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キリストの高挙

NO. 101

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1856年11月2日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街


「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」。――ピリ2:9-11


(注:この説教は、王立サリー公園内の《音楽堂》における惨事の後で、スポルジョンが初めて語った説教である。――この事件では、スポルジョン氏の説教中に数名の悪漢たちが故意に恐慌を引き起こしたため、七名の人命が失われた。)


 私は今朝、この講壇についてしまったことを、ほとんど後悔している。なぜなら私は、あなたがたの益となるような説教が全くできないように感じているからである。私は、この二週間の休養と静養によって、あの恐ろしい災難の影響が拭い去られたものと考えていた。だが、再び同じ町に戻って来ると、また特に、ここに立って、あなたがたに語りかけようとすると、先に私を虚脱状態にしかけたのと同じ、痛ましい情動の名残を感じるのである。それゆえ、あなたがたには、私が今朝、あの厳粛な事件について全く、あるいはほとんど触れなくとも許してくれるように願いたい。私は、それと少しでも関わるような主題について説教することはできない。もし、あのすさまじい光景を記憶によみがえらさなくてはならないとしたら、私は沈黙するしかないであろう。私は、その場の真中に立つという厳粛な巡り合わせになった。だが神は、疑いもなくすべてを越えて支配しておられる。あれは、一部の人々が主張しているような、人の悪意によるものではなかったのかもしれない。ことによると、あれはただのいたずら心だったのかもしれない。――会衆をかき乱してやろうと思ってはいたかもしれないが、確かに、あれほど恐ろしい犯罪を犯し、あの不幸な人たちを殺すことになろうとは思ってもいなかったに違いない。願わくは神が、かの忌まわしい所行を扇動した者らを赦してくださるように! 私は魂の奥底から彼らを赦している。しかしながら、それで私たちは立ち止まりはしない。私たちは、決してこのことによって気をくじかれはしない。私はあそこでもう一度説教するつもりである。左様、そして神はあそこでも私たちに魂を与えてくださるであろう。サタンの帝国はますます震えるであろう。「神は私たちとともにおられる。だれが私たちに敵対できるだろうか」[ロマ8:31参照]。私が選んだ聖句は、私を慰めてくれた聖句、そして、きょうここに来る力を大いに与えてくれた聖句である。――この聖句を一瞬思い巡らしただけで、私の鬱屈した霊には途方もない慰めの力が与えられた。それは、この聖句である。――「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」――ピリピ2:9-11。

 私はこの聖句について説教しようとは思わない。ただ、私自身の精神に思い浮かんだいくつかの所見を語りたいと思う。というのも、きょうは説教することができないからである。私たちは全く学びをすることができなかった。だが私は、今朝のあなたがたには、ほんの二言三言語るだけでも受け入れてもらえるだろうと思ったのである。そして、あなたがたの愛に満ちた心は、それで勘弁してくれると思う。おゝ、神の御霊よ。あなたのしもべの弱さによって、あなたの力をあがめさせ給え。そして、たといこの者の魂が、身のうちで打ちしおれているときさえも、この者にその主の誉れを現わさせ給え。

 精神がある対象に強く固着しているときには、いかに幾多の災難によって激しく揺さぶられようとも、結局は、それが自らの住みかとして選んだ場所へと戻ってくるものである。先にあなたがたはダビデの場合に注目した。戦いの勝利が彼の戦士たちによって得られたとき、彼らは意気揚々と凱旋してきた。その間、ダビデの精神は疑いもなく、多くの動揺に悩まされたに違いない。だが、あなたは注目しなかっただろうか? いかに彼の精神がある瞬間に、自分が慕い、愛情を注ぐ的へと立ち戻ったかを。「若者アブシャロムは無事か」、と彼は云った[IIサム18:29]。あたかも彼の愛する息子が達者でありさえすれば、他に何が起ころうとも問題ではないかのようであった! 愛する方々。キリスト者もそれと同じである。種々の災厄の最中にあっても、たといそれが国々の破滅であろうと、帝国の瓦解であろうと、革命の勃発であろうと、戦争の惨禍であろうと、その人が自らに問う、また他の人々にも問う大問題は、このことである。キリストの御国は無事か? その人自身の個人的な艱難の中にあって、その人の主たる懸念は、――神の栄光は現わされるだろうか、また、神の誉れはこのことによって増し加わるだろうか、ということである。そうだとしたら、と彼は云う。たとい私がくすぶる燈心のようになるとしても、この太陽が霞みさえしなければ、私は喜ぶであろう。たといいたんだ葦のようになるとしても、もしこの宮の柱列が無傷だとしたら、私の葦がいたんでいることが何であろう? その人は、たといわが身が砕け散るような試練を耐え忍んでいる最中にあっても、キリストの御座が盤石で堅固に立っていることを思えば、また、自分の足元で大地が揺れ動いてもキリストが決して動かされることのありえない岩の上に立っておられると思えば、それが十分な慰めであることに気づくのである。こうした感情の何がしかは、私の脳裡にもよぎったものと思う。多くの激情と、心を千々に乱す悩みの中にあって、私たちの魂は、私たちが願い求める慕わしい対象へと戻っていき、結局、このように云うことが決して小さな慰めではないことを見いだしたのである。「私たちがどうなろうと大したことではない。神は主を高く上げられたのだ。主にすべての名にまさる名をお与えになったのだ。イエスの御名によって、すべてが膝をかがめるのだ」、と。

 この聖句は、天の世継ぎである者すべてに、甘やかな慰めを与えてきた。ごく手短に、その慰めを示させてほしい。真のキリスト者にとって、キリストが高く上げられたという事実そのものに、大きな慰めがある。第二のこととして、その理由の中には、決して小さくない慰めがある。「それゆえ、神は、キリストを高く上げ……ました」。これは、主のそれ以前の謙卑のゆえである。そして第三に、キリストを上げられたお方について考えることには、決して小さくない真に天来の慰めがある。「それゆえ、神は」――人々は主を蔑み、投げ捨てたが――「神は、キリストを高く上げ……ました」。

 I. まず第一に、《真のキリスト者にとっては、キリストが高く上げられたという事実そのもののうちに、非常に大きな慰めがある》。あなたがたの中の多くの人々は、霊的な事がらについては何の関係もないし、それにあずかることもできない。キリストに対する愛も、そのご栄光を求める思いも全く持っていない。それゆえ、このように私が云うとき、笑うであろう。最後にはキリストの栄光が現わされるのだということこそ、倦み疲れたキリスト者の唇にとって一瓶の気付け薬にほかならない、と云う私を笑うであろう。あなたにとってそれは慰めでも何でもない。あなたには、この聖句を魂にとって甘やかなものとする心の状態が欠けているからである。あなたにとって、そこには何の喜びもない。それは、あなたの胸を揺り動かさない。あなたの人生に何の甘やかさも与えない。なぜなら、あなたはキリストの御国に結びついておらず、真心からキリストに栄誉を与えようと求めてもいないからである。しかし、真のキリスト者の心は、種々の悲しみや誘惑によって打ちひしがれていようと、キリストが高く上げられることを思い起こすとき、躍り上がるのである。というのも、そのことに、自分自身の心を元気づけるに足るものを見いだすからである。愛する方々。ここで注意するがいい。キリスト者の性格の中には、キリストが高く上げられることを自分にとって非常な喜ばしいこととするような特徴がいくつかあるのである。最初に、その人は、自分の見るところ――また、自分でそう見るばかりでなく現実にも――キリストとの親族関係にある。それゆえ、その人は、自分の親族の成功に関心を感じている。あなたがたは、わが子が一歩ずつ富貴や名声への階段を昇っていくのを見守る父親の喜びを見たことがあるであろう。自分の娘が成人し、はなやかに美しい女性へと花開いていくとき喜びにきらめく母親の眼差しを見てとったことがあるであろう。なぜそのように関心を寄せるのかと尋ねれば、こう答えられるであろう。その子は私の息子なのです。その娘は私の娘なのです、と。彼らは、自分の小さな子どもたちの進歩を、彼らとの関係ゆえに喜んだのである。何の関係もなかったとしたら、たとい彼らが国王や、皇帝や、女王の地位についたとしても、ほとんど何の喜びも感じなかったであろう。しかし、血縁という事実から、その一歩一歩には深く、鋭敏な関心が寄せられるのである。さて、キリスト者もそれと同じである。その人は、イエス・キリストが――「地上の王たちの支配者」[黙1:5]たる、この栄えあるお方が――自分の兄弟であると感じている。その人は、確かに主を神として崇敬してはいるが、主を人なるキリストとしてもあがめている。自分の骨の骨、肉の肉としてあがめ、そのイエスとの静かで穏やかな交わりの瞬間において、こう申し上げることを喜んでいる。「おゝ、主よ。あなたは私の兄弟です」。その人は、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」[雅2:16]、と歌う。このように歌うことは、その人の喜びである。――

   「血の絆にて 罪人と合わされ」

て、キリスト・イエスはある。というのも、主は私たちと同じような人間だからである。また、主は罪だけを除き[ヘブ4:15]、私たち以上の人間でも、私たち以下の人間でもあられなかった。確かに、自分はキリストの身内なのだと感じるとき、主が高く上げられたことは、私たちの霊にとって最大の喜びの源泉となる。私たちはそれを喜びとする。上げられたのが自分の家族のひとりであることを見てとるからである。天地における神の1つの大家族の《長男》、その《長男》にこそ、私たちすべては結びついているのである。

 また、キリスト者のうちには、親族関係を感ずる思いだけでなく、御国の働きに携わる者としての一体感がある。その人は、キリストが高く上げられたとき、ある程度まで、自分自身が上げられたかのように感じる。この偉大な御国の進展を押し進め、この世で神の誉れを現わしたいという主の願いに、自分も共感を覚えるのがわかるからである。疑いもなく、ウェリントン公のかたわらに立っていた一般の兵士ひとりひとりは、この指揮官がその勝利のゆえに喝采されたとき、誇らしく感じたに違いない。彼らはこう云ったに違いないからである。「私は彼を助けたのだ。彼を支えたのだ。むろん私の果たした役割はつまらぬものだった。私はただ自分の隊伍を守ったにすぎない。敵の砲火を耐え忍んだにすぎない。だが、今や勝利は得られた。私はいくばくかの誉れを感じる。というのも私は、ある程度まで、それを得させる手伝いをしたからだ」。そのようにキリスト者は、自分の主が上げられるのを見るとき、云うのである。「上げられているのは《指揮官》なのだ。そして、彼が高く上げられることに、彼の兵士たち全員があずかるのだ。私は彼のかたわらに立っていたではないだろうか? 私の行なった働きが僅かであろうと、私が彼に仕えるため有していた力が乏しかろうと、それでも私はその労苦の手助けをしたのだ」。そして、霊的な軍隊の中では最下等兵といえども、この言葉を読むとき、自分自身が、ある程度まで上げられたように感じるのである。――「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名」――いかなる名にもまさる名声――「をお与えになりました。それは、イエスの御名によって……すべてが、ひざをかがめ……るためです」。

 さらに、キリストとそのすべての民との間には、こうした目的における一致があるばかりでなく、真の結びつきがあることも、キリスト者はわかっている。啓示されたこの教理は、めったに詳しく述べられることがないが、いかに考え抜かれても決して十分ではない。――すなわち、キリストと、そのからだの器官たちとがみな1つであるという教理である。愛する方々。あなたがたは知らないだろうか? キリストの教会に属する者はみな、キリストご自身のからだの一器官なのである。私たちは「キリストの骨肉」[エペ5:30 <英欽定訳>]であり、その偉大な神秘的からだの各部なのである。そして私たちは、自分たちのかしらが冠を戴いたと読むとき、おゝ、喜ぶがいい。あなたがた、キリストのからだの器官たち。キリストの手たち、足たち。その冠があなたの上に載っていなくとも、あなたの《かしら》の上に載っている以上、あなたはその栄光にあずかっているのである。あなたは主と1つだからである。彼方のキリストを見るがいい。その御父の右の座に着いておられるお方を! 信仰者よ! この方こそ、あなたが栄化されるあかしである。あなたが受け入れられている保証である。それだけでなく、あなたの代理人である。キリストが天で占めておられる座席は、主が独自に、《神格》の一位格として有しておられるだけではなく、ご自分の教会全体の代表者としても有しておられるのである。というのも、主は彼らの先駆けであり、彼らひとりひとりの代理人として栄光のうちに着座しておられるからである。おゝ、喜ぶがいい。信仰者よ。自分の《主人》が墓から上げられるのをあなたが見るとき、――主が天に上げられるのを眺めるとき、喜ぶがいい。そのとき、主が光の階段を昇り、その高き御座――御使いたちの視界すらも遠く及ばぬほどの高み――にお着きになるのを見るとき、また、一千もの熾天使たちの歓声を聞くとき、――かの大音声で鳴り轟く、何百万もの贖われた民の合唱交響曲に心をとめるとき、考えるがいい。主が光によって冠を戴くのを見るとき、――考えるがいい。あなたもまた、主にあって上げられているのだということを。あなたが主ご自身の一部である限りはそうである。幸いなことよ。もしもあなたがこのことを、教理によってだけでく、甘やかな経験によっても知っているとしたら。キリストに堅く結ばれ、キリストにめとられ、キリストのからだの部分となり、その自我そのものの一部となった私たちは、そのからだの心臓とともに鼓動している。かしらそのものが栄化されるとき、私たちはその称賛にあずかっている。私たちは、主の栄化が自分たちに誉れを授けているのを感じる。あゝ! 愛する方々。あなたは、このようにキリストに結び合わされているのを感じたことがあるだろうか? 主と一致した願望を有していると感じたことがあるだろうか? あるとしたら、あなたはここに慰めが豊かに満ちているのを見いだすであろう。だが、もしないとしたら、――もしあなたがキリストを知っていないとしたら――、主が上げられたことは、あなたにとって楽しみというよりは嘆きの種となるであろう。というのも、あなたは思い起こさなくてはならないからである。主が上げられたのはあなたを砕くためであること、あなたを審き、断罪するためであること、この地上からそのもろもろの罪を一掃し、呪いを根こそぎにするためであること、そして、それらとともに、あなたをも――あなたが心から悔い改めて、神に立ち返らない限り――あなたをも一掃せざるをえないことを思い起こさなくてはならないからである。

 さらにもう1つ別の感情もある。その感情を持つことは、キリストが上げられたという真理を大いに喜ぶためには、ことのほか必要であると私は思う。それは、主に誉れを帰そうとする偉大なわざに、全身全霊を明け渡すという感情である。おゝ! 私はそのために苦闘してきた。それを成し遂げられたら、どんなに良いことか! いま私は、私の一切の祈りを1つに集中させている。その祈りとは、私が自我に死に、全く主のためだけに生きることである。これは人間にとって最高の段階であると思われる。――キリスト以外にいかなる願いも、いかなる思いも、いかなる望みもいだかないこと。――キリストのためとあらば、死ぬことも至福と感じること。――キリストのためとあらば、窮乏も、災いも、蔑みも、軽蔑も、惨めさの中で暮らすことも甘やかであること。――自分自身に何が起ころうと、自分の《主人》が上げられるなら、大したことではないと感じること。――枯葉のように一吹きで吹き飛ばされようが、自分がどこに行こうが、《主人》の御手がみこころに従ってあなたを導いておられると感じる限り、全くどうでもよいように感じること。あるいはむしろ、たとい自分が金剛石のように切り刻まれなくてはならないとしても、主の王冠の中ではめこまれる燦爛たる宝玉としてふさわしくなるためとあらば、いかに深々と切り刻まれようが意に介さずにいられること。主に誉れを帰せるとあらば、自分に何がなされようがほとんど頓着しないことである。もしあなたがたの中のだれかが、こうした甘やかな自己滅却の感情に達しているとしたら、あなたは、キリストをさながら太陽ででもあるかのように見上げ、自分についてはこう云うであろう。「おゝ、主よ。私にはあなたの日差しが見えます。自分は、決してあなたから出た日差しではないのを感じています。――むしろ暗闇です。あなたの光に呑み込まれた暗闇です。私がせいぜい願うことは、あなたが私のうちで生きてくださり、私がこの世に生きているいのちが、私のいのちではなくなり、私のうちにあるあなたのいのちとなること、そして私が、パウロのように力をこめて、『私にとっては、生きることはキリスト』[ピリ1:21]、と云えるようになることです」。この境地に達した人は、決して世間の評判を気に病む必要はない。その人は云うであろう。「あなたは私をほめるのですか? 私にお世辞を云うのですか? お世辞など引っ込めてください。私はあなたからそうしたものをほしくはありません。私は私の《主人》を賛美することを求めます。あなたがたは私のもとに賛美を置いていきました。行って、私のところではなく、主のところにそれを置いてきてください。あなたがたは私を蔑むのですか? 私を軽蔑するのですか? それを忍べる私は何と果報者でしょう。もしあなたがたが主を蔑みも、軽蔑もしなければ!」 そして、もしあなたがたが主を蔑み、軽蔑するとしたら、このことを知っておくがいい。主はあなたの蔑みを越えたところにおられる。それゆえ、この兵士をその《指揮官》のゆえに打つがいい。左様。打つがいい、打つがいい。だが、あなたがたは、この《王》には触れることができない。――主は高く上げられている。――そして、あなたがたは自分が勝利を得たと思うかもしれないが、軍のひとりの兵士を敗走させたかもしれないが、その主力は勝利を得ている。ひとりの兵士は一敗地にまみれたように見えるが、この《指揮官》は、その勝ち誇る軍隊を引き連れてやって来られ、偽りの勝利で意気揚がるあなたを、その征服者の足で踏みにじるであろう。私たちのうちに一粒でも利己主義が残っている限り、それは私たちがキリストを甘やかに喜ぶことをそこなうであろう。それを取り除くまで、決して不断の喜びを感じることはないであろう。まことに悲しみの根は自我だと思う。いったんそれを取り除けば、私たちの感ずる心境に関する限り、悲しみは甘やかになり、病は健康となり、悲嘆は喜びとなり、窮乏は富貴となるであろう。それらは変わらないかもしれないが、それらの下にある私たちの感情は大いに変わるであろう。もしあなたが幸福を求めたければ、それは、あなたの利己主義の根底で求めるがいい。あなたの利己主義をずたずたに切り刻むがいい。そうすればあなたは幸福になるであろう。私の見いだしたところ、私は、自分がほめたたえられたとき、少しでも喜びに身をゆだねると、自分を柔弱で力ない者としてしまうのである。そのとき私は、敵の放つ数々の矢に鋭くえぐられる者となってしまっているのである。だが、そうした人の称賛について私が、「しかり。お前たちは何物なのか? くだらぬ代物めが!」、と云っていたとしたら、――そのとき、私は人々の軽蔑についてもこう云えるであろう。――「さあ来るがいい! さあ来るがいい! 私はお前たちを、ほめ言葉を送ったのと同じところへ送り込もう。お前たちは連れ立って行き、同士打ちをするかもしれない。だが、私について云えば、お前たちの矢は私の鎖かたびらでカンカン音を立てさせるがいい。――それが私のからだにまで届くことはありえないし、決してないはずだ」。しかし、もしあなたが、一方に屈したとしたら、別のものにも屈するであろう。あなたは、全くキリストに立って生きることを学ばなくてはならない。――キリストがそしられ、辱められるのを見るときには悲しみ、キリストが上げられるのを見るときには喜ぶ。そのとき、あなたは不断に喜べる原因を有することになるであろう。さあ腰を下ろすがいい。おゝ、悪口を云われている人よ。あわれな、軽蔑され、誘惑を受けている人よ。腰を下ろし、目を上げて、御座に着いておられるお方を見るがいい。そして、心の中で云うがいい。「私は小さな者だが、主に結び合わされているのを知っている。主は私の愛であり、私のいのちであり、私の喜びである。たとい何が起ころうとも、こう書かれている限り、大したことではない。『主は王である』、と[I歴16:31]」。

 II. さて手短に第二の点について語ろう。ここにも、喜びの泉であり、尽きせぬ源泉であるものがある。すなわち、《キリストが高く上げられた理由》である。「それゆえ、神は、キリストを高く上げ……ました」。なぜだろうか? これが理由である。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げ……ました」[ピリ2:6-9]。これは、もちろん私たちの主イエス・キリストの人性に関係している。神としてのキリストは、上げられる必要など全くなかった。主は、どれほど高い者よりも高くあられる、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]であられた。しかし、ご自分の栄光の象徴をしばし覆い隠し、ご自分の《神格》を定命の肉で包まれた上で、ご自分の《神格》を保ったままその肉体はいと高き所に昇り、この人-神なるキリスト・イエス――恥辱と、悲しみと、下落とに身を低められたお方――は、「すべての支配、権威の上に」*[エペ1:21]高く上げられた。それは《摂政の宮》として、あらゆる世界を、しかり、天そのものをさえ統治するためであった。しばしの間、キリストが下られた下落の深淵を考察してみよう。そうするとき、愛する方々。まさにその理由によって主の人性が高く上げられたと考えるのは、喜びとなるであろう。あなたは、かの人を見ているだろうか?――

   「仇の前にて 卑しめられて
    倦みも、疲れも、悲哀も知れる」

人を。あなたは、主がお語りになる姿に注目しているだろうか? 主の口からあふれ出る驚くべき雄弁に注意するがいい。群衆がいかにこの方につき従っているか見えるだろうか? しかし、遠くから不平を云い立てる、中傷と蔑みの非難が聞こえるだろうか? 主を非難する者たちの言葉を聞くがいい。彼らによると、主は「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間」[ルカ7:34]であった。「あれは悪霊につかれて気が狂っている」[ヨハ10:20]。主に悪態をつくために、ありったけの悪口雑言が費やされた。主は誹謗を受け、ののしられ、迫害された! しばし待て! あなたは、こうしたことのために主が投げ落とされた、下落させられたと思うだろうか? 否。まさにこの理由によって、「神は、キリストを高く上げ……ました」。彼方の悲しみの人の頬に浴びせかけられた恥辱とつばきに注目するがいい! 主の髪の毛が残酷な手で引き抜かれたのを見るがいい。彼らがいかに主を苦しめ、いかに主を嘲弄したか注目するがいい。あなたは、これがみなキリストにとって不名誉なことだと思うだろうか? 一見そう思える。だが、この言葉を聞くがいい。「キリストは……従われた」。「それゆえ、神は、キリストを高く上げ……ました」。あゝ! その恥辱やつばきと、熾天使たちの膝をかがめさせることとの間には、驚くべき関連があるのである。その罪人呼ばわりや中傷と、崇敬する御使いたちの合唱交響曲とを結びつける、奇妙な、だが神秘的なつながりがあるのである。いわば、その一方はもう一方の種だったのである。不思議だが、このどす黒く苦い種が、永遠に咲き誇る甘やかで、輝かしい花をもたらしたのである。主は苦しみを受け、主は統治なさった。主は身をかがめて征服し、身をかがめたがゆえに征服し、征服したがゆえに上げられた。

 なおもさらに主を考察するがいい。自分の想像の中で、彼方の十字架に釘づけられた主に注目してみるがいい! おゝ、しかり。あなたがたは憐憫に満ち、今にも涙がこぼれそうになる! おゝ! いかに私は、主の頬にとめどなく流れる血に注目することか! 主の御手が血を流しているのが見えるだろうか? また主の御足が血糊を吹き出させているのが見えるだろうか? 主を眺めるがいい! バシャンの雄牛が主を取り巻き、犬どもは主を死ぬまで狩り立てた![詩22:12-13] 主の声を聞くがいい! 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[マコ15:34]。地は恐怖に飛び上がった。神が十字架の上で呻いておられるのである! 何と! これはキリストに不名誉を加えることだろうか? 否。主に栄誉を与えることなのである! その茨の一本一本は、主の栄光の王冠にはめこまれた燦爛たる宝玉となり、その釘は鍛造されて主の王笏となり、主の御傷は主に帝国の紫衣をまとわせる。酒ぶねを踏むことによって主の衣は汚れたが、それは蔑みや不名誉の汚れではない。その汚れは、主の王服を永遠に飾る刺繍である。その酒ぶねを踏むことによって、主の衣は、1つの世の帝位を示す紫に染められた。そして、主は永遠に、1つの宇宙の《主人》なのである。おゝ、キリスト者よ! あなたの《主人》が地上の山々から天に登ったのではなく、地上の谷間から登ったことをよくよく考えるがいい。主は地上の至福の高みから永遠の至福へとまたぎ越したのではなく、悲哀の深みから栄光へと一歩で乗り越えられたのである。おゝ! それは何という一歩であったことか! 墓から《いと高き方》の御座へと、神なる人キリストは、栄光に富むしかたで、ほんのひとまたぎでお昇りになったのである。だがしかし、思い巡らすがいい! 神秘的だが真実なこととして、ある意味で主は、苦しまれたがゆえに上げられたのである。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」。信仰者よ。ここには、あなたが受け取ろうとしさえするなら、あなたのためになる慰めがある。もしキリストがその下落によって上げられたなら、あなたもそれと同じである。勝利に至るあなたの足どりを、上へ向かうあなたの足どりによって数えてはならない。一見すると下へ向かうかのような足どりによって数えるがいい。天への道は下り坂である。永遠の栄誉を与えられた者は、自分自身の見るところでは――また、しばしば自分の同胞たちの見るところによっても――沈まなくてはならない。おゝ! 向こうにいる愚か者のことを考えてはならない。その人は自分で自分を明るく評価することによって、また自分の同胞たちのお世辞によって、無事にパラダイスに着くだろうと云われて、天に登りつつある。だが、それによりかかるとき、それはぱちんとはじけ、そうした人々はまっさかさまに墜落しては、木っ端微塵になるであろう。しかし、苦しみの鉱山に降下する者は、そこに無尽蔵の富を見いだすであろう。また、悲嘆の深みに潜る人はその洞窟の中に永遠のいのちという真珠を見いだすであろう。思い起こすがいい。キリスト者よ。あなたは、辱められるときには上げられているのである。あなたの敵たちの中傷を、義人の拍手喝采として理解するがいい。悪人たちのあざけりや冷やかしは、敬虔な人々の称賛や誉れと等しいものとみなすがいい。彼らの非難を称賛とみなすがいい。また、やはり、もしあなたのからだが迫害にさらされるようなことがあるとしたら、それを決してあなたの恥辱とはみなさず、その逆だとみなすがいい。そして、もしあなたが(なくはない可能性として)殉教という赤く血に染まった冠をかぶる特権を受けるとしたら、死ぬことを不名誉と思ってはならない。教会の中で最も高貴な人々が、「気高い殉教者たちの大群」であることを思い出すがいい。彼らが耐え忍んだ苦しみが大きければ大きいほど、彼らの「重い永遠の栄光」[IIコリ4:17]も、より大きくなるとみなすがいい。そして、あなたも、もし戦いの矢面に立ち、激戦地に立つとしたら、やがて栄光の真中に立つことを思い出すがいい。もしあなたが最も困難なものを忍ぶべきだとしたら、あなたは最も甘やかなものを楽しむことになる。ならば進み続けるがいい。――もしそれがあなたの途上にあるとしたら、大水を越え、火を越え、死を越え、地獄を越えて進むがいい。恐れてはならない。キリストが身を落としたがゆえに栄光をお与えになったお方は、あなたにも栄光をお与えになるであろう。このお方は、あなたをしばらくの間、耐え忍ばせた後で、あなたに「しぼむことのないいのちの冠」*[ヤコ1:12; Iペテ5:4]を与えてくださるからである。

 III. そして最後のこととして、愛する方々。ここには、さらにあなたのための慰めがある。キリストを上げられた《お方》に着目すべきである。「《神は》、キリストを高く上げ……ました」。全ロシア帝国の皇帝は自ら戴冠する。彼は独裁君主であり、自分の頭に自分で冠をかぶらせる。しかしキリストにそのような愚かしい高慢はない。キリストはご自分で冠をかぶりはしなかった。「《神は》、キリストを高く上げ……ました」。その冠は、神によってキリストの頭に置かれた。そして、ここには私にとって非常に甘やかな思想がある。――その冠をキリストの頭に置いた御手がいつの日か私たちの頭にも冠を置くのである。――キリストに冠を戴かせた《大いなるお方》、「王の王、主の主」[黙19:16]が、私たちを「永遠に王とし、祭司と」*[黙5:10 <英欽定訳>]するとき、私たちに冠を戴かせてくださるであろう。「私は知っている」、とパウロは云う。「義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」[IIテモ4:8]。

 さて、この思想の上でしばし立ち止まるがいい。――キリストは自分で自分に冠をかぶらせたのではなく、御父が主に冠をかぶらせたのである。主は自分で自分を威光の御座に上げたのではなく、御父が主をそこに上らせ、主をその御座に着かせたのである。何と、このことを思い巡らすがいい。人は決してキリストを高く上げなかった。ならばこのことを、それと対比させて見るがいい。「神は、キリストを高く上げ……ました」。人は主を野次り、主をあざけり、主に怒りの声を上げた。言葉を投げつけるだけでは気が済まなかった。――彼らは石をも用いた。「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた」[ヨハ10:31]。だが石は役に立たなかった。釘が用いられなくてはならず、主は十字架につけられなくてはならなかった。そして、主が死の十字架にかかって弱り果てているとき、嘲罵と、あざけりと、からかいがやって来た。人は主を高く上げなかった。この暗黒の画面をここに置いておくがいい。そこへ、この栄光に富む、この輝かしい光景を、その隣に並べてみるがいい。一方は、もう一方の輝きを引き立てるものとなるであろう。人は主に不名誉を与えたが、「神はキリストを高く上げた」*。信仰者よ。たとい万人があなたを悪し様に云うとしても、あなたの頭を高く上げて、こう云うがいい。「人は私の《主人》を高く上げなかった。私は、私を高く上げないことで人に感謝しよう。しもべは主人にまさるべきではなく、しもべはその主にまさるべきではない。遣わされた者は、遣わした者にまさるものではないのだ[マタ10:24; ヨハ13:16]」。

   「よしわが顔に 主の御名ゆえの
    恥と責めとが 浴びせらるとも、
    ことほぎ迎えん、咎めも恥も。
    そは主の我れを 覚えたまわば」。

神は私を覚えてくださり、最後には私を高く上げてくださるであろう。人が私を落胆させようとも関係ない。

 また、それをこの事実と対比させてみるがいい。すなわち、キリストは自分で自分を高く上ることはなさらなかった。あわれなキリスト者よ! あなたは自分で自分を引き上げることができないと感じている。時としてあなたは、自分のあわれな意気消沈した霊を引き上げることができない。ある人々はあなたに云う。「おゝ! あなたはそのように感じるべきではありません」。彼らはあなたに云う。「おゝ! そんな言葉を口にするべきではありません。そんな考えをいだくべきではありません」。あゝ! 「心がその人自身の苦しみを知っている。それにほかの者はあずからない」*[箴14:10]。――左様。そして私は、これをさらに現状に即したものにするであろう。「友人でさえも」あずからない、と。他の人がどう感ずべきか、いかに行動すべきかを見きわめることは容易ではない。私たちの精神は、異なったしかたで、ひとりひとり独特の鋳型によって造られている。そして、ひとりひとりが造られると、それぞれの鋳型は壊されてしまい、全く同じような者はだれひとりいない。私たちは、ひとりひとりみな異なっている。だが、私の確実に信ずるところ、私たちがみな、深い悲しみを覚えるときに、一致する点が1つある。無力感である。私たちは、自分で自分を上げることができないと感じる。さて、思い出すがいい。私たちの《主人》も全く同じように感じたのである。詩篇22篇で――これは、私が正しく読んでいるとすれば、十字架上のキリストの美しい独白であるが――、主はご自分に対してこう云っておられる。「私は虫けらです。人間ではありません」[22:6]。あたかも、ご自分があまりにも悲嘆に暮れ、あまりにも打ちひしがれ、実際にそうあられる通りの、人間以上のお方ではなく、しばしの間、人間以下であるように感じられたのである。だがしかし、主が自分に冠を戴かせるために指一本動かせなかったとき、――勝利の思いなどほとんど全く浮かべることもできなかったとき、――その御目が勝利感のかすかなきらめきすら閃かせることができなかったとき、――主の神は、主に冠を戴かせておられたのである。あなたは粉々に砕かれているだろうか? キリスト者よ。永遠に打ち捨てられたと考えてはならない。「神は、キリストを」――自分では自分を高く上げなさらなかったお方を――「高く上げ」られたからである。そして、これは、神があなたに対してやがて行なわれることの象徴であり、預言なのである。

 さて、愛する方々。私は、この聖句について、これ以上はほとんど語ることができない。ただ、あなたに今、ほんのしばし、この言葉について思い巡らし、考えてみるよう命ずるばかりである。おゝ! あなたの目を高く上げるがいい。天の蒼穹の垂れ幕に向かって、2つに分かれるように云うがいい。神の力に――つまり、いと高き所からの霊的な力に、その垂れ幕の内側をのぞくように願うがいい。私はあなたに命じているのは、決して、その黄金の街路や、碧玉の城壁や、真珠の門の都を眺めよということではない。私があなたに求めているのは、決して、あなたの目をかの白い衣を着た大勢の人々、永遠に大きなハレルヤを歌っている人々に向けることではない。むしろ、愛する方々。それを越えた彼方に、あなたの目を向けるがいい。

   「そこにて救世主(きみ)は 人のごと座す
    神なる主イェス いかに輝き
    尽きぬ喜び 蒔きてぞあらん
    幸(さち)を得し民 皆の上へと」。

あなたは主が見えるだろうか?

   「かつて茨を かぶりし頭(かしら)
    いまや栄光(さかえ)の 冠いだきぬ。
    王の宝冠(かむり)の 飾りたてるは
    かの勇ましき 勝者(きみ)の額ぞ。
    もはやなし 血塗りし冠も
    十字架も 釘も。
    そは主の渋面(いかり)に 地獄(よみ)震え
    天(あま)つすべての 崇(あが)むれば」

主を眺めるがいい! あなたの想像力は、主を描き出せるだろうか? 主の超越的な栄光に目を注ぐがいい! 国王たちの威光は呑み込まれてしまう。代々の帝国の壮麗さは、太陽の前の朝もやのように消え去ってしまう。結集した軍隊の輝きは顔色なからしめられてしまう。主はご自身が、太陽よりも明るく、旗を掲げた軍勢よりも恐ろしい。主を見よ! 主を見よ! おゝ! あなたの頭を隠すがいい。あなたがた、王侯たち! あなたのけばけばしい虚飾を捨て去るがいい。あなたがた、このあわれな狭い地上の君主たち! 主の御国に限りはない。主の広大な帝国は、いかなる限界もなしに広がっていく。主の上にあるすべては主のものである。主のはるか下には御使いたちがいるが、それらも主のものである。そして、彼らは自分たちの冠を主の足元に投げ出している。彼らとともに、主の贖われた選民たちが立っている。彼らも主のものであり、主をあがめている。また地の下には、地獄の中で、悪霊どもが悪意をむき出しにして唸り声をあげているが、そこにおいてすら、震えおののき、あがめるものがある。そして、失われた霊たちが嘆き悲しみ、永遠に歯がみをし、おのれの有様を哀惜している所、そこにおいてすら、主の《神格》は認められている。その告白が、自分たちの苦悶の火を作り出す助けになっているとしても関係ない。天においても、地においても、地獄においても、すべての膝が主の前でかがめられ、すべての舌が主は神であると告白している。たとい今そうではなくとも、来たるべき時には、このことが実現し、神の造られた一切の被造物が、神の御子こそ、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」[ロマ9:5]、と認めるのである。おゝ! 私の魂は、そのほむべき日を待ち受けている。その日、この全地はその神の前で喜んでその膝をかがめることになるのである。私のはっきり信ずるところ、来たるべき幸いな時代には、私の主であり《主人》であるお方の前でかがめられない膝は1つもない。私はその時を、その後の日の栄光を待ち望んでいる。そのとき、王たちは贈り物を持って来[詩68:29]、女王たちは教会の乳母となり[イザ49:23]、シェバの黄金、タルシシュの船団、アラビヤの若いらくだがやはり主のものとなり、あらゆる国語の国々、部族が、

   「甘き歌もて 御名をば語り
    わらべの声も 告げ知らせなん、
    つたなき口もて 御名の賛美(さかえ)を」。

時として私は、その全く幸いな時代を生きてこの目で見たいと思う。――この世の黄金時代を見たいと思う。今の世は、あまりにもその住民たちの暴政による悲嘆と悲しみによって抑圧されている。私は、このように云われる時を見てみたい。「ときの声をあげなさい。大《牧者》が統治し、その苦しみなき御国が今や到来したのだから」。――そのとき地は、賛美を奏でる一大楽団となり、あらゆる人は、この《王の王》への栄光に富むハレルヤの頌歌を歌うであろう。しかし、その時代を待っている今でさえ、私の魂は、すべての膝が実質的には――心から喜んでではなくとも、現実には――かがめられている事実を喜ぶものである。あざける者は、天に向かって云いたいことを云うとき、自分が神を侮辱していると考えているだろうか? その人はそう思っているが、その人の侮辱は、星々に向かう途中までも行かず、はるか先に死に絶えてしまう。その人は、その悪意によってキリストを刺す剣を鍛造しているとき、自分の武器の切れ味は鋭い、と思い描いているだろうか? もしそうだとしたら、私は容易に神のあざ笑いを思い描くことができる。神は、最も野放図な反逆者、最も奔放な軽蔑者が、それでも神の偉大な聖定を実行に移しており、それでも神が永遠にお定めになったことを行なっており、自分の野放図な反逆の最中にあって、それでも、ある神秘的なしかたで、永遠の昔から、その存在が確実に動くことになる進路として目印をつけられていた通りの所をなおも走っているのをごらんになっておられるのである。「野生の馬はその馬具を壊し、その手綱は戦車の馭者の手から離れている」。――そう云う人々もいる。だが、そうではない。あるいは、もしそうだとしたも、この馬たちは、《全能者》がなおもその手綱を握っておられた場合と全く同じ円周を走り続けているのである。この世は混乱に陥ってはいない。偶然が神なのではない。神はなおも《主人》であられ、人々が好き勝手に何を行ない、私たちがいま大切にしている真理をいかに憎もうとも、彼らは結局、神がお望みのことを行なうのであり、彼らの表立った反逆は、自分では知らぬことながら、従順の一種となるのである。

 しかしあなたは云うであろう。「それなのになぜ、あなたは人を責めるのですか? だれがそのようなご計画に逆らうことができましょう」*[ロマ9:19]。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです」[ロマ9:20-23]。神を非難する者はだれなのか? あゝ、自分を造った者に抗議する者![イザ45:9] このお方は神なのである。――このことを知るがいい。あなたがた、この地に住む者たち。そして、あらゆるものは、結局は神のみこころに仕えることになるのである。私は、ルターがその大胆な賛美歌の中で語っていることを好んでいる。そこで彼は、予定説を憎む者らが確言したがる一切のことにもかかわらず、次のようにわきまえ、大胆に宣言しているのである。「いずこにても主は統べ給い ものみな御力(ちから)に仕えなん」。彼らの行なうすべてにもかかわらず、結局、主の統治がそこにはあるのである。ののしる者よ、ののしり続けるがいい! 神は、あなたのののしりをいかにして歌と変えるかをご存じである! 神に刃向かう者よ、そうしたければ刃向かい続けるがいい! ただ知るがいい。あなたが神の教会の虐殺を考えているとき、あなたの剣は神をあがめる役に立ち、キリストのための栄光を刻み上げるために用いられるのである。あなたが行なうすべては挫折することになる。というのも、神は占い師を狂わせ[イザ44:25]、こう云われるからである。「学者の知恵はどこにあるのか。知者の知恵はどこにあるのか」*[Iコリ1:20]。確かに、「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」。

 さて、最後に、愛する方々。もしこのことが正しければ、――キリストが高く上げられ、そのことによって、すべての名にまさる御名を与えられ、すべてが主の前で膝をかがめるとしたら――、私たちも今朝、主の《ご威光》の前で私たちの膝をかがめるべきではないだろうか? あなたは、好むと好まざるとにかかわらず、いつの日か、あなたの膝をかがめなくてはならない。おゝ、筋金入りの罪人よ。あなたの膝を今かがめるがいい! いずれにせよ、あなたは膝をかがめることになるのである。稲妻が解き放たれ、雷が荒れ狂うその日には、あなたは自分の膝をかがめなくてはならないのである。おゝ! それを今かがめるがいい! 「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている」[詩2:12]。おゝ、万軍の主よ。人々の膝をかがめさせてください! 私たちがみな、喜んであなたの恵みに仕える臣下となるようにしてください。決して私たちが、後になって不承不承あなたの恐怖の奴隷となり、復讐の鎖によって引きずられながら、地獄に下っていくようなことがないようにしてください。おゝ、いま地にある者たちが、喜んでその膝をかがめるようになるように。「地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ」、という言葉が、地獄で成就するようなことがないように。

 神があなたがたを祝福してくださるように。愛する方々。私には、もはやこのことしか云えない。願わくは、神があなたがたを祝福してくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

キリストの高挙[了]

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