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罪の告白――7つの聖句による説教

NO. 113

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1857年1月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


パロ――「私は罪を犯した」。――出9:27


 今朝の私の説教では、7つの聖句が扱われるであろう。とはいえ、その全体を通じてほんの三言しか違いはないと約束しよう。というのも、その7つの聖句は、神の聖なることばの7つの異なる箇所に出て来てはいるものの、ほとんど同じ言葉だからである。しかしながら、私はそのすべてを異なる事例の例証として用いなくてはならない。あなたがたの中で、自分の聖書を持ってきている方々には、それぞれの聖句に私が言及するたびに、そこを開いてほしいと思う。

 今朝の講話の主題は、このこと――《罪の告白》である。私たちは、これが救われるために絶対必要であると知っている。自分のもろもろの罪を真実に、心から神に告白しもしない者が、《贖い主》の血によってあわれみきを見いだせるなどいう約束は、どこにもない。「自分のそむきの罪を……告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」[箴28:13]。しかし、聖書の中には、自分の罪を告白しようとしない者に対しては、いかなる約束もない。とはいえ、聖書の中のあらゆる点で人は欺かれやすく、それは特にこの罪の告白という件においてそうである。多くの人々は、何がしかの告白を行ない、神の前でも告白していながら、それにもかかわらず、何の祝福も受けることがない。こうした人々の告白には、その純粋さと真摯さとを示し、それが聖霊のみわざであることを証明するものが欠けているのである。だが神は、そうしたいくつかのことを目印として求めておられる。本日の聖句は、「私は-罪を-犯した」という3つの言葉からなっている。そして、あなたはこの言葉が、異なる人々の口によって発されるとき、いかに異なる感情を指し示しているかを見てとるであろう。一方では、ある人が、「私は罪を犯した」、と云って赦しを受け取ってるのに、私たちの出会う別の人は、「私は罪を犯した」、と云いながら、自分の道をつき進む。そして、以前にまさる罪悪で自らをどす黒く染めては、自分が先に見いだしたものよりずっと大きな罪の深みへと飛び込んでいくのである。

《かたくなな罪人》

パロ――「私は罪を犯した」。――出9:27

 I. 私があなたの前に持ち出したい第一の事例は、《かたくなな罪人》の場合である。その人は、恐怖にかられて、「私は罪を犯した」、と云う。そして、あなたはこの聖句を出エジプト記9章27節に見いだすであろう。「そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。『今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ』」。

 しかし、なぜこの告白が、傲岸不遜な暴君から出てきたのだろうか? 彼は、エホバの前に身を低くすることをあまりしつけてはいなかったはずである。なぜこの高慢な人間がひれ伏しているのだろうか? 彼の告白がなされた際の状況について聞けば、その告白の値打ちを見透かせるであろう。「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった」[出9:23-24]。さてパロは、この雷が空で鳴り轟き、雹が大きな氷の塊となって降り注いでいる間、その折に、こう云っているのである。「私は罪を犯した」。彼は、これと同種類の、おびただしい数の人々の典型であり見本である。いかに多くのかたくなな反逆者が、自分の乗っている船の肋材がみしみし云い、きしんでいるときには、――また、その帆柱が折れ、船が疾風に吹き流されているときには、――また、飢えた波浪がその口を開いて頭からその船を丸呑みにし、生きながらよみに下らせようかというときには、――いかに多くのかたくなな水夫たちが、膝をかがめてひれ伏し、目に涙を浮かべながら、「私は罪を犯してきました!」、と叫ぶことか。しかし、そうした人の告白が何の役に立つだろうか? それに何の価値があるだろうか? 嵐の中で生まれた悔い改めは、凪の中では死んでしまう。雷と稲妻の最中に生み出された悔い改めは、台風一過し、静かになるや否やなくなってしまう。船上では敬虔な船乗りだった人は、terra firma[堅い大地]に足を踏みしめたときには、水夫の中でも最も邪悪で、忌み嫌うべき水夫になる。いかにしばしば私たちは、こうしたことを雷や稲妻の嵐の中でも見てきたことだろうか? 多くの人は、雷が鳴り轟くのを聞くと顔面蒼白となり、目から涙を流しては、こう叫ぶ。「おゝ、神よ。私は罪を犯してきました!」 自分の家のたるきが揺れ動き、自分の足の下の地面が、威厳ある主の御声によってゆさゆさ揺れているときにはそうである[詩29:4]。しかし、あゝ! こうした悔い改めは! 太陽が再び輝き、黒雲が引き上げていくと、罪はその人の上に再び臨み、その人は以前にまして悪い者となる。これと同じ類のいかに多くの告白を、私たちは虎列剌や、熱病や、疫病の時期に見てきたことか! 当時、わが国の諸教会は聴衆で満杯になったものであった。彼らは、あまりにも多くの葬式が自分たちの家の戸口から出されたために、あるいは、あまりにも多くの人々が町通りで死んだために、神の家にやって来ては、自分の罪を告白しないではいられなかったのである。そして、そうした訪れを受けて、その一人、二人、三人が家で、あるいは隣家で死んで横たわったとき、いかに多くの人々が、彼らは本当に神に立ち返っているのだと考えたことか! しかし、悲しいかな! 疫病が終息したときには、罪の確信もやんでしまい、虎列剌による死の鐘が鳴り終えた後では、彼らの心は悔悟の脈を打つことがなくなり、彼らの涙はもはや流されなくなった。

 この場に今朝そうした人がいるだろうか? 疑いもなく、ここには、キリスト教信仰の考え方そのものを蔑むかたくなな人、こうしたことをつきつめて考えさせようとする私を勿体ぶったお説教屋で偽善者だとみなす人がいるであろう。だが、恐怖にかられるとその人は、キリスト教信仰が真実であると腹の底から悟り、痛感するのである! もし今朝この場にそのような人がいるとしたら、厳粛にこう云わせてほしい。「方々。あなたは、自分が恐怖したときに覚えた感情を忘れてしまっている。だが、覚えておくがいい。神は、あなたが誓った誓いを忘れてはおられない」。水夫よ。あなたは云った。もし神が自分にもう一度陸を見せてくれるなら、自分は神のしもべになろう、と。だが、あなたはそうしていない。あなたは神に嘘をついたのだ。神に偽りの約束をしたのだ。あなたは自分の口が発したその誓いを決して守らなかったからだ。あなたは病の床の上で云った。もし神が自分に命拾いさせてくださるなら、自分は以前していたような罪を二度と犯さない、と。だが、ここにあなたはいて、今週犯してきたもろもろの罪が声高に自らの存在を主張している。あなたは病の前とくらべて、少しもまともになっていない。あなたは、同胞の人間に向かって嘘をついておきながら、非難されずにすまされるだろうか? では、神に向かって嘘をついておきながら、罰されずにすむと思うだろうか? 否。その誓いは、いかに性急になされたものであっても、天国で記録されており、それが人間には果たせない誓いであっても、それでも自分で誓った誓い、自発的に誓った誓いである以上、守らなければ罰を受けるのである。そして神は、最後にはその人に復讐なさる。なぜなら、その人は自分の道から立ち返ると云ったのに、その不幸が取り除かれたとき、そうしなかったからである。最近、仮出獄許可証に対して、非常に大きな抗議が巻き起こった。疑いもなく、この場にいる一部の人々が高き天に対して負っている立場は、仮出獄を許可された者が私たちの政府に対して負っているのと同じものであるに違いない。彼らは今にも死にそうであった。そう彼らは思っていた。彼らは、もし自分のいのちが助かるなら、もっと良いふるまいをしますと約束した。そして彼らは、きょう、この世への仮出獄を許可された者としてこの場にいるのである。では、彼らは自分の約束をいかに果たしてきただろうか? 人々は、自分たちのもとに、のべつまくなしに強盗たちが解き放たれている事実に抗議の声をあげているが、それと同じような抗議の声を、正義はこうした者らに対してあげるであろう。復讐の御使いは云うであろう。「おゝ、神よ。こうした者たちは、いのちが助かるならそれだけ真人間になると云いましたが、かえって悪くなっています。いかに彼らは自分の約束に違反し、いかに自分の頭上に天来の御怒りをもたらしてきたことでしょう!」 これが第一の様式の悔悟である。そしてこれは私が、あなたがたの中のいかなる人にも真似てほしくないと願っている様式である。これは完全に無価値だからである。単に恐怖に影響されて、「私は罪を犯した」、と云いながら、後でそれを忘れてしまうのは、何の役にも立たない。

《二心の人》

バラム――「私は罪を犯しました」。――民22:34

 II. さて、第二の聖句として、別の人物を紹介させてほしい。「私は罪を犯しました」、と云った二心の人である。この人は、自分が罪を犯したと感じているし、それを痛感してもいるが、あまりにもこの世的な心をしているため、「不義の報酬を愛し」[IIペテ2:15]ている。このことを例示するために私が選んだ人物は、バラムという人物である。民数記22章34節を開いてほしい。「バラムは主の使いに申し上げた。『私は罪を犯しました』」。

 「私は罪を犯しました」、とバラムは云った。だがしかし、その後の彼は、自分の罪をかかえたまま進んでいった。世界中で最も奇妙な人物のひとりはバラムである。私はしばしばそうした人に驚愕してきた。その人は、あのラルフ・アースキンの詩句と、別の意味で瓜二つであるように見受けられる。――

   「善にも悪にも 傾きて
    悪魔でありつ 聖徒でもあり」。

というのも、その人は本当にそう見受けられたからである。時として、いかなる人にもまさって雄弁に、また真情こめて語ることができたかと思うと、別のときには、人間性の恥さらしとなるような、だれよりも下卑た、浅ましい強欲さを露にする。あなたがバラムを見ていると考えてみるがいい。彼は丘の上に立っていて、眼下にはおびただしい数のイスラエル人が見渡せる。彼は、彼らを呪うように命ぜられるが、こう叫ぶ。「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか」[民23:8]。そして神によって目を開かれるや、キリストの到来についてすら告げ始めるのである。「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない」[民24:17]。そして、そのとき彼は自分の言辞をこう云ってしめくくる。――「私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように」[民23:10]。そこで、あなたがたはこうした人について、この人は有望な人だ、と云うであろう。だが、彼が丘の上から降りてくるまで待つがいい。そのとき、あなたがたは彼が、何にもまして悪魔的な助言をモアブの王に与えるのを聞くであろう。それは、サタンそのひとがほのめかしたとしてもおかしくない助言であった。彼は王に云った。「あなたは、この民を戦いで打ち負かすことはできません。神が彼らとともにおられるのですから。ならば彼らを誘惑し、彼らの神から引き離してみなさい」。そして、あなたがたは、いかに放縦な情欲によって、モアブ人たちがイスラエル人をエホバへの臣従から誘い出したかを見るであろう[民25:1-3]。それで、この男は、一時は御使いの声をしていたが、その腹の底には悪魔の魂を持っていたように思われるのである。彼は、恐ろしい人物であった。二兎を追う人であった。2つの事がらをその極限まで追求した人であった。私は聖書が、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」[マタ6:24]、と云っているのを知っている。さて、この言葉はしばしば誤解されている。ある人は、これをこう読む。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」。否。ふたりにでも、三人にでも、四人にでも、仕えることはできる。これは、こう読むべきなのである。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」。ふたりとも主人になることはできない。人はふたりに仕えることはできるが、そのふたりがどちらとも主人であることはできない。人は、自分の主人でない人になら、ふたりであろうと、二十人であろうと仕えることができる。二十もの異なる目的のために生きることができる。だが、主たる1つの目的以上のもののために生きることはできない。――人の魂の中で、主たる目的となれるのはただ1つである。しかし、バラムは2つに仕えようと努めた。それは、こう云われた人々のようであった。「彼らは主を礼拝しながら、他の神々にも仕えていた」*[II列17:33]。あるいは、これと同じパン種からできたパンである、ルーファスのようであった。というのも、知っての通り、古の王ルーファスは、自分の盾の片方に神を描き、もう片方に悪魔を描いては、下の方にその題銘「両者に即応。『束縛不可能』」と記していたのである。そのように、神にも悪魔にも即応する者は多い。教役者に出会えば、何と敬虔で、何と聖人めいていることか。安息日の彼らはこの世で最も上品で、廉潔な人々のように思われる。実際、彼らはその話ぶりさえ、自分では卓越して宗教的だと思っている、間延びしたものにしている。しかし、平日に、最悪のならず者や詐欺師を探してみると、その敬虔さではかくも殊勝ぶった者たちの何人かが、そこには含まれているのである。さて、話をお聞きの方々。これは確実なことと思ってほしいが、いかなる罪の告白も、誠心誠意から出たものでない限り、純粋なものではありえない。「私は罪を犯しました」、と云っても、その後で罪を犯し続けるとしたら、何の役にも立たない。「私は罪を犯しました」、とあなたは云う。それは良いことである。あなたは神妙な顔つきをしている。だが、悲しいかな! 悲しいかな! 立ち去ってあなたは、その罪をまた犯すのである。ある人々は、生まれつき二重人格をしているように思われる。私は、ケンブリッジ大学のトリニティ学寮にいたとき、非常に立派なバイロン卿の彫像に気づいた。図書館員が私に、「ここに立ってみてください」、と云った。私は見て、こう云った。「何と立派で知的な顔立ちでしょう! 彼は何と素晴らしい天才だったことでしょう!」 彼は云った。「では、もう少しこちらの、反対側に立ってみてください」。「あゝ! 何という悪魔! そこに立っているのは、神にも反抗しそうな男ではありませんか」。そのバイロンの顔つきには、非常に険悪で、獰悪な表情が浮かんでおり、あたかも、「天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか」、と述べたときのサタンをミルトンが描き出したかに見えた。私は顔を背けて、図書館員に云った。「彫刻家は意図的にこうしたのだと思いますか?」 「ええ」、と彼は云った。「彼は、2つの人格を描き出したかったのです。――バイロンが有していた、偉大で、壮大で、ほとんど超人的な天才性と、彼の魂の中にあった巨大な嵩の罪とを」。この場にも同じ種類の人々がいるであろう。あえて云うが、そうした人々はバラムに似て、議論上では、その魅力によって何もかも打ち負かすであろう。種々の奇蹟を行なえるであろう。だがしかし、それと同時に、そうした人々には、ぞっとするような罪の性格をのぞかせるものがつきまとっており、それは彼らの義人たる性格と思われるものと同じくらい大きい。知っての通りバラムは、バアルの祭壇で神にいけにえをささげた。それは、まさに彼の人格の象徴であった。多くの人々はそのように行なっている。彼らは富の神殿で神にいけにえをささげていながら、教会の建物のためにも献金し、貧者に施しをしていながら、自分たちの会計事務所という別の扉では、パンを求める貧者をすりつぶし、やもめの血をしぼり出しては、自らを肥え太らせている。あゝ! 「私は罪を犯しました」、といくら云っても、心底からそう思っていない限り、無駄で無益である。そうした二心の人の告白は何の役にも立たない。

《節操のない人》

サウル――「私は罪を犯しました」。――Iサム15:24

 III. さて、ここで第三の人物、第三の聖句である。第一サムエル15章24節。「サウルはサムエルに言った。『私は罪を犯しました』」。

 ここには節操のない人がいる。――バラムとは違う。バラムは、2つの事がらに対してある程度まで誠実だったが、この人物は全く正反対である。――その人格に目立って顕著な点は何もなく、自分の頭上を通り過ぎていく状況次第で、態度をころころ変え続ける。そうした人間がサウルであった。サムエルが彼を叱責すると、彼は、「私は罪を犯しました」、と云った。しかし、本気でそう云ったのではなかった。というのも、この節の全体を読むと、彼がこう云っていることがわかるからである。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」。これは偽りの云い訳であった。サウルは決してだれをも恐れてはいなかった。彼は、いつでも自分のわがままを通すことに急だった。――彼こそは専制君主だった。また、この直前に彼は、もう1つの云い訳を云い立てていた。――彼は、エホバにささげるために牛や子羊を取っておいたというのである。それゆえ、この云い訳の両方が正しいということはありえなかった。愛する方々。あなたも覚えているように、サウルの人格の中で最も顕著な特徴は、彼の節操のなさであった。ある日、彼はダビデをその寝床から引っ立て(たものと思い込み)、彼を自分の家で殺そうとした。別の時に彼はこう叫んでいる。「私はもう、決して何もおまえに害を加えない」*[Iサム26:21]。ある日には、ダビデが自分のいのちを救ったからというので、こう云った。「あなたは私より正しい。私はもう、おまえを害さない」*[Iサム24:17; 26:21]。だが、その前日に彼は、自らの婿[ダビデ]と戦って、殺すために出てきているのである。時としてサウルは預言者たちの間にいて、たやすく預言者となっているかと思うと、その後には魔女たちの間にいる。ある時は1つの場所におり、別の時は別の場所にいて、何事についても節操がない。いかなるキリスト者の集まりであれ、いかに多くのこうした人々がいることであろう。自分の立場を、あなたまかせで常に変える人々である。何でもいいから好きなことを彼らに告げて見るがいい。彼は常にあなたに賛成する。彼らは優しい気立てをしていて、多くの場合、鋭敏な良心の持ち主である。だがその良心は、尋常ならざるほどに鋭敏すぎて、触れただけでもこわれそうになるため、あなたはより深くを探るのを恐れる。――だがそれは、それが傷つくのと同じくらいたちまち癒えてしまう。私は、前に一度、非常に奇異なたとえを用いたことがあると思うが、それをもう一度用いなくてはならない。ある人々は、弾性護謨の心をしているかのように思われる。それに触れただけで、すぐに指の跡がつく。だが、それは何の役にも立たない。たちまち元来の性質に戻ってしまうからである。あなたはそれを自分の好きなしかたで押すことができるし、それが伸縮自在であるため、いつでも自分の願い通りに変えることができる。だが、その後でそれらは、その性質に固着することがなく、じきに以前そうであったものへと逆戻りしてしまう。おゝ、方々。あなたがたの中のあまりにも多くの方々は、同じことをしてきた。あなたは《教会》の中で頭を垂れては、「私たちはあなたの道から迷い出てきました」、と云った。だが、それは本気で云ったのではなかった。あなたは自分の教役者のもとに行き、「私は自分の罪を悔い改めます」、と云った。だがそのとき、あなたは自分が罪人だとは感じていなかった。ただ相手を喜ばせようとしてそう云ったにすぎない。そして今、あなたは神の家に集っている。あなたほど感受性の強い人はいない。涙はすぐさまあなたの頬を流れ落ちるが、そうしたすべてにもかかわらず、その涙は、それが出て来たときと同じくらいすみやかに乾いてしまい、あなたは、いかなる点から見ても、以前と寸分も違わないままとどまっている。「私は罪を犯しました」、と意味もなく口にするのは、無価値よりも悪い。このように誠意のない心で告白するのは神をあざけることだからである。

 私はこの人物については手短に語った。それはバラムの人格について言及するように思えたからである。とはいえ、ものを考える人ならだれでも、サウルとバラムの間には真の差異があるとすぐさま見てとるであろう。両者の間に類似性があるとしても関係ない。バラムは非常な大悪人であり、彼がなしたあらゆることは非常に規模が大きかった。サウルは、その身長を除き、あらゆることにおいて小さかった。――その善行においても、悪徳においても小さかった。しゃにむに悪人になるには愚かすぎたし、不断に善人になるにはよこしますぎた。だが、バラムは両者において桁違いに大きかった。一時はエホバに反抗してのけるほどであったが、別の時には、こう云うことができた。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません」[民22:18]。

《疑わしい悔悟者》

アカン――「私は……罪を犯しました」。――ヨシ7:20

 IV. さて今、私があなたに紹介しなくてはならない事例は非常に興味深いものである。それは、疑わしい悔悟者の場合、アカンの場合である。ヨシュア記7章20節。「アカンはヨシュアに答えて言った。『ほんとうに、私は……罪を犯しました』」。

 知っての通り、アカンはエリコの町の分捕り物をいくらか盗んだ。――彼はくじによって発見され、殺された。私がこの事例を選び出したのは、その臨終の床において、疑わしい人格を示す人々の代表としてである。こうした人々は一見悔い改めているようだが、私たちはせいぜい次のようにしか云えない。すなわち、自分は彼らの魂が最後には救われていてほしいと思う。だが実のところ、よくは分からない、と。おわかりのように、アカンはイスラエルを汚したかどにより石で打ち殺された。しかし私は、古代ユダヤ人の聖書講解であるミシュナの中に、こう書かれてあるのを見いだすのである。「ヨシュアはアカンに言った。『主は、この日、あなたにわざわいをもたらされる』」*。そして、この聖句に関する注記にこう云う。――「彼がこの日と云ったのは、この男がこの現世においては、石で打たれて死ぬというわざわいを受けることになったが、神は彼の魂にあわれみをかけるであろうことを含意しているのである。彼が自分の罪を完全に告白したからである」。そして私も、この章を読んだ上では、私の尊ぶべき、また今は栄光を受けている前任者ギル博士の考えに同意したい気がする。博士は、アカンは、その罪悪により、見せしめとして殺されたが、実は彼は救われたのだと信じているのである。というのも、ヨシュアがいかに親切に彼に語りかけているかに注目してほしい。彼は云った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない」[ヨシ7:19]。また、アカンが全く包み隠すことなく告白していることもわかるであろう。彼は云っている。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります」[ヨシ7:20-21]。これは、全く何ら包み隠すことのない告白と思われ、もし私が判断することを許されるとしたら、私はこう云うであろう。「私は、罪人アカンと神の御座の前で会えるだろうと思う」、と。しかし、私の見いだすところ、マシュー・ヘンリーはそのような意見を全くいだいていない。また他の多くの講解者たちの考えによると、彼は、そのからだが滅ぼされたように、魂も滅ぼされたのである。それゆえ、私はこの事例を、疑わしい悔い改めの事例として選んだ。あゝ! 愛する方々。私は多くの臨終の床の傍らに立つ巡り合わせになったことがある。そして、このような悔い改めの多くを目にしてきた。私は、やつれ果てて骸骨のようになった人が、寝床の上で枕に支えられているのを見てきた。そしてその人は、私が来たるべき審きについて話して聞かせると云った。「先生。私は自分に咎があると感じてます。ですがキリストは情け深いお方です。私はキリストに信頼します」。そこで私は内心云った。「この人の魂は安全だろう」。しかし、私は立ち去りながら常に、その証拠は彼の言葉以外に全く何もないのだが、という陰気な思いにとらわれるのだった。というのも、だれかが救われていると少しでも堅く確信し続けるには、実行動と今後の生き方とにおける証拠が必要だからである。あなたも知るように、ある重大な事実がある。かつてひとりの医者が、今にも死にそうだと思われた人々のうち、彼には悔悟者であると思われた千人の記録をつけた。彼は、一冊の名簿に彼らの名前を記入し、もし死んだなら天国に行くはずの人々とした。だが彼らは死なずに生き残った。そして彼の語るところ、その千人全員の中で、その後、順調に歩んだのは三人とはおらず、残りはみな自分たちの罪に舞い戻り、かつてと同じような悪人になったという。あゝ! 愛する方々。私は、あなたがたの中のだれひとり、臨終の床でそのような悔い改めをしないように願う。私は、あなたの教役者やあなたの両親があなたの寝床の傍らに立った後で立ち去り、決してこう云わないことを願う。「かわいそうに。彼が救われているものと私は思いたい。だが、あゝ! 死に際の悔い改めというのは、希望をいだくには、あまりにも薄っぺらで、はかない拠り所だ。残念ながら、彼の魂は結局、失われたのではないかと思う」。おゝ、完全な確信とともに死ねるとしたら、――おゝ! 御国に入る恵みを豊かに与えられ、私たちが平安のうちにこの世を去ったとの証しを残していけるとしたら、どんなによいことか! それは、疑わしいしかたで死ぬよりも、はるかに幸いな道である。病んで横たわり、2つの世界の間にただよい、その2つの世界のどちらに私たちが向かっているか、自分自身でも友人たちにもわからない、などという疑わしいあり方よりも、それは、はるかにまさっている。願わくは神が私たちに、私たちの生き方の中に真の確信を示す証拠を授け、私たちが疑わしい事例ではないという恵みを授けてくださるように!

《絶望の後悔》

ユダ――「私は罪を犯した」。――マタ27:4

 V. 私はあなたを長々と引き留めないつもりだが、ここでもう1つの悪い事例、最悪の事例を示さなくてはならない。それは《絶望の後悔》である。マタイ伝27章4節を開いてほしい。そこには、絶望の後悔を示すすさまじい事例が記されている。あなたは、私がどの人物を指しているか、この節を読み上げればすぐにそれと知るであろう。「ユダは言った。『私は罪を犯した』」*。しかり。裏切り者のユダ、自分の《主人》を裏切ったこの男は、《主人》が罪に定められたとき、「後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。』と言った。……銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って」、何をしただろうか?――「首をつった」[マタ27:3-5]。ここには、最悪の種類の悔い改めがある。事実、これを悔い改めと呼ぶことは、全く正当化できないと思う。それは良心の呵責と呼ばれなくてはならない。しかし、ユダは自分の罪を確かに告白し、その後で外へ出て行き、首をつったのである。おゝ! このすさまじい、恐ろしい、胸も悪くなるような絶望の告白よ。あなたは、こうしたものを一度も見たことがないだろうか? 一度もないとしたら、あなたがこうした光景を一度も見るよう召されなかったことで、神をほめたたえるがいい。私はこれまでの一生の間こうした場合を一回だけ見たことがある。二度と見ないですむよう神に祈るものである。――死が自分を正面からねめつけているのを見ながら、「私は罪を犯した」、と云う人間の後悔を二度と見ないですむように、と。その人は、キリストが罪人たちのために死んだのだと告げられても、こう答える。「私には何の希望もない。私は面と向かって神を呪ったのだ。神に刃向かったのだ。もうわかっているとも。私の恵みの日は過ぎ去ってしまった。私の良心は麻痺している。私は死んでいくのだ。自分が失われるとわかっているのだ!」 こうした事例は、知っての通り、古い昔にも起こって記録に残されている。――フランシス・スパイラの場合である。――これは、ことによると、ユダの場合を除くと、人間の記録に記録された中でも、最悪の恐ろしい事例かもしれない。おゝ! 話をお聞きの方々。あなたがたの中にだれか、そのような後悔をいだいている人がいるだろうか? だとしたら、それは将来に罪を犯すあらゆる人々にとっての指針となるであろう。あなたがそうした後悔をいだいているとしたら、それは来たるべき世代に対する警告となるであろう。ベンジャミン・キーチの伝記の中で――彼も私の前任者のひとりだが――、私が見いだすのは、信仰を告白していたひとりの人の場合である。やがて信仰から離れた彼は、すさまじい罪の中に陥っていた。彼が死を迎えたとき、キーチは他の多くの友人たちとともに彼を見舞いに云ったが、一度に5分とは彼のもとにとどまることができなかった。というのも、彼はこう云ったからである。「出て行ってくれ。私のところに来たって無駄なんだ。私は罪を犯して聖霊から離れてしまったのだ。私はエサウと同じだ。自分の長子の権利を売ってしまったんだ。涙を流して求めても二度と見いだせないんだ」。そしてそれから彼は、このようなぞっとさせられる言葉を繰り返した。「私の口は小石で満ちている。私は昼も夜も苦よもぎを飲んでいる。云わないでくれ、云わないでくれ、キリストのことなんか! 彼が《救い主》だとは知っているが、私は彼を憎んでいるし、彼も私を憎んでいるんだ。自分が死ななきゃいけないことはわかってる。滅びなくてはならないことはわかってる!」 そして、それから続いたのは陰惨な叫び声と、だれひとり耐えられないような、気味悪いほど大きなわめき声であった。彼が平静にしている頃をみはからってやって来ても、ただ彼を再び興奮させ、絶望にかられた叫びをあげさせるだけであった。「私は失われてる! 失われてる! このことについて何を云っても無駄だ!」 あゝ! この場には、そのような死を迎える人がいるかもしれない。そうなる前に、警告させてほしい。また、願わくは聖霊なる神によって、その人が神に立ち返り、真の悔悟者となることができるように。そうすれば、その人はもはや恐れる必要はないであろう。というのも、自分のもろもろの罪を《救い主》の血で洗い流された人は、自分の罪について何の呵責も感じる必要がないからである。それらは《贖い主》により赦免を受けているからである。

《聖徒の悔い改め》

ヨブ――「私は罪を犯した」*。――ヨブ7:20

 VI. そして今、私は日差しの中に出る。私はあなたに、暗く陰惨な数々の告白の中をくぐり抜けさせてきた。もはやそこに引き留めはすまい。むしろ2つの健全な告白のもとへと導こうと思う。それを私はあなたに読んで聞かせよう。最初のものは、ヨブ記7章20節にあるものである。「私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう」。これは聖徒の悔い改めである。ヨブは聖徒だったが、罪を犯した。これは、すでに神の子どもとなっている人の悔い改め、神の御前に受け入れられる悔い改めである。しかし、このことについては今晩、詳しく述べたいと思っているので、あなたを飽き飽きさせないために、今はこのままにしておきたい。ダビデはこうした悔い改めの典型であり、あなたには、彼の悔悟を記した詩篇の数々を注意深く学んでほしいと思う。その言葉遣いは常に、涙するへりくだりと、真剣な悔悟で満ちている。

《ほむべき告白》

放蕩息子――「私は……罪を犯しました」。――ルカ15:18

 VII. さて私は最後の事例に至っている。それを指摘したい。それは、あの放蕩息子の場合である。ルカ15:18で、放蕩息子はこう云っている。「おとうさん。私は……罪を犯しました」。おゝ、ここにはほむべき告白がある! ここにこそ、人が新生した人格であることを示すものがある。――「おとうさん。私は罪を犯しました」。この光景を描き出させてほしい。そこに放蕩息子がいる。彼は立派な家と親切な父親のもとを飛び出し、有り金全部を遊女につぎ込んだあげく、今や一文無しになっている。彼は自分の古なじみのところに行って助けを乞うが、彼らは彼をあざけり笑う。「おゝ」、と彼は云う。「君は、ぼくと何日も葡萄酒を飲み交わした仲じゃないか。ぼくらのお楽しみのときには、いつもぼくが代金を払ってやっただろう。ぼくを助けてくれないかい?」 「とっとと失せろ」、と彼らは云い、彼は戸口から叩き出される。彼は知り合い全員の所を回るが、だれひとり彼に何も与えない。とうとう、ある田舎の住民が云った。――「あんた、何か仕事がほしいのかい。なら、行って私の豚を飼うがいい」。このあわれな放蕩息子、金持ちの地主の息子、かつては莫大な財産を持っていた男は、行って豚を飼うほかなくなる。しかも彼はユダヤ人でもあった!――彼がつくべき仕事としては(私が思うに)最悪の仕事である。そこにいる彼を見るがいい。みすぼらしい襤褸服をまとい、豚にえさをやり、しかもその賃金は? 何と、雀の涙ほどしかないため、彼は「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった」[ルカ15:16]。見よ。そこに彼がいる。その豚小屋の中の同じ庶民たちとともにいて、汚辱と不潔にまみれている。突然、いつくしみ深き御霊がもたらした1つの考えが彼の思いを打つ。「何てことだ」、と彼は云う。「私の父の家にはパンがあり余っているではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう云おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください』」 彼は出発する。物乞いをしながら町から町へと進んでいく。時には馬車に乗せてもらうこともあったかもしれない。だが、それ以外の時は、とぼとぼと不毛の山に登っては、荒れ果てた谷をひとりきりで下っていく。そして今やついに彼は、その村のはずれにある丘へとやって来た。父親の家を眺め下ろす。そこに、それはある。昔ながらの箱柳の木々はまだ裏手に立っており、兄とふたりで走り回って遊んだ畑の稲積みは、今も変わらず林立している。その古い家屋敷を目にすると万感迫るものがあり、かつての暮らしの思い出が押し寄せてくる。そして、涙が頬を流れ落ちる。ほとんど再び逃げ出していきたい気持ちにかられる。「父は亡くなっていないだろうか? 母はおそらくぼくが家出したと知ったとき胸が張り裂けてしまっただろう。ぼくはいつも母のお気に入りだった。だが、たといふたりのどちらかが健在だったとしても、ぼくとは会ってもくれないだろう。ぼくの鼻先で扉を閉めてしまうだろう。ぼくはどうしようというのか? 戻ることなどできない。これ以上先に行くのがこわい」。だが、このように彼が遅疑逡巡している間、彼の父親は息子を見張りに屋根の上を歩いていた。そして、彼には父親が見えなかったが、父親には彼を見ることができた。よろしい。父親は全速力で階下に降りると、彼のもとに走り寄っていく。彼が逃げ出そうと考えている間もなく、父の腕は彼を抱きかかえ、彼に口づけし始める。それは、愛に満ちた父親そのものである。そこで息子は口を切る。――「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」。そしてさらに、「雇い人のひとりにしてください」、と云おうとする。しかし、父は彼の口を手でふさぎ、「もう何も云うな」、と云う。「私はお前をみな赦す。雇い人になるだの何だのと云ってはならない。――そんな話は聞きたくもない。さあ、こちらへ来るがいい」、と彼は云う。「中に入れ。放蕩息子よ。おおい!」、と彼はしもべたちに云う。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、血だらけのこのあわれな足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」。そして彼らは祝宴を始めた。おゝ、これは、罪人のかしらのひとりに対する、何と尊いもてなしであろう! 善良なマシュー・ヘンリーは云う。――「彼の父親は彼を見た。そこにはあわれみの目があった。彼を迎えに走っていった。そこにはあわれみの足があった。自分の腕を彼の首に回した。そこにはあわれみの腕があった。彼に口づけした。そこにはあわれみの口づけがあった。彼に云った。――そこにはあわれみの言葉があった。――急いで一番良い着物を持って来なさい。そこにはあわれみの行為、あわれみの驚異があった。――食べて祝おう。おゝ! 神は何たるあわれみの神であろう」。

 さて、放蕩息子よ。あなたも同じことをするがいい。神はそれをあなたの心に吹き込んでおられるだろうか? 今ここには、ずっと昔に家出してきた多くの人々がいる。神は、「立ち返れ」、と仰せになっていないだろうか? おゝ、ならば、私は立ち返るように命ずる。というのも、あなたが立ち返るのと同じくらい確実に神はあなたを迎え入れてくださるからである。キリストのもとに行ったあわれな罪人たちのうち、ひとりとしてキリストが追い返した者はいない。もし主があなたを追い返すとしたら、あなたがその最初の者となるであろう。おゝ、もしあなたに主を試すことができさえしたら! 「あゝ、先生。私はあまりにもどす黒く、あまりにも不潔で、あまりにも汚れきっています」。よろしい。そのままで行くがいい。――あなたが、あの放蕩息子よりもどす黒いことはありえない。あなたの《父》の家へ行くがいい。そうすれば、《父》は神であるのと同じくらい確実にその約束を守ってくださるであろう。――「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。

 おゝ、もしも今朝、だれかがキリストのもとに行ったと聞けるとしたら、私はまことに神をほめたたえるであろう! 私はここで、神およびキリストの栄誉のために、1つの尋常ならざる状況について告げなくてはならない。それでしめくくることにしよう。あなたも思い出す通り、ある朝、私は、とある不信心者の場合について言及した。彼は、長年の間、キリスト教信仰を嘲り、馬鹿にしてきたが、私の印刷された説教の1つを通して、神の家へと導かれ、それから神の御足のもとへと導かれた人物である。よろしい。去年のキリスト降誕日に、この同じ不信心者は、自分の書物全部を集めて、ノリッジの市場に行き、自分のあらゆる過りを公に認め、キリストに対する信仰を告白したのである。それから彼は、自分の著したあらゆる書物、自宅にあった悪しき主題のあらゆる書物を取り上げると、公衆の面前でそれを焼き払ったのである。私はこのような恵みの驚異について、神をほめたたえた。そして、そのような人々がさらに多く起こされるように祈るものである。そうした人々が、放蕩息子として生まれたにもかかわらず、これから家へ戻って行き、「私は罪を犯しました」、と云うようにと。

  

 

罪の告白――7つの聖句による説教[了]

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