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立ち返るか、焼かれるか

NO. 106

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1856年12月7日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「神は……悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定める」*。――詩7:12


 「神は……悔い改めない者には剣をとぎ」。ということは、神は剣を持っており、人をその不義ゆえに罰されるのである。この悪い世代は、神からその正義の剣を取り去ろうと苦心してきた。神が「罰すべき者を赦す」こと、決して「咎とそむきと罪を罰さない」ことを、自分たちに対して証明しようと努めてきた。二百年前、講壇の圧倒的な基調は恐怖であり、それはシナイ山のようであった。それは、神の恐るべき御怒りを轟かせており、バクスターやバニヤンのごとき者らの口から聞かされるのは、この上もなく恐ろしい説教で、来たるべき審きについての警告が満ち満ちていた。ことによると、清教徒の父祖たちの中には行き過ぎをして、自分の牧会活動において、主を恐れることを際立たせすぎていた者もあったかもしれない。だが、私たちが生きている時代は、そうした恐怖をことごとく忘れ去ろうとしており、もし私たちが人々に向かって、神は彼らの罪ゆえに彼らを罰するであろうと告げでもすると、それは人々を脅して入信させることだと非難され、もし私たちが自分の聴衆に向かって、忠実かつ誠実に、罪は確実に破滅をもたらさざるをえないと告げると、それは人々を脅迫して善人にさせようとすることだと云われるのである。さて、私たちは、人々があざけりながら私たちの非に帰そうすることを意に介するものではない。人々に対して、罪を犯せば罰されることになると告げるのは、私たちの義務であると感ずるし、世がその罪をやめない限り、私たちの警告をやめてはならないと感ずるものである。しかしこの時代は、神はあわれみ深く、神は愛である、と大合唱している。左様。そうではないなどとだれが云っただろうか? しかし覚えておくがいい。それと等しく真実なことは、神が義であり、厳格かつ不撓不屈に正しくあられる、ということである。もし神が正しくないとしたら、神は神ではないであろう。もし神が正しくないとしたら、神はあわれみ深くあることができないであろう。というのも、悪人を罰することは、その他の人々に対する最高のあわれみによって、要求されているからである。しかしながら、このことは確実であると思うがいい。すなわち、神は正しくあられ、私が神のことばからあなたに読み上げようとしている言葉は真実である、と。――「悪者どもは、地獄に入って行く。神を忘れたあらゆる国々も」[詩9:17 <英欽定訳>]。「神は悪人に対して、日々、怒る神」[詩7:11 <英欽定訳>]。「悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。」[7:12-13]。もちろん、この時代はよこしまであるため、いかなる地獄も認めたがらない。また、それは偽善的であるため、そらぞらしい罰しか信じたがらない。こうした教理が蔓延しすぎているため、福音の教役者たちさえ、御怒りの日[ロマ2:5]を宣言するという自分の義務から尻込みするほどである。来たるべき審きについて厳粛に告げようとする者は、何と僅かしかいないことか。彼らは神の愛とあわれみについては、しかるべきしかたで、神が命じておられる通りに宣べ伝える。だが、悪人の破滅をも宣べ伝えるのでない限り、あわれみを宣べ伝えても何の役に立つだろうか? また、人々に対して、「神が、悔い改めない者には剣をとぐ」*ことを警告するのでない限り、説教の目的を果たすことなど、いかにすれば期待できるだろうか? 残念ながら、あまりにも多くの場所で、未来の刑罰という教理は排斥され、お伽噺か妄想として笑いものにされているのではないかと思う。だが、やがて来たるべき日には、それが現実であることが知られるはずである。アハブは、二度と生きて家に帰れないでしょう、と彼に告げたミカヤをあざけった。ノアの時代の人々は、この愚かな老人(と彼らは思っていた)が、用心するがいい、世界が水没するぞと命じたとき、彼をあざ笑った。だが、自分たちが木のこずえにしがみつき、洪水が彼らの後を追ってきたとき、あんな預言など本当ではない、と云っただろうか? また、かの矢がアハブの心臓に突き刺さり、「戦いから連れ出してくれ。死んでしまう」、と彼が云ったとき[I列22:34参照]、ミカヤは自分に本当でないことを告げたのだと思っただろうか? そして、そうしたことは今も変わってはいない。あなたがたは、私たちが来たるべき審きについて警告すると、それは嘘だと云う。だが、災いがあなたを見舞い、破滅があなたを圧倒するとき、あなたは、そのときも私たちが嘘つきだと云うだろうか? あなたがたは、そのときも向き直って嘲り、私たちが真実を語っていないと云うだろうか? むしろ、そのときには、だれよりも忠実に、神の御怒りについて人々に警告してきた者にこそ、最高に栄誉ある報酬が与えられるであろう。私がしばしば思うだに身震いすることがある。ここに私は、あなたの前に立って、伝道活動のわざに絶えず携わっているが、もし私が死んだときに、あなたの魂について不忠実であったことがわかったとしたら、霊の世界における私たちの再会はいかに陰惨なものとなるであろうか。もしあなたが、来たるべき世において、私に対してこう云えるとしたら、それは恐ろしいことになるであろう。「先生。あなたは私たちにへつらいましたね。あなたは私たちに、永遠がいかに厳粛なものか告げてくれませんでしたね。あなたは神のすさまじい御怒りについて、しかるべく詳しく語ってくれませんでしたね。あなたは私たちに、かぼそく、かすかにしか語りませんでしたね。あなたは私たちのことをこわがっていたのですね。あなたは私たちが永遠の苦悶について聞くのに我慢できないと知っていたので、それを押し隠し、一度もそれに触れなかったのですね!」 何と、もし私がそのようにふるまってきたとしたら、あなたは私をまっこうから見据えて、永遠に私を呪うだろうと思う。しかし、神の御助けによって、そのようなことは決してないであろう。私は、いざ死ぬときが晴れても降っても、神の御助けによって、こう云えるはずである。「私はいかなる人の血についても、責任はない」。私は、自分の知る限りの神の真理を語るように努めるであろう。そして、たといこの頭に現在の十倍もの汚名と醜聞が注ぎかけられるとしても、私は、この心定まらない世代に対して忠実であり、神に対して忠実であり、私自身の良心に対して忠実であることができさえすれば、それを喜んで迎え入れるであろう。ならば、私は――力を尽くして――また、神の御助けにより、自分にできる限りの厳粛さと優しさを込めて――あなたがたの中の、まだ悔い改めていない人々に語りかけることにしよう。最も愛情深く、あなたが悔悟しないまま死ぬ場合の、あなたの将来の破滅を思い起こさせるようにしよう。「神は、悔い改めない者には剣をとぐ」*。

 第一のこととして、ここで意味されている悔い改めとは何を意味しているのだろうか? 第二のこととして詳しく語りたいのは、人が悔い改めるべき必要である。それがなければ、神は人を罰するのである。そして第三にあなたに思い起こさせたいのは、人は、いかなる手段によって、自分の道について悔い改めさせられ、自分の性質の弱さともろさを、天来の恵みの力によって改めさせられるか、ということである。

 I. 第一のこととして、話をお聞きの方々。あなたに説明しようと思うのは、《ここで意味されている悔い改めの性質》である。この箇所は云う。――「神は、悔い改めない者には剣をとぐ」*。

 まず手始めに、ここで意味されている悔い改めは、現実のものであって、想像上のものではない。――約束や誓いにとどまるものではなく、人生の実行動に関わるものである。もしかすると、あなたがたの中のだれかは今朝、こう云っているかもしれない。「では、私は悔い改めて神に立ち返ることにしよう。これからは、罪を犯すまい。聖さのうちを歩くように努力しよう。これまでの悪徳とは手を切ろう。色々な罪悪はすっぱり断つことにしよう。そして、心底から神に立ち返ろう」。だが、ひょっとして明日になると、あなたはこのことをきれいに忘れ去っているかもしれない。あなたは、神のことばの説教の下では涙を一粒か二粒こぼすであろう。が、明日には、涙はみな乾いており、神の家に来たことすら忘れ果てているであろう。あなたがたの中のいかに多くの人々が、自分の顔を鏡で見ても、立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまう人[ヤコ1:23]に似ていることであろう? あゝ! 話をお聞きの方々。あなたを救うのは、悔い改めますというあなたの約束ではない。決してあなたの誓いや、あなたの厳粛な宣言や、朝露が太陽によって乾くよりも簡単に干上がる涙や、心のはかない情緒が、神に対する真の悔い改めを成り立たせるのではない。そこには、真に、また現実に罪を捨て去ることがなくてはならない。また、日常生活の実行動と実行為において、義に立ち返ることがなくてはならない。あなたは、自分が悲しんでいる、悔い改めていると云いながら、これまでずっと歩んできた通りの生き方を日々続けているだろうか? あなたは、今は自分の頭を垂れて、「主よ。私は悔い改めます」、と云いながら、ほんのしばらくすると、同じ行為を犯すだろうか? だとすると、あなたがたの悔い改めは、全然悔い改めないよりも悪く、あなたの滅びをずっと確実なものにするほかない。というのも、自分の《造り主》に誓いを立てて、それを果たさないのは、罪の上塗りであり、それは《全能者》を欺こうとしたこと、自分をお造りになった神に対して嘘をつくことになるからである。悔い改めが真実なもの、福音的なものであるとしたら、私たちの外的なふるまいに本当に影響を与える悔い改めでなくてはならない。

 次のこととして、悔い改めが確実なものであるためには、全面的でなくてはならない。いかに多くの人々がこう云うことであろう。「先生。私はこの罪とあの罪は放棄します。ですが、いくつかの最愛の情欲だけは、どうしても手放せません。捨てられません」。おゝ、方々。神の御名によって、あなたに告げさせてほしい。真の悔い改めとは、罪を1つだけやめることではない。罪を五十やめることでもない。それは、あらゆる罪を厳粛に放棄することである。もしあなたが、こうした呪われた毒蛇を一匹でも胸の中に住まわせておくとしたら、あなたの悔い改めは欺瞞でしかない。もしあなたが、たった1つを除きあらゆる情欲を捨てたとしても、その情欲にふけっている限り、それは、船に空いた一箇所の漏れ口のように、あなたの魂を沈没させるであろう。表向きの悪徳を捨て去るだけで十分と思ってはならない。あなたの人生の、腐敗しがちな罪を切り捨てるだけで事足りると考えてはならない。神が要求しておられるのは、すべてか無かである。「悔い改めよ」、と神は云われる。そして神は、悔い改めるようあなたに命ずるとき、あなたのあらゆる罪について悔い改めるよう意図しておられる。さもないと、神があなたの悔い改めを真に純粋なものとして受け取ることは決してありえない。真に悔悟した者は、個々の罪ではなく、罪という種族全体を憎む。――部分部分ではなく、全体を憎む。その人は云う。「お前がいかに自分を飾り立てても、おゝ、罪よ。私はお前を忌み嫌う! 左様。お前が快楽で身を包み、さながら藍色の鱗をまとった蛇のように派手な姿に見せかけても――それでも私はお前を憎む。というのも、私はお前の毒液を知っているからだ。私は、お前が最も美しい衣を装って私のもとにやって来るときでさえ、お前からは飛びすさる」。あらゆる罪が捨てられなくてはならない。さもないければ、決してキリストを有することはない。そむきの罪というそむきの罪が放棄されなくてはならない。そうしない限り、天国の門はあなたの前に閉ざされているしかない。では覚えていよう。悔い改めが真摯なものであるためには、全面的な悔い改めでなくてはならない。

 さらに、「神は、悔い改めない者には剣をとぐ」*、と云われるとき、即座の悔い改めを意味しておられる。あなたがたは、この定命の人生の末期に近づきつつあるとき、また、かの未来の分厚い暗闇の境界に入りつつあるとき、そのときには、自分の道を変えようと云う。しかし、話をお聞きの愛する方々。自分を欺いてはならない。罪にいろどられた長い人生の後で変われた人は、ほとんどいない。「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか」[エレ13:23]。それができるとしたら、悪を行なうことに慣れきった人も、善を行なうようになれるであろう。あなたは、臨終の床で行なうつもりの悔い改めなどに、決して信頼を置いてはならない。健康なときに悔い改めない人が、病になったときに悔い改める可能性は万に1つあるかないかである。あまりにも多くの人々が、世を去る前の静かな時に、自分の顔を壁に向け、自分のもろもろの罪を告白しようと心に期してきたが、いかに僅かな者しか、そうした安らぎの時を見いだせなかったことか! 人々は町通りで――左様。神の家においてさえ――ばったり倒れて急死しないだろうか? 仕事の途中で息を引き取らないだろうか? そして、死が徐々にやって来るときでさえ、それは悔い改めには不都合な時期にしかならないものである。多くの聖徒たちが、その臨終の床でこう云ってきた。「おゝ! もし私がいま私の神を求めなくてはならないとしたら、もし私がいま神に向かってあわれみを叫び求めなくてはならないとしたら、私はどうなっていただろうか? この苦痛は、悔い改めの苦痛がなくても十分だ。肉体が苦悶するだけで、魂の呵責によじられなくとも十分だ」。罪人よ! 神は云っておられる。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め……た」[ヘブ3:7-9]。聖霊が人々に罪を確信させるとき、彼らは決して後にしようなどとは語らないものである。あなたには、悔い改めるべき日が二度と与えられないかもしれない。それゆえ、知恵の声は云うのである。「いま悔い改めよ」、と。ユダヤ教のラビたちはこう云っていた。「いかなる人も、自分が死ぬ日の前日に悔い改めるべきである。そして、いかなる人も明日死ぬかもしれない以上、自分の悪の道からきょう立ち返るように用心すべきである」。それと全く同じことを私たちも云いたい。即時の悔い改めこそ、神が要求しておられることである。というのも、神はあなたに、今あなたが有している時のほか、いかなる時をも悔い改めの時としては約束しておられないからである。

 さらにここで絶対に必要であると述べられている悔い改めとは、心からの悔い改めである。これは空涙ではない。哀しみの旗を掲げながら、実は心の中で陽気なお祭り騒ぎをしていることではない。内側では照明を煌々とつけながら、見せかけの悔い改めによって、窓という窓を閉ざしているようなことではない。それは心の中の燭台を吹き消すことである。魂の悲しみこそ真の悔い改めである。人はあらゆる外的な罪を放棄しながら、本当には悔い改めていないことがありえる。真の悔い改めは、生活だけでなく、心の向きを変えることである。魂全体を神に明け渡し、永遠に神のものとすることである。生き方の罪悪だけでなく、心のもろもろの罪をも放棄することである。あゝ! 話をお聞きの愛する方々。私たちはひとりとして、偽りの、空想上の悔い改めしかしていないのに、自分が悔い改めたなどと思い込まないようにしよう。だれも、あわれな人間性のしわざでしかないものを、御霊のみわざと取り違えないようにしよう。自分が自分に向き直ったにすぎないかもしれないときに、救いに至るしかたで神に立ち返ったなどと夢想しないようにしよう。そして、1つの悪徳から別の悪徳に移るだけで、あるいはその逆を行なうだけで十分だなどと考えないようにしよう。それは魂全体が立ち返り、古い人がキリスト・イエスにあって新しくされることでなくてはならない。さもなければ、私たちはこの聖句の要求に応えたことにはならない。――私たちは神に立ち返ってはいない。

 そして最後にこの点がある。この悔い改めは、永続的なものでなくてはならない。私がきょう神に立ち返ることが、私を真の回心者とするのではない。それは、私が全生涯を通じ、墓に眠るそのときまで、自分の罪を捨て去ることである。一週間だけ高潔にしていれば、自分が救われた証明になるなどと思い描くべきではない。それは永続的に悪を忌み嫌うことである。神がもたらされる変化は、はかない変化でも、うわべだけの変化でもない。雑草の上側だけを切り取るのではなく、それを根こぎにすることである。一日だけ埃を払うのではなく、その汚れの原因となるものを取り去ることである。古代の富裕で気前の良い王侯たちは、自分の町々に来たとき、泉から乳と葡萄酒を流れ出させたという。だが、その泉は、それゆえに常に乳と葡萄酒の泉になったわけではなかった。翌日には、以前と同じ水が流れていた。そのように、あなたもきょう家に帰れば、祈るふりをするかもしれない。きょうは真剣になるかもしれない。明日も正直になるかもしれない。翌日も敬虔なふりをするかもしれない。だがしかし、もしあなたが、聖書の記す通り、「犬が自分の吐いた物に戻るように、また、豚が身を洗って、またどろの中にころがる」*[IIペテ2:22]ようになるとしたら、あなたの悔い改めは、あなたの心の中に天来の恵みがある証拠どころか、あなたを地獄により深く沈めることにしかなるまい。

 律法的な悔い改めと、福音的な悔い改めの区別をつけるのは、非常に困難である。しかしながら、それらを見分けるいくつかの目印がある。そして、あなたを退屈させる危険がないわけではないが、私たちは、そのほんの1つか2つに注意してみたい。そして、願わくは神が、あなた自身の魂の中に、それらが見いだされるようにしてくださるように! まず、律法的な悔い改めは、罪に定められることを恐れるが、福音的な悔い改めは、罪を犯すことを恐れる。律法的な悔い改めによって私たちは、神の御怒りを恐れるようになる。福音的な悔い改めによって私たちは、その御怒りを招く原因、すなわち罪を恐れるようになる。人は、御霊なる神によって内側にもたらされた悔い改めの恵みによって悔い改めるとき、その行為に続く刑罰を悔やむのではなく、行為そのものを悔やむ。そしてその人は、たとい悪人のために掘られた穴がないとしても、たとい永劫に食い入るうじがおらず、消えない火がないとしても、それでも罪を憎む。このような悔い改めこそ、あなたがたの中のあらゆる人が持たなくてはならない悔い改めである。さもなければ、あなたは失われるであろう。それは罪に対する憎しみでなくてはならない。あなたは、いざ死の間際に来たときには、永遠の苦悶を恐れるであろう。だが、だからといって、それが悔い改めだ、と考えてはならない。どんな盗人も監獄を恐れるものだが、釈放されさえすれば、明日も盗みを働くであろう。殺人を犯したほとんどの人間は、絞首台を見ると身震いするが、生きることができさえしたら、同じ行為を行なうであろう。悔い改めとは、刑罰に対する憎しみではない。その行為そのものに対する憎しみである。あなたは、そのような悔い改めを有していると感じているだろうか? 感じていないとしたら、この雷のごとき言葉は、もう一度あなたに宣べ伝えられなくてはならない。――「神は、悔い改めない者には剣をとぐ」*。

 しかし、ここでもう1つ示唆したい。ある人が真の福音的な悔い改めを有するとき、――すなわち、魂を救う福音の悔い改めを有するとき、――その人は罪をそれ自体として憎むばかりでなく、罪を極度に徹底して忌み嫌うがゆえ、自分のいかなる悔い改めをもってしても、それを洗い落とすことはできないと感じ、ただ主権の恵みによらなければ、自分の罪を洗い落とすことはできないと認める。さて、もしあなたがたの中のだれかが、自分は自分のもろもろの罪を悔い改めていると思っていながら、聖い生き方を送ることによって、それらを拭い去ることができると想像しているとしたら、――もしあなたが、今後は高潔な歩みをすることによって、自分の過去のそむきの罪を抹消することができると思っているとしたら、――あなたはまだ真に悔い改めてはいない。というのも、真の悔い改めは、人をこのように感じさせるからである。

   「燃ゆる熱心(おもい)も
    たぎつ涙も
    罪あがなえじ
    主のみ救わん」。

だが、もしそれがあなたの中で完全に殺されてしまい、あなたがそれを腐敗した、忌むべきものとして憎み、あなたの目の前から葬り去ってしまいたいと願うほどになるが、キリストがその墓を掘ってくださらない限り、それが決して墓に入れられることはないと感ずるとしたら、そのときあなたは罪を悔い改めているのである。私たちは、へりくだってこう告白しなくてはならない。私たちは神の御怒りに値し、私たち自身のいかなる行ないによっても、その御怒りをそらすことはできず、私たちは自分の信頼をただ、イエス・キリストの血潮と功績にだけ全く置かなくてはならない、と。もしあなたがたがそのように悔い改めていないとしたら、やはり私たちはダビデの言葉を叫ばなくてはならない。神は、悔い改めない者には剣をとぐ」*。

 II. さて今、第二の点となるのは、詳しく述べるのがさらに恐ろしいことである。そして、もし私が自分自身の感情に伺いを立てたとしたら、私はそれに言及しないであろう。だが、私たちは、人体の医者である場合と同様、伝道活動においても、自分の感情に左右されるべきではない。時には手術刀を用いなくてならない。それなしには壊死に至ると感ずる場合はそうである。往々にして私たちは、御霊が人々をいのちに至らせてくださると期待しつつ、彼らの良心に鋭い深傷を負わせなくてはならない。そこで私たちはこう主張する。神には、人々が悔い改めない場合、その剣をとぎ、彼らを罰すべき《必要》がある、と。アーネスト・バクスターはこう云うのを常としていた。「罪人よ! 立ち返るか、焼かれるか。あなたには、この2つに1つしかない! 《立ち返るか、焼かれるか!》」 そして、まさにその通りである。私たちは、人々が立ち返らない場合、焼かれるしかないという理由をあなたに示すことができると思う。

 1. 第一に私たちは、聖書の神が罪を罰さないままにしておけると想像することはできない。人によっては、自分の知性に夢を見させ、正義を抜きにした神なるものを想定するほど酔いしれた状態にしてしまうかもしれないが、健全な理性と健康的な状態の精神の持ち主であれば、正義を欠いた神など決して想像することはできない。あなたがたは、正義を欠いた国王を良い王であると考えることはできない。正義なしに存在している良い政府など夢想できない。そして、全地の《審き主》にして《王》である神が、その御胸に正義を有していないことなど、いやまして考えることはできない。神を愛だけでしかなく何の正義もないお方であると思うのは、神の神格を奪い、神をもはや神でなくならせることである。神は、その心に正義を有していない限り、この世を支配することができないであろう。人の内側には、この事実を生まれつき察知しているものがある。もし神がおられるとしたら、神は正しくなくてはならない、と。そして私は、あなたがたが、神を信じていながら、罪に対する罰を信じないでいられるとは、ほとんど想像できない。ご自分の被造物たちの上に高く上げられている神が、彼らの不従順を眺めていながら、善人にも悪人にも、同じ静穏さをもって目を注いでいるなどと想定するのは困難であろう。あなたは神が、悪者にも義人にも、同じ賞賛を報いると思いみなすことはできない。神観は正義を前提としている。そして、あなたが神と云うとき、それは正義と云っていることに等しい。

 2. しかし、罪に対する何の罰もないと想像し、人が悔いることなく救われうると想像するのは、聖書のすべてとまっこうから矛盾することである。何と! 天来の物語の記録は、無意味なのだろうか? それらに何の意味もないというのでない限り、神が今や罪を罰さないとしたら、神は大いに変化なさったに違いない。何と! かつて神はエデンを荒廃させ、私たちの祖先をその幸いな園から追い出された。それも、人間の云い方によれば、小さな窃盗のゆえである。神は世界を水没させ、この地球の内部に埋蔵していた大水で、被造世界を水浸しにされた。では、今後も神は罪を罰さないだろうか? ソドムに降り注いだ燃える雹によって、神の正しさを聞かされるがいい。コラや、ダタンや、アビラムを呑み込むために、地表に開いた口によって、神が咎ある者を容赦されないという警告を受けるがいい。葦の海で神が行なった強大なみわざ、神がパロの上にもたらした驚異、セナケリブの上に成し遂げられた奇跡的な破滅によって、神の正しさを聞かされるがいい。こうした議論の中で、私たちの時代においてすらなされた神の審きに言及するのは、場違いかもしれない。だが、そのような審きは皆無だっただろうか? 今の世は、神が罪を罰する地下牢ではないが、それでも神が現実に罪に復讐されたと信じざるをえない事例がいくつかある。私は決して、あらゆる事故が審きであると信じるものではない。ある劇場で男女が急死したからといって、それが彼らの罪ゆえに下った罰であるとは決して信じない。同じことは、神聖な礼拝式の中でも起こることがあり、私たちにとって不断の悲しみとなるからである。私は、神が地上で罪を罰されると信じていても、摂理の説明をつけることはできないであろう。「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの人々は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない」*[ルカ13:4-5]。そういうしかたで、あらゆる摂理を取り上げることこそ、キリスト教信仰に傷をつけてきたものである。例えば、ある短艇が安息日に転覆したからといって、それは、そこに乗っていた人への審きだ、という。確かに、この日を快楽のために費やすのは罪深いことだと思うが、それが神からの罰であったことは私たちは否定する。神は通常、ご自分の刑罰を未来の状態まで取っておかれる。だがしかし、私たちは云う。いくつかの事例においては、この現世においても、人間たちがその咎ゆえに《摂理》による罰を受けてきたと信じざるをえない。私が思い出すひとりの人について、私はほとんどあなたに物語る勇気を持てない。私は、この目でそのみじめな人を見たことがある。彼は、自分の頭にかけて、呪いの誓いを口にした。それは、人が言葉にしうる中でも、最もすさまじい呪いの祈願であった。憤怒と激情にかられた彼は、自分の頭は片側にねじくれ、自分の両目は飛び出し、自分の顎ははりついてしまえと云った。だが、その一瞬の後に、彼の鞭の紐の部分が――それで彼は自分の馬を残虐に扱っていたのだが――彼の目に飛び込み、まず最初に炎症を引き起こし、続いて牙関緊急を生じさせたために、私が目にしたときの彼は、まさに彼が祈り求めた通りの状態となっていた。彼の頭は大きくねじ曲がり、彼の視力は失われ、彼は固く閉じた歯と歯の隙間からしかものを喋れなかったからである。また、あなたも覚えているであろう奇妙な出来事がディヴァイザズで起こった。ひとりの女が、自分は袋一杯の食物について、自分の分の代金を払ったと云い張っていた。実はそれは彼女の手の中にあったのだが、突如その場で彼女はばったり倒れて死んだのである。こうした出来事のいくつかは異様な偶然だったかもしれない。だが私は、これらがたまたまそういう巡り合わせになったのだと考えるほど信じ込みやすい人間ではない。そこには神の意志があったと思う。私の信ずるところ、それらは神が正しいお方であられることを示しているのである。また、その御怒りの豪雨が、現世では人々に降り注がれていないとはいえ、神は、その一滴か二滴を確かに人々に注ぎ、いつの日か、いかに世をその不義ゆえに懲らしめなさるかを、私たちにお見せになっておられることを、かすかに暗示しているのである。

 3. しかし、話をお聞きの方々。なぜ私はあなたに対して振るうべき議論を遠くから持って来る必要があるだろうか? あなた自身の良心が、神は罪を罰さなくてはならないと告げているであろう。あなたは私を笑い、自分はそんなことを信じていないと云うかもしれない。私もあなたがそう信じているとは云わないが、あなたの良心がそう告げていると云うものである。そして、良心は、人々が自分の信念と考えるもの以上に大きな力を彼らに及ぼすものである。ジョン・バニヤンが云ったように、良心氏は非常な大声の持ち主で、理解氏は何も見えない暗い室の中に閉じこもっているが、良心氏がよく町通りで獅子吼したために、理解氏は、その言葉によって自室で身震いするのだった。そして、これはしばしば起こることである。あなたは自分の理性においては、「私は神が罪を罰するなどと信ずることはできない」、と云う。だが、あなたは、神がそうなさると知っている。あなたは、自分のひそかな恐れを告白したいとは思わないであろう。なぜなら、それは、これまでのあなたが、さんざん勇敢に告白してきたことを放棄することだからである。しかし、あなたがそれをあれほど自慢げに豪語していたことからして、私はあなたがそれを信じていないのではないかと想像する。信じていたとしたら、そう云う際にあれほど大いばりの様子でそうする必要はなかっただろうからである。私はこう知っている。あなたは、病になるや否や、あわれみを求めて叫ぶであろう。あなたは、死が間近に迫るときには、地獄があると信ずるであろう。良心は私たち全員を臆病者にする。たとい私たちが、口では信じないと云っているときでさえ、神は罪を罰さざるをえない、と私たちに信じさせる。

 ある話をさせてほしい。以前にも告げたことはあるが、これは恐るべき話であって、人々が危険に陥るときには、たといそれ以前の彼らが神を否定していたとしても、いかにたやすく神を――それも正義の神を――信ずる心に至らされるかを、ありありと示すものである。カナダの僻地に、ひとりの善良な教役者が住んでいた。ある晩彼は、瞑想するために、イサクがそうしたように野に出ていった。すぐに彼は、とある森のはずれにいることに気づいた。その森に彼は入り、目の前に踏み固められた小道を辿って、考え込みながら歩いていった。思いにふけっていた彼は、とうとう夕闇が深まる時間となって、森の中でいかに夜を過ごすべきかを考え出した。そこにとどまるという考えは、ぞっとしなかった。避難所といえば、一本の木しかなく、そこによじ上るしかなかったからである。突然、彼は木々の向こうに1つの光を見た。それが、どこかの農家の窓からの光であると想像し、そこなら手厚くもてなされるものと考えた彼は、そこへ急いだ。だが驚いたことに彼が見たのは、1つの空き地であって、木々が積まれて演壇となっており、その上に講演者が立って群衆に演説していたのである。彼は内心こう思った。「どうやら私は、この暗い森の中で、神を礼拝する人々の群れに出くわしたらしい。そして、どこかの教役者が、こんな夜更けにも彼らに向かって神の国と神の義について説教しているのだ」。だが、彼を驚かせ、恐怖させたことに、近寄っていった彼が見いだしたのは、ひとりの若者が神を激しく糾弾しいる姿であった。若者は、《いと高き方》の正義に反抗し、すさまじい言葉を憤激しながら語り、未来の審きなど自分は絶対に信じないと、この上もなく大胆ですさまじい主張をあえてしていた。それは全く異様な光景であった。それは、松明で照らし出され、それがそこここにまぶしい光を放つ一方で、それ以外の部分では、なおも深い闇につかさどられていた。人々はこの雄弁家に熱心に耳を傾け、彼が腰を下ろしたときには、耳を聾する拍手喝采が起こった。彼らは互いに真似しあっては彼を賞賛しているらしかった。この教役者は思った。「このままにはしておけない。私は立ち上がって語らなくてはならない。私の神のため、その御国のために、ぜひともそうしなくては」。しかし、彼は口を開くことを恐れた。いきなりそこに来たばかりで、何と云うべきかわからなかったからである。だが、それでも彼がそうしようとしたとき、あることが起こった。ひとりの逞しく、がっしりとした中年の男が立ち上がると、自分の杖に寄りかかりながら、こう云ったのである。「皆の衆。わしは今晩、一言みんなに云いたいことがある。わしは、この弁士の云い条のどれにも文句を云うつもりはない。その話しぶりにけちをつける気はないし、この御仁が口にした、わしには冒涜と思えるものについては何も云わん。だが、わしは、みんなに1つの事実だけを話して聞かせよう。そうした後で、ひとりひとり自分で事を判断してほしいのだ。昨日、わしは向こうの川べりを歩いておった。するとその大水の中に、短艇に乗った若い男がいるのが見えた。その舟はまるで制御不能のまま、急流に向かって突進しておった。その男は櫂を使うことができず、舟を岸辺に着けることはできそうもなかった。わしが見ておると、男は苦しげに手をもみしぼり、やがて自分のいのちを救おうとすることもあきらめると、膝まずいては、死に物狂いの真剣さで叫び出した。『おゝ、神よ! 私の魂をお救いください! たとい私のからだが救われないとしても、私の魂をお救いください』。わしの耳には、男が今までの自分は冒涜者でしたと告白するのが聞こえた。もし命拾いしたなら、そんなことはもう二度といたしませんと誓うのが聞こえた。イエス・キリストのゆえに天のあわれみを示し給えと乞い求め、キリストの血潮で洗い給えと真剣に願っている声が聞こえた。この二本の腕は、その若い男を大水から救ったものよ。わしは水に飛び込んで、その短艇を岸まで引っ張ってやり、男のいのちを救ってやった。その同じ若い男が、たった今、みんなに話をして、自分の《造り主》を呪っておったのよ。さあ、このことについて何と云うかな。皆の衆!」 その講演者は座り込んでしまった。あなたにも想像がつくであろう。その若者自身に、いかなる戦慄が走ったことか、また、その聴衆がいかに一瞬にしてその雰囲気を変えたことか。彼らは悟ったのである。結局、《全能の神》に向かって威張ったり、虚勢を張ったりするのは、乾いた地面の上ではしごく結構なことだが、墓場の瀬戸際に来たときに神を悪く思うのは、それほど素晴らしいことではないのだ、と。私の信ずるところ、あらゆる人のうちには、自分の罪ゆえに神は自分を罰するに違いないと確信させるに足るだけの良心がある。それゆえ、本日の聖句は、あらゆる心にこだまを呼び起こすだろうと思う。――「神は、悔い改めない者には剣をとぐ」*。

 私は、神が罪を罰さざるをえないことをあなたに証明するという、恐ろしい務めに疲れてしまった。ただ、神の聖なることばからいくつかの宣言を語らせてほしい。その後で、あなたに、いかにすれば悔い改めが獲得できるかを告げたいと思う。おゝ、方々! あなたがたは地獄の火など実は作り話であり、地獄の穴の火焔など旧教の世迷い言にすぎないと考えているかもしれない。だが、もしあなたがたが聖書を信じているとしたら、そういうわけにはいかないことを信じなくてはならない。私たちの《主人》はこう仰せにならなかっただろうか? 「そこでは、うじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」*[マコ9:48]。あなたは、これは比喩的な火だと云う。しかし、主はこのことで何を意味されたのだろうか?――「神は、からだもたましいも、ともにゲヘナに投げ込むことがおできになる」*[マタ10:28]。悪魔とその使いのためには恐るべき業苦が用意されていると書かれていないだろうか? そしてあなたは、私たちの《主人》がこう仰せになったことを知らないだろうか? 「この人たちは永遠の刑罰にはい……るのです」[マタ25:46]。「のろわれた者ども。離れて行き、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」[マタ25:41]。「その通りです」、とあなたは云うであろう。「ですが、地獄があるなどと信ずるのは哲学的ではありません。そのようなものの存在を信ずるのは理性と調和しません」。しかしながら、たといそのような場所がないとしても、私はそのような場所があるかのように行動したいと思う。というのも、ある貧しく敬虔な人がかつて云ったように、「旦那。あっしは自分の弓には、弦を二本張っておくのが好みなんすよ。たとい地獄がなかったとしても、あっしは旦那と同じくらい幸福でいられるでしょう。ですが、もし地獄があったとしたら、それは旦那にとって辛いことになるでしょう」。しかし、なぜ私は「もし」と云う必要があるだろうか? あなたはそれがあることを知っている。この国で生まれ、教育を受けた人であればだれでも、それが真理であるとの啓明を良心に受けないでこられたはずがない。私に必要なことはただ、あなたの不安な思いに、この考えを強調することだけである。――あなたは今、自分が天国に行くにふさわしい存在であると感じているだろうか? 神が自分の心を変え、自分の性質を新しくしてくださったと感じているだろうか? そうでないとしたら私は、この考えを自分のものとするよう切に願う。すなわち、あなたが新しいものとされない限り、未来の業苦においてすさまじいものとなるはずの一切合切を、必然的にあなたは受けなくてはならない、と。話をお聞きの愛する方々。このことを、あなた自身にあてはめるがいい。あなたの同胞の人々にではなく、あなた自身の良心にあてはめるがいい。そして、願わくは《全能の神》がそれを用いて、あなたを悔い改めに至らせてくださるように。

 III. さて手短に語るが、悔い改めをもたらす《手段》とは何だろうか? この上もなく真剣に私は云う。私は、いかなる人も自力で福音的に悔い改めることはできないと信ずる。すると、あなたは尋ねるであろう。ならば、これまで私がわざわざ悔い改めの必要を証明しようとして語ってきた説教は、何の役に立つのか、と。願わくは、これから語る結論によって、神の力の下で、この説教を役に立つものとさせてほしい。罪人よ! あなたは、途方もなく罪に心を注いでいるために、自力で罪から立ち返る見込みは到底持てない。しかし、聞くがいい! カルバリの上で死んだお方が高く上げられたのは、「悔い改めと罪の赦しを与えるため」[使5:3]だったのである。あなたは今朝、自分が罪人であると感じているだろうか? 感じているとしたら、どうか悔い改めをお与えくださいとキリストに願うがいい。あなたが自力で心の中に悔い改めを作り出すことができなくとも、キリストには、その御霊によって、そこに悔い改めを作り出すことがおできになるからである。あなたの心は鉄のようだろうか? 主はそれをご自分の愛の炉に入れて、溶かすことがおできになる。あなたの魂は、石臼の下石のようだろうか? 主の恵みはそれを、太陽の下で氷が溶けるように溶解させることができる。あなたが自分で自分を悔い改めさせることはできないが、主はあなたを悔い改めさせることがおできになる。もしあなたが、自分には悔い改めるべき必要があると信じているとしたら、私は今あなたに、「悔い改めよ」と云おうとは思わない。悔い改めを感じる前に行なわなくてはならない、いくつかのことがあると信ずるからである。私はあなたに忠告する。家へ帰って、もしあなたが、自分は罪を犯してきたこと、だが自分のそむきの罪を十分に悔い改めることができずにいることを感じるとしたら、神の前で膝まずき、あなたの罪を告白するがいい。自分はしかるべく悔い改めることができませんとお告げするがいい。自分の心はかたくなです、氷のように冷えています、とお告げするがいい。もし神があなたに、自分には《救い主》が必要だと感じさせておられるとしたら、あなたにはそうできるはずである。それから、悔い改めを求めて努力すべきだということが、あなたの心に銘記されているとしたら、私はあなたに、それを見いだすための最上の道を告げたいと思う。まず一時間かけて、あなたのもろもろの罪を思い出すがいい。そして、罪の確信があなたをしっかりつかんだら、もう一時間を費やすがいい。――どこでだろうか? カルバリでである。話をお聞きの愛する方々。腰を下ろし、人を愛して死なれた神の生涯と神秘について記されている章を読むがいい。腰を下ろして、自分が今、この栄光に富む《人》を見ていると考えるがいい。その両手からは血が滴り落ちており、その両足からは血糊の川が吹き出しているこのお方を。神の御霊の助けを得た上で、それでもあなたが悔い改めないとしたら、私には何がそうできるか見当もつかない。ひとりの古い神の人がこう云っている。「あなたが、もし神を愛していないのを感じているとしたら、愛していると感じるまで神を愛しなさい。もし信じることができないと思うなら、信じていると感じるまで信じなさい」。多くの人々は、悔い改めつつある間、自分には悔い改めることができないと云う。自分が悔い改めたと感じるときまで、その悔い改めを続けるがいい。ただ、あなたのもろもろのそむきの罪を認め、自分に咎があることを告白するがいい。たとい神があなたを滅ぼすとしても、神が正しくあられるであろうことを認めるがいい。そして厳粛にこう云うがいい。――

   「わが信仰は 手を置きぬ
    汝れが尊き みかしらに。
    悔いる思いを もちて立ち
    われはわが罪 告白(あらわ)さん」。

おゝ! もしこの場で話を聞いている方々のひとりでも、神によって祝福され、この場を出て悔い改めることになるとしたら、私は何を惜しむだろう! もし私が世界を所有していて、それであなたがたの魂を1つでも買えるとしたら、私は喜んで世界を手放し、あなたがたの中のひとりでもキリストのもとに連れて行くであろう。私は決して、神のあわれみが最初に私を顧みたと思われた時のことを忘れない。それは、こことは全く異なる場所であり、世間からは蔑まれていた、とある教派の人々が集う、小さく粗末な会堂の中であった。そこに行ったときの私は咎に打ちひしがれ、そむきの罪に重くのしかかられていた。その教役者は講壇の階段を昇り、その聖書を開くと、この尊い聖句を読み上げた。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。そして、私が考えこんでいると、彼はその目を私にひたと据え、他の人々に向かって説教する前に、こう云った。「そこの少年! 見よ! 見よ! 見よ! きみは地の果ての者のひとりなのだ。自分でもそう感じているだろう。自分に《救い主》が必要だとわかっているだろう。彼が決してきみを救ってくれないのではないかと思って震えているだろう。だが彼は今朝こう云っておられるのだ。『見よ!』」 おゝ、私の魂がいかに内側で動揺させられたことか! 何と!、と私は思った。あの人は私のことを、何から何まで知っているのか? その人はまるで私の内心を見通しているかのようであった。そして、それによって私は「見よ!」との言葉に従わされた。よろしい、と私は思った。失われるにせよ救われるにせよ、試してみよう。のるかそるか、危険を冒してみよう。その瞬間に私は、神の恵みによって、イエスを仰ぎ見たと思う。そして、失意落胆し、意気消沈し、今にも絶望せんばかりで、それまでのような人生を続けるくらいなら死んだ方がましだとさえ感じていたのに、まさにその瞬間に、あたかも、瑞々しい天国が私の良心の内側に誕生したかのように思われた。帰宅したときの私は、もはや打ちひしがれてはいなかった。周囲の者らは、その変化に気づいて、なぜそれほど嬉しそうなのかと尋ねた。私は彼らに、自分はイエスを信じたのです、そして、聖書にはこう書かれているのです、と告げた。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1 <英欽定訳>]。おゝ! もし今朝この場にひとりでもそのような人がいるとしたら! あなたはどこにいるのか。罪人のかしらよ。よこしまな人間の中でも最もよこしまな者よ。話をお聞きの愛する方々。あなたは、ことによると、神の家になど、この二十年の間、一度も来たことがなかったかもしれない。だが、ここにあなたはいる。自分のもろもろの罪に覆われて、いかなる人にもまして暗黒で、よこしまな者としてここにいる。神のことばを聞くがいい。「さあ、来たれ。論じ合おう。……たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。そして、これらすべてはイエスのゆえなのである。これらすべては、主の血のゆえなのである! 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。主はこのように語り、このように命じておられるからである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]

《罪人よ! 立ち返るか、焼かれよ!》

 

立ち返るか、焼かれるか[了]
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