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序 文

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 ニューパーク街会堂の建て増し中、エクセター公会堂が礼拝式のために確保できなくなったとき、王立サリー公園内の《音楽堂》が礼拝式のために予約された。これは、その当時、人気のある娯楽場であり、キリスト教の礼拝式をそのような場所で行なうのはきわめて異例のことであった。

 第一回目の礼拝式の間、明らかに悪人たちの策謀による混乱が生じた。狙いすました時に、その建物内で「火事だ!」との叫び声が口々に発され始め、出口という出口に向けて人々の殺到が起こったのである。七名の人が人波に踏みつぶされて死に、スポルジョン氏は精神的、情緒的な衝撃を受けて心を取り乱し、数週間経った後でなければ、再びその講壇に戻ることはできなかった。しかし、彼はそこに戻り、一層多くの群衆を引き寄せては、その《音楽堂》で話を聞かせることとなった。

 《エベン・エゼル!》 ここまで主が私たちを助けてくださった[Iサム7:12]。まことに筆者はそう云ってよいであろう。事実、彼は、先に進んで二言三言序文を書き記す前に、自分が書くことができるということ自体について、心からの感謝を表わすものである。彼の脳裡には、途方もなく悲痛な困難がのたうち回っていた。彼ははなはだしく意気阻喪していた。彼の悲嘆に暮れた歌は、しばらくの間、次のようなものであった。

   「立ち返りませ、わが魂(たま)に、
    汝が救いをば もたらして。
    いつなるか、汝が わが足を
    死の縄目より 救うるは。

    思い乱るる わが思い
    深むほかなし わが災禍(まが)を。
    わが魂(たま)は萎(な)え、わが心
    荒れてわびしく よどむなん」。

しかし今は、あわれみによって立て直されたことにより、彼は再び主の恵みを歌うことができ、主の真実を代々限りなく知らせることができる[詩89:1]。このように健康と活力を一新された以上、さらに力を奮い、清新な感謝をささげないわけにはいかない。願わくは、天来の恵みが私たちを一方へと向かわせ、天来の愛がもう一方へと追い立ててくれるように。

 読者の方々。私たちは、自己中心からではなくこう云うものである。「私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう」[詩34:3]、と。

 主のご加護により私たちが新しい年を迎え、第二巻を完成することが許されたのは、非常な感謝のもとである。主の支え給う恵みに栄光が代々限りなくあるように。主イエスが年々歳々その御民を保ち給う驚異に満ちた恵みを、あるに甲斐なきこの者らの口が、いかにして余すところなく述べられるだろうか。特に、彼らが友人からも敵たちからも、外側からも内側からも、成功からも悲嘆からも、危険にさらされているときには、いかにしてそうできるだろうか。主のしもべらが、主の右の御手の中に守られ、その敵たちのなすがままにまかされなかったことについては、すべての栄光が主にのみあらんことを。心弱い聖徒たちは勇気を奮い起こすがいい。私たちをここまで守ってくださったお方は、将来私たちが必要を覚えるときにも私たちを見捨てることはなさらないであろう。

 これらの説教では、先の年に私たちが教えたのと同じ諸教理が繰り返されている。私たちは、「幸いの昔からの通り道」*[エレ6:16]を信ずる自分の信仰を揺るがすようなものには、何1つ出会わなかった。むしろ、多くの事がらにより、断固たる心と決然たる霊をもって、いやでも主のことばに堅くしがみつくようにさせられてきた。福音の純粋な真理が、私たちの間でより完全に受け入れられる時が来ればどんなに良いことであろう。私たちの伝道活動は1つの証しである。それは、大衆を奮い起こし、魂を救うには、いかなる新神学も必要ないことを証ししている。私たちは、英国中の《否定的な神学者》に向かって挑戦したい。彼らの伝道活動の証拠となるものを、私たちのそれと同じくらい多く示してみよ、と。自慢するには愚か者でなくてはならないとしても[IIコリ11:17]、私たちは、昔からの諸教理が勝利をもたらすものであること、御霊なる主がそれらに最も著しい栄誉を与えておられることを誇らずにはいられない。私たちは、私たちの話を聞こうとしてやって来る圧倒的な数の、増大し続ける群衆を、この件における証拠として引き合いに出しはしない。だが、これほど多くの人々をキリストの御腕の中に導き、これほど多くの人々を地下牢から引き上げたことについて、私たちは福音の力を誇りとしているし、これからも誇るであろう。昔ながらの《福音》は、それが宣布されてきた至る所で、最悪の人々の中からその戦利品を獲得してきたし、私たちもその規則の例外ではない。主に刺し殺される者は多かった[イザ66:16]。主の矢はその敵たちの心臓に突き刺さってきた。多くの者らが聖霊によって打ち倒され、最終的には、イエスの血によるいのちと癒しを見いだすべく導かれた。私たちの聖なるキリスト教信仰が真理であることを示す最上の証拠は、それが生じさせる驚異的な効果に見いだされるであろう。酔いどれや、売女や、悪態つきや、盗人や、嘘つきや、そういった類の人々が矯正され、新生させられ、真理の冠を飾る宝玉となっているのである。そうした者たちについて、私たちは確信をもってこう云わなくてはならない。「いかなることを神はなされたのか」[民23:23 <英欽定訳>]、と。もしこうした成果が、単に学識ある雄弁な伝道活動にのみ結びついていたとしたら、それは真理にではなく人間に帰されるであろう。だが、この場合、私たちの敵たち自身が勇んで証人となるように、そうした説明をつけるわけにはいかない。神は、ご自分の宝を土の器の中に入れ、この測り知れない力が全くご自分に帰されるようにしておられる[IIコリ4:7]。私たちは、私たちをおとしめるために口にされているあらゆることが真実であると告白したい。そうすることによって私たちは、器の中でも最も小さな器によって、この上もなく大きなご自分の愛の働きを行なっておられる神の恵みをあがめることになるからである。おゝ、純粋な教理が真剣に、力強く、御霊の力の現われ[Iコリ2:4]とともに宣べ伝えられる時代が来れば何と良いことか。――そうした時代を私たちは待ち望むものである。願わくは主が、みこころの時にそうした時代を送ってくださるように。

 これらの説教が出版されている形式は、広範囲な流布を確保するものではあっても、著者が望むだけの校正を行なわせないという不都合がある。それらはしばしば、著者がざっと目を通しただけで刊行されたものであって、その結果、文法上の間違いは多く、表現上の誤りさえ少なくはない。それにもかかわらず、私たちは読者の方々の判断に信頼するものであり、意味をあいまいにしたり、根本的な部分で人を誤り導いたりするような過ちはないものと望みたい。私たちは、主がそれらを善のため役立てておられるのを見ており、それらを全く差し止めるよりは、いくら間違いがあっても送り出したいと願ったのである。

 有能な速記係であるリードおよびロビンソンの両氏は、称賛に値する仕事をしている。彼らは卓越した手際によって、早口で飛躍の多い語り手の言葉をほとんど漏れなく書き留めることができているからである。また私たちは、植字工たちについては次のようにしか云えない。彼らはその仕事を迅速かつ低賃金で行なっており、私たちが絶え間なく各地へ出向いている事実から直面せざるをえない困難を思えば、定命の人間に可能な限り誤植の少ないものとしている、と。

 昨年なされた説教は、米国においても、非常に広範囲に流布してきた。合衆国では、ある巻が再版され、短期間の間に二万部に達した。天来の祝福があるとき、いかに大きなことが成し遂げられうることか。だが、それなしには、努力と機会がいかに恐ろしく浪費されることであろう。

 そして今、読者の方々。もしあなたが新しくされた魂であるとしたら、私たちの契約の神があなたを養い、あなたを守り、あなたを完全な者としてくださるように。また、キリストにあるあなたの兄弟の言葉が、あなたにとって、ささやかな慰めと建徳の手段となるように。私たちは希望するものである。私たち双方を愛しておられるのは同じ主であり、この主が私たち全員を御霊の一致および愛の絆で結び合わせてくださるように、と。

 しかし、もしあなたが不敬虔な人であるとしたら、この巻の最後の言葉を見て、それを考えてみるがいい。そして、願わくは《救い主》イエスが、ご自分に立ち返り、救われる恵みをあなたに与えてくださるように。

かく熱心に祈り、かつ
福音においてあなたに仕える

  C・H・スポルジョン
  ロンドン、1857年1月



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