HOME | TOP | 目次

懲らしめ

NO. 48

----

----

1855年10月28日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない』」。――ヘブ12:5


 神の民は、万が一にも決して自分の罪のために罰されることはない。神は彼らのもろもろの罪をすでにキリストというお方において罰しておられる。キリスト――彼らの身代わり――が、彼らのあらゆる咎のための完全な刑罰を忍ばれたので、正義も、神の愛も、キリストが支払われたものを二度と再び取り立てることはできない。司法的な意味において、神の子どもに罰が下ることは決してありえない。その人が、自分の《審き主》としての神の前に引き出されて、咎について責められることは決してありえない。なぜなら、その咎は、とうの昔にキリストの双肩に移されており、その罰はその人の保証人[キリスト]の手から取り立てられたからである。だがしかし、罪が罰されることはありえなくとも、また、キリスト者が罪に定められることはありえなくとも、懲らしめられることはありえる。その人は、決して神の法廷で犯罪者として糾弾されたり、自らの咎のために罰されたりすることはないが、それでも、今では新しい関係に立っている。――親に対する子どもという関係である。そして、子としてその人は、罪のゆえに懲らしめられることがありえる。愚かさは神の子どもたち全員の心につながれており、御父の懲らしめの鞭によって、その愚かさを叩き出さなくてはならない[箴22:15]。何よりも大切なのは、罰と懲らしめの区別に注目することである。罰と懲らしめは、その苦しみの性質については一致するかもしれない。一方の苦しみは、もう一方の苦しみと同じくらい大きいことがありえる。地上にいる間から自分の咎のために罰されている罪人と全く劣るところのない苦しみを、キリスト者も受けることがありえる。キリスト者は、この地上で、親からの懲らしめを受けているにすぎないが、それは関係ない。罰の性質については、二者に違いはない。だが、それらが異なっているのは、罰を与える側の思いにおいてであり、罰される者との関係においてである。神が罪人を罰するのはご自分のためである。なぜなら、神は罪人に怒っており、神の正義は晴らされなくてはならず、神の律法は尊ばれなくてはならず、神の命令はその威厳が保たれなくてはならないからである。しかし神は、信仰者をご自分のために罰しはしない。それは、そのキリスト者のため、その人に善を施すためである。神がその人を苦しめるのは、その人の益のためであり、その鞭で打つのはその子の得になるためである。神は、懲らしめを受ける人に対して良いことを意図しておられる。罰における神の意図は、神の栄光を現わすということしかないが、懲らしめにおける意図は、懲らしめられる人が益を受け、その霊的な恩恵と利益を受けることにある。それと、罰は怒りをもって人に課される。神はその人を憤りとともに打ち叩くが、神がご自分の子どもを苦しめるとき、その懲らしめは愛のうちに与えられ、神の打撃は、すべて愛の御手によって加えられる。その鞭は、信仰者の背中に打ちつけられる前に、深い愛情の洗礼を受けている。神は喜んで苦しめているのでも、理由もなしに私たちを嘆かせているのでもなく、愛と情愛からそうしておられるのである。なぜなら、もし私たちを懲らしめることなく放っておけば、私たちが神のちょっとした叱責や、その御手の軽い打擲よりも一万倍も大きな悲惨を身に招くことをご存知だからである。何よりもまず、あなたは、こう受けとらなくてはならない。あなたの困難、あなたの患難がいかなるものであれ、そこに刑罰的なものは何1つないのだ、と。あなたは決して、「いま神は私の罪のために私を罰しておられるのだ」、と云ってはならない。そうしたことを云うとき、あなたは自分の堅実さから落ちてしまっているのである。神にそのようなことはおできにならない。それは一度限り決定的になされてしまっている。「《彼への》懲らしめが私たちに平安をもたらし、《彼の》打ち傷によって、私たちはいやされた」[イザ53:5]。神はあなたを懲らしめているのであって、罰しているのではない。規準に沿って矯正しているのであって、憤りとともに打ちのめしているのではない。その御心には激した不機嫌さは何もない。めった打ちにされることがあるとしても、その御胸には何の怒りもない。その御目があなたの前で閉ざされていても、神はあなたを憎んでおらず、なおも愛しておられる。神はご自分の子らに激怒なさらない。神は、キリストというお方において考えられる罪を何もヤコブに見ることなく、何の不義もイスラエルに見ることをなさらないからである。神は、ただあなたを愛すればこそ、あなたがたが子らであればこそ、あなたを懲らしめられるのである。

 もしかすると今朝、この建物の中のある人々は、神の懲らしめの御手の下を通り抜けているかもしれない。そうした人々にこそ、私は語らなくてはならない。あなたがたは全員が全員、試練の中にあるわけではない。私の知るいかなる父親も、家族全員を一度に懲らしめたりはしない。結局において、神が御民を苦しめられるのは、彼らの過失にくらべれば、ごくまれなことであって、私たちは、この会衆の中にいる神の子らの半分も契約の鞭の下をくぐり抜けつつあるとは思われない。だが、たといあなたが今その下にいないとしても、あなたの人生の中でいつかはその下をくぐり抜けなくてはならないであろう。それで私たちはこう云えるであろう。この話はあなたの現在の状況にとっては有益なものでなくとも、心におさめて覚えておくならば、将来いつの日か取り出されることであろう、と。あたかも葡萄酒が保存することによって味わいを失うどころか芳醇さを増すように、あなたはそれが自分の魂にとって気付け薬の一瓶であり、あなたの心に有益なものであることを悟るであろう。

 神の懲らしめの御手の下にいる人が、常に非常に厳重な警戒をしていなくてはならない危険が2つある。それはこうである。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」。これが1つのことである。その一方で、「主に責められて弱り果ててはならない」。2つの悪。その1つは鞭を軽んじることであり、もう1つはその下で弱り果てることである。悪は常に連れ立って歩く。罪は常に組になって行動する。驚くべきことに、世の中には常に2つの悪が、相伴って見いだされる。私たちは時として、極端な立場は危険であると云ってきた。そして、こうした理由により、1つの悪にはその対極があり、それは元の悪と同じくらい害悪をもたらすのである。ここに何があるか見てみるがいい。ここには鞭を笑い飛ばす誇り高ぶった高慢がある。その一方には、その下で弱り果てる、愚かな虚弱さがある。私が一生を通じて悟らされてきたところ、人生には常にスキラとカリブディスがある。一方には危険な岩があり、もう一方には渦巻きがあって、その間に航路を取るのは危険なことである。片方で私たちは、自分には何かができると感じ、自分の行ないに頼るよう誘惑され、それを避けようとすると、怠惰に陥り、何もしなくなってしまう。時として私たちは自分が成し遂げたことに鼻高々となる。それを避けようとすると、絶望と失意に落ち込んでしまう。物事には常に相対する両極端の悪があるのである。義の道とは、2つの大きな過誤の山間を通る険路である。そして、キリスト者生活の大きな秘訣は、狭い谷間を曲がりくねって進むことにある。願わくは神が、私たちを助けてそうさせてくださるように! 私たちはこの2つのことを今朝、指摘したいと思う。

 懲らしめられているキリスト者が陥りがちな最初の悪は、このことである。その人は、神の御手を軽んじることがある。第二のこととして、その人は責められて弱り果てることがある。まず最初のことから始めよう。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」。

 I. このことは、5つのしかたでなされる。この主題について論ずる中で私は、そのそれぞれを正す方法も指し示すであろう。

 第一に、人が主の懲らしめを軽んじるのは、それに対してつぶやくときである。エフライムは、くびきに慣れない子牛のようである[エレ31:18]。神の子どものひとりが初めて鞭を感じるとき、その人は子牛のようになる。――それに逆らい、我慢ができない。その人は馴らされていない子馬であって、はみを両肩に感ずると、後ろ足で宙に突っ立ち、それに対する忌避の念をありとあらゆるしかたで表わす。神の子どもが初めて御父の御手からの打撃を感じとるとき、おそらくその人は自分の優しい御父に向き直って、こうつぶやくであろう。「なぜ私がこんな目に遭わなくてはならないのですか? なぜ私がこんな罰や苦しみを受けるのですか? なぜ懲らしめられなくてはならないのですか? 私が何をしたからといって苦しめられたり懲らしめられたりするのですか?」、と。ことによるとあなたは、心に恵みを有している者がこのような口のきき方をするだろうかと訝しがるであろう。だが現実には、私たちはそう云っているのである。――口の言葉によってでなくとも、心の思いにおいてそうするのである。私たちはじっと座ってこう云うからである。「私は悩みに会った者[哀3:1]。他の者らにまさって試みられ、苦しめられた者。私くらい懲らしめを受けている者はだれもいない」、と。そして私たちは、ねたみのこもった目で周囲を眺め、こう叫ぶ。「あの男は私よりも幸せだ。――あの男の悲しみや苦しみは私よりも軽い」、と。私たちはあまりにもしばしば、自分の状況を最悪の場所と考え、自分を神の民の中で最も苦しめられている者だと云い表わす。聞こえをはばかって口でそうとは云わなくとも、それが事実である。今のイスラエルのただ中にも、古のイスラエルの宿営の中と同じように、つぶやく者たちがいる。神の民の中には、鞭が振り下ろされるとき、それに反抗して叫び、主が怒らないように御子に口づけする[詩2:12]代わりに、主に向き直って、苦痛をもたらす神のご経綸を非難する者たちがいる。私たち自身知っているはずである。自分が得た、ちょっとした病が不都合なものであるあまり、ほとんどだれからも話しかけてもらえないとき、それがいかなるものかを。また、もし私たちがちょっとした痛みを――ことによると頭痛を――得た場合、私たちは知っているはずである。そのとき、いかに自分には世界中が間違っているように思われ、そのため嘆き、悩み、憂鬱になるかを。あなたがたの中の多くの人々は、愚かにも、自分の財産を奪われたとき、こう叫んだ。「あゝ! 神が何もかも取り去ってしまった。神は私を打ちに打った。神は不親切な神に違いない」、と。またあなたは、友人たちを失ったとき、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]、とは云えないのを感じてきた。あなたは思った。「おゝ! なぜこのようなことが? シメオンはいなくなった。ヨセフもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ[創42:36]」。私たちはつぶやいてきた。さて、この勧告を聞くがいい。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」。神の懲らしめにつぶやくとき、私たちはそれを軽んじているのである。忍耐こそ、それを受け取る唯一の道にほかならない。忍従が欠けているのは、私たちが神の懲らしめの御手を軽んじている証拠である。

 あなたに一言云いたい。おゝ、つぶやく人よ! なぜあなたは、あなたの天の御父のご経綸に向かってつぶやかなくてはならないのか? 御父はあなたを当然受けてしかるべき程度以上に厳しく取り扱うことがおできになるだろうか? かつてのあなたがいかなる反逆者であったか考えてみるがいい。だが御父はあなたを赦されたのである。確かに、もし御父が今あなたに鞭を当てることをお選びになるとしても、あなたが叫ぶ必要はない。あなたは読んだことがないだろうか? 古のローマ皇帝たちの間では、奴隷を自由にするとき、頭に一撃をくらわせてから、「行って自由になれ」、と云う習慣があったことを。あなたの御父があなたに加えられたこの一撃は、あなたの自由のあかしなのである。では、あなたは、御父があなたを相当強く打つからといってぶつくさ云うのだろうか? 結局、御父の打撃は、あなたの犯した罪悪よりも少なく、あなたの咎よりも軽くはないだろうか? あなたは、あなたのもろもろの罪が受けて当然なほど激しく打たれただろうか? あなたの胸のうちにある腐敗を考えてみるがいい。ならば、あなたは、それを追い出すために数多くの鞭が必要であることを不思議に思うだろうか? 自分を量ってみて、いかに多くの金滓があなたの黄金と混じり合っているか見きわめてみるがいい。ならば、あなたは、自分が有するほど多くの金滓を取り除くのに火が熱すぎると思うだろうか? 左様。あなたの入っている炉はまだ熱さが足りないではないかと私は思う。金滓は多すぎるのに火は少なすぎる。鞭は十分に打ち下ろされていない。というのも、あなたのその高慢な精神は、あなたの心が徹底的には聖められていないことを証明しているからである。確かに、それは神と正しい関係にあるかもしれないが、あなたの言葉はそうしたもののようには聞こえず、あなたの行動はあなたの性質の聖さを描き出してはいない。今うめいているのは、あなたの中の古いアダムである。不平を云うなら用心するがいい。つぶやく者にはつらい運命が待っているからである。神は常に、その子らが最初の打撃を忍耐強く忍ばない場合、もう一度懲らしめられるからである。私はしばしば、ある父親がこう云うのを聞いたことがある。「坊主。もしこれで泣くなら、次にはもっと泣くものをくれてやるぞ」。それと同じく、もし私たちが小さなものにつぶやくなら、神は私たちが泣かされるようなものをお与えになる。もし私たちが何の理由もなしにうめくとしたら、神は私たちをうめかせるものをお与えになるであろう。忍耐して座っているがいい。主の懲らしめを軽んじたり、主に怒りを発してはならない。主はあなたに怒ってはおられないからである。主があなたを厳しく扱っていると云ってはならない。謙遜な心になり、こう語るがいい。――「よろしゅうございます。おゝ、主よ! あなたは、あなたの懲らしめにおいて正しくあられます。私は罪を犯したのですから。あなたは、あなたの鞭打ちにおいて義であられます。私は自分をあなたに近寄せるのにそれを必要としているからです。また、もしあなたが私を、矯正もせず、懲らしめもせずに放っておかれるとしたら、あわれなさまよい人である私は、死の淵を越えて行き、永遠の破滅の穴へと沈み込むに違いないからです」。こうしたことが、主の懲らしめを軽んじるということの第一の意味である。私たちはその下でつぶやくことがありえる。

 第二に、私たちが主の懲らしめを軽んじるのは、私たちがそんな必要はないと云うときである。人生の中で私たちに起こることの中には、私たちが、たちまち摂理だと決めつけるものがある。もし私たちの祖父が死んで五百ポンドを私たちに遺してくれたとしたら、それは何とあわれみ深い摂理であろう! もしも商売上の何か不思議な偶然によって私たちが突如として巨富を得たとしたら、それはほむべき摂理であろう! もし何かの事故が起こっても私たちが守られ、かすり傷1つ負わなかったとしたら、それは常に摂理である。しかし、かりに私たちが五百ポンドを失ったとしたら、それは摂理ではないのだろうか? かりに私たちの会社が破綻し、商売が失敗したとしたら、それは摂理ではないのだろうか? かりに私たちがその事故によって足を折るとしたら、それは摂理ではないのだろうか? そこに難しいものがある。良い出来事の場合は常に摂理である。しかし、私たちの気に入らないようなことが起こるとき、なぜそれは摂理ではないのだろうか? 確かにそれは摂理に違いない。というのも、もし一方のことが神によって定められているとしたら、もう一方もそうであるからである。こう書かれている。「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者」[イザ45:7]。しかし、私たちが好都合な摂理を不都合な摂理よりも上に置くとき、私たちが主の懲らしめを軽んじていないかどうかは怪しいと思う。というのも、私が思うに、不都合な摂理は、好都合な摂理と同じくらい感謝のもととなるべきだからである。もしそうでないとしたら、私たちは、「すべての事について、感謝しなさい」[Iテサ5:18]という命令に背いているのである。しかし私たちは云う。「こんな試練が私にとって何の役に立つのか? これが私の魂にとって有益になりうるなんて絶対にわからない。ここで私は、今の今まで恵みにおいて成長していたのに、私の熱意に水をかけ、私の熱心をくつがえすものがあるではないか。今の今まで私は、確信の山頂にいたのに、神は私を屈辱の谷に至らされたのだ。これが私にとって何になりえようか? 何週間か前まで私には富があった。そして、それを神の御国の進展のために振りまいていた。今や私は無一文だ。これが何の役に立ちえようか? こうしたすべてのことは私に逆らっている」、と。さて、あなたが、こんなものは何の役にも立たない、と云うとき、あなたは主の懲らしめを軽んじているのである。子どもはみな、鞭に大した価値があるとは思わない。子どもの意見からすれば、家中のどんなものでも鞭よりは役に立っている。そして、もしあなたが家具の中でなくてもいいものは何だと思うかと子どもに聞けば、椅子や、卓子や、他のあらゆるものは残しておきたがっても、鞭だけはなくなってほしいと云うであろう。子どもは鞭に何の値打ちがあるとも思わない。鞭を軽んじているのである。あゝ! 私たちもそれと同じである。私たちはそれが私たちに益をもたらすことなどありえないと考える。鞭などお払い箱にして、追い払いたいと思う。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」。あなたがいかに間違っているか示させてほしい。何と! あなたは、自分の無知を振り立てて、神が賢くないと云いたがるというのか? 神は賢すぎて間違うことができないと記されていたと思う。また、私はあなたが、神はあまりにも善良なお方で不親切になどなれないと信じていると考えていた。では、あなたのちっぽけな知恵は、その栄誉の椅子を不法にも自分のものだというのか? あなたの有限の知識は、あなたの《造り主》の前に立ち、そのお方に向かって、あなたのしていることは賢くない、と告げるのだろうか? あなたは、この方のご目的の1つは成就されない、この方は賢くない行動をしている、などと云おうというのだろうか? おゝ、ならば、あなたは厚かましくて傲慢である。そのように語るあなたは、厚かましくて無知である。そのように云ってはならない。むしろ神の優越した知恵の前に素直に平伏し、云うがいい。「おゝ、神よ。私は、暗闇の中であなたが光をかもしだしておられること、嵐雲の中で陽光を集めておられること、深い鉱脈の中で金剛石を形作っておられること、海の底で真珠を作っておられることを信じます。あなたのはかりごとが、いかに測り知れないものであるとしても、そこには底があると信じます。つむじ風や嵐の中であろうと、あなたは1つの道を有しておられ[ナホ1:3]、その道は良いもの、義なるものです。私はあなたが一原子たりともあなたのご経綸を変更することを望みません。それは、まさにあなたがお望みになる通りになるべきです。私はあなたの前にひれ伏し、あなたの知恵が正しい言葉を語っている間、自分の無知には舌をつぐんで黙っていろと云います」。「わが子よ。主の懲らしめを」自分にとっておよそ何の役にも立つはずがないと考えることによって「軽んじてはならない」。

 人々が主の懲らしめを軽んじる第三のしかた、それは、――私たちが主に懲らしめられるのを不名誉だと考えることである。いかに多くの人々が、義のために迫害されるのを不名誉と考えてきたことか! 例えば、ある若者が大勢の職人仲間と一緒に働く職場にいるとする。彼らは彼をあざ笑うのを常とし、ひどい綽名で彼を呼ぶ。――メソジスト、非国教徒、長老派、その他世間にはびこる呼び方がされる。この若者はしばらくの間は耐えているが、それでもこれを自分にとってある種不面目なことだと考える。彼はそれにどう耐えればいいかわからない。それで、しばらくしてから、こうしたあざけりに疲れ切り、こうした侮辱に打ち負かされつつあるのを見てとって、教えを捨てることにする。なぜなら、キリストのゆえに受けるそしり[ヘブ11:26]が自分にとって不名誉であると思ったたからである。わが子よ。もしあなたがこのようにするなら、あなたは主のこらしめを軽んじているのである。もしあなたが、キリストのゆえに受けるそしりを不名誉であると考えているとしたら、あなたはそれを誤って判断している。というのも、それはあなたにふり注がれる最高の名誉だからである。あなたがたの中の多くの人々は、キリスト教信仰によって世の尊敬を集め、上品な社会を歩ける限りにおいて、それを非常に誉れあるものとみなすが、もし神の御国のために艱難に陥ることにでもなると、もしそれが世の人々の物笑いやあざけり、この世の怒声や嘲笑を引き起こすことになると、これを不名誉なことだと考える。しかし、わが子よ。あなたはこの祝福を正しく評価していない。もう一度あなたに云う。神のために懲らしめを受けるのは、人にとって栄誉なのである。人々が私たちに向かってありとあらゆる根も葉もない悪口を云うとき、私たちはそれを不名誉の書にではなく、栄光の巻物に書き記すものである。彼らから口汚くののしられるとき、私たちはそれを損失と記入するのではなく、収益と記入する。私たちは彼らのあざけりを誉れとして受け入れ、彼らが私たちに対して蔑みのこもった笑いとともに投げつける邪悪なものを、真珠や金剛石が授与されたようにみなす。私たちは彼らの誹謗を受け取り、それを神のことばの光に照らして読む。すると、そこには音楽と、誉れ高い調べと、私たちにとって永遠の栄誉となる和音がこめられているのがわかるのである。今ちょっとした困難の下で弱り果て、主の懲らしめを軽んじているあなたを、このように励まさせてほしい。わが子よ。迫害を軽んじてはならない。いかに多くの人々がそれに耐えてきたか思い出すがいい。キリストのために苦しみを受けるとは何という誉れであろう! なぜなら、殉教の冠は、あなたよりも多くの頭によって戴かれているからである。おゝ! 思うに、もし敵がこの額の上に、赤く血に染まった殉教の冠を載せるとしたら、それは私の到達しうる最大の名誉であろう! この柔弱な時代にある私たちは、キリストのために苦しむことができない。神は、私たちを悪い時代に置かれた。なぜなら私たちは、神のために自分が望むようなことと出会えないからである。今の時代は私たちにとって良いものではない。私たちは、今とは違った時代、私たちがより一層キリストと苦しみをともにできる時代を願い求めたい気さえする。あの古のほむべき人々をほとんどねたましく思う。彼らは、キリストのためにより多くを忍ぶことによって、自分たちの勇気と信仰を、あらゆる人々に示す機会を得ていたのである。そして、もしあなたがたの中のある人々が特に困難の多い立場にあるとしたら、他の人々よりも多くの迫害を受ける場所にあるとしたら、あなたはそれを誇りとし、喜びとするべきである。戦闘の最激戦地に立っている者は、最後には最高の栄誉を受ける。古参の戦士たちは、軍の外側に立っていて、ちょこちょこ小競り合いをしようとはしない。むしろ何と云うだろうか? 「中央へ行け、者ども! 中央へ!」 そして彼らは万難を排して血路を切り開き、軍旗のある場所に辿り着き、その戦士は戦闘が激しければ激しいほど、より大きな栄誉を感じる。彼は自分が矢ぶすまの最も飛び交い、槍が雹のように投げ込まれるところにいたのを誇りにできる。「私は軍旗の近くにいたのだ」、と彼は云える。「私は旗手を切り倒したのだ」。戦場の最も激しい地域に向かうことを栄誉とみなすがいい。人よ。恐れてはならない。あなたが武器をとる日に、あなたの頭は覆われる[詩140:7]。神の大盾は、敵のあらゆる矢を簡単にはねかすことができる[エペ6:16]。御名のために大胆になるがいい。なおも喜びながら進むがいい。しかし、気をつけるがいい。もしあなたが後ろを見せるなら、あなたは十字架を軽んじ、主の懲らしめを軽んじるという罪を犯すことになる。そうしてはならない。むしろそれを義のために迫害を受ける誉れ、また栄誉と評価するがいい。

 また、第四のこととして、私たちが主の懲らしめを軽んじるのは、それによって行ないを改めることを熱心に求めないときである。多くの人は、神によって矯正されても、その矯正が無駄になってきた。私の知っている、あるキリスト者たちは、何らかの罪を犯していた。神は、鞭によって彼らにその罪の悪を示そうとされた。彼らは打たれ、その罪を見てとったが、その後も決してそれを改めなかった。これは、主の懲らしめを軽んじることである。ある父親が、息子のした何かのことでその子を懲らしめるとして、その男の子がすぐまた同じことをするとしたら、それは、父親の懲らしめを軽んじている証拠である。そして、それと同じことを私たちは、キリスト者たちについて見ている。間違った生き方をしていたために、神から懲らしめられたにもかかわらず、彼らは同じことをまた行なうのである。あゝ! あなたは、エリという名の人がいたのを思い出すであろう。神は一度彼をお懲らしめになった。サムエルを遣わして、すさまじい知らせを告げさせたときのことである。――すなわち、彼が自分の子どもたちを叱責しなかったので、その子らが滅ぼされるという知らせである。だがエリは、それまでと同じふるまいを続けた。彼は、その耳が鳴るほどのお告げを受けたにもかかわらず[Iサム3:11]、主の懲らしめを軽んじた。そして、間もなくすると神は別の何かを彼になされた。彼の息子たちは殺されてしまった。そして、そのときには、もはや改めるには遅すぎた。その子たちは死んでしまっていたからである。心を改めることもできたかもしれない時を、彼の性格は見過ごしにしてしまった。あなたがたの中のいかに多くの方々が、神に懲らしめられていながら、その鞭を忍ぼうとしてこなかったことか。多くのキリスト者は盲目であって、神の意図を見てとれず、神が彼らから何らかの愚かさを取り除こうとなさるときも、その愚かさをなおも保ち続ける。あらゆる患難がキリスト者に恩恵となるわけではない。聖別された患難だけがそうである。あらゆる試練が、光の相続人をきよめるのではない。神ご自身がその恵みによって聖別なさった試練だけがそうである。もし神があなたを試みておられるとしたら、用心してその理由を探り、突きとめるようにするがいい。神の慰めは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか[ヨブ15:11]? だとすると、それには何か理由があるはずである。あなたは、かつて感じていた喜びを失っていないだろうか? それには何か原因があるはずである。多くの人は、その原因に目を向けさえすれば、今の半分も苦しんでいないであろう。私は時々、1哩か2哩ほどの距離を、びっこを引かんばかりに歩いたことがある。自分の靴の中に小石が入っていたのに、それを見つけ出すために立ち止まろうとしなかったからである。そして、多くのキリスト者も、靴の中にごろごろ石が入っているために何年もの間、びっこを引きながら歩いている。だが、もしその人がそれらを見つけようと立ち止まりさえするなら、楽になるであろう。一体いかなる罪が、あなたに痛みを生じさせているだろうか? それを取り除くがいい。その罪を取り去るがいい。というのも、そうしなければ、あなたは、あなたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れているのである。――「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」。

 もう一言だけ語って、この主題のこの部分を後にすることにしよう。私たちが主の懲らしめを軽んじるのは、神から懲らしめられている人々を軽蔑するときである。あなたは云う。「可哀想な、誰それの奥さん。あの人はこの七年間というもの寝たきりなんですよ。あんな人が教会にいて何になるんでしょうね? 死んだ方があわれみってもんじゃありませんか? 私たちはいつもあの人の世話をして、義捐金をやらなきゃいけないんですよ。本当に、あんな人が教会の何の役に立つんでしょう?」 多くの人がその婦人のところに見舞いに行き、こう云うであろう。「そうですねえ。あの人は非常に良い人柄の人ですね。でも、もしあの人が召されたら、それは、ほっと一息つけるというものですよ」。それは、自分たちにとって一息つけるという意味である。そうなれば、彼女に何も与えなくともよくなるからである。しかし、よく聞くがいい。もしあなたが、神の懲らしめを受けつつある人々を軽視しているとしたら、あなたは彼らを懲らしめておられる神を軽んじているのである。ここにもうひとりの人がいる。その人は神の家にしばしば通っているが、多くの患難と苦痛の中にある。あゝ! あなたは、その人が、そうした肉体の弱さのため、教会の役には立っていないと考える。もしその人が祈るように要請されると、その人の祈りには甘やかな心砕けたものはあっても、万人向きの、きびきびとしたもの、また暖かみはない。すると、ある人々は、家に帰る道すがらこう云うであろう。「誰それ兄弟ですが、あの人はいつも陰気ですな。いつも神のことばを憂鬱に受け取って。ちょっと私はあの人と話す気がしませんね。話し相手なら、もっと陽気で、心楽しい仲間がいいですよ。確信の山頂にいて幸せにしているキリスト者たちがいいですよ。あの人と帰り道が一緒になると思うとぞっとしませんな。あの人ときたら、みじめきわまりない気分をしていて、一緒にいると、本当にうっとうしい思いをさせられますからね」。わが子よ。わが子よ。あなたは主に懲らしめられている者たちを軽んじているのである。その人は懲らしめられつつあるのである。ぜひともそうした人とともにいるようにするがいい。というのも、あなたにはわからなくとも、その人が悲嘆の装いの下にまとっているのは、光の衣だからである。このように懲らしめられている人々のうちには、非常にしばしば、私たちのいかなる者にもまさる大きな知識がある。私は自分の経験からそう云える。神に最も試みられた子らこそ、私が最も多くを学んできた人々なのである。時々私は田舎に行って、ひとりの貧しい、非常に大きな試練に遭っている人に会ってくることがある。以前も話したことがあると思う。あなたがたは、このように語った人のことを覚えているであろう。「これは間違いのないことだがね、もしあんたかわしが、一吋でも地面より高く上がるようなことがあったら、わしらはその一吋分だけ背が高くなりすぎとるのだよ」、と。よろしい。いつぞや私は、別の名言を聞いたことがあるので、それをお分かちしよう。その人は云った。「わしは最近、あの昔なじみの悪魔めに悩まされておってな、随分と長い間、奴を追い払うことができんでいた。だがとうとう、奴がわしのありったけの罪を並べ立て、それを一々わしに思い出させた後で、わしはこう云ってやったのよ。『このごろつきめが! わしは、もうずっと昔に、わしの商売をイエス・キリストに譲り渡したではないか? 貸倒れも含めて一切合切な。ならお前は、そんなもんをここに持ってきて、何をしようというんじゃ! わしは、それをみんなキリストに負わせておる。自分ののれんを全部キリストに譲り渡しておる。そいつらについては、わしの《主人》んとこに行って、文句を云え。わしんとこにやって来て、がたがた抜かすな』」。よろしい。私はそれが結構悪くないと思った。かなりがさつな云い方だが、それは輝かしい真実であった。そして、私は何度もそれを思い返してきた。私たちは、すべてを、貸し倒れ債権も含めて、キリストにお譲りしたのである。主は、私たちののれんをすべて、借金だの一切合切をみな、受け取られた。私たちのあらゆる罪は、イエスの御手に引き渡されている。ならば、私たちは何を悩むことがあろうか? サタンと《良心》がやって来るときも、私たちは彼らに、私たちの《主人》のところに行くよう告げるであろう。主が彼らとのあらゆる貸し借りを精算してくださるであろう。それゆえ、懲らしめられた人々と語り合うのを恥じてはならない。そうした人々を、その貧しさゆえに避けてはならない。私は、たとい上着はぼろぼろで、帽子に穴は空いている人でも、真の聖徒であれは、ともに歩きたいと思う。

 II. 二番目の悪については、ごく手短に語らなくてはならないが、こうである。「主に責められて弱り果ててはならない」。私たちは、一方ではそれを軽んじて、「自分は鞭など何とも思わない」、と云ったり、ストア哲学者のようにふるまったりしてはならない。その一方で私たちは、主がある程度私たちを矯正し、愛をもって私たちを懲らしめなさるからといって、弱り果てたり、何もかも投げ出したりすべきではない。私たちが神の苦しめる御手の下で弱り果てるしかたには2つか3つある。

 私たちが最初に弱り果てるのは、そうした鞭の下で、あらゆる努力を放棄するときである。あなたは私がどういうことを意味しているか、何も云わなくともわかるであろう。そうした人々を実地によく見てきたからである。1つ例をあげてみれば、私が何を云いたいか告げることができるであろう。ひとりの善良な婦人がいる。彼女は規則正しく神の家に集ってきた。自分の《主人》のために労してきた。日曜学校や、小冊子の配布や、その他の奉仕に忙しくしてきた。だが突然彼女は、あの、この上もない賜物、救いの完全な確信を失ってしまった。彼女の信仰はぐらつき出し、今の彼女は自分が《愛するお方》に受け入れられていないのではないかとおののき、恐れている。では、あなたは、彼女が何をすると思うだろうか? 彼女は神の家に行くのをやめてしまう。日曜学校に集うのをやめてしまう。自分の《主人》のために何もしなくなる。そして、もしあなたが彼女にそれはなぜかと尋ねるなら、主の御手が自分に重くのしかかっているので、自分には何もできず、それをやめてしまったのだ、と云うのである。彼女は失神して動けない人のようである。ぴくりとも動かず、何もしない。私の知る限り多くの人々がこういう状態にある。自分が願う通りの慰めを完全に楽しめないからといって、何も行なおうとしないのである。私が今まで見てきたある人々は、ぎらぎらした目をしながら、私にこう云うのだった。「おゝ! 私はすさまじい暗黒の恐怖の中にいます。ものすごい苦しみを受けています。キリスト教の証拠を全部なくしてしまいました。――私は一度も神の子どもにはならなかったのです。私はすべてをやめなくてはなりません。これ以上やって行くことができません。私はこの下で弱り果てています。自分にはもう何もできません。神の家に行っても、祈れないだろうという気がします。賛美歌も歌おうとは思いません。自分の聖書も読もうとは思いません。キリスト教をやめなくてはならないと思います」。わが子よ。神から矯正されても弱り果ててはならない。神はふくれっ面の子どもたちを好ましくお思いにならない。そして、神の子らの中には、ただ単にぶすっとふくれているというだけの理由で弱り果てている者らがたくさんいる。「私は、上に立つ者でなくてはならない」、とその人は云う。「人に顎でこき使われたくはない。もし私が自分の望み通りのところにいられないとしたら、そんなところにいるものか」、と。そうした人々がたくさんいる。彼らは、長柄につけられた輓馬にならなくてはならないことがあるからといって、まるで馬車を引こうとはしない。もし彼らが常に先頭に立って飾り紐をつけていられれば、いい気分になるが、全員の後ろにならなくてはならないときには、彼らは、云わば「えんこ」してしまい、全然前に進もうとしなくなる。だが鞭を受けるとき私たちは、弱り果てる代わりに、前進すべきである。こう云うべきである。「私は打たれているのだろうか? ならば私を打った御手の方に向き直ろう。私の御父が私を打ったのだろうか? ならば私は気を付けよう。もっと熱心に義務を果たそう。そうすることで二度と打たれないようにしよう。また、もっと迅速に道を進むことにして、鞭を避けるようにしよう。御父は私への愛ゆえに、日々私に十字架を送っておられるだろうか? ならば、いやがうえにも働こうとしよう。そうすれば、もし可能であれば、自分の祈りをかなえられるだろう。『私たちの負い目を赦し、私のそむきの罪に赦免を与えたまえ』、という祈りを」。

 さらに、ある人が弱り果てるのは、懲らしめの下でその人が、自分は神の子どもなのかどうかを疑うときである。あまりにも多くの神の子らが、御父の鞭を受けては、たちまち自分は全然御父の子どもではなかったのだ、と結論する。古のある人のように、彼らは云うのである。「もしそうだとしたら、なぜ私がこうなるのでしょう」[創25:22 <英欽定訳>]、と。彼らは、「神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」[使14:22]ことを忘れているのである。父が懲らしめることをしない子などいない[ヘブ12:7]ことを思わないのである。あなたは今朝こう云っている。「私は、子どもであるはずがない。さもなければ、困窮していたり、苦悩していたりするはずがない」、と。そうした愚かなことを云ってはならない。試練は、あなたが神のものでない証拠ではなく、神の子どもとされている証拠なのである。この箇所を思い出すがいい。「もし私たちが懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」*[ヘブ12:8]。神は自分のことなど忘れているのだとは云わず、あなたの試練を神の愛の証拠とみなすがいい。セシルが、かつて友人のウィリアムズを訪問したところ、その従僕は、ご主人様はたいへんな悩みの中にあるため、お会いできません、と云った。「ならば、なおのこと彼に会わなくては」、とセシルは云った。ウィリアムズは、それが自分の昔の牧師であるのを聞いて云った。「お通ししてくれ」。彼が階上にのぼると、そこにあわれなウィリアムズが立っていた。彼の目は涙で一杯になり、彼の心はほとんど張り裂けそうになっていた。彼の愛児が死にかけていたのである。「神に感謝しますぞ」、とセシルは云った。「私は、しばらくあなたのことを心配していたのです。あなたは、やることなすこと成功し、富み栄えていたので、私の御父はあなたをお忘れになったのではないかと恐れていました。ですが、私は今、御父があなたを覚えておられることがわかりました。むろん私も、お子さんが痛みに満ちて、死にそうになるのを望んでいるのではありません。ですが私は、御父があなたを忘れておられなかったと考えて嬉しいのです」。それは最初には残酷な云い方に聞こえたが、三週間後にウィリアムズは、このことの真実さを見てとることができた。

 さらに、多くの人々が弱り果てるのは、自分が決して今の困難から抜け出ることがないと思い込むことによってである。ある人は云う。「この三箇月もの間ずっと私は、いま自分を圧倒している悲しい困難と戦ってきた。だのに私は逃れることができなかった」。別の人は云う。「一年間も私は、この渦巻きから解放してくださいと祈りによって神と格闘してきた。だが解放はやって来なかった。もう私は、ほとんどあきらめたい気分がしている。私は、神がお約束を守ってくださるだろう、ご自分に呼び求める者を解放してくださるだろうと思っていた。だが神は、いま私を解放しておられないし、これからも決して解放してくださらないだろう」、と。何と! 神の子よ。あなたは、自分の御父についてそのような口をきくのか! 神があなたをかくも長く打っておられるからといって、神は決して打つことをやめないだろうと云うのか。むしろ云うがいい。「神は私をもう十分長く打っておられるに違いない。ならば、私はもうじき解放されるだろう」、と。もしある人が森の中にいて、出口がわからないとしたら、その人はまっすぐ歩くはずである。そうすれば、そのうちいつか出て行けるだろうと思うからである。そしてもしその人が賢ければ、見渡す限りで一番高い木に登って、正しい道を発見しようとするであろう。これこそ、あなたがすべきことである。約束の1つに登ること。そうすれば、あなたは森の向こう側も、その甘やかな平原のすべても見通せるであろう。それを越えれば、あなたは緑の牧場で養われ、あなたの《救い主》の導きの下で伏すことができるのである。自分は逃れられないと云ってはならない。あなたの手の枷はあなたのか細い指では砕けないが、《全能者》の槌は一瞬でそれらを砕くことができる。それを摂理の金床の上に置き、全能の御手で打ち叩いていただくがいい。そのときそれは木っ端微塵に砕けるであろう。では、立て。いざ立つがいい。サムソンのように、あなたの困難の柱を両腕でつかみ、あなたの患難の家をあなたのもろもろの罪の頭の上に引き落とすがいい。そのとき、あなた自身は圧倒的な勝利者となるであろう。

 私は、この後に続く節についても言及してしめくくるつもりだったが、そうする代わりに、こう問わせてほしい。父が懲らしめることをしない子がいるだろうか[ヘブ12:7]、と。あなたがた、神に仕えて、福音を宣べ伝える教役者たち。あなたがたの仲間の中に、その御父が懲らしめることをしない子がひとりでもいるだろうか? 異口同音に彼らは答えるはずである。「私たちはみな懲らしめを受けてきました」、と。あなたがた、天からの聖霊によって神のことばの証しをしてきた聖なる預言者たち。あなたがたの中に、神が懲らしめることをしなかった者がひとりでもいるだろうか? アブラハムよ、ダニエルよ、エレミヤよ、イザヤよ、マラキよ、答えるがいい。するとあなたがたは異口同音に叫ぶ。「私たちの中に御父が懲らしめられない者はひとりもいない」、と。あなたがた、王たち。あなたがた、選ばれた者たち。あなたがた、ダビデたち、あなたがた、ソロモンたち。あなたがたの高貴で気高い身分において、懲らしめを免れた者がいるだろうか? ダビデよ、答えるがいい! あなたは暗闇の中キデロン川を渡ったではないだろうか[IIサム15:23]? ヒゼキヤよ、答えるがいい! あなたは主の前でかの手紙を広げたではないだろうか[II列19:14]? ヨシャパテよ、答えるがいい! あなたは、黄金を得るためタルシシュに送った船団が難破したとき、あなたの十字架を持たなかっただろうか[I列22:48]? おゝ、あなたがた、天上の綺羅星のような群衆よ。この世の試練の手が届かないところに移された者たちよ。あなたがたの中にひとりでも、御父が懲らしめられなかった者がいるだろうか? ひとりとしていない。天国にいる者のひとりとして、それを必要とする年齢に達した場合、その背中が鞭によって傷つけられなかった者はいない。母親の乳房から天国にたちまち飛び立った幼児だけがそれを逃れるのである。私が問いかけたいお方がもうひとりおられる。神の御子よ。全家族の中のかしらたる、ひときわすぐれた《御子》よ。受肉された神の御子よ。あなたは鞭を免れただろうか? 罪なき御子よ。あなたは罰を受けなかった御子だろうか? あなたは懲らしめを受けただろうか? 聞けや! 地と天の軍勢が応えよう。――戦闘の教会と勝利の教会が答えよう。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした[イザ53:5]。彼は苦しみを受けた。十字架を負われた。私たちのだれにも劣らず呪いを耐え忍ばれた。しかり。それ以上に、私たちのいかなる者が万が一耐え忍べるよりも一万倍も大きな懲らしめを忍ばれた」。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない」。

 しめくくりに、苦しみを受けながら、全くキリスト教信仰を有していない人々に問いたい。あなたはどこから自分の慰めを得るのだろうか? キリスト者はそれを、自分が神の子どもであるという事実から引き出せるし、この苦しみが自分の益になると知っている。だが、試練を受けている、あわれな世俗の子らがいかにしてやって行けるのか、私はしばしば当惑させられる。杯があふれており、心が楽しみと喜びに満ち、その目に歓喜と陽気さがきらめき、食卓が一杯になり、家族全員が無事であるときには、彼らがいかに幸いになれるかは、私にも何とか想像はつく。しかし、自分の妻を喪ったとき、子らが取り去られたとき、健康が損なわれ、自分自身が死に近づくとき、この世の子らは、どうなるだろうか? 私はその人が答えるにまかせよう。私に云えることはただ1つ、この世の種々の困難を思い、キリスト教信仰の慰めを得ている人がいかに少ないかを思うとき、なぜこの程度しか自殺が多くないのか、私には毎日不思議でならない、ということである。あわれな罪人よ。万が一天国や地獄がないとしても、私はあなたにこのキリスト教信仰を勧めるであろう。というのも、私たちは、たといこの世にしか望みはないとしても、あらゆる人々の中で最も幸福になるからである。本当に、私たちの精神においては、私たちは「すべての人の中で一番哀れな者」[Iコリ15:19]のように思われるかもしれないとしても、そうである。私はあなたに告げる。たとい私たちが犬のように死ぬことになるとしても、たとい来世など全くなくとも、キリスト教信仰は非常に心を幸福にするものであって、現世のみにおいても、有すべき価値があるであろう。この世のことしか考えていない世俗主義者は、キリスト教を考慮に入れないということにより愚か者である。というのも、それは来たるべき世における恩恵だけでなく、この世においても恩恵を授けるからである。それは私たちに、自分の種々の困難を担わせてくれる。あなたの背骨を砕くであろうような重荷も、私たちにとっては羽毛である。あなたの精神をすりつぶすようなものも、私たちにとっては、「今の時の軽い患難」[IIコリ4:17]である。暗闇の深淵においても、私たちは自分の心に十分な光を見いだす。あなたがたが暗闇を見いだす場所に、私たちは光を有している。また、あなたが光を有している場所に、私たちは太陽の燦然たる陽光を有している。願わくは神があなたを、ご自分の救われた家族の一員としてくださるように。それから、もし神があなたを懲らしめられるとしたら、私は問う。果たしてあなたは、あなたが受けるに値し、あなたを切り殺して当然の剣にくらべて、そうした神の鞭を軽いと思わないかどうかを。もしあなたがいま懲らしめを受けているとしたら、願わくは神があなたを懲らしめるにとどめ、殺されないようにしてくださるように。あなたを義によって懲らしめ、悪人とともに罪に定められないようにしてくださるように。

----

懲らしめ[了]

------------

HOME | TOP | 目次