HOME | TOP | 目次

愛の明示

NO. 104

----

----

1856年11月23日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。――ロマ5:8


 これから私が語ろうと思うのは、何1つ新しいことではない。それは永遠の丘[創49:26]と同じほど古く、子どもでも理解できるほど単純なことである。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。神がご自分を、またご自分の愛を明らかになさるのは、言葉によってではなく、行ないによってである。《全能の神》が、あわれな人間に対して、ご自分の愛を明らかにしようとなさるとき、「神は、雄弁な演説によって、私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」、とは書かれていない。人を魅了する告白によって、その愛を明らかにしておられるとは書かれていない。むしろ神は、1つの行為、1つの行ないによって、私たちに対するその愛を明らかにしておられる。それは驚くべき行ない、永遠そのものでさえほとんど見ることがないであろう、言葉に尽くせない恵みにほかならない。神は、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより……私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。では、本日の聖句を扱おうとするにあたり、このことを学ぼうではないか。もし私たちが自分の愛を明らかにしたければ、口先によってではなく、行ないによってそうしなくてはならない。人は言葉を飾り、それで人々の尊敬を獲得できるだろうと考える。うまい調子で話をしていれば、人々の敬意を得られるだろうと考える。だが覚えておくがいい。舌先三寸の弁論ではない、それよりずっと力強い、手を汚しての雄弁こそ、「世間の大心」の愛情を獲得するものなのである。もしあなたが同胞に好印象を与えたければ、行って行なうがいい。――行って語るのであってはならない。もしも衆に秀でた人から誉れを得たければ、語るのではなく行動するがいい。そして、もしも神の前で自分の信仰の真摯さと、神に対する自分の愛の真実さとを示したければ、覚えておくがいい。祈りや賛美の中で口にされる、へつらいの言葉でなはく、敬神の行ないと聖い行為こそ、あなたの信仰を正しいものと示し、神の選民の信仰であると証明するものなのである。言葉ではなく行ない、――話ではなく行動、――これが人の真実を明らかにすることである。

   「舌先あやつる あだし大言(ことば)も
    高雅(たか)き自慢(ほこり)も よく満たしえじ。
    砕けし心、謙(ひく)き歩みぞ
    愛しものなり、主イェスの目には」。

ならば、この点で神にならおうではないか。もし私たちが、自分のキリスト教信仰を人々に対して明らかにしたければ、ただの堅苦しい形式でそうすることはできない。むしろ、誠実と、愛と、赦しという優美な行為こそ、内なる恵みをしかるべく悟らせるものである。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」[マタ5:16]。「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」[ピリ1:27]。そのようにするときあなたは、神に誉れを帰し、あなたの告白する「教えを飾る」[テト2:10]ことができるのである。

 しかし、ここでは、神がご自分の愛を明らかにしておられる、この力強い行ないについて語ることにしよう。これは2つの部分に分かれると思う。私たちの信ずるところ、使徒はこの愛を明らかに示すことを2つあげている。第一に、「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。第二にその愛を明らかに示すのは、私たちの状態である。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」。

 I. さて、この愛を最初に示すのは、――「《キリストが私たちのために死んでくださった》」、ということである。そして、この聖句全体が2つに分かれるように、この文章も二重に愛を明らかにしている。その愛を示すのは、死んでくださったお方――キリストであり、さらに、そのお方が成し遂げてくださった行為――「キリストが私たちのために死んでくださった」ことである。

 1. まず第一に、何にもまして愛を明らかに示すのは、私たちのために死なれたのが《キリスト》であった、ということである。罪を犯した人間がその《造り主》のもとから迷い出たとき、神は人間の罪を罰さざるをえなかった。神はご自分にかけて誓っておられた。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。それで神は――その限りなく聖なる御名への畏敬の念とともに云うが――ご自分の云われたことからそれることはおできにならなかった。神はシナイの上でこう宣言しておられた。神は、罰すべき者は必ず罰し[出34:7]、罪を犯した者を赦したければ、だれか他の者が、その罰されるべき者の受けるはずであった苦しみを身に受けなくてはならない、と。それは、そうした他人による身代わりの代償によって、神が「義であり、また、不敬虔な者を義とお認めになる」*[ロマ3:26]ためである。さて、こうした疑問が浮かぶかもしれない。「人間の咎のために、だれが犠牲の山羊となるのだろうか? だれが人間のそむきの罪をにない、そのもろもろの罪を取り除くのだろうか?」 もし私が自分の想像の中である場面を思い描くことが許されるとしたら(注意してほしいが、これは単なる想像にすぎない)、私には天国の議事堂が想像できるような気がする。御使いたちが召集され、この問題が彼らに提議される。――「智天使ならびに熾天使たち。栄えある一団の者たち。あなたがた、燃える炎に似た者たち。わたしの命ずるまま、すみやかに飛びかける者たち。あなたがた、わたしがわたしの誉れのために創造した、幸いな者たち! ここに、あなたがたに考察させるため、わたしがあえて身を低めて提示したい問題がある。――人間は罪を犯した。彼が赦されるためには、だれかが苦しみ、血をもって血の代価を払うしかない。では、だれがそれを行なえばよいだろうか?」 私には、その尊厳ある集会全体を沈黙が覆った様子が目に浮かぶ。ガブリエルは口を開かなかった。もしその行ないが彼に可能だったとしたら、彼は一瞬のうちにその翼を広げ、はばたいて飛び立ったであろう。だが彼は、世界の咎を自分の両肩でになうことはできないと感じた。それゆえ、じっと座ったきりであった。また、そこには強者中の強者、神がお望みになりさえすれば、世界を揺り動かすことさえできる者たちがじっと座ったきりになっていた。なぜなら、彼らはみな、救拯を成し遂げるには無力であると感じていたからである。私は、彼らの中のひとりとして、神ご自身が肉体をとって死んでくださればいいのに、などとは考えなかっただろうと思う。天空の強大な《造り主》が、その崇高な頭を垂れて、墓の中にお沈みになるなどと思い描くことは、御使いの思念の中にさえ入り込むことがありえなかったと思う。こうした栄光ある者たちの中でも最も輝かしく、最も尊貴な者でさえ、一瞬たりともそのような考えを思いの中にいだこうとしたとは想像できない。そのとき、神の御子がその御座からすっくと立ち上がり、彼らに向かってこう仰せになった。「主権および権威たちよ! わたしが人となろう。わたしが、このわたしの《神格》を、定命の土くれという衣で覆うことにしよう。私が死のう!」――そのときの御使いたちが、このときばかりは驚愕したのが目に見えるようである。彼らは世界が創造されるのを見ていた。彼らの見ていた世界は、《全能者》の鉄床の上で白熱光を発する、形をなしていない物質の塊が鎚打たれて発した火花のようなもので、そのまま虚空にはじき飛ばされたものであった。それでも彼らは驚きはしなかった。しかし、この折の彼らは度肝を抜かれた。「何と! あなたがお死にになるのですか? おゝ、《ことば》よ! 《創造主》よ! 《主人》よ! 《無限者》よ! 《全能者》よ! あなたが、ただの人となってお死にになるのですか?」 「しかり」、と《救い主》は仰せになる。「わたしがそうしよう」。では、定命の人間たち。あなたは驚愕しないだろうか? あなたは驚嘆しないだろうか? 何と! あなたが驚嘆しないというのか? 天の万軍は今なお驚嘆している。彼らがそれを聞いて以来、幾星霜が過ぎ去ったが、彼らはまだ賞賛することをやめていない。だのに、まだあなたは驚嘆し始めないというのか? 熾天使の驚嘆をかき立てた主題は、あなたの心を動かすべきではないだろうか? 神ご自身が人間となり、それからあなたのために死ぬというのである! 「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。私たちのために死なれたのが御使いのかしらだったとしても、私たち全員の感謝の的となっていたであろう。自分の血を流したのがただの善良で聖なる人にすぎなかったとしても、私たちはその人の足に口づけし、永遠にその人を愛するであろう。だが、かの木の上で呻いていたのが、ほかならぬ《全能の神》であられたのを見てとるとき、また、かの園で血の汗を流していたのが、人間であられた際の、やはりほかならぬ、栄光に満ちた《三位一体》の一位格であられたのを見てとるとき、キリストが死なれるということは、まことにこの上もなく愛を明らかにすることである。このことを、あなたの精神の中で何度も思い巡らすがいい。それを瞑想し、とくと考えるがいい。心の中でよくよく考えてみるがいい。もしあなたがたが《神格》について正しい観念を有しているとしたら、もしキリストがいかなるお方であられるかをあなたがたが知っているとしたら、もしあなたがたがキリストを永遠の神でありながら、しかし人間であられるお方と思えるとしたら、――もしあなたがたがキリストを、きよく、聖なる、完璧な人物でありながら、しかし永遠の《創造主》であられるお方と思い描けるとしたら、――もしあなたがたがキリストを、傷つけられた人と、だがしかし永遠に高く上げられた神であられると思えるとしたら、――もしあなたがたがキリストを全世界の《造り主》、摂理の主、万物を存在させ、成り立たせておられるお方と思えるとしたら、――もしあなたがたが今のキリストを、光輝をまとい、無数の御使いらによる合唱交響曲に包まれたお方と思えるとしたら、そのときにはあなたがたも、キリストが天国から地上へ、地上から墓へ、墓からその下へと、ひとまたぎで身を低められたへりくだりがいかに深いものであったかを思いはかることができるかもしれない。主は、墓の下の、いわゆる「よみ」の最下層までも下り、そのことによって、ご自分のへりくだりを完璧で、完全なものとなさった。「神は私たちに対するご自身の愛を明らかに」された。それは、私の兄弟たち。あなたに対する愛なのである。そして、それを示すのは、私たちのために死なれたのが、神の御子キリストであったということにほかならない。

 2. この最初の明示の第二の部分は、キリストが私たちのために死なれたということにある。キリストが私たちのために人となられたとき、そこには大きな愛があった。主がしばしご自分の《神格》の栄光を脱ぎ捨て、一尺足らずの赤子となり、ベツレヘムのかいばおけの中でお眠りになったとき、そこには大きな愛があった。主がそのあらゆる栄光を放り出して、ご自分の外套を天空にうちかけ、ご自分の宝冠とご自分の王座の楽しみとを打ち捨てて、身を低めて人間となられたこと、それは決して小さなへりくだりではなかった。さらに主が私たちのために聖く、苦しみに満ちた人生を送られたこと、これも決して小さな愛ではなかった。神が肉の足によって地上を踏みしめ、ご自分の被造物たちにいかに生きるべきかを教え、その間ずっと彼らの嘲りと物笑いとを怒らず平静に忍ばれたとき、それは驚くばかりの愛であった。主が身をへりくだらせ、ご自分のしみ1つないご生涯という完璧な模範を私たちに与えてくださったこと、それは決して小さないつくしみではなかった。だが、その愛を明らかにする肝心な点は、ここにある。――キリストが私たちのために生きたことではなく、私たちのために死なれたことである。さあ、話をお聞きの愛する方々。しばし、この言葉を熟考してみるがいい。「キリストが私たちのために死んでくださった」! おゝ! いかに私たちは、最近わが国を守るために遠い異国で死んだ勇敢な人々を愛していることか! 私たちの中のある者らは、彼らの息子や娘たち、彼らの妻子に同情を示し、父親をなくした者らの生活を支えるために寄付をしたことである。私たちは、負傷した兵士は自分たちの友であり、自分たちが永久に彼に負い目を有しているように感じる。私たちは戦争を愛してはいないかもしれない。私たちの中のある者らは、剣を振るうのはキリスト者にふさわしい行為ではないと思っているかもしれない。だが、それにもかかわらず私たちは、命をかけてわが国を守ろうと努め、わが国のために死んだ人を愛するに違いない。私たちは、いまバラクラヴァにいるとしたら、そこで沈黙している墓石の列に一掬の涙を注ぐであろう。また、愛する方々。もし私たちの友人のだれかが、私たちのために危険を冒してくれるとしたら、とりわけ、そのうちのだれかが私たちのために死ぬようなことになるとしたら、私たちはそれ以後、その人たちを愛するはずではないだろうか? 私たちの中にだれか、「死ぬ」というこの大いなる言葉に何がこめられているか知っている者があるだろうか? 私たちは、その苦しみの深さを、あるいはその苦悶の高さを告げられるだろうか? 「私たちのために死んでくださった」! あなたがたの中のある人々は死を見たことがある。あなたは、その力がいかに大きくすさまじいものか知っている。あなたは、頑健な人が憔悴し、膝をがくがくさせるのを見てきた。死によってまなじりをまぶたが覆い、目玉がどんよりとするのを見てきた。その臨終の時の、ぎょっとさせるような激しい苦痛と苦悶を目の当たりにしてきた。そこであなたは云った。「あゝ! 死ぬということは、厳粛で、恐るべきことだ」。しかし、話をお聞きの方々。「キリストが私たちのために死んでくださった」のである。死が意味しうるすべてをキリストは忍ばれた。キリストはその霊を渡し、その息を引き取り、生気のない屍となり、そのからだは他の死人と全く同じように埋葬された。「キリストが私たちのために死んでくださった」。主の死に伴った状況を考えてもみるがいい。主の死は、ただの死に方ではなかった。それは恥辱の死であった。主は法的に刑死させられたからである。それは、口にすることもできないほどの苦痛を味わう死であった。主は十字架にかけられたからである。そして、十字架に釘づけられて死ぬことほど痛みと苦しみの伴う運命があるだろうか? それは長く引き延ばされた死であって、主はその両手と両足を釘づけられただけで、何時間もそこにかかっていた。――手も足も、いのちに関わる器官では決してないが、それは最も繊細な神経が張り巡らされている、感受性の鋭い部位である。主が受けられた死は、その状況という点から見ても、いまだ比肩しうるもののない死であった。それは、決してからだのいのちを瞬時に粉砕し、一巻の終わりとするような打撃ではなかった。むしろ、じりじりと続く、長く、陰惨な死であった。何の慰めも同情も伴わない、嘲りと軽蔑に取り巻かれた死であった。このお方を思い描くがいい! 彼らは主の背中を痛めつけた。その御手と御足を釘で貫いた。主を高く掲げた。見よ! 彼らは十字架をその場所に打ち込んだ。それを固定した。そして今、この方を見よ! 涙を一杯に浮かべたその目に注目せよ。がっくりと垂れたその頭を眺めよ。あゝ! このお方に注目せよ。《苦しみ》は彼女の暗黒の翼により、主の頬を火焔であぶっていた。この方を眺めよ。一言も語らずとも、こう云っているかに思えるこの方を。「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私は死のちりの上に置かれています」*[詩22:14-15]。この方の言葉を聞けよ。「わたしは渇く」、と呻かれるこの方を[ヨハ19:28]。何にもまして耳を傾けよ。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、と叫ばれるこの方に[マコ15:34]。私の言葉ではこの方を描き出せない。私の想念ではそれを表現できない。いかなる画家もそれを成し遂げたことなく、いかなる語り手もそれを果たすことはないであろう。それでも私は切に願う。あなたがこの《王なる受難者》を注視することを。この方を見よ。信仰の目で、かの血染めの木にかかっておられるこの方を見よ。聞けよ。この方の死の前の叫びを。「完了せり」!と[ヨハ19:30]

   「見よ、主のみかしら、御手と御足を
    悲しみ恵みぞ こもごも流る!
    いまだかくなる 恵み悲しみ、
    いばらの冠、世にぞありしか?」

おゝ! いかに私はあなたを奮い起こしたいことか! もし私が何か、恋に悩む少女の愚にもつかない話をして聞かせるとしたら、あなたは泣くであろう。私が小説家になり、作り話の主人公が苦痛に満ちた死を遂げる悲しい物語を供するとしたら、――それが虚構であっても、私はあなたの心をつかめるであろう。だが、これは恐ろしい厳粛な真実であって、あなたと密接な関係のある真実である。これらすべては、自分の罪を心から悔い改めるすべての人々のためになされたからである。

   「道行く衆人(みな)に イェス近づきぬ、
    汝れには無なるか、イェス死にたるは」。

考えるがいい。もしあなたが救われるとしたら、それは無ではない。主の御手からしたたる血の滴は、あなたのためにしたたっているからである。責め苦によじられた肉体は、あなたのためによじられているのである。苦痛によってかくも弱められていたあの膝は、あなたのために弱められているのである。涙の雨を注いでいたあの両目は、あなたのために滴を降らせているのである。あゝ! ならば、主について考えるがいい。あなたがた、主を信ずる信仰を有する方々。主を見上げるがいい。また、あなたがたの中の、まだ信じていない方々。私はあなたのために祈る。あなたがたがいま主を、あなたの咎を贖うお方として見つめることができるように。信ずるすべての人々に天国を開く鍵として見つめることができるように、と。

 II. 私たちが第二に語りたい点は、このことである。神が「私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられ」るのは、単にキリストが私たちのために死なれたためばかりでなく、《キリストが私たちのために死んでくださったのは、私たちがまだ罪人であったときであった》からである。

 私たちの中の多くの者らがいかなる種類の罪人であったか、しばし考えてみよう。そうするとき私たちは、キリストが人々のため、――悔悟せる者たちではなく――罪人であった者たちのために死なれるということが、驚嘆すべき恵みであることを見てとるであろう。私たちが罪を犯したのは、一度や二度ではなく、一万回もの数に上る。私たちの人生は、いかに高潔で道徳的なものであったとしても、不断の罪によって汚されてきた。たとい神に対して、外的な行為においては逆らってこなかったとしても、また、放蕩者が大罪人と宣告されるような行為に手を染めたことがないとしても、私たちの心の思いと口の言葉は、私たちが絶え間なくそむきの罪を犯してきたことをたちまち証言するであろう。そして、おゝ! 私の兄弟たち。私たちの中に、ひとりでも、そうした行為の罪を告白しない者がいるだろうか? 私たちの中にひとりでも、安息日を破ったことのない者がいるだろうか? 私たちの中にだれか、神の御名をみだりに唱えたことのない者がいるだろうか? 私たちの中にだれか、自分は主なる私たちの神を、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛してきた、などと云おうとする者がいるだろうか? 私たちは今まで、何らかの行為によって、自分の隣人の持ち物をほしがっていると示したことが一度もなかっただろうか? まことに私は、私たちがそうしてきたことを知っている。私たちは神の戒めを破ってきたし、この包括的な告白を唱和するのはよいことである。――「われらは、なすべからざることをなし来たり、なすべきことをなさざるままにせし者、うちにいかなる健やかさもなき者なり」。だが、考えるだに甘やかなことに、キリストが私たちのために死なれたのは、私たちが絶え間なくそむく者であるとご存じのときだったのである。方々。兄弟たち。父たちよ。主が死なれたのは、たった一度しか過ちを犯さなかったあなたのためではなく、断固たる「罪人」であるあなたのためであった。積年の罪人、中には白髪になるまで罪を犯してきた者もいる、不義の道をひた走ってきた罪人であるあなたのためであった。罪人として私たちは贖われ、そのことにより私たちは聖徒となった。これは、私たちに対するキリストの愛を明らかにしていないだろうか? 主は罪人たちのために死なれた。自らを緋のように、紅のように[イザ1:18]罪で染めてきた者、大いなる、とめどもない罪人たちのために死なれた。

 さらに注意するがいい。主は、私たちの罪がひときわ重いものであったにもかかわらず、私たちのために死なれた。おゝ! この場にいる私たちの中のある者らは、大罪人である。――私たちが行なった行為においてではなく、私たちの咎を重くする事がらにおいてそうである。私は、自分が罪を犯すとき、あなたがたの中の多くの方々よりも重い罪を犯すと思う。私は、話をお聞きの多くの方々が若い頃に受けたよりも良い訓練に反して罪を犯すからである。あなたがたの中の多くの方々は、罪を犯すとき、忠実な教役者に反し、この上もなく真剣な警告の数々に反して罪を犯す。あなたは、真実な牧師の下に座るのが習いであった。自分の罪についてしばしば聞かされてきた。覚えておくがいい。方々。あなたが罪を犯すとき、あなたは他の人々ほど軽微な罪を犯すのではない。あなたが自分の良心の確信に反して罪を犯し、あなたの友人たちの警告に反し、時代の啓発に反し、自らの牧師たちの厳粛な勧告に反して罪を犯すとき、あなたは他の人々よりもずっと極悪な罪を犯すのである。ホッテントット人は、英国人のようには罪を犯していない。この国で育った者は、表向きはずっと品行方正かもしれないが、内側ではずっとよこしまかもしれない。しかし、そうした者のためにすらキリストは死んでくださった。――ご自分の愛の慫慂に反して罪を犯してきた者たち、自らの良心の葛藤に反し、ご自分のみことばの招きに反し、ご自分の摂理の警告に反して罪を犯してきた者たち――そのような者たちのためにさえ、キリストは死んでくださった。そして、ここにおいて主は、私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられる。主は罪人たちのために死なれた。話をお聞きの方々。たといあなたがそのような罪を犯してきたとしても、そのために絶望してはならない。主はそれでもあなたが、主の贖いを喜べるようにしてくださるであろう。

 さらに思い返すがいい。私たちが罪人であったとき、私たちは、私たちのために死なれたお方ご自分に逆らう罪人であった。これぞ奇妙、奇妙を通り越した奇妙、仰天すべき不思議である。私たちが罪を犯した当の相手であられるキリストが、私たちのために死なれたのである。もしある人が町通りで傷つけられたとして、その人に暴行を加えた人への刑罰が求められた場合、奇妙を越えて奇妙なことは、傷つけられた被害者の方が、愛ゆえにその罰を引き受け、相手が無罪放免にされるという場合である。だが、キリストはまさにそうしたことをなさった。主は傷つけられたが、他者がご自分に加えたまさにその傷害ゆえに苦しみを受けられた。主はご自分の敵たちのために死なれた。――ご自分を憎み、あざける者たちのために死なれた。古い云い伝えによると、キリストのわき腹を突き刺した当の男は回心したという。私はこう思うことがある。ひょっとすると私たちは、天国で、主の御手に釘を打ち込み、主のわき腹を突き刺した当の人々と出会うかもしれない。愛は偉大なものである。それは、ひときわひどくそむいた者たちを赦すことができる。私は自分の《主人》が、「エルサレムから始めよ」*[ルカ24:47]、と仰せになったことを知っている。主がそう云われたのは、ご自分を十字架につけた者らがそこに住んでおり、彼らが救われることを欲されたからだと思う。話をお聞きの方々。あなたは今までキリストを冒涜したことがあるだろうか? 今までキリストを馬鹿にし、その御民を嘲ったことがあるだろうか? 主の聖なる御顔につばを吐きかけた者の向こうを張るようなことをことごとく行なってきただろうか? あなたはそれを悔いているだろうか? 自分には《救い主》が必要だと感じているだろうか? ならば私は、キリストの御名によってあなたに告げる。主はあなたの《救い主》であられる。しかり。あなたの《救い主》であられる。あなたが主を侮辱してきたとしても関係ない。――主はあなたの《救い主》であられる。あなたが主を踏みつけにしてきたとしても関係ない。――主はあなたの《救い主》であられる。あなたが主の民、主の日、主のみことば、主の福音に悪口を云ってきたとしても関係ない。

 もうひとたび思い起こそう。私たちの中の多くの者らは、罪人として長い間この良き知らせを聞いてきたが、それでも、それを蔑んできた。ことによると、人間の堕落ぶりの中でも、何にもまして驚くべきことは、それがキリストの愛を忘れることができるということかもしれない。もし私たちが、これほど罪深くなかったとしたら、この場にいる私たちのうち、だれひとり、この《救い主》の愛を思って泣かない者はないであろう。そして私の信ずるところ、この場にいる男女子どものうちただひとりとして、こう云わない者はないであろう。「私はあなたを愛します。おゝ、私の神! あなたは私のためにこれほどのことをしてくださったからです」。私たちの堕落を何よりもはっきり証明するのは、私たちが自分のために死んでくださったキリストを即座に愛そうとはしないことである。スコットランドの盟約者たちについてこういう話が語られている。――パトリック・ウェルウッドという名の男の話である。――あるとき彼の家は、とある教役者が安全を求めて潜伏していたとき、包囲されたことがあった。クレイヴァーハウスの竜騎兵たちが戸口のところにやって来た。すでに教役者が逃亡していたため、その家の主人は喚問され、「あの教役者はどこに逃げた?」、と詰問された。「あの方は行ってしまいました。どこに行かれたかはお教えできません。私はそれを知らないのですから」。しかし彼らはそれでは満足しなかった。彼らは彼を拷問にかけ、それでも彼がその教役者の行方を云わなかったので(というのも、本当に彼は知らなかったからだが)、彼を親指締めの拷問にかけた後で放置し、その家に住んでいた、まだ年若い彼の妹をとらえた。彼女の方は、教役者の隠れ場所を知っていたと思う。だが彼女をつかまえた者らが彼女に問うと、彼女は云った。「いいえ。私は死んでもかまいませんが、神のしもべを裏切ることは決してできませんし、御助けある限り、決して裏切るつもりはありません」。彼らは彼女を水辺まで引きずって行き、彼女を膝まずかせた。彼女を殺すつもりだったのである。しかし、指揮官が云った。「まだだ。この女を怖がらせてやろう」。そこで、ひとりの兵士を彼女のもとにやった。彼は膝をつくと短銃を彼女の耳に当て、教役者を裏切らなければ殺すぞと云った。短銃のガチャリという音が彼女の耳元で聞こえたが、その短銃には弾が込められていなかった。彼女はかすかに震え、再び同じことが問われた。「さあ吐け」、と彼らは云った。「奴はどこにいる。云わなければ命はないぞ」。「絶対に云いません」、と彼女は云った。この試みがもう一度繰り返された。今度は、数丁の騎銃が発射された。ただし彼女を脅えさせるために空中に向けて発射された。とうとう彼らは本当に彼女の命を取ろうと心を決めた。そのとき、近くに隠れていたトレイルというその教役者は、銃の発射音にはっとさせられ、このあわれな少女が自分のために死のうとしているのを見て、飛び出してきて叫んだ。「その娘の血は流すな、私の血を流すがいい。何の罪もない可哀想な子、この子が何をしたというのだ?」 このあわれな少女は、そのときすでに恐怖のあまり絶命していた。だがその教役者は彼女の命を救うために死ぬ覚悟で駈けつけたのである。おゝ、愛する方々。私は思うことがある。彼女の英雄的な殉教は、あのほむべきイエスにどこか似ていると。主は私たちのもとにやって来て、「あわれな罪人よ。あなたはわたしの友になりたくはないか?」、と云われる。私たちは、「いいえ」、と答える。「あゝ、わたしはあなたを友としたいのだ」、と主は仰せになる。「わたしはあなたのために死のう」。そして主は、行って十字架の上でお死にになる。おゝ! 私は飛び出してこう云えるような気がする。「いいえ、主イエスよ。いいえ。あなたがこのような虫けらのために死んではいけません」。確かに、このような犠牲は、あわれな罪深い虫けらどものための代償としては大きすぎる! だがしかし、話をお聞きの方々。私が先に口にしたことに戻ると、あなたはこうしたすべてのことを聞いても、十人中九人は、この場所を出て行くと、「あんな話は耳にたこができるくらい聞いたよな」、と云うであろう。そして、他の何について泣くことができても、イエスのためには一滴も涙をこぼさず、イエスのためには全く溜め息をつかず、ほんのかすかな愛の思いも覚えないであろう。そうでなければどんなに良いことか! 願わくは神が、あなたを変えてくださり、あなたがたに主を愛させてくださるように。

 さらに本日の聖句の例証として、もう1つ指摘させてほしい。キリストが罪人たちのために死なれたことにより、主の愛が明らかにされているというのは次の理由からである。――きわめて確かなことだが、キリストが死なれたとき、神は人間の功績を考えに入れてはおられなかった。事実、いかなる功績であれイエスの死を受ける価値などなかった。たとい私たちがアダムのように聖かったとしても、決して私たちは、私たちのためのイエスの犠牲ほどの犠牲に値するはずがなかった。しかし、「彼は罪人のために死なれた」、と書かれている以上、私たちはそれによってこう教えられるのである。神が考慮されるのは私たちの罪であって、私たちの義ではない。キリストが死なれたとき、それは、どす黒く、よこしまで、忌み嫌うべき人間のためであって、善良ですぐれた人間のためではなかった。キリストがご自分の血を流されたのは、聖徒としての私たちのためではなく、罪人としての私たちのためであった。主が考慮されたのは、いとわしさの中にあり、卑しく、悲惨な状況にある私たちであった。――後に恵みによって引き上げられた高い状態にある私たちではなく、自らの罪によって堕落し、腐敗のただ中にある私たちであった。私たちのうちには、いかなる功績もありえるはずがなかった。それゆえ、神は私たちの荒廃した境遇によって、ご自分の愛を明らかにしておられるのである。

 また、きわめて確かなことだが、キリストが罪人である私たちのために死んでくださったからには、神はご自分の御子を死ぬために遣わすことによって、いかなる利益をはかるおつもりもなかった。いかにして罪人たちが神の役に立ちえただろうか? おゝ! もし神が望まれたなら、神はこの反逆者どもの巣を叩きつぶし、全く聖い別の世界を造ることがおできになったであろう。神がそう選ばれたなら、人が罪を犯した瞬間に、神は世界に、「焼かれよ」、と仰せになれたであろう。そして、何年か前、天文学者が私たちに、何万哩も彼方にある1つの世界が燃える光が見えたと告げたように、この世界も燃える炎熱で焼き尽くされ、この土くれから罪が焼き焦がされていてよかったであろう。しかし、否。神は、別の種族を造って私たちを消滅させることも、私たちを永遠の業苦の中に入れることもできたにもかかわらず、自ら肉体をまとい、私たちのために死んでくださった。ならば、確かにそれは、いかなる私利私欲に動かされてのことでもありえなかったであろう。神は人の救いによって何も得るものがなかった。パラダイスにおいては、人間の声などに何の魅力があるだろうか? 定命の者の口が歌えるかぼそい交響曲など、私たちの主の死にくらべれば何だろうか? 神には山ほど御使いたちがいた。彼らは夜も昼もなく御座の周囲を喜びつつ回ってはいないだろうか? 彼らの黄金の立琴で十分ではないだろうか? 天の管弦楽団は十分に巨大なものではないだろうか? 私たちの栄光に富む主が、あわれな虫けらどもを買い取るためにその血潮をささげなくてはならなかったのだろうか? それも、そうした者どもが、合唱を鳴りどよめかせている宇宙にそのか弱い声音を合わせるだけのために? しかり。主はそうしなくてはならなかった。そして、私たちが罪人である以上、また、いかなる可能性によっても、神のいつくしみへのお返しができない者であった以上、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。

 しかし、この愛を明らかにすることがもう1つある。キリストは頼まれもしないうちから私たちのために死んでくださった。キリストが考慮なさったのは、目覚めさせられた天の世継ぎとしての私ではなく、死んで、腐敗して、滅んでいる地獄の世継ぎとしての私であった。もし主が目覚めさせられた天の世継ぎとしての私のために死なれたとしたら、私は主に死んでくださるよう祈れていたであろう。そのときの私には祈る力があり、祈る意志もあっただろうからである。だがキリストが私のために死なれたのは、私が祈りによって主に声を上げる力も意志も全くないときであった。それは、全く頼まれもしないときであった。どこであなたがたは、人が最初からあわれみのうちにあるなどと聞いたことがあるだろうか? 人は神に、贖ってくださいと願っただろうか? 否。むしろ、全く正反対であった。それはあたかも神が、人に向かって贖われてほしいと懇願しているかのようであった。人は決して自分を赦してほしいと願ったことはない。だが神は人を赦し、向き直ってはこう叫ばれた。「背信の子らよ。わたしのもとに帰れ。わたしはあなたを愛そう」。罪人よ! たといあなたが膝まずいて祈るとしても、また、あわれみを求めて何箇月叫ぶとしても、あわれみがあなたを顧みるようなことがあるとしたら、それは大いなるあわれみである。だが、私たちが全く何も乞い求めることなく、かたくなで逆らう者であったときに、また、キリストに目もくれなかったときに、主はなおも私たちに代わって死ぬためにやって来られるのである。これを天で告げるがいい。冥界で告げるがいい。神の驚くばかりのみわざは、あらゆる思いをはるかに越えたものである。というのも、愛が憎悪に代わって自ら死に、――聖潔があわれな罪深い人間たちを救うために、頼まれもせず求められもしないうちから、自らを十字架につけたからである。さながら砂漠の泉が、その天然水を自発的に振りまくかのように、イエス・キリストは、その恵みを求めようともしない人間のためにやって来ては死んでくださった。「神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。

 さて、私の愛する方々。しめくくりに私は、神の御霊の助けによって、あなたに対する神の愛を、力の及ぶ限り明らかに示してみよう。そして、いま《救い主》が必要であると感じている、できるだけ多くの方々に、このお方を今、すべてを満ち足らすあなたの犠牲としてつかみとり、抱きしめるよう招きたいと思う。罪人よ! 私がキリストをあなたのためになるお方として差し出せると思うのは、この理由からである。私はあなたがキリストを必要としていると知っている。あなたは、自分では全く知らないかもしれないが、この方を必要としている。あなたの心の内側にはらい病がある。――あなたには医者が必要である。あなたは、「私は富んでいる」、と云うが、罪人よ。あなたは富んではいない。――あなたは裸で、貧しく、みじめである。あなたは、「私は最後には受け入れられて神の御前に立てるだろう」、と云うが、罪人よ。キリストから離れているあなたが、そのように立つことはない。だれであれキリストを信じない者は、「いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」からである[ヨハ3:36]。この言葉を聞くがいい。私の愛する方々。「神の怒りがその上にとどまる」。おゝ! 神の怒り! 罪人よ。あなたがそうは思わなくとも、あなたにはキリストが必要である。おゝ、願わくは主が、このことをあなたに銘記させてくださるように! また、たとい今はそう感じていなくとも、やがて来たるべき日には、キリストに対する自分の必要をあなたは感じるであろう。もうほんの数年、ことによると、もう数か月か数日もすれば、あなたは、あなたの最後の寝床にぐったりと横たわることになるかもしれない。すぐにあなたは、柔らかな枕でつっかいをされるようになり、あなたのからだは衰え、あなたの魂は哀しみで満たされるであろう。あなたは、今はキリストから離れて生きられるかもしれないが、キリストから離れて死ぬのは辛いことであろう。あなたは、この場では、この橋なしにやっていけるかもしれない。だが、あなたがかの川に着くとき、あなたは自分を愚か者だと思うであろう。あなたは、自分を安全に向こう側に渡すことのできる唯一の橋を笑い飛ばしてきたからである。あなたは今はキリストを蔑んでいるかもしれない。だが、ヨルダンの川がいっぱいに溢れるとき、あなたはどうしようというのだろうか? あなたは死に直面して、恐れずにいられるだろうか? 否。人よ。あなたは、もし虎列剌が町の中にはびこっているとしたら、震え上がるであろう。あるいは、何かちよっとした病が身に迫っても、死の顎にくわえられたらどうしようかと恐れて身震いするであろう。死がその骨ばった手であなたをむずとつかみ、その投げ矢があなたの命取りの部位に突き刺さったとしたら? そのときあなたは《救い主》から離れて何をしようというのだろうか? あゝ! あなたはそのとき主を必要とするであろう。そして、あなたがかの黒い流れを渡りきったとき、また、自分が霊たちの領土にいることに気づいたとき、――かの最後の審判の日に雷が解き放たれ、稲妻の翼がそのいましめを解かれるとき、――喇叭のような大音声とともに大嵐がかの大いなる《審問》の到来の先触れとなるとき、あなたはどうしようというのか? 神の法廷に立つとき、あなたはどうしようというのか? そのお方の前で、驚愕のあまり星々は逃げ散り、山々は震え、海は紅蓮に燃える火焔でなめつくされるのである。神がその御座から、「ここへ来よ、罪人よ」、と大喝されるとき、あなたはどうしようというのか? あなたはそこにひとりで立ち、肉体において行なったあらゆる行ないについて審かれるであろう。あなたは頭を巡らし、「おゝ! 弁護士がいたら!」、と云う。すると主はあなたを見つめて仰せになるであろう。「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう」[箴1:24、26]。あゝ! 審きの座が据えられるそのとき、あなたは何をしようというのか。罪人よ。おゝ! そこには泣く者がいるであろう。――キリストの審きの座で泣く者がいるであろう。では、その日、あなたは何をしようというのか。キリストは、「離れて行け。のろわれた者ども」*[マタ25:41]、と仰せになり、かの稲妻よりもすさまじい顔をした暗黒の御使いが、万の雷よりも大きな声をもって叫ぶであろう。「離れ去れ!」 そして、太古の昔に破滅へと投げ落とされた、かの呪われた霊たちが永遠に鉄の枷で縛られている所へあなたを叩き込むであろう。何とひどい話をするのだ、と云ってはならない。もしこれが口にするもひどいことだとしたら、それを体験するのはいかにひどいことか! もしあなたが私の云うことを信じないとしたら、あなたが私を笑うとしても不思議はない。だが、あなたがたの中のほとんどの人々がこのことを信じている以上、わたしはあなたに、厳粛きわまりない注意をこの主題に払うよう求めるものである。

 方々! あなたは地獄があると信じているだろうか? そして自分がそこに向かいつつあることを信じているだろうか? だがしかし、それでもあなたは何もかまいつけずに進み続けるのだろうか? あなたは、いのちの流れが終わるとき、自分の前には悲惨な暗黒の深淵が広がっていると信じているだろうか? それでもあなたは、そこへ向かって下り続け、なおもあなたの幸福の杯をガフガブ飲み続け、なおも日がな陽気にしているのだろうか? おゝ、止まるがいい。罪人よ。止まるがいい! 今は、あなたが止まれる最後の機会がある瞬間かもしれない。それゆえ、いま止まるよう私は切に願う。そして、もしあなたが、自分は失われ滅んでいる者であるとわかっているとしたら、また、聖霊があなたをへりくだらせ、あなたの罪を感じさせておられるとしたら、あなたがいかにすれば救われるかを告げさせてほしい。聖書は云う。「主イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」*[マコ16:16]。あなたは、この使信が気にくわないだろうか? こんな言葉ではない、別のことを云うべきだと思うだろうか? たといあなたがそう望むとしても、私はそうはしない。神が仰せになることを私は云うであろう。私には、《いと高き方》から出た使信を変造しようなどという気持ちは毛頭ない。私は、神の御助けがある限り、神の真理を変えることなく宣告するであろう。神は云っておられる。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」。信ずるとはどういうことだろうか? できる限り単純に云おう。信ずるとは、あなた自身に頼ることをやめて、あなたの《救い主》としてのイエス・キリストに頼ることである。知っての通り、あの黒人はこう云った。「旦那様。おらは、こんなふうに信じていますだ。――おらは何か約束が頭に入ったら、その約束の上に立ったりしねえで、こう云いますだ。あの約束は固くて強えはずだから、おらはその上にべたっと寝そべろう。そんで、もし約束がおらの下でつぶれたりしたら、悪いのは約束の方ですだ。だけんど、おらは御約束の上にべたっと寝そべるんですだ」。さて、これが信仰である。キリストは云っておられる。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。信仰とは、こう云うことである。「よろしい。ならば、のるにせよそるにせよ、これが私の唯一の希望なのだ。失われようが救われようが、これしか私に隠れ家はないのだ。私は決心した。これが私の最後のとりでなのだ。

   『たといそこにて 滅び死すとも
    十字架のかげに われ横たわらん』」。

「何と!」、とある人は云うであろう。「何の善行もなしにですか?」 良いわざは後でついてくる。だが、それは信仰と同じ立場にはない。あなたは、キリストのもとに行くとき、自分の良いわざを持って行くのではなく、自分のもろもろの罪を持って行かなくてはならない。そして、あなたのもろもろの罪を携えて行くとき、主はそれらを取り去り、後であなたに種々の良いわざをお与えになるであろう。あなたが信じた後では、あなたの信仰の結果として種々の良いわざが生ずるであろう。だが、もしあなたが信仰は良いわざの結果であると考えているとしたら間違いである。これは、「信じて生きよ」である。クーパーはそれを、魂を生かすような言葉で詩にしている。「信じて生きよ」。これこそ福音の要諦である。

 さて、あなたがたの中にだれか、これは福音ではないと云う人がいるだろうか? ならば私は、福音とは何なのか、いつかあなたに聞いてみたいと思う。これは、ホイットフィールドが宣べ伝えた教理ではないだろうか? さもなければ、ルターは、ヴァチカンを揺り動かしたとき、他の何を喝破したのだろうか? 他の何がアウグスティヌスやクリュソストモスによって宣言されただろうか? それは、信仰のみによる、キリストにある救いという、この唯一の教理でなくて何だろうか? また、パウロは何と書いていただろうか? 彼の書簡に目を向けるがいい。そして、私たちの《救い主》ご自身がこの言葉を記録に残されたとき、何と云っておられただろうか?――「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け……なさい」[マタ28:19]。また、主はその弟子たちに向かって、何を教えるよう命じられただろうか? 彼らが人々に教えるべきだったのは、このことである。私がいま復唱したばかりの言葉こそ、主の最後の指令であった。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」。

 しかし、やはりあなたは云うであろう。「いかにすれば私はキリストが私のために死なれたと信じられるのでしょうか?」 何と、このようにしてである。――主はご自分が罪人たちのために死んだと云っておられる。あなたは、自分が罪人だと云えるだろうか? それは決して、あなたがたの中の多くの方々がよく云うような、お上品なお題目のことではない。あなたがたは、「ええ。私は罪人です」、と云うが、私が真顔で、「あなたはあの戒めを破りましたね?」、と聞くと、「とんでもない」、と云う。「あの罪を犯しましたね?」 「まさか」。あなたは、絶対に何も悪いことをしたとは云わない。それでいながら罪人だというのである。さて、そういった類の罪人たちは、私が説教すべき相手ではないと思う。私が悔い改めに招きたいと思う類の罪人たちとは、キリストが招いておられた人々である。――自分は罪人ですと告白するとき、本気でそう云っている人々である。――自分が咎ある、邪悪で、失われている者だと知っている人々である。もしあなたが自分の罪人たることを知っているとしたら、まことにキリストはあなたのために死なれたのである。このルターの驚くべき云い回しを覚えておくがいい。ルターによると、あるときサタンが彼のもとに来て、こう云ったという。「マルチン・ルター。お前は失われているぞ。罪人なのだからな」。そこで彼は云った。「サタンよ。私が罪人だと告げてくれたことについて、お前に感謝しよう。というのも、お前が私を罪人だと云う限り、私はお前にこう答えるからだ。――キリストは罪人のために死なれた。そして、もしマルチン・ルターが罪人だとしたら、キリストは彼のために死なれたのだ」。さて、話をお聞きの方々。あなたはこのことを自分のものとできるだろうか? これは私の権威ではなく、神の権威によっている。

   「イェスよ。汝が血と 汝が義とは
    わが麗しき 栄えのころも。
    燃ゆる世にても これをまとわば
    われ喜びて こうべを上げん。
    かの日も大胆(つよ)く われは立たん!
    そは誰(た)ぞわれを 非難(せ)めうべき。
    汝が血のまたく われ解(と)きたるに、
    罪のすさまじ 呪い、恥辱(はじ)より」

このように歌うがいい。あわれな魂よ。そのときあなたは、パラダイスの歌を歌い始めたのである。願わくは主が、聖霊が、この素朴な真理の言明をあなたの魂の救いにあてはめてくださるように。

 

愛の明示[了]
----
-----

HOME | TOP | 目次