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マナセ

NO. 105

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1856年11月30日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「こうして、マナセは、主こそ神であることを知った」。――II歴33:13


 マナセは、その生涯が聖なる書に記されている人物の中でも、最も尋常ならざる者のひとりである。私たちは、非常な罪を犯したにもかかわらず、非常なあわれみを見いだした一連の人々の中に彼の名を言及することに慣れている。タルソのパウロや、イエスの御足を涙で洗い、髪の毛でぬぐった大罪人の女や、十字架上で死んだあの強盗――五時頃[マタ20:6]に赦された罪人――と並んで、私たちはマナセの名前を書くのが常である。彼は、「罪のない者の血まで多量に流し」[II列21:16]たにもかかわらず、赦され、赦罪を受け、《救い主》の血によってあわれみを見いだしたのである。主は、その当時はまだ死んでいなかったが、神は主がお死にになることを予見しておられ、それゆえ、マナセのように大きくそむく者にも、その犠牲の功績を転嫁されたのである。

 特に前置きなしに私たちは、今朝、このマナセの生涯を取り上げることとして、彼を3つの面から考察してみたい。まず、罪人として。次に、不信者として。そして第三に、回心者として、である。今この建物の中には、何人かのマナセがいるかもしれない。そして、もしこの古代イスラエルの王の事例を物語ることによって、私がその人に相当に似た姿を描き出すことになるとしたら、その人は、悔い改めという地下牢にあったマナセを励ます手段となった、慰めに満ちた真理を自分のものとして受け取るであろうと思う。

 I. まず第一に、私たちが考察したいのは、《その罪のうちにあるマナセ》である。

 1. そして、私たちが最初に注意するのは、彼が、悪の密集陣形の中でも、際立った立場にある罪人たちの種別に属していた、ということである。――すなわち、大いなる光に反し、敬神の教育や、幼少期のしつけに反して罪を犯す者たちである。マナセは、ヒゼキヤの息子であった。ヒゼキヤは、多少は過ちも犯したが、それにもかかわらず、こう云われている人物である。「彼は……主の目にかなうことを行なった」[II列18:3]。大いに全き心をもって彼は、父祖ダビデがしたように神の御前を歩んだ。私たちは、彼が息子マナセの教育を怠っていたとは考えられない。マナセは彼の年寄り子であった。あなたも思い出す通り、あるとき重病にかかった彼に、神はその寿命を十五年のばすとお約束になった。その出来事の三年後に、マナセが生まれたのである。それゆえ彼は、父親が死んだとき、たった十二歳にしかなっていなかった。それでも彼は、父親と母親の敬虔な祈りを覚えていられるくらいは大きかったし、善悪の区別がつくだけの年頃にはなっていた。また、ほとんどの人の後半生において、この上もなく有益なものとなると私たちの信ずる、幼少期の印象をすでに受け取っていた。だがしかし、マナセは彼の父が築き上げたものを引き倒し、彼の父が引き倒した偶像の神殿を築き上げた。さてこれは周知の事実だが、良い訓練の後で道を踏み外した人々は、この世で最悪の者となるものである。あなたは知らないかもしれないが、事実、かの痛ましいイロンマンガのウィリアムズ殺しを引き起こしたのは、同島に渡ったひとりの商人の悪行のためであり、この商人はとある宣教師の息子でもあった。彼はその習慣において向こう見ずになり、島民に対して非常に粗暴で残虐な扱いをしたため、彼らは、次に彼らの岸辺に足を踏み下ろした最初の白人に対して、彼から受けた仕打ちの復讐をしたのであった。そして、最後の殉教者のひとりたる、愛するウィリアムズは、彼の前にやって来た人々の咎の犠牲者として死んだのである。人々の中で最悪の者とは、多くの光を受けていながら、それでも堕落した者たちである。あなたは、地獄の陣営の最も偉大な戦士たちの間に、私たち自身の隊伍の中で育てられ、教育された者たちを見いだすであろう。必ずしも私がその名前をあげる必要はない。だが、あなたがたの中の、現在不信心の指導者となっている人々に通じている人であればだれでも、すぐにその事実を認めることであろう。そして、そうした人々はしばしば、現実に、不信者たちの中でも実に最悪の者となる。その一方で、最上のキリスト者たちは、しばしば罪人たちの最悪の者から出て来る。私たちのジョン・バニヤンは、一杯飲み屋や酒場の出身であり、十柱戯場や、それよりも劣等な場所の出身であった。私たちの中の最上の人々は、最悪の場所の出身者であり、だれにもまして罪人たちを改心させる資格があった。なぜなら、彼ら自身、悪人たちの巣窟に足を踏み入れていながら、それにもかかわらず、《救い主》のきよめの血によって洗われたからである。そして、それと同じように、キリストの最悪の敵たちは、私たちの真中で養われ、農夫が自分のふところで飼っていた古の毒蛇のように、向き直っては、自らを養ってくれた者の胸を刺したのである。そうした者がマナセであった。

 2. 次のこととして、罪人としてのマナセは非常に大胆な者であった。彼は、こそこそ罪を犯す者らのひとりではなく、そむきの罪を犯すときには、まるで恥ずかしげもなく、青銅の額をもって生まれ、傲岸不遜に天を振り仰ぐ者であった。彼は、この章を読めばわかるように、偶像を据え付けたいと思えば、国土の人目につかない一隅にそれを据えるのではなく、神の宮そのものの中にそれを据えた。そして、《いと高き方》の御名を冒涜したいと思えば、ひそかに自分の会堂に行って、何か邪悪な神々を礼拝するのではなく、あたかも神をその面前で侮辱しようとするかのように、その神々を神殿そのものの中に置いた。彼は罪における無法者であり、そのきわみまで突き進み、大胆不敵にも、しゃにむに悪徳へと向かっていった。さて、善のためであれ悪のためであれ、大胆さは常に勝利をもたらすに決まっている。ここに臆病者がいたとする。――状況は何も変わらない。だが、ここに大胆な人間がいたとする。その人は、神のためであれ、悪魔のためであれ、何事かを成し遂げることができる。マナセはこうした類の人物であった。彼が神を呪う場合、それは大声によってであった。彼が《いと高き方》に逆らう宣言を発し、イスラエルの主なる神をこの上もなく大それたしかたで侮辱したのは、穴の中ででも、片隅においてでもなく、自分の王座の上においてであった。だがしかし、愛する方々。この人物は、こうしたすべてにもかかわらず救われた。この最大級の罪人、自分の父の祈りを踏みにじったこの男、懸念する親の流した涙を自らの額から拭い去ったこの男、自らの良心の確信を押し殺し、大胆で、公然たる、命知らずな罪によって、咎のきわみまで行き着いたこの男、だがこの男が、最後には天来の恵みによってへりくだらされ、膝まずかされては、神は神おひとりしかいないと認めさせられたのである。それゆえ、いかなる人も、自分の同胞のことをあきらめてはならない。私は決してあきらめない。神が私を救ってくださったと思い、そう希望しているからである。私はこう確信している。いのちある限り、私は決して、「あの男には何の望みもない」、と云えるような個人には決して出会うことはない、と。もしかすると私も、何度となく勧告を受け、何度となく警告され、何度となく自らの良心の甘やかな慫慂をはねつけてきたがために無感覚になり、かたくなになり、一見すると望みがない人に出会うかもしれない。だが私は、犯した罪がひどすぎて、絶対に救われえないと云えるような人には、決して出会わないであろう。あゝ! 否。私を救えるほど長かったあわれみの腕は、あなたを救うこともできるほどに長い。そして、もし主があなたを、あなたのそむきの罪から贖い出せたとしたら、確かに、あなたと同じくらいの低さまで沈み込んでいるものはだれひとりもれなく贖い出せるであろう。それゆえ、あなたは、主のあわれみの御腕がそうした人々に達することができると信じてよい。何にもまして、いかなる者も自分自身について絶望してはならない。いのちがある限り、希望はある。あきらめて自分をサタンに引き渡してはならない。サタンはあなたに、あなたの死刑執行令状には捺印されているぞ、と告げるであろう。あなたの判決は下されており、あなたは決して救われることがありえない、と告げるであろう。だが彼には、面と向かってお前は偽り者だと告げるがいい。というのも、イエス・キリストは、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」[ヘブ7:25]。

 3. さらにマナセは、めったに見いだされることがないと思われる、独特の階級の罪人であった。彼は、非常に大きな程度において、真理から、また神信仰から邪道へと他の人々を導く力を有する者たちのひとりであった。彼は王であり、それゆえ、大きな影響力を有していた。彼が命じたことはなされた。偶像礼拝者たちの隊伍の間で、マナセは第一人者であった。ユダの王が異教徒の神々の側についていることは、にせ祭司たちの歌であり栄光であった。彼は指導者であっ。。――戦いの先陣を切る者であった。不敬虔な者たちの軍隊が全地の神に向かって進軍したとき、マナセはその先鋒を率いて、彼らを鼓舞して進ませた。彼は、彼らの偉大なゴリヤテであって、生ける神の全軍に挑戦していた。悪者の中の多くは尻込みし、戦闘を恐れていた。だが彼は決して恐れることがなかった。「彼が語ると、そのようになり、彼が命じると、それは堅く立った」*[詩33:9]。それゆえ、彼は他の人々に道を踏み迷わせることにおいて大胆であり、傲慢であった。今なおそうした人々は何人か生きている。――自分で広い道を踏み歩くことに満足するだけでなく、他の人々もその道に入らせようとそそのかす者たちである。そして、おゝ、いかに彼らは精力的に努力いていることか! 彼らは家々を渡り歩き、不潔で汚染に満ちた刊行物を配布しようとする。彼らは私たちの町通りに立ち、自分たちの回りに若い人々、左様、神の家からまさに出てきたばかりの男女を、あるいは神の聖所に行こうとしている男女を引き寄せようと努める。そして彼らに、神などいないのだというその陰鬱な話をして聞かせるか、未来などなく、私たちはみな犬のように死に、消滅するしかないのだという惨めな虚偽を吹き込もうとする。一部の人々は、他の人々を踏み迷わせていない限り、決して幸せになれないように見える。彼らにとって、自分たちだけが神に逆らうのでは十分ではなく、連れ立って罪を犯す仲間がいなくてはならないのである。あの箴言の女[箴7]のように、彼らは尊いいのちを狩り、血に飢えた猟犬のように、人々を追い求めては、破滅させようとしている。社会は今、プロメテウスのようである。それは、私たちを取り巻く慣習そのものによって、相当きつく手足を縛られている。そしてプロメテウスのように私たちは、翼の生えた地獄の猟犬にのしかかられて、それが不断に私たちの心臓に口をつけては、私たちの霊の生き血をすすっているのである。つまり、人々を神から遠ざけ、その《造り主》から追い払う、呪うべき不信仰が、この社会にはつきまとっているのである。しかし、それにもかかわらず、そうした者らの指導者たちが、それでも救われつつある。マナセは、神を憎む者たちの指導者であったが、それでもへりくだらされ、《いと高き方》を愛するようにさせられた

 あなたは私に、そんなことが今も起こるのか、と尋ねるだろうか? 答えよう。しかり、そうしたことは起こる。ごくまれにではあるが、それでも起こることはある。昨日私は、非常に心励まされ、私の神をほめたたえさせられたものを受け取った。ありとあらゆる反対にもかかわらず、神はなおも私を、この世にあってささやかな役に立てておられるのである。私が受け取ったのは、さる町に住むひとりの人物からの長い手紙であった。同地の世俗主義協会の指導者のひとりである、この手紙の書き手はこう云っている。「私は、『このスポルジョンとは何者か?』、という題の小冊子と、あなたの肖像画(あるいは、あなたの肖像画とされている絵)を三ペンスで買いました。そして、それを自宅に持ち帰っては、店先の陳列窓に並べました。そうしたい気分になったのは、小馬鹿にするような喜びのためでした。その小冊子の題名は、冷やかしを意図したものと思われましたし、私がそれをあなたの肖像画にくっつけておいたのは、とりわけそうした印象を深めるためでした。しかし、私には別の目当てもありました。それを呼び物にすれば、商売繁盛になると思ったのです。私は書籍販売や文筆業とは全く関係がありませんから、それを陳列した私の動機は、ことのほか、あからさまなものでした。私は今ではそれを取り下ろしています。私も引き下ろされています。……その二、三日前に私は、ある不信心者について語られた、あなたの説教の1つを買っていました。その説教の中にはこのような言葉が書かれていました。――『彼らは進んで行く。その足どりは安全である。――彼らは一歩踏み出す。次の一歩も安全である。――さらに一歩を踏み出す。その足は暗黒の深淵にかかっている』。私は読み進めましたが、暗黒という言葉に恐怖を覚えさせられました。私の人生は完全な暗黒でした。『本当だ。道は今までは安全だった。だが今の私は途方にくれている。否、否、否。もう危険を冒すことはできない』。私は、自分が思いにふけっていた部屋から出て行きましたが、そうするとき、『だれにそれがわかろう?』、という言葉が心に囁かれたかのように思われました。私は、次の日曜日が来たら、絶対どこかの礼拝所を訪ねようと決意しました。いつ私の魂を引き渡すよう要求されるかわかりませんでしたが、その魂に全く機会を与えないのは、卑しく、下劣で、臆病なことに感じられたからです。そうです。仲間たちは私のことを笑い、あざけり、馬鹿にし、臆病者よ裏切り者よと呼ぶかもしれませんが、私は自分の魂に対して正しい行ないをするつもりなのです。私は会堂に出かけました。畏怖のあまり麻痺せんばかりでした。そこで私に何が求められたでしょうか? 門番は目を丸くして、思わず知らずこう問いかけました。『これは、何某さんが、ここへ?』 『そうです』、と私は答えました。『いかにも私です』。彼は私をとある座席に案内し、その後で賛美歌を一冊持ってきてくれました。私は苦悩のために胸も張り裂けそうでした。『さあ』、と私は思いました。『私はここにいる。もしこれが《神の家》なら、天よ、私の拝謁を許し給え。私は完全に降参するでしょう。おゝ、神よ。私に何か、しるしを示して、あなたがおられること、あなたの御顔と赦しのあわれみをあえて求めようとする、この卑しき逃亡者を、決してあなたが門前払いしないことを教え給え』。私は、自分を引き裂きつつある感情から気をそらそうとして賛美歌を開きました。そして、そこに見えた言葉に目が釘づけになりました。――

   『暗し、暗し、墓場は暗し、
    もし われ光を 汝れより受けずば』」。

自分が真の回心者であると思われる証拠をいくつかあげた後で、彼は結びにこう書いている。「おゝ、先生。このことを、あわれな者たちに告げてください。私と同じような高慢のため、地獄と結託している、みじめな者たちに告げてください。ためらう者たち、小心な者たち、思いの冷めたキリスト者たちに告げてください。神は、窮するすべての者らにとって、そこにある助けであられる、と。……このあわれな罪人のことをお考えください。この世でお目にかかることは決してないかもしれませんが、生ける限りはあなたに感謝し、あなたのために祈るであろう者、また罪深い疑いからも、人間的な高慢からも、信仰後退する心からも免れた世で、あなたとお会いすることを切望するこの罪人のことを」。あゝ、この人は私の赦しを願う必要はない。私はキリスト教会の中で、その人を「兄弟」と呼ぶことを希望して、幸いである。幸いにすぐるものである。この手紙は、この町から何哩も遠く離れた場所から届いたものであり、キリストを憎む者たちの隊伍の中でも決して低くない立場にあった人物からのものである。あゝ、マナセのように救われる者はまだあり、これからも続くであろう。神を憎んでいたが、喜び踊ってこう云った人々はなおもいるのである。

   「われ赦されたり、われ赦されたり。
    われは恵みの奇蹟なり」。

そして彼らは、かつては蔑み、あざけり、その名が口にされることもがまんできなかったお方の御足に口づけしているのである。

 マナセに関するもう1つの事実は、まさに罪人たちの君主として、彼を特徴づけることである。すなわち、「彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ」[II歴33:6]、自分の息子たちをトフェテにささげた。これはすさまじい罪であった。というのも、マナセは悔い改めたが、彼の子アモンは、父の悪にならい、父の義にはならわなかったことを私たちは見いだすからである。聞くがいい! 「アモンは二十二歳で王となり、エルサレムで二年間、王であった。彼は、その父マナセが行なったように、主の目の前に悪を行なった。彼は、その父マナセが造ったすべての刻んだ像にいけにえをささげ、これに仕えた。彼はその父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、彼アモンは罪過を大きくした」[II歴33:21-23]。子どもたちは自分の父親の悪徳を真似し、その悔い改めの方はめったに真似しないものである。親たちが罪を犯せば、その子どもたちは大した疑いも持たずに彼らにならう。だが、たとい彼らが悔い改めて神に立ち返っても、いったん捨て去った道へと子どもを引き戻すことはそれほど容易ではない。この場にはだれか、自分たちの敵への対抗者として息子たちをささげたという、古のカルタゴ人がいるだろうか? あなたも思い出すだろうひとりの人は、自分の息子ハンニバルをローマ人の永遠の敵となるべく、生まれたときからささげた。この場にそのような人がいるかもしれない。自らの子をサタンにささげ、キリストの福音の永遠の敵としようとしている者、主への恐れとは正反対の道へと仕込み、訓練している人がいるだろうか? そのような人は望みがないだろうか? 彼の罪はすさまじく、彼の状態は陰惨で、悔い改めない限り、そうした罪は確かに彼を罪に定めざるをえない。だが、その人がこの場にいる限り、私たちはなおもその人に悔い改めを宣べ伝えるであろう。マナセが導かれて神を知り、その幾多の罪をことごとく赦されたと知っているからである。

 II. マナセについて眺めるべき第二の面は、《不信者》としてである。というのも、マナセはエホバが唯一の神であることをを信じていなかったように見受けられるからである。それゆえ彼は、偽りの神々の信者ではあったが、真理に関する限り不信者であった。さて、これは最初、あなたを驚かせないだろうか? マナセは、真理を信じない不信者ではありながら、異教徒の想像したあらゆる神格を信ずる、非常に信じ込みやすい人物だったに違いない。事実、この世で最も信じ込みやすい人とは不信者である。啓示を信ずる信仰者よりも一万倍も大きな信仰がなければ不信者になることはできない。ある人が私のところにやって来て、あなたは軽々しく信じ込みやすい人ですね、と告げた。なぜなら、私が天地を創造した《第一原因》を信じており、その神が人となり罪のために死んだと信じているからである。――私はその人に、そうかもしれませんと答えた。疑いもなく、あなたがそれを軽々しく信じ込むことだというのであれば、私は非常に信じ込みやすい者に違いないでしょう。でも私が思うに、私が信じていることは、私の理性と完璧に調和しており、それゆえ私はそれを受けて入れているのですよ。「しかし」、と彼は云った。「私は軽々しく信じ込む人間ではありませんよ。――絶対に」。ならば、と私は云った。あなたに1つ質問してもよいでしょうか。あなたは世界が神によって創造されたとは信じていないのですね。「ええ」。では、あなたは驚くばかりに信じやすい人であるに違いありません。あなたは、この聖書がだれからも作られないで存在していると思いますか? もし私が、これには印刷業者や製本屋があったことを信じているからといって、信じ込みやすい人間であると云われるなら、私はあなたがそれより無限に信じやすい人だと云いましょう。もしこれが作られたことをあなたが確言するのだとしたらそうです。そして、もしあなたが、創造に関するあなたの理論の1つ――宇宙空間を浮遊する原子群が何らかの形を取るようになったとかいう――を私に告げ始めるとしたら、私は、信じ込みやすい人間の栄誉を、あなたにお譲りしましょう。ことによると、あなたは、もっと大きなことを信じているのかもしれません。人間がこの世界に出現したのは、何種類かの生き物が発達することを通してである、と。私は、あなたの話を読んだことがあります。いくつかの単細胞生物がありました。――こうした単細胞生物が発達した結果、小さな極微動物になりました。――その後、それらは魚に育ちました。――こうした魚たちは飛びたくなったので、翼が生えました。――そのうち、地面を這い回りたくなったので、足が出てきて、それらは蜥蜴になりました。そして種々の段階を踏んで、その後それらは猿類になり、それから、その猿類が人間になりました。それで、あなたはご自分がオランウータンと同根の従兄弟であると信じているのですね。さて、私は非常に信じ込みやすい者かもしれませんが、実のところ、あなたほど信じ込みやすくはありません。私は非常に奇妙なことを信じているかもしれません。サムソンが千人を打ち殺した、ろばのあご骨を信じているかもしれません。地表が水に没したことを信じているかもしれません。その他いくつもの、あなたに云わせれば奇妙なことを信じているでしょう。ですが、あなたの信仰信条――信条を持たないという信条――について云えば、「『これぞ奇妙』、『奇妙を通り越した奇妙』、『仰天すべき不思議』」です。もし私が信じやすいとすれば、それは、軽々しく信ずるという点では、私の信条をはるかにしのいでいます。聖書を否定することは、この世で最も固い信仰が必要です。なぜなら、その人は、その心の奥底では、聖書が真実であると知っており、どこに行こうと、何かがこう囁きかけるのを聞いているからです。「あなたは間違っていることがありえる。――もしかすると、間違っているかもしれない」。そして、その人にできることは、せいぜいこう云うことくらいでしかない。「すっこんでいろ! 良心よ。黙っていろ。私はお前に語らせておくわけにはいかない。さもないと、明日の講義ができないではないか。友人たちの中に出て行けないではないか。これこれの倶楽部に行けないではないか。私は、神を保っておく余裕も、良心を保っておく余裕も持ち合わせがないのだ」。

 さて、ここで私に、マナセが不信者であった理由と思われることを告げさせてほしい。第一のこととして、マナセが有していた際限のない権力は、彼をして神を信じない者とさせる非常に大きな傾向を有していたと思う。専制君主――絶対支配権の持ち主――が神を否定するとしても不思議はない。それは、きわめて自然なことだと思う。あなたは、ナポレオンのあの記憶に残る言葉を思い出すであろう。人は計画するが、神が成否を決する、と語られたナポレオンはこう云った。「あゝ! 私は、自分で計画し、自分で正否を決するのだ」。そして、そのことによって彼は、神の至上権を不法にも自分のものとしたのである。それが何の不思議でもないのは、彼が数々の勝利を立て続けに自分のものとし、彼の勇武はあまりにも完璧であり、彼の声望はあまりにも鳴り響いており、臣下に対する彼の権力はあまりにも絶対的だったからである。私の信ずるところ、権力は常に――それが恵みによって正しく支配されている心にない限り――私たちを神否定へと導く傾向がある。これこれの人の高貴な知性こそ、その人を討論に引き入れ、二度、三度、四度、五度、六度、七度以上も、その論争分野で彼を圧倒的な勝利者としてきたものである。彼らはあたりを見回して、こう云う。「私だけは特別だ[ゼパ2:15]。私が何を取り上げても、私はそれを弁護できるし、私の知性の刃に立ち向かえる者はだれひとりいない。私は相手に、必殺の一撃を食らわせることができるのだ」。そして、その時、そうした人々は、あのジョンソン博士が、単にかちとることが困難な勝利を得たいだけのために、自分でも信じていない問題の立場をしばしば取り上げたように、自分でも間違っていると信じていることを支持する。なぜなら、彼らはそれが、自分たちの能力を披瀝する最上の機会を供してくれると思うからである。どこかの強大な知性は云う。「私をキリスト者と一戦交わさせるがいい。それは、私が自分の論旨を証明するのに至難な時となるであろう。彼が私に対抗して持ち出す真理のとりでを掘り崩すのに非常な困難があることはわかっている。困難であればあるほどよい。そのように手強い反論によって打ち負かされるのは価値があることだ。そして、もし私が自分の敵対者を打ち負かすことができ、もし相手にまさる論法を有しているのを証明できたとしたら、私はこう云えるであろう。『栄えあるかな、栄えあるかな。これほど有利な立場を有する敵手と戦いながらも、圧倒的な勝利者となることができたとは』」。私が真に信ずるところ、この世で最高の人間は、権力を預けることが非常に困難である。その人は、恵みがその人を保つのでない限り、ほどなくしてそれを誤用するであろう。こういうわけで、神のしもべたちの中の最も影響力のある人々は、ほとんど必然的に、最も大きな試練を受けている人々なのである。なぜなら、天におられる私たちの御父は、もし種々の困難な試練や患難がなかったとしたら、私たちが神に逆らい始め、自分のものであると主張すべき権利が何もない栄光を、自分のものに横領し始めることをご存じだからである。

 しかし、マナセが不信者となったもう1つの理由は、私が思うに、彼が高慢だったからである。高慢は、不信心の根幹にあり、神への反抗の根源そのものである。その人は、「なぜ私が信じなくてはならないのか?」、と云う。《日曜学校》の子どもは自分の聖書を読んで、それが本当だと云う。だが知性の人である私が、その子の隣に座って、あることを神のことばの断定であると単純に真実であると受け入れるべきだろうか? 否。そうはすまい。私はそれを自分で見いださなくてはならない。それが私に啓示されているからといって単純に信じはすまい。というのも、それは私を子どもにしてしまうからである、と。その人が《啓示》の書に目を向けると、そこにはこう書いてある。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」[マタ18:3]。その人は云う。「くわばら、くわばら! ならば私は悔い改めたりすまない。私は子どもになるつもりはない。私は大人だ。大人であり続けるであろう。救われた子どもになるくらいなら、失われた大人でありたい。私は何だというので、自分の判断力を明け渡し、神のことばに黙って服さなくてはならないのだろうか?」 「ならば」、とその人は、その人の傲慢さと高慢さによって云う。「私はそのようなことをすまい」。そして、サタンのように、その人、地獄で支配する法が、天国でしもべとなるよりもましだと宣言し、不信者として立ち去って行く。なぜなら、信ずることは、あまりにも屈辱的だからである。

 しかし、ことによると、マナセの不信仰の最も強力な理由は、彼が罪を愛しすぎていたことに存している。マナセが自分の偽りの神々のために祭壇を築いたとき、彼は罪を犯しても、平静な良心を保つことができた。だが、エホバの律法の方は、厳重にすぎて、いったん《唯一の神》を信じたが最後、自分の行なっていた罪が行なえなくなると感じた。聖書には、こう記されていた。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。殺してはならない。盗んではならない」、云々[出20:8、13、15]。マナセは、こうしたすべてのことを行ないたかった。それゆえ、信じたら自分の罪を保っておけなくなるので、信じようとしなかったのである。私たちが多くの不信仰を有している理由はまさに、私たちが罪を大いに愛しているからである。人々が決して神を自分のものとしようとしないのは、神が自分たちの種々の情欲の妨げとなるからである。彼らは、いったん《永遠の神》が自分たちの上におられると信じたならば、あるいは、みながそれを信じているからというので――自分が信じていようがいまいが――それを信ずると告白したならば、自分たちのもろもろの罪の中で生き続けることはできなかった。それで、神という思想が、不信心と情欲を続けることをはばむがために、彼らは、「神はいない」、と叫び、それを彼らの心においてと同様、その口によっても云うのである。私の信ずるところ、これこそマナセをして神の聖徒たちを迫害させたものであった。というのも、彼は、そのもろもろの罪の中で、「罪のない者の血まで多量に流し」た[II列21:16]と書かれているからである。ユダヤ人の伝承によると、預言者イザヤはマナセによって、真二つにのこぎり挽きされたという。彼の罪ゆえに王を叱責したからである。イザヤは小心翼々になる習慣があまりなく、その情欲について王に直言した。それゆえ、彼はイザヤを二枚の厚板ではさみ、頭から足まで真二つに切り裂いたのである。これこそ、人々が神を憎み、神のしもべたちを憎む理由である。なぜなら、真理は彼らにとって熱すぎるからである。ある説教者が遣わされても、あなたに罪のことを告げなければ、あなたは安らかに彼の話を聞くが、《福音》が力とともにやって来ると、人々はそれを聞くことができない。それが、あの快楽、あの罪、あるいは、あの情欲を侵害すると、彼らはそれを信じようとしない。あなたがたは、《福音》を信じても自分のもろもろの罪の中で生きていられる場合は、それを信じようとする。おゝ! いかに多くの酔いどれの無頼漢が、酔いどれであり、かつキリスト者でもありえるとしたら、キリスト者となることであろう! いかに多くのよこしまな悪人が、信じても自分のもろもろの罪の中で生き続けることができるとしたら、信仰者になるであろう! しかし、《永遠の神》を信ずる信仰が決して罪と両立しえず、《福音》が、「それを打ち倒せ! それを打ち倒せ! あなたの罪を打ち倒せ」、と叫ぶために人々は、向き直っては、「《福音》を打ち倒せ!」、と云うのである。それはあなたにとってあまりにも熱すぎるのである。おゝ、あなたがた、罪深い世代よ。それゆえ、あなたがたは福音に背を向けるのである。なぜなら、それはあなたのもろもろの情欲を大目に見ず、あなたの不義を思いのままに満たさせないからである。

 III. これが不信者としてのマナセの姿であるが、これからは私たちの最後の、最も喜ばしい務めとして、回心者としてのマナセを眺めることにしたい。これを聞くがいい。おゝ、天よ。耳を傾けるがいい。おゝ、地よ! 主なる神がそう云われた。マナセは救われる、と。その残虐の王座に着いていた彼は、神の聖徒たちに対する流血の勅令に、自分の名前を書き加えたばかりであったが、しかし彼はへりくだらされる。彼はあわれみを乞い求め、救われる。マナセは神の聖定を聞く。彼は笑う。「何と! 私が偽善者の真似をし、自分の膝をかがめて祈るだと? ありえない! そんなことは不可能だ」。また、敬虔な者らがそれを聞くとき、彼らはみな云うであろう。「それは不可能だ。何と! サウルが預言者のひとりなのか? マナセが新生するだと? マナセが《いと高き方》の前にひれ伏すだと? そんなことは不可能だ」。あゝ! それは人には不可能だが、神には可能である。神はそれをどうすべきか知っておられる。敵が町の城門に迫っている。敵意をいだいた王がエルサレムの城壁を今まさに包囲する。マナセは自分の王宮から逃亡し、茨の間に身を隠す。そこで彼は捕らえられ、捕囚としてバビロンに連れて行かれ、牢獄に閉じ込められる。そして今、私たちは神が何をおできになるかを見てとる。かの高ぶった王は、もはや高ぶってはいない。自分の権力を失ってしまったからである。かの強大な人物は、もはや強大ではない。その強さが取り去られ、今や地下牢のどん底しか彼の言葉を聞けないからである。それはもはや冒涜者ではない。もはや神を憎む者ではない。床の上で冷たくなっている彼を見るがいい! マナセはその膝を屈して、頬を涙が流れ落ちるにまかせて、こう叫ぶ。「おゝ、神よ! 私の父の神よ! 人間の屑がみもとにまいります。血にまみれた悪鬼が御足にもとに身を投げ出しています。私が――悪の権化にして、不潔さに満ちた者が――、今あなたの前ではいつくばっています!」 あなたがた、諸天よ、聞くがいい! もうひとたび耳を傾けるがいい。見よ。天空から御使いがあわれみを手に携えて飛んでくる。あゝ! どこに彼は急いでいるのか? バビロンの地下牢にである。かの高慢な王が膝まずいて祈っている所へ、あわれみがやって来ては、彼の耳に囁く。――「希望せよ!」 彼はびくりと身を起こすと、「希望などあるのか?」、と叫ぶ。そして、再び身を伏せる。もう一度、嘆願すると、あわれみが、かの甘やかな約束を囁く。かつて殺害されたイザヤによって口にされた約束である。――「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」[イザ43:25]。おゝ! あなたに彼が見えるだろうか? 彼の心そのものが、その両眼からあふれ流れている。おゝ! いかに彼が喜びにむせび泣いていることか。だがしかし、かくもいつくしみ深い神に向かって罪を平然と犯してきた悲しみに、いかに泣いていることか。もう一瞬もすると、この地下牢が開かれる。そして、バビロンの王が神に動かされ、彼を自由にするよう命ずると、彼は自分の王国と王座に返り咲く。以前のいかなる時期にもまして幸いで、善良な者となって帰っていく。私は、彼がエルサレムに入城する姿が目に浮かぶ。彼の政治家や寵臣たちが居並んで、彼を出迎えている。「お入りください。マナセ様。酒杯をなみなみと満たし、われらは今晩、陽気な夜を過ごしましょう。われらはアシュタロテの神殿の前に額ずき、あなた様を解放してくださったことについて感謝をささげましょう。見よ。太陽神の軍馬たちは準備ができております。さあ、地上を照らし、天の万軍を率いるお方に、どうかご祈願なさってください!」 そして私は、彼がこう叫んだとき、いかに彼らが肝をつぶしたか目に見えるような気がする。「下がれ! 下がれ! お前たちはもはやわが友ではない。お前たちが神の友となるまではな。私は、お前たちを私の膝の上であやしてきたが、鎖蛇ども。お前たちは蝮の毒で私を刺したのだ。私はお前をわが友としたが、お前は私を地獄の深淵へと引きずり下ろしたのだ。しかし、私は今ではそれがわかる。よりまともな人間になるまで下がっていよ。私は他の者たちを探して、わが廷臣としよう」。そして、その町の裏通りに隠れて、あわれな聖徒たち――国王が帰還したがゆえに恐れおののいていた者たち――は、厳粛な祈りの集会を開き、もはや二度と殺伐とした迫害の布告が下らないように神に叫び求めていた。だが、見よ。使いの者がひとりやって来て、こう云うのである。「国王が戻ってきたぞ」、と。そして、この使いが何と云うかと固唾を呑んで見守っている彼らの前で、彼はこう云い足すのである。「王は戻ってきたが、出て行ったときのマナセではない。まるで天使そのものだ。私は、彼が自らの手でアシュタロテを粉々に砕くのを見たのだ。『太陽神の軍馬は追い出せ』、と叫ぶのを聞いたのだ。私たちはそこで過越の祭を開くことになるのだ。朝夕には子羊が再びエホバの祭壇の上で全焼のいけにえとされるのだ。というのも、エホバこそ神であられ、エホバの他に神はいないからだ」。おゝ! あなたがたは、このめでたい日における、信仰者たちの喜びを思い描けるだろうか? 彼らがいかに喜びと感謝をもって神の家に上っていったか考えられるだろうか? そして、次の安息日には、彼らは、それ以前は一度も歌ったことがないようなしかたで、こう歌った。「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう」[詩95:1]。そうしながら彼らは、神の聖徒たちを以前は迫害していた者が、今、かつては忌み嫌っていた当の真理を擁護していることを思い出すのであった。地上には喜びがあった。左様。天国にも喜びがあった。天の鐘は、マナセが祈った日に、朗らかな響きを一斉に鳴らした。天の御使いたちは、マナセが悔い改めた日に、その翼を倍ましで敏活にはばたかせた。地と天は喜んだし、御座の上の《全能者》でさえ、恵み深い是認の微笑みを浮かべつつ、もう一度こう仰せになった。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」。

 さて今、あなたはマナセの信仰の基盤が何であったか、知りたいと思うだろうか?――いかなる岩を土台として、彼は、神を信ずる自らの信頼を築いたのだろうか? 私には、それは2つあったと思う。彼が神を信じたのは、第一に、神が彼の祈りを聞かれたからであった。そして、第二に、神が彼の罪をお赦しになったからであった。私は時として、疑いの念のえじきになったとき、こう云ったときがある。「よろしい。さて、私は神がおられるかどうかを、あえて疑いはすまい。というのも、私は自分の《日記》を読み返して、こう読むことができるからだ。これこれの日、悩みのただ中にあった私は神に向かって膝をかがめて祈った。そして私が再び立ち上がるとき、必ず神はその答えを私にお与えになった」。そして、あなたがたの中の多くの方々も同じように云えるであろう。それゆえ、他の人々が何と云おうと、あなたは神がおられると知っている。なぜなら、神はあなたの祈りに答えてくださったからである。あなたはブリストルの聖なる人、ミュラー氏について聞いたことがあるであろう。『ジョージ・ミュラーに対する主の取り扱いの物語』を見るがいい。もしあなたがジョージ・ミュラーに向かって、神などいないと告げることがあったとしたら、彼はあなたのために泣いたであろう。「神などいないですと?」、と彼は云うであろう。「何と、私は神の御手を見てきたのですよ。私の祈りに対するこれらの答えはどこから来たのですか?」 あゝ! 方々。あなたがたは私たちの信じやすさを笑うであろう。だが、この場には、神に種々様々な事がらを祈り求めて、神から失望させられたことがなく、むしろ自分の祈りをかなえてくださった、と厳粛きわまりないしかたで主張することのできる何百人もの人間がいるのである。これが、主は神であるとマナセが知った1つの理由であった。

 もう1つの理由は、マナセは罪赦された感覚を有していたということである。あゝ! これは、神の存在を示す、1つの喜ばしい証明である。ここに、ひとりのあわれでみじめなろくでなしがやって来る。彼の足はがくがくと震え、彼の心は自分の内側で沈み込んでいる。彼は、今にも絶望に吸い込まれそうになっている。医者を彼のもとに連れてくるがいい! 彼らは叫ぶ。「残念ながら、彼の精神は衰弱しているようです。おそらく彼は、おしまいには、どこかの精神病院に入れなくてはならないでしょう」。そして彼らは自分たちの治療薬を処方するが、彼はまるで良くならず、むしろ悪化するばかりである。突如として、このあわれな人、罪意識に苦しめられていた人、咎ゆえに呻いていた人の内側に、《聖なることば》の響きがもたらされる。彼はそれを聞く。――それは彼のみじめさを増し加える。彼はそれをもう一度聞く。――彼の苦痛は倍加する。ついには、だれもが彼の症状は絶望的だと云うまでとなる。突然、神が定めておられた幸いな朝、教役者がある甘やかな箇所へと導かれる。ことによると、それはこの箇所かもしれない。「さあ、来たれ。論じ合おう。……たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。御霊がそれを適用してくださり、そのあわれな人は、天にも上る気持ちで帰宅し、細君と子どもたちにこう云う。「さあ、私とともに喜んでおくれ」。「なぜです?」、と彼らは云う。「なぜなら」、と彼は云う。「私の罪は赦されているからだ」。「どうしてそれがわかるんです?」 「おゝ!」、とその人は云う。「私の心の内側に、赦しを給う愛が感じられるのだ。それは、世界中の疑う者が総がかりになっても否定できない。私にはこう云える。『今は、私が罪に定められることは決してない』*[ロマ8:1]、と」。あなたは今まで、赦しを給う血が自分に塗られたのを感じたことがあるだろうか? あるとしたら、あなたは決して神を疑うことはないだろうと私は知っている。何と、愛する方々。もしこの世で最も貧しい老女が、最も才知に富む種別の、この上もなく巨大な才幹の精神を有する不信者の前に連れて来られたとして、彼が彼女を誤り導こうとしても、私は彼女が彼に向かって微笑み、こう云うのが見えるような気がする。「お前さん。そんなことしても何にもなりやしませんよ。主は昔、あたしに現われなすって、こう仰せになったですから。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した』[エレ31:3]。それで、お前さんが、あたしに何と云おうと、あたしは、赦しを贖う血が私の心にまんべんなく注がれたのを感じたのですし、神様が神様であられると知っているんですから、お前さんは決してそれをあたしの中から叩き出すことはできませんよ」。善良なるウォッツが云うように、私たちがかつて、このような確信を有したとき、

   「余人(ひと)の作りし わざみなが
    狡猾(さか)く信仰 襲うとも
    我れ虚言(そらごと)と そを呼びて
    心に福音 結びつけん」。

おゝ! もしあなたに、罪が赦された感覚があるとしたら、あなたは決して神の存在を疑うことはできないであろう。というのも、あなたについてはこう云われるであろうからである。「こうして、彼は、主こそ神であることを知った」。

 さて今、私は自分のありったけの力をかき集め、もうひとたびだけ、救われるためには何をしなくてはならないか知りたいと願う方々に向かって語ることにしよう。話をお聞きの方々。これほど重要な問いかけはありえない。これほど問いかけることが必須のことはない。悲しいかな! あまりにも多くの人々は、決してこの問いを発することがない。むしろ、ぐずぐずと先延ばしにさせようとする、海精の歌声に耳を傾けながら、暗黒の絶望への航海をひた下っていく。しかし、もしあなたがこの問い、「救われるためには、何をしなければなりませんか?」[使16:30]、を厳粛かつ真剣に問うようにされているとしたら、私は幸福に思う。神ご自身のことばでこう告げることができる私を果報者と思う。「主イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は」――聖書は云う。――「罪に定められます」*[使16:31; マコ16:16]。「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」[エペ2:9]。「しかし、先生」、とあなたは云う。「私は多くの善行をしています。私はそれに頼りたいのですが」。もしあなたがそうするとしたら、あなたは失われた人である。古のマシュー・ウィルクスが、かつて彼一流の奇抜きわまりないしかたで云ったように、――「あなた自身の行ないによって天国へ行こうとするくらいなら、紙切れの舟に乗って米国まで航海しようとする方がましである。そんなことをしようとしたら、途中で沈没するであろう」。私たちは、自分の身を覆う衣を紡ぐことはできず、神を満足させるに足るだけ善良な義を作り出すことはできない。もしあなたが救われたければ、それは、キリストが行なわれたことを通してでなくてはならない。あなたが行なったことを通してではない。あなたは、自分の《救い主》にはなれない。あなたが救われるようなことがあるとしたら、キリストがあなたを救うのでなくてはならない。ならば、いかにしてあなたは、キリストによって救われることができるだろうか? ここに救いのご計画がある。こう書かれている。――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。あなたは自分が罪人であると感じているだろうか? ならば、イエス・キリストはあなたを救うために来られたと信ずるがいい。というのも、あなたが自分を罪人だと感じているのと同じくらい確実に、イエス・キリストがあなたのために死なれたことは事実だからである。そして、もし主があなたのために死んだとしたら、あなたは滅びることはない。というのも、私には、キリストが無駄死にしたなどとは考えられないからである。もし主が本当にあなたのために死なれたとしたら、あなたは、この上もなく確実に赦され、救われ、いつの日か天国で歌うことになるであろう。唯一の疑問は、主はあなたのために死なれたのかどうかである。だが、もしあなたが罪人だとしたら、主は何にもまして確実に、あなたのために死なれたのである。というのも、こう書かれているからである。――繰り返して云うが、――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことである」*。あわれな罪人よ。信ずるがいい! 私の愛する方々。あなたの手を私に差し伸ばすがいい! 私はそれを取って、キリストの御手の中に置いてやりたいと思う。おゝ! 主をだきしめるがいい! 主をだきしめるがいい! さもないと、夜の暗雲があなたを覆い、太陽が主を見いだす前に没するかもしれない。おゝ! 主をつかむがいい。さもないと、死と滅びがあなたに追いつくであろう。山に向かって必死に逃げるがいい。さもないと滅ぼされてしまう[創19:17]。ひとたびキリストのうちにあるならば、あなたは危険の届かないところにあって安全である。

   「一度 主にあらば 永久(とわ)に主にあり、
    何も主の愛より 断つはかなわじ」

おゝ! 主を信ずるがいい! 主を信ずるがいい! 私の愛する愛する方々。イエスのゆえに。アーメン。

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マナセ[了]

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