アーメン

 

The God of the Aged 年老いた者の神[了]

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*1 ジョン・バニヤン、「天路歴程」 p.270-271(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976. [本文に戻る]

上記の説教は、通常の『一銭講壇』の紙数を越えてしまっているが、いささかも削られずに公刊されることが望ましいため、本号は二重号とすることが当を得ていると思われた。以下に付した二編の《小冊子》は、大活字で印刷された、『ニューパーク街小冊子』(百部4ペンス)と呼ばれる一連の続き物の見本として挿入するものである。


ニューパーク街小冊子

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編集:C・H・スポルジョン師

出版・販売:アラバスター&パスモア、フィンズベリ広場ウィルソン街三十四番地。その他J・ポール書店(パタノスター通りチャプターハウス小路)、G・J・スティーヴンソン書店(パタノスター通り五十四番地)など全書店で発売中。

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不信心者による海賊たちへの説教

 スウェーデン生まれの男がいた。不信心な見解に染まりきっていた。たまたまこの男が、バルト海のある港から別の港に向かうことになった。出帆するはずの場所に来てみると、すでに船は出航してしまっていた。あちこち尋ね回って、行き先が同じ漁船を見つけたので、それに乗り込んだ。海に出てからしばらくするうちに、水夫たちは、この男が船上に旅行鞄や収納箱をやたらと持ち込んでいるのに目をつけた。男を大金持ちに違いないと決め込んだ彼らは、男を船から放り出してしまおうと仲間同士で示し合わせた。それを漏れ聞いたこの男は、非常な不安を感じた。しかしながら、機会をとらえて彼は自分の旅行鞄の1つの口を開けておいた。そこには何冊か本を詰めこんでいたのである。これを見た男たちは、どの旅行鞄にも本が詰め込まれているものと思い込み、本などほしくなかったので、男を海中に叩き込んでもしかたないと云い交わした。彼らは男に、あなたは司祭さんですかい、と尋ねた。何と答えればいいか見当もつかなかったので、男は、そうです、と答えた。すると、この答えに男たちは非常に喜んだように見え、明日は1つ説教をしてほしいと云った。翌日は聖日だったからである。このことによって男の不安と苦悩はいや増し加わった。そのようなことが他のだれにもまして自分には不可能だとわかっていたからである。彼は聖書のことなどほとんど知らなかったし、聖書の霊感を信じてもいなかった。

 長いことかかって、とうとう彼らは小さな岩だらけの島に着いた。周囲が四分の一哩ほどしかないこの島には海賊の一味がいた。人目につかないこの場所が、彼らの財宝の隠し場だったのである。男は1つの洞穴に連れ込まれ、ひとりの老女に引き合わされた。彼女に彼らは、翌日は説教をしてもらうことになっているのだと告げた。彼女は、それはたいへん嬉しいことだ、あたしは神のみことばをとても長いこと聞いていなかったからね、と云った。男は窮地に陥った。説教しなくてはならないというのに、説教のしかたなど皆目見当もつかなかったからである。もし説教するのを拒んだり、相手の気に入らない説教をしたりしたら、自分にいのちはないと思った。気をもみながら男は眠れぬ夜を過ごした。朝になってもまるで心は定まっていなかった。人間には近づけない存在だと信ずる神に助けを乞い願っても何の役にも立たなかった。男は助かる道を何1つ考えつけなかった。うろうろと歩き回り、なおも暗闇に閉ざされながら、彼らに何と云うべきか必死で考えをまとめようとしたが、ただの一言も思いつけなかった。

 礼拝のために定められた時刻になり、男が洞穴に入ると、そこには男たちが集まっていた。一脚の椅子が男のために用意されており、聖書の載った卓子があった。彼らは半時間もの間、しんと静まりかえって座っていた。それでも男の魂の苦悶は、人間性に耐えられる限界にまで達していた。とうとう彼の頭に、この言葉がひらめいた。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる」[詩58:11]。男は立ち上がって、この言葉を告げた。すると次の言葉がするすると口をついて出てきて、さらに別の言葉がひとりでに続き、ついには自分でも驚愕するような明晰な理解が与えられ、心が伸びやかになるのを感じた。男は、彼らの状態にふさわしいいくつもの主題について語った。正しい者に対する報い、悪人に対する審き、悔い改めの必要、変えられた生き方の大切さについて語った。人の子らに対する神の比類なき愛は、そこにいたみじめな者らの心に力強い効果を及ぼし、彼らがとめどなく涙を流すほどであった。それに劣らず彼を驚愕させたのは、《全能の神》の無限のいつくしみであった。神はこのように介入なさることによって、彼の肉体的いのちのみならず、霊的ないのちをもお救いになったのである。「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」[詩118:23]。神のいつくしみ深さを痛切に感じて、彼の心は感謝の念に満ちあふれた。それは、どうにも云い表わしようのない思いであった。《天来の》介入によって、いかに驚嘆すべき変化がこのように突然にもたらされたことか! 少し前まで神と魂との交わりなどありえないと思っていた男が、幼子のように謙遜になったのである。また、つい先頃まで彼を殺そうともくろんでいた者たちが、今や互いに対する愛と善意に満ち、特に彼に対しては、心底からの愛情を示していたのである。彼らは彼に、自分たちにできる限りのあらゆる助けを喜んで差し出そうとしていた。

 翌朝彼らは、自分たちの船の一艘を仕立てて、彼を望みの場所へ運んでいった。そのときから彼は一変した人間となった。不信心の影響力に仕える奴隷から、イエスにある真理の力と効力を信ずる真摯な信仰者となったのである。

[神の摂理は何と驚嘆すべきであろう、神の恵みの何という主権であろう! 《全能の》愛の範囲外に出てしまったような者がいるだろうか? あるいは、赦されえないほどの罪を犯した者がいるだろうか? 読者よ! あなたは不信心者だろうか? あなたが同様の状況に置かれたら何をするだろうか? 聖書の教理以外のいかなる教理が海賊たちに益をもたらしただろうか? 確かにあなた自身の教理ではあるまい。あなたは、自分の子どもたちに何を教えたいと思っているだろうか? 確かにあなた自身の意見ではあるまい。あなたは、あなたの血を分けた子らが神を冒涜するのを聞きたいと感じてはいまい。さらに、私たちがこう思っていると宣言させてほしい。あなたは、神がいると知っているのだ。あなたが口では神を否定していても関係ない。私たちはあなたに願う。考えるがいい。あなたの《造り主》のことを、その御子、《救い主》のことを。そして、願わくは《永遠の》愛が、あなたさえも《贖い主》のもとに導いてくださるように。――C・H・S」

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第3号 ― 女 優

 英国の、とある地方劇場か田舎一座に属するひとりの女優が、ある日、滞在中の町の通りを歩いていると、人声に注意を引きつけられた。それは彼女が前にしていた粗末な田舎家の中から聞こえてくるのだった。好奇心にかられて、開いていた扉から中をのぞいてみると、そこには数人の人々が座っており、ちょうど彼女が中を見たときには、その中のひとりが次のような賛美歌を朗読し、それから一同が唱和して合唱するところだった。

   「深きあわれみ! かくなる我れに
    なおもあわれみ 残されたるや?」

その節回しは甘やかで単純ではあったが、気にも留まらなかった。その言葉に彼女は釘付けになり、身動きもできずに立ちつくしていた。そのとき、扉の所に立つ彼女に気づいていたその家の婦人が、中に入るよう声をかけてくれた。彼女はそれに応じ、その小集団の中のひとりが祈りをささげている間、そこにとどまっていた。その云い回しは彼女の耳には無骨なものに思えたかもしれないが、そうした祈りをささげている人の真摯な確信が伝わるものであった。彼女はその田舎家から出てきたが、あの賛美歌の言葉が耳について、脳裡から追い出すことができなかった。とうとう彼女は、その賛美歌が収録されている賛美歌集を手に入れる決心をした。彼女がそれを読めば読むほど、彼女の真剣な印象はずっと確かなものとなっていった。彼女は福音を伝えている教会に集い、これまでは無視して、馬鹿にしていた自分の聖書を読み、自分に必要だと感ずるあわれみを差し出しておられるお方の前に、へりくだりと、心の悔悟をもってひれ伏した。そのお方へのいけにえは、砕かれた心と、悔いた魂であり、そのお方は、そうした心をいたく喜ぶと宣言しておられたからである[詩51:17]。

 彼女は自分の職業をただちに、また永久に放棄しようと決心した。そして、しばらくの間、舞台に立つことは控えさせてくれと申し出た。しかしながら、自分の意見の変化を打ち明けたり、きれいさっぱり足を洗うつもりだという決意についてはだれにも知らせなかった。

 ある朝、劇場の支配人が彼女を呼びつけて、来週から興行される、大きな上がりとなるはずの新しい劇の主役を演じてほしいと頼んだ。彼女は、何度もその役を演じて、大向こうをうなららせたことがあった。しかしながら、今の彼女は、二度と女優として立つことはないという自分の決意を彼に告げ、同時にその理由も明らかにした。最初彼は、あざけることで彼女の良心の咎めを克服しようとしたが、何の効果もなかった。そこで、彼女の拒否によって受けるであろう損失を述べ立て、その理屈のしめくくりとしてこう約束した。もし彼女が彼の頼みを容れて、今度だけでも演じてくれるとしたら、それを自分が申し出る最後の頼みとしようという約束である。彼の懇願に抗しかねた彼女は、舞台に立つ約束をして、予定の晩に劇場へと向かった。彼女の扮する役は、登場するとともに1つの歌を唄うことになっていた。そして、幕が上がったとき、器楽団はすぐさま伴奏を演奏し始めた。だが、彼女は、まるで何かの思いにとらわれて、自分の周囲の一切も、自分の置かれた状況も忘れ果てた人のように立っていた。音楽はやんだが、彼女は歌わなかった。彼女があがっているものと考えた楽団は、再び演奏を始めた。二度目も彼らは演奏をやめて、彼女が歌い出すのを待ったが、彼女はその口を開かなかった。三度、その歌曲は演奏された。そのとき、両手を握りしめ、涙で目を一杯にした彼女は歌い出した。その歌の歌詞ではなく、こう歌った。――

   「深きあわれみ! かくなる我れに
    なおもあわれみ 残されたるや?」

ほとんど云うまでもないことだが、その芝居はたちまち閉幕となった。人々はあざ笑ったが、一部の人々は、この記憶に残る夜によって、「自分の現状をよく考え」させられ[ハガ1:5参照]、キリスト教信仰のこの素晴らしい力について思いを巡らさざるをえなかった。それは心にこれほどの影響を与えて、それまで、これほど虚栄に走っていた人生、これほどあからさまに滅びに至る道を追い求めていた人生を変化させることができたのである。

 読者はこのことを知って満足するであろうが、この女性の変化は、奇異なものであったばかりでなく、恒久的なものであった。彼女は多年にわたり自分の信仰告白と首尾一貫した歩みをし、ついには私たちの主イエス・キリストの福音に仕えるひとりの教役者の妻となったのである。

[愛する読者よ。ことによると、あなたはたいへん大きなそむきの罪を犯してきたかもしれない。そして、自分には何の赦しもないのだと恐れているかもしれない。願わくは、この実話によって、あなたの恐れが取り除かれるように。あなたは地獄の外にいる最悪の存在かもしれないが、恵みはあなたを天国の御使いのようにきよくすることができる。神はあなたを断罪されるとしても正しくあられるであろうが、あなたを救われても同じくらい正しくあることがおできになる。あなたは、主があなたをご自分の思い通りに扱える権利をお持ちであると感じているだろうか? 自分には主に申し立てできる何の権利もないと感じているだろうか? ならば、喜ぶがいい。というのも、イエス・キリストはあなたの咎を負い、あなたの悲しみをになってくださったからである。そして、あなたは確実に救われるだろうからである。あなたは罪人である。言葉の真の意味においてそうである。ならば思い出すがいい。イエスは罪人を救うために来られたのであり、もしあなたが自分自身を罪人であると自覚しているとしたら、他の人々と同様あなたを救うために来られたのである。――C・H・S]

 

「見よや、受肉(ひと)たる 神、天上(え)にのぼり、
  その御血潮の 功績(いさお)申立(たて)たり。
    神に賭(まか)せよ またく汝が身を
    他(た)のもの頼る 心よとく去れ。
       イエスのみなるぞ
      よわき罪人 救うるは」。

[了]
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