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第25章

ヘレンズバラの牧師

ジョン・アンダーソン師、この説教者の永続する人気を予言する最初のひとりとなる――ニューパーク街会堂を訪問す――スポルジョン氏、ヘレンズバラを訪問す

 スポルジョン氏がロンドンに来てからすぐに、すでに言及した、とあるスコットランド人教役者が、ニューパーク街会堂に惹きつけられた。その人物は、この桁外れにすぐれた若きバプテスト派説教者の友人となり支持者になることとなった。グリーノックで発行される、とある英国北部の新聞が、ある折にこう述べている。「スポルジョン氏が、その教役者生活の滑り出しにおいて、当地方を最初に訪れたのは、ヘレンズバラの故アンダーソン師の賓客としてであった。この卓越した人物であり、有能な神学者であった人こそ、ニューパーク街の説教者の手を取って北部地方へと導いた、多少とも注目すべき最初の人物であった。そして、その感謝の証しとしてスポルジョン氏は、ロンドンにおける最初の住居をヘレンズバラと名づけたのである」。しかしながら、この記事は完全に正確であるとは思われない。読者の方も知っての通り、1855年7月にスポルジョン氏が最初にスコットランドを訪れたとき、彼が本拠地としたのはグラスゴーであり、彼の将来の友が自由教会の会衆の牧師として住んでいたヘレンズバラは、そこから北西二十四哩も離れた場所にあったからである。同町はガレ湖の口に位置する、クライド湾の支流であって、五哩離れたグリーノックの対岸にあたる。同地の以前の領主であった、ヘレン・コルクホーンの奥方にちなんで名づけられたこの町は、風光明媚な土地であり、家々を取り囲む庭園が、よその地域には見られない風情をかもしだしている。また、グラスゴー付近の名所旧跡を訪れるのに好都合な中心地として、休暇期には多くの観光客を集めている。同地は、急激に成長しつつある地域でもあり、スポルジョン氏がロンドンで牧会生活を開始した頃に時折訪れるのを常としていた時代とくらべるとは、おそらく人口は二倍になっているであろう。私は、1855年における最初のスコットランド訪問時に、彼が現実にヘレンズバラを訪れたかどうかは確信が持てないが、彼がその時に初めて、この寛大な自由教会の教役者について知った可能性はある

 アンダーソン氏は、このロンドンの牧師よりも三十歳年長であり、1827年からずっとヘレンズバラに居を構えていた。彼が赴任した頃、現在では行楽地として人気を集めるこの土地は、人口七百人程度の村落でしかなかった。「実際、その責任は小さなものであった。だが、それを受け入れることを自分の義務と感じながらも、疑いもなく彼はその土地柄によっても魅了されたに違いない。というのも、同地を取り巻く美麗で壮観な風景は、海側のものであれ陸側のものであれ、名高いクライド川湾沿いに点在する多くの景勝地の中でも、最も素晴らしい場所だからである」*1

 アンダーソン氏は任地で大きな成功をおさめ、1853年には四千五百ポンドの費用をかけて新しい教会が建築され、その後すぐに新しい牧師館が供されるほどであった。この牧師は歴とした学者であり、自らも錚々たる著述家であったが、《昔からの福音》に対する彼の愛は、スポルジョン氏のそれに全く劣らぬ熱烈なものであった。「アンダーソン氏を何にもまして喜ばせたのは、清新で、単純で、印象的な説教の実例に接することであった。それは、例えば彼がスポルジョン氏の説教のうちに認めたような説教である」。この少年説教者がウォータービーチを離任してすぐに、アンダーソン氏は彼を知るところとなり、称賛に値することに、この若き友人の価値と有用な能力について、たちどころに高い評価を下した。「具眼の士であるアンダーソン氏は、他の人々が疑いや猜疑の目で眺めている間から、今やこの尋常ならざる人物を時代の天才として万人に認めさせている、類いまれな一級の資質を察知したのである」*2

 このように、スポルジョン氏の無類の賜物に感銘を受けたアンダーソン氏は、さらに親しい知識を得ようとした。1856年の前半、ロンドンを訪問した折に彼は、ニューパーク街会堂に出席した。そして非常に喜ばしいことに私たちは、この温和なスコットランド人がその礼拝について述べた生々しい記述をここに示すことができるのである。「氏を満足させたことに、彼の素晴らしい声と効果的な身振り、彼の燃えるような熱情と健全な教理、彼の口をついて出てくる印象的な例話、また彼の言葉遣いのサクソン的な精力は、すべてがあいまって、スポルジョン氏を当代随一の説教者としていた。そして、このことを氏は何の躊躇もなしに公に宣言した。それは、この若きバプテスト派の教役者が、下品であるだの講壇の威厳を失わせているだのと云われて、ありとあらゆる嘲笑が浴びせかけられている最中になされたことでもあった。その後すぐにスポルジョン氏は、アンダーソン氏の招きに応じてヘレンズバラを訪れては、賛嘆する群衆に向かって何度も説教することになった。こうして、愛情のこもった永続的な友情が結ばれたのである」*3。こうした礼拝式のことは、物語が進むにつれて、しかるべき場所で多少なりとも語られるであろう。だが、その間、読者の方は、1856年3月30日の日曜日に、ニューパーク街会堂でアンダーソン氏が見聞きしたことを、彼自らが記した写実的な描写を読んで喜べるであろう。ロンドンへ向けて発つ前に、彼は友人たちにこう云っていた。「この若い説教者の評判は聞き及んでいるよ。だから私も彼の話を聞きに行くつもりだ」。帰郷した彼は、自分の経験を次のように書きつづっている*4。――

 「私は、海鳴りのする岸辺で波の音に耳を傾けている方が、『都会の騒音』や、人々の喧噪を耳にするよりもはるかに好ましいと思っているが、昨夏、スポルジョン氏がグラスゴーに来たときには、彼の雄弁の評判が、この僻地にいる私のもとにまで達したものである。もとより私は、彼について、一部の人々からは『非難があり』、別の人々からは非凡な説教者だとか、ホイットフィールドその人の時代以来、比べる者もないほどの人気を得ている人物だとか云われるのを聞いてはいた。しかし私は、説教については自分で判断したいと思い、何が良い説教であるかについては一家言ある人間であるため、グラスゴーにおけるスポルジョン氏や彼の人気について聞き及んだことには、大して重きを――何の重きも、とさえ云えるかもしれない――置いていなかった。しかしながら、印刷された彼の説教の一編が、たまたま私の手に入り、その数段落を読むや否や、私は云ったものである。『ついに、私の心にかなう説教者が現われたか。この説教者の話なら、私だけでなく、パウロその人が地上にいたとしても、聞きたがり、満足し、よしとするに違いない』、と。その講話の主題が何であったかは忘れてしまったが、私は自分に向かってこう云ったことはよく覚えている。『今の時代に出版されている、ありったけの説教や説教集の著者になるよりも、むしろこの一編の説教の著者となりたいものだ』。こうした経験をする直前に私は、ガスリーやケアードを読んでいたが、ここにあるのは全く種類の異なるものであった。そして私が思うに、純粋で有益な福音説教を成り立たせるあらゆる点において、これは無限に優越したものであった。

 「それからしばらくの間、私はスポルジョン氏については、ほとんど何も聞くことがなく、ほとんど何も考えることがなかった。しかしながら、3月最後の安息日にロンドンにいた私は、思いがけなく説教奉仕から解放されたために、故国であれほど耳にした説教者の教会に行き、その話を自分の耳で聞くに越したことはないだろうと考えた。そこで私は、ふたりの若い友人と連れ立って、よく晴れたその美しい安息日の朝、街路にほとんど人通りもなく、この大都市の『大心臓部』のすべてが『静かに横たわっている』頃に、イズリングトンから、ほぼ四哩ほど離れたサザクのニューパーク街会堂へ出かけていった。私たちは11時頃に会堂に着いたが、すでに礼拝は11時15分前に始まっていたことがわかった。教会は満員であり、門のあたりにはどうしてよいかわからないでいる群衆がいた。大きな入口の近くに門番がひとりいるのを見た私は、彼に近づいて、こう云った。『私はスコットランドから来たんだ。遠路はるばる来たからには、何としても中に入りたいんだが』。彼は私に、『スコットランドのどこからいらっしゃいましたか』、と尋ねた。『グラスゴーだ』、と私は云った。彼はそれ以上何も訊かず、『さあ、ついて来てください。何としても中へお入れしなくては』、とか何とか口にすると、私たちを建物の袖に案内してくれた。それは、建て増されて、明らかに教室として使われている部屋であった。ここにも多くの人々が集まっていたが、私たちは座席を見つけることができた。扉や通路をふさぐ群衆のため説教者の姿はあまりよく見えなかったが、その話は――そして、それこそ私たちが求めていたことであった――明瞭に聞きとれた。私たちが中に入ったとき彼は、その習慣に従って、聖書の一部分を解き明かしていた。解き明かされていた箇所は出エジプト14章で、葦の海のほとりに立つイスラエル人に関する記事を含んでいた。――これは、私にとって、ことのほか興味深い聖書箇所であった。私は実際にその岸辺に立ち、あの不思議にも水が分かれたという地点を船で航海したことがあったからである。各節に対する説教者の注釈は、ヘンリーの流儀に非常に似たものであり、滋味と刺激に富んでいた。主題聖句は詩篇106篇からとられ、その講話の主題は、彼が解き明かしたばかりの章と同じ、『葦の海のほとりのイスラエル人たち』であった。

 「彼は、このイスラエル人たちを《福音》のもとにある神の民の象徴であるとみなし、ここから考察したいことが2つあると告げた。第一に、彼らの困難の数々であり、第二に、彼らが頼みとすべきものである。彼らの困難は、彼の云うところ、3つのものにょって引き起こされていた。――第一に、彼らの前にある葦の海。第二に、彼らの背後にいたエジプト人たち。そして第三に、彼らの信仰の弱さである。こうした困難が、信仰者たちの道にもあると彼は云った。第一に、数々の試練という葦の海――キリスト者としての彼らに特有の試練、エジプトを出てきた、すなわち、この世を放棄したがゆえに引き起こされる試練がある。第二に、エジプト人たちが彼らの背後にある。――罪、サタン、そしてこの世が、彼らを自分たちのくびきの下に取り戻そうとしており、このことに失敗すると、彼らを悩ませ、苦しめようとする。しかし、両者の途上にある最大の困難は不信仰である。もし彼らが、彼らに味方してくださるお方を信頼していたとしたら、彼らは自分たちに敵対しているあらゆるものを大したこととは考えなかったであろう。

 「第二に、彼らが頼みとすべきものである。これも3つあり、――第一に、神の摂理である。神が彼らを葦の海へと連れて来られたのであり、そこへ彼らを連れて来られた方は、そこを通って彼らを連れ出すことのできる力と知恵を十分備えておられた。第二に、神の契約である。この契約によって神には、そうなさる責務があり、名誉をかけてもそうなさる義務があった。第三に、モーセのとりなしである。彼らは知らなくとも、彼は彼らのために祈っていた。そのようにキリストは、ご自分の民のために祈っておられ、キリストに御父は常に耳を傾けてくださる。そして、キリストの祈りに答えて、彼らをそのすべての困難その他から救い出し、これからも救い出し続けてくださる。

 「このような筋道で語られた内容は、キリスト者経験について私がこれまで聞いた中でも最も滋味豊かで、最も豊潤な説教の1つであった。いやまして驚くべきことは、それがこれほど若い人によって語られた説教だということである。この説教は、聴衆の多くが知るところの経験よりも、はるかに先に進んだものであったし、説教者自身、そのことは明らかに感じていた。しかし、それにもかかわらず、彼の様式の単純さ、彼の例話の豊かさと奇抜さ、彼の非常な熱心さ、そして、彼の語り口の徹底した、また賞賛すべき自然さによって、聴衆全体には力強い影響が及ぼされていた。多くの人々――彼らの大多数――は、『一般の人々』であったし、彼らの庶民的な顔つきを眺め、彼らの、労働のために茶色くなった手と、多くの場合は色あせた衣服を見ていると、どうしても私は、『一般の人々は、この方の言われることを喜んで聞いていた』、と云われているお方のことを思い出さずにはいられなかった[マコ12:37 <英欽定訳>]。しかり、スポルジョン氏は、『一般の人々』の教役者である。話に聞くところ彼は、自分のことをそのような者と考えているというし、それは当然であろう。ロンドンの人々の幸いなことよ。このような教役者を有している自分たちの幸いを彼らがわかっていさえしたらだが! しかし、説教に話を戻そう。それが人々の顔にいかなる効果を及ぼしたことか! 顔という顔が、いかに説教者の方に堅く据えられていたことか。――彼が口にする片言隻句も聞き漏らすまいと、いかに耳が澄まされていたことか。――ほんの一言でも聞き落とすまいと、いかに気遣われていたことか! 彼らは今や涙をしたたらせていた。そして、彼らの多くは青ざめた、心労にやつれた顔をしていたものの、それが光と喜びを放ち、微笑みへと明け初めていくのが見られた。特に私の目についたひとりの人物がいた。明らかに身分の低い出だったが、凛とした、知的な顔つきをしていた。彼の顔は、実に見ものであった。説教者が何か心を打つようなことを云うたびに、彼は表情豊かに私の方を見やり、私も彼の方を見やった。その礼拝式の最後には、私は心からの、兄弟としての握手を彼と交わすことができたはずである。だが、私は群衆の中に彼を見失ってしまい、二度と彼を見ることはなかった。

 「ここまでは、午前中のことである。晩の説教についても二言三言述べておこう。私たちは、もし中に入りたかったら、早めに来るように告げられた。群衆は、朝より多く集まるということだったからである。ふたりの友人とともに私たちは6時に戻ってきた。礼拝式は6時半に始まるはずであったが、がっかりしたことに、すでに群衆が扉を取り巻き、開場を待っていた。それは、入場券を持っている者しか入場できない時間であった。私たちは一枚も入場券を持っていなかったので、中に入る望みをほとんど捨てかかった。しかしながら、私が午前中いかにして中に入ったかを知っていた友人のひとりは、ひとりの巡査のもとへ行き、私がスコットランドから来た教役者であり、ぜひとも中に入りたがっているのだと告げてくれた。巡査はこれを聞くと、非常に丁重に、教会の中へ入れてあげましょう、ですが座席があるかどうかは約束できませんよ、と云った。私たちには、それだけでも望外の喜びだった。私たちのうちのひとり(女性)は、親切なことに座席を譲ってもらえた。もうひとりの友人と私は、古のユテコのように『窓のところに』[使20:9]腰かけるのを許されただけで嬉しく思った。私たちの足元の通路には、群衆がぎっしりひしめいていたのである。私は近くにいた男に、いつもやって来ているのかと尋ねた。彼がそうだと云うので、私は、『ならば、なぜ座席に座っていないのです?』、と聞いた。『座席ですと!』、と彼は答えた。『そんなものは、欲でも得でも手に入りませんよ。私は立ち見の券を手に入れただけです』。聞くとその教会には千五百の座席があるという。だが、すし詰めの教室と通路を考えに入れると、どう見ても三千人は入っているものと思われた。礼拝は、起立した会衆が賛美歌を歌うことによって始まった。私は、このような合唱を一度も聞いたことがない。それは、『大水の音』か、雷鳴の轟きのようであった[黙19:6]。その会衆には、いかなる風琴も必要なかった。いかに強力な風琴であっても、これほど耳を聾するような肉声の大波の中では聞こえなかったであろう。それから祈りがあった。言葉遣いの点から云うと、崇敬の念の発露については、あまりスポルジョン氏は長じていないように思われる。だがその祈りは、私が今まで聞いた祈りの中でも無類に印象的なものであった。彼はまず、確立した信仰者たちのために祈った。それから、信仰の弱りつつある人々のため、さらには他の種々雑多な境遇の人々のために祈った。それから一息ついた後で、未回心の人々のために祈った。『この場にいる者らの中には』、と彼は云った。『そのような状態にあり、おそらく二度と、この教会にも他のどの教会にも出席することのない人々がいるでしょう。――彼らは今晩、生涯最後の説教を聞くことでしょう。――次の主日が来る前に、この世を去っていることでしょう。それから、どこにいることになるでしょうか? 彼らがいることになる場所は1つしかありません。――地獄です!』 それから彼はこう云った。というよりも、こう叫んだ。『おゝ、神よ、神よ! 彼らは滅びなくてはならないのですか? あなたは彼らをお救いにならないのですか? この説教を、彼らが回心する手段としてくださらないのですか?』 その効果は圧倒的であった。多くの者が涙し、恥じることなく云うが、私もそのひとりであった。聖句は詩篇126:1、2であった。――『主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた』。この説教は、いくつかの点では午前中の説教に見劣りする部分もあったが、それ以外の点では――特に膨大な人数が無差別に入り混じった聴衆の中においては――まさっていた。

 「その描写のいくつか、特に、解放されたばかりの奴隷が自由にされた喜びに酔いしれている描写は、ディケンズ、あるいは他の現代小説の巨匠たちの筆になるいかなるものにもひけをとらなかった。それと同じくらい見事だったのは、健康が回復した病人が、回復後初めてロンドンの街路に散歩に出かけた場合の描写である。しかし、その説教に含まれた見事な自然の情を、言及し尽くすことはできないであろう。そうした自然の情によって、その大群衆は相憐れむ親族とされた。安息日を破る者その他に対する彼の弾劾はすさまじかったが、それと同じくらい、悔悟する者を描き出す彼は優しく、心にしみるものがあった。スポルジョン氏は、優しさにおいてもすさまじさにおいても等しく卓越している。また彼は、滑稽味に欠けているわけでもない。この点で多くの人々は彼に同調しようとせず、彼が非難に値すると考えるであろう。だが私はほとんどそうは思わない。他の人々は考えを異とするであろうし、実際に異としている。また他の人々によると、彼は悪趣味だという。私も、彼がしばしばそのように聞こえることは認める。しかし、その場合には、彼の年齢の未熟さを考えてみるがいい。さらに、彼はうぬぼれていると私に向かって云う人もあった。だが私には、その証拠が全く見当たらなかったし、たとい見当たったとしても、だからといって私は、彼の説教をその分だけ低く評価すべきだろうか? 私は、それを作ったパン屋がうぬぼれているからといって、美味しいパンを食べないなどとは云わない。むろんスポルジョン氏が完璧であるなどと云うつもりは毛頭ない。この点において、彼はホイットフィールドとは異なっている。ホイットフィールドは、最初から生涯最後の時期に至るまで、雄弁家としては同じくらい完成されていた。だが聴衆――特にロンドンの聴衆――に及ぼす彼の力について云う限り、彼は、ホイットフィールドその人にすら劣っていないと云えよう。スポルジョン氏はカルヴァン主義者である。彼ほど徹底したカルヴァン主義者は、ロンドンの非国教会系の教役者たちの中にほとんどいない。彼が宣べ伝える救いは、人間の自由な意志から出たものではなく、主の聖意志から出たものである。残念ながら、そのようにしている者はロンドンにほとんどいないのではないかと思う。こうしたすべてのために、私たちは、スポルジョン氏の出現を喜悦して祝い、こう予想するものである。彼は生涯を通じて、並々ならぬ用いられ方をするであろう、と。『なんとしあわせなことでしょう。いつも彼の前に立って、彼の知恵を聞くことのできる者たちは』*[I列10:8]。私について云えば、私は彼らの間に立っていた日を喜びとともにいつまでも思い起こすことであろう。そして、もしロンドンで主日を過ごすことがあるような同国人がいるとしたら、私がしたようにニューパーク街会堂でスポルジョン氏の話を聞いて過ごすように勧めるであろう」。

 スポルジョン氏のこの伝記では、このサザクの若き説教者と、ヘレンズバラの牧師との間に存在していた親密な友情関係について、他にもいくつかのことが追い追い語られなくてはならないであろう。ある意味でジョン・アンダーソンは、チャールズ・ハッドン・スポルジョンと同じように、福音を説教するために生まれたようなところがあった。一方が、その少年時代に、干し草架の上にのぼって説教していたとすると、もう一方も、それと似たような年頃に、同じような傾向を示していたのである。「彼自身の願いは、福音の教役者となることであり、彼の大望の兆しは幼少期から見誤りようがないものであった」、と彼の伝記作者は述べている。「ほんの小児の頃から、彼には説教する習慣があった。彼の講壇は、彼が通っていた学校の近所に生えていた一本の木であり、彼の聴衆は一団の学童仲間である」。彼は、なかなかの詩人で、博覧強記の人であり、健康のため温暖な地方を旅行している間には、歴とした著述家であるだけでなく、明敏な観察者であることを示した。ヘレンズバラを訪問した人々は、その牧師の「胸を張った男らしい体格」の姿になじむようになっては、「その暗褐色の目の輝き」をほめるのであった。1841年、やがて彼を苦しめることになる気管支系疾患の最初の症候が現われた。それで彼は、スポルジョン氏と知己になって以来の十二年間、多かれ少なかれ病を患っていた。ふたりには多くの共通点があった。[スポルジョンが自宅とした]クラパム区ナイチンゲール小路の「ヘレンズバラ荘」は、遙か彼方の美しい北部地方に住むひとりの友人――「わがジョン・アンダーソン」――のことを告げる名であった。

 現在ヘレンズバラに住んでいるひとりの労務者は、スポルジョン夫妻が同地の牧師館を初めて訪問した後で出立するのを、桟橋に立って見ていたことをよく覚えている。スポルジョン夫人は、アンダーソン氏の腕によりかかって歩いて行き、その間、自らもバプテスト派だという立派な荷物運搬人が、ニューパーク街会堂の牧師の旅行鞄を実に誇らしげにかかえていた。この正直な人物が自ら告白するところ、彼の云う「当代随一の説教者」である人に、そのような奉仕を行なうのは、並々ならぬ満足を感ずることだったという。

 以下にあげるのは、ヘレンズバラの牧師が、その年下の友人と知り合った初期の頃に、彼から受け取った本に書かれていた言葉である。――

 「わが親愛なる友ジョン・アンダーソン殿へ
   「貴殿の大いなる寛大さに迫られて、私はここで地上に住むいかなる老若男女に対しても宣言するものであります。貴殿を措いて、小生の不朽の愛のささやかなあかしたる本書を受け取るべき方はありません、と。

 C・H・スポルジョン」

 「1859年2月21日」。

  


*1 ジョン・オート著、『ジョン・アンダーソン小伝』、p.6。[本文に戻る]

*2 前掲書、p.32。[本文に戻る]

*3 前掲書、p.31-32。[本文に戻る]

*4 アンダーソン氏による迫真の描写は、『バプテストの使者』、第4巻、130-132 から取られている。私は多くの詳細について、ヘレンズバラは海洲荘のケイト・スチュアート嬢に恩義をこうむっている。[本文に戻る]


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