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あなたはわたしを愛しますか

NO. 117

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1856年9月7日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』イエスは再び彼に言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい」。――ヨハ21:15-17


 復活後のキリストは、十字架につく前のキリストと、何と酷似しておられることか! 墓に横たえられ、死者の領域に下り、もと来た道を戻って生者の国に帰ってきたとはいえ、いかに主はそのふるまい方において変わりなく、いかに元通りの気性をしておられることか。主の受難も、死も、復活も、神としての主のご属性に影響を及ぼすことができなかったのと同じく、人としての主のご性格を変えることはできなかった。主は永遠に同じイエスであられる。そして、ご自分の弟子たちの前に再び現われたとき、主はその親切なふるまい方を何1つ捨ててはおらず、彼らの幸福に対する関心をひとかけらも失ってはおられなかった。主は彼らに以前と全く変わらない優しさで語りかけ、彼らをわたしの子どもたち、わたしの友と呼ばれた。彼らの現世的な状態を主は心にとめておられた。主は、「子どもたちよ。食べる物がありませんね」、と云われたからである[ヨハ21:5]。そして主は、確かに彼らの霊的状態についても全く同じように気を配っておられた。というのも主は、湖における大漁によって魚を与え(これは、主がこの時のために創造しておられたものかもしれない)、彼らのからだの必要を満たした後で、彼らの魂の健康と豊かさを尋ねたからである。その手始めが、最も病んだ状態にあると思われるであろう者、自分の《主人》を三度否んでは、激しく泣いた者――すなわち、シモン・ペテロであった。「ヨハネの子シモン」、とイエスは云われた。「あなたはわたしを愛しますか」。

 前置きはつけずに――というのも、今朝はほとんど時間がとれないからであるが(願わくは神が、この時を十分に活用させてくださるように!)――私たちは3つのことに言及したいと思う。第一に、1つの厳粛な質問である。――「あなたはわたしを愛しますか」。第二に、1つの慎み深い答えである。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」。そして第三に、その事実の証明として要求された1つのことである。「イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」 あるいは、また、「わたしの羊を飼いなさい」。

 I. まず第一に、ここには1つの《厳粛な質問》がある。私たちの《救い主》がペテロに投げかけた質問、ご自分がその答えを知らなかったためではなく――というのも、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」、とペテロが云った通りだからである。――、ペテロの吟味のための質問である。キリスト者が自分の傷をよく探ることは、特に不潔な罪の後では良いことである。その人が自分で自分を吟味することは正しい。というのも、罪は深刻な疑念を引き起こすものであり、キリスト者が自分の霊的状態に関する疑念をいだくとき、それを自己吟味のために用いずに一時でも生きるのは間違っているからである。自己吟味は、あらゆるキリスト者の日ごとの習慣であるべきであり、不断に実践されるべきであるとはいえ、ことに罪を犯した後に行なわれるべきである。私は云うが、私たちの《救い主》がペテロにこう質問なさったのは、彼が自分で自分にこの質問を問いかけるためであった。こういうわけで今朝、この質問は私たちにも自らの心に問いかけることを求めていると思う。では、あらゆる人は自分の《救い主》の御名によって、自らの益のためにこう尋ねるがいい。「あなたは主を愛しているか? 《救い主》を愛しているか? 永久にほむべき《贖い主》を愛しているか?」

 この質問がいかなるものであるかに注意するがいい。これは、ペテロの愛に関する質問であった。主は、「あなたはわたしをあがめますか? わたしを崇拝しますか?」、とは仰せにならなかった。それは、彼の信仰に関する質問でさえなかった。主は、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを信じますか」、とは云われなかった。むしろ主は別の質問、「あなたはわたしを愛しますか」、をなさった。思うにこれは、愛こそ敬神の念を示す最上の証拠だからである。愛はあらゆる恵みの中で最も輝かしいものである。こういうわけで、それは最上の証拠となるのである。私は愛が信仰に優越しているとは思わない。信仰は私たちの救いの基礎であると信ずる。私が思うに信仰は母なる恵みである。そして、愛はそこから生じている。私の信ずるところ信仰は根となる恵みであり、愛はそこから育つのである。とはいえ、信仰はその輝きにおいては、愛と肩を並べる証拠ではない。信仰は、もし私たちがそれを有しているとしたら、私たちが神の子どもたちであるという確かで確実なしるしであり、他の恵みもみな確かで確実なしるしである。しかし、その多くは他の人々の目にはつかない。愛は他の何にもまして強く輝く。もし私が自分の心の中に神への真の恐れを有しているとしたら、そのとき私は神の子どもである。だが、恐れはずっとおぼろな恵みであり、愛が有しているような栄光の光輪を有していない。それで愛は、最上の証拠の1つとなり、私たちが《救い主》に対して生きた者であるかどうかを見分けるための最も容易なしるしの1つとなっているのである。愛に欠けている者は、他のどの恵みも、その人が愛に欠けている度合に応じて欠いているに違いない。もし愛が小さければ、それは信仰が小さいしるしだと思う。というのも、多く信ずる者は多く愛するからである。もし愛が僅かであれば、恐れは僅かであろう。神のための勇気は僅かであろう。そこにいかなる恵みがあるにせよ、信仰がそれらすべての根であるとはいえ、それらは愛によってごく甘やかに決されるものであって、もし愛が弱ければ、他のすべての恵みは確実きわまりなく同じように弱いものであろう。それで私たちの主はペテロに、「あなたはわたしを愛しますか」、と質問なさったたのである。

 さらにまた、主がペテロの行ないについては何も尋ねておられないことに注意するがいい。主はこうは仰せにならなかった。「ヨハネの子シモン。あなたはどれだけ多く泣きましたか? どれだけしばしば、あなたの大罪ゆえに悔い改めの苦行を積みましたか? あなたがわたしに加えた侮辱のゆえに、また、あなたが、牢であろうと死であろうと従っていくと大見得を切った舌の根も渇かぬうちに、自分の主との関係を否認して口にした、あのひどい呪いや悪態のゆえに、どれだけしばしば膝まずいてわたしの手からあわれみを求めましたか?」 否。イエスが、「あなたはわたしを愛しますか」、と云われたのは、彼の行ないについてではなく、彼の心の状態についてであった。それは私たちにこう教えるためである。すなわち、行ないは確かに真摯な愛について来るものではあるが、愛は行ないにまさっており、愛のない行ないは持つに値する証拠ではない、ということである。私たちは多少涙を流すかもしれない。だが、神への愛がないとしたら、それは神が受け入れてくださる涙ではない。私たちは多少は何かを行なうかもしれない。だが、神ご自身への愛から出たものでないとしたら、それは受け入れられる行ないではない。私たちは非常に多くの外的な、儀式的な宗教的お勤めを行なうかもしれない。だが、愛が根底になければ、こうしたすべてのことは空しく、無益である。それで、「あなたはわたしを愛しますか」、という質問は、まさに死命に関わる問いなのである。外的なふるまいにしか関わっていない質問などよりはるかにそうである。それは、心そのものに入り込む質問であり、心全体を1つの問いのもとに引き出すようなしかたで入り込む質問なのである。というのも、もし愛が間違っているなら、他のすべてが間違っているからである。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」。

 あゝ! 愛する方々。私たちには、この質問を自分に投げかけるべき非常に大きな理由がある。もし私たちの《救い主》が私たちと同じような人間でしかなかったとしたら、主は私たちが少しでも主を愛しているのかどうか、しばしば疑って当然であろう。「あなたはわたしを愛しますか」。この質問を発するべき非常に大きな理由となる、種々雑多な事がらを、ここであなたに思い起こさせてほしい。私は、単に先週一週間のことだけを扱うことにしよう。さあ、私の兄弟キリスト者よ。あなた自身のふるまいを眺めてみるがいい。あなたのもろもろの罪は、あなたが本当にあなたの《主人》を愛しているのかどうかを、あなたに疑わせないだろうか? さあ、この一週間のもろもろの罪を調べてみるがいい。あなたが怒りにまかせた言葉を発し、むっとした顔つきをしていたとき、あなたの主はあなたに触れて、「あなたはわたしを愛しますか」、と仰せにならなかっただろうか? あなたが、自分の良心でも主の戒めにそぐわないと重々承知しているはずの、これこれのことを行なっていたとき、主は、「あなたはわたしを愛しますか」、と仰せにならなかっただろうか? この一週間の仕事で何かうまく行かないことがあったためにぶつくさ云ったこと、またそうさせた神の摂理について悪口を云っていたことを、あなたは思い出せないだろうか? おゝ、愛に満ちた《救い主》は、そのよどんだ眼差しにあわれみを浮かべて、あなたにこう云われなかっただろうか? 「何と、そのように云うのか? あなたはわたしを愛しているのか?」 あなたが犯してきた、あれこれの罪のことをわざわざ言及する必要はないであろう。私は確信しているが、あなたは罪を犯してきた。自分を疑うに足る根拠となる罪を犯してきた。そうせずにいられるのは、あなたがたがこの事実にしがみついているからにほかならない。すなわち、主に対するあなたの愛ではなく、あなたに対する主の愛こそ、あなたが弟子である証印だ、ということである。おゝ、あなたは心の中でこう考えはしないだろうか? 「もし私がもっと主を愛していたとしたら、私はあれほど多くの罪を犯しただろうか? そして、おゝ、私は、あれほど多くの主の命令を破っておきながら、主を愛しているなどということがありえるだろうか? この世で私は、しかるべきほどに、主の輝かしいかたちを反映してきただろうか? この一週間のあいだ、私は、魂を主のものとして獲得するために費やすべき多くの時間を浪費してこなかっただろうか? 私は、真剣な祈りのうちに費やすべき多くの貴重な瞬間を、軽佻浮薄な会話のために投げ捨ててこなかっただろうか? おゝ! たといそれが不潔な言葉ではなかったとしても(そう私は思いたいが)、それでも聞く者にとって恵みを施すようなものではない、いかに多くの言葉を私は発してきたことだろうか? おゝ、いかに多くの愚行に私はふけってきたことか。いかに多くの罪を目こぼししてきたことか。いかに主の御国の進展にとって不面目なことをしてきたことか。いかに、主を愛するという自分の告白に何かしら泥を塗ってきたことか」。おゝ、愛する方々。こうした問いを自分に発して、こう云うがいい。「これが、あなたの友への忠誠のあらわれなのか?」[IIサム16:17]

 しかし、私はこの一週間のあいだ、あなたが世に対してはほとんど公然とは罪を犯さなかったものであると、あるいは、あなた自身の評価においてさえ、公然たる犯罪行為については、ほとんど関わりがなかったものであると希望したい。しかし、ここで別の質問を投げかけさせてほしい。あなたの世俗性によって、あなたは疑いをいだかされないだろうか? 月曜日の朝から土曜日の最後の一時間まで、いかにあなたはこの世のことに没頭してきただろうか? あなたには主について考える時間がほとんどなかった。あなたは、自分の貨物のための空間を作ろうとして、いかなる片隅にあなたのイエスを押し込めてきただろうか? あなたは、自分の帳簿や取引日記帳の余裕を作るために、いかに短い五分間の中に主を片づけてきただろうか? いかに僅かな時間しかあなたは主に与えなかったことか! あなたは、店のことで、農場のことで、取引のことで、頭を一杯にしてきた。そして、主と交わるための時間はほとんどなかった! さあ、ただ考えてみるがいい! この一週間のうちのどれか一日を思い出してみるがいい。あなたは、自分の魂が常に主への熱烈な願いとともに上に向かっていたと云えるだろうか? あなたは、この一週間のあいだ、鹿があえぐように、あなたの《救い主》を求めてあえいでいただろうか? 否。ことによると、主について全く考えもしないまま丸一日を過ごしてしまったことがあったかもしれない。そしてあなたは、こう自分を叱責することしかできなかった。「いかにして私はきょうキリストを忘れていられたのだろうか? 私は主のご人格を眺めていなかった。主とともに歩まなかった。エノクがしていたようにしなかった! 私は、主が私とともに店に入ろうとしてくださることを知っていた。主が、私とともに店に立っていてくださる、ほむべきキリストであると知っていた。主が、私とともに市場を歩いてくださる、喜ばしい主イエスであることを知っていた! だが私は主を家に置き去りにしてきてしまった。そして、一日中主のことを忘れていた」。確かに、確かに、愛する方々。あなたが自分の世俗性を思い出すとき、あなたは自分についてこう云うに違いない。「おゝ、主よ。あなたはこうお尋ねになって当然です。『あなたはわたしを愛しますか』、と」。

 さらにまた考えるがいい。私は切に願う。あなたは、贖いのふたの前で、この一週間、いかに冷淡であったことか。あなたはそこにいた。というのも、あなたはそれなしでは生きられないからである。あなたは、自分の心を祈りによって差し上げた。というのも、あなたはキリスト者であり、祈りは、あなたの呼吸と同じくらいあなたにとって必要だからである。しかし、おゝ! いかにあわれな、喘息めいた呼吸によってあなたは、この一週間のあいだ生きてきたことか! いかに僅かしかあなたは呼吸しなかったことか。月曜日の朝のあなたの祈りが、いかにせわしないものだったか覚えているだろうか? 火曜日の夜、いかにあなたはせかせかしていただろうか? 別の折にあなたが膝まずいていたとき、自分の心がいかにどんよりしていたか、思い起こせるではないだろうか? あなたはこの一週間に、ほとんど全く格闘しなかったかもしれない。ほとんど苦悶することがなかったかもしれない。あなたは力ある祈りをほとんどしなかった。祭壇の角をほとんどつかまなかった。遠く離れて立ち、祭壇の煙を見はしたが、その角をつかみはしなかった。さあ、自分に尋ねるがいい。あなたの祈りによって、あなたは疑わされないだろうか? 私は、あなたがた全員の前で正直に云うが、私自身の祈りはしばしば私を疑わせる。これほど私を深刻に不安な状態にさせるものはない。私が祈ろうと労苦するとき、――おゝ! あの悪辣な悪魔よ!――彼は私を祈りからそらそうとして、種々の想念をごまんと注ぎ込むのである。そして、私が祈ろうとし、祈らなくてはならないとき、おゝ、何と燃える熱烈な願望がそこには欠落していることか。また、私が神のもとへ真っ直ぐに近づきたいとき、私が自分の目から悔悟の涙をふりしぼり、祝福を信じて、つかみとりたいと願うとき、おゝ、何と小さな信仰、何と小さな悔悟しかそこにはないことか! まことに、私は他の何にもまして祈りによって不信仰にさせられると思ってきた。私は自分のもろもろの罪を乗り越えて信ずることはできたが、時として、自分の種々の祈りを乗り越えては信ずることがほとんどできないことがある。――というのも、おゝ! 祈りとは、冷たくなるときには、いかに冷たくなることか! 冷たくなると悪くなるあらゆるものの中でも、祈りは最悪のものだと思う。というのも、それはまさにまるで下らぬ模倣となり、心を暖める代わりに、以前にまして冷え冷えとさせるからである。また、心のいのちと霊とを窒息させるかにすら思われ、果たしてそれが本当に天の世継ぎであるのか、本当にキリストに受け入れられているのか、という疑いで満たすからである。おゝ! あなたの冷たい祈りを見るがいい。キリスト者よ。そして、あなたの《救い主》が、この質問を非常に厳粛に問われることが正しくないか云うがいい。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」。

 しかし、やはりしばし待て。あなたが思い巡らすべきことを、もう一言だけ語ろう。ことによると、あなたは多くの祈りを積んできたかもしれない。そして、それは主の臨在による清新な時であったかもしれない。だがしかし、もしかするとあなたは、この一週間のあいだ、祈りよりもさらにすぐれた、もう1つの敬虔の実践において、自分に行なえたはずのところまで達してこなかったかもしれない。――それは、キリストと交わり、キリストにあずかることである。おゝ! 愛する方々。あなたは、この一週間に、りんごの木の下に行き、その陰に座りたいと切に望む[雅2:3]ことがほとんどなかった。この一週間に、酒宴の席に行き、あなたの上に翻る愛の旗じるしを感ずる[雅2:4]ことがほとんどなかった。さあ、とくと考えるがいい。この一週間で、あなたは何と僅かしか、あなたの主のお目にかかっていないことか! ことによると、主はその時間の大部分の間、不在であられたかもしれない。だのに、あなたは呻き苦しまなかっただろうか? 泣かなかっただろうか? 主をあえぎ求めなかっただろうか? ならば確かに、あなたは、しかるべきほどには主を愛してこなかったに違いない。さもなければ、あなたは主の不在を忍べなかったであろう。もしあなたに主への愛情があったなら、――その主を求める聖められた霊があったなら――、これを黙って我慢などできなかったであろう。あなたは、この一週間のあいだに一度は、主からの甘やかな訪問を受けた。では、なぜあなたは主を去らせたのか? なぜあなたは主を無理にでも自分のもとにとどまらせなかったのか? なぜ主の衣のふさをつかんで、こう云わなかったのか。「なぜあなたは、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか?[エレ14:8] おゝ! わが主よ。私のもとにとどまってください。私はあなたを去らせません。私とともにいるよう、お引き止めします。あなたを行かせることはできません。私はあなたを愛しています。そして、今晩も、次の日も、無理にでもあなたをいさせましょう。あなたを私のもとにとどめておけるだけ、私はあなたを行かせません」。しかし、否。あなたは愚かであった。あなたは主を行かせてしまった。おゝ! 魂よ。なぜあなたは主の腕をつかんで、「私はあなたを行かせません」、と云わなかったのか。しかし、あなたは、主をほんの軽くつかんでいただけであった。主がさっさと出かけるのを許してしまった。ならば主は向き直って、シモンに云われたように、こうあなたに仰せになって当然であったろう。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」。

 さて、私があなたにこうしたすべての質問を発してきたのは、私が自分でもこうした問いを自問してきたからである。私は、自分がこうした質問のほとんどすべてに対して、こう答えなくてはならないのを感じている。「主よ。私は、自分で自分にこの質問を発するべき大きな理由があります」。そして、あなたがたの中のほとんどの人々は、もし自分に正直になるとしたら、同じことを云うであろうと思う。私は決して、「自分は、自分がキリストを愛していると知っています。今まで一度もそのことを疑ったことはありません」、などと云う人に賛成しない。なぜなら、私たちはしばしば、自分を疑うべき理由を有しており、ある信仰者が強い信仰を持っているということは、キリストに対する自分の愛を強く信じているということではないからである。――それは、自分に対するキリストの愛を強く信ずるということにほかならない。いかなる信仰であれ、キリストに対する自らの愛を年がら年中信じているものではない。強い信仰には、その数々の争闘があり、真の信仰者はしばしば、自分自身の種々の感情と真っ向から組み打つものである。主よ。もし私が一度もあなたを愛したことがないとしても、それにもかかわらず、――もし私が聖徒でなく、私が罪人であるとしても、――主よ。それでも私は信じます。弟子は、何の愛を感じないときも、信ずることができる。というのも、そうした人々はキリストがその魂を愛しておられると信じることができるからである。また、自分に何の証拠がないときも、その人は証拠なしにキリストのもとに来て、ありのままの自分で、キリストをつかむことができる。むきだしの信仰をもって、それでも主を堅くつかむことができる。自分で自分の種々のしるしを見ることができなくとも、――暗闇の中を歩き、何の光もなくとも、――それでもその人は主に信頼し、自分の神にすがり続けるであろう。――だが、私たちが主を愛していることを、いついかなるときにも確信しているということは、全くの別物である。これについて、私たちは絶えず自分に問いかけている必要がある。そして、この上もない細心の注意を払って、自分の種々の証拠の性質と程度との両方を吟味する必要がある。

 II. さてこれから私は第二のことに至る。《1つの慎み深い答え》である。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」。シモンは非常に良い答えを返した。そもそもイエスが彼に問われたのは、果たして彼が、他の人たち以上に主を愛するかどうかであった。シモンはそうとは云わなかった。かつての彼は、いささか高慢であった。――いささか以上に高慢であった。――そして、自分は他の弟子たちにまさる者だと自負していた。しかし、このとき彼は、その質問を避けた。自分は他の人々以上に愛していると云おうとはしなかった。そして、私が思うに、いかなる愛する心も、自分が神の子どもたちの最も小さな者にまさって愛しているなどとは考えないに違いない。私の信ずるところ、人は恵みにおいて高くなればなるほど、自己への評価は低くなるものであり、その人はイエスへの愛という天来の恵みにおいて、他人よりもまさっていると主張することは絶対にないものである。しかし、シモン・ペテロがいかに答えているかに注目するがいい。彼は、自分の愛の量について答えるのではなく、その質について答えている。彼は、自分がキリストを愛していると断言したかったであろうが、自分が他の人々以上にキリストを愛していると云いたくはなかった。「主よ。私は自分がどれだけあなたを愛しているか云うことはできません。ですが、あなたは一切のことをご存じです。あなたは、私が本当にあなたを愛していることを知っておいでになります。そこまでは私は断言できます。ですが私の愛の量について私は多くを語れません」。

 しかし、やはりここで注目してほしいのは、ペテロが答えた慎み深いしかたである。私たちの中のある者らは、もし自分がこのように質問されていたなら、愚かな答え方をしていたであろう。私たちはこう云っていたであろう。「主よ。私は先週、あなたのために何度も説教しました。主よ。先週は、自分の財を貧しい人たちに分配しました。あなたの御名はほむべきかな。あなたは私に、へりくだって、信仰によって、正直に歩む恵みをくださいました。それゆえ、主よ。私は、『あなたを愛しています』、と云えると思います」。私たちは、自分の良いわざを、自分の愛の証拠として、私たちの《主人》の前に持ち出すであろう。私たちは、「主よ。あなたは、この一週間のあいだ、私を見ておられました」、と云っていたであろう。昔ネヘミヤが云ったように[ネヘ13:14、22、31]こう云っていたであろう。「私の良いわざを忘れないでください。おゝ、主よ。感謝します。それらがあなたの賜物であったと私は知っています。ですが私は、それらが私の愛の証拠であると思います」。もし私たちが、私たちの同胞である人間から問われ、その人から、「あなたはいつもあなたの《救い主》を愛しているわけではありませんね」、と云われたのだとしたら、それは非常に良い答えであったろう。だが、私たちが《主人》にそう申し上げるのは愚かなことである。ペテロの答えは賢明であった。「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」。知っての通り、もし彼が自分の行ないに訴えていたとしたら、《主人》はこうペテロに云えたであろう。「しかり。あなたは説教するかもしれないが、それでもわたしを愛していないことがありえる。それなりのしかたで祈るかもしれないが、それでもわたしを愛していないことがありえる。こうしたすべての行ないをしているかもしれないが、それでもわたしへの愛を全く有していないことがありえる。わたしは決してあなたに、あなたの愛の証拠は何か、と尋ねたのではない。わたしはあなたに、それが事実かどうか尋ねたのだ」。十中八九、この場にいる愛する方々はみな、私が示唆したようなしかたでは答えないであろう。だが、そうした人々はこう云ったであろう。「主よ。あなたを愛するですって? 何と、私の心はみな、あなたに対して燃え立っています。私は、あなたのためなら、牢に入ることも、死ぬこともできるように感じています! あなたを思うと、心が至福でうっとりとすることがあります。また、あなたがいなくなると、おゝ、主よ。私は、つがいを失った鳩のように嘆き、泣き叫びます。そうです。私は、あなたを愛しているのを感じます。おゝ、私のキリストよ」。しかし、それは非常に愚かなことであろう。なぜなら、私たちはしばしば自分自身の感情の中で喜ぶとはいえ――そうした感情は喜ばしいものであるが――、それらを私たちの主に訴えても役に立たないからである。というのも、主はこうお答えになれるからである。「あゝ! あなたはわたしの名を口にしただけで喜ばしくなると感じるのか。だが、疑いもなく多くの惑わされた者もそれと同じである。なぜなら、そうした者らには想像上の信仰があり、キリストに対する架空の希望があるからだ。それゆえ、キリストの名は、そうした者をも喜ばせるように思われるのだ。あなたは云う。『あなたがいないときには、物憂く感じてきました』、と。それは、天性による種々の状況によって説明がつくかもしれない。あなたは、ことによると、頭痛か何か他の病を得ていたのかもしれない。『しかし』、とあなたは云う。『私は、主が臨在なさるときには幸福のあまり死んでもかまわないと感じるほどなのです』。あゝ! そのようなしかたで、ペテロは何度も語っていたのだ。だが、彼が自分の感情を頼りにしたとき、彼は悲しい大失敗を犯した。というのも彼は、呪いと悪態とともに自分の主を三度も否んだとき、キリストがいなければ罪に沈み込んでしまっていたであろう。その恵みがなかったとしたら、永遠に自分の魂を罪に定めていたであろう」。しかし、否。ペテロは賢明であった。彼は自分の心持ちや感情を持ち出すことも、自分の種々の証拠を持ち出すこともしなかった。それらがそれ自体としては良いものであっても、彼はキリストの前にそれらを持って来ることはしなかった。むしろ彼は、こう云うかのようであった。「主よ。私はあなたの全知に訴えます。私は、あなたに、私の心の容積が、その覆いにこれこれのしるしがついているからといって、これこれの物質を含んでいるはずだとあなたに告げようとは思いません。というのも、主よ。あなたはその中身を読みとることがおできになるからです。それゆえ私はあなたに、その題名が何かをお告げすることも、その内容物の目盛りをあなたに向かって読み上げることも必要ありません。主よ。あなたは私があなたを愛していることをご存じです」。

 さて、愛する方々。今朝、私たちは、この質問に対してそのような答えを返せるだろうか? もしキリストがこの場に来られたとしたら、――もしキリストが今こうした通路を歩き、その会衆席のそばにおられるとしたら、私たちは自分たちがみな主を愛していることを、主ご自身の神聖な《全知》に――私たちの心を全く誤りなくお知りの主の知識に――訴えることができるだろうか? 偽善者と真のキリスト者との違いを試せる点が1つある。もしあなたが偽善者だとしたら、あなたはこう云うであろう。「主よ。私の教役者は、私があなたを愛していることを知っています。主よ。執事たちは、私があなたを愛していることを知っています。彼らは私がそうしていると考えています。というのも、彼らは私に入場券を与えてくれるからです。教会員たちは、私があなたを愛していることを知っています。というのも、彼らは私が聖餐卓に着くのを見ているからです。私の友人たちは、私があなたを愛していることを知っています。というのも、彼らはしばしば私があなたについて語るのを聞いているからです」。しかし、あなたは、「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」、と云うことはできないであろう。あなた自身の心が証言する通り、あなたの秘密の行ないはあなたの告白が偽りであることを示している。というのも、あなたは密室での祈りをしていないのに、公の祈りを二十分も唱えることができるからである。あなたは、キリストの御国の進展のためには、けちくさい、しみったれた献金しかしていないが、あなたは、自分の名前を見せびらかすことができる。あなたは怒りっぽく、短気な人間である。だが神の家にやって来ると、敬虔そうに鼻を鳴らし、勿体ぶった口調の偽善者のように語り、あたかもあなたが非常に紳士的な人間であり、一度も怒りを発したことなどないかのように見える。あなたは、自分の《造り主》の御名をみだりに口にすることができるが、他の人がそうしているのを聞くなら、その人を全く容赦しないであろう。あなたは、非常に敬虔なふりをしているが、しかし、もし人々が、あなたののどに引っかかっているやもめの家のことを知り、あなたが孤児から取り上げた相続財産のことを知っていたなら、あなたは自分の良いわざのために喇叭を吹くのをやめるであろう。あなた自身の心が、あなたに、自分は神の御前で偽善者だと告げるはずである。しかし、あなたがた、おゝ、真摯なキリスト者よ。あなたは、あなたの主の質問を歓迎し、聖なる恐れと、恵み深い確信とをもって、答えることができよう。しかり。あなたは、この質問を歓迎するであろう。このような質問は、決してユダには投げかけられはしなかった。主はペテロをことのほか愛し、それゆえにこそ、ペテロについて執拗であられた。さもなければ、主は決して彼の愛着をこのように吟味しようとはなさらなかったであろう。そして、このようなしかたで、主はしばしば、ご自分が切に愛する者たちの愛情に訴えなさるのである。同じように、この応答もあなたのために記録されている。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです」。あなたは、たとい人々から蔑まれていても、あなたの教役者からさえ拒絶されていても、執事たちが近寄って来なくとも、一部の人々から軽侮されていても、上を見上げることができるだろうか?――あなたは上を見上げて、「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」、と云えるではないだろうか? このことを自慢たらたらに虚勢を張って行なってはならないが、もしあなたが真摯にそれを行なえるとしたら、幸福になるがいい。神をほめたえるがいい。神はあなたに、《救い主》への真摯な愛を与えておられるのである。そして神に、それを火花から炎へと、一粒から一山へと増し加えてくださるように願うがいい。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」。

 III. さて今ここには、1つの《証明が要求されている》。――「わたしの小羊を飼いなさい。わたしの羊を飼いなさい」。これがペテロの証明であった。必ずしもそれは、私たちが自分の愛を示すしかたであるとは限らない。異なる弟子たちには異なる道がある。子羊を飼う資格がない者たちもいる。というのも、そうした人々は自らも小さな子羊でしかないからである。ある人々は、羊を飼うことができないであろう。というのも、彼らは、現在のところは、遠くを見渡せず、信仰において弱く、人を教える資格など全然ないからである。しかしながら、彼らには、《救い主》に対する自分の愛を示す他の手段がある。この件について、二言三言語らせてほしい。

 「あなたはわたしを愛しますか」。ならば、あなたが示せる最上の証拠の1つは、わたしの子羊を飼うことである。わたしの周囲には、主の名を愛し、恐れているふたりか三人の小さな子どもたちがいるだろうか? もしあなたが、真に愛する者であることを示す行為を何かしたければ、行って彼らを飼うがいい。わたしが自分の血で買い取った小さな者たちが何人か、子どもの学級にいるだろうか? あなたは、自分が本当にわたしのものである証拠となる何かを行ないたいだろうか? ならば、長老たちとともに座り、神殿の中で議論していてはならない。わたしは自分ではそうしていた[ルカ2:46]。だが、あなたは行くがいい。そして、幼いみなしごたちとともに座り、彼らに御国への道を教えるがいい。「わたしの子羊を飼いなさい」。

 愛する方々。私は最近、あることで思い悩みを感じている。それは、私たちの教会政治が聖書的ではない、ということである。それなりに聖書的ではあるが、聖書全体に即したものではない。また私たちは、私たちの諸教会で実践されるべき多くのすぐれた事がらを実践していない。私たちは、自分たちの真中に、非常に大勢の年若い人々を受け入れている。古い時代の教会には、いわゆる教理問答学級があった。――私の信ずるところ、今もそうした学級があるべきである。私の信ずるところ、《日曜学校》は聖書の中にある。そして、安息日の午後には、この教会の年若い人々の学級があるべきだと思う。――すでに教会員になった者たちが、年長の教会員の何人かによって教えられる場があるべきだと思う。近年の私たちは、子羊たちを与えられると、それを単に牧草地でさまよわせるにまかせ、彼らを放置しておく。この教会には、百名以上の年若い人々がいる。彼らは教会員ではあるが、決して放置されているべきではない。私たちに長老たちがいるとしたら、長老たちの何人かが、また、長老として叙任されるべき何人かの人々が、彼らをさらに教えること、信仰において指導すること、そして彼らをイエス・キリストの真理によって固くしっかりと守ることを務めとすべきである。使徒たちの時代の諸教会においてそうであったように、もし私たちに長老たちがいたならば、このことは、ある程度まで、手を打てるであろう。しかし、いま私たちの執事たちの手はふさがっている。彼らは長老職の働きの多くを行なっている。だが、彼らは今している以上のことを行なうことはできない。彼らはすでに非常に多くの労苦をかかえているからである。私が望むのは、この場にいる、神から賜物を与えられており、時間を有する何名かの人々が、自分たちの午後を費やして、彼らの周囲に住んでいる人々のための学級、彼らの年若い兄弟たちのための学級を引き受けること、またそうした人々の自宅を尋ね、祈りと敬虔な指導を行なうことである。そのようにして、群れの子羊たちが養われることである。神の御助けによって、私は羊の世話をするであろう。私は、神の下にあって、自分にできる限り、彼らを飼うよう努力し、彼らに福音を宣べ伝えるであろう。向こう側にいるその人は、信仰において年を重ね、信仰において強くなっており、子羊たちが必要とするような注意深い、丹念な養いを必要としていない。しかし、私たちの真中にいる、多くの健全で敬虔な魂は、羊たちと同じくらい《救い主》を愛している。だが、私がしばしば彼らから耳にしている不平は、こうである。「おゝ! 先生。私は先生の教会に加わりました。私は、みんなが私にとっては兄弟姉妹だと思っていました。私は彼らに話しかけることができ、彼らは私に教えてくれ、親切にしてくれると思っていました。おゝ! 先生。私は来ましたが、だれも私に話しかけてくれません」。私は云う。「なぜ自分から最初に彼らに話しかけないのです?」 「おゝ!」、と彼らは答える。「私は、そうすることを好まないのです」。よろしい。彼らは好むべきであった。それは重々承知の上である。だが、もし私たちが子羊たちを養う何らかの手段を有していたとしたら、それは、私たちの《救い主》に対しても、世に対しても、私たちが本当に主に従っていこうと努力していることを証明する良いしかたであったであろう。私は、友人たちの何人かがこの示唆を受け取ることを希望する。そして、もし、役職についている私たちの兄弟たちが、私と協力して、そのようなしかたで何かをしようと努力するとしたら、それはキリストに対する彼らの愛の証明として決して小さなことではないと思う。「わたしの子羊を飼いなさい」、は大きな義務である。私たちは自分に可能な限り、それを実践するようにしようではないか。

 しかし、愛する方々。私たちは全員がそうすることはできない。子羊が子羊を飼うことはできない。羊が羊を適切に飼うことはできない。こうした役職に任命される者がいなくてはならない。そして、それゆえ、あなたがたの中のある人々に対しては、《救い主》の御名において、ぜひ云わせてほしい。あなたが示さなくてはならない、別の種類の証明がある。「『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです』」。ならば、あの祈祷会を心にとめておくがいい。それに出席するがいい。それが存続するように心がけ、それが地に落ちないようにするがいい。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」。あなたの召使いたちに気を配るがいい。彼らが神の家に行けるようにしてやり、彼らを信仰において指導するがいい。そこにひとりの姉妹がいる。あなたはキリストを愛しているだろうか? 「ええ。主よ」。ことによると、あなたにできる精一杯のこと――あなたのなすべき精一杯のこと――は、自分の子どもたちが主を恐れるように訓練することどまりかもしれない。神が決してあなたに行なわせようと意図しておられない種々の義務にかかずらうあまり、足元のあなた自身の葡萄畑を放り出しておくのは無益である。ただあなた自身の子どもたちに配慮するがいい。ことによると、それこそ、キリストがあなたから欲しておられる、あなたが主の子羊を飼っているという万全の証明かもしれない。あなたには、キリストから任命されたあなた自身の務めがある。そこから逃げ出すことを求めてはならない。むしろ、そこであなたの《主人》に仕えるためにできることを行なうよう努力するがいい。しかし、私は切に願う。あなたの愛を証明する何かを行なうがいい。何もせずに座りこんでいてはならない。手をこまねき、腕組みをしていてはならない。というのも、教役者を最も困惑させ、教会に最も破滅をもたらすのは、そうした人々――何もしない人々――だからである。あなたは常に過ちを見つけるのに最も急な人である。私はそれをここで注目してきた。ありとあらゆることにいちゃもんをつけるのは、何もしていない人々である。あるいは、何の役にも立っていない人々である。彼らは他のあらゆることに難癖をつける。なぜなら、自分では何も行なっていないからである。それゆえ、他の人々のあらを探す暇があるのである。おゝ、キリスト者よ。自分はキリストを愛すると云いながら、キリストのために何もしないでいるなどということをしてはならない。行なうことは、生きている良いしるしである。そして、何もしていない人は、神に対してほとんど生きていない。私たちは、自分のわざによって、自分の《主人》への愛の真摯さを証明しなくてはならない。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「ですが、私たちはほんの少ししか行なっていません」。あなたには、もう少し何かが行なえるだろうか? そうできるなら、それを行なうがいい。もしもう何もできないとしたら、神はあなたからいま以上のものはお求めにならない。あなたの能力の限度一杯まで行なうことが、あなたの最上の証拠である。だが、もしあなたにもっと多く行なえるとしたら、自分にできる範囲内の何かを差し控えておく限り、その程度に応じて、あなたがたはキリストに対する自分の愛を怪しく思う種を自らに示しているのである。自分にできることは精一杯行なうがいい。ふんだんに主に仕えるがいい。左様。あり余るほどふんだんにそうするがいい。主の御名があがめられることを求めるがいい。そして、もしあなたがキリストのために行ないすぎるようなことがあるとしたら、私のところに来て、そう告げるがいい。もしあなたがキリストのために行ないすぎることがあるとしたら、そのことを御使いたちに告げるがいい。――だが、あなたがそうすることは決してないであろう。キリストはあなたのためにご自分をおささげになった。キリストにあなた自身をささげるがいい。

 見ての通り、愛する方々。私はあなたに、自分自身の心を探るよう指示してきた。残念なことだが、あなたがたの中のある人々は私の意図を誤解するのではないかと思う。この場には、だれか、自分の愛情の沈滞ぶりを心底から嘆いている、あわれな魂がいるだろうか? ことによると、あなたは、自分にできる限りの質問を発して、だれた愛の火花を再び燃え立たせようと決意しているかもしれない。ならば、あなたにこう告げさせてほしい。愛の純粋な炎は、常にそれが最初に燃え立たせられたところで養われなくてはならない。私があなたに、自分自身を見つめるように訓戒したとき、それは単に悪を見破らせるためであった。その治療法を見いだしたければ、あなたは自分の目を、あなた自身の心にではなく、イエスのほむべき心に――《愛するお方》に――私の恵み深い主であり《主人》であるお方に――向けなくてはならない。そしてあなたが、自分の心が主に対して甘やかに満ちあふれるのを自覚したいと願っているとしたら、あなたがこのことを証明するには、あなたに対する主の優しい愛を常に感じとっていることによるしかない。こう知るのは嬉しいことだが、聖霊は愛の御霊であられる。そして、私にとって御霊のお働きを何にもまして慕わしいものとしているのは、御霊がイエスの事がらを取り上げ、それを私に示し、《救い主》の愛を私の心の中でまき散らし、ついには、それが私のあらゆる情動を取り囲み、あらゆる優しい感情の中でも最も優しいものを呼び覚ましては、私が主に結び合わされていることを明らかにし、主に仕えたいという私の強い願いを引き起こすことである。が、何か自分にとって厳格な義務であるとか、骨の折れる努力であるとか思ってはならない。むしろイエスに目を注ぎ、自分をその恵み深い魅力にゆだね、ついには、主の麗しさと尊さにうっとりするようになるがいい。しかし、あゝ! もしあなたが、あなたの示す証拠においてたるんでいるとしたら、私はあなたが聖なる交わりのうちを主とともに歩んでいないと知るであろう。

 そして、もう1つの有益な道、《主の晩餐》を活用することについて示唆させてほしい。すなわち、愛する方々。あなたが聖餐式にあずかっている間、キリストに対するあなたの献身を新たにするがいい。今朝、あなたの《主人》に自分を新しくささげるようにするがいい。今から私がこの口で云うことを、あなたの心とともに云うがいい。「おゝ! 私の尊い主イエスよ。私はあなたを本当に愛しています。あなたは私が、この時点まで、ある程度は自分をあなたにささげてきたことを知っておられます。あなたの恵みに感謝します。あなたの御名はほむべきかな。あなたは、これほど無価値なしもべの行為をも受けて入れてくださいました。主よ。私は自分がしかるべきほどには自分をあなたにささげていないことを自覚しています。多くの事がらにおいて、自分に欠けがあることを知っています。私は、よりあなたの誉れとなるような生き方をしようという決心などはしませんが、あなたが私を助けて、そのように生かしてくださるように祈ります。おゝ! 主よ。私はあなたに私の健康をささげます。私のいのちを、私の才能を、私の力を、私の持てるすべてをささげます! あなたは私を買い取られました。完全に買い取られました。ならば、主よ。今朝、私を取り上げ、御霊によってバプテスマを授けてください。あなたのほむべきお人柄への全き愛情を、いま私に感じさせてください。願わくは私が、罪を打ち負かし、魂をきよめるような愛を持てるように。――あなたのためなら危険をもものともせず、困難にも立ち向かえる愛をいだけるように。願わくは私がこれから、また永遠に、聖別されたあわれみの器となれるように。世界の基の置かれる前から、私はあなたによって選ばれていたのですから! 私が今朝願っている、あなたへの奉仕として厳粛に選んだものを、あなたの新しくする恵みによって、堅く守り抜けるように助けてください」。そして、あなたが霊的に――型として、また象徴として――キリストの血を飲み、その肉を食べるとき、私はあなたに切に願う。あなたのための主の苦悶と苦しみを厳粛に思い起こすことにより、あなたがより大きな愛をいだかされるようにするがいい。今まで以上に主への奉仕に自分をささげる者となるようにするがいい。もしそれがなされるとしたら、私たちの教会は、教会の中でも最高の教会になるであろう。もしそれが私たちによってなされ、聖霊が私たちを助けて、それを成し遂げさせてくださるなら、私たちはみな、健全で真実な者となり、主によって堅くにぎられた者となり、かの恐るべき日にも恥じる必要はなくなるであろう。

 あなたがた、キリストに一度も自分をささげたことのない人々について私は、あなたが一度も立てたことのない誓いを新たにするように、あえて命じたりはしない。どうせ守れはしない誓いを立てるよう求めもしない。ただ私はあなたのために祈るだけである。《救い主》なる神が、ご自分をあなたの心に啓示してくださり、「血による赦し 悟る」ことによって、あなたの「石の心も 溶けくだけ」るように。あなたが、主に自分をささげるよう導かれるように。そのようにすることこそ、あなたのために主がご自身をおささげになったという何よりの証拠となることを知って、あなたが自らをささげられるように。願わくは《全能の神》があなたを祝福してくださるように。家路につくあなたがたを、その祝福とともに送り出してくださるように。また、とどまるあなたがたが、神の恩顧を受け取れるように。キリストのゆえに。アーメン。

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あなたはわたしを愛しますか[了]

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