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序 文

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 生ける神の、選ばれたしもべたちによってなされる《みことばの宣教》は、選びの民を集める定めの手段である。読まれたみことばよりも、聞かれたみことばにこそ、約束は伴っている。だからこそ、福音を宣べ伝える教会に敬虔な心で出席することは重要なのである。それにもかかわらず、私たちを助けてこうした《説教》を語らせてくださった聖霊は、疑いもなく、私たちがそれらを本巻で送り出そうとする今も、その天来の助けを与えることがおできになるに違いない。

 これらの《説教》については、すでにこれ以上ないほどの賛辞が寄せられてもいれば、ありとあらゆる辛辣な批判が語られてもいる。幸いなことに著者は、悪口の種が尽きてしまうのを聞いてきた。その語彙が使い果たされ、その毒の最後の一滴まで完全にしぼり出されたのを見てきた。だがしかし、印刷された講話は、まさにそうした理由によって、より順調な売れ行きを見せ、いやまして多くの人々がそれらを熟読玩味すべく導かれたのである。

 本書には、いかなる人にも軽蔑できない点が1つある。――そして、それがあまりにも見事なものであるため、この説教者は人間の意見など歯牙にかけようとは思わない。――すなわち、彼が確実に見聞きしてきたように、これらの《説教》のほとんど1つとして、《全能者》の御手によって、魂の回心という証印を押されなかったものはない、という事実である。ここでその兄弟たちとともに仲良くおさめられている説教の中には、神のもとにあって、それだけで二十人は下らない人々を救う手段となってきた説教が何編かある。1つの《説教》だけで、少なくともそのくらいの人数が説教者の目にとまったのであり、最後の審判の日には、より多くの人数が見いだされるであろう。

 こうしたことを思うとき――何千何百人もの神の子らが、こうした説教の使信によって踊り上がるほど喜ばされているという事実とあいまって――、その《著者》は、批判にも悪口にも動じはしない。

 間違いなく私たちは、通例の説教様式から逸脱してきた。だが私たちは、そうしたことについて、片言隻句も弁解しなくてはならないとは感じない。真理を心に説き教えるだろうような語り口なら、いかなるものも自由に用いて良いと信ずるからである。

 その内容もまた、決して少なからぬ論争の種を提供するであろう。だが、それについて私たちは単純にこう云うものである。私たちは人間たちの学び舎ではない学び舎で神学を学んだので、私たちは常に、主が私たちに教えてくださることをすべて、種々の人間的な意見など待つことなどせずに宣言したいと希望する、と。

 本書では、しばしばカルヴァン主義という言葉が、救いをただ恵みによるものとして教える部分にあたる天来の真理を包括する短い単語として用いられている。だが、だからといって私たちが、ジャン・カルヴァンの意見に何か特別な権威を付与していると想像すべきではない。カルヴァンの意見には、神からその真理を宣言するよう任命された、あらゆる聖徒にふさわしいのと同じだけの重みしかない。私たちがカルヴァン主義という言葉を用いるのは、単に表現の簡潔さのゆえであり、そうするときに、無代価の恵みの敵たちは、私たちの意味するところを完全に確信するだろうからである。私の堅く信ずるところ、カルヴァン主義という呼び名で通っているものは、清教徒たち、殉教者たち、使徒たち、そして私たちの主イエス・キリストが説いた古くて純良な福音にほかならず、それ以上でもそれ以下でもない。

 本巻において、高慢な律法主義者や、何の助けも受けない人間の力にうぬぼれている信者や、自らを称揚する道徳家たちは、自分の腐敗した好みにかなうものをほとんど発見せず、敵意をかき立てるものを大いに発見するであろう。だが、へりくだらされた罪人は、おそらく慰めの言葉を見いだし、自らを忌み嫌う信仰者はことによると自分の主を垣間見ることになるであろう。

 私たちが望みとするのは、こうした論議において、より劣る問題ではなく、「王について私たちの語ったもの」*[詩45:1]が重要視されることである。イエスは真理である。私たちは主を信ずるのである。――ただ単に主のことばを信ずるのではない。ご自身が《教師》であり《教理》である。《啓示者》であり《啓示》である。《照明者》であり《人の光》である。主は真理のあらゆる言葉において称揚されている。主こそ、その精髄であり実質であられるからである。主は、君主が自分の玉座に座しているように、福音の上に座っておられる。教理が最も尊く見えるのは、それが主の御口からしたたり、主のご人格において実体化するときである。説教の値打ちは、それが主について語り、主を指し示す度合に比例する。キリストから離れた福音は何の福音でもなく、キリストを抜きにした講話は、悪霊どもの歓楽の種である。願わくは、私たちを常に教え導くお方であられる聖霊、私たちが崇拝しつつ信頼するお方が、イエスについていやまして教えてくださり、ついには私たちが、すべての聖徒とともに、イエスの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるようになるように[エペ3:18]。イエス、イエス、イエスをこそ、私たちはほめたたえようとしてきた。願わくは主ご自身が、私たちの努力を実らせてくださるように。

 ことによると、読者は、ここで公にされた意見のいくつかが相当に発展していることに気づくかもしれない。特に、私たちの主の《再臨》の教理の場合がそうである。だが読者も思い出すであろうように、真理を学んでいる者はそれを段々に学んでいくのであり、もしその人が自分の学びと平行して教えているとしたら、その人の教えは日ごとに充実したものとなるはずである。

 またここには、微笑みを浮かべさせるような多くの云い回しも含まれている。だが、思い出してほしい。あらゆる人は、明るく陽気な気分に身をまかせれば楽しい時を過ごすものである。説教者も同胞の人々と同じ感情を持つことを許されなくてはならず、説教者が最も生き生きとするのは他ならぬ講壇上である以上、講壇では説教者の人格全体が明らかに示されるのが自然である。それに、この説教者は、微笑みが罪であるとはあまり確信しておらず、いずれにせよ、一瞬の笑いを引き起こす方が、半時間の熟睡を引き起こすよりも罪としては軽いと思う。

 いかなる欠点があるにせよ、購入者は本書を買ってしまったのである。そして、これが完璧な本であると保証されてはいなかった以上、この本についてどう悪く思うとしても、その人は、自分の買い物を最善に役立てるようにしなくてはならない。――そのためには、本書を読むことで自分に祝福があるように願い求めるか、自分の友たるこの説教者により大きな光が与えられるように乞い願うことである。

 植字工については、大きな斟酌を求めなくてはならない。《著者》は、誤植について彼を十分に叱責している。それで公衆はそれを大目に見ることができよう。――特に、これらの《説教》が毎週毎週、何千人もの熱心な購読者のために急いで印刷されているからにはそうである。

 ここで了解してほしいのは、今後特に断りのない限り、いかなる《説教》も、『ニューパーク街講壇』という題名を冠しているか、「アラバスター&パスモア」という名か、「スポルジョン氏公認」の言葉を付したものでない限り、純正なものでないということである。このようにするのは必要に迫られてのことである。さもないと、私たちの校閲や認可を受けもしない出版物が宣伝され、どれが私たちのもので、どれが他のものか、だれにも区別がつかなくなるからである。

 恵みと、あわれみと、平安がすべての聖徒たちとともにあらんことを。

イエスにあって彼らのしもべたる
C・H・スポルジョン

1856年1月


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