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第29章

キャンベル博士による評価

ニューパーク街への牧師の復帰――事件後最初の音楽堂での礼拝――偽りの噂――リチャード・ニルの死――バーミンガムでのスポルジョン

 この若き牧師の精神は、彼の経た恐ろしい試練によって、しばらくの間は調子が狂うのではないかと思われたが、彼が自分の講壇を不在にしたのは、ほんの一回の日曜日だけであった。――それは十月の最終日曜日で、その日はアレグザンダー・フレッチャー博士がニューパーク街会堂で説教をしたのである。スポルジョン氏の声が彼自身の講壇で再び聞かれたのは11月2日、その日、この会堂には立錐の余地もなく人々が詰めかけ、一説によると二千人もの人が出席したという。「この広大な建物のあらゆる部分には、その礼拝式の間中、この上もなく端然としたものが見られた」、と評されている。今なお苦しんでいる、二十八名に上る負傷者のための基金は、総計七十ポンドに達したとの報告がなされた。説教の主題聖句は、ピリピ書2:9であった。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」。話の切り出しにあたって、説教者はこう語った。――

 「さて、私の愛する方々。私は今朝、この講壇についたことを、ほとんど後悔している。後悔しているというのは、あなたがたの益となるような説教が全くできないように感じられるからである。私は、自分にふりかかった、あの恐ろしい災厄以来の休養期間のあいだ、自分は完全に回復したと考えていた。だが、再び同じ町に戻って来ると、先に私を虚脱状態にしたのと同じ感情をいくばくか感じるのである。それゆえ、あなたがたには、私が今朝、最近の状況について全く、あるいはほとんど触れなくとも許してくれるように願いたい。というのも私は、その主題を語り出したり、あの厳粛な光景をあなたがたの記憶によみがえらせたりしなくてはならなくなるとしたら、たちまち沈黙せざるをえないであろうからである。あれは、一部の人々が考えたような、人の悪意によるものではなかったのかもしれない。おそらく、あの一味のもくろみは、会衆をかき乱すことにあったのであろう。だが、あれほど恐ろしい犯罪を犯し、何名もの人たちの死を至らせることまで考えてはいなかったであろう。願わくは神が、それを行なった者らを赦してくださるように! 私は魂の奥底から彼らを赦している。しかしながら、私はこう云いたい。愛する兄弟たち。私たちは、先に起こったことによって気をくじかれはしない。私は、あの場所でもう一度説教するつもりである! 神はあそこでも私たちに魂を与えてくださるであろう。サタンの帝国はこれからなおも震えるであろう。というのも私は、神が私たちとともにおられると信じているからである。ならば、だれが私たちに敵対できるだろうか? この聖句は、私を慰めてくれた聖句、そして私に、きょうここに来て、あなたがたを慰めようとする力を与えてくれた聖句である。私はこの聖句について説教しようとは思わない。ただ、いくつかの所見を語りたいと思う。というのも、私は全く学びをすることができなかったからであり、あなたがたの愛に満ちた心は、それで勘弁してくれると思う」*1

 晩の聖餐式前に行なわれた集会において、その会堂は――そのようなことが可能であったとしたらだが――午前中以上に混雑していた

 11月11日の火曜日の午後、スポルジョン氏は、トテナム・コート通りのタバナクル会堂で説教を行なった。その講壇に彼が立つことは、同会堂の百周年記念集会の式次第に組み込まれていたのである。そのときの講話の主題聖句は、ハバ3:2、「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください」<英欽定訳>、であり、その全文は、『バプテストの使者』、1856年2月号で読むことができる。

 先にサリー・ガーデンズ音楽堂が予約されたとき、それは当初、四週間分とされていた。だが、かの災厄の結果、10月19日の集会は計算に入れられないことになった。「サリー公園会社の理事たちは、かの《音楽堂》にスポルジョン氏が初出演した不幸な晩について、この上もなく寛大な処置を行なった。同社はその夜について何の請求も行なわず、ニューパーク街の会衆は損害の半額を支払った。その結果、昨日は、同音楽堂が予約された四週間のうちの初日となったのである」*2この折の集会は、感謝なことに前回とは対照的なものであった。ある記事で述べられていたように、そこには「完璧な秩序と神聖な沈黙」が行き渡っていたからである。

 ニューパーク街の会員たちは入場券によって、一般大衆の前に入場を許された。だが、後者は最初の集会のときのような数で集まってはこなかった。全人数は八千人を越えないと思われた。また、屈強な警官隊が臨席していた。いかなる恐慌も再発しないように、念入りな予防措置が取られた。そして、にせの警報が発された場合に備えて、人々は自分の座席に着いているように、また可能であれば、狼藉者を取り押さえるようにと助言された。当時の新聞は、「巨大な講壇」に注意を促している。それは、その時代には、きわめて新奇な様式のものであったが、実際には、丈の低い机つきの演壇で、説教者が自由に動き回れるだけの余地があった。

 四週間前のすさまじい出来事の後で行なわれた、この最初の礼拝は、疑いもなく若き説教者にとって過酷な試練であった。そして彼がまだ10月19日の記憶にさいなまれていることは明らかに見てとれた。一般祈祷の中で、スポルジョン氏はこう云った。――

 「人々が神を礼拝するために集まる所はどこであれ、神聖な場所となります。それが蒼天という壮麗な天蓋の下であっても、私たちがいま集まっているような建物の中であっても変わりありません。そのような目的のためにささげられたいかなる場所も神聖なものです。神はいずこにもおられるからです。願わくは、今のこのとき、神が私たちの真中にいてくださいますように! 何物もその羊たちを恐れさせることがありませんように。彼らが平穏のうちに養われることをお許しください。この説教が、じきにその《造り主》の法廷に立たなくてはならない者にふさわしい真剣さをもって――死にゆく者から、死にゆく者らに対して――説教できることをお許しください。この時が、神の恵みの大いに現わされる時となりますように。罪人たちが救われますように。この礼拝式によって、人々が救われ、《いと高き神》の御名に栄光が帰されますように。あなたは、私たちに大きな困難を示されましたが、再び私たちを生かし、災いの淵から私たちを引き出してください。あなたは、私たちを打ち、骨の髄まで傷つけられましたが、どうか、あなたの御顔の光を私たちの上に照らし、私たちの間にあなたの祝福を増し加えてください。きょうのこの場所には、ここで常日頃聞かれるものよりも甘やかな音楽が起こりますように。すなわち、悔悟せる者の吐息という音楽、砕かれた心の切望という音楽、自らのよこしまさに対する嘆きという音楽が起こりますように」。

 この説教者が聖書朗読の箇所を告げた奇異なしかたは、大きく注意を引いた。「ここで私たちは、かの古き物語を読みたいと思う。人となられて、私たちの間に住み、私たちの罪のために十字架につけられた神の物語――マルコの福音書15章におさめられている、十字架刑の物語を」。その注解は、一箇月前の惨事にからんで、この説教者自身に最近浴びせかけられた新聞雑誌の酷評の影響がにじんでいるものと考えられた。

 「私たちの主は、沈黙の尊厳を知っておられた。主は、ご自身の舌を抑えることのできる賢明なお方であった。『ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの』[箴10:19]である。私たちの《救い主》は、侮辱に耐え、嘲り、汚名、罪人呼ばわりを忍んだが、『口を開かない』[イザ53:7]。私たちも、同じようにすることを学ぼうではないか。往々にして自分の剣を鞘におさめておくことこそ、敵と戦う最上のしかただからである。敵たちとの争いに加わることを拒むことこそ、戦いに勝利する最上の道である。たとい人々が私たちの悪口を云うとしても、彼らとの戦闘に突入するのは愚の骨頂である。真の騎士は、真の騎士としか戦わない。ならば真実な人々は、偽り者どもと戦うことを愚と考えるがいい。彼らが私たちについて偽りを云うとしても、私たちは彼らに反撃するほど小さな人間ではない」。これに加えて語られたのは、自分たちが背負わなくてはならないのは、鉄の色で塗られていても、木の十字架だということであった。またいずれにせよ、冠を戴く者は、まず最初に十字架を担う者でなくてはならないのであった。

 この《音楽堂》における説教が試みられて以来、世間で尾鰭をつけて語られてきた風説の中には、提案されていた新会堂建設の広大な規模にかかわる噂があった。この件について、スポルジョン氏は、いくつかの思い違いをただす言明を行なった。――

 「私の多くの友人たちが建設を企図している新会堂については、非常に多くの噂が広まっている。ある主張によると、私たちが建てたがっている大会堂は、15,000人が入れるものだという。この点について私が云いたいことはただ1つ、どこかの誠実な人が、『5』の前に『1』をくっつけるのがふさわしいと思ったのだということである。というのも、私たちはそのような場所を建設することなど一度も思い描いたことがないからである。しかしながら、ほぼ五千人を収容できる礼拝所が必要であるということは考えられていた。私自身としては、そのような場所がほしいとは全く思っていない。ただ私が見るに忍びないのは、これまで私たちが礼拝集会を持ってきた会堂に入るのと同じくらいの数の人々が、安息日ごとに去っていく姿である。福音の真理を告げる、私のささやかな宣言を聞くために、大挙してやって来たがっているのは、人々の意志である。私は彼らにやって来るように頼んだことはない。それは彼ら自身の自由意志である。そして、もし彼らがそうしたがるのが私の罪であるとしたら、少なくともそれは、めったに見られない罪であり、他の多くの人々もできるものなら犯したがるであろう罪である。ある人々は、「あなたの話を聞きたがる人には座席料を払わせなさい」、と云ってきた。だが、それでは私がいだいている目当てが無に帰してしまう。私は、会堂座席料を払う余裕のない人々に向かって説教したいのであり、できる限り多くの一般大衆を迎え入れることが望みなのである。きょうは、いかなる献金箱も回されないであろう。だが、この音楽堂で聖なる礼拝を行なうには、必要な経費がかかるため、それを負担されたいという向きの献金は、各出口で受け取られるであろう。私たちが施しを乞うているとは思わないでほしい。もしあなたがそう思うとしたら、私たちはあなたの金銭を贈り物として受け取ろうとは思わない。各人が自分の好む通りに行なうことは自由である。ただ、私の知るところ、私の友人たちの多くは、私たちが現在有しているよりも広い礼拝所という件についてこの上もなく気づかっており、余裕さえあれば、今している二倍もささげたいと考えている。この場所では、安息日の朝に礼拝を持つことが、もう三回、企画されている。私の会衆がここに集うのは、非常に不便なことである。私たちには、他にも快適な礼拝所がある。そこで私たちは非常に幸せな集会を持てる。そこで私は会衆を集められるし、いかなる定命の人間にも望めるほど多くの会員を有していられる。だが私たちは、魂を神に獲得したいがために、この、より大きな場所に来ているのである。そして、私たちがそれ以外の目的のために非難されるのだとしたら、最後の審判の日には、私たちの真の動機がいかなるものであったかが、あからさまに示されるであろう*3

 《音楽堂》での惨事に、スポルジョン氏の評判を高める効果があったことは、全く疑いを容れなかった。それ以前の彼の声望が、いかに高かったとしても関係ない。それをきわめて強力に示す証拠は、この事故の興奮が過ぎ去った後ですら、数々の新聞や記事の中に見られた。何人かの老巧な報道記者たちは、いかなる折にもスポルジョン氏を擁護し、1856年が暮れるまでに何編もの記事を種々の形で発表したが、その主たるひとりは、すでに引用したキャンベル博士である。当時彼は、『ブリティッシュ・バナー』だけでなく、もう一、二冊の月刊誌の編集者であった。しかしながら彼は、1856年の暮れには同紙を手放し、独立自営の『ブリティッシュ・スタンダード』を創刊した。1795年生まれの博士は、ニューパーク街のその友人よりもほぼ四十歳も年長であったため、その弁護者として立ち上がる一方で、助言を差し出すのはそれなりに妥当なことであった。最初は彼も、スポルジョンのことを生意気な新参者とみなしていた。キリスト教界の広い範囲にわたり、キャンベル博士の意見は、このような能力と人格の持ち主にふさわしい敬意をもって受け取られていた。サリー公園における災厄から数週間後に、この博士は説教者としてのスポルジョンについて、入念な論評を行なった。彼の指摘するところ、この人物に関して多くの意見を寄せている観察者や批評家たちは、その対象について、あまりにも僅かな知識しか有していないため、彼らの云い分をまともに受け取ることはできない。いずれにせよ、ニューパーク街の牧師には、独自の流儀があり、それが嫌いだという人々が、彼の足元で話を聞かなくてはならない義理はないのである。――

 「スポルジョン氏は、あらゆる点から見て独創的な人である。――天が自ら形作った説教者である。それゆえに、すべてが天性であり、すべてにいのちがあり、しかも、そのいのちとその天性は、何百万人にひとりという力なのである。彼はぶっきらぼうで、ぶしつけで、単刀直入だろうか? それは天性である。独特の語り方をし、話し口調で、陽気で、芝居がかっているだろうか? それは天性である。しかし、こうした二義的な点に長々とかかずらう必要はない。『おのおのにその順番があります』[Iコリ15:23]。彼がそこで個人として立とうが、群衆の中のひとりとして立とうが関係ない。天性は力であり、技巧は無能である。天性なしにはいかなる人も、多くの人々を長いこと喜ばせることはできない。天性は、ただ天性にのみ呼応する。それは、つんぼの耳をそれとは全く異なるものに変える。作為は空想力を捕えるかもしれないが、天性だけが心を従わせることができるのである」。

 スポルジョン氏の人気は、それが至当なものか否かに関わらず、だれにも否定できない事実であった。これほど大衆に支配力を及ぼしていた人物はひとりもいなかった。こうした人が、自分の批評家たちを満足させるために髪の毛の房を刈ることなどふさわしくなかった。彼が宣べ伝えていた諸教理は、前世代の父祖たちが宣べ伝えていたものと同一であった。では、このような人気はいかにして説明がついただろうか?

 「彼は、聖職者特有の物々しさのおかげは全くこうむっていない。そこには、若々しい説教者が、そのまるで洗練されていない素朴な人柄をありありと示しながら立っているだけである。彼は、だれかの引き立てや、身分や、人生の偶発的な事態といった、一時的には非常な人気のもととなることもある、いかなる事がらのおかげもこうむっていない。ならば、何がこの空前の魅力の源泉なのだろうか? それは、そのすべてとは云わないまでも、部分的には、彼の雄弁さに見られる種々の外面的特徴に存している。だがそれは、主として、この人物の魂である。――大きく、広やかで、愛に満ちた魂。童子のような特徴が刻印された魂、ダビデの『勇士』のひとりが有していたような力を発揮する魂である。彼は、数においては少ないが、重要性においては大きいという、恵まれた種族のひとりである。彼は、ベリッジや、グリムショーや、ホイットフィールドや、ヒルや、ウィルクスのごとき高貴な一団に属している。スポルジョン氏は、こうした人々と大いに共通するものを有しており、彼が自分の時代の大衆に対して保っている関係は、彼らのそれと実質的に同じものである。ならば、正義の名において、スポルジョン氏には彼らの生涯の恩恵を得させるがいい。彼らは、たとい彼らと同じ時代に生きるに値しない同時代人たちからは軽蔑され、あざけられ、罪人呼ばわりされたとしても、以後に続く世代からは大いに公正な取り扱いをされてきた。彼らは、その偉大さを認められ、その美徳を尊ばれた。また、彼らが自分の時代と世代において行なう誉れを与えられた、その目覚ましく比類ない奉仕は、ゆっくりと、だが、はばかることなく認められていった。

 「思い出そうではないか。上に名前をあげた立派な人物たちはみな、スポルジョン氏と同じ年齢には、また、その伝道活動の最初の二年間には、氏の伝道活動の確実な戦果とされる結果とさえ比較にならないような福音の戦利品しか示せなかったのである。しかり。たとい次のように確言するとしても、それは決して真理を踏みにじることにはならないであろう。すなわち、彼らの全員を合わせたとしても、確実と思われる回心事例という形においては、これほど多くの成果を提示することはできなかったであろう、と。

 その説教とは全く別のこととして、ニューパーク街の会堂が祈祷会においても全く活況を呈していたことは事実であった。そして、そうした集会が生み出され、持続されていることは、彼の牧会活動の力を驚くべき形で証明していた。このような説教者が何人もいたとしたら、それは、一国が受けうる最大の祝福となるであろう。それから続いたのは、スポルジョンと、バニヤンやホイットフィールドといった古い時代の説教者たちとの比較であった。――

 「ホイットフィールドの時代以来いかなる人物も、スポルジョン氏ほど、この首都で人々の関心を呼び起こしたことはなかった。そしてその結果は、前の時代と同じく、非常に多様な意見の相違であった。日刊紙の中では、まず最初に『モーニング・アドバタイザー』が、この異常な若者について正当な、あるいは、ことによると寛大な記事を掲載した。同紙は非常な慧眼により、彼の得意とする方面におけるすぐれた卓越性を述べながら、彼の欠点についても沈黙してはおらず、むしろ人を不快にしないような精神によって、問題とされる事がらに必要な忠告を差し出した。別の日刊新聞は、最近、スポルジョン氏の数々の能力を評価し、彼の実績を描写したが、そこに示されたのは愛よりは才気であり、祈りの家よりは劇場を批評対象にするのがふさわしいような才能であった。しかしながら、こうした事がらは、ホイットフィールドの場合のように、彼を前進させる役にしか立たないと思われる。かの不幸な思い出と結びついたフットが、戯曲『ザ・マイナー』を書き、ホイットフィールドをヤブニラミ博士という人物として登場させたとき――というのも、この偉大な雄弁家は、そうした視覚的特徴を有していたからであるが――、実は彼は、大衆の注意を一層喚起し、ホイットフィールドが社会のさらに上層をつかむことを確実にしてしまったのである。スポルジョン氏は、米国の新聞雑誌においてさえ論議の対象になっており、この上もなく恥知らずなしかたで戯画化されている。彼は何度かスコットランドを訪問し、熱烈な歓迎を受けている。また、比較的純良で誠実な新聞雑誌の一部は、彼を正当に評価してきた。

 「そうした反対や虚説のすべては、それが阻もうとしている人気をさらに助長するだけである。それは、炉の中の空気のように働く。火炉は、大気の動きがなくては衰え、消えてしまうのである。スポルジョン氏の人気は、教会においても世においても謎である。その両方に存在する、教育はあっても物事をよく考えない人々は、その説明がつかずに全く途方に暮れている。彼らは単に彼の特異な癖に引きつけられているように見受けられる。そうした癖は、審美眼を通して見れば、遺憾とすべき欠点であり、他の人々によれば、見習われるべきものであるどころか遠ざけるべきものである。しかしながら、大衆に及ぼす彼の力の秘密は、こうした事がらにではなく、ただの卑俗な目には隠されている何かに存している。彼の口をついて出て来る膨大な言葉の中には、とめどない流れとして彼が注ぎ出す、キリスト教真理という下層がある。あるいは、むしろ、しばしばそれは、何物をも押し流し、いかに大人数の会衆をも征服する大瀑布になぞらえた方がよいかもしれない。スポルジョン氏は決して否定的な神学者ではない。ホイットフィールドは、この点でも――他の点においてと同じく――スポルジョンと大いに共通するものを有していた。前者は、後者よりも格段に多くの、いわゆる演技動作があったし、全く同じくらいの、会衆がしばしば笑い声を誘発されるような、辛口の冗談を云っていた。だが彼には、スポルジョンとは全く異なるような1つの特徴があった。人々は、笑うのと同じくらいしばしば、涙に暮れることがあったのである。

 「本質と、偶有的な事がらを混同してはならない。偉大な人々をしばしば際立たせる種々の特徴は、彼らが信奉し、伝播している真理とは、必ずしも共通した関連があるわけではない。ホイットフィールドの堅実な友人が記録に残しているところ、重々しく見えるにせよ陽気に見えるにせよ、それは天性が彼のうちで活動していたのである。彼の笑いは心からのものであり、彼の涙は『大声で、熱烈なもの』であった。そして、彼の挙動が自然なものである一方で、彼の言葉遣いは単純なもの――ジョン・バニヤンの英語――であった。彼が、『町言葉』を使っていたことは、実際、彼の自慢であり、彼の熱弁が破格の文章であったことについて、彼の弁護はこうであった。『あなたは私のとりとめのなさに文句を云うが、あなたは私よりもずっととりとめがなく、あなたにならって私はとりとめをなくさざるをえないのである』。もう一度云うが、スポルジョンは、あらゆる点において、天性の子である。彼はいかなる場面でも悠然としている。彼の態度、彼の抑揚は、彼が魂を叱責するときであれ、懇願するときであれ、すべてが自然である。そして彼の例話は、たいていの場合、群衆の感受性を傷つけることなしに、彼らの胸に痛烈に響く。彼は、自分の聴衆および人類に同情している。対話劇の名手である彼は、強大な宣言においても劣ることなき名手である。――この2つの事がらにおいては、ホイットフィールドその人も卓越していた。彼の語ることを、彼は感じていた。あらゆることが集会の心に入っていった。ホイットフィールドの欠点は、大したものではなかったが、主として、彼の生涯の初期の頃に限定されていた。そして、彼が二十四歳で伝道を開始したことを思い出すとしたら、彼には大きな斟酌がなされるべきである。ならば、成年に達するはるか前から国中をその評判で満たしていたスポルジョン氏についても、なぜそうしてならないだろうか? こういうわけで、私たちは云いたい。スポルジョン氏を公平に扱うがいい。彼は大きな働きをなしており、だれも彼を妨げてはならない! 存命中のいかなる他の説教者も、彼がしているほど、何百万もの人々の耳目を集めることはできない。そして、私たちはこう申し述べたいと思う。彼の事業の成功を祈るのは公明正大なことにほかならない、と。時間と状況により、修正が必要な部分は大いに改善されるであろう」*4

 1857年1月の二日目に、スポルジョン氏の旧友リチャード・ニルは、およそ七十歳にしてチェスターで死んだ。彼は、1848年の初頭以来チェスターで労しており、その牧会期間中に、その教会は会員が四倍になった。彼は、あらゆる点で尋常ならざる人物で、その影響力は遠くまで及んでいた。そして、出版物を通じてなされた彼の奉仕は、その説教にも劣らないほど桁外れのものであった。こうして次のような言葉が残されている。「いまだかつてニル氏ほど数多くの小冊子が配布された人はいない。それは、六百万部から七百万部が英国で印刷された。十箇国語に翻訳され、全世界に撒き散らされた。米国では七百万部以上が印刷され、この二国の間だけで、千四百万部以上が流布したことになる」*5

 サリー公園において間断なく気の張る説教を行ない、平日には国中の様々な場所で特別礼拝を導くことは、この牧師の体力にこたえ始めた。2月15日の朝に、《音楽堂》で説教を語っている際――ちなみに、その聴衆の中にはひとりの主教もいたが――、スポルジョン氏は声が出なくなり、当時の記録によると、「どちらかというと唐突に」話を切り上げざるをえなかった。会衆は、この説教者が見るからに体調不良であることを大いに心配する様子であった。普段なら、その説教は定期的な週刊説教の第117号となるはずであったが、これは出版されることがなく、何箇月か前にニューパーク街でなされた講話が代わりに刊行された。

 1857年初頭のバーミンガム訪問は、注目に値する出来事であった。この雄弁家の話を聞きたいという好奇心は、非常に大きかったと思われる。その町で彼は一度も語ったことがなかったからである。午後に行なわれた最初の説教は、イエスの御名に関する話であった。続いて夜に行なわれた説教は、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知る」[エペ3:19]という聖句を主題にしていた。翌日には、シオンの山会堂で二回礼拝が持たれた。1つの講話は自己吟味に関するもので、もう1つは「私は罪を犯した」という7つの聖句に関するもの、すなわち、1月18日に《音楽堂》で行なった説教と同じであった。このように大都市を訪れて、疲労困憊させられる四度の礼拝を導くというのは、この時期のスポルジョン氏がいかに働いていたかを如実に示すものである。彼は自分を否定し去るようなしかたで働きを行ない、その間ずっと、ミッドサマー広場で耳にしたと思った、あの命令を踏まえて生きていたのである。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」。

  


*1 『ブリティッシュ・バナー』、1856年11月4日。[本文に戻る]

*2 『モーニング・アドバタイザー』、1856年11月24日、月曜日付。[本文に戻る]

*3 この礼拝式におけるスポルジョン氏の発言は、『ブリティッシュ・バナー』、1856年11月25日からの引用である。[本文に戻る]

*4 キャンベル博士は、「講壇の雄弁の卓越した目利き」と考えられていた。そして、正統信仰に立つ集団において、彼の意見は非常な重みを有していた。『ブリティッシュ・バナー』に掲載された博士の論説記事は、『現代のホイットフィールド』と題された仮綴じの冊子形式で再発行された。別の小冊子、『スポルジョン氏の弁護』は、特にサリー公園における災厄に言及していた。[本文に戻る]

*5 『ブリティッシュ・スタンダード』、1857年1月9日。[本文に戻る]


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