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キリストを軽んずる

NO. 98

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1856年8月17日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」。――マタ22:5


 人間は、アダムの時代以来さほど変化してはいない。むろん肉体的には、全く似通っている。何百年も前の骸骨は、私たちの時代のそれと瓜二つだからである。だが実際のところ、何世紀も前の人によって行なわれたと歴史に記録されていることは、再び書かれてもおかしくないことである。「日の下には新しいものは一つもない」[伝1:9]。とうの昔に過ぎ去った時代に存在していたのと同じ種別の人々は(確かに、服装は異なっているかもしれないが)、今なお見いだされる。世の中には今なお、ここで《救い主》が、その当時に描写なさったのと同じような人格の人々がいる。そうした人々は、「ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」、福音の栄光に富む事がらを軽んずるのである。私の確信するところ、今晩この場にいる数多くの人々も、そうした人格をしていることであろう。そして私は祈るものである。願わくは私が、そうした人々に対して非常に厳粛な、また非常に的をついた語り方をすることができるように。また私は、祈りという天的なわざを理解しているすべての方々に向かって、ぜひとも祈ってくれるよう願わなくてはならない。どうか神が、あらゆる思想を、その撃ち込もうと意図しておられる胸に真っ直ぐに突き入れ、それが多くの魂の救いという幸いな義の実を結ぶようにしてくださるように、と。「彼らは気にもかけ」なかった。[それを軽んじた <英欽定訳>]。今日も、あまりにも多くの人々がそれと同じことをしている。今晩、私の話を聞いている大方の人々も、同じようにするであろう。私は、キリストを軽んずることは罪であると信ずる。そして、書かれたことを越えて賢くなっている人々から、律法主義者だの、自由意志論者だのと偽り称されるあらゆる危険を冒しても、このことを罪であるとして、あなたがたを責めたいと思う。というのも私は、罪を犯している罪人の目こぼしを訴えるような、悪魔めいたわざを行なう類のカルヴァン主義者には属していないからである。

 まず最初に私たちが二言三言あなたに語りたいのは、罪人は何を軽んじているかということについてである。第二に、罪人がいかにしてそれを軽んずるか、そして第三に、なぜ罪人はそれを軽んずるかである。その後で、1つか2つ一般的な所見を述べることにするが、長々とはあなたを引き止めないようにしたい。

 I. 第一のこととして、《罪人は何を軽んじているのだろうか?》 このたとえ話によると、その人は、ある王が設けた結婚の披露宴を軽んじたとされている。彼らは、あらゆる珍味佳肴が供されたこの宴会に気前よく招待されていたのに、故意に欠席を決め込んだのである。これが霊的にいかなる意味であるかは簡単にわかる。キリストを軽んずる罪人たちは、神がその御子の結婚のために設けられた、栄光に富む披露宴をあからさまに軽蔑しているのである。これは足で踏みしめるには厳粛にすぎる土地である。おゝ! どうか聖霊が教えを授けてくださるように!

 このたとえ話を土台として、私たちは第一にこう述べてよいであろう。罪人は、食事の用意ができたと知らせに来た使者を軽んずる。こうした人々は来るのを拒み、彼らは、「ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」、そのようにしてこの使者を軽んじた。そして、イエス・キリストの大いなる救いをないがしろにするあらゆる罪人は、福音に仕える教役者を軽んじているのである。これは神の評価においては決して小さな侮辱ではない。もしもわが国の大使が冷淡にあしらわれるとしたら、それは偉大なるわが国にとって決して小さな無礼ではすまされない。そして、まぎれもなく真実なこととして、もしあなたが、神によってあなたのもとに送られた大使たちを軽蔑するとしたら、それは神にとって決して軽いことではない。しかし、これは比較的小さなことである。大使たちはあなた自身と同じような人間であって、それだけだとしたら、彼らが侮辱されようが別段大したことではないかもしれない。事実、もしこれがあなたの咎のすべてであったとしたら、また、もし私たちにできることであれば、私たちは喜んであなたを赦したいと思う。

 しかし、この人々はこの宴会をさげすんだ。彼らの中のある者らは、その食卓の上にあるだろう太った家畜やその他の食べ物を自宅で食べられるものに全くまさっていないと思った。彼らは、王家の晩餐会など、自分の商売を一日放り出したり、一時間でも自分の畑を放置してよいほど大したものではないと考えた。少なくとも彼らがその晩餐会を軽蔑したのは明らかだと思われる。なぜなら、彼らはそこに行かなかったからである。おゝ! 罪人よ。あなたがこの偉大な救いをないがしろにするときには、自分が何をさげすんでいるか思い出すがいい。あなたが神の福音を軽んずるとき、あなたは信仰による義認を軽んじているのである。イエスの血による洗いを軽んじているのである。聖霊を軽んじているのである。天国への路を軽んじているのである。そして、信仰と、希望と、愛を軽んじ、永遠の契約に含まれたすべての約束を軽んじ、神がご自分を愛する人々のために蓄えておられる、栄光に富むすべての事がらを軽んじ、神のもとにやって来る者たちに対して約束された賜物として、みことばで啓示されたあらゆるものを軽んじているのである。福音を軽んずるのは厳粛なことである。というのも、このみことばには――神のこの特別の良きおとずれには――、人間性が必要とするすべてのものが要約されており、至福の中にある聖徒たちが受けることのできる一切合切でさえ、まとめられているからである。おゝ! ほむべき神の福音を軽蔑するとは、何と狂ったことか! ただの愚行を越えて、いかに邪悪なことか! 星々を軽蔑するのは愚か者である。神の造られた大地を、その壮麗な山々を、その流れ行く川を、その麗しい牧草地を軽蔑するのは狂人である。だが、神の福音を軽蔑するのは、一万人の狂人を合わせた狂気に等しい。それを軽蔑するのは、太陽に何の光も見ず、月に何の美しさも認めず、星々のきらめく天空に何の輝きも認めない者よりも愚かである。そうしたければ、神の下々のみわざを踏みつけにするがいい。だが、おゝ、覚えておくがいい。あなたが福音を軽んずるとき、あなたはあなたの偉大な《創造主》の傑作を軽んじているのである。――神が無数の世界を創造するよりも大きな代価を払われたもの――私たちの《救い主》の苦悶という血塗られた値を払われたものを軽蔑しているのである。

 そしてまた、こうした人々は、その《王子》を軽んじていた。それは、彼の結婚であったのであり、それに欠席した以上、彼らは、その栄誉のために食事が用意された、栄光に富む《お方》に恥辱を与えたのである。彼らは、御父が愛されたお方を軽視した。あゝ! 罪人よ。あなたが福音を軽んずるとき、あなたはキリストを軽んじているのである。――栄光に富む智天使たちが身を屈めている、あのキリストを――その足元に高貴な御使いのかしらが自らの冠を投げ出すことを幸いと考えるそのキリストを軽んじているのである。あなたが軽んじているお方は、その方への賛美で天の蒼穹が鳴り響き、神が大いに重んじておられるお方なのである。というのも、神はこのお方を、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」と呼んでおられるからである[ロマ9:5]。あゝ! キリストを軽んずるのは厳粛なことである。王子を軽んずるとしたら、そうすることによって人は国王の手から何の栄誉も授からないであろう。だが、神の御子をさげすむとき、御父はその軽視された御子のためにあなたに復讐するであろう。おゝ! 私の愛する方々。私も知るように、これは赦されない罪ではないと思う。だが、それでも、人々が私のほむべき主イエス・キリストを軽蔑し、主を冷酷なあざけりをもって扱うこと、それはこの上もなく憎むべき罪である。甘やかなイエスよ、あなたを軽んずる! おゝ! 血糊のついた襯衣を来て、ゲツセマネで苦闘しておられるあなたを見るとき、私はあなたの御前にひれ伏します。そして云います。「おゝ、贖い主よ。罪のために血を流しておられる主よ。いかなる罪人があなたを軽んずることなどできましょう?」 ピラトのあの呪うべき鞭打ちのもとで、両肩から血の川を流しておられる主を見るとき、私は尋ねたい。「このような《救い主》をいかなる罪人が軽んずることができようか?」 そして私は、彼方でご自分の血に染まった主が木に釘づけられ、苦悶にあえぎ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」[マタ27:46]と大声で叫んでおられるのを見るとき、「だれがこのお方を軽んじることなどできようか?」、と自問する。左様。もし彼らがそうするとしたら、実際、それは、彼らに他の何の罪もなかったとしても、栄光に富み、全く麗しい《君の君》を軽くみなすこと、それだけで彼らを罪に定めるのに十分な罪だったに違いない。おゝ! 愛する方々。もしあなたがキリストを軽んずるとしたら、あなたは、あなたを救うことのできる唯一のお方を侮辱しているのである。――ヨルダン川を越えてあなたを背負って行くことのできる唯一のお方――天の門の閂を外し、あなたを歓迎することのできる唯一のお方を侮辱しているのである。耳あたりの良いことを云う説教者に云いくるめられて、これは犯罪ではないなどと考えてはならない。おゝ、罪人よ。もしあなたが主を軽んじているとしたら、あなたの罪を思うがいい。というのも、そのときあなたは、《王》のひとり子を軽んじているからである。

 だがしかし、さらにまた、こうした人々は、この晩餐会を用意した《王》をも軽んじた。あゝ! あなたはほとんど知るまい。おゝ、罪人よ。あなたが福音を軽くあしらうとき、あなたは神を侮辱しているのである。ある人がこう云うのを聞いたことがある。「先生。私はキリストを信じませんが、それでも確かに神を尊ぼうとはしています。福音などどうでもいいのです。イエスの血で洗われたいなどとは思いませんし、無代価の恵みといったしかたで救われたいとも思いません。ですが私は、神をさげすんではいません。私は自然の宗教家ですから!」 そうかもしれない。だが、方々。あなたは、御子を否定している限り、《全能者》を侮辱しているのである。ある人の子どもを軽蔑するということは、その人自身を侮辱したも同然である。神のひとり子を拒絶すれば、永遠者ご自身を拒絶したのである。キリストを離れた、真に自然の宗教などというものはない。それは嘘っぱちであり、偽りである。自分は神を憎んでいると云うだけの勇気を持たない人間の隠れ蓑である。だが、それは嘘っぱちの隠れ蓑にすぎない。というのも、キリストを否定する者は、その行為によって神を怒らせ、天の門を自分の前で閉ざしているからである。御子を通さない限り、御父を愛することはありえない。そして、この《偉大な大祭司》、《仲保者》なるイエス・キリストを通さない限り、御父に受け入れられる礼拝はありえない。おゝ! 愛する方々。覚えておくがいい。あなたは単に福音をさげすんでいるのではなく、福音の神をさげすんでいるのである。啓示の諸教理を笑いものにしているあなたは、神を笑いものにしているのである。福音の真理を罵倒しているあなたは、神ご自身を罵倒しているのである。あなたは《永遠者》の御顔にあなたの拳を突きつけているのであり、あなたの呪詛は教会に吐きつけられているのではなく、神ご自身に吐きつけられているのである。おゝ! 覚えておくがいい。あなたがた、キリストの使信を嘲っている人たち! おゝ! 覚えておくがいい。あなたがた、真理を語る教役者の声にそっぽを向く人たち! 神は強大なお方である。神はいかに峻烈に罰することがおできになることか! 罪人よ。神を軽んずる? 何と、これは他の何にもまして罪と定める罪であり、それを犯すことによって、いつの日かあなたは、自分自身の死刑執行令状に署名することになるであろう。というのも、神を軽んじ、キリストを軽んじ、その聖なる福音を軽んじることは、人の魂を滅ぼすこと、また地獄へとまっさかさまに突進していくことだからである。あゝ! 不幸な魂たち。もしあなたがたが、キリストを軽んじたまま生き、死んでいくとしたら、また自分の畑や商売の方を福音の宝よりも好ましく思うとしたら、あなたがたはこの上もなく不幸せになるに違いない。

 さらに、よくよく考えるがいい。私の愛する、あわれで、哀れまれるべき方々。ここまで私が言及してきたすべての事がらを軽んずることによって、あなたは、永遠という大いに厳粛な事実を軽んじているのである。福音を軽くみなす人は、地獄を軽んじている。その人は、地獄の火焔が熱くはなく、その炎もキリストが描写したようなものではないと考えている。その人は絶望した頬を永遠にすすぐ焼けた涙を軽んじている。滅びつつある魂の陰惨な歌であり恐ろしい音楽であるに違いない、あの叫喚と悲鳴を軽んじている。あゝ! 地獄を軽んずるのは決して賢いことではない。

 さらに考えるがいい。あなたは天国を軽んじている。――祝福された者たちが行きたいと切望している場所、曇りなき栄光と、吐息なき至福が統治している場所を軽んじている。あなたは永遠のいのちという冠を足で踏みにじり、かのしゅろの枝をあなたの汚れた足で踏みつけにし、救われることなど大したことではない、栄化されることなど大したことではない、と考えている。あゝ! あわれな魂よ。あなたがいったん地獄に入ったならば、また、その鉄の鍵が、免れられない運命の錠を永遠に回してしまったならば、あなたは地獄がさほど簡単にはさげすめないものであることに気づくであろう。そして、あなたが天国とそのすべての至福とを失ってしまい、ただ遠くからかすかに響く、祝された者たちの歌を聞くしかなく、彼らの喜びとひきくらべて、自分のみじめさをいやまして痛感するとき、そのときあなたは天国を軽んずることが小さなことではないと気づくであろう。キリスト教信仰を軽んずるあらゆる人は、こうした事がらを軽んじているのである。自分自身の魂の価値、またその永遠の状態の重要性について判断を誤っているのである。

 これが人々の軽んじているものである。「おゝ! 先生」、とある人は云う。「私は一度も神の真理に楯突くような言葉を口にしたことはありません。一度も教役者を笑い者にしたり、安息日をないがしろにしたりしたことはありません」。しばし待て。愛する方よ。私はあなたがそうしたことについて無罪であることは完全に認めよう。だがしかし私は、福音を軽んずるというこの大きな罪については、厳粛にあなたに責任があるとするであろう。ならば、私の言葉を聞くがいい!

 II. 《人々はいかなるしかたでそれを軽んずるのか?》

 第一のこととして、福音を、また神の栄光に富む事がらのすべてを軽んずるとは、人々が話を聞きに来はしても、それに心を集中させないときである。いかに多くの人々が教会や会堂に足繁く通っては、心地よい居眠りにふけっていることか! それが天の《王》にとっていかに恐ろしい侮辱か考えてみるがいい。人々は女王陛下の宮殿に行き、謁見を願っておきながら、陛下の面前で眠り込んだりするだろうか? だがしかし、女王陛下の面前で眠り込む罪などよりもはるかに大きな罪、否、国法に触れる罪よりもはるかに大きな罪、それは神の聖所で故意に眠りにつく罪である。いかに多くの人々が、私たちの礼拝所に来て、眠りはしないものの、うつろな目をして座り、立派な楽器を持ちながら軽快な音楽を演奏できない人間を相手にするように耳を傾けていることか。片方の耳に入ったことは、もう片方の耳から出て行くのである。頭に入ったことは、心に影響を及ぼさないまま抜けていくのである。あゝ、私の話をお聞きの方々。あなたは、心を集中させずに説教を聞いているとき、神の福音を軽んずる罪を犯しているのである! おゝ! 失われた魂が、もう一度説教を聞けるためなら何を惜しむだろうか! 彼方にいる、死につつある悪漢は、今や墓場に近づきつつある中で、もう一度安息日を過ごせるためなら何を惜しむだろうか! そしてあなたも、こうした日々の中で、いつの日かヨルダン川の淵に近づくとき、もう一度警告を与えられ、もう一度神の教役者の誘い招く声を聞くためなら、何を惜しむであろうか! 私たちは、福音を聞いても、それに厳粛で畏敬の念のこもった注意を集中させていないとき、それを軽んじているのである。

 しかしある人々は、自分は集中していると云う。よろしい。福音に集中してはいても、それでもそれを軽んずることはありえる。私は力強い説教に打たれて涙を流している人々を見たことがある。涙がとめどなく流れているのを目にとめたことがある。――涙、それは内側の情緒を素晴らしいしかたで明かすものである。時として私は内心こう云ってきた。この人々が神からの力あることばに打たれて泣いているのを見るのは驚くべきことだ、それはシナイそのものが彼らの耳に轟いたかのように、この人々を恐怖に陥れたのだ、と。しかし、みことばに打たれて人々が涙することよりも、ずっと驚くべきことがある。それは、彼らがすぐに――あまりにもすぐに――自分たちの涙のすべてをぬぐい去ってしまうことである。しかし、あゝ! 話をお聞きの愛する方々。思い起こすがいい。もしあなたがこうした事がらを聞いても、厳粛な印象を振り捨てるとしたら、あなたはそうすることによって、神を軽視し、その真理を軽んじているのである。では、いかに行なうか用心するがいい。あなた自身の衣があなたの魂の血で赤く染まり、それがこう云わないように。「イスラエルよ。あなたがあなた自身を滅ぼしたのだ」[ホセ13:9 <英欽定訳>]。

 しかし、それとは違うしかたで真理を軽んずる他の人々がいる。彼らはみことばを聞き、それに集中しはするが、悲しいかな! 彼らはそれによって、何か別のことに心を向けている。おゝ! 話を聞いている方々。あなたは、もしキリストをあなたの心の中心以外のどこかに置いているとしたら、キリストを軽んじているのである。キリストに自分の情愛のほんの少ししかささげていない者は、キリストを軽んじている。というのも、キリストは心のすべてを有するか、全く有さないかのどちらかしかないからである。キリストに一部を与え、この世に一部を与えている人はキリストをさげすんでいる。というのもその人は、キリストには全部を有する価値などないと考えているらしく思われるからである。そして、その人がそのように云うとき、あるいはそのように考えているとき、その人はキリストについて不浄な考えをいだいているのである。おゝ! 肉的な人よ。半分は宗教的で、半分は俗的な人よ。時には真剣だが、あまりにもしばしば軽薄になり、時には見るからに敬虔な様子だが、あまりにもしばしば不浄になる人よ。あなたはキリストを軽んじている。そして、あなたがた、安息日には涙を流し、それから月曜日には自分のもろもろの罪に帰っていく人たち。あなたがた、この世とその快楽の方をキリストに優先させる人たち。あなたがたはキリストが当然受けてしかるべきほどにはキリストを尊重していない。では、それがキリストを軽んずることでなくて何だろうか? おゝ! 話を聞いている方々。私はあなたに命ずる。今晩、自分に問うてみるがいい。あなたは、その人ではないだろうか? あなたは、自分自身、キリストを軽んじていないだろうか? 自分を義とし、救いの件において自分をキリストの同労者とする人は、その見かけ倒しのあらゆる良いわざにもかかわらず、さげすむ人々の筆頭格にほかならず、私はその人を彼らの真々中でさらしものにしたいと思う。そして、その人に似たすべての人を震えおののかせたいと思う。彼らもまたイエスを軽視する者とならないためである。

 さらにまた、キリストを軽んずる人とは、信仰を告白しながら、それに従って生きていない人である。あゝ! 教会員たち。あなたがたには、非常に大きなふるい分けが必要である。私たちの間には今、麦に混ざった大量のもみがらがある。そして、時として私は、それすら控え目な云い方ではないかと思うことがある。私たちの諸教会の中には、もみがらにも劣る者たちがいる。というのも、彼らは麦には似ても似つかないからである。彼らはせいぜい毒麦にすぎない。彼らは、まるで同業組合に加入するかのようにして私たちの諸教会の中に入り込む。それが彼らの仕事を繁盛させるだろうと考えるからである。聖餐式にあずかるようになれば体裁が良くなり、バプテスマを授けられたり、キリスト教会の会員になったりすれば尊敬される。それで、彼らは浅瀬を渡ってパンや魚を求めに来るが、イエス・キリストを求めてやって来るのではない[ヨハ6:26]。あゝ! 偽善者よ。あなたは、キリストがあなたに富を得させる隠れ箕になると考えているとしたら、キリストを軽んじているのである。もしあなたが、自分はキリストに鞍を置き、くつわを付け、それにまたがって富へ疾走していけると夢想しているとしたら、あなたは大きな間違いを犯している。というのも、キリストは決して天国以外のいかなる場所へも人々を運んでいかないからである。もしあなたがキリスト教信仰は自分の家に箔をつけ、自分の床を絨毯張りにし、自分の財布を一杯にするものだと思っているとしたら、それは大間違いである。それは魂に益をもたらすためのものである。キリスト教信仰を自分の個人的な立身のために用いようと考える人は、キリストを軽く考えている。そして、最後の審判の日には、真理を軽んずるという、この犯罪の責任を負うことになるであろう。そして《王》はその軍隊を遣わして、ご自身の《威光》をさげすみ、ご自分の律法に従わなかった者らとともに、その人を八つ裂きにするであろう。

 III. さてここで第三のこととして、私があなたに告げたいのは、《なぜ彼らはこれを軽んじたか》ということである。彼らがそうしたのは、いくつかの異なる理由からであった。

 彼らのある人々がこれを軽んじたのは、無知だったからである。彼らは、その宴会がいかに素晴らしいものか知らなかった。王がいかに恵み深いお方であるか知らなかった。この《王子》がいかに美しいお方であるか知らなかった。さもなければ、彼らは違った考え方をしていたかもしれない。さて、今晩この場にいる多くの人たちが福音を軽く考えているのは、たぶん、それを理解していないからであろう。私はしばしば人々がキリスト教信仰を笑い物にしているのを聞いたことがある。だが、キリスト教信仰とは何か彼らに問うてみると、彼らはそれについて馬ほどにも物を知らない。否、それより悪い。というのも、彼らはキリスト教信仰について真実でないことを信じているが、馬はそこまでしていないからである。彼らがそれを笑い物にしているのは、単にそれをわかっていないからである。それは、彼らの理解を越えているのである。私たちは、ラテン語が一言でも口にされると、常にそれを笑い飛ばすという愚か者のことを聞いたことがある。なぜなら、その男はそれを冗談だと考えたからである。いずれにせよ、それは非常に異様な云い回しに聞こえた。――それで男は笑ったのである。福音を聞く多くの人々もそれと変わらない。彼らはそれが何かを知らないので、それを笑い物にしている。「おゝ!」、と彼らは云う。「あの男は気違いだ」。しかし、なぜその人は気違いなのだろうか? 彼らがその人を理解できないからである。あなたは、あらゆる知恵とあらゆる学識が自分にとどまっていると思うほど、うぬぼれているのだろうか? 私は、その気違いぶりは、逆の側にあるのではないかと示唆したい。そして、あなたがその人について、「博学が彼の気を狂わせている」*[使26:24]、と云うにせよ、私たちはこう答えるであろう。「物知らぬ、やからは人の、正気疑う」。そして、物知らぬ、特にキリストの知識を全く持たざる人々は、その人をまず間違いなくさげすむであろう。いみじくもウォッツはこう云っている。

   「もし主の価値(あたい)、国々知らば
    全地もなべて 主をば愛さん」。

おゝ! 愛する方々。もしあなたが一度でもキリストがいかにほむべき主人であられるかを知ったとしたら、もしあなたが一度でも福音がいかにほむべきものであるかを知ったとしたら、もしあなたが一時間でもキリスト者が経験するようなことを享受できたとしたら、もしあなたが1つでも約束を心に適用されることがあったとしたら、あなたは二度と決して福音を軽んずることはできないであろう。おゝ! あなたはそれを好まないと云う。何と、あなたは一度もそう試みたことがないではないか? 人は、ちびりとも飲んだことのない葡萄酒をさげすむべきだろうか? それは、夢にも思わなぬほど甘いかもしれないではないか。おゝ! 主がいつくしみ深い方であることを味わい、見てとるがいい。それを確かに味わうならば、あなたは主のいつくしみ深さを見てとるであろう。もう一度あえて云うが、多くの人々が福音を軽んずるのは、単に無知のゆえである。そして、もしそうだとしたら、私もある程度は希望を持つものである。彼らがみことばに教えられることによってもう少し啓蒙されたならば、主は恵み深くも彼らをご自分のもとに導かれるであろうし、そのとき私は、彼らが決して二度とキリストを軽んじないとわかるであろう。おゝ! 無知であってはならない。「知識のないのはよくない」[箴19:2]。主を知ることを求めるがいい。このお方を正しく知ることこそ永遠のいのちなのである[ヨハ17:3]。そして、この方を知るとき、あなたは決してこの方を軽んじないであろう。

 他の人々が福音を軽んじるのは、高慢のゆえである。ある人は云う。「私にそんな招待を寄こして何になるというのか? さあ、私の家に入るがいい。私はあなたに、あなたが告げることのできるいかなる宴会にも劣らないほどの宴会を見せてやろう。これを見るがいい! ここにあなたのためのご馳走がある。私の食卓は、他のだれの食卓にも負けないくらい大盤振舞なのだ。国王陛下には申し訳ないが、陛下でさえ私ほど素晴らしい宴会は設けられまい。そして、私はなぜ自宅で手に入れられるもの以下のもののためにわざわざ出かけなければならないのかわからないのだ」。それで彼は、高慢ゆえに行こうとしない。そして、あなたがたの中のある人々もそれと同じである。私が洗われるべきだと! 否、私は決して汚れたことなどないではないか。私に赦される必要があるだと! おゝ、否! 私はそれには善良すぎる! 何と、あなたは、自分は恐ろしいほど敬神の念に富んでいるとうぬぼれている。もしそれがすべて真実だとしたら、御使いガブリエルでさえあなたのことを思えば赤面するであろう。あなたは、御使いでさえあなたのために燭台を掲げ持つ資格がないと思っている。何と! 私があわれみを求めるだと。それは私にとって侮辱である。「行って酔いどれにそう告げるがいい」、とあなたは云う。「行って売女を連れてくるがいい。だが、私は上品な人間だ。私は常に教会に、あるいは会堂に通っている。私は非常に善良な種類の人間なのだ。時には羽目を外すこともあるが、それは別の日に埋め合わせをする。時には手綱を緩めることもあるが、その後には馬を御して距離を縮めるのだ。そして、おそらく私はだれにも負けないくらい早く天国に行き着くだろう。私は非常に善人だからだ」。よろしい。愛する方々。私はあなたが福音をさげすむとしても不思議はない。というのも、福音はあなたが完全に失われていると告げるからである。あなたの当の義こそ罪に満ちたものだと告げるからである。自分の義で救われるという希望について云えば、ひからびた葉っぱに乗って大西洋を横断しようとする方が、あなたの義によって天国に行き着こうとするよりもましだと告げるからである。また、それがあなたの覆う最適の衣だということについて云えば、蜘蛛の巣をまとって宮廷に行き、それが女王陛下の前に出るのにふさわしい衣裳だと考えた方がましである。あゝ! 話を聞いている方々。私はなぜあなたがキリストをさげすんでいるか知っている。それは、あなたのサタン的な高慢のためである。願わくは主が、その高慢をあなたから引き抜いてくださるように。というのも、もし主がそうなさらないと、それはあなたの魂を永遠にあぶる薪束となるからである。高慢に用心するがいい。高慢によって御使いたちは堕落した。――ならば、いかにして人間が、たといその《造り主》のかたちであるとはいえ、それを免れることが望めようか? 高慢を避けるがいい。それから逃れるがいい。というのも、あなたが高慢であるのと同じくらい確実に、あなたはキリストを軽んずるという咎を招くからである。

 ことによると、それと同じくらい多くの人々が、この良き知らせを軽んずるのは、彼らがその使者を信じなかったからである。「おゝ!」、と彼らは云う。「ちょっと待った。何と! 晩餐会が開かれるだと? そんなことは信じられない。何と! あの若い《王子》が結婚するだと? そんなことは馬鹿どもにでも聞かせてやるがいい。われわれはそんなこと信じるものか。何と! 私たちがみな招かれているだと? われわれは信じないぞ。そんな話は眉唾物だ」。そこで、このあわれな使者は屋敷へ帰って、その《主人》に告げた。彼らは私のことを信じようとしませんでした、と。それこそ、なぜ多くの人々が福音を軽んずるかというもう1つの理由である。彼らはそれを信じないのである。「何と!」、と彼らは云う。「イエス・キリストが死んだのは人々をその罪から洗うためだっただと? われわれはそんなことを信じないぞ。何と! 天国だと。だれがそれを見たというのだ? 地獄だと! だれがその呻きを聞いたというのだ? 何と! 永遠だと。そのあらゆる霊の最後の望みからだれか戻ってきた者がいるだろうか? 何と! キリスト教信仰にある幸いだと? われわれは信じるものか。――信仰など、しかめっつらをした、みじめなものなのだ。何と! 約束は甘いだと? 違うな。そんなものはないのだ。われわれはこの世に甘さがあるとは信ずる。だが、主が掘った井戸に甘さがあるなんて信ずるものか」。それで彼らは福音をさげすむのである。それを信じないからである。しかし、いったん人がそれを信ずるとき、その人は決してそれを軽く考えはしないに違いない。ひとたび私の心に聖霊による厳粛な確信、すなわち、私が救われない限り、私を呑み込もうとしている深淵が口を開いているのだという確信を得ているとしたら、あなたは私が頭の天辺から足の先までガクガク震えもせずに、眠りにつけると思うだろうか? ひとたび私が、キリストを信ずる者には天国が用意されているのだと心から信じるとしたら、あなたは私が、それが私のものではないために泣きもせずに、まどろんだり、まぶたを閉じて安眠したりできると思うだろうか? 私はそうは信じない。しかし、忌々しい不信仰は、その手を人の口に押し当て、その心を引き抜き、そうすることで、その人を滅ぼしてしまう。というのも、それはその人に信じさせず、それゆえ、その人は、信じていないがために感じることができないからである。おゝ! 愛する方々。不信仰こそ人々にキリストを軽く考えさせるものである。だが、不信仰はやがてそうはできなくなる。地獄にはひとりも不信心者はいない。彼らはみなそこでは信者である。そこには、この現世では不信心者だった多くの者がいるが、今はそうではない。その炎はあまりに熱くて、その存在を疑うことはできない。その炎の中で苦悶している人にとって、その火焔の存在を疑うことは困難である。神の燃える眼差しの前に立っている人にとって、その後で神の存在を疑うことは難しいこ。あゝ! 不信仰者たち。立ち返るがいい。あるいは、むしろ、願わくは主があなたを、あなたの不信仰から立ち返らせてくださるように。というのも、それこそあなたにキリストを軽く考えさせているものだからである。そして、それこそ、あなたのいのちを取り去りつつあり、あなたの魂を滅ぼしつつあるものなのである。

 別の一団の人々がこの宴会を軽く考えるのは、彼らがあまりにも世俗的であるからである。彼らには、あまりにもなすべきことが多い。私はある裕福な商人のことを聞いたことがあるが、彼はある日、ひとりの敬虔な人の訪問を受けたという。そして、その人がそこに泊まったとき、彼はその商人に云った。「よろしい。では、あなたの魂はいかなる様子ですかな?」 「魂ですと!」、と彼は云った。「知ったことですか。わしには、魂のことまで気を遣っておる暇などありませんぞ。わしは自分の船団の面倒を見るので手一杯ですからな」。だが、それから一週間ほどして、彼は死ぬための時間を取らなくてはならない巡り合わせとなった。神が彼を取り去られたからである。残念ながら神は、そうした人々にこう云ったと思う。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが自分のためにため込んだ物は、いったいだれのものになるのか?」[ルカ12:20] あなたがた、ロンドンの商人たち。あなたがたの中の多くは、自分の聖書よりも、自分の台帳の方をずっと多く読んでいる。ことによると、そうせざるをえないのかもしれない。だが、あなたがたは自分の聖書を全く読まないのに、自分の台帳の方は毎日読んでいる。米国では、人々は全能のドル紙幣を礼拝しているという。私の信ずるところ、ロンドンでは多くの人々が全能のソヴリン貨幣を礼拝している。彼らは、全能の銀行券に絶大なる敬意を払っている。それこそ多くの人が常にあがめている神なのである。彼らがかくもうやうやしく携えている祈祷書は、自分たちの現金出納帳である。日曜日でさえ、そこにいるひとりの紳士は、よもや自分の職長が知っているとは考えもしないが、雨が降っていた午前中の間は家の中にこもって、自分の勘定書を計算していたのである。そして今、夜になってから、この場にやって来るのである。彼は非常に敬神の念に富む――この上もなくすぐれたしかたで敬虔な――人間だからである。彼は、日曜には公園を閉めきりにする。そうしようとする。――彼らは、だれにも清新な空気が吸えるようにしはしない。なぜなら、敬神の念に富んだ者だからである。だが彼は、たとい半日も会計事務所に座っていようが、それを何の罪とも思っていないのである。しかし、多くの人々は忙しすぎて、こうした事がらについて考えられない。「祈りですと!」、と彼らは云う。「そんなことをしている時間はありませんよ。支払いがあるんです。何と! 聖書を読めですと? いいえ、できません。あれやこれやの手配をしなくてはならず、市場の動向に目を光らせていなくてはならないんです。『タイムズ』を読む時間なら見つけますが、聖書を読むなど考えられませんよ」。あなたがたの中のある人々にとっては驚くほど不幸なことに、あなたは、あなたの人生の賃借権が、あなたの予想よりも早く切れることに気づくであろう。もしあなたが、きょうのこの日から八十八年間の人生を賃借していたとしたら、ことによると、あなたは四十四年間を罪のうちに費やすほど愚かになるかもしれない。しかし、あなたが意のままにされる賃借人であり、いつ追い出されても不思議はない者であることを考えると、この世の金銭をかき集めるためだけのために生き、来たるべき事がらのために生きようとしないというのは、まさに愚の骨頂であり、帽子と鈴を身につけた道化師の行なういかなることをもはるかにしのぐ、愚劣のきわみである。世俗性は、多くの魂の首根を締めつけている悪鬼である。願わくは神が、私たちを自分の世俗性によって滅びないようにしてくださるように!

 さらに別の種別の人々がいるが、こうした人々のことを私はこのように描写するしかない。彼らは全く考えなしである。もしあなたが彼らにキリスト教信仰に関する質問をすると、彼らはそれについて何の意見も有していない。彼らは積極的にそれを嫌いもせず、あざけりもしないが、それについて何も考えていない。事実を云うと、彼らは段々とそれについて考えようと思っている。彼らの存在は、一種の蝶々のようなものであり、彼らは常に動き回っており、他の人々のためにも自分のためにも、決して何も行なうことがない。また、こうした人々は非常に愛すべき人々である。常に慈善のためには1ギニー与える用意があり、決してだれをも拒まず、自分のギニーを同じように与える。それがクリケットの試合のためであれ、教会のためであれ関係ない。さて、もし私がこの世に戻っていくことを余儀なくされ、自分のなりたい人格を選ばなくてはならないとしたら、私がどうしても占めたくない立場は、この考えなしの人間の立場である。私の信ずるところ、考えなしの人々は、いかなる種別の人々にもまして失われる危険が最も大きい。私が知るように、時としてみことばのもとには、全く強情で、かたくなで、心から福音を憎んでいる人がやって来る。私はそれを嬉しく思う。というのも、その人の心は火打石のようであるが、福音の鎚によって打たれると、その火打石は一瞬にして粉々になるからである。しかし、こうした考えなしの人々には弾性護謨の心をしている。――それを打てば、たわむ。もう一度打っても、たわむ。もし彼らが病気になって、あなたが彼らを訪問すると、彼らは、「はい」、と云う。彼らに、キリスト教信仰の重要性を語ると、「はい」、と云う。地獄から逃れ、天国にはいることをについて語ると、「はい」、と云う。また彼らが快復してから、彼らに説教を語り、病床で彼らが行なった誓いのことを思い出させると、彼らは、「それは結構なことです、先生」、と云う。このように彼らは、あなたが云うことを鸚鵡返しに何でも云う。彼らは常に、あなたに対してはごく慇懃である。だが、あなたが彼らに何と云おうと、それはわきへやられる。もしあなたが彼らに酔いどれについて語り出すと、おゝ! 私たちは酔いどれではありません。ついつい酔っ払ったことは一度くらいありますが、それはたまたまそうなった小さなことです、と云う。あなたがいかなる罪を持ち出そうが、彼らを打って、打って、打ちまくろうが、何にもならない。というのも彼らは、本当に強情な心をした、福音を憎んでいる人の半分も(人間的な云い方をすれば)砕かれにくいからである。何と、ひとりの船乗りが、陸に上がって千鳥足でやって来る。悪態をつき、冒涜し、呪いを吐きながら、神の家に入ってくる。だが、ほとんど最初の言葉が御霊によって適用され、この水夫の心を砕いてしまう。だのに別の青年はこう云う。「ぼくは、教役者がぼくに向かって語れるくらいのことは何でも知っています。母がぼくに教えてくれましたし、父がぼくに聖書を読んでくれるのが常でしたから、そのすべてがぼくの頭には入っていると思います。ぼくが会堂に行くのは父の思い出のためですが、本当のところ、中身はどうでもいいのです。じいさん連中には非常に良いものでしょうし、ばあさん連中にも向いているでしょうし、死にそうな人とか、虎列剌の時期には良いでしょう。それはとても良いものです。ですが、ぼくは今のところ、それについては何も関心がありません」。さて、私はあなたにこの上もなく厳粛に告げるものである。無頓着な人たち。あなたこそは悪魔の近衛騎兵である。あなたは彼の予備兵力である。彼はあなたを戦闘から遠ざけておく。彼は冒涜者を送り出すようにはあなたを送り出さない。というのも彼は、たまたま一弾があなたに当たり、あなたが救われるといけないと思っているからである。むしろ彼は云う。「ここに立っているがいい。しかし、たといあなたが出撃しなくてはならないようなことがあるとしても、私はあなたに、貫通することのない鎖帷子を与えよう」。矢玉はあなたの上にカンカンと当たる。それらは、みなあなたに当たる。だが、悲しいかな! その1つとしてあなたの心に突き刺さるものはない。というのも、それはどこか別のところに置かれているからである。あなたは単に空ろな蛹殻にすぎず、あなたが神の家に来て、みことばが宣べ伝えるられるときも、あなたはそれを軽んずる。なぜなら、何事についても考えなしでいることがあなたの習慣だからである。

 ごく手短に、もう1つの事例に触れなくてはならない。それでこの集会を閉じることにしよう。あなたが福音を軽んずるのは、全くの増上慢からかもしれない。そうした人々は、「わざわいを見て、これを避け」る利口な者のようではなく、進んで行って罰を受ける愚かな者のようである[箴22:3]。彼らは進んで行く。その足どりは安全である。――彼らは一歩踏み出す。次の一歩も安全である。――さらに一歩を踏み出す。その足は暗黒の深淵にかかっている。だが、もう一歩を進める。そして、それが安全だったため、次の一歩も試してみようと考える。そして、最後の一歩が安全だったので、また、長年の間、安全だったので、彼らは自分が常に安全だろうと思う。自分がまだ死んではいないので、自分は決して死なないだろうと考える。そのようにして全くの増上慢から、「すべての人々は定命だが、自分たちだけは違う」、と考え、キリストを軽んじながら進んで行く。おののくがいい。あなたがた、増上慢な人たち。あなたは、いつまでもそうしていられるわけではない。

 そして最後に、残念ながら、非常に多くの人々がキリストを軽んじているのは、福音がありふれたものとなっているからではないかと思う。それは至る所で宣べ伝えられており、それこそあなたがそれを軽んずる理由なのである。あなたはそれを、どこの街角ででも聞くことができる。かくも広く頒布されている聖書で読むことができる。そして福音がこのようにありふれているがために、あなたはそれを気にもとめないのである。あゝ! 私の愛する方々。もしロンドン中に、真理をあなたに告げることのできる、福音に仕える教役者がひとりしかいなかったとしたら、もしロンドンに一冊しか聖書がなかったとしたら、あなたはその聖書が読まれるのを聞きに殺到するだろうと思う。そして、その使信を有している人は、決して席を暖める間もなく、朝から晩まで働きづめとなり、福音をあなたに告げ続けなくてはならないであろう。しかし今は、あなたがかくも多くの聖書を有しているがために、あなたはそれを読むのを忘れている。かくも多くの小冊子があるために、あなたはその中にあるいかなる記事をも読まずにすませてしまう。かくも多くの説教を聞けるために、あなたはそれらについて何も考えない。しかし、なぜそうなるのだろうか? あなたは、太陽がその日差しをふんだんに降り注いでいるからといって、その分だけ太陽を軽んじるだろうか? 神がそのすべての子どもたちに与えておられる食物だからといって、その分だけパンのことを軽んじるだろうか? のどが渇いているとき、どんな小川にも流れているからといって、その分だけ水を軽んじるだろうか? 否。もしあなたがキリストに渇いているとしたら、主が至る所で宣べ伝えられているとしても、その分だけキリストを愛することであろう。また、それがためにキリストを軽く考えはしないであろう。

 「彼らは気にもかけず」。もう一度尋ねよう。今晩、私の話を聞いている方々の中で、キリストを気にもかけずに軽んじている人が何人いるだろうか? 疑いもなく、あなたがたの中の多くがそうしているであろう。ならば私はあなたに、1つだけ警告を与えて、さらばと云うことにしよう。罪人よ! もしもキリストを軽んずるならば、もう一度あなたに云わせてほしいが、あなたが臨終の床についたとき、それはあなたにとって痛恨の日となるであろう。かの痩せこけた怪物があなたをつかむとき、そして、あなたに川を下らせ、死の池にひたすとき、あなたはひどい目に遭うであろう。思い出すがいい。先にあなたが熱病にかかったとき、あゝ! いかにあなたが身震いしたことか。思い出すがいい。昨夜、稲妻に次ぐ稲妻が窓の外で閃いていたとき、いかにあなたが寝床の中でおののいていたことか。また、口をカッと開いた雷鳴が神の声を大喝したとき、いかにあなたが震えたことか。あゝ! 罪人よ。あなたは、自分を迎えに来た死を見るとき、また、青白い馬に乗った痩せこけた乗り手がその投げ矢を放ち、それをあなたの内蔵に突き刺すとき、はるかに激しく身を震わせることであろう。もしあなたが、避け所となるキリストを全く有していないとしたら、魂を洗う血潮を全く有していないとしたら、あなたはひどい目に遭うであろう! さらに思い出すがいい。死の後には審きがやって来る。もしあなたがキリストをさげすみ続け、さげすむ者として死んだとしたら、あなたはひどい目に遭うであろう。あの飛びかける御使いが見えるだろうか? その翼は炎でできており、その手には鋭い両刃の剣を握っている。おゝ、御使いよ。なぜあなたは、その迅速な飛行を速めているのか? 「聞けよ!」、と彼は云う。「この喇叭があなたに告げるであろう。――」 そして彼はその口に喇叭を当てる。そして、

   「大(たか)くも凄き 音(ね)を吹き鳴らさん、
    いかな預言(あかし)も かく禍(まが)なけり」。

見るがいい! 死装束を来た死人たちが、その墓から起き上がっている。見よ、雲の戦車が智天使の手に従って動かされている。よく見よ! 御座の上に《王》が、――かの《王子》が座しておられる。おゝ、御使いよ。キリストを軽く考えていた者にとって、この恐ろしい日はいかなるものとならざるをえないだろうか? そこに見るがいい。主はその剣を抜き放つと、こう云われる。「この刃がそうした者を見つけ、刺し貫くであろう。この刃は大鎌のようにあらゆる毒麦を麦から刈り取り、この力強い腕が彼を縛り上げて、焼き尽くすべき束とする。そして、わたしのこの大いなる腕が彼をつかんで投げ落とす。それは下へ、下へ、下へ落ちて行き、炎が永遠に燃え盛り、地獄が永遠に吠えたける所まで落ちる」。そのとき、あなたはひどい目に遭うであろう。この者の言葉を今晩よく聞くがいい。外へ出て行って笑うもいいが、覚えておくがいい。私はもう一度あなたに云う。キリストが審きのためにおいでになるとき、もしあなたが主を軽んじているとしたら、また、何よりも悪いことに、もしあなたが絶望の洞窟の中に閉じ込められるようなことになり、もしあなたが、「離れて行け、呪われた者」、と云われるのを聞くようなことになり、もしあなたがあなたの恐ろしい悲鳴を、失われた無数の人々の陰惨な咆哮に混ぜ合わせるようなことになるとしたら、もしあなたが、かの底知れぬ所を目にし、火の壁に囲まれた深遠を目にすることがあるとしたら、これは厳粛なこととなるであろう。自分がそこに至っていることに気づき、二度と決してそこから出て行けないことを悟るのは、恐ろしいことであろう! 罪人よ。今晩、私はあなたに福音を宣べ伝えよう。行け。これを聞き、これを信ずるがいい。願わくは神があなたに、これを受け入れる恵みを授け、あなたが救われるようにしてくださるように。聖書は云う。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。信ずるとは、キリストにあなたの信頼を置くことである。バプテスマを受けるとは、自分がすでに救われたこと、また自分がキリストを愛していることの告白として、主イエスの御名によって水に沈められることである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」。おゝ、願わくは決してあなたが、この言葉の後半の方の意味を知るようなことがないように。さらば!

 

キリストを軽んずる[了]



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