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第26章

牧師学校の創設

この働きの始まり――T・W・メドハースト氏――彼の経歴――最初の学生となる――初期の困難――最初の教師ジョージ・ロジャーズ――スポルジョンのお気に入りの機関――無私の働き――米国からの証言

 スポルジョン氏がロンドンに来てから二年ほど経った頃に始まったのが、後に《牧師学校》として知られるようになる働きであった。だが、福音を宣べ伝えたいと願う数人の青年たちを励まそうとしたこの若い牧師も、その彼に協力した人々も、この奉仕がいかなる規模のものに発展していくかについては全く思いもよらなかった。彼らは摂理的にこの働きに導かれたかのように思われる。そして、やがて彼らが信ずることになるように、あらゆる段階において、神は道を開いておられた。今なお、「C・H・スポルジョンの最初の学生」と呼ばれているのは、カーディフのホープ会堂牧師、T・W・メドハースト氏であるが、彼の前半生の何がしかについて語ることは、この学校が実際に開始された次第を示す、最も手っ取り早い道であろう。

 スポルジョン氏と同年生まれのメドハースト氏は、厳格バプテスト派に関わっていた。青年としての彼は、あらゆる卑俗で不道徳な傾向を注意深く遠ざけていたが、実のところ、多くの人々にとってサザクの若い説教者がその預言者となっていたような、心に深く感じられるキリスト教信仰についてはほとんど、あるいは全く何も理解していなかった。芝居小屋は、彼が抵抗できない魅惑を有していた。彼は、その平日の夜の多くを芝居を見に行くことに費やし、安息日には、ジェームズ・ウェルズの説教を聞きにサリー・タバナクルへ定期的に通っていた。その講壇の雄弁家の講話は、若きメドハーストに素晴らしい影響を及ぼした。彼は、無律法主義的教理の牙城の中にぬくぬくとおさまり、ふたりの主人に仕えようとしながら、全く何の危惧も感じていなかった。

 すでに言及されたように、1854年の初頭にメドハースト氏は、メーズポンド会堂に足を向け、ロンドンにおけるスポルジョンの最初の合同集会演説と彼が信ずるものを聞いた。この演説者は、並はずれて異様な資質の持ち主であると思われた。そこでメドハースト氏は、このように日曜学校連盟の記念集会ですでに出会っていた説教者の話を、ニューパーク街会堂で聞いてみる気を起こした。しかしながら、最初、彼は、ジェームズ・ウェルズのようのように健全な信仰に立った教師を離れて、スポルジョンのようなただのアルミニウス主義者の話を聞きに行くという考えに、実際、身震いした。それは、聖徒たちの集会を離れ、真のパンの代わりに石を人々に与えているような山師の話を聞きに行くことであった。また、その会堂に入るだけの勇気をかき集めたときでさえ彼は、壁が崩れ落ちてきて、これほど悪名高い厄介者がつぶされたなら、天罰というものだとさえ感じていた。たまたまその日の説教は熱烈な種類のもので、ホセア6:3に基づいていた。――「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」。彼がいかなる精神状態に至ったかは、スポルジョン氏に送った以下のような彼の手紙から推察されよう。――

 「お願いです。率直に教えていただけないでしょうか。自分はこの世に愛情を置いている人間ですが、こんな者にも、神の選ばれた家族に属しているという希望の余地が何かあるでしょうか? 御子イエス・キリストは自分のために死んだのでしょうか? 自分は祈ろうとするのに、祈れません。いくら決心しても破るばかりです。自分は、あなたが聖徒たちのために取り分けられている威光について語るのを聞くことがあります。彼らの喜びと彼らの感激について説明されるのを聞くことがあります。でも自分は、そうしたものとは全く無縁であるように感じるのです。おゝ! 先生。自分は、あなたが偽善者について話してくださったあの日曜日の朝、自分のことが描き出されているように感じました。自分はみことばの説教を聞きに会堂に行き、家に帰っては、いくつも決心を立てます。ところが仕事に行き、再び世の中に出ると、次の説教の時が来るまですべてを忘れてしまうのです。聖書も読みますが、興味を感じません。それは以前に読んだことがある本というだけのもので、味気ない、無味乾燥なものに思われます。キリストは、みもとに来るいかなる者も追い返さないと云われました。自分は、どうすれば行けるのですか? 自分には行ける気がしません。できるものなら行きたいのに、行けないのです。時には、何もかもやめてしまおうと思います。もう会堂に行くのはやめだとと思うのです。それでも、時間になると、欠席することはできず、もう一度また出かけざるをえないのを感じます。愛する先生。どうか教えてください。自分はどうすればイエスを見いだせるのでしょうか? 愛する先生。どうか教えてください。自分は偽善者なのでしょうか?」

 しばらくしてから――だが、スポルジョン氏やジョン・バニヤンそのひとが耐え忍んだものに似通った経験をくぐり抜けた後で初めて――、若きメドハーストは心の平安を見いだし、その後は、ずっとニューパーク街の牧師から信仰の息子として考えられるようになった。彼は1854年9月にバプテスマを受けた。最近、ある折に、メドハースト氏は、この学校が本当のところいかにして始まったかについて興味深い記事を載せている。――

 「私は、牧師になろうなどという考えは当時全くいだいていなかったが、バプテスマを受けた直後から、サザクのバンクサイドで野外説教を始めた。タワー・ヒルや、ビリングズゲート魚市場でもそうした。私が説教を初めてすぐに、ふたりの人がニューパーク街の教会に導かれ、このことによってスポルジョン氏は、私に牧師職に入る訓練をすべきであると示唆した。折りしも私は、自分のための時間がなくなっていた。私がその申し出に同意すると、すぐさまスポルジョン氏は、ベクスレー・ヒースのC・H・ホスケン氏と申し合わせて、そこに私は寄宿することになった。そして一週間に一度、スポルジョン氏と何時間かを費やし(当時、氏はサザクのドーヴァー通り75番地に寄宿していた)、氏から神学の手ほどきを受けたのである。牧会活動のために六箇月の訓練を終えた後で、私はキングストンオンテムズで説教するようにとの招きを受けて、このことから当地のバプテスト教会の牧師職への全会一致の招聘を受けることになった。私は、スポルジョン氏の助言に従って行動し、その招聘を、二年間の学びが終了するまでの間、暫定的に受け入れることとした。その次第は、このようであった。――スポルジョン氏自身がその教会と打ち合わせをして決めたことだが、彼らは、私に対する俸給に加えて、ベクスレー・ヒースにおける私の授業料の支払いとして氏が支出している額をも氏に与えることになったのである。そして、最初の学期が終了したとき、彼は一枚の小切手を私に差し出して、『これは君のものだ。あの執事たちは、あんな形でぼくが申し入れなかったら、これだけ余分に払いはしなかったろうよ』。私がその小切手の受け取りを拒否すると、すぐさま彼はこう云った。自分はこのお金を二年間主にささげたのだから、二番目の学生を採らなくてはならないね、と。このようにして、《牧師学校》が開始されたのである。C・H・ホスケン師(今もノリッジで健在であられる)の指導を受けた後で私は、キャンバーウェルのオールバニー通りで、ジョージ・ロジャーズ師について学ぶことになった」。*1

 上記は、この神学校の構想がいかにしてスポルジョン氏の頭の中で固まっていったかを明らかに示している。この若き牧師の説教は、古の預言者たちのひとりが吹き鳴らした召集喇叭のように、世の中から青年たちを引き寄せつつあり、その多くは、キリスト教奉仕に携わることを切望していたのである。メドハースト氏の成功は、他の青年たちをも受け入れる励みとなったので、ほどなくして、この教育の働きは、非常に出費のかさむ機関となった。当初の最たる困難の1つは、必要な資金を獲得することであった。というのも、受け入れられた学生たちは、大方の場合、あまりにも貧しすぎる階級の出身で、自分で自分を支えることができず、他のどの神学校であれ、彼らを受け入れる見込みなどほとんど、あるいは全くなかったからである。このように、学生たちの教育に関するスポルジョン氏の考えは、紋切り型のものではなかった。学識を過小評価することはなかったが、単に学校で身につけた技能教養だけでは、決して何の長所にもならなかった。彼の目当ては最初から、すでに説教者である人々を支援し、励ますことにあった。ウィリアム・オルニー氏もウィンザー氏も、教会の執事として、ともにこの新事業に心から賛成しており、これを支えるために惜しみない寄付を行なった。次の困難は、ふさわしい教師を見つけ出すことであった。それは、円熟した学識に加えて、信仰の健全さを兼ね備えた人物でなくてはならなかった。資金に関しては、毎週の安息日礼拝における献金によって一定の収入が確保された。その一方で、求められていた種類の《校長》にうってつけの人物が見つかった。キャンバーウェルのオールバニー会堂の牧師ジョージ・ロジャーズである。

 妥協することなき幼児洗礼論者ではあったが、ロジャーズ氏は、その他の点では全くスポルジョン氏の心にかなう人物であった。1799年に生まれた彼は、英国でも最高齢の会衆派教役者となっていた。スポルジョン氏のように彼はエセックス州の出で、彼の生誕地アードリーホールは、清教徒時代に、吠えたけるロジャーズとして知られる有名な説教者がその伝道活動を行なっていた土地からさほど遠からぬ所にあった。ジョージ・ロジャーズは十三人家族のひとりで、その全員が非国教会を堅く忠実に信奉していた。ジョージは、主義に従って、[英国国教に立つ]ケンブリッジ大学で無償教育を受ける機会を拒否しさえした。そのため彼は、その教育をロザラム大学で終え、ごく年若い青年のうちにロンドンに上京すると、ビニー博士の前任者ジョン・クレイトンの下で、ロンドンのウェイハウス会堂の副牧師として奉仕した。後に彼は、しばらくの間アプミンスターに居を構え、まだ若いうちにロンドンに戻ってきて、オールバニー会堂の会衆の責任を預かることとなった。

 ロンドンでロジャーズ氏は身を入れて勤勉に働き、他の何にもまして、神学教授としての職分を望んだ。実際、彼はそのような職につくために自分を訓練しさえした。必要とされた時に、このような人物が発見されたことは、スポルジョン氏にとって全くの「見つけもの」であった。オールバニー会堂の牧師は当時、五十七歳であり、求められていた資質をぴったり備えていたため、自分の新しい務めにこの上もない満足を感ずるほどであった。正統教理を受け入れる彼の態度は、スポルジョンその人のそれと同じくらい心からのものであった。その一方で彼は、度量の大きい、機知と思慮分別に富んだ人物であった。この神学校の初期の時代、学生たちはロジャーズ氏の自宅に寄宿しており、最初からこの教師は、自分がこの事業のために喜んで犠牲を払うことを示していた。あるとき、資金が底をつきそうになり、スポルジョン氏は彼自身の馬車と馬を売って、この運動の支えとすることを示唆した。この教師はそのような申し出には耳を貸さなかった。そして、むしろ自分が犠牲を払う方を好むと宣言した。そのうちロジャーズ氏は、この働きを熱烈に愛するようになり、学校にとって自分がかけがえのない者であるというよりも、自分にとって学校がかけがえのないものであると常々云うのであった。彼の学生たちは彼を大いに敬愛し、この校長が命よりも大切にしていた福音主義的教理から離れ去る者は実際、ほとんどいなかった。

 この神学校がスポルジョン氏のお気に入りの機関であることには何の疑いもありえなかった。そして、ある場所で彼は、自らそれを「彼の初子であり、最も愛するもの」と語った。この若い牧師が、この教育的な努力をいかに重要視していたかは、この働きが力強く押し進められるために、彼がいかなる自己否定を喜んで行なっていたかを見ればはっきりわかるであろう。新婚早々の、いまだ二十三歳にもなっていない青年が、自分の収入の大部分をこうした奉仕につぎ込み、その間、彼の妻は、彼がそうできるために、この上もなく厳格に家計を切り詰めていたことを思えば、彼の熱意を疑うことはできない。スポルジョン氏の考えによると、彼の目の前にあるのは非常に大きな機会であり、彼はそれをとらえようと決意していたのである。この神学校の構想は、この若い牧師の説教法と同じく、それ自体で革新的と云えるほど独創的なものであり、実際、そのようなものとして友人たちからも反対者たちからもみなされた。便宜を図られるべき人々に求められる資格は、他のいかなる学校のそれとも異なっていた。他の類似のあらゆる機関において、既婚者には入学資格がなかった。だが、スポルジョン氏は、いかなる杓子定規な規則にも縛られるつもりはなかった。既婚の青年であっても、何年か神学と学問の学びをすることによって、より用いられるようになる見込みがありさえすれば、受け入れられた。別の人は、すでに牧会活動に着任していたかもしれない。だが、もししばらくの間、自分の信徒たちから離れることによって、より効果的な説教者となる助けが得られると見込まれる場合、そうした人々もまた歓迎された。一言で云うと、その目指すところは、すでに説教者となっている人々を助けて、よりすぐれた神と教会のしもべ――恥じることのない働き人[IIテモ2:15]――にならせることであった。その働きのための純粋な才質があると見分けられる限り、スポルジョン氏は、相手の青年の教育上の短所にはあまり目くじらを立てなかった。そうしたものは、ある程度まで矯正することができる。だが、キリスト教奉仕における熱心さは、ただ神の聖霊の働きだけによってもたらされる心の変化がなくては獲得されえないのである。この牧師は、本物であれ想像上のものであれ、際立った学問的資質があるとの理由で自分を売り込んでくるような人間は、極度の疑惑をもって眺めるのを常としていた。折にふれ、絵に描いたように滑稽な、うぬぼれきった天才が彼の前にやっては来たが、この上もなく鋭い目と、過たぬ判断によって、スポルジョン氏は決してそうした人間の見定めをしくじったことがなかった。そして彼は、いかなる人にもまして、こうした自信満々の自己中心主義者たちに対して効果的なquietus[とどめの一撃」を加えるのに長けていた。

 最初から、この神学校の創設者は決して相当数の青年たちを1つ屋根の下に寄宿させるという考え方に好意を示していなかった。確かに、当座はロジャーズ氏の世帯が全学生を包含していたが、それは恒久的な取り決めではなかった。人数が増えたとき、彼らは、タバナクル周辺の家庭に二、三人ずつ分かれて寄宿することになった。そして、この神学校の建物そのものが、今から十八年ほど前に建設されたときも、その構内に学生を寄宿させる便宜は全く図られなかった。

 この奉仕における経験を積むにつれてスポルジョン氏は、自分が正しいことを行なっていること、また自分の方法が種々の良い成果を最も結ばせるものであることを確信するようになった。彼は常に、木はその実によって知られるという、キリストの判断方法を採用してきた人であった。そして、この場合、彼は満足させられるとともに、感謝の念をいだかされるような実を見たのである。反対者たちが立ち起こり、彼が行なうような訓練を受けていては、だれも教役者として働きの場を見いだせるはずがないと主張した。あるいは、そこで規定された教科課程は、それ以前の学問知識がまるで取るに足らない人々に、積極的な奉仕に携わる説教者たちに必要なものを与えるには全く不適切なものだと主張した。この反対論に対する最も決定的な回答は、この青年たちが自分の働き場を植民地で、あるいは、海外宣教の現場で見いだしたときに見いだされた。あるいは、しばしば起こったように、彼らが本国において最上の地位のいくつかを確保したときに見いだされた。これは現実に、ここで言及できる以上に多くの場合に起こったのである。

 この神学校がスポルジョン氏のお気に入りの奉仕であった以上、私たちは、先に進むにつれて、彼がこれに自分の最上の勢力をつぎ込んだことを見いだすであろう。私たちが見いだすであろうように、彼は、1865年以来、毎年その年次大会に出席し、それぞれの場合に、教えに富む刺激的な講演を行った。それは、その時における彼のあらゆる力と、あらゆる熱情を呼び起こすように思われた。金曜日の午後は、学生たちのために全く振り向けられた。そして、そのときになされた講義は、それを聞いた者たちにとって決して忘れられないものとなった。それは、この創設者に関する限り、最初から最後まで、無私の働きであった。だが彼は一度も、自分の費やした労苦や出費を惜しんだことはない。

 スポルジョン氏の死後、米国にいたその友人のひとりが、この働きについてこう指摘している。――

 「《牧師学校》の教科課程は、貧弱すぎるし、時代にとって十分に包括的な教育を学生に供与していないと批判されてきた。だが、常に思い出されるべきことに、この機関によって採用された学びの計画は、決して大学教育に取って代わるものと意図されたことはなく、その《学長》は決して、より高次な、また、より広汎な学問知識を過小評価したことはないのである。もう1つ忘れてならないことだが、最近の時期になるまで、非国教徒がオックスフォードやケンブリッジに入る特権を得ることは容易でなかった。実際、私は、個人的に、ケンブリッジ卒業を許可された非国教会系学生の中でも第一級の人物のひとりと知遇を得る栄誉を受けたものだが、彼はまだそれほど年輩の紳士にはなっていないのである。従って私たちは、《牧師学校》における浅薄さと見えるものについて、スポルジョン氏が置かれていた特異な状況および押し迫る必要という情状を酌量しなくてはならない。この神学校が考案され、開始されたのは、実際的な備えをするための機関としてであって、そのようなものとして、それはその存在を、議論の余地なく正当化してきた。その学生たちは、洗練された文学的言辞を自分の講話に織り交ぜるすべは教えられなかったかもしれないし、彼らの《学長》の様式のようにたぐいまれな明快さを獲得することはできなかったかもしれないが、それにもかかわらず、彼らは価値のある、精確な情報を受けたのである。彼らは、同じように聖書の完全な知識を獲得した。また、牧会の義務に関する賢明な示唆に耳を傾けてきた。また、過労や狂信に対して警戒してきた。神の聖なる町の周囲で宿営することにこだわる、宗教的流民のこの部族、あの部族を不断に追いかけることに対して警戒してきた」*2

 新世界からのこうした証言は、《牧師学校》の亡《学長》を大いに喜ばせたに違いない。

  


*1  『南ウェールズ日刊』[本文に戻る]

*2 『十九世紀の清教徒的説教者』(ジョージ・C・ロリマー著、ボストン、1892年)。これは、スポルジョン氏ときわめて親しくしていた人物による研究論文である。


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