HOME | TOP | 目次

霊的信仰復興――教会の必要

NO. 2598

----

----

1898年11月27日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於トテナム・コート通り、ホイットフィールドの
タバナクル会堂 百周年記念集会にて
1856年11月11日、火曜日午後の説教


「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください」。――ハバ3:2 <英欽定訳>


 真のキリスト教信仰はみな、神の卓越したみわざである。もし神がご自分のみわざの中で最も重んじているものを1つ選び出すとしたら、真のキリスト教信仰をお選びになるであろう。神は恵みのみわざを、自然のみわざすらしのぐ栄光あるものとみなしておられる。それゆえ神は、この事実が常に知られるように特に気遣っておられ、もしだれかがそれを否定しようなどとすれば、それは幾多の証言に逆らってそうすることになる。神が世における、また人々の心における救いの《創始者》であられること、キリスト教信仰が恵みの成果であり神のみわざであることは、何度となく証しされているからである。私の信ずるところ、《永遠者》は、恵みのみわざを肉の努力に帰したり、ご自分以外の何者かに帰したりする罪を赦すくらいなら、天地の創造を偶像に帰す罪の方をお赦しになるであろう。まず神ご自身が作り出されたもの以外に、神に受け入れていただけるものが何か心の中にあるなどと考えるのは、途方もなく巨大な罪である。太陽を創造した神のみわざを否定するとき、私は1つの真理を否定しているだけだが、神が心に恵みを作り出されることを否定するとき、私は一度に百もの真理を否定するのである。というのも、神が人々の魂における善の《創始者》であるという1つの真理を否定する場合、私は、数々の偉大な信仰箇条をなす教理をことごとく否定し、《聖なる書》の証言全体にまっこうから反することをしているからである。愛する方々。私たちの中の多くの者らはこう教えられてきたはずだと思う。すなわち、もし私たちの魂の中に、私たちを天国に連れて行けるものが何かあるとしたら、それは神のみわざである。またもし神の教会の中に何か健全なもの、卓越したものが見いだされるとしたら、それは徹頭徹尾、全く神のみわざである、と。私たちの堅く信ずるところ、死んでいた魂――まぎれもなく「罪過と罪との中に死んでいた」[エペ2:1]魂――を生かすのは神であり、その魂のいのちを保つのは神であり、祝された者たちの家、死後の国においてそのいのちを完成させ、完全なものとするのは神であられる。私たちは何事も人間には帰さず、すべてを神に帰す。一瞬たりとも魂の回心が、それ自身の努力や他の者らの努力によってもたらされるなどと考えはしない。神によって用いられる手段や媒介があることは了解しているが、そのわざが、そのアルファからオメガに至るまで、全く主のものであることも、私たちはきっぱり主張するものである。それゆえ、本日の聖句は、人の心における天来の恵みと、《教会》全体における天来の恵みという、双方のみわざに適用するのが正しいと思う。そして私たちが思うに、何にもまして考察に値する主題は、この聖句の祈りにほかならない。「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください」。

 私が、神の御霊の御助けに信頼しつつ、この聖句を適用したいと思うのは、第一に、個人的に私たち自身の魂に対してである。それから、《教会》全体の状態に対してである。というのも、教会の真中で、主にそのみわざを生き返らせていただくことは大いに必要だからである。

 I. まず第一に、私はこの聖句を《個人的に私たち自身の魂に》適用するであろう。この件において、私たちは、まず隗より始めるべきである。私たちはあまりにもしばしば《教会》を鞭打つが、その鞭は私たち自身の肩の上に打ち下ろされるべきなのである。私たちは《教会》を、巨大な罪人のように祭壇のもとに引きずってくる。彼女を縛り、すぐさま処刑しようとする。彼女の両手を堅く縛り、鞭を一打ち加えるたびに、彼女の震える肉体から肉片をちぎりとる。――ありもしないその過失を見つけ、その小さな過誤を針小棒大に云い立てる。それでいながら私たちは、自分自身の不完全さのことはあまりにもしばしば忘れている。それゆえ、私たちも《教会》の一部であること、私たち自身に信仰復興が欠けていることが《教会》全体における欠けの一因であることを覚えつつ、私たち自身から始めようではないか。私たちは近頃の信仰を告白するキリスト者たちの大多数を直接に非難したい。――そしてその非難を私自身にも向けたいと思う。――その非難とは、敬虔さが再び生き返らされる必要があるということである。私はきわめて断固たるしかたでそう非難したい。それを証明するおびただしい数の根拠がある思うからである。私の信ずるところ、この時代の名ばかりのキリスト者たちの大部分には信仰復興が必要である。その理由は以下の通りである。

 第一のこととして、神の子どもたちであると告白するあまりにも多くの人々のふるまいを眺めてみるがいい。講壇という神聖な場所に立つ者がその聴衆にこびることは不似合いであり、私はそうしようとは思わない。キリスト教会に結びついているあなたがたの中のあまりにも多くの人々には悪がつきまとっており、それがあなたの告白に、実質的に異議を申し立てている。近頃は、教会に加入することなど非常にありふれたことになっている。どの地方に行こうと、信仰を告白するキリスト者たちが、どこかの主の食卓についているのが見いだされる。だが、今はかつてよりも不正が少なくなっているだろうか? ごまかしが減っているだろうか? 道徳がずっと広く行き渡っているのが見られるだろうか? 悪徳が完全に息の根を断たれたのを見ているだろうか? 否。見てはいない。今の時代は、先の時代と同じように不道徳である。以前よりも巧妙に覆い隠されてはいるものの、今なお罪は同じくらいある。墓の外側はずっと白くなったが、内側は、あいもかわらず骨や腐れ果てたもので満ちている。社会はみじんも向上してはいない。大衆紙上でロンドン生活の真の状態を描き出している人々の方が信じられるし、信用されるべきである。彼らは真実をねじ曲げないからである。――彼らにはそうする動機が何もない。そして彼らの示すこの大都市の不道徳ぶりは、全くもって度肝を抜かれるようなものである。これは、とてつもなく犯罪的で、罪に満ちた町であり、私は恐れることなくこう主張したい。もしロンドンにおけるあらゆる信仰告白が真の信仰告白であったとしたら、この町は、これほど邪悪な場所にはならないはずである。どこをどう考えても、そのようなことはありえない。

 私の兄弟たち。これはよく知られたことだが、――そして、偏らない物の見方をし、故意に虚偽を語ろうとする者でない限り、だれがこのことを否定しようとするだろうか?――これはよく知られたことだが、近頃は、ある人が教会の一員であるといっても、その人の正直さを十分保証するものですらないのである。こうしたことを口にするのは、キリスト教の教役者にとって辛いことである。だが私はそう云わなくてはならない。だれかがそう云わなくてはならない。もし友人たちがそう云わなければ、敵たちがそう云うであろう。また、真理が私たち自身の真中で口にされ、私たち自身それを恥じていることを人々が目にするようになった方が、真実に違いないと私たちも知らざるをえないことを私たちが厚顔にも否定するのを人々に聞かせるよりもましである。おゝ、方々。キリスト教会に属する、あまりにも多くの教会員たちの生活は、深刻な疑念を招くべき理由を呈している。彼らのうちに生きた敬虔さなど全く何1つないのではないかという! もし人々が本当に告白する通りの者であるとしたら、なぜあれほどの我利我利亡者がはびこり、なぜあれほどの貪欲が見られ、なぜあれほど曲がった世の手管や悪巧みが見習われ、なぜあれほどあちこちで搾取が行なわれ、なぜあれほど貧者がしいたげられ、職人が踏みつけにされ、そうした類のことがなされているのだろうか? 天にいます神は私の語っていることが真実であるとご存じであり、この場にいるあまりにも多くの人々もまた、それを自ら知っている。もし、そうした人々がキリスト者であるとしたら、少なくも彼らには信仰復興が必要である。もし彼らのうちにいのちがあるとしたら、それは灰の堆積で覆われた、ほんの火花にすぎない。それは、あおがれる必要がある。左様。奮い起こされる必要もある。ことによると、そうした灰の一部が取り除かれて、その火花が生きる場所を得られるかもしれないからである。

 全体としての《教会》は、その成員たちの人格という点で信仰復興を必要としている。キリスト教会の会員たちは、かつての彼らとは様変わりしている。今やキリスト教を信仰することは流行になっている。迫害は取り去られた。そして、あゝ! 私はほとんど、教会の門もそれとともに取り去られた、と云うところであった。教会は、ごく僅かな例外を除き、今や何の門も有していない。人々はやって来ては、そこから出て行く。それは彼らが聖パウロ大寺院を通って行進して行くのと瓜二つである。彼らはそれを、往来すべき地としている。それを、えり抜きの神聖な場所とも、地にあって神の喜びを上にいただく威厳ある者たち[詩16:3]に、主の聖所として割り当てられた場所ともみなさない。もしそうでないとしたら、あなたはいかにそれを扱うべきかを知っているのである。自分が犯さなかった罪を告白する必要はないであろう。だが、もしそうだとしたら、また、あなた自身そうした者であるとしたら、おゝ! 神の力強い御手の下にへりくだるがいい[Iペテ5:6]。自分を尋ね調べてくださいと神に願うがいい。もしあなたが神の子どもでないとしたら、御助けによって、自分の告白を否認しなくてはならない。偽りの告白があなたの華美な死装束となり、地獄へ向かう際の安ピカの衣裳となってはならない。もしあなたが神のものだとしたら、より多くの恵みが与えられるよう願うがいい。あなたの魂の中で敬虔さが生き返らされる結果として、こうした過ちや愚行を捨て去り、心底から神に立ち返ることができるように願うがいい。

 また、信仰を告白するキリスト者たちのふるまいが首尾一貫しているところでは、こう尋ねさせてほしい。私たちは、多くの信仰告白者の会話を耳にするとき、その人の敬神の念の真実さを疑わされるか、その人の敬神の念が生き返らされるよう祈らされはしないだろうか? あなたは、自分をキリスト者であると考える、あまりにも多くの人々の会話に注意したことがあるだろうか? たとい元日から大晦日まで彼らと起居をともにしても、あなたは彼らから聞かされることによって、決してキリスト教信仰に飽き飽きすることはないであろう。彼らはイエス・キリストの御名をほとんど口にすることがない。安息日の午後には、教役者という教役者の品定めがなされ、各人の短所が話の種にされ、彼らが宗教的と呼ぶところの、ありとあらゆる会話がなされる。しかし、彼らは一度でも次の言葉を実行に移しているだろうか?――

   「語れよ、イェスの わざとことばと
    わがため地上(ここ)で 受けし苦しみ、
    われらに先駆け 踏みし道のり、
    今もわがため なしおるみわざを」。

あなたは、あなたの兄弟キリスト者がこういう挨拶を語りかけるのをよく聞くだろうか? 「友よ。あなたの魂は生き生きと成長していますか?」 私たちが互いの家に足を踏み入れるとき、あなたは神の御国や神の真理に関することを話し始めるだろうか? あなたは、神がいま天から身をかがめ、ご自分の《教会》の会話に耳を傾けておられると思っているだろうか? かつて神はそうしておられた。こう書かれている。「主は耳を傾けて聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた」*[マラ3:16]。私は、徹底的な、また偏りのない――と願いたい――観察によって、こう厳粛に宣言するものである。すなわち、キリスト者たちの会話は、道徳という点では断罪できないとはいえ、キリスト教という点では、必ずといっていいほど断罪されなくてはならない。私たちは、私たちの主なる《主人》についてあまりにも少ししか語っていない。

 あの醜い言葉、「宗派心」が私たちの真中に忍び込んできており、私たちは、キリストについて何も語ってはならないという。宗派心の強い人と呼ばれるのを恐れるからである。だが私は宗派心の強い人間であり、死ぬまでそうあり続け、それを誇りとしていようと希望するものである。というのも私は、近頃、人が徹底的に、真剣にキリスト者となろうとするとき、その呼び名を自分のものとしないではいられないのを見てとっているからである。何と、私たちは、これこれの人がそれを信じないかもしれないからといって、この教理について語ってはならないというのだろうか。これこれの友人が疑ったり否定したりするからといって、聖書の中にあるこれこれの真理に注目してはならないのだろうか。このようにして私たちは、かつては敬虔な会話の主要な内容であった、偉大で壮大な話題をことごとく抜け落とさせているのである。なぜなら、私たちは、霊的なことよりも、世的なことにおいて、より良く一致できるように感じるからである。それが本当ではないだろうか? そして、それが私たちの中の一部の者らの悲しい罪ではないだろうか? 私たちは神に祈る必要がある。「主よ、私の魂の中で、あなたのみわざを生き返らせてください。私の会話がもっとキリストに似たもの、塩味のきいたもの、聖霊によって守られたものとなるようにしてください」。

 だがしかし、ここで三番目のことを指摘したい。ある人々のふるまいは、私たちが望みうる限り最上のものであり、その会話は大部分において福音の油注ぎを受けており、真理の風味がしている。だが、そうした人々でさえ、私がいま悲しみつつその人々に、また私自身に突きつけなくてはならない第三の非難に対しては罪を告白するであろう。その非難とは、イエス・キリストとの真の交わりがあまりにも少ない、ということである。もし私たちが、天来の恵みのおかげで、自分のふるまいをそこそこ首尾一貫したものに保つことができ、自分の生活を傷のないものにできているとしても、いかに大きく私たちは、自分自身に向かってこの欠如のゆえに叫ばざるをえないことか。イエスとの聖い交わりこそは、神の真の子どもの白眉である! 兄弟たち。あなたがたの中のある人々に対して尋ねさせてほしい。あなたがイエス・キリストから愛の訪れを最後に受けてからどのくらいになるだろうか?――あなたが、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています」[雅2:16]、と最後に云うことができてからどのくらいになるだろうか? 「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした」[雅2:4]といえた時からどのくらいになるだろうか? ことによると、あなたがたの中のある人々はこう云えるかもしれない。「それは、ほんの今朝のことです。私は主の御顔を喜びをもって眺め、主の御顔の光にうっとりとさせられました」。しかし、残念ながらあなたがたの大部分は、こう云わざるをえないのではないかと思う。「あゝ、先生。私は何箇月もの間、主の御顔の輝きなしに暮らしています」。ならば、あなたは何をしてきたのか。あなたはいかなる生き方をしてきたのか? あなたは日々呻いてきただろうか? 毎分毎分、涙してきただろうか? 「いいえ!」 ならば、あなたはそうしてくるべきであった。もしあなたがキリストの陽光なしに生きて、なおかつ幸福にしていられるというなら、私たちは、あなたの敬神の念が、光と輝きの伴った段階にあるなどとは理解できない。

 キリスト者たちは、時としてイエスを実感できなくなることがあるであろう。彼ら自身とキリストとの結びつきは、彼らの自覚的なその享受ということについて云えば、断ち切られることがある。だが彼らは、自分のイエスを失うときには常に呻き、泣くであろう。何と、キリストがあなたの《兄弟》であり、あなたの家に住んでいるというのに、あなたはキリストに何箇月も語りかけずにいたというか? 残念ながら私は、あなたとあなたの《兄弟》との間にほとんど愛がないのではないかと思う。あなたが主とこれほど長い間、何の会話もせずにきたからにはそうである。何と、キリストはご自分の教会の《夫》であるというのに、彼女はこうした期間中、主との交わりを全く持たずにきたというのか? 兄弟たち。私があなたを断罪しているとは思わないでほしい。私はあなたを裁くことさえしていない。だが、あなたの良心に語らせてほしい。私の良心は語るし、あなたの良心も語るであろう。私たちはあまりにもキリストを忘れていなかっただろうか? あまりにもキリストを抜きにした生き方をしていなかっただろうか? キリストを熱望する代わりに、この世で満足していなかっただろうか? 私たちはみな、あの雌の子羊[IIサム12:3]のように、主人と同じ杯から飲み、主人の食卓で養われてきただろうか? むしろ野山をさまよい歩き、家以外のあらゆる場所でものを食べることに満足していなかっただろうか? 残念ながら、私たちの心の悩みの多くは、イエスとの交わりの不足から生じているのではないかと思う。私たちの中には、イエスとともに生き、その秘密を何でも打ち明けられているという人は多くない。おゝ! しかり。私たちはあまりにも主の御顔の光を抜きにして生きている。主が私たちから離れ去っても、あまりにも幸せにしている。ならば、私たちは、私たちひとりひとりは――というのも、これは、ある程度まで私たち全員に必要なことに違いないからだが――、この祈りをささげようではないか。「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」 あゝ! 私はある信仰告白者がこう云っているのが聞こえるような気がする。「先生。私は自分の心の中に何の信仰復興も必要ありません。私は今の自分に何の不満もないのです」。膝をかがめて祈るがいい。私の兄弟たち! この人のために膝をかがめて祈るがいい! こうした人こそ、最も祈られることが必要な者である。この人は、自分の魂には何の信仰復興も必要ないと云う。だが、その人は、何はともあれその謙遜が生き返らされる必要がある。もしその人が、完全に自分は、あるべき姿にあるのだと思っているとしたら、またもし今の自分に何の不満もないというとしたら、その人の思い描くキリスト者像、あるいはキリスト者のあるべき姿は非常に低劣なものであり、その人は非常にゆがんだ自己像をいだいているのである。最上の状態にある人々とは、自分が信仰復興を必要としていると知りつつ、自分の状態を感じ、その下で呻き、自分を生き返らせてくださいと主に祈るものである。

 さて私は、こうした非難をある程度までは実証したものと思う。それも、残念ながらあまりにも強力な議論によって。さて、ここで注目したいのは、この聖句が、私たちひとりひとりにあると思われるものも示しているということである。「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください」。――この言葉に含まれているのは、ただの悪ではない。はっきりと感じられた悪である。見ての通り、ハバククは、そうした悪の下で呻くとはどういうことかを知っていた。「主よ」、と彼は云う。「あなたのみわざを生き返らせてください!」 あゝ! 私たちは――私たちの多くは――信仰復興を必要としているが、自分がそれを必要としていると感じている者は、私たちの中に僅かしかいない。生ける神から離れ去っていることについて呻きを覚えるとき、それは内側にあるいのちの、ほむべきしるしである。すでに離れ去っている者を何百人も見いだすのはたやすいことだが、自分が離れ去ったことを嘆くとはどういうことかを知っている者は指折り数えるほどしかいない。しかしながら、真の信仰者は、自分に信仰復興が必要であることを悟るとき、幸せになれない。その人はすぐに、うまずたゆまず苦しい叫びと呻きを上げ始めるであろうし、それが最後には神に聞き届けられ、信仰復興の祝福を天から引き下ろすであろう。その人は、夜を日に継いで、「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください」、と叫ぶであろう。

 信仰復興を必要とするキリスト者に常に呻きを覚えるはずのときを、いくつか指摘させてほしい。確かにその人が呻かずにいられないのは、主がかつて自分に何をしてくださったかを思うときである。ミツァルやヘルモンの山々[詩42:6]、また主がかつて自分に現われて、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」[エレ31:3]、と云ってくださった場所を思い起こすとき、その人は決して涙なしには、それらを振り返ることがないはずである。もしその人がキリスト者としてしかるべき姿にあるとしたら、すなわち、もし自分が正しい状態にないと考えているとしたら、その人は、かつての神の恵みを思い出すとき、泣かざるをえないであろう。おゝ! 魂がイエスとの交わりを失っているとき、それは、あの「高貴な人の車」[雅6:12]のことを考えることに耐えられない。あの「酒宴の席」[雅2:4]のことを思うに忍びない。その魂がそこに長くとどまることがなかったからである。それがそのことに思い致すとき、それはこう云う。

   「わが知る幸(さち)は いずこにありや
    主を見そめしときに 知りしかの幸は。
    いずこにありや たましい活かす
    イェスとみことば 示せし眺めは」。

   「いかに安けき 時のありしか、
    その追憶の いかに甘きか!
    されど今 そは 悲痛な空虚、
    この世は決して そを満たしえじ」

こうした状態にある人が、健全な状態にある信仰者の栄光に富む経験に関する説教を聞くとき、その人は自分の胸に手を当てて云うであろう。「あゝ! 私もかつてはそのような経験をしていた。だが、その幸いな日々は過ぎ去ってしまった。私の太陽は没してしまった。かつては私の暗闇を照らしてくれた星々はみな消えてしまった。おゝ! 私が再び主を見られたらどんなによいことか。おゝ! 私がもう一度御顔を見られたならば。おゝ! あの高みからの甘やかな訪れを得られたならば。おゝ! あのエシュコルの葡萄をもう一度口にできたならば」。そしてあなたは、バビロンの川[詩137:1]のほとりに座って泣くであろう。自分がシオンに上っていったときのこと――主があなたにとって尊いお方であったときのこと、主がご自分の心をあなたに包み隠さず打ち明け、あなたの心をご自分の満ち満ちた愛で一杯にしてくださったときのことを思い出すとき、あなたは泣くであろう。そうしたとき、そうした「いと高き方の右の手の年々」[詩77:10 <英欽定訳>]を思い出すときこそ、呻きのときとなるであろう。

 また、信仰復興を必要とするキリスト者にとって、定めの手段もまた呻きのときとなるであろう。その人は神の家に行くであろう。だが、そこから出て行くとき、自分自身についてこう云うであろう。「あゝ! 何と変わってしまったことか! かつて私が、聖日を守る群れと一緒に行ったときには、一言一句が貴重だった。あの歌が立ち上ったときには、私の魂には翼が生えていて、星の間に作った巣に舞い上がった。祈りがささげられるときには、敬虔な心で『アーメン』と云えた。だが今、説教者は以前と同じように説教し、兄弟たちはかつての彼らと同じように益を受けているのに、その説教は私には乾いていて、鈍重に聞こえる。説教者は何も悪くない。その責任は、私にあるとわかっている。歌は以前と全く同じである。――以前のように旋律は甘く、和音はきよらかである。だが、あゝ! 私の心は重い。私の立琴の弦は切れてしまった。私は歌うことができない」。そして、そのキリスト者は、そうしたほむべき恵みの手段のもとから、溜め息をつき、すすり泣きながら戻ってくる。なぜなら、自分には信仰復興が必要だとわかっているからである。とりわけ主の晩餐のとき、その人は聖餐台に着きながら思うであろう。「おゝ! かつて私はいかに幸いな時をここで過ごしたことか! パンを裂き、葡萄酒を飲むとき、私の《主人》がおられたのだ」。その人は、自分の魂がいかに第七の天までも引き上げられたかを思い起こす。その家が、いかに「神の家……天の門」[創28:17]とされたかを思い起こす。「しかし今は」、とその人は云う。「これはパンだ。私にとってはひからびたパンだ。これは葡萄酒だ。味気のない、パラダイスの甘やかさを全く含んでいない葡萄酒だ。私が飲んでも全く無益だ。キリストの思いが何もない。私の心は震い立たされない。私の魂は主へ向かう半ばまでも思いを持ち上げられない!」 そしてそのとき、そのキリスト者はまたもや呻き始めるであろう。――「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」

 しかし、私はこの主題に長々とあなたを引き止めはすまい。あなたがたの中にいる、自分がキリストのうちにあると知っていながら、望ましい状態にはないと感じている方々。自分が主を十分に愛しておらず、主を信ずる信仰を自分の願うほどには有していないがためにそう感じている方々。私はただあなたにこのことだけ尋ねたい。あなたは、そのことのために呻いているだろうか? いま呻くことができるだろうか? 自分の心が空っぽであると感じるとき、それは「悲痛な空虚」だろうか? 自分の衣が汚れているのを感じるとき、その衣を涙で洗うことができるだろうか? あなたの主が去って行かれたと思うとき、あなたは哀しみの黒旗を掲げて、こう泣けるだろうか? 「おゝ、イエス様! おゝ、イエス様! あなたは去ってしまわれたのですか?」 できるのであれば、私はあなたにそうするよう命ずる。そうするがいい。そうするがいい。そして、あなたの魂が生き返る、より幸いな時が明け初めるまで、願わくは神があなたに、そうすることを続ける恵みを与えてくださるように!

 そして、この点に関する最後のこととして注目してほしいのは、このことである。魂は、神から退き、離れてしまったがために陥った、その悲しい状態を痛感させられるとき、その呻きを祈りに変えるのでない限り決して満足しない。そして、その祈りを正しい方向にささげない限り決して満足しない。「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」 ことによると、あなたがたの中のある人々はこう云うであろう。「先生。私は自分が信仰復興を必要としているのを感じます。私は実際、このきょうの午後から、この場所を出るなり、自分の魂を生き返らせるわざを始めようと思います」。そうしたことを云ってはならない。そして、他の何にもまして、そのようなことを試みてはならない。決してできることではないからである。これから行なおうとすることについて、何の決心もしてはならない。あなたの決心は、確実に破られることとなり、あなたの破られた決心は、あなたの罪の増し加えることになるであろう。私はあなたに勧めたい。自分で自分を生き返らせようと努める代わりに、祈りをささげるがいい。「私は自分を生き返らせよう」、とは云わずに、こう叫ぶがいい。「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」、と。そして厳粛にあなたに告げさせてほしい。あなたは、退歩するとはいかなることか、まだ感じていない。あなたの状態がいかに悲しいものであるか知ってはいない。さもなければ、自分で自分を生き返らせることなど語ろうとはしなかったはずである。もしあなたが自分自身の立場を知っていたとしたら、戦場で負傷した兵士が薬もなしに自分を癒したり、手足を吹き飛ばされたのに自分で自分を病院にかつぎこもうとする方が、神の助けもなく自分で自分を生き返らせようとするよりはましだと思うであろう。私はあなたに、何事かをするように命じも求めもしない。何よりも先に、あなたが力強い祈りによってエホバご自身にこう語りかけ、こう叫ぶのでない限りそうはしない。――「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」、と。覚えておくがいい。最初にあなたを造ったお方が、あなたを生かし続けてくださらなくてはならない。そして、あなたを生かし続けておられるお方が、さらなるいのちをあなたに回復させてくださらなくてはならない。あなたの足がすべるばかりであったときに、あなたが底知れぬ所へ下っていかないように保ってこられたお方だけが、再びあなたを巌の上に置き、あなたの歩みを確かにしてくださらなくてはならない[詩40:2]。ならば、自分をへりくだらせることから始めるがいい。――キリスト者としての自分を自分で生き返らせるというあらゆる望みを捨て、むしろ、すぐさま堅い祈りと真剣な神への懇願から始めるがいい。「主よ、私にできないことをあなたがなさってください! 主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」、と。

 キリスト者の兄弟たち。私はこうした事がらをあなたにまかせたい。それらに、それらが受けてしかるべき注意を払うがいい。もし私が間違っていたとしたら、また何かのことであなたに厳しすぎる裁きを下していたとしたら、神が私を赦してくださるように。私は正直な心でそうしたからである。しかし、もし私が真実に語っていたとしたら、それをあなたの心に銘記し、あなたの家を「ボキム」[士2:5]に変えるがいい。それぞれに泣くがいい。男たち。それぞれに泣くがいい。女たち。それぞれに泣くがいい。夫たち。それぞれに泣くがいい。妻たち。泣くがいい。泣くがいい。私の兄弟たち。「生ける神から離れることは悲しいこと」*である[ヘブ10:31]。泣くがいい。そうすれば、神はあなたをシオンに帰らせてくださるであろう。いつの日かあなたがイスラエルのように、泣きながらではなく、永遠の喜びの歌とともに帰って来るようになるであろう!

 II. さて今、私はこの主題の後半を取り上げたい。それは、前半よりも手短に語らなくてはならない。1つのまとまりとして取り上げられた《教会そのもの》において、この祈りは、絶えざる、厳粛な連祷の1つであるべきである。「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」

 現代、敬虔さの活力には悲しいほどの衰えがある。この時代は、いのちの時代である代わりに、あまりにも形式の時代となってしまった。私は、今から数えて百年前のきょうを、いのちの時と定めるものである。それは、私たちがいま神を礼拝しているこの建物の最初の石が置かれた日であった。そのときは、高みから下界へ送られた天来のいのちと力との日であった。神はホイットフィールドに力をまとわせてくださっていた。彼は、定命の人間に可能とは到底思われないほどの威光と大能をもって説教していた。それは、彼が自力で何者かであったためではなく、彼の《主人》が彼に大能を授けてくださっていたためであった。ホイットフィールドの後に、一団の偉大で聖い人々が続いた。しかし今、方々。私たちの生きている時代は、かすのような時である。人物はこの世界中で最も稀少なものとなっている。今やその数は残り少なくなっている。政府には、わが国の政治をつかさどる人物がほとんど見られず、キリスト教界にはいかなる人物もまず見られない。私たちには、いわゆる者どもがあり、それがその勤めを果たしている。私たちには、善良な、そして、ことによると、正直な者どもがいて、定期的に、鈴をつけた荷馬のように決まりきったお勤めを、古色蒼然たるやり方で行なっている。しかし、あえて奇異な者となろうとする人物たち――なぜなら、曲がった世においては、普通、風変わりなことが正しいからである――は、この時代にあまり多くはない。清教徒時代とくらべてさえ、私たちの神学者たちはどこにいるだろうか? かのハウたちや、チャーノクたちに匹敵する人々を提示できるだろうか? 私なら一度に五十人くらいは立て続けに口に出せるような人々に並び立つような人々を集めることができるだろうか? 私はできないと思う。また私たちは、ホイットフィールドの直後に続いた人々のように、綺羅星のごとき恵みと才質を有する人々を集めることもできないだろうと思う。ロウランド・ヒル、ニュートン、トップレディ、ドッドリジ、そして、今は言及するだけの時間がない、他の数々の人々について考えてみるがいい。彼らはいなくなってしまった。いなくなってしまった。彼らの尊ばれるべきちりは、地中で眠りについている。では、彼らの後継者はどこにいるのだろうか? どこかと尋ねるがいい。こだまが答えるであろう。「どこか?」、と。ひとりもいない。彼らの後継者たちは、どこにいるだろうか? 神はまだそうした人々を起こされていない。あるいは、起こされているとしたら、どこに彼らがいるか、あなたにはまだ悟られていない。

 きょうびは多くの説教がなされているが、それはどのようになされているだろうか? 説教者は云う。「おゝ、主よ。あなたのしもべに助けを与え、あなたの御霊によって語るべきことを教え給え」。それから原稿が取り出され、それが読まれるのである! 私たちは説教を有しているが、それはこうしたしろものなのである。それは全く説教ではない。それは非常に美しく、また非常に洗練された、もしかすると、ある意味では雄弁な弁論かもしれない。だが、ホイットフィールドの説教のような、徹底的な説教がどこにあるだろうか? あなたは彼の説教を1つでも読んだことがあるだろうか? あなたは彼を雄弁とは思わないであろう。そう考えることはできないであろう。彼の云い回しは無骨で、しばしば非常に粗雑で、つじつまが合っていない。彼は、非常に誇張の多い文章を多用している。それは実際、彼の話の大半をなしていた。しかし、彼の雄弁はどこに存していただろうか? あなたが読む言葉にではなく、そうした言葉を発する彼の声音にあり、それらを感ずる彼の真剣さにあり、彼の頬を流れ落ちる涙にあり、彼の魂が注ぎ出されることにあった。彼が雄弁であった理由は、その言葉が意味しているまさにそのことであった。彼が雄弁だったのは、彼が自分の心から語っていたからである。――この人物の内奥の深みから語っていたからである。彼が語ったとき、彼が自分の言葉を本気で意味していたことは、だれにでも見てとれた。彼はただの商売人のようには、あるいは、単なる機械のようには語らなかった。むしろ彼は、自分が真理であると感じていたこと、また説教しないではいられなかったことを説教していた。彼が説教するのを聞くとき、人々は、彼が、説教できなくなるとしたら死んでしまうであろう人物であると感じないではいられなかった。この人物が、その全力を傾けては人々を召し、こう云おうとしていたのである。「来よ! 来よ! キリスト・イエスのもとに来て、主を信ずるがいい!」

 それは、まさにこの時勢に欠けたものにほかならない。どこに、どこに真剣さが今あるだろうか? それは、講壇にも会衆席にも、私たちが願うような度合では存在していない。そして、真剣さが鼻で笑われ、講壇の顕著な特徴であるべき熱心が熱狂主義で狂信であるとみなされるとき、それは悲しい、悲しい時代である。私が神に願うのは、私たちすべてが、ほとんどの人から笑われるような狂信者とされることである。――まさに多くの人々が軽蔑するような熱狂主義者とされることである。私たちは、地獄に行くことこそ、世界中で最も大きな狂信であるとみなす。義にまさって罪を愛することこそ、地上最大の熱狂主義であるとみなす。そして、私たちが考えるところ、人よりも神に従い、自分のすべての道においてキリストに従おうとする人々は、狂信者でも熱狂主義者でもない。もう一度云う。教会が信仰復興を必要としている悲しい証拠の1つは、かつてキリスト教の講壇に見られた死のごとき厳粛な真剣さの欠如である、と。

 健全な教理の欠如は、私たちに信仰復興が必要であることを示すもう1つの証拠である。あなたは今、だれが無律法主義者と呼ばれ、だれが「興奮屋」と呼ばれ、だれが笑いものにされ、だれが不健全な信仰の持ち主として爪弾きにされているか知っているだろうか? 何と。かつては正統的であるとされた人々が、今や異端とされているのである。私たちは、わが国の清教徒の父祖たちの文書や、英国国教会の信仰箇条や、ホイットフィールドの説教に目を向けることができる。そして、私たちは彼らの諸教理について、これこそ私たちの愛するものだと云うことができる。また、そのとき口にされていた諸教理こそ――そして、私はこのことをどこででもあえて云うが――私たちがいま宣言しているのと全く同一の諸教理である。しかし私たちは、それらを宣言することを選んでいるがために、風変わりで奇矯であると考えられている。その理由は、健全な教理は、そのあらかたがすたれてしまったからである。それはこのようにして始まった。まず最初は、諸真理が完全に信じられていた。だが、その圭角が少し取られた。教役者は選びを信じていたが、その言葉は使わなかった。それが、会堂の隅にある緑の会衆席に座っている執事の平静を幾分か、かき乱すのではないかと恐れたためである。彼は、すべての人間が堕落していると信じていたが、はっきりそうとは云わなかった。もしそう云ったとしたら、会堂にあれほど多額の寄進をしている婦人が二度と来なくなるだろうからであった。それで、彼はそれを信じていたが、また、そのことをある意味では云っていたが、彼はそれを少し丸めたのである。後にこのようなことになった。教役者たちは云った。「われわれは、こうした諸教理を信じているが、これらを信徒向けに説教することは有益ではないと思う。これらは全く真実である。無代価の恵みは真実である。キリストによって、パウロによって、アウグスティヌスによって、カルヴァンによって、また現代に至るまでの彼らの後継者たちによって宣べ伝えられてきた恵みの諸教理は真実である。だが、これらは押し隠しておいた方がよい。――これらは非常に注意深く扱われなくてはならない。これらは、非常に高踏的で、恐るべき教理なのだ。これらを説教してはならない。私たちはこれらを信ずるが、あえて公言することはすまい」。その後、事はさらに悪化した。彼らは内心こう云った。「よろしい。もしこうした教理を私たちが説教することが不都合であるとしたら、ことによると、これらは全然真実ではないのかもしれない」。そして、さらに一歩進んで、彼らは、実際に口に出してそうとは云わなかったかもしれないが、これらが真実ではないのだとほのめかすことだけを始めた。そして彼らは、彼らが真理であると云うところの何かを説教し続けた。そして今、もし彼らにそうできるとしたら、彼らは私たちを会堂から追放しようとするであろう。あたかも彼らこそその正当な所有者であるかのように。また私たちが侵入者ででもあるかのように。そのようにして彼らは悪化の一途を辿ってきた。もしあなたが、この時代の標準的な神学書と、ホイットフィールドの時代の標準的な神学書とを読み合わせるとしたら、あなたは、二者がいかなる可能性によっても並び立たないことに気づくであろう。私たちは「新神学」を有している。新神学? 何と、それは学ではありえない。それは神を全く完全に放逐し、人間を王座に据えた学である。それは人間の教理であって、永遠の神の教理ではないからである。私たちは、この国の真中において、もう一度健全な教理の復興を必要としている。

 また《教会》全体が必要としているのは、おそらく、その教会員たちにおける徹底的な真剣さの復興であろう。あなたがたはまだ、主の闘いを戦える者たちにはなっていない。あなたがたには、かつては神の子どもたちが有していたような真剣さ、熱心さがない。あなたの先祖たちは、樫のごとき人々であった。あなたがたは柳のような者たちである。私たちの信徒たち、その多くはいかなる人々であろうか? 強固な教理を有する人とともにいるときは、教理において強固であるが、他の人に近づきになるとぐらつき、つき合う相手を変えるたびに変節する。彼らはあるときはある者であり、別のときには別の者である。彼らは火刑柱に赴いて死ぬような人々ではない。日ごとに死ぬすべをわきまえていて、いつでも死ぬ覚悟ができている人々ではない。

 私たちの祈祷会を眺めてみるがいい。そこここに輝かしい例外はあるが、中に入ってみるがいい。そこには六名の老女がいる。男性会員のうち、二、三回以上も祈りにやって来るような者はほとんどいない。彼らを眺めてみるがいい。それは祈祷会と呼ばれているが、過少会と呼ばれるべきであろう。それほど出席者が過少であるからには。そして、私たちの交わり会に、あるいは、私たちが主を恐れる者たち同士が助け合えるようにと開く他のどの集会にでもやって来る人々は僅かしかいない。ひとりでも出席者があるだろうか? 私たちは、一週間のあいだに、私たちの諸会堂のいずれかにおけるそうした集会に行った人々全員の名前一覧が印刷された新聞をどこかで見てみたいものだと思う。あゝ! 愛する方々。もしそうした人々がロンドンにおける全キリスト者をなしているとしたら、会堂が1つか2つあれば、その全員をおさめられるとわかるであろう。それほど出席する人は少ないのである。私たちには、かつて有していたような真剣さがない。いのちがない。あったとしたら、私たちは、今の私たちよりも顰蹙を買っているべきである。もし私たちがずっと私たちの《主人》に対して真実な者となろうとするとしたら、私たちは、今よりもずっと卑しい形容語を投げつけられるはずである。もし私たちが神により誠実に仕えていたとしたら、物事がこれほど快適であるはずがない。私たちは《教会》をわが国の制度の1つにしつつある。――栄誉ある制度に。あゝ! ある人々は、教会が栄誉ある制度となるのは素晴らしいことだと考えている! 私が思うに、教会がこの世の目にも非常に栄誉あるものとなり始めるとき、それは、教会が正道を踏み外しているというしるしである。教会は今なお放逐されなくてはならない。今なお悪しきもの呼ばわりされなくてはならない。今なお軽蔑されなくてはならない。その主が教会に、主に誉れを帰してきたがゆえに誉れを与えてくださるその日が来るまで、そうされなくてはならない。――その現われの日に主は、この世においてすら、教会に誉れを与えてくださるであろう。

 愛する方々。あなたは教会が信仰復興を必要としているのは真実だと思うだろうか? しかりか、否か。「否」、とあなたは云う。「あなたが思うほどの程度では必要ありません。私たちの思うところ、教会は健全な状態にあります。私たちは、『昔のほうが今より良かった』[伝7:10]と泣くような輩ではありません」。そうかもしれない。あなたは私たちよりもはるかに賢く、それゆえ、私たちには目につかないほど微小な健全さのしるしを見てとれるのであろう。あなたは教会が健全な状態にあると思ってかまわない。もしそうなら、もちろんその場合、あなたは、私がこのような聖句から説教することにも、このような祈りを用いるようあなたを促すことにも共感できない。しかし、あなたがたの中には、「教会には信仰復興が必要です」、としばしば叫びがちな他の人々もいる。あなたがたにこう命じさせてほしい。自分の教役者に向かってぶつくさ云う代わりに、教会の異なる部分のあら探しをする代わりに、「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」、と叫ぶがいい。「おゝ!」、とある人は云う。「もし私たちに別な教役者がいたならば。おゝ! もし私たちが別の種類の礼拝をできたならば。おゝ! もし私たちが他の種類の説教を聞けたならば」。まるで、そうしたことがすべてであるかのように! しかし、私はこう祈る。「おゝ! あなたがすでに有している人々の心の中に主が入ってくださるように。おゝ! あなたが用いている形式を主が力で満たしてくださるように」。あなたに必要なのは、新しい仕掛けの、新しい方式ではない。あなたが有しているものに、いのちが満たされることである。線路の上には蒸気機関があり、列車を動かさなくてはならない。「別の機関を持ってこい」、とだれかが云う。「別のを。もっと別のを」。いくつもの機関が持ってこられるが、列車は微動だにしない。釜を焚き、蒸気を高めること、それがあなたに必要なことである。新品の機関ではない。教会をより良くするため私たちに必要なのは、新しい教役者でも、新しい計画でも、新しい方式でもない。多くのことが発明されてかまわないが、私たちに唯一必要なのは、すでに得ているものにいのちが吹き込まれることである。あなたの会堂に閑古鳥を鳴かせたのとまさに同じ人物、あなたの祈祷会を低調にしているのとまさに同じ人物がいてさえ、神は会堂を入口までびっしり人で一杯にし、その同じ人物に何千もの魂を与えることがおできになる。何か新しいものを求めて泣き叫んではならない。そうしたもの自体では、今あなたが有しているもの以上にうまく行くことはない。こう叫ぶがいい。「主よ、あなたのみわざを生き返らせてください!」

 私が別々の教会で注意してきたところ、教役者はまずこの工夫について考え、次にあの工夫について考える。1つの計画を試してみて、それがうまく行くと考える。それから、別の計画を試してみる。だが、それでは何にもならない。愛する方々。古い計画を守り、だが、そこにいのちが吹き込まれるように求めるがいい! 私たちは何1つ新しいものを必要とはしていない。「古い物は良い」[ルカ5:39]。――それを守り続けようではないか。しかし私たちは、古にあったいのちを必要としている。「おゝ!」、と人々は叫ぶ。「私たちには殻しかない。彼らは私たちに新しい殻を与えようとしているのだ」。否。方々。私たちは古いものを取っておくが、その殻の中にもいのちを得るであろう。私たちは古いものを得るであろうが、古のいのちを得なくてはならない。さもなければ、そんな古いものなど投げ捨てるであろう。おゝ! 神が私たちにいのちを与えてくださるように。教会には清新な信仰復興が必要である。おゝ! ホイットフィールドが力をもって説教した、あのカンバスラングの日々が再び来ればどんなによいことか。おゝ! この場所で、ホイットフィールドの説教の下にあって、何百人もの人々が回心したこともある日々が来ればどんなによいことか。たった一度の講話の下で、二千人もの人々が回心したという、信憑性の高い個々の事例が知られているのである。おゝ! 神のことばを受け取ろうとして目がこらされ、耳がすまされる時代、人々がいのちのことばを、真実そうである通りに、まさに神が死に行く魂にお与えになるいのちの水として飲む時代が来ればどんなによいことか! おゝ! 深い感情の時代――深く、徹底的な真剣さの時代が来ればどんなによいことか! それを神に願おうではないか。そのため神に懇願しようではないか。ことによると、神は、世を再び揺り動かすことになる人物を、あるいは人物たちをどこかに有しておられるのかもしれない。ことによると、今でさえ、神は、人々に強大な影響力を注ごうとしておられるのかもしれない。それによって教会は、この時代にあっても、過ぎにしいかなる時代にも負けないくらい素晴らしいものとなるであろう。神がそれを授けてくださるように。キリストのゆえに! アーメン。

 

霊的信仰復興――教会の必要[了]

HOME | TOP | 目次