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完全なる救い

NO. 84

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1856年6月8日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」。――ヘブ7:25


 救いは啓示に特有の教理である。啓示によって私たちは救いの完全な歴史を与えられるが、それ以外のどこにも、その痕跡は見いだせない。神は多くの書物を書き記されたが、あわれみの道について教えることを目当てとしていた本はただ一冊だけである。神は自然という偉大な書物をお書きになり、それを読むのは私たちの義務であり、楽しみである。この書物の表面は、綺羅星のような宝石と虹色で飾られており、その中身の各頁に含まれている不思議な事がらは、賢者がいかに時代を越えて驚嘆しようと、なおも思い巡らすべき新鮮な主題が尽きない。自然は人間の習字帳である。その中で人は自分の《造り主》の名前を学ぶことができる。そこに神は、ご自分の御名を金と宝石の刺繍で散りばめられた。壮麗な星々は真理の教理をいくつも含んでいる。緑の大地や芝土から生え出ている花々には、教訓が書き記されている。嵐や暴風を見るとき、私たちは神の書物を読んでいる。万物は神が語らせたいと思われる通りのことを語っているからである。耳が開かれている者であれば、あらゆる小川のさざ波の中、あらゆる雷の轟きの中、あらゆる稲妻の閃きの中、あらゆる星のきらめきの中、あらゆる花の芽生えの中に、神の御声を聞けるであろう。神が被造世界という偉大な書物を書き記されたのは、ご自分がいかなるお方かを私たちに教えるためであった。――ご自分がいかに偉大で、いかに力強いお方かを教えるためであった。しかし私は、被造世界の中には救いについて何1つ読みとれない。岩々は私に、「救いは私たちのうちにはない」、と告げる。風はヒューヒュー唸るが、救いについて唸るのではない。波は岸に打ち寄せるが、それらが打ち上げる漂流物には、いかなる救いのしるしも明かされていない。星のきらめく天界は、華々しい流星をきらめかせるが、いかなる救いの声も伝えない。私が救いについて書かれているのを見いだせる唯一の場所は、この、私の御父の恵みの書の中だけである。ここにおいて私は、御父のほむべき愛が、人類という大家族に打ち明けられているのを見いだす。そこでは、彼らが失われていること、だが神には彼らを救うことがおできになること、また、彼らを救うことにおいて、神が「義であり、また、不敬虔な者を義とお認めになる」*[ロマ3:26]お方でありえることが教えられている。ということは、救いは聖書の中で――聖書の中だけで――見いだされるべきである。他のどこでもそれについて読むことはできない。そして、それが聖書の中だけに見いだされるべきである一方で、私は、救いが啓示にとっては格別の教理てあると主張したい。私の信ずるところ、聖書が送られたのは、私に歴史を教えるためではなく、恵みを教えるためである。――私に哲学の一体系を与えるためではなく、神学の一体系を与えるためであり、――世俗の知恵を教えるためではなく、霊的な知恵を教えるためである。これにより私が主張したいのは、講壇でいかなる哲学や科学を説教することも、全く場違いだということである。私はこの件においていかなる人の自由をも押さえつけるつもりはない。神だけが人の良心の《審き主》だからである。だが、私の確固たる意見は、もし私たちがキリスト者であると告白するとしたら、私たちはキリスト教から離れないでいる義務がある、ということである。もし私たちがキリスト教の教役者であると告白するとしたら、私たちが植物学や、地質学などに関する講義を語って、救いに関する説教を行なわない場合、私たちは安息日を空費し、自分たちの聴衆を馬鹿にし、神を侮辱することになるであろう。福音を常に語っていないとしたら、その人は、神に仕える、真に召された教役者とみなされるべきではない。

 よろしい。ならば、救いこそ私があなたに宣べ伝えたいと願うことである。本日の聖句には、二三のことが記されている。第一のこととして語られているのは、救われることになるのはだれかということである。「イエス・キリストによって神に近づく人々」*がそれである。第二のこととして告げられているのは、この《救い主》が救うことのできる能力の範囲である。「完全に救うことがおできになります」。そして第三のこととして、ここには、なぜ主には救う力があるかという理由が示されている。「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」。

 I. 第一に告げられているのは、《救われることになる人々》である。そして、救われることになる人々とは、「イエス・キリストによって神に近づく人々」*である。ここには、いかなる宗派や教派の制限もない。これは決して、イエス・キリストによって神に近づくバプテスト派とも、独立派とも、監督派とも云われておらず、ただ単に、「人々」とだけ云われている。これを私は、イエス・キリストのもとに来るあらゆる信条の人々、あらゆる地位の人々、あらゆる階級の人々であると理解する。彼らは、人々の前における見かけ上の立場はいかなるものであれ、あるいは、関係教派が何派であれ、救われるのである。

 1. さて、最初のこととしてあなたに着目してほしいのは、こうした人々がどこへ行くかということである。彼らは「神に近づく」。神に近づくということを私たちは、単に形式的な礼拝行為であると理解すべきではない。それは、罪を犯すための重大な手段となることがあるからである。英国国教会の祈祷書の中には、何と素晴らしい、普遍的な告白があることか。「われらは、迷える羊のごとく過ち、汝が道よりさまよい出たり。なすべからざることをなし来たり、なすべきことをなさざるままにせし者、うちにいかなる健やかさもなき者なり」。これ以上に洗練された告白を英語の中に見いだすことはできないであろう。だがしかし、私の愛する方々。いかにしばしば、私たちの中の最良の者らといえども、こうした云い回しを口では繰り返しながら、自分は義務を果たしてきた、と考えることによって神を馬鹿にしてきたことか! あなたがたの中の多くの方々は、いかに会堂へ行き、膝まづいて祈るとき、あるいは賛美歌を口にしている間、自分が上の空でいることを告白せざるをえないをえないことか! 愛する方々。教会や会堂に行くことと、神に近づくこととは全くの別物である。多くの人々は実に雄弁に祈ることができ、実際にそうしている。祈りの形式を暗記しているか、ことによると、自分で編み出した即興の言葉を用いているのである。だが彼らは神に近づくかわりに、その間ずっと神から遠ざかっているのである。あなたがた全員に向かって云わせてほしい。決して単なる形式で満足してはならない。地獄に堕ちた人々の中には、《自分では》一度も安息日を破ったことがないと思っている大勢の人々がいるであろう。だが、彼らは一生の間、安息日を破り続けてきたのである。教会の中で安息日を破ることは、公園で安息日を破るのと同じくらい可能である。それをこの厳粛な集会の中で破ることは、あなたの自宅でそれを破るのと同じくらい容易である。あなたがたひとりひとりは、単に一連の義務をこなして、それをなし終えた後で、完全に自分に満足しながら私室にこもり、何もかも終わった――私の一日の務めはなし終えた――と思い込むかもしれない。だが、もしそれが、実は全然神に近づいておらず、単に外的な儀式と、目に見える手段に近づいただけであるとしたら、あなたは実質的には安息日を破っているのである。そうしたことは、神ご自身に近づくこととは全く別物だからである。

 そして、もう一度あなたに告げさせてほしいが、神に近づくとはあなたがたの中のある人々が考えているようなこととは違い、――時々は真摯に献身の行為を行なうが、人生の大部分でこの世に没頭していることではない。あなたの考えによると、もしあなたが時おり真摯になり、時には天国への真剣な叫びを上げるなら、神はあなたを受け入れることになるのである。たとい自分の生き方がまだこの世的であり、自分の願望がまだ肉的であるとしても、そのように突発的に神に献身しさえすれば、神はその無限のあわれみによって、自分のもろもろの罪をぬぐい取ってくださるだろう、とあなたは考える。私はあなたに告げる。罪人たち。あなたの半分を神のもとに持ち出し、残り半分を取っておくなどということはありえない。もしある人がこの場に来たとするなら、私はその人が自分の全部を連れてきたと考える。それと同じく、もしある人が神に近づくとしたら、その人は半分の自分だけ近づいて、残りが距離を置いているなどということはありえない。私たちの存在の全体が私たちの《造り主》の奉仕へと明け渡されなくてはならない。私たちは、自分を完全に奉献し、今ある自分のすべて、今後あるところの自分のすべてを捨てて、完全に神への奉仕にささげ尽くす思いで神に近づかなくてはならない。さもなければ、私たちは決して正しいしかたで神に近づいてはいないのである。私が驚かされるのは、いかに近頃の人々がこの世を愛すると同時に、キリストをも愛そうとしているかを見ることである。ことわざふうに云えば、彼らは「二兎を追いかけて二兎とも得よう」としているのである。彼らも時には、真剣にキリスト教を信じなくてはならないと考え、しごく善良なキリスト者となる。だが、それ以外の期間の彼らは、キリスト教信仰は自分にとっていささか損だと考え、実に悪辣な者らとなる。あなたがた全員に警告させてほしい。あなたにとって、この問いの両方に立っているふりをするのは、全然何の役にも立たない。「もし、神が神であれば、それに仕え、もし、バアルが神であれば、それに仕えよ」*[I列18:21参照]。私が好むのは、何事にも徹底的な人である。私の前にひとりの罪人がいるとする。私がいくらかは希望を持つのは、その人が自分の悪徳に裏表なく打ち込んでいて、自分の性格を率直に認めている場合である。だが、中途半端な心をした人がいて、完全に悪魔のために生きるほど大胆でもなく、完全にキリストのために生きるほど真摯でもないという場合、私はあなたに云うが、そのような状態にある人は絶望的である。その2つを1つに結び合わせたがるような人は、全くどうしようもない状態にある。罪人たち。キリストが、ふたりの主人に仕えることはできない[マタ6:24]、と云われたのに、あなたは自分にはそれができると思っているのだろうか? 神とともに歩みながら、富とともに歩むこともできると空想しているのだろうか? 片腕に神をかかえ、もう片腕に悪魔をかかえたいというのだろうか? 主の杯を飲むと同時にサタンの杯も飲むことが許されるなどと考えているのだろうか? 私はあなたに告げる。あなたがたは、今のまま神に近づくとしたら、呪われた、みじめな偽善者として離れて行くことになるであろう。あるいは、全く近づくことなどできないであろう。人は一身をかけて主を求めなくてはならない。魂の全体が主の前に注ぎ出されなくてはならない。さもなければ、そのような近づき方が神に受け入れられることは決してない。おゝ、どっちつかずによろめいている者よ。このことを覚えて、おののくがいい。

 ある人がこう云っているような気がする。「よろしい。ならば、神に近づくとはどういうことか教えてもらおうではないか」。答えよう。神に近づくことには、他のものから離れることが含まれる。もし人が神に近づくなら、その人は自分の罪から離れなくてはならない。自分の義から離れなくてはならない。自分の悪いわざや良いわざから離れて、それらをことごとく置き去りにして神に近づかなくてはならない。

 また、神に近づくことには、神に対するいかなる反感もないことが含まれる。というのも、人は神を憎んでいる間は神に近づくものではないからである。むしろ遠く離れているに違いない。また、神に近づくとは、神を慕い求めること、神のそば近くにいたがることを意味する。そして、何にもまして、それは神に祈り、神に信頼を置くことを意味する。それこそ神に近づくことである。そして、そのようなしかたで神に近づいた人は、救われた人々の中に入るのである。彼らは神に近づく。それこそ、彼らの霊がはやりたって向かって行く場所である。

 2. しかし、次に、いかにして彼らが近づくかに注意するがいい。彼らは、「イエス・キリストによって神に近づく」*。私たちの知っている多くの人々は、自然の信心家だと自称している。彼らは自然の神を礼拝し、イエス・キリストなど抜きにしても神には近づけると考える。私たちの知っている一部の人々は、《救い主》の仲保をさげすみ、何か危険なことが起こるときには、《仲保者》を信ずる信仰もなしに、いきなり神に祈りをささげようとする。あなたがたの中にいるこうした人々に云いたい。あなたは、あなたの《創造主》なる偉大な神が本当にあなたの祈りを聞き、あなたを救ってくださると思っているのだろうか? その御子の功績を抜きにしてそうなさると思っているのだろうか? 今あなたに、神のいと聖き御名にかけて厳粛に断言させてほしい。アダムの堕落以来、救いを求めてささげられた祈りのうち、《仲保者》なるイエス・キリストを抜きにして《創造主》なる神がかなえられた祈りは1つもない。「イエス・キリストを通してでなければ、だれひとり神のみもとに来ることはない」*[ヨハ14:6]。そして、もしあなたがたの中のだれかがキリストの《神性》を否定し、あなたがたの中のいずれかの魂が《救い主》の功績を通さずに神に来ようとするのであれば、忠実かつ大胆なしもべとして私は、あなたが罪に定められた人間だと宣告せざるをえない。というのも、あなたがいかに気立ての良い人であろうと、キリストについて正しい考え方をしていない限り、他の部分において正しくあることはできないからである。私はあなたに告げる。あなたがたは、ささげうる限りのありったけの祈りをささげても、キリストを通してそれをささげなければ、罪に定められるであろう。あなたが自分の祈りを携えて、自分で御座のもとにかかえていっても全く何にもならない。「引き下がれ、罪人。引き下がれ」、と神は云われる。「わたしはあなたを全然知らない。なぜあなたは自分の祈りを《仲保者》の手に預けなかったのか? それは確実に答えられたであろうに。しかし、あなたがそれを自分で差し出したからには、わたしがそれをどうするか見るがいい!」 神はあなたの嘆願を読むと、それを四方八方にまき散らし、あなたは耳を傾けてももらえず、救われないまま立ち去って行く。御父は決してキリストを抜きにして人をお救いにはならない。いま天国にいる魂のうち1つとして、イエス・キリストによらずに救われたものはなく、イエス・キリストを通さずに神に正しく近づいた者はない。もしあなたが神との平和を得たければ、キリストを通して神に近づかなくてはならない。キリストを真理の道、いのちの道として、キリストの義だけを唯一云い立てて近づかなくてはならない。

 3. しかし、こうした人々が近づくときには、何のために近づくのだろうか? ある人々は、自分は神に近づいていると考えながら、その実、正しい目的のために近づいてはいない。多くの若い学生は自分の勉強を助けたまえと神に叫び求め、多くの商人は商売上の窮地をくぐり抜けさせたまえと神に近づいている。彼らは、いかなる困難の中にあっても、ある種の祈りをささげることが習い性になっている。だが、その値打ちを知れば、彼らもそのような祈りをささげはすまい。というのも、「悪者のいけにえは主に忌みきらわれる」[箴15:8]からである。しかし、あわれな罪人がキリストのもとに来るとき、その目的は1つしかない。たとい全世界を差し出されても、イエス・キリストを有せないとしたら、彼はそのようなものを受け入れる値打ちはないと考えるであろう。そこにひとりのあわれな男がいる。死刑を宣告され、死刑囚監房に閉じ込められている。鐘が鳴っている。彼はじきに連れ出されて、絞首台の上で死ぬことになるであろう。さて、そこに私が来て云う。「さあ、あなたに綺麗な着物を持って来たぞ。何と! 何の笑顔もなしか? 見よ! これには銀をふんだんに縫い込んである! これがいかに宝石をちりばめているか見えないのか? このような着物は何十ポンドもする、入念な細工が施されたものなのだぞ」。だが彼は軽蔑しきったように微笑む! 「さあ、これを見てほしい。何か別のものを贈ろう。あなたのためは素晴らしい土地がある。広々とした地所に、何棟もの豪奢な邸宅、庭園もあれば芝生もある。その権利証書を受け取るがいい。これはあなたのものだ。何と! 何の微笑みもなしか? 街を歩いている、あなたよりも貧しいだれかれにそんな土地を与えたとしたら、その人は喜びのあまり踊りだしていたであろうに。だのにあなたは、私があなたを金持ちにし、黄金でまとわせてやっても、にこりともしないというのか? ならば、もう一度だけ試させてほしい。ここにあるカエサルの紫衣はあなたのものだ。それを肩にかけるがいい。――ここにはカエサルの冠がある。これが乗るのはあなたの頭だけなのだ。これは果てしなく広がる、いくつもの帝国の冠なのだ。私はあなたを王にしてやろう。あなたは、日の沈する所なき王国を手に入れ、北極から南極までを統治するであろう。立ち上がるがいい。自らをカエサルと宣言するがいい。あなたは皇帝なのだ。何と! 何の微笑みもないのか? あなたは何を望むのだ?」 「そんなおもちゃは片付けてくれ」、と彼はその冠について云う。「その役立たずの証書など引き裂いてくれ。この着物もあっちへやってくれ。あゝ、四方八方にうっちゃってくれ。それは地上で生きている王様にくれてやるがいい。だが私は死ななくてはならないのだ。そんなものが私にとって何になろう? 私には赦罪を与えてくれ。そうしたら、カエサルになどなりたいとも思わない。殿様になって死ぬよりも、乞食になって生きさせてくれ」。神に近づくときの罪人もそれと同じである。彼は救いを求めて近づく。彼は云う。――

   「富も誉れも 取るには足らず、
    世の慰めも、ただ空虚(うつろ)なり。
    こは決して 満ち足らわせじ。
    キリストなくば、われは死ぬのみ」。

あわれみだけが、彼の唯一求めるものである。おゝ、愛する方々。もしあなたが一度でも神に近づいたことがあるなら、もしあなたが救いを、救いだけを叫び求めて近づいたことがあるなら、あなたは神に正しく近づいたのである。ならば、あなたを馬鹿にしても何にもなるまい。あなたはパンを求めて叫んだ。私は石を与えるべきだろうか? あなたは私にそれを投げつけるだけであろう。私はあなたに富を差し出すべきだろうか? ほとんど何にもなるまい。キリストのもとに来る罪人には、彼が願っている賜物を宣べ伝えなくてはならない。――主イエス・キリストによる救いという賜物を――信仰によってその人のものとなる賜物を宣べ伝えなくてはならない。

 4. キリストのもとに来るということについて、もう1つだけ考えを記しておこう。こうした人々は、いかなる様子でやって来るのだろうか? 私は、あなたに向かって何種類かの人々を描写してみよう。その全員が、自分では救いを求めて、あわれみの門へやって来たと考えている。そこにひとりの人が来る。立派な風采をして、六頭立ての馬車に乗っている! 彼がいかに激しく馬車を御し、いかに疾駆させているか見るがいい。彼はりゅうとした見なりをし、仕着せを着ており、彼の馬たちも贅沢な飾り衣裳をつけている。彼は金持ちであり、きわめて富裕である。彼は門に乗りつけると、こう云う。「私のために門を叩くがいい。私は十分に金持ちだ。だが、それでも無難な道を取るのがいいと思う。私は非常に上品な紳士であり、私自身の良いわざにも、私自身の功績にも不足はない。そして、あえて云うが、この戦車は私を乗せて死の川を越え、無事に私を向こう岸に連れて行くであろう。だが、それでも、キリスト教に入信することは流行でもあるので、この門に近づこうと思うのだ。門番! 扉を開けて、私を中に入れるがいい。私がいかに栄誉ある者か見るがいい」。あなたは決して門が、この男のために開くのを見いださないであろう。彼は正しいしかたで近づいていないのである。別の者がやって来る。彼にはそれほど多くの功績があるわけではないが、それでも多少は有している。彼は歩きながら、ぶらぶらと上り坂をやって来ると、こう声を張り上げる。「御使いよ! その門を私のために開くがいい。私はキリストのもとにやって来たのだ。私は、救われたいと思っている。それほどひどく救いが必要だという気分はしていないし、私はいつも、非常に正直で、廉直で、道徳的な人間だった。私は自分がたいして罪人だとは思わない。私には、自分の衣がちゃんとある。だが、キリストの衣を着るのもやぶさかではない。それで私に害はなかろう。婚礼の礼服を着てもよい。後で自分の服を着ることもできるし」。あゝ! 門は、なおも堅くぴったりと閉ざされたままで、全く開かれない。しかし、正しい人の姿を示させてほしい。そこに彼がやって来る。溜息をつき、うめき声を上げ、ずっと大声で泣きながらやって来る。彼は自分の首に縄をつけている。自分が断罪されるに値すると考えているからである。彼は襤褸をまとっている。天の御座のもとにやって来る。そして、あわれみの門に近づくとき、彼はほとんど叩くのを恐れているように見える。彼は目を上げて、こう記されているのを読む。「たたきなさい。そうすれば開かれます」[マタ7:7]。だが、自分のみじめな一触れによって、その門の神聖を汚すのではないかと恐れる。彼は最初、静かにコツコツと叩く。そのあわれれみの門が開かないと、自分があわれな死に行く被造物であることを思い、もう一度叩く。それからもう一度、さらにもう一度叩く。何度となく叩いても何の答えもない。それでも彼は罪深い人間であり、自分が無価値な者であると知っている。それで彼はなおも叩き続ける。そして、ついに最後には善良な御使いが門から微笑んで云う。「あゝ! この門は殿様のための門ではなく、乞食のための門なのだ。天国の門は、富者のためにではなく、霊的な貧民のために造られたのだ。キリストが死なれたのは罪人たちのためであって、善良ですぐれた人々のためではなかった。主はよこしまな者を救うために世に来られたのた。

   『義の人ならず、――
    罪人をこそ、イエスは招けり』。

入るがいい。あわれな者よ! 入るがいい。ようこそ来られた!」 そして、御使いたちは歌う。「ようこそ来られた!」 愛する方々。あなたがたの中には、このようにしてキリスト・イエスによって神に近づいたことのある人がどれだけいるだろうか? パリサイ人のような尊大な高慢さによってではなく、自分は救われる価値があると考える善良な人間の偽善的な言葉によってではなく、悔悟する者の真摯な泣き声と、生ける水を求める渇いた魂の真剣な願いをもって近づいただろうか? 荒野で鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、また夜明けを待つ夜回りが夜明けを待つのにまさって[詩42:1; 130:6]キリストを慕い求めただろうか? 天に着座しておられる私の神にかけて云うが、もしあなたがこのようなしかたで神に近づいたことがないとしたら、あなたは全然神に近づいたことがないのである。だが、もしあなたがこのように神に近づいたことがあるとしたら、ここにはあなたのための輝かしいことばがある。――「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」。

 II. こうして私たちは、神に近づくという第一の点について片づけた。そこで第二の点だが、《この救い主の能力はどの程度のものだろうか?》 イエス・キリストの能力――これは、生死に関わるとさえ云えるほど重大な問題である。救いはどこまで有効だろうか? その限界は、またその境目はどこにあるのだろうか? キリストは《救い主》だが、どこまで救うことができるだろうか? 主は《医者》だが、その技量はどの程度までの病を癒せるだろうか? この聖句が何と堂々たる答えを返していることか! 「完全に救うことがおできになります」。さて、これは私が確かに断言し、また何者も否定できないことだが、この場にいるいかなる人にも、完全の果てがどこにあるかはわからない。ダビデは云う。たとい私が暁の翼をかって、海の果てまで飛んで行ってそこに住んでも、そこでさえ神の手は私に届くであろう、と[詩139:9-10]。しかし、完全の果てがどこにあるかだれにわかるだろうか? 御使いの翼を借りて遠くまで飛んで行き、最果ての星をはるかに越えて、翼が一度も羽ばたいたことがなく、《神格》そのものの胸のような静寂と静けさが支配する、いまだかつて乱されたことのない天界へ行こうと、あなたは完全の果てに達してはいない。さらに進み続け、暁の光の上に上り、さらに飛び続け、被造世界の極みを越え、宇宙そのものすら尽きてしまい、混沌がその支配を引き受けるところまで行っても、あなたは完全の果てには行き着いていないであろう。それは定命の知性には思い描けないほど遠くにある。理性や至高の射程を越えたものである。さて、本日の聖句が告げるところ、キリストは「完全に救うことがおできにな」るのである。

 1. 罪人よ。私はまずあなたに語りかけよう。そして、神の聖徒たち。私はその後であなたに語りかけよう。罪人よ。キリストは、「完全に救うことがおできになります」。これによって私たちが理解するところ、咎の極みすら、《救い主》の力を越えてはいないのである。人間が犯しうる究極の罪がいかなるものかわかる人がだれかいるだろうか? 私たちの中のある人々は、パーマーは人間の堕落のほとんど極限にまで達したと考えている。いかなる心もあれほど計画的な殺人を構想し、あれほど長期にわたる犯罪を企図することはできないように思える。だが、私には、彼にすらまさる極悪非道な人間がいることもありえると思う。また、そうした人間が生き長らえて野放しにされていた場合、今よりもさらに悪辣な者となることはありえると思う。しかり。《かりに》彼がもう1つ殺人を犯し、さらにもう1つ、またもう1つ殺人を犯すとしたら、彼はその極限まで行くのではないだろうか? 人は、いくらでも罪を深めていくことができるではないだろうか? 彼は、生きている限り、前日よりも罪深い者となっていけるであろう。だがしかし、本日の聖句によると、キリストは「完全に救うことがおできになります」。私はこの場に、ある人がひっそりやって来ている姿を想像できよう。自分のことを、何物にもまさって最も忌まわしい存在、いかなる被造物にもまさって最も救いがたい者と考えている人である。その人は云う。「確かに私は罪の極限に達したに違いない。何者も悪徳にかけては私にかないはすまい」。私の愛する方よ。かりにあなたが完全な極みにまで行き着いてしまっていたとしても、思い出すがいい。そのときですら、あなたは天来のあわれみの届かないところに達してしまったのではない、と。というのも、主は「完全に救うことがおできにな」るからであり、あなた自身も、もう少し先に行くことは可能であり、それゆえあなたは完全な極みにはまだ達していないからである。あなたがいかに遠くに行っていようと、――たといあなたが悪徳の極寒地帯そのものに行き着き、そこでは、あわれみの太陽がほんの僅かな斜陽しか放っていないように思われても、そこでも救いの光はあなたに達することができる。私は、たといひとりの罪人が地獄に向かう直進路の上でよろめいているのを見ても、彼が不義の最終段階へと進んでしまっているとしても、あきらめはしない。その人の足が破滅の瀬戸際にかかってふらついているとしても、彼のために祈るのをやめないであろう。また、彼がそのあわれな酩酊の邪悪さによってよろめき歩き続け、地獄に片足を踏み出し、滅びる寸前になっているとしても、彼について絶望しないであろう。底知れぬ所が彼を呑み込んでその口を閉じるまでは、天来の恵みが彼を救うことはまだ可能であると信じているであろう。そこを見るがいい! 彼はまさに底知れぬ所のへりに立ち、今にも落ちそうになっている。だが彼が落ちる前に、無代価の恵みが、「あの男を捕えよ!」、と命ずる。あわれみが急降下し、その幅広い翼で彼を捕える。そして彼は救われて、贖いの愛の戦利品となる。もしこの広大な集会の中にそのような人がいるとしたら、――もしこの場に社会から見捨てられた者、極悪人の中の極悪人、このみじめな世界の屑であり、かすである者がだれかいるとしたら、――おゝ! 罪人のかしらよ! キリストは「完全に救うことがおできになります」。それをあらゆる場所で告げるがいい。あらゆる屋根裏部屋、あらゆる地下室、あらゆる悪徳の巣窟、あらゆる罪の巣穴、あらゆる所でそれを告げるがいい! 「完全に」! 「完全に救うことがおできになります」。

 2. さらにまた、犯罪の完全な極みまでというだけでなく、拒絶の完全な極みまでである。それがどういうことか説明する必要があるであろう。この場にいるあなたがたの中の多くは、幼少の頃からずっと福音を聞いてきた。この場には、私と同じように、敬虔な両親のもとに生まれた方々がいるはずである。あなたがたの中のある人々の額には、ごく幼い頃から、母の涙という、きよらかで天的な滴が絶えず降り注いでいた。この場にいる多くの方々は、膝をかがめて祈るときには決してわが子のための祈りを欠かさなかった人によって育てられてきた。彼女は寝床で休む前には、必ずあなたのため、自分の長男のために祈るのを常としていた。もしかすると、あなたの母御はもう天国に行っており、彼女があなたのためにささげたあらゆる祈りは、まだかなえられていないかもしれない。時としてあなたは泣いた。あなたは、いかに彼女があなたの手を握って、こう云ったかをよく覚えている。「あゝ! ジョン。もしあなたが、こんな不義の道を走り続けるとしたら、このあなたの罪で、私の心は張り裂けてしまいますよ。おゝ! もし、母さんがどんなにあなたに救われてほしいと心から願っているか、あなたが知っていさえしたら、あなたの魂は溶かされて、きっとキリストのもとに飛んでいくでしょうに」。あなたは、そのときのことを覚えていないだろうか? 汗があなたの額にじっとりとにじみ、あなたは云った。――お母さんの心を張り裂けさせたくなかったから――「お母さん。ぼくは考えてみるよ」。そして、あなたは実際そのことについて考えてみた。だが、あなたが外で遊び友だちに出会うと、それはみな失せ去ってしまった。あなたの母御のいさめは、払いのけられてしまった。北風に吹きまくられた蜘蛛の巣の細糸のように、跡形もなくなってしまった。そのとき以来、あなたもしばしば教役者の話を聞きに教会に足を踏み入れた。つい先頃も、あなたは力強い説教を耳にした。その教役者は、まるで墓からむっくり起き上がった死者ででもあるかのように語った。絶望の領域から舞い戻った、死装束の幽霊ででもあるかのような真剣さをもって語っていた。自分にふりかかった恐ろしい運命をあなたに告げ、あなたにそれを警告していた。あなたは、彼があなたの罪について、義について、来たるべき審きについて語りかけている間、いかに自分の頬を涙が伝い落ちたか覚えている。いかに彼があなたに向かって、イエスと、十字架による救いとについて宣べ伝えたか覚えている。そして、あなたはその会堂の座席から立ち上がって、こう云った。「神がもう一日、自分のいのちを長らえさせてくださるとしたら、私は心から神に立ち返ろう」。だが、今そこにあなたはいる。いまだに変わらないまま、――ことによると、以前よりもずっと悪くなってそこにいる。そしてあなたがあなたの日曜日の午後をどこで過ごしてきたか、御使いは知っている。また、あなたの母の霊も、あなたがそれをどこで過ごしてきたか知っており、もし泣くことができるとしたら、あなたのために泣くであろう。あなたがこの日まで神の安息日を蔑み、神の《聖なることば》を踏みにじってきたために泣くであろう。しかし、あなたは何かがこう云うのを感じているだろうか? 「罪人よ! いまキリストのもとに来よ!」 あなたは、良心があなたに囁き、あなたの過去のそむきの罪について告げているのが聞こえるだろうか? また、そこには何か甘やかな御使いの声がしているだろうか? 「イエスのもとに来るがいい。イエスのもとに来るがいい。まだあなたを救ってくださるのだから」。私はあなたに云う。罪人よ。あなたはキリストをまさに完全の果てまで拒絶してきたかもしれない。だが、主はまだあなたを救うことがおできになる。そこにはあなたが踏みにじってきた一千もの祈りがある。あなたの上に全く無駄に語られてきた百もの説教がある。あなたが投げ捨ててきた何千もの安息日がある。あなたはキリストを拒絶し、その御霊を蔑んできた。だがそれでも、主は、「帰れ、帰れ!」、と叫ぶのをやめてはおられない。キリストは、あなたがご自分によって神に近づくならば、「あなたを完全に救うことがおできになる」*。

 3. 私が今晩、特に注意を払わなくてはならない、もう1つの場合がある。それは、完全に絶望の極みに達してしまった人の場合である。この世には、何人かのあわれな者たちがいる。心をかたくなにしながら罪の路を突き進んできたあげく、とうとう良心の呵責や痛みによって目を覚まされた者たちである。そこには、彼らにのしかかる邪悪な霊があり、お前のような者が救いを求めても望みはないと告げる。私たちの出会ったことのある人々の中には、自分が救われるくらいなら、悪霊どもが救われる方がましだとさえ考えるに至った人々がいる。彼らは、失われた者にとって何が最善かを自らに告げ、自分自身の死刑執行令状に署名する。そうした心理状態にあって、自分の手に絞首台を取っては、自分の不幸な人生を終わらせようとする。絶望は多くの人々を早まった死に至らせ、多くの短刀を研ぎすまさせ、多くの毒杯を調合してきた。この場に絶望している人がいるだろうか? その陰鬱な表情と、意気消沈した顔つきを見れば私にはわかる。その人は死にたいと願っている。地獄そのものでさえ、ここでそれをただ待っている苦悶にくらべれば、ほとんどましだろうと思うからである。そうした人に慰めの言葉を囁かせてほしい。絶望している魂よ! まだ希望するがいい。キリストは、「完全に救うことがおできに」なるからである。そして、たといあなたが絶望の城のどん底にある地下牢に投げ込まれていても、鍵また鍵があなたの上に回されてきたとしても、あなたの窓がいかなるやすりもはねかえしてきたとしても、あなたの牢獄の壁が恐ろしいほど高くて脱出など思いもよらないとしても、それでもあなたに告げさせてほしい。その《破滅》にいるひとりのお方だけは、あらゆる閂を打ち砕き、あらゆる錠前を打ち開くことができるのである。ひとりのお方だけは、あなたを神の自由の大気へと導き出し、あなたを救うことがまだできるのである。というのも、たとい最悪のことが起こっても、この方は、「完全に救うことがおできに」なるからである。

 4. さてここで、聖徒に対しても一言慰めの言葉を云いたい。この聖句は聖徒のものでもあるからである。福音にある愛する兄弟! キリストはあなたを完全に救うことがおできになる。あなたは災難によって非常に落ち込んでいるだろうか? あなたは家も、家庭も、友も、財産も失ってしまっただろうか? 思い出すがいい。あなたはまだ「完全の果て」に至ってはいない。あなたは窮地に立ってはいるが、今よりさらに悪化することはありえる。キリストはあなたを救うことがおできになる。そして、かりにあなたに襤褸切れ一枚、パンくず一かけら、水の一滴さえ残されていなかったとしても、それでも主はあなたを救うことがおできになるであろう。というのも、主は「完全に救うことがおできにな」るからである。誘惑についてもそれと同じである。もしあなたが、定命の人間が試みられた中でも最も激しい誘惑に遭うとしても、キリストはあなたを救うことがおできになる。もしあなたが、悪魔の足で首根っこを押さえつけられ、悪鬼から、「さあ、とどめをさしてやる」、と云われるような苦境に陥ったとしても、そのときも神はあなたを救うことができるであろう。左様。また、たといあなたが完全な弱さの極みの中で何年も暮らし、ついには杖にすがって、あなたの大儀な人生をよろめき歩くしかなくなっても、たといあなたがメトセラより長生きしても、あなたは完全の極みを越えて生きることはできず、そのときも神はあなたをお救いになるであろう。しかり。そして、あなたの小さな小舟がによって永遠という未知の海へと船出するときも、神はあなたとともにおられ、たとい陰鬱な暗黒のもやがあなたをすっぽり取り囲み、ほの暗い未来をあなたが見通せず、あなたの思いがあなたに向かって、あなたは滅びることになるのだと告げたとしても、それでも神は、「あなたを完全に救うことがおできになる」*であろう。

 ならば、愛する方々。もしキリストがキリスト者を完全に救うことができるとしたら、あなたは、キリストが、キリスト者を破滅するにまかせるなどと思うだろうか? どこへ行こうと、私が常に心底から抗議したいと願うのは、かの最も呪わるべき教理、聖徒が転落して破滅することになるという教えである。一部の教役者たちが宣べ伝えるところ、人は神の子どもではあっても、(さあ、御使いたち! 私がこれから口にすることを聞かないでほしい。だが、あなたがた、地獄の奥底にいる者たちは聞くがいい。これは、あなたの気に入る話であろう)、人は、きょう神の子どもではあっても、明日は悪魔の子どもとなることがありえるというのである。神はある人を無罪にしても、後からその人を罪に定めることがありえる――恵みによって救っても、その後で滅びるにまかせる――人がキリストの御手からもぎ取られるのを許されるというのである。そのようなことは決して起こらないとキリストが云っていようが関係ない[ヨハ10:28]。これを、あなたはいかに説明しようというのだろうか? 確かにこれは、決して力が欠けているためではない。あなたは、愛の足りなさということで神を非難するしかない。だが、あなたにそうする勇気があるだろうか? 神は愛に満ちておられる。そして、神には力もおありになる。ならば神は決してご自分の民のひとりたりとも破滅するのをお許しにはなるまい。神は彼らを完全に救うことがおできになる。このことは真実であり、いつまでも真実であり続けることである。

 III. さて最後のこととして、《イエス・キリストが「完全に救うことがおできになる」のはなぜだろうか?》 その答えは、主が「いつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられる」からである。ここには、主が死んだことが暗示されており、実際それは、救いをもたらす主の御力の大きな源泉である。おゝ! キリストが成し遂げられた偉大な驚くべきみわざを思い巡らすのは、何と甘やかなことか! そのみわざによって主は、「私たちの告白する大祭司」*[ヘブ3:1]となり、私たちを救うことがおできになるのである。カルバリの丘を振り返り、木の上で血を流しながら息を引き取っておられる姿を目にすることの何と快いことか。かの橄欖の茂みの間で、その愛に満ちた眼差しをうかがい、血の汗の滴をぽたぽたと流しておられる《人》の呻きを聞くのは、甘やかなこと、驚くばかりに甘やかなことである。罪人よ。もしあなたが私に、「どのようにしてキリストは私を救うことができるのですか」、と尋ねるなら、私はこうあなたに告げる。――主があなたを救えるのは、ご自分をお救いにならなかったからである、と。主があなたを救えるのは、主があなたの咎を引き受け、あなたの罰を忍ばれたからである。天来の正義を満足させることを抜きにして、いかなる救いの道もありえない。罪人が死ななくてはならないか、その罪人に代わってだれかが死ななくてはならないかである。罪人よ。キリストがあなたを救えるのは、あなたがキリストによって神に近づく場合、そのとき主はあなたのために死なれたからである。神は、私たちから取り立てるべき負債があり、決してその負債を免除なさらない。必ずそれを返済させずにはおかない。だがキリストがそれを支払っておられる。そのときあわれな罪人は自由になるのである。

 そして、私たちには、なぜ主が救うことがおできになるかという第二の理由が告げられている。単に主が死んだからだけでなく、生きて私たちのためにとりなしをしておられるからである。かつて十字架の上で死んだ《人》は生きておられる。そして、墓の中に葬られたイエスは生きておられる。もしあなたが私に、いま主は何をしているのかと尋ねるとしたら、私はよく耳を傾けるように命じる。聞くがいい。もしあなたに耳があるなら! あわれな悔悟した罪人よ。あなたは主のことばを聞いたことがないだろうか? 立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音色よりも甘やかな[黙14:2]、その御声を聞いたことがないだろうか? あなたは、このうっとりとするような声を引いたことがないだろうか? 聞くがいい! それは何と云っているだろうか? 「おゝ、わが父よ! 赦したまえ!」 何と! 主はあなたの名前をあげているのである! 「おゝ、わが父よ。彼を赦したまえ。彼は何をしているかわからなかったのです。彼が光と知識と警告に背いて罪を犯したことは確かです。彼は、故意にひどい罪を犯しました。ですが、父よ。彼を赦したまえ!」 悔悟する者よ。もしあなたに聞こえるとしたら、あなたは主があなたのために祈っているのが聞こえるであろう。そして、それこそ主が救うことがおできになる理由である。

 しめくくりとして、一言だけ警告と問いかけを語らせてほしい。最初に警告である。覚えておくがいい。神のあわれみには限界がある。私はあなたに、聖書から、主が「完全に救うことがおできになる」と告げてきた。だが、主の救いの目的には限度がある。もし私が聖書を正しく読んでいるとしたら、1つの罪だけは決して赦されることがありえない。それは聖霊に逆らう罪である。赦されていない罪人たち。その罪を犯すことがないように、おののくがいい。もし、聖霊に逆らう罪とはいかなることか、私の考えを云ってよければ、私はこう云わなくてはならない。すなわち、私の信ずるところ、それは人それぞれで異なる罪となることもあるが、多くの場合、聖霊に逆らう罪の核心には、自分の罪の確信を押し殺すことがある。話を聞いている方々。今晩の説教が、あなたの聞く最後の説教とならないように、震えおののくがいい。そうしたければ、この場を出てから、この説教者をあざ笑うがいい。だが、彼の警告を無視してはならない。ことによると、次にあなたがある説教を笑うとき、次にある祈りをあざけるとき、次にある聖句を軽蔑するとき、次にあなたが冒涜的な悪罵を口にするとき、神はこう云われるかもしれない。「彼は偶像どもに与えられる。彼のことは放っておけ。わたしの霊は、もはやあの男とは争わない。わたしは二度と決して彼には語りかけない」。これが警告である。

 そして今、最後に問いかけである。キリストは、これほど大きなことをあなたのためになしてくださった。あなたはキリストのために今まで何を行なってきただろうか? あゝ! あわれな罪人よ。もしあなたが、あなたのためにキリストが死なれたと知っているとしたら――そして、私は、悔い改めた人ならだれでも、そう知っているはずだと思うが――、もしあなたが、いつの日かあなたがキリストのものとなると知っているとしたら、今あなたは、キリストに唾を吐きかけようとするだろうか? もし神の日がいつかあなたの日となるのを知っているとしたら、あなたはそれを馬鹿にしようとするだろうか? キリストが今あなたを愛していて、その愛を徐々に明らかに示そうとしておられると知っているとしたら、あなたはキリストを軽蔑しようとするだろうか? おゝ! あなたがたの中のある人々は、キリストを知るとき自分を忌み嫌うであろう。なぜなら、あなたはキリストをしかるべく敬ってこなかったからである。主は、こうした輝かしい朝の1つに、あなたのもとにやって来て、こう仰るであろう。「あわれな罪人よ。わたしはあなたを赦している」。そして、あなたは主の顔を見上げて、云うであろう。「何と! 主よ。私をお赦しになるというのですか? 私はあなたを呪うの常としていました。あなたの民を笑いものにしてきました。キリスト教に関わるどんなことも軽蔑してきました。その私をお赦しになると?」 「しかり」、とキリストは云われる。「手をわたしに差し出すがいい。わたしは、あなたがわたしを憎んでいたときも、あなたを愛していた。ここへ来るがいい!」 そして、自分をこれほどまで愛してくださったお方に対して、自分がいかなるしかたで罪を犯してきたを考えることの半分ほども胸を引き裂くことはないに違いない。

 おゝ! 愛する方々。もう一度この聖句を聞くがいい。――「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」。私は決して雄弁家でもなければ、すぐれた弁舌を有してもいない。だが、もしそうした者であり、そうしたものを有しているとしたら、私は全心全霊を傾けてあなたがたに宣べ伝えるであろう。しかし私は、このような私でしかないため、ただ語り続けるしかない。私の知っていることをあなたに告げるしかない。もう一度こう云うしかない。

   「主に能力(ちから)あり、
    望み給う。 さらば疑い、去れよかし。
    来よ、渇く者。来て、迎(い)れられよ。
    神の代価(かた)なき 豊かさ誇れ。
    まことの信仰 まことの悔悟
    われらを近づく あらゆる恵み――
    金銭(あたい)なくして
    イェスに来て いのち購(あがな)え」。

というのも、イエス・キリストは「ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできにな」るからである。おゝ、主よ! 罪人たちを来させたまえ! 神の御霊よ! 彼らを来させたまえ! 甘やかに強いて彼らをキリストへ押しやり、私たちの言葉がむなしくならず、私たちの労苦が失われないようになさせたまえ。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

完全なる救い[了]

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