HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第28章

ロンドン各紙の批判

途方もない噂――ロンドン各紙の激越な記事――何例かの抜粋――友人たちや公平な観察者たちによって示された他の一面

 死亡した人々の中には、前途有望な若者たち数名という悲痛な事例が含まれていた。五体満足な姿で自宅を出ていった彼らは、その数時間後に、こわばった死体となって、窒息によりどす黒く変色した顔つきとともに運び込まれてきたのである。この大建造物には、いかなる種類の瓦斯管も暖炉も含まれていなかったため、火災の犠牲になるような場所とは思われなかったのだが。事件の翌朝、この公会堂には、老若男女の、ありとあらゆる種類の衣類がまき取らされており、その量たるや、ロックスフィールド警察署内でそれを保管しておける部屋が見つからないほど多かった。公会堂の内部でも、外部の群衆の間でも、大勢の盗人たちが多数の盗みを働いたが、そうした犯罪者たちのうち逮捕された者はひとりもいなかったように見受けられる。その夜の間、途方もない噂がロンドン中を駆け巡り、その興奮は、翌日の朝刊各紙がこの災厄の報道記事を載せて発行されても鎮まることはなかったに違いない。そうした新聞の一面記事では、この事件の事実が多かれ少なかれ誤り伝えられていたからである。まさにこのときこそ、この若い牧師が、『モーニング・アドバタイザー』のジェームズ・グラント、『ブリティッシュ・バナー』のジョン・キャンベル博士という、自分の味方となるふたりの友人を有していることのありがたみを悟らされたときであった。

 『モーニング・アドバタイザー』の記者はこう語っている。――

 「スポルジョン氏がエクセター公会堂を離れ、その結果、余所に自分の会堂よりも大きな建物を求めざるをえなくなり、結局は、サリー・ガーデンズ音楽堂――この災厄が起こった現場――に導かれるに至った理由については、実に馬鹿げた、また不正確な諸説が紛々と口にされている。エクセター公会堂が使われていたのは、ニューパーク街会堂が建て増されている間のことである。だが、その建物が順当に完成したとき、エクセター公会堂の管財人は、それ以上は同公会堂の使用をスポルジョン氏に許可しないことに決定した。実を云えば、そうした許可を与えるのは、彼らの規則に反することだったのである。というのも、もともと彼らは、自分たちの教派的中立の立場を貫くために、いかなる教役者であれ教派であれ、自らの建物を修理するための余儀ない期間を越えては、決して同公会堂を占有し続けることを許されないと取り決めていたからである。それゆえ、ニューパーク街にあるスポルジョン氏の会堂が完成して再開所されたとき、エクセター公会堂の管財人は、その規則を曲げない限りは、もはや彼に同施設の使用を許可できなかった。さもないと、その建物は彼の名前と同一視され、それにより、これまで執拗に守られてきたその非教派主義の立場が失われてしまっていたであろう。これが、この件に関する事実であり、世人の途方もない想像の数々に対する十分な答えとなるであろう。多くの人々は、結果を説明しようとしながら、そこに至らせた種々の状況については全く知っていないのである」。

 月曜日の晩、ニューパーク街会堂では、1つの会議が開かれ、執事のひとりであるムーア氏がこう述べた。――

 「かの警報の発祥については、疑いもなく、悪辣な企みを意図した者らによって生じさせられたに違いありません。おゝ、何と恐るべき光景だったことでしょう! 皆さんは、私たちの可哀想な牧師についてお聞きになりたいに違いありません。――彼の具合は非常に悪いです。非常に悪いと云うのは、何か怪我をしたとか傷を負ったということではなく、彼の神経にかかった極度の緊張と、彼の激しい苦悶によるものです。あまりの具合の悪さに、私たちは今朝の彼の精神状態について恐れを覚えるほどでした。こうした状況下で、できることは1つしかありませんでした。――すなわち、この現場から遠く離れた田舎に彼を送り出すことです。日中、おびただしい数の人々が彼の自宅を訪れるだろうことは目に見えていたので、私たちは本日の早朝に彼を送り出しました。それで今週は、彼の説教予約は全く入れることができません。たったいま受け取った情報で、私が皆さんにお伝えできるのは、今晩の彼は、多少は持ち直したものの、なおも非常に打ちひしがれているということです。オルニー氏(別の執事)は、今も寝込んでいます。ですが私たちは、昨夜の私たちの敵たちに対して、彼らが私たちに対してそうであったよりも、あわれみ深くなろうではありませんか。あの悪辣な卑劣漢――悪逆異端の徒と呼んでも許されるような人物――かくも多くの人命の損失を招いた、恐るべき警報を最初に発した人物――この人のためにすら、私たちは祈りましょう。この人がいつの日か、この部屋に立って、自分の大きな犯罪を認め、悔い改めを求めないとは、だれにわかりましょう?」*1

 この事件に言及して『自由人』は、スポルジョン氏とその友人たちがこの音楽堂を借りたことは正しかったと主張した。また、「《摂理》の導きとも、キリスト教的熱心とも思われたものに従ったことで、この説教者とその執事たちに、野心だの虚栄だのといった非難を投げつける」のは、子供じみた幼稚さであるとして一蹴している。

 この惨事に言及する中で、『タイムズ』は、いくつもの奇妙な間違いを犯した。その記事によると、二万人もの人々が新築の音楽堂へと赴き、その話を聞きたがった説教者は、「ほんの二十五歳でしかなかった」。また、彼のために、「人々は、さる場所に一万五千人を収容できる建物を建てつつある」という。この筆者の推測によれば、しかるべき配慮がなされていなかった。また、こうした状況下では、この事故は、当然予期されてしかるべき類のものであった*2。それから、多少の忠告がスポルジョン氏に呈された。そこで描き出された氏は、いかなる人気雄弁家によっても、いまだかつて語りかけられたことがないほどの大群衆を前に演説する野望をいだいた人物であるかのように見られていた。――

 「人間の声には限界がある。ギリシヤ神話のステントールその人でさえ、人類全体に声を届かせることはできなかった。聖ポール大寺院には二万人の人々が集まる場合もあるが、彼らは話を聞くわけではないし、聞くことを期待されてもいない。むしろ逆に、説教者が講壇に現われるや否や、彼らはサンドイッチや、丸パンや、酒瓶や、新聞紙を取り出す。首都内のいかなる教会であれ、一部の誇大な喧伝にもかかわらず、三千人も収容できはしない。ならば、いかなる人が以前に集めたよりも五倍も多い聴衆を集めようという試みは、どう控えめに云っても、非常に野心的なものである。スポルジョン氏は、少なくともサリー・ガーデンズ音楽堂が人々を快適に座らせるよう意図されただけの人数、また十分な退出経路が残される程度の人数で満足するべきである。……願わくはスポルジョン氏には、この問題にすぐに取り組んでもらえないだろうか? 来週の日曜日には、二万人どころか、少なくとも三万人の人々が、四時からサリー公園に押し寄せていることであろう。彼らは、単にスポルジョン氏の話を聞きたいと期待するばかりでなく、先週の日曜日の犠牲者たちの突然の運命についても説教してもらいたがるであろう。この見込みは、相当に深刻なものであり、もしこの紳士とその友人たちが、人々の殺到を防ぐ手段、あるいは恐慌の効果を避ける手段を持ち合わせているとしたら、彼らはそれを怠った責任を問われることになるであろう」*3

 この恐るべき事件に関して、ロンドンの各紙に掲載された、もう何例かの意見を引用するのは興味深いことであろう。『日刊新報』はある記事を掲載したが、その陳述をキャンベル博士は、「はなはだ無慈悲きわまりないもの」と述べている。――

 「しかし、群衆が集められては、そうした巨大会堂建設のための寄付金が集められてきたのである。そしてスポルジョン氏とその友人たちは、そのような機会が失われることを望まなかったのである。それゆえにこそ、この時宜にかなわない助言がなされたのであり、それゆえにこそ、スポルジョン氏は、恐慌にすくみあがった逃亡者たちに向かって、彼らは永遠の死よりも現世における死についてずっと恐れていると叫んだのであり、それゆえにこそ、献金箱のチャリンチャリンと云う不謹慎な音が、彼らの耳に響いたのである。私たちはさらに進んで、スポルジョン氏とその友人たちが、全く被害者を助けたり、いたわったりしようともせず、この集会から去っていった無情なしかたをも指摘できよう。だが私たちは、このような光景が生み出したであろう当惑を斟酌することにしたい」*4

 スポルジョン氏の死に先立つ何年もの間、『日刊電信』は、まことに寛大で好意的な評価を氏とその働きについて示していた。しかしながら、このサリー公園の災厄の翌朝には、この新聞はおそらく他のいかなるロンドンの新聞よりも苛酷な非難を明らかにした。すなわち、――

 「スポルジョン氏は、自分の罪深い聴衆たちに断罪を投げつける説教者である。ある人々は、聖書からその戒めを取り上げると、情け深い言葉と優しい訓告とによって、過てる魂を正しい通り道へと招き寄せようとする。スポルジョン氏は、そうした魂の鼻面をつかんでは、脅して入信させようとする。私たちは、スポルジョンのごとき者らの蚕食と冒涜に対して障壁を設け、こう云おうではないか。『ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない』[ヨブ38:11]、と。私たちは、今や啓蒙を必要として立っている何万もの人々に対して、こう告げることのできる力強い手段を何か考案しようではないか。この男は、自らの意見によると、正しいキリスト者だというが、私たちの意見では、わめきちらす大ぼら吹きでしかないのだ、と。私たちは、個人的意見としては、決して厳格派でも、安息日厳守主義者でもないが、芝居小屋と教会とは引き離しておきたい――大きく引き離しておきたい――と願うものである。何にもまして私たちは、正しいものの考え方をするあらゆる人の手に鞭を渡しては、このようによこしまな冒涜を口にした張本人たちを社会から叩き出させたいと思う。こうした冒涜は、日曜の夜に、死者や半死半生の人々の叫び声を越えて、また、重傷を負って苦しんでいる人々の悲惨のうめき声よりも大声で、サリー公園の音楽堂の中のスポルジョンの口から響き渡ったのである。そして最後に、この不浄の、また恥辱にまみれた場所から、無惨な死体が運び出されたとき、――数百人もの人々が、この上もない苦悶と絶望とに駆られながら自分の妻を、子どもたちを、母たちを探し求めているとき、――献金箱に投げ入れられる金銭がチャリンチャリンと鳴っては、すでにこの時点で、スポルジョン氏と彼のわめき声とに深甚な侮蔑をいだくようになっていた――と私たちは心底から願いたい――人々の耳に、きしるような、みじめな音を立てたのである」。

 朝刊紙の大部分が、ひいき筋の読者たちの気質に沿うと思われた調子で語った後で、最も影響力の大きな夕刊紙の1つが、ずっと好意的な証言を行なった。――

 「私たちがその場にいた何人かの立派な人々に尋ね、彼らが私たちに知らせてくれたところ、祈りの間に鐘がジリリンと鳴り、『火事だ!』、という叫びが上げられるその瞬間まで、この礼拝は、彼らの出席したことのあるいかなる礼拝にもまさって、見事な厳粛さと端正さによって執り行なわれていたという。非常におびただしい数に上る何千人もの人々によって、あれほど広大な建物の中で歌われた賛美歌は、ことのほか印象的なものであった。そして、あの意図的な妨害さえなければ、全体に及ぶ効果は、願ってもないものであった。私たちは、何はばかることなくこう考えるものである。たとい最下層の乱暴者や狼藉者といえども、これほど大勢の人命を危険にさらすに足るほど邪悪であると見いだされうるとは思えない、と。人々がいかにその人物を――むろん、自分たちとしては狂信的な説教者であると判断しているにせよ――いやがらせたいと望んでいたとしても関係ない」*5

 『夕星』は、当時広く頒布されていた一銭新聞だが、やはり、それなりに活気づいてこの論議に加わり、サリー公園の事故から生じた問題は、単に建物の構造や、恐慌に打たれて興奮した群衆をいかにして被害から守るべきか、ということを越えたものに関係していると述べた。この不幸な出来事は、この説教者の使命およびその力を、新聞紙上の論議という土俵に引き出したのである。そして『星』は、物事をあるがままに取り扱うことに進んだ。自分の教区牧師よりも説教の上手な牧師補は、しばしば雇い主に満足よりは立腹を起こさせるものである。いわゆる人気説教者が、一般庶民に属していることはめったにない。普通はいかなる教会あるいは会堂に入っても、そこに見られるのは中産階級の会衆である。――

 「しかし、職人階級はどこにいるだろうか?――あの目の鋭い、心のしっかりとした人種、政治集会や安い演奏会の一階座席に群がり、小劇場を満員にし、ライシーアムやプリンセスの天井桟敷にもぐりこもうと押し合いへし合いしている人々はどこにいるだろうか? 彼らが著名な説教者たちの集会にほとんど集わないことを考えるとき、スポルジョン氏に彼らがつき従っていることは、この紳士を驚異的にたぐいまれな人としているのである。二、三年前に最初に私たちが彼の噂を聞いたのは、バンクサイド[テムズ南岸]の労務者たちが日曜にも平日の夜にも彼の話を聞きに出かけているということであった。昨年の夏、私たちが見いだしたのは、ベスナル・グリーンの職人たち――ずっと好みの難しい人種――が、ハクニーの野原で彼を取り巻いて群がったということであった。そして、今回の音楽堂の死傷者一覧の中には、熟練労働者や、塗装工や、皮なめし業者や、婦人用帽子店の売り子たちがいるのである。その理由を尋ねることには価値がある。

 「その問いに答えるには、単に話を聞くだけで十分である。目の見える人が話を聞くとしてだが。これまでの人気雄弁家の中で、自分の両腕に、自分の舌よりも多くのことを巧みに語らせなかった者はいまだかつてひとりもいない。スポルジョン氏はこのことを本能的に知っている。その日の聖句を朗読するとき、彼は、その目を草稿に据えていたり、その両手で台ぶとんを握りしめていたりはしない。語り始めるや否や、彼は動き始める。そしてそれは、舞台の上で熱弁を振るうというよりも、まるで町通りで人と会話しているかのように見える。彼は、周囲のあらゆる人と握手を交わし、あらゆる人をくつろがせるかのように思われる。そこにはいかなる入念な前置きもない。いかに独創的なひねりによって、本題に戻ってくるのだろうかと、人を思い惑わせるような部分は何もない。むしろ、慣用的な云い回し、つぼにはまった引用、単純な寓意、あるいは二三の馴染み深い文章が、聞く者すべてに関心をいだかせ、しゃちほこばらせないのである。さらにそこには、何の哲学的講解の仰々しさもなく、ただ二三の標語があるだけである。それも注意を限定させるためではなく、導くためのものである。そしてすぐさま続くのが、例証のための軽妙なひらめきである。ことによると、全く卑近な一筆が加えられるかもしれない。――どうしようもない駄洒落かもしれない。人々は面白がらされる。だが笑い転げることは許されない。この説教者の喜劇的要素は、その厳粛な真剣さを引き立てるものでしかないのである。彼は、臨終の床の、あるいは時にかなった悔い改めの光景の何がしかを描き出している。どこかのマグダラの女の赦しを、あるいはどこかの放蕩息子の帰還を描き出している。彼の絵の具は、大地と空と、普通の人が経験し憧れるものとから取られている。彼は自分の絵筆を、云ってみれば最寄りの観客の血管にひたし、自分の作品をあらゆる人の天性の一部とするのである。彼の描き出す心像のもととなっているのは、一般庶民の家庭であり、日々の糧を得るための日々の労苦であり、くたくたに疲れ切った労働者の夜の休息であり、わがままな男児に注がれる母の愛であり、病んだ娘に対する父の優しさである。彼の例話はこじつけめいたものではなく、自然な哀感がこもっている。彼が告げるのは、絶望にかられたひとりの不幸な人が、その最後の一銭をにぎりしめたまま、自殺しようと橋へと急ぐ途中で、いかにして賛美歌の詠唱の声に立ち止まり、この会堂に足を踏み入れたかである。あるいは、いかにして、ある寡婦の息子が、家出した後で、ある祈りを思い起こしたことによって立ち戻らされ、今ではその会衆席に座っているかである。彼は、起こった出来事を物語るのではなく、まざまざと目に見えるような、真に迫る力をもって描き出すのである。彼は自分の教理を推論するのではなく、宣言し、説明し、適用するのである。彼がそれとなく政治的な言及を持ち出すと、それは民主的な心にまっすぐ入っていく。野外では、だれかが口をはさんだり、質問したりするかもしれないが、その応答が新しい効果を及ぼす。つまり、この人物はキリスト教を宣べ伝えているのである。いずれにせよ彼は、アーネスト・ジョーンズがチャーティスト運動を、ゴフが禁酒を宣べ伝えるかのように、自分のキリスト教を宣べ伝えているのである。では彼が、彼らと同じような成功に行き当たるのも不思議ないではないだろうか? それとも彼は、非難されるか、軽蔑されるかすべきだろうか? まず第一に覚えておいてほしいのは、ラティマーは、国王の前で説教したとき彼よりも素朴でなかったわけではなく、サウスは、ロチェスターを脅かしたとき彼よりも軽妙でなかったわけではないということである。ホイットフィールドは、ヒュームやフランクリンを感動させたとき彼よりも美辞麗句を連ねていなかったわけではなく、ロウランド・ヒルは、男爵の兄弟であっても、彼よりも卑近でなかったわけではない。私たちが思うに、関心をかき起こすことを第一の務めとしている人にとって、鈍重さは、考えられる限り最悪の欠点であろう。講壇の威厳は、それを魅力的なものとすることによって最も顧慮される。そして、いかなる教派の教職者であれ、自分の説教を組み立てるための何がしかの心得を、この、一度も神学校に行ったことのない若きバプテスト派の説教者からしばしば得られるであろう」。

 これは、ずっと寛大で、心強い意見であった。そして、さほど多くの日が過ぎ去らないうちに、感情に引きずられて偏った判断を下した筆者たちの何人かは、自分が間違いを犯したことをどうやら見いだしたのであろう。『太陽』、『モーニング・アドバタイザー』、『夕星』は、スポルジョン氏が、いかなる意味においても、そこで生じた人命の損失について全く責任がないことをはっきりと証明した。こういうわけで、古強者の神学者であり新聞雑誌業者であるキャンベル博士がその判断を下すだけで、この若き説教者を擁護する論陣は完璧になったのである。この非国教徒の機関紙は、スポルジョン氏とその友人たちについて、全く何もあいまいなところのない調子で語った。――

 「私たちは再度主張するものである。軽蔑やののしりの対象として掲げる代わりに、彼らは、その驚嘆すべき勇気と、忍耐と、不屈さのゆえにほめたたえられるべきである、と。かりに彼らが全く逆の行動をとっていたとしたら、例えば、新聞雑誌の大半が示唆したかのように思われる行動に走っていたとしたら、――かりに彼らが嵐の勃発とともに逃げ出していたとしたら、そのような逃亡はあの恐慌を十倍にも増大させ、今は一名の死を嘆くべきところが、おそらく二十名、あるいは、その二倍もの数の人々の死を悼まなくてはならなくなっていたであろう。そのとき採用したしかたによって彼らは、容易には見積もることができないほどに恐れを鎮め、勇気を鼓舞し、大騒動を和らげ、そのようにして、さらなる人命の損失を防いだのである。さもなければ、十中八九、あらゆる戸口への殺到が発生し、その場の死亡者の数を大なり小なり――そして、ことごとく恐るべきかたちで――押し上げていたであろう! もし、スポルジョン氏と彼の執事たちとの比類なき尽力にもかかわらず、平穏な礼拝を再開するほどには、この動揺が静まらなかったとしたら、その怒涛がいかにたやすく、すべてをむさぼりつくす激怒へと変わりかねないものであったかは、容易に推測されるであろう。

 「ならば、スポルジョン氏とその友人たちは、こうした事がらを考えて、心慰められるがいい。彼らは、自分たちの同胞の命をそこなうことは何1つ行なっておらず、それを保つために大きなことを行なったのである。結果として起こった死は、彼らとは全く無関係であった。守られた人命は、超人的な勇敢さともいうべきものが異常に発揮された成果であった」*6

 このように新聞各紙が、起こったことを論評し、説教者自身と彼の講壇の手法についての自分たちの意見を表明している間、スポルジョン自身は、彼の友人たちが彼を連れてきていた閑静な田舎の隠遁所で、こうした騒動のいかなる反響も、かすかにさえ聞いていなかった。しばらくの間は、悪の力が解き放たれ、この力強い人――かくも若年のうちから真理の擁護者であると認められてきた人――を圧倒しようとするかに思われた。暗黒の密雲が彼の上にのしかかっていた。だが、突如としてそれは晴れ上がり、過ぎ去ったかのように思われた。彼がある友人宅の庭園にいたとき、暖かな、いのちを吹き返させる陽光のように、1つの真理が心に浮かんだのである。キリストはなおも悪魔よりも強く、すべての名にまさる御名をお持ちのお方であり、最後には勝利者となるのである。スポルジョン氏は、その場で感謝の祈りをささげ、再び自分を取り戻した。彼は自宅に帰った。そこでは、彼の妻が、その双子の息子とともに――そのときは生後六週間でしかなかったが――彼の家庭の光となっていたのである。

  


*1 『ブリティッシュ・バナー』、1856年10月21日。死者がもう一名増えたとの知らせによって、この集会はさらに沈鬱の度を深めた。被害者たちのための拠金がなされ、前夜のうちに総額八ポンドに上る金額が、かの音楽堂の献金箱の中に入れられていたとの事実も明らかになった。上記の言明を行なった執事ムーア氏は、この大音楽堂で一般礼拝を開くべきだと最初に提案したひとりであった。スポルジョン氏自身は、これほど広大な規模の場所で説教をするという考えに逡巡していたにもかかわらず、ムーア氏はこの計画を強く勧めたのである。[本文に戻る]

*2 「こうした事件は珍しいことではない。ただし、その発生は避けがたいことだとまでは云えないし、新たな事件が起こるたびに、新たな注意が喚起されるものである。もう何年も前になるが、チェルシー区の聖ルーク聖堂が新築され、ゴシック建築の鑑であると考えられたとき、その石造りの丸天井の丈夫さについて、根も葉もない多くの噂が広まった。それは新しい実験である。古の秘伝は失われている。合板紙の壁や、軽量の飛び梁は信用が置けない云々。それで、ある晩、慈善説教がなされた後で、賛美歌が歌われ、献金皿が回されている間に、上部にいた係の者らは、会衆が退出してしまったものと思い込み、飾り燭台を吊り降ろし始めた。自由席にいた人々は、落ちてくる桟敷席のために大慌てで場所を空けた。長椅子がひっくり返された。だれかが叫んだ。『屋根が! 屋根が!』 一瞬にしてすべては混乱と、騒音と、塵埃とになり、見えるのはただ全会衆が、秋風に吹き散らされる木の葉のように、会衆席を乗り越えて戸口へと殺到する姿だけであった。幸いなことに、恐慌が激しかったのは桟敷席よりも一階座席の方であり、会衆が通路にすし詰めになり、どうにも出て行くことができなくなる頃には、彼らも正気を取り戻し、自分たちの座席に戻っていった。――しかしながら、それは、祈りを読み上げていた教職者が、聖書台の扉をこじあけようと空しい努力をしたあげくに、それをきれいに飛び越えてしまっていた後であった。聖ルーク聖堂は、今日では頑丈無類の定評を得ている。サリー音楽堂も最終的にはそのような結末になることが望まれる。しかし、この警告を完全にすたれさせてはならない。この上もなく不思議でならないのは、いったん警報が発されたにもかかわらず、実際の結末が、この日曜夜の程度ですんだということである」。――『タイムズ』、1856年10月21日。[本文に戻る]

*3 『タイムズ』、1856年10月21日。[本文に戻る]

*4 キャンベル博士は、自分の引用した『日刊新報』に答えてこう書いている。――「上記の文章は、虚説あるいは誤解の塊である。群衆が集まったのは、云い立てられているような目的のためではない。スポルジョン氏が、かの別の日について、またその日のため備えるべき必要について行なった恐ろしい言及ほど、あの折に適切なものはありえなかった。『献金箱のチャリンチャリンと云う不謹慎な音』など純然たる作り話である。だが、『スポルジョン氏とその友人たちが、全く被害者を助けたり、いたわったりしようともせず、この集会から去っていった無情なしかた』について云々するというのは、この上もなく称賛に値する人物、そして、この瞬間も大いに悩み苦しんでいる人物に対して憎むべき悪を犯すことである。祝祷が唱えられた後になっても、スポルジョン氏を講壇から退出させることはほとんどできなかった。それほど彼の苦悶は激しく、神の《恵みの福音》について証しすることが許されなかった彼の失望は深かったのである。彼は、その友人たちによって、文字通り引きずり下ろされ、牧師室として用立てられた部屋へと、ほとんどかつぎ込まれた。そこに着いたとき、彼はほぼ人事不省の状態であり、床に崩れ落ちてしまった。相当な時間を経るまで、彼は起き上がることも、口をきけるようになることもできなかった。そこで彼は、そのとき初めて、何人かの人々が重傷を負ったかもしれないという可能性についてのほのめかしを――だがそれは、ほのめかし以上のものでは全くなかった――受けたのである。そして、そのほのめかしによって、人情深く、感じやすい彼の精神には、おそらくだれかが死んだかもしれないという、苦悶に満ちた恐れが示唆されたのであった」。――『ブリティッシュ・バナー』、1856年10月23日。[本文に戻る]

*5 『太陽』、1856年10月22日。[本文に戻る]

*6 『ブリティッシュ・バナー』、1856年10月28日。[本文に戻る]


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT