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第27章

大惨事

大会堂のための醵金始まる――サリー・ガーデンズ音楽堂――スポルジョンの礼拝のために予約さる――建物内の光景と園内――様々な目撃者による話――死者と負傷者――説教者が受けた影響

 エクセター公会堂は、いかにひいき目に見ても、テムズ川南岸に本拠を置く会衆にとって、非常に好都合な場所に立っているとは云えなかった。それだけでなく、その公会堂の経営者たちは、一教派しか代表していない会衆によって、あまりにも定期的に占有されることを好んでいなかった。そうした難点に加えて、スポルジョン氏その人も、その建物が十分に広くはないという欠陥をあげることができたかもしれない。その大講堂は、そこで礼拝が持たれるたびに群衆のため立錐の余地もなくなり、たといその二倍の大きさであったとしても、やはり小さすぎたであろう。

 1856年のミカエル祭の日[9月29日]、ニューパーク街会堂ではある会議が開かれ、私たちも見る通り、前々から「世界一の大会堂」として語られていたものの建設計画を開始する手筈が整えられた。リースク博士とフレッチャー博士、ペイン参事官とジョージ・ムーアが、スポルジョン氏その人に加えてその場にいた主立った人々であり、何口もの非常に気前の良い寄付が約束された。この「巨大事業」は、今やつのりゆく関心をかき立て始め、この第一回目の会議は非常に人々で混み合うものであった*1

 こういうわけで、全般的な状況を見ると、1つの危機が出来していたように思われた。スポルジョン氏も、その友人たちも、いかに対処すべきか見当もつかなかったような危機である。こうした平易な福音説教によって、ロンドン中の注意が喚起させられたがために、この町のいかに大きな建物も、話を聞きたがる群衆を収容するには小さすぎるようになってしまったのである。エクセター公会堂自体、利用可能な施設としては最も広壮な空間の1つであった。だが、もしも今後長期にわたって、その使用が許されなくなるとしたら、その間どのようにすべきであろうか?

 進取の気性に富む熱烈な人々であれば、すぐさまそうした必要を満たすような建物の建設を主唱したかもしれない。だが、それには巨額の金銭が必要であったし、たとい必要とされる資金が手に入ったとしても、そうした会堂を建設すること自体に、それなりの期間が求められたであろう。この若き大人気の説教者が、引き続きその使信を大群衆に語れるような暫定的措置を講ずることは可能だっただろうか?

 たまたま、ちょうどその頃、一万人から一万二千人の聴衆を収容できる建物が建てられた。これは、王立サリー公園内の《音楽堂》で、天才M・ジュリアンがその常任指揮者であった。実際、エクセター公会堂と、このウォルワースにある人気遊園地との間には、奇妙な種類の縁があったが、そのことに、おそらく多くの人々は気づいていなかったであろう。あの古いエクセター取引所が取り壊され、現在のエクセター公会堂に取って代わられたとき[1829年]、その[動物園の]野生動物たちは、一時的にチャリングクロスのキングズ袋小路に移された後で、ウォルワースの領主邸の庭園跡地に落ちつくことになった。そこで彼らは、大きな円形の檻に入れられ、すべては経営者たるエドワード・クロスの管理の下に置かれた。後に、花火とパノラマ絵も興趣を添える呼び物となり、ついに1856年、この《公園》がとある有限会社の所有となったときに、M・ジュリアンの人気演奏会のための大公会堂が建てられたのである。

サリー・ガーデンズ音楽堂

 この《音楽堂》がスポルジョンの礼拝のために使えるのではないか、という考えが数人の友人たちの頭に浮かび、それを他の人々に打ち明けたところ、それは言下に反対された。世俗的な娯楽の神殿にすぎない場所で福音を説教するなど、不敬虔な考えだというのである。もしスポルジョン氏とその友人の何人かが、物事をそのような観点から見なかったとしたら、それは彼らが時代を先取りする革新者たちだったからである。キリスト者としての彼らは、ある意味で急進的であった。彼らは、できるものなら自分たちの協力者となってほしかった多くの人々にとって、全く理解しかねるようなことをする場合があった。福音を公会堂や、劇場や、そういった類の場所で人々に語り聞かせるなどという考えも新奇なものであり、決して普遍的に受け入れられるものではなかった。だがスポルジョン氏は、こうした偏見に全くとらわれていなかった。自分の使信がいずこでも同じように求められていると感じていた彼は、それをいずこにも携えていく所存であった。確かに、後年この《音楽堂》は、日曜の夜の娯楽のためにも用いられるようになったときに放棄されはしたが、それは、安息日を放埒に汚しているような経営陣を、会衆が支持していると目されないようにするためであった。

 この大《音楽堂》を借りることが本決まりになる前に、スポルジョン氏とその友ウィリアム・オルニーは、この建物を下見に行った。両人は、ともにその建造物の巨大さに威圧され、安息日のキリスト教礼拝のために、このような場所を群衆に対して公開するのは、かなり冒険的なことだと考えざるをえなかった。こうした類のことは、それまで一度も試みられたことがなかった。というのも、ウェスレーやホイットフィールドがその最大の聴衆に語りかけたときには、そのような大人数を中に入れるだけの大きな建物が1つもなかったために、野外で行なわれたからである。この場合、この牧師とその友が見いだしたのは、実のところその収容力が決して測り知れないと思える建物であった。とはいえ、一万二千人以上の人々が収容できる、と云われたなら、おそらく当たらずとも遠くなかったであろう*2。この広大な面積を隅々まで眺め、それから三層に連なる大桟敷席を見上げたとき、ふたりがいささか心許なく感じたとしても当然であったろう。いかなる結果が生じるか、だれにも予想できないようなことを試みるのが、果たして妥当だろうか、と。

 それと同時に、この説教者もその忠実な友も、一万二千人以上もの人々に向かって、一時に《福音主義的な福音》を宣べ伝えるのは、栄光に富むことであろうとの想念によって元気づけられもした。そして、自らの信頼を神に置いて彼らは、前進する決意をした。なされようとしていることを見越して喜んだ人々も、この大事業に心許なさを感じた人々も、ともにその成功のために祈った。10月19日の日曜夜が、最初の礼拝を行なう時として定められた。

 M・ジュリアンが、その大楽団や歌劇の「花形たち」とともに、おびただしい数の遊興者たちを楽しませてきたような公会堂で、スポルジョンが日曜礼拝を行なうことになった、という知らせは、ロンドン中を駆け巡り、その期待はうなぎ登りになった。一般大衆の側では、その礼拝に出席したいという願いが、おそらくいまだかつてくらべようもないものとまでなった。あらゆる社会階級の人々が、子どもから大人まで、そこに出席したいと願っているように思われた。その記憶されるべき秋の日の午後には、ほとんど夕闇がまだ垂れ込めていない間からさえ、その《公園》に至る街路は人々で混み合い始めた。スポルジョン氏その人が到着したとき、この人々の光景に、しばし彼は気力がくじけそうになるのを覚えた。そして確かに、いかなる勇士であれ、このような場合に自分が主人公となることには胸がむかむかし、失神しそうな思いをして当然であったろう。相当離れた所から見てさえ、街路という街路は、うねうねと続く人々の流れで、生きているように思われ、《公園》の入口通路は、公会堂に入ることのできない群衆がひしめいて、ふさがれていた。この建物そのものが満席になったときも、園内には一万人以上の人々がいた。とうとう外門が閉ざされて、外の通りから侵入してくる群衆を抑えた。

 建物の戸口は、六時に開かれた。戸口という戸口から人々がなだれ込み、ほんの数分のうちに、三層の桟敷席と、舞台前の楽団席と、一階座席とは、ことごとく群衆ですし詰めになってしまった。ある人はこう語っている。「その場所の途方もない大きさにもかかわらず、もう十人たりとも中に入ることはできなかった。そして、座席がふさがったときも、もう二、三千人もの人々が喜んで通路に立とうとしていたし、外部の緑の芝生には、それよりも相当に多くの人々がいて、窓からのぞき込んでいた」。その光景は、それなりに無類のものであった。単に福音が宣べ伝えられるのを聞くだけのために、このような会衆が何らかの建物の中に入ったのは、空前のことであった。『ブリティッシュ・バナー』の編集者、ジョン・キャンベル博士は、講壇近くに座っており、その場の状況をこのように書き記している。――

 「この種の壮観は、いまだかつて人間の目に呈されたものの中でも、何にもまして印象的で、荘厳で、すさまじいものであった。その観念を、筆舌によって適正に伝えることはできない。それを理解するには、目で見るしかなかった。そして、それを目で見た者たちは、いかに時を経ても決して抹消できないような印象を受けた。一万人から一万二千人前後の人々が、《生ける神のことば》を聞きに、このような場所、このような時に集結し、ひとりの人物によって語りかけられるという光景、しかもその声の力強さと広がりは、いかに遠くにいる者も容易に、快く聞き取ることができるほどであるということは、それを目撃した善良な人々全員の心に著しい喜びをかき立てるに十分であった。また、それは天界の注意を呼び起こすに十分であったと云っても誇張ではない」*3

 今なお存命中のひとりの友人は、細君とともにその場に出席していたが、こう語っている。――

 「私たちは、その場所にちょうど良い時間に着きました。その建物は急速に一杯になりつつあったのです。私たちは二階桟敷に席をとり、講壇に直面する格好で座りました。ふたりで隣同士に座ることはできませんでした。とうとう、3つの桟敷席が満席になったばかりでなく、ぎゅうぎゅう詰めになりました。この建物の土間の座席も同じでした。この建物の壁面にかかっている途方もない圧力によって、壁が崩れる可能性もあるのではないかという考えが、私にも妻にも思い浮かびました。私たちは、特にしめしあわせることもなく、この礼拝が静かに進行していく間、すぐにこの建物を離れようと、ふたりとも決心していました」*4

 もし、このような想念が他の人々の思いにもとりついていたとしたら、盗人たちが、自らのたくらみのために恐慌を引き起こすのは、比較的容易なことであった。もっとも、すべては幸先の良い調子で始まった。最前に感じていた失神感と気分の悪さから立ち直った説教者は、完全に本調子に見えた。彼は、二三の適当な言葉によって口を切った。聖書を読み、それに賛美歌が続いた。「そこには、何の無味乾燥な論考も、何の手の込んだ批判もなかった」、とキャンベル博士は云い足している。「ただ聴衆の心に向けられた語りかけがあった。最初からこの講演者は、最も重要な務めを果たしたいという強い願いをもってやって来たこと、また、それを達成すること以下の何物も重要視していないことを示していた。次に一般祈祷が続いた。そして、ここでも、同じように当を得た、独特の雰囲気が顕著であった。この説教者を鼓舞していた唯一の重大なことは、何にもまして明らかに、人々の救いであった」。

 この一般祈祷が開始された直後こそ、かくも巧妙にその奇襲を計画していた陰謀者たちが、その好機到来と見たときであった。よく指示を受けていた手先たちが、公会堂内のあちこちで部署についており、それぞれの部隊が、手筈通りに、割り当てられた役割を実行に移したものと思われる。いずれにせよ、スポルジョン氏がその祈りを始めた直後に、突如としてある一画から、「火事だ!」、との叫びが上がったのである。もう一方からは、別の叫びが起こった。――「桟敷が崩れる!」 そして、さらにもう一方から、恐怖を装ったていの叫びが聞こえた。――「床が抜けるぞ!」 たちまち続いた光景は、到底まともに描写されるものではなかった。すでに言及したR・J・カーティス氏の語るところ、「突如として建物内のあるゆる場所、特に上の方の桟敷席から、あわてきった、滅茶苦茶な殺到が始まりました。私も非常に急いで立ち去り、踊り場に達したところで、階段方面に向き直ると――それは降りて行くためではなく、一目眺めるためでしたが――、私が危険に飛び込んでいくものと思っただれかから引き留められました。そこに立っている間、恐怖に駆られた人々は、不可抗的な波のように突進して行き、その最前部は階段手すりを乗り越えて、階段の底までまっさかさまに突き落とされていきました」。一部の人々が、根も葉もない危険を逃れるために、空恐ろしいほどの高さから飛び降りたしかたは、全く説明がつかないものである。私の知っているある紳士は、その桟敷席の1つに座っていたが、あわてふためく理由が何もないのを見てとって、自分の隣に座っていた淑女を必死になって安心させようとした。しかしながら、彼の努力の甲斐はなかった。その婦人は、恐慌のあまりに正気を失い、自分の座席から飛び出すと、一階座席へと飛び降りて行き、両足を骨折したからである。彼女を引き留めようとしていたこの友人の手に残ったのは、肩掛けだけであった。

 この婦人の逆上は、他の人々を襲った恐怖を端的に示すものであった。それによって数多くの人々が死ぬか、四肢を骨折することとなった。桟敷席から階段への殺到はまことにすさまじく、手すりがふっとび、脱出の道と希望されたものが、たちまち恐るべき死の落とし穴となった

 陰謀者たちがその地雷を爆発させてから数分後に絶頂に達したこの動揺を描写して、同時代の記事はこう語っている。――

 「この時の阿鼻叫喚は恐ろしいものであった。それに加えて、外へ逃げ出せなかった人々は、すでに押さえ切れようもないほど気を高ぶらせていた。彼らは、死者や死にかけた人たちを踏みつけにし、必死に突進して行っては、半狂乱になって互いに引き裂き合った。何百人もの人々が、遮二無二脱出しようとするその努力によって、着物の背中を引きちぎられた。大勢の男女が突き落とされ、その叫びや泣き声などに頓着されることなく、踏みつぶされていった。男は女を思いやることなどないように見え、女はそれと同じくらい同性に対して無慈悲に見えた。その場の全員が、ただ1つの目的に駆られているように思われた。――自己保存という目的である。ある人々は桟敷席を乗り越えて、階下の人々の頭上に飛び降りた。その間もずっと、背後の人々からの圧力は、いや増し加わり続けていた。さもなければ怪我をすることもなかったはずの多くの人々が、周囲の群衆によって押しつぶされた。女たちは――また頑健な男たちでさえ――失神して、床に崩れ折れ、彼らの後に続く人々によって蹂躙された。

 「桟敷席から落ちた人数にもかかわらず、人混みはなおも階段へと突進し続け、桟敷席の端部が鉄の柱によって支えられているという摂理的な状況がなかったとしたら、人命の喪失はこの上もなく恐るべきものとなっていたに違いない。この惨害と恐怖の光景が、この建物の北西の端で進行している間、同じような恐怖が他のすべての出口付近で起こっていた。

 「内部で苦しんでいる不幸な人々の金切り声が、公園への立ち入りは許されたものの、公会堂に入場することはかなわなかった人々の耳に達するや否や、彼らは外門へと死に物狂いで突進し始めた。だが、奇妙な取り計らいによって、彼らが門の外へ出る手立ては全くなかった。一晩中外部にいる大群衆が公園内に入ってくるのを防ぐために、門はがっちりと閉ざされていたのである。男も女も子どもたちも、鉄の柵をよじ登り、引っ張り上げられては、投げ落とされ、その多くが結果的に重傷を負った。すさまじい事故が起こったという話が外部の人々に知られるや否や、気違いじみた噂が蔓延した。ある人々は、建物全体が崩れ落ち、全員が生き埋めになったのだと主張した。他の人々は、桟敷席が、その上に座っていた人々もろともに倒壊したのだと云った。そして、途方もない興奮が外部の人々にはびこった。自分の妻や娘たちを建物の中に送った父親たちが、また、子どもたちをそこに送った母親たちが、そして事実、入場を許可された縁者を有するあらゆる人々が、自分たちにとって永遠に失われたと信じられる者たちのために、すさまじい悲嘆の叫びをあげた。

 「この時までには、聴衆の大多数は公会堂から脱出しており、むろん大慌てで街路の方へ進んできた。かすり傷1つ負わずに逃げられた幸運な人々は、彼らの最も不幸な友人や同行者たちを連れ出す助けをし、この悲しい災難が事実であることを外部にいた人々に悟らせた。彼らは、可能な限り急いで、自分たちの縁者や友人たちを探し求めて建物へと向かった。その力が残されていた者たち全員は、公会堂から出て行ってしまった後であり、そこに見られたのは、ただ死者と、虫の息の人々と、負傷者たちだけであった」*5

 私の友人であるR・J・カーティス氏は、彼の目に映った建物の内部と、講壇近辺の光景をこう描写してくれている。――「しばらくしてから、私は自分の座席に戻り、礼拝の終わり近くまでそこにとどまりました。いわれなき『火事だ!』という叫びによって引き起こされた騒動の間、スポルジョン氏は完璧な冷静沈着さを保っており、その恐慌を鎮めようとして、『すりにご用心!』、と大声で叫びました。そのときの彼の主題聖句は――疑いもなく、即興で選ばれたものですが――、この言葉でした。『悪者の家には、主ののろいがある』(箴3:33)。その説教は的をついており、最も折良い場合と同じくらい効果的に語られました。彼は、あの偽りの警報によって生じた無惨な結果について、礼拝が終わるまで気づきませんでした。その場を立ち去るとき、私たちは階段の底で、大きな血の海が部分的に絨毯によって覆われているのを見ました」。

 これは、その説教に関する限り、ある主要紙が取った見方と軌を一にしている。――「説教者は、一歩も動かず、説教し、祈り、詩篇を読み上げた。生き残った会衆は自分たちの座席に戻り、新会堂のための献金箱には、音を立てて献金が投げ入れられ、その礼拝は、ほとんど何事も起こらなかったかのように閉じられた」*6

 しかしながら真相を云えば、スポルジョン氏は、「説教を! 説教を!」、という呼び声によって公会堂のあちこちから促されるまで、説教を語ろうと試みることさえしていなかった。そして、覚えておかなくてはならないことだが、説教者と、講壇付近で彼の周囲にいた人々は、この建物の遠い部分で本当には何が起こっていたのか、全く知らなかったということである。

 スポルジョン氏が実際に語った言葉のほぼ完全な報告が、教派新聞に掲載されている。この説教者が願ったのは、賛美歌が歌われている間に、人々が退出することであった。だが、戸口付近で起こった惨禍のすさまじさについて全く知らなかった会衆の大多数は、それでも、「続けろ! 説教を!」、と叫んだ。

 「愛する方々。私は何について説教すればよいだろうか?」、とスポルジョン氏は云った。「あなたは私に今晩説教せよと云う。私は、できることなら何でも喜んで行なう覚悟があるが、こうした混乱すべての最中にあって、何を私の主題とすべきだろうか? 願わくは神の聖霊が、この厳粛な機会において語るべき主題を私に与えてくださるように。愛する方々。やがて恐るべき日が来ようとしている。今晩の恐怖と恐慌など何ほどのことでもなくなる日である。その時には、雷と稲妻と濃密な暗黒が、その最大限の力を振るうであろう。私たちの足下で大地はぐらぐらと揺れ動き、堅い天の迫持はその中央部めがけて今にも倒れそうになるであろう。来たるべきその日、雲という雲はその奇観と凶兆を現わし、その雲の上にキリストが栄光のうちに座し、あなたを審きへと召還なさるであろう。今晩のこの恐ろしい混乱の中で、多くの人々が出ていったが、その大いなる日にも同じことが起こるであろう。しかしながら、私はこう信ずることができる。その日の結果が示すであろうところ、非常に多くの人々が――出ていった人々に劣らない割合の人々が――、その大いなる日の試練を耐え抜くことになるであろう。たった今起こった恐慌を生み出したのは、ある程度まで、私たちに自己保存を求めるよう教える本能であった。しかし、それにもまして多くの人々に影響を与えたのは、死への恐れというよりは、その後に来る何かへの恐れ――旅立てる者の二度と戻り来ぬ、かの未知の国への恐れであった。良心こそ、私たちを臆病者にしてしまうものにほかならない。多くの人々はそこに止まるのを恐れた。なぜなら、それは、手をこまねいたまま罪に定められることだと考えたからである。彼らは意識していたのである。――そして、あなたがたの中の多くの方々も意識しているのである。もしあなたが今晩あなたの《造り主》の前に突進していくとしたら、あなたはそこに、赦罪を得ていない者、罪赦されていない者、断罪された者として引き出されることになるだろう、と。しかし、今のあなたの恐怖など、《全能者》が最後の審判を行なうその恐るべき日の恐怖にくらべれば、何ほどのことがあろうか。そのとき天はあなたの頭上で縮み上がり、地獄はあなたの足の下でその口を開くのである。しかし、愛する方々。あなたは知らないだろうか? 恵みは――主権の恵みは――あなたをそこから救い出せるのである。あなたは、イエスがこの世に来られたのは罪人を救うためであった、という喜ばしい知らせを一度も聞いたことがないだろうか? あなたは罪人のかしらである。キリストがあなたのために死んだことを信ずるならば、あなたは、あなたを待ち受けている地獄の苦悶から救われることができるのである。あなたは自分が失われ、滅びていることを知らないのだろうか?――イエスのほか何者も罪人に善を施せないことを知らないのだろうか? あなたは病気にかかり、病をわずらっている。イエスはあなたに善を施すことができるし、そうしてくださるであろう。今晩、私はこの聖句から説教しようと考えていた。『悪者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される』。だが、もはや自分の願う通りの説教はできないと感じている。あなたは、やがて別の警報を聞くであろう。そして私は、あなたがたの中のある人々が、何の害も受けることがないように、漸次退出しようとしてほしいと願うものである。本日の聖句が見いだされるのは箴言3章33節である」*7

 静寂に似たものが得られたが、すぐに再びざわめきがわき起こった。「あなたは私に説教するように求める。だが、いかにして私は、このように恐ろしい光景の後でそうできるだろうか?」、とスポルジョン氏は尋ねた。「私はめまいがしており、ほとんど自分が今どこにいるかもわからない。先ほどの殺到によって、大勢の人が怪我をしたに違いないと思うと、途方もない気がかりを覚えるからである」。その後、賛美歌の「たかきみちから ひとでによらず」が歌われ、会衆は静かに退出するように促された。

 この恐慌が説教者自身に及ぼした影響については、いくつかの報告が寄せられている。その1つによると、彼は意識を失ったまま、講壇からかつぎ出されたという。だが真相は、最悪のことが知られたときに、この礼拝は閉じられたということである。ある記録者の言葉によれば、「スポルジョン氏は、その説教の冒頭で、このような事件の後では、むろん自分は願う通りのしかたで彼らに説教することはできないと述べた。だが、もし彼らがとどまりたいと考えるのであれば、通常の時間だけ彼らに説教しようと語った」*8。別の記事はこう指摘している。「この恐ろしい現場の間、スポルジョン氏の精神が現わしていた沈着さは、まことに驚くべきものであった。彼はいかなる点でも狼狽することがなく、柔和でありながらも断固たる決意を現わして、事を進めようとした。だが、数百人からなっていたに違いない盗人たちは、しつこく騒音を立て続け、それを完全に見込みのないものとしてしまった。そこでスポルジョン氏は、この集会の終了を示唆して、この膨大な群衆にゆっくりと出て行くように勧めた」*9

 死者は七名、負傷者はそれ以上の数に上った。この恐慌の首謀者たちについて、その場にいた警察の一警部の表明した意見によると、この悪さを引き起こしたのは盗人たちではなかった。むしろそれは、スポルジョン氏の敵たちの何人かが、彼にいやがらせをしようと決意していただけであると考えられた。*10

  


*1 『バプテストの使者』、第5巻、120。[本文に戻る]

*2 「今季の間、アルボーニ夫人が最初に出演した折には、13,000人を下らない数の人々が、この建物内に快適に収容されたものであった」。――『ブリティッシュ・バナー』、1856年10月21日。[本文に戻る]

*3 『ブリティッシュ・バナー』、1856年10月23日。[本文に戻る]

*4 《貧民学校連盟》のR・J・カーティス氏による談話。[本文に戻る]

*5 『ブリティッシュ・バナー』、1856年10月21日。[本文に戻る]

*6 『タイムズ』、1856年10月20日。[本文に戻る]

*7 『自由人』、1856年10月22日。[本文に戻る]

*8 『ブリティッシュ・バナー』、1856年10月21日。[本文に戻る]

*9 『モーニング・アドバタイザー』、1856年10月20日。[本文に戻る]

*10 この惨事は類例のないものではなかった。やはり同じように偶発的な恐慌の事例が当時、次のように明らかにされたからである。――
 「1801年10月18日、エアー州、キルマーノックの《低教会》で集会中の人々に、ぞっとするような事件がふりかかった。その日の午後、その建物は教役者が到着する前から、過度に混雑していた。鐘が鳴りやんだ頃に、ある座席の端がピシッと音を立てて割れた。そこに座っていたふたりが即座に、家が倒れると叫び声を上げた。この警報は稲妻のように伝わり、だれひとり、自分の見聞きしたものと、自分の想像力がまざまざと描き出したものとの区別をつけられなくなった。そのため、瓦礫の下敷きになる前に外へ出ようという殺到が起こった。特に桟敷席から続く階段は教会の一階座席へと続いていたために、その殺到はすさまじかった。……その日、この教会の内外で呈された光景は、胸を引き裂かれるようなものであった。――三十名の人が圧死したのである!」


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