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第30章

王立サリー公園における諸集会

無類の人気――『全国評論』――《音楽堂》における日曜日の描写――悪ふざけ――日刊新聞――『タイムズ』紙への尋常ならざる投書――否定的意見――タバナクルのための募金

 王立サリー公園における日曜午前の集会は、今やロンドンの主たる呼び物、あるいは、その驚異の1つとなっていた。『非国教徒』に掲載された記事によると、パーマストン卿[英国首相 1855-58, 1859-65]でさえ、病気にさえかからなければ、一月の日曜集会の1つに出席していたはずであった。――

 「スポルジョン氏の人気は、全く衰えることを知らないように思われる。ロンドン市長や首席裁判官たち、押し合いへし合いする職人たちや、大工たちが、同じキリスト教の集会の中に同席しているのである。貴族と百姓が、同じ口から発される《いのちのことば》に耳を傾け、同じ賛美の合唱に声をそろえている。あの素晴らしい旧讃美歌百番の調べが、八千人から一万人の声によって唱和されているのである。これは、この現象にいかなる説明がつけられるにせよ、目新しく、教えに富んだ光景である。首相は、先週このサリー公園《音楽堂》への入場券を手に入れたが、彼の旧敵である痛風によって、それを利用することができなかったという。彼の動機がどこにあったか憶測を逞しくすることは私たちの務めではないが、それが単なる好奇心以上のものであってほしいとは望まれるところである。いずれにせよ、内閣が肩入れしているのである。これに鑑みると、いかにして内閣が《陛下》に、この非国教徒の牧師に対して臨席の栄を賜ること――少なくとも静謐な、物々しくないしかたでそうすること――を裁可なさらないようにご助言申し上げることに、矛盾がないかどうかは見てとりにくくなっている。老王ジョージ三世[1738-1820]は、ウィンザーにおられた頃には折に触れ、かの卓越せる非国教会の教役者、かつ現在のレッドフォード博士の父君である人の会衆に、incog.[お忍び]で立ち混じることをなさっていた。それで、おそらくはそのうちに、この《音楽堂》に集まる何千もの女性用のかぶりものの間に、慎ましく小さな婦人帽が入っていくことになるであろう。そして、その帽子の下には、やんごとなき御顔だちが見られることであろう。むろん、そこには、教会法に基づかない聖職者の働きが、このように君主の心すらとらえてしまったことをいさぎよしとしない面持ちも混じり合っているかもしれないが」。

王立サリー公園音楽堂で説教するスポルジョン

  新聞や、雑誌や、評論においてスポルジョン氏が受けている注目は、彼のつのりゆく無類の人気を今やふんだんに証言していた。『全国評論』の一月号でさえ、この、万人の心を奪っている話題について触れて、確かにこの説教者のカルヴァン主義には全く共感を示してはいないものの、この評者が信ずるところ、説教されていた諸教理こそ、このように成し遂げられた成功の大きな理由であった。――

 「スポルジョン氏の様式は、私たちには奇抜で、珍妙な、また、ひたすらな滑稽味を強く帯びたものと思われる。明らかに彼は、きわめて陽気で、感受性に富んでいる。例えば、以下のような発言には全く野卑なものはない。尤も、鬼瓦のように奇怪に思われはするが。『おゝ! 願わくは神が、私たちをみな覚醒させ、私たちを祈りにかき立ててくださるように。祈るとき、私たちは勝利を得るようになるからである。私は今朝、サムソンが狐たちをそうしたように、あなたがたを捕まえて、祈りというたいまつをくくりつけ、麦束の間に解き放って、すべてをボウボウ燃え立たせたいと思う[士15:5]』*。また、次のような言葉には、一種の荒々しい精力と確信の力とがあり、それはルターとその悪魔との争闘について語られている物語の多くと似ていなくもない。『ひとりの貧しい、非常に大きな試練に遭っている人が私に云った。「わしは最近、あの昔なじみの悪魔めに悩まされておってな、随分と長い間、奴を追い払うことができんでいた。だがとうとう、奴がわしのありったけの罪を並べ立て、それを一々わしに思い出させた後で、わしはこう云ってやったのよ。『このごろつきめが! わしは、もうずっと昔に、わしの商売をイエス・キリストに譲り渡したではないか? 貸倒れも含めて一切合切な。ならお前は、そんなもんをここに持ってきて、何をしようというんじゃ! わしは、それをみんなキリストに負わせておる。自分ののれんを全部キリストに譲り渡しておる。そいつらについては、わしの《主人》んとこに行って、文句を云え。わしんとこにやって来て、がたがた抜かすな』」。よろしい。私はそれが結構悪くないと思った。かなりがさつな云い方だが、それは輝かしい真実であった』*。自分のもろもろの罪のことを常々、言葉の厳密な意味において、多額の負債として考えてきた人、また、常日頃から細々とした商売上の取引で頭を一杯にしている人が、こうした種類の言葉遣いによって、非常に力強く、純粋な確信を示しているのである。事実、もしこの人の言葉遣いが純粋で、全く驚くべきものであるとしたら、それは彼にとって馴染み深い事がらから取られた言葉であるに違いない。『このごろつきめが! わしに向かって、がたがた抜かすな。わしの《主人》に文句を云え』、と云うのは、少なくとも、はっきりとした、明確な意味を持った言葉である。これと似たような場合に、『私は、完全に満足ないけにえを強調します』、とか、『私は、私をすべての罪からきよめるほむべき血を喜びとしています』、とか云う人の話しぶりは、私たちの意見では、はるかに真摯さにおいて劣り、はるかに敬虔さにおいて劣るものである。このひとりの人は、現実の主人、現実の法的債務、現実の悪魔が過酷な債権者のようにやって来ること、そして自分が郡裁判所で抗弁できるだろうような債務履行を信じているのである。もう一方の人は、大概の場合、通常の会話においては、はっきりしない感情を云い表わしているにすぎない。人間社会の永続的な絆をなしている種々の共通の感情は、一般に、その強烈さに応じて明確なものである。夫婦愛や家族愛、友情、義務感、廉恥心は、単純きわまりない言葉遣いで述べることができる。そして、神や、キリストや、天国や、地獄や、悪魔や、そうしたものによって起こさせられる種々の感情を、曖昧で、はっきりしないしかたで語ることが普通は敬虔だと考えられているという事実は、それと認められてはいないが、私たちの間でひそかに懐疑主義がはびこっているということを強力に示す証拠の1つである、と私たちには常々思われてきたところである。こうした事がらはめったに語るべきではないし、淡々と語るのがよい、と敬虔さと常識の双方は示唆するように考えられるであろう。だが私たちは、2つのうちどちらかを選ばなくてはならないとしたら、果たして霊的な事がらを雄牛のように扱う方が、それをかすみのように扱うよりも悪くなくはないかどうか、確信が持てない。イタリヤのいかなる托鉢修道士が聖人伝説について精通しているのにもまして、スポルジョン氏は、彼のいわゆる3つのR――破び(Ruin)、贖い(Redemption)、新生(Regeneration)――の扱いに通暁しているのである」。

 『全国評論』の筆者は、明らかに対象を公平に扱いたいと願っていたが、彼は、カルヴァン主義的な諸教理を、それらの誤解を通して戯画化した者らのひとりであった。さらに、奇妙に思われることに、この驚くばかりの成功の説明をつけようとしていながら、この説教者の際立って著しい特徴となっていた素晴らしい声や強力な想像力については何1つ云われていなかった

 このようにして、《音楽堂》における諸集会は、とどまることを知らない異常な興味を引き起こすこととなった。多くの短評の中でも、1857年春に発行された、とある「目撃者」の小冊子は、それなりの耳目を引いた。この筆者の見いだしたところ、切符制度が実施されたのは、盗人やいかがわしい者らの入場を防ぐためだという。彼の見積りでは、その建物は九千人分の座席に加えて五千人の立ち席があった。彼はこう述べている。「十時の時点でさえ、早々と一階座席および一階桟敷の座席はすべてふさがり、人は二階桟敷でしか座席を獲得できなかった。それも、最前列から五列目である」。十時半、入場券を持たない大衆のために扉が一斉に開かれると、「この広大な会館の、ただ1つの座席といえども、ふさがらないものはなかった」。その間、中央桟敷では異様な光景が眺められた。――「私たちは奇妙な騒音を聞いた。大水の潮騒のようで、下を見下ろしたところ、それは、興奮してなだれ込んできた大群衆の殺到によって引き起こされていたのである。十分足らずのうちに、ありとあらゆる場所がすし詰めになった」。リヴィングストン博士が演壇の上に座っており、第一皇女およびサザランド公爵夫人もその場にいたという。賛美歌『もろびとたたえよイエスの御名を』が、圧倒的な大合唱で歌われた。歌が終わると、スポルジョン氏は一言こう云った。「愛する方々。この最後の節を歌う際には、心を天に引き上げ、真底からこう祈り求めることである。愛する《贖い主》の御名を賛美している御使いたちの大群に、自分も加わることができるようにと。その賛美を自分も聞いていると思ってみるがいい。今この瞬間にも、万の幾万倍もの者たちが天上で聖歌をあふれさせているのである。また、感じてみるがいい。自分も自分の声を、主に賛美を歌う彼らの声に混ぜ合わせているかのように」。

 その描写によると、祈りは「最も霊的な性格のもので……まるでスポルジョン氏はピスガの頂に立って、陶然と約束の地を見つめているかのようであった」。あらゆる種類と状態の人々のためになされた嘆願は、この説教者がいかに真剣そのものであるかを示していた。彼が自分自身のための力を求めたしかたも独特であった。「おゝ、主よ! お助けください。あなたのしもべがこのおびただしい数の群衆に向かって福音を宣べ伝えるのを助けてください。この者の魂を天からの火で満たしてください。あなたは力強くあられますが、あなたのしもべは弱いのです。おゝ、主よ。この者をあなたの御手の中にあって、この場にいる多くの者を回心させる尊い器としてください。あなたは、過ぎし昔に角笛の音をして、堅く、強く、防備を固めたエリコの城壁をなぎ倒されました。私は切に願います。あなたのしもべを、この大いなる折に角笛のようにしてください。この者の宣言するあなたの福音の響きにより、あなたの御前にあるかたくなで、強情な心が溶かされ、崩れ落ち、天国が勝利のハレルヤで鳴り響きますように」。人々が自分の聖書を開いて、「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」(詩72:19)という聖句を見つけようとしたとき、その擦過音は、「木々の葉の上に降りかかる激しい雨音」のようであった。その説教の間、この建物の中のどの部分でも、誰もが完璧に話を聞くことができた。声を低めて語られた部分でも関係なかった。当時23歳にもなっていなかったこの説教者は、蒼白で、頬髭を生やしておらず、その頭髪はほとんど額の真中で分けられていたと描写されていた。彼の話を聞きたいという欲求はさらに強まり、一般入場券の値段は、一月あたり5シリングにまで跳ね上がった。この「目撃者」の意見によると、「彼の説教に対する文句や、つまらぬ揚げ足取りは、単に、新しくされていない人間性が千八百年前と全く変わっていないことを証明しているにすぎない」。彼が付言して云うところ、スポルジョンは、「あらゆる階級を騒然とさせつつあり、これは、福音が平易に宣言されるならば聴衆に事欠くことはないことを、何にもまして決定的に証明するものである」*1

 1857年5月初旬に、何者かが、フェン地方在住のスポルジョン氏の以前の友人たちに一杯食わせようとする悪ふざけをたくらんだ。ソアムの触れ役人およびイーリーの触れ役人が、「ロンドン、パーク街二十八番地、福音伝播協会」からの宣伝広告紙の小包を受けとったのである。そこには、スポルジョン氏が5月10日の日曜日三時に、ホースフェンで説教すると予告されていた。それは、稚拙なでっちあげであった。当時この説教者は、日曜日には自分の教会をめったに離れようとはしなかったからである*2

 《音楽堂》に引きつけられた人々の中には、『太陽』誌の記者がおり、彼はこのように記している。――

 「もし私たちが今週の日曜に聞いたことがスポルジョン氏の日頃の説教の見本だとしたら、確かにそこには、福音主義に立つこの国の国教会聖職者や非国教会の説教者たちの大多数から聞かされるだろうこと以上に突飛なことは何もなかった。天来の怒りや将来の刑罰に関する粗雑な描写は、そこには全くなく、悔い改めの神学についての長ったらしい、重箱の隅をつつくような論議もなかった。実際、そこには、いかなる信条の説教者たちであれ同意しないであろうようなものはほとんどなかった。彼の声は堂々とした見事なもので、その場所全体にやすやすと響き渡っていた。建物の最も向こう端にいてさえ、一音節すら聞き漏らされるようなことはなかった。彼の所作は完璧に伸びやかなものでありながら、不敬な部分は全くなかった。言語を駆使する彼の能力は著しく高いが、即興的な話者にありがちな、くどくどしさに流されることはない。彼の様式は流れるように自然で、素朴で、力のこもったものであり、きびきびとした評言に満ちていた。剽軽な、あるいは滑稽な部分は、たといそうした事がらにふけることが彼の癖だったとしても、完全に欠如していた。彼の人気の秘密は、今週の日曜日を見本として取り上げる限り、そうしたものとは非常に異なるものであると思われる。この説教者が、自分自身にではなく自分の聴衆に没入していると感じずにいることは不可能であった。彼は、格式張った講壇と会衆の間の仕切りによって聞き手から隔てられてはいなかった。彼は、彼らと会話を交わしていた。――彼らのひとりであった。彼は、彼らに向かってex cathedra[聖座から不可謬性をもって]お説教を垂れたのでも、彼らの考え方からかけ離れた話題についての論考にふけっていたのでもなく、ある厳粛な主題について話をしに彼らの自宅に赴いた時にするであろうようなしかたで彼らと語り合っていた。わが国の講壇のほとんどは、「勿体ぶりのあまり死んだ」状態に至っているが、この説教者は自分を万人と同じ水準に置いている。もちろん生き生きとした想像力や、相当な表現力、それを助ける第一級の声も、大きな要因ではあろう。だが私たちが思うに、私たちがいま見てきたような事がらこそ、このように数千人の聴衆の間で、私たちの見渡す限り――それも、よくよく気をつけて見た後でも――ひとりも居眠りしている者が見当たらなかった主たる理由であった。

 「それよりもずっと勿体ぶった、わが国の説教者たちは、この青年の人気という現象を調査してみれば、益するところがあるかもしれない。私たちは個人的には、彼の所作によって批難の矛先を鈍らされてしまったとしか云えない。また、おそらく彼は、その場にいた数千人の人々のために用いられただろうとしか考えられない。そうした人々の風采から私たちの確信するところ、彼らは、わが国の講壇で通常なされているような散文には耳を傾けないであろう。キャンベル首席裁判官は御子息とともに講壇上にいたが、見たところ私たちと同じ見解をいだいたかに思われた。その礼拝後に彼は、私たちの耳の届くところで、幹事たちのひとり、および、やはり同席していた警視総監リチャード・メイン卿に向かって何度かこういう意見を述べていたのである。『彼は大きな善を施していますな、大きな善を! このような説教者を容れる余地はロンドン中にまだまだ二十人ほどもあるでしょう。そうした人々こそ、まさに一般大衆に必要なものですよ』」。

 あの《音楽堂》の惨事の際に、スポルジョン氏を散々な仕打ちに遭わせたロンドンの日刊新聞は、今や、ある程度まで、その償いをし始めていた。この説教者自身の人格について、思い違いがなされたことは、じきに明らかになった。そして、あまりにも辛辣かつ性急な判断を下したことによって加えられた不正を、真っ先に埋め合わせた新聞の1つは、『タイムズ』であった。当時この大新聞は、真に国民的な影響力を振るっており、それが、かの有名な「シッコの住人」による投書を掲載するのみならず、それに伴う論説を掲げたことは、潮の変わり目をはっきりと示すものであった。遅かれ早かれ、この若き説教者がもてはやされる時が訪れることは確実に見受けられた。これまでも、この投書の抜粋はしばしば示されてきたが、この世代の中で、その全体を見たことがある人はほとんどいないであろう。とはいえ、本書のような著作の場合、その真の意義を理解するにはその全文が読まれる必要がある。それは、論説記事の中に現われた部類の文章としては、最も愉快なものの1つであった。

 「拝啓。――つい一箇月ほど前の日曜日に、家内がこのように申しました。『子どもたちを聖マーガレット教会にやって何某大主教のお話を聞かせましょうよ。《教会関係老身障者協会》のための説教をなさるんですって。きょうが、その三百周年記念集会ですってよ』。それで子どもたちは出かけましたが、親たちは、あえて云うほどもないような理由から、彼らと一緒に行くことができませんでした。『よろしい。子どもたちや。何某大主教の話は気に入ったかね? 「教会関係老身障者」については何と仰っていたかね?』 ここで子どもたちは――午餐の最中だったので――猛烈な勢いで食物を攻撃していましたが、あずかってきたばかりの霊的饗宴については、彼らの口から一言も聞くことができませんでした。そうです! その日の聖句すら彼らは持ち帰ることができませんでした。せっつかれればせっつかれるほど、彼らは顔を赤くして、うつむいては皿を見つめるばかりなのです。とうとう私は腹を立て、お前たちは礼拝の間眠りこけていたのだろうと責め立てました。この非難に対して長男は慌てて守勢に回り、すすり泣きながら真実を打ち明けました。そのときには、彼らの目は涙で一杯になっていたのです。『だって、お父さん! 僕たちには、何某大主教がどんなお話をしたか云えないよ。何を云ってたか全然聞こえなかったんだもの。年寄りすぎて、歯が一本もなかったんだ。きっと、べろだって、あったかどうかわかんないや。だって、唇は動いているのに、僕たちにはほんの一言も聞き取れなかったんだよ』。これには私も何も云えませんでした。ですが私は、『教会関係老身障者』と、その尊ぶべき擁護者について、大いに考え込みました。そして、言語学者の端くれとして、完全に唇音のみからなる言語体系がありえないかどうか、夢のような思弁にふけってみました。そして、もし家内が私を、平々凡々な問いかけで現実に引き戻さなかったとしたら、自分の黙想を次のような題名の小冊子として世に問いかねなかったと思います。『唇音による言語、あるいは、舌と歯の助けを受けずして、いかにして説教を行なうべきか。《教会関係老身障者協会》のために刊行され、むろん何某大主教の許可により捧げられたもの』。

 「さて、別の物語を聞いてください。私の友人のひとりである長老派のスコットランド人が上京してきて、こう云うのです。『スポルジョンの話を聞きたいんだ。一緒に行こうじゃないか』。さて、私はいやしくも高教会派の国教徒とみなされていますので、こう答えました。『何だって? 僕があんなカルヴァン主義者の――バプテスト派の――あれほど《国教会》の間近にいながら、その境内の中に入らないでいる破廉恥な男の話を聞きに行くんだって?』 『気にすることはないさ。行って彼の話を聞こうじゃないか』。よろしい。私たちは昨日の朝、サリー公園の《音楽堂》に出かけてきました。最初私は、奇妙な後ろめたさを感じていました。それは、日曜日に劇場の午前公演を見に行くような気分でした。また、金に糸目をつけずに立てられた木摺と合板製の『山稜の地』を、突風が湖水の上に吹き飛ばしている姿も、この目新しい光景によって落ち込んだ思いを浮き立たせるものではありませんでした。考えてもみてください。一万人からなる会衆が、講堂になだれ込み、桟敷席に上っては、ガヤガヤ、ざわざわと話をしながら、うじゃうじゃと群がり、――巨大な蜜蜂の巣箱にも似て、最初はなるべく良い場所を、最後にはどんな場所でも必死に確保しようとしているのです。三十分以上も待った後で――というのも、座席に座りたければ、少なくともそのくらいの時間は早めに出かけなくてはならなかったからですが――スポルジョン氏が演壇に登りました。ざわめきと、押し合いへし合いの後にやって来たのは、低く抑えられ集中した興奮と、敬虔な言葉の呟きで、それは電流のように、たちまちその場にいた全員に流れ込むかに思われました。そして、この磁力の鎖で説教者はほぼ二時間、私たちを堅く縛りあげました。私は彼の講話の要約を示すつもりはありません。ただ、こう云うだけで十分でしょう。彼の声は、この広大な集会のあらゆる人に届くほど力強く声量豊かであり、彼の様式は、時には気さくで、時には大げさなものとなりましたが、常に嬉しげで、しばしば雄弁なものでした。彼の教理について云えば、カルヴァン主義者もバプテスト派も、スポルジョン氏が携わっていた戦闘の最前線には姿を現わしませんでした。彼は、容赦のない憎しみをもって、《福音》の武器を用いて、不信心や、勿体ぶりや、偽善や、高慢や、日常生活でたやすく人にからみつく心中の種々の隠れた罪に対する戦いを挑んでいたのです。そして、すべてを一言で要約すれば、この人物自身については、彼は人に感銘を与え、その真摯さを完璧に確信させていると云うだけで十分でしょう。

 「しかし私が、何某大主教のもぐもぐ云う言葉を子どもたちが聞いていた際に欠けていた霊的食物や、私自身がサリー公園で受けた饗宴についてここまで書き連ねてきたのは、決してこの2つの物語から何か実際的な結論を引き出したいと願うからでも、これを教訓として指摘したいからでもありません。ここにいる人物と同じくらいカルヴァン主義的な聖職禄所有者は国教会にたくさんいます。ただ、その人々は、老ラティマーが云うように、その日の典礼式文と聖句を『もぐもぐ、もごもごと』読み上げているだけなのです。ここにいる人物は、成人に施される全身の浸礼、あるいは、そうした類の何かが洗礼には必要だと云っています。これは彼の教理上の欠陥ですが、もし私が何某大主教の補助司祭として事の吟味に当たっていたとしたら、こう云ったことでしょう。『猊下。もしよろしければ、ここにいる者は雄弁に説教することができ、英国一大きな教会をもその声で満たすことができます。それにもまして好都合なことに、人々で満たすことができます。ですから猊下。もしよろしければ、この首都には、聖ポール大寺院とウェストミンスター寺院という2つの教会がありますが、猊下はいかにお考えでしょうか。この異端的なカルヴァン主義者で、バプテスト派で、一万もの人々を引き寄せることのできるスポルジョン氏を招いて、どこかの日曜の朝に、いずれかの教会の身廊で彼の少しその声を試させるというのは? いずれにせよ、このことだけは保証いたします。もし彼がウェストミンスター寺院で説教するとしたら、私たちは、近年のかの教会で習慣になっている不名誉な慣行を繰り返すことはなくなるでしょう。この教会では、頌歌の前に説教を行ない、そうでなければ貧弱な説教が始まったときに教会を出て行くはずの人々が、それに続く音楽のために、いやでも残らざるをえないようにしているのです』。

 「しかし、残念ながら私は、何某大主教の補助司祭として事の吟味に当たっている者ではなく、できることといえば、ただ、自分の住まいである信心の砂漠から、貴紙にこのように投書し、署名することしかありません。

 「ウェストミンスター区、広経札街、    シッコの住人より」

 その論説の中で、『タイムズ』紙自身、上記の手紙の主題について、その云い分を示していた。

 「ひとりの怪物説教者という突然の現象がそれなりの驚愕を喚起するとしても驚くべきではない。それで、もし私たちの寄稿者『シッコの住人』が、それと同様の礼拝の恩恵を《国教会》がこうむっていないことを遺憾としているとしたら、なぜそうした例が《非国教会》にだけ限定されなくてはならないのかを問うことは全く自然なことである。なぜ《国教会》には、群衆を引き寄せる怪物説教者がいないのだろうか?

 「身体的なことを云えば、《国教会》が、少なくとも一世代の間に一人か二人は、スポルジョン氏のそれにひけをとらない大音声を授かっている天性の演説者をその聖職者階級の中に有さないということはありえない。大声は明白な賜物であり、天賦の資性である。それは、それを用いるべき目的を何も持たず、その素晴らしい器官から発すべき思想を何も持たない者、事実、講壇の上で勿体をつけることしかしない、ただ大声なだけの人物に、自然によって見境なく投げ与えられることもありえる。だが、思想と目的を有する人物にそれが与えられたとしたら、その効果はどうなるだろうか。ならば、いかにして《国教会》にひとりも怪物説教者がいないということがあるのだろうか?

 「その理由は、大声には、それを発揮すべきしかるべき題材が必要だということにある。周知の通り、声は自然の中でも最も心情に共鳴するものである。それは、闇雲に大声になったり、か細くなったりすることはありえない。ある事がらは叫ばれるべきものであり、他の事がらは囁かれるべきものである。誰も、数学上の公理を叫びはしない。誰も、起こるかもしれないし起こらないかもしれないことの考量に雷のような声を発したりはしない。――Nemo consilium cum clamore dat.[叫喚とともに助言を与える者はいない]。そこに何らかの強固な意見、何らかの大胆な真理があってこそ、人は大喝するのである。キリスト教信仰の場合、そこには何か教理の形において途方もないものがなくてはならない。回心の教理や、不可抗の恵みの教理を叫ぶことはできる。だが、人が穏健で微妙な自由意志の教理を述べようとしているとしたら、たといどれほど懸命に叫んでみようとしても、その人は、いつのまにか物静かに語っていることに気づくであろう。ということは、大音声には、それを発揮させるだけの『大きな』教理がなくてはならないのである。しかし、英国国教会は、どちらかというと『大きな』教理を嫌っており、その一般的な基準は『大きな』教理に反対している。国教会の土台は釣り合いのとれたものであり、正反対の真理を混合し、自らの教えるところを思慮分別ある抗議や否認で和らげている。国教会は、カトリック教義を説きながらもローマに対する抗議を伴わせ、プロテスタント教義を解きながらもジュネーヴに対する抗議を伴わせているのである。

 「これは非常に思慮に富んでおり、非常に真実なことではあるが、大衆説教に好都合とはいえない。国教会を二分する一方の派では、叫ぶことを、威厳の原則に背くものとして間違っていると考えている。この派はこの点において、特に自らを『無作法な世』と対比させる。無作法な世は常に叫び立て、騒がしく粗野なあらゆることを行なっており、厚顔無恥な異端者に満ちているものと考えられているのである。そしてこの派は、宗教的真理を口にする際の、その洗練さと趣味の良さを鼻にかけている。そうした真理は、この派の考えによると、一種の不鮮明な、また切れ切れのしかたで口にされるべきであり、善人の敏感な耳には達するが、俗悪な者の耳は通り過ぎるべきなのである。こうしたすべては非常に卓越した、洗練されたことではあるが、大衆説教にとっては不都合である。ここまでが、一方の派である。他の派は、そうしたければ大声で語ることができる。それに反対するいかなる理論もいだいていないし、その諸教理はそれを認めている。だがこの派は、面倒事を好まない。それに加えてこの派は、強烈な教理を信奉していると公言してはいるものの、実際には、それを相当程度に加減し、《国教会》の穏健な基準に合わせて曲げている。

 「このようにして、1つには批判に対する恐れや、認められた基準に対する敬意や、怠惰さや、威厳や、その他の数ある理由により、また1つには、ある者らが叫ぶことを異端的であると考え、別の者らが大衆向けになるのは無作法であると考えるという理由により、英国教会には全く怪物的な説教がないのである。これは確かに1つの問いかけを許すものである。果たして私たちは、自らの一般的な方針において用心しすぎてはいないだろうか? ある大きな理論的正しさを獲得するために、別の大きな実際的な効率性を犠牲にしてはいないだろうか? それは1つの問いかけを許している。もしや、多少は途方もなく、多少は一方的であることを大目に見ても、健全で、実質的で、自然で、力ある訴えかけを人々の心に向かって行なっても良くはないだろうか? 私たちとしては、福音派の国教会聖職者が大声を有すること、スポルジョン氏が行なっているようなことをすることに何ら反対するものではない。両者の教理は、現実にはおおむね変わりないのである。だとすれば、なぜ批判を恐れて福音派は自分たちにありうべきほど効果的な者となることから妨げられなくてはならないのだろうか? しかし、因習的な基準の影響力はあまりにも強く、良心のように、『万人を臆病者にしてしまう』のである」*3

 この時期には、発議されていた新しいタバナクル[大会堂]建設の資金援助のための集会が、折に触れ開催されつつあった。こうした一連の集会の嚆矢と呼ばれたものが招集されたのは、3月10日、ホクストンの本町タバナクルにおいてであり、そのときスポルジョン氏は詩篇102篇16節の言葉から講話した。「主はシオンを建て、その栄光のうちに現われる」*。彼はまた、彼が最初にロンドンにやって来た際の話も行ない、それ以来の自分の奉仕に伴った祝福について多少の言及を行なった。3月23日の月曜日には、ニューパーク街で別の集会が催され、その司会者であった聖メアリー・クレイ教会のW・ジョインソン氏は、「その熱情と、霊性と、実際的な常識」のゆえに、めざましい効果をあげた。同時代の記事が告げているところ、「彼はその集会に向かって、彼自身が条件付けでささげたのと等しい金額を寄付するように、何度も強く要請した。そして、その晩の間に、このような形で彼がささげた寄付金は、ほぼ百七十ポンドに上った。スポルジョン氏は、彼自身の会衆に対して、彼らが決して忘れないだろうような、白熱した雄弁な懇請を行なった」*4。以下にあげるのは、この時期に刊行された、『キリスト教界への訴え』からの抜粋である。――

 「ニューパーク街で伝道活動を行なっているC・H・スポルジョン師の働きに、《天来の》祝福の下にあって、途方もない、また、ほとんど空前の成功が伴っていることにより、大規模な新会堂を建てることが焦眉の急となっている。

 「1854年5月に、C・H・スポルジョン師が牧師職に就任した直後から、同会堂に集う人々の人数は急激に増加し、会堂の拡張が絶対に必要と考えられるまでとなった。このことは、1855年5月に、工費1800ポンドを費やされて達成された。同会堂が再開所されるや否や、あらゆる指定座席に借り手がつき、数百もの申し込みが、空席不足のため謝絶されなくてはならなかった。またこの教会は、急激な早さで増加したため、同会堂では聖餐式に集う教会員たちを受け入れるのに足りなくなるほどとなった。その会員は860人を越えており、そのうち550人以上は、この二年九箇月の間に加入させられたのである」。

 その間、《音楽堂》における集会は、世間の呼び声があまりにも高くなったため、毎回、立錐の余地もなくなると、大人数の人々の入場を断らざるをえなくなった。5月17日の日曜日には、一千人以上の人々が、そのようにして失望させられた。そこには、その称号が言及されていた多くの貴顕淑女たちが出席しており、かの不運な北極圏探検家の未亡人たる、フランクリン夫人もそのひとりであった。その会衆の中には、他にも、通常の人々以上に興味深い経験を有する人々がいた。例えばそこには、かつてノリッジで世俗主義者の意見を活発に唱道していた人物がいた。だが、スポルジョン氏の礼拝の1つによって、その生き方の誤りから回心させられた彼は、単にキリスト教信仰を受け入れたばかりでなく、自分の不信心な出版物すべてを公衆の前で焼き捨てていたのである。それとは別に、三十年間一度も礼拝に出たことがないという人物も、そこに出席していた*5

 8月9日の日曜日の集会に言及して、『モーニング・アドバタイザー』紙が述べるところ、会衆は、「固唾を飲んで耳を傾け」ていた。その説教の主題は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」、であった。ジェームズ・グラント氏は、その場にいたらしく思われる。彼の新聞にはこう評言されていたからである。「私たちは、ある主題が、これほど見事なしかたで扱われるのを聞いたことは一度もない」。その講話は実践的なものであった。そして、このように付言されていた。「時としてスポルジョン氏が、その奉仕の中でこのような主題を選ぶのは、その《主人》に従ってのことにすぎない。主の説教は、その明敏な洞察において稀に見るものであった」。大概の説教の主たる欠点は、それがあまりにも、もっぱら教理的すぎるか、もっぱら実践的すぎるかというところにある。《音楽堂》における説教者は、幸いにも両者を混ぜ合わせていた。そして、この講話が広く流布されるべきであるとの示唆がなされている。評者が云い足すところ、「いかなる教派的あるいは神学的意見を持つ人であれ、この説教の中のただの一箇所についても異議を唱えることはできないであろう。それでいながら、これは、これまで私たちが耳にする機会を得た、この種のいかなる講壇説教にもまして忠実で、大胆で、心を探るものなのである。スポルジョン氏がこれほど強烈な真剣さと超越的な力をもって強く主張した、この偉大な倫理的義務の数々を、世間一般がその生活と生き方の中で習慣的に具現していくとしたら、私たちはたちまち大いなる社会的、道徳的千年期の到来を目にすることになるはずである」*6

 上記のような意見はいやまさる数の友人たちによっていだかれていたが、しかしながら、今なお多くの人々はスポルジョン氏のうちに、その見事な声のほか、何1つ魅力的なものが見当たらないと公言していた。彼らに云わせれると、彼の説教は野卑であり、かつ彼の才能は凡庸以上のものではなかった。おそらく1857年には、この若き説教者の兄弟教役者たちのうち、決して少なからぬ割合の人々が、部分的には次のような評価に同意していたとさえ云えたであろう。――

 「講壇、というよりは、むしろ演壇の上で、スポルジョン氏はゴフの模倣をし、行ったり来たりし、あれこれの劇的な演出によって自分の説教を活気づける。彼はその聴衆にとって『大の仲良し』である。彼は、彼らに向かって冗句を云い、くだけた云い回しや、地口や、ことわざを用いる。いかに神聖なものであれ、彼のうぬぼれきった手で握られずにすむものはない。彼は、神の御前であれ、人前においてと同じくらい慎みも遠慮もない。彼にとって、永遠はその顔覆いをはずしている。失われた者たちの苦悶の中にも、贖われた者たちの喜びの中にも、彼が学ぶべきものは何1つない。彼が不遜にも叫んでいる通り、彼の『甘やかな《救い主》』が彼にすべてを告げてくれたからである。もちろん時には、彼の唇に粗雑な雄弁がのぼることもある。あるいは、立て板に水の大げさな熱弁――と、周囲の群衆が受けとるもの――が宿ることもある。弁士は常にその聴衆によって舞い上がるものである。興奮した何千人もの人々が、自分の片言隻句に耳を澄ましているのだと思えば、誰であれ熱を帯びないまま、無感動でいられない。言葉も思想も、聴衆から彼に伝わっていくのである。その時間には興奮がある。その主題には興奮がある。生きた大集団には興奮がある。そして、説教者が、身をもって味わう地獄について語り、身をもって味わう天国について描き出すにつれて、感覚的な性質が喚起され、ある人の生涯に変化をもたらすこともないではないであろう。小さな原因が大きな結果を生み出すこともありえる。たまたま発された1つの言葉が、新しく、より善良な生活をもたらすきっかけとなることもありえる。だが、思慮深い聞き手であれば、そこでは何も学ばず、何を感ずるようにも仕向けられないであろうし、キリスト者としての徳を建て上げるという点では、家にとどまっていた方がましであったろう。そうした人にとってスポルジョン氏は、せいぜい人並以上に流暢な説教者であるとしか思われないであろう。十中八九その人は、一度でもスポルジョン氏の集会に出た後では、騒々しい混雑にむかつかされ、神の家というよりも、一個のデルフィ神殿が思い起こされ、陳腐な祈りにむかつかされ、その弁舌のあやしげな様式にむかつかされ、この説教者の信条の狭量さに、また、ほむべき神の栄光に富む福音が無惨なしかたで誤伝されることにむかつかされ、天来の霊感と、厚かましい図々しさや革質の肺とを取り違えることのできる愚かしさにむかつかされているであろう。ほぼ間違いなくその人は、帰宅して、こう告白するであろう。スポルジョン氏は、ロンドンで最も若く、最も声が大きく、最も評判の高い説教者ではある。――だが、それだけのことでしかなく、劇場に出かけはしないが劇場で味わうような興奮をあえぎ求める人々の寵児なのだ、と」*7

 メトロポリタン・タバナクル内にいる、スポルジョン氏の古くからの友人たちは、この当時絶え間なく行なわれていた、田舎への説教遠征にまつわる多くのことを記憶に呼び起こすことができる。この亡牧師の親密な友であり、多年にわたり彼とともにキリスト教の働きに携わっていた人物、ヘースティングズのジョージ・ゴールドストン氏は、以下のような田園地方における愉快な懐旧談を寄せてくれた。これは、報道界のやたらと気むずかしい批評家たちが何と云おうと、実際にはスポルジョンが、抜群に民衆のお気に入りの説教者であったことを証明していると云えよう*8。――

 「その伝道活動の初期の時代から、スポルジョン氏は、大勢の田舎の人々が福音を聞くためにやって来る集会のただ中にあるときが、ことのほか幸せそうであった。彼は緑の野か、郊外の牧草地で彼らに説教した。しかし、後年になると、野外の空気にさらされる危険を避けることを余儀なくされるようになり、その結果、そうした機会に語られた彼の話のほとんどは、彼の説教集の中には印刷されていないのである。

 「しかしながら、彼の牧会していた教会の古手の会員たちの何人かは、このような折に自分たちが目撃した、いくつもの素晴らしい光景を記憶によみがえらせることができよう。何と大群衆の田舎の人々が、何という距離を越えてやって来たことか! ありとあらゆる姿かたちの荷馬車や、幌付き馬車や、四輪馬車や、二輪馬車や、自家用四輪馬車が何と集まったことか!

 「1857年夏、こうした折の1つに、数千人の人々が、メルボーンと呼ばれる村にあるジェームズ・ローリングス氏の牧草地に集まった。これはケンブリッジから数マイル離れた小村である。この寂しい村がこれほどにぎわったことは、おそらくこれまで一度もなかったであろう。というのも、一週間以上も前から、人々はその準備をするために忙しく立ち働いてきたからである。勝ち誇った常緑樹の門がいくつも、あでやかな花々をそここに差し挟み、歓迎の題辞や言葉を頂いては、村の共用芝地やその他の空き地から私たちを出迎えていた。店々は、店主たちの手持ちの幔幕を貼り巡らし、貧者たちの掘っ建て小屋の多くは、この若々しい説教者の来訪に関して感じられていた興味をまざまざと示す数々のしるしを見せていた。

 「とうとう当日がやって来た。天候は、これ以上ないほどに望ましいものであり、人々はケンブリッジから、ロイストンから、バルドックから、ヒッチンから、そして周辺の他の多くの場所からやって来た。ついには、その礼拝式が行なわれることになっていた牧草地が(きわめて広大な土地であったが)、ありとあらゆる種類と形の乗り物――下は粗末な驢馬荷車から上は立派な馬に引かせた高級馬車に至るまで――で、半分は一杯になるほどであった。この説教者は、この我慢強い群衆――その多くは何時間も待っていた――に向かって語りかけることになっていた荷車の上に立ち、こうした種々の乗り物を見てとって、こう云った。『愛する方々は、自分の乗り物から馬を放してやるのが良いと思う。私たちは、馬の徳を建て上げることはできない。だが、乗り物の方は、乗り手の居心地を非常に良くするものだから』。このことがなされ、また、今や時刻が礼拝開始時間として通知されていた三時になったので、スポルジョン氏は、声量豊かで明瞭な声によって祈りを始めた。誰もが心を動かされたように思われ、粛然たるものが人々の上を覆った。そして、明らかにこれからなされることに対して、人々が一心に注意を払うことは確実となった。その後、朗らかな賛美歌が告げられ、心から歌われた。それは、この大勢の集まりの中のあらゆる顔が、喜びで輝くほどであった。

 「それから話がなされた。それは、きわめて甘やかに単純で、きわめて愛情のこもった真剣さでなされた。――《福音》が、誰にでも理解できる言葉遣いで語られた。その訴えは、きわめて直裁で、多くの人々は、その言葉が自分個人に向けて語られたものと感じた。

 「それから、その牧草地に空き間が作られ、野外茶会の準備がなされた。さらに夕方には別の話がなされた。およそ千百人の人々が、その日の午後には、その牧草地でお茶を飲んだものと見積もられた。着席できたのは、ほんの一部の人々だけであった。

 「夕方に集った会衆の大部分は、その土地から数哩以内に住んでいる労働者たちからなっていた。先に乗り物を連ねて遠方からやって来ていた人々は、すでに帰路についていたのである。だが、その数は、午後の集会の人数に劣るものとは見えなかった。そしてそこには、話を聞こうとする同じ熱心さがあった。人間精神に及ぼされる《福音》の誘引力は、それほど大きいのである。夕暮れまで続いたその礼拝式は、何にもまして印象深かった。そしてメルボーンの多くの人々の心が、その日喜ばされた。それから選ばれた数名の人々は、この愛する説教者に付き添って、とある友人宅へと行った。そこで彼はもてなしを受けたのである。その一行のひとりであった私は、その晩の家庭祈祷会のことを今も鮮明に思い起こすことができる。そこでは、その日の話を聞いたあらゆる人々への祝福のみならず、あらゆる助け手への祝福も乞い求められた」。

 自宅から離れた場所で説教する際に、今やスポルジョン氏は、通常、自分の新しい礼拝堂(タバナクル)の建設基金のために献金がなされることを条件とするようになっていた。当初は、一万二千ポンドもあれば、必要とされる会堂のため十分であろうと考えられていた。だが、1857年の秋に五千ポンドが集まったときには、総額二万ポンドが要請された。そして、その額の半分が確保されるまで、建築作業は開始されないものとされた。

 メトロポリタン・タバナクルの建設は、最終的には、三万二千ポンド近くの費用がかかることとなった。それは、最初からそのような額が必要とされると分かっていたたら、ほとんど絶望に近い感情を吹き込んでいたであろうような金額である。

  


*1 『一目撃者による、C・H・スポルジョン師と過ごす安息日の朝。於1857年4月26日、ロンドン、サリー音楽堂』。この冊子はチェルトナムで刊行された。[本文に戻る]

*2 『バプテストの使者』、第5巻、p.167。[本文に戻る]

*3 『タイムズ』、1857年4月13日。同時代の一言明によると、「シッコの住人」とは、ほかならぬ《新聞界の木星》その人であると宣言されていた。[本文に戻る]

*4 『バプテストの使者』、第5巻、p.75。[本文に戻る]

*5 『バプテストの使者』、第5巻、p.167。[本文に戻る]

*6 1857年8月14日付の『ブリティッシュ・スタンダード』の引用より。[本文に戻る]

*7 『ロンドン講壇』、第二版、pp.157-159。[本文に戻る]

*8 ここで、1つ説明することが許されて良いであろう。すなわち、この記事、あるいは、他の友人たちから寄せられたこれに類する事がらは、それぞれの著者からガーウィン・カーカム氏に送られたものであった。同氏は、野外説教者としてのスポルジョン氏を本書のために描写する意図を有していたのである。カーカム氏は1893年5月8日に物故し、広い範囲の友人たちからその死をいたく惜しまれた。そして、彼のもとに送られた様々な史料は、《野外宣教団》の書記の方から私の手に渡されたのである。[本文に戻る]


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