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あなたの隣人を愛せよ

NO. 145

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1857年8月9日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。――マタ19:19


 私たちの《救い主》は、非常にしばしば律法の道徳的戒めについて説教された。キリストの説教の多くは――そして、いかなる説教がそれらに匹敵するだろうか――、いま現在「福音」と呼ばれているものを全くその中に含んでいない。私たちの《救い主》は、立って説教するたびに、選びや、贖罪や、有効召命や、最終的堅忍といった教理を宣言されたわけではなかった。しかり。主は、それと同じくらい頻繁に、人間生活の様々な義務について、また、神の恵みによって私たちの中に生み出される、種々の尊い御霊の実について語られた。私がいま口にしたばかりの言葉に注意するがいい。あなたは最初はそれに一驚したかもしれないが、四福音書を丹念に読んでみれば、私の云っていることが正しいと気づくであろう。私たちの《救い主》の時間の非常に多くは、人々に向かって、彼らが互いに何を行なうべきかを告げることに費やされていたのである。そして主の説教の多くは、決して今の時代の口やかましい批判家たちから、油注ぎと香気に満ちていると呼ばれるような説教ではなかった。それらは、キリスト教信仰の実践的な部分をかえりみない、病的で、感傷的なキリスト者たちにとって、香り高いどころのものでないことは確実だからである。愛する方々。人の義務を説教することは、キリストの贖罪を説教するのと同じくらい、神に仕える教役者の務めである。また、人の義務を説教しない限り、その人は決して、神の祝福によって人々をしかるべき状態に至らせ、贖罪の麗しさを見てとらせることはないであろう。時として律法を大喝し、その従順を要求する権利が自分の《主人》にあると主張しない限り、その人が罪の確信を生じさせるような見込みは全くないであろう。――少なくとも、やがて回心に至らせるような種類の確信は決して生じさせないに違いない。私は、今朝の私の説教が、あまり油注ぎや香気に満ちたものにはならないだろうと承知している。年中同じ教理の繰り返しだけを求めている人々にとってはそうである。だが、このことについて私はほとんど気にしていない。がさつなこの世は、時として叱責させる必要があるのであり、私たちの言葉が人々の耳に届く限り、私たちの務めは彼らを叱責することにある。そして私が思うに、もしこの聖句が詳しく語られる必要のある時代が一度でもあったとしたら、それはまさに今である。これは、あまりにもしばしば忘れられ、あまりにもまれにしか思い出されない。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。

 私はまず第一にこの命令に注意したい。第二にあなたがそれに従うべきいくつかの理由を持ち出そうと思う。そしてその後で、この律法そのものからいくつかの示唆を引き出そうと思う。

 I. まず第一に、《この命令》である。これは二番目に大切な戒めである。一番目は、「あなたの神である主を愛せよ」[マタ22:37]であり、そこにおいてしかるべき基準は、「神をあなた自身よりも愛せよ」、である。第二の戒めは、「あなたの隣人を愛せよ」であり、そこにおける基準はやや低くなっているが、それでも際立って高い。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。ここに命令がある。私たちはそれを3つの部分に分けることができよう。私は誰を愛すべきか? 私の隣人である。私は何をすべきか? 彼を愛すべきである。どのようにそうすべきか? 彼を私自身のように愛すべきである。

 最初に、私は誰を愛すべきだろうか? 私の隣人を愛すべきである。隣人(neighbor)という言葉は、私たちの身近にいるあらゆる人を意味していると理解すべきである。それは2つの古い言葉、naeあるいはnear(近い)と、buer(住む)からなっており、私たちの近くに居住している人、近くにいる人のことである。そして、もし世の中の誰かが私たちの近くにいるとしたら、その人は私たちの隣人である。あのサマリヤ人は、エリコへの路上に傷ついている人を見たとき、その人が自分の近くにいるのを感じ、それゆえ、その人が自分の隣人であり、自分はその人を愛さなくてはならないと感じた[ルカ10:33-35]。「あなたの隣人を愛せよ」。ことによると、あなたの隣人は富裕で、あなたは貧しいかもしれない。あなたは小さなあばら屋に住んでいるのに、それに隣り合ったあなたの隣人の家は広壮な邸宅かもしれない。あなたは彼の地所を見、彼の細布、彼の贅沢な着物を目にとめている。神は彼にこうした賜物を与えておられる。では、もし神があなたには与えておられないとしても、彼の富をほしがってはならず、決して彼に悪意を持ってはならない。人間の境遇には常に相違があるであろう。それならばそれで良い。あなたの境遇をより良いものにできないとしても、それに満足しているがいい。だが、あなたの隣人を眺めて、彼があなたと同じくらい貧乏になることを願ってはならない。また、誰かが彼から富を奪うのを助けたり、けしかけたりして、にわかに金持ちになろうとしてはならない。彼を愛するがいい。そうすれば、彼をねたむことはないであろう。もしかすると、逆にあなたの方が金持ちで、あなたの近くには貧乏人が住んでいるかもしれない。彼らを蔑んで隣人と呼ぶのを拒絶してはならない。あなたが彼らを愛すべきであることを否認してはならない。この世は彼らがあなたに劣っていると云う。いかなる点で彼らは劣っているだろうか? 実は彼らはあなたと同格なのである。地位においてそうでなくとも関係ない。「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ……ました」[使17:26]。あなたは決して彼らにまさってはいない。彼らは人であり、あなたはそれ以上の何だろうか? 彼らは襤褸服を着た人かもしれないが、襤褸服を着た人は人であり、たといあなたが紫布を来た人であっても、あなたは人以上の者ではない。あなたの隣人を愛するように気をつけるがいい。たとい彼が襤褸を着ていても蔑んではならないし、貧乏のどん底に沈み込んでいてもそうである。

 また、たといあなたの隣人が、異なった信仰をしていても愛するがいい。あなたは自分が真理に最も近い宗派に属していると考えており、あなたと、そのようなすぐれた考えをいだいているあなたの同輩たちが確実に救われるだろうと思っている。あなたの隣人は異なる考えをいだいている。彼の信仰をあなたは不健全で不真実だと云う。それにもかかわらず、彼を愛するがいい。あなたがたに相違があるからといって、彼をあなたから引き離してはならない。ことによると、彼は正しいかも知れないし、間違っているかもしれない。だが本当に実践において正しいのは、誰よりも愛する人である。もしかすると、彼は全く無信仰かもしれない。彼はあなたの神を無視し、安息日を破り、自分は無神論者だと公言している。それでも彼を愛するがいい。厳しい言葉によって彼が回心するわけではない。厳しい行ないによって彼がキリスト者になるわけではない。ひたすら彼を愛するがいい。彼の罪はあなたに対するものではなく、あなたの神に対するものである。あなたの神はご自分に対して犯された罪に復讐する。では、彼を神の御手にゆだねるがいい。しかし、もしあなたが彼に親切にしてやれることがあるとしたら、また、もし何か彼に良くしてやれることを見つけたとしたら、日夜を問わず、それを行なうがいい。そして、もし何らかの差別をつけるとしたら、このようにするがいい。「あなたは私とは違った信仰をしていますから、私はいやましてあなたに良くしてあげましょう。それによって、あなたが正しい道へと回心するかもしれないからです。たといあなたが異端的なサマリヤ人であり、私が正統的なユダヤ人だとしたも、それでもあなたは私の隣人であり、私はあなたを愛します。あなたがゲリジム山上のあなたの神殿を放棄し、エルサレムにある神の宮でひれ伏すようになってほしいからです」。信仰上の違いにもかかわらず、あなたの隣人を愛するがいい。

 また、あなたの隣人が、たとい商売敵であったとしても愛するがいい。これは取引所や商いの場に持ち込むには難しい標語であろう。だが、それにもかかわらず、これは私が、商店主や商人であるあなたに対して説教しなくてはならない標語なのである。最近、ある青年が、あなたに損害を与えるのではないかと思われる店を始めたとする。あなたは彼に害を与えてはならない。彼に危害を加えるようなことを考えたり口にしたりしてはならない。あなたの務めは彼を愛することである。というのも、彼は商売上ではあなたに敵対していても、それでもあなたの隣人だからである。あなたの近くには別の人も住んでいる。彼はあなたに借金があり、もしあなたが彼の借金のかたをことごとく持ち去るとしたら、破滅してしまうであろう。だが、もしあなたが彼にあなたの金銭をもう少し預けておくとしたら、彼は今の困難を乗り切り、その努力が成功をおさめるかもしれない。あなたの務めは、彼をあなた自身のように愛することである。彼にあなたの金銭を預けておき、もう一度試させるがいい。そうすれば、あなたは自分のものを失わず、彼をも助けられるかもしれない。商売において誰と取引していようと、その人はあなたの隣人である。誰を相手に商売していようと、それがあなたよりも大手であろうと零細であろうと、彼はあなたの隣人であり、キリスト教の律法が命じているのは、あなたが自分の隣人を愛するということである。それは、単にあなたが彼を憎むべきでない、と云っているのではない。彼を愛せよと命じているのである。そして、たとい彼があなたの事業の邪魔になろうと、また、あなたが富を獲得するのを妨げようと、また、あなたの顧客を奪おうと、――左様、たとい彼があなたの評判を霞ませようと、それでもあなたは彼をあなた自身のように愛さなくてはならない。この律法には何の例外もない。彼はあなたに近いところにいて、あなたは彼と何らかの関係があるだろうか? では、この律法は云う。「彼を愛せよ」。

 また、あなたは、あなたの隣人が、その罪によってあなたを怒らせるとしても、彼を愛さなくてはならない。時として私たちは、自分の歩く町通りに邪悪なものを見るとき、霊が圧倒され、心を嘆かされることがある。遊女や放蕩者に対するあしらいは、通常、彼らを呪われるべきものとして社会から叩き出すことである。それは正しくない。キリスト教らしくないことである。私たちは罪人たちすら愛さなくてはならない。彼らを希望の土地から追い出すべきではなく、こうした者たちをさえ改心させようと努めるべきである。かりにある人が悪党か、盗人か、嘘つきだったとしよう。私には彼の悪事を愛することができないし、私自身が悪党になるべきではない。私は彼の嘘を愛することはできないし、さもないと、私が不真実になってしまう。だが、それでも彼のことは愛さなくてはならないし、私が彼から不正を受けたとしても、ひとかけらも復讐心をいだいてはならない。むしろ神が自分を赦してくださるよう願うのと同じくらい、彼を赦さなくてはならない。そして、たとい彼が国の法を破るような罪を犯して、(正当に)罰を受けるべきであるとしても、私は罰を受けている彼をも愛すべきである。というのも、私は復讐心から彼が投獄されるよう断罪すべきではなく、むしろ、彼に良かれと思って、また、彼がその罰によって悔い改めに導かれることを思ってそうすべきだからである。私は彼に適正な程度の罰を与えるべきである。彼の犯罪の償いとしてではなく、彼にその害悪を教え、それを捨てさせるためにそうすべきである。しかし、私は目に涙を浮かべつつ彼を罪に定めなくてはならない。なぜなら、なおも私は彼を愛しているからである。そして、彼が牢屋に叩き込まれるときには、彼の看守全員が彼を親切に扱うよう取り計らうべきである。また、牢獄の規律には厳格で断固たるものがなくてはならないとしても、それが行き過ぎて冷酷さとなったり、有益なものである代わりに無慈悲なものとなったりしないようにさせるべきである。たとい彼が悪徳に沈み込み、堕落していても、私は彼を愛さなくてはならない。この律法には何の例外もない。これは私が彼を愛することを要求する。私は彼を愛さなくてはならない。むろん私は彼を私の家に連れて来るべきではない。自分の家族の一員のように扱うべきではない。ある種の親切な行為は無思慮なものとなりかねない。そうすることによって私が他の人々を破滅させ、悪徳に褒美をやることになるからである。私は顔では正義ある者として、彼に断固として反抗すべきである。だが、心では、彼を憎むべきではない。彼は私の兄弟である人であり、悪魔が彼の顔をよごし、その毒液を彼の口に吐き出し、悪態をつかずには喋れない者としているとしても、また、彼が歩くときには、その足が血を流すのに速い[ロマ3:15]としても、それでも彼は人であり、人として彼は私の兄弟であり、兄弟として私は彼を愛さなくてはならない。そして、もし私が身をかがめることによって、彼を何か道徳的に品位ある者に高められうるとしたら、私がそうしないのは間違っている。私は彼を私自身のように愛すべきだからである。おゝ、この偉大な律法が完全に実行されるとしたらどんなに良いことか。あゝ、話をお聞きの方々。あなたはあなたの隣人たちを愛していない。自分でもそれは分かっている。あなたは同じ会堂に通っている人々全員をほとんど愛していない。ならば、あなたと意見を異にする人々を愛するなど考えようともしないに違いない。――そうではないだろうか? これは奇妙すぎる愛である。何と、あなたはあなた自身の兄弟姉妹をほとんど愛していない。あなたがたの中のある人々は、きょう、同じ乳房にしがみついている者たちと犬猿の仲なのである。おゝ、あなたが自分の友人たちを愛していないとしたら、いかにして私は、あなたが自分の敵を愛することなど期待できようか? あなたがたの中のある人々は、自分の両親に腹を立てながらやって来た。また、ここにあるある兄弟は、家を出る前に云われた一言のために自分の姉に怒りをいだいている。おゝ、もしあなたが自分の兄弟姉妹も愛することができなければ、あなたは異教徒や取税人以下である。いかにして私は、「あなたの隣人を愛せよ」、というこの気高く偉大な命令にあなたが従うと期待できるだろうか? しかし、あなたがそれに従おうと従うまいと、それを説教することは私の務めであり、それに反対する世代の好みに合わせてそれを差し替えるべきではない。まず私たちは、あらゆる人々を愛し敬わなくてはならない。それは、単に彼らが人だからである。次に私たちは、私たちの身近に住んでいるあらゆる人々を愛すべきである。それは彼らが善良であるからでも、私たちにとって役に立つからでもなく、単に律法がそれを命じているからであり、彼らが私たちの隣人だからである。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。

 2. しかし、今、私は自分の隣人に何を行なうべきだろうか? 彼を愛する――これは困難な言葉である。――彼を愛することである。「よろしい。私が思うに」、とある人は云うであろう。「私はこれまで一度も不親切な言葉を私の隣人の誰に対しても口にしたことがありません。私は、これまでの一生の間、誰かの評判を傷つけたことが一度もないと思います。私は自分の隣人に何の害も及ぼさないように非常に気を遣っています。商売を始めるときも、私は自分の競争心によって愛の心がくつがえされないようにしています」。愛する方よ。それは、それなりに良いことではあるが、徹底されてはいない。自分は隣人を憎んではいません、と云うだけでは十分でない。あなたは彼を愛するべきである。通りを歩いていて彼を見かけたときに、彼の行く道の邪魔をせず、彼を打ち倒さないというだけでは十分でない。夜に彼をうるさがらせず、彼の安息をかき乱さないだけでは十分でない。これは消極的な命令ではなく、積極的な命令なのである。何々しないというのではなく、何かをすることなのである。むろんあなたは彼に危害を加えてはならない。だが、そうしないでいたとき、すべてをなし終えたわけではない。あなたは彼を愛すべきである。「よろしい」、とある人は云うであろう。「私は、隣人たちが近くで病気になっているとき、もし彼らが貧乏だとしたら、骨付き肉を一切れ届けさせます。多少は栄養をつけて、清新にさせるためです。また、もし彼らがことのほか貧乏だとしたら、金もやって面倒が見られるようにします」。しかり。だが、あなたはこうしたことを行なっていながら、彼らを愛していないことがありえる。私は、犬に骨を投げ与えるようなしかたで、貧者に慈善が投げ与えられるのを見たことがある。そして、そこには何の愛もなかった。馬に干し草をやる半分も礼儀正しくないしかたで、金銭が、それを必要としている人々に与えられるのを私は見たことがある。「そら、やるよ。これが要るんだろう。私はこれをお前にくれてやらなきゃいかん。でないと他人様からけちくさいと思われるからな。何でうちに来てくれたんだ。何でよそのうちに行かなかったんだ? 私はしょっちゅう乞食どもにつきまとわれているのに」。おゝ、これは自分の隣人を愛するということではないし、彼に私たちを愛させる態度でもない。たとい私たちが彼に親切な言葉をかけてやって断ったとしても、彼はこのように不親切なしかたで施しをされるよりもずっと私たちを愛するであろう。しかり。あなたは貧者に食べ物を与え、病人を訪ねてはいるが、あなたの手にあなたの心がこもっておらず、あなたの生き方の親切さにあなたの魂の親切さを示されていない限り、この命令に従ってはいないのである。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。

 さて今、この場にいるある人々は云っているであろう。「先生。私は自分の隣人を愛することができません。先生が先生の隣人を愛することができるのは、そちらの方が私の隣人よりもまともだからでしょう。ですが私の方の隣人はどれもこれもとんでもないしろもので、愛してみようとはしますが、私が何をしてやっても、侮辱しか返してよこさないのです」。ならば、それだけ英雄的行為を発揮する余地があるということである。あなたは愛の激戦を耐え抜こうとする代わりに、どこかの張り子の兵隊になりたいのだろうか? 方々。最も大きな困難に立ち向かおうとする者――それこそ最も大きな勝利を得る者なのである。そして、もしあなたの愛の通り道が険阻だとしたら、それを大胆に踏み行き、前進し続けるがいい。楽な時もつらい時も、あなたの隣人を愛し続けるがいい。彼らの頭に燃える炭火を積むがいい[ロマ12:20]。そして、もし彼らを喜ばせるのが難しいとしたら、彼らを喜ばせようとはせず、あなたの《主人》を喜ばせようとするがいい。そして、覚えておくがいい。たとい彼らがあなたの愛をはねつけようと、あなたの《主人》はそれをはねつけたことはなく、あなたの行ないは彼らにとって受け入れられるものであったかのように主には受け入れられるものなのである。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。

 さて、もしこの私たちの隣人に対する愛が実行されたとしたら、――愛、本物の愛――それは、あらゆる性急な怒りを禁じるであろう。自分に向かって怒りを発する者などいるだろうか? あらゆる賢者は時として怒ると思うし、私たちは時々怒るのでない限り正しい者ではないのではないかと思う。決して怒らない人など一文の値打ちもない。そのような人は善良な人ではありえない。さもなければ、その人は怒りを発さなくてはならないほど悪いものをめったに見ることがないのである。しかし、覚えておくがいい。あなたは、自分自身に対して怒りを発する以上に、あなたの隣人に対して怒りを発すべき何の権利も有していない。あなたは時として自分に腹を立てるし、時として彼が何か悪を行なうときには彼に腹を立てるであろう。しかし、あなた自身に対する怒りはほんのつかのまのものである。あなたは、自分の愛しい自我をたちまち赦してやる。あなたはそれと同じくらいすぐに彼を赦してやるべきである。そして、たとい荒々しい言葉を語るとしても、それが云い過ぎであったとしたら、撤回することである。また、もしそれが十分に荒々しいものだったとしたら、あまりに荒々しいものとなり過ぎないように、それに云い足さないことである。真実を告げなくてはならないとしたら、できる限り親切なしかたで告げるがいい。必要がない限り、厳格になってはならない。あなた自身を扱いたいと思うように他の人々を扱うがいい。何にもまして、決して復讐心をいだいてはならない。決して日が暮れるまで怒っていてはならない[エペ4:26]。自分の隣人を愛していながら、そのようなことをすることはありえない。復讐心をいだくとき、この命令に従うことは全く問題外となってしまう。

 あなたはあなたの隣人を愛すべきである。ならば、彼を無視してはならない。その人は病んでいるであろう。あなたの家のごく間近に住んでいるであろう。そして、彼はあなたに訪ねてきてほしいと云い送りはしない。というのも、彼は、「いいや、あの方に迷惑をかけたくない」、と云っているからである。覚えておくがいい。彼を見つけ出すのはあなたの務めである。あらゆる貧困の中でも最も価値あるのは、決して憐れみを求めない貧困である。あなたの隣人たちが困窮しているところを見てとるがいい。それを告げられるまで待っていてはならない。むしろ、あなたが自分でそれを探し出し、彼らに何らかの助けを与えるがいい。彼らを無視してはならない。そして、いざ行く時には、どこかの一段と優越した者が恩恵を施してやるといったふうの、慈善行為にしばしば伴う、横柄に威張った様子で訪問してはならない。むしろ、自然が彼の当然の分としている借金を彼に払いに行くかのようにして、あなたの兄弟のもとに赴き、彼のかたわらに座り、彼と話をするがいい。そして、もし彼が誇り高い人であるとしたら、あなたの慈善を慈善として彼に与えるのではなく、何か別のしかたで与えるがいい。あなたが彼に塗ろうとした香油のつぼで彼の頭を割ることになってはならない。彼に向かってどのように話をするかには非常に注意深くあるがいい。彼の意気を挫いてはならない。あなたの慈善をあなたの後に残しておくがいい。そうすれば、彼はそれを忘れるであろうが、あなたの話し方にこもっていた、自分に対するあなたの親切心のことはよく覚えているであろう。

 自分の隣人たちを愛するとき、私たちの貪欲やねたみといった類のあらゆる罪は棚上げにされる。また私たちは、いついかなる時も喜んで彼らに仕えよう、必要とあれば喜んで彼らの足台となろう、そして私たちが神の子どもであると証明されるようにしようという思いにさせられる。

 「ですが」、とある人は云うであろう。「なぜいつも私だけが赦さなくてはならないのか分かりません。一寸の虫にも五分の魂というではありませんか」。では、虫があなたの模範なのだろうか? 虫は手向かうであろうが、キリスト者はそうしない。キリストという手本があるのに、虫を模範にするというのは蔑むべき下劣なことだと思う。キリストは手向かわなかった。――ののしられても、ののしり返さなかった[Iペテ2:23]。人々が主を十字架につけ、木に釘づけにしたとき、主は叫ばれた。「父よ。彼らをお赦しください」[ルカ23:34]。愛を、何者も打ち勝ちがたい愛を、あなたの胸に宿らせるがいい。大水も消すことができない愛、洪水も押し流すことができない愛を[雅8:7]。あなたの隣人を愛せよ。

 3. さて今、私たちはこの命令についてのしめくくりとして、いかに私たちが私たちの隣人を愛すべきかに注目しよう。もしどこかの令夫人たちが、その愛玩犬を愛すほどにもその隣人たちを愛するとしたら良いことであろう。多くの田舎の地主たちが、自分の猟犬の群れを愛するのと同じくらい自分の隣人たちを愛するとしたら、素晴らしいことであろう。あなたがたの中のある人々が、自分の家の愛玩動物を愛するのと同じくらい隣人たちを愛するようになるとしたら、それは美徳の1つのきわみだと思う。しかしながら、それはいかに劣った程度の美徳と思われることか! だがしかし、それはあなたがたの中のある人々が到達しているところからは、はるかにすぐれたことであろう。あなたは、あなたの家や、地所や、財布のようにはあなたの隣人を愛していない。ならば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」、という福音の基準はいかに高いことであろう? 人はいかに自分自身を愛していることであろう? 私たちの中の誰ひとり自分を愛しすぎていることはなく、私たちの中のある者らは自分を愛しすぎている。あなたはいくらでも好きなだけあなた自身を愛してよいが、あなたの隣人をもそれと同じくらい愛するように気をつけるがいい。あなたがあなた自身を愛するように勧告される必要がないことは確かである。あなた自身の問題は手厚く配慮されるであろうし、あなた自身の慰めはあなたの心配事の筆頭にあるであろう。あなたは、できるものなら自分の巣をふかふかの羽毛で裏打ちしたがるであろう。あなたにあなた自身を愛せよと勧告する必要は全くない。あなたはそれを十分立派に行なうであろう。よろしい。ならば、あなたはあなた自身を愛するのと全く同じくらい、あなたの隣人をも愛するがいい。そして、このことによって何が意味されているかに注意するがいい。――あなたの敵、あなたと商売上対立している者、あなたとは階級が異なる者である。あなたは彼をあなた自身のように愛すべきである。

 おゝ、もしこのことが実践されたとしたら、これは世界をひっくり返すであろう。これは、今この国の習慣となっている多くの事がらをくつがえす見事な梃子となるであろう。英国には、ヒンドスタンにおけるそれと同じくらい強固な階級制度がある。貴族は、少しでも格の下がる者とは口をきこうとせず、その下の身分に属する者たちは商売人を無限に自分よりも劣った者と考え、商売人である者は機械工を自分の目にとめる価値もほとんどない者と考え、機械工たちもまた自分たちの部類に従って、それなりの階級や等級を有している。おゝ、こうした事がらが打破され、1つの血脈の鼓動が感じられ、1つの家族としてひとりひとりが愛し合い、それぞれの階級が依存し合っていると感じる日が来ればどんなに良いことか! 個々の人が力を尽くしてしかるべく助け合い、愛し合うとしたらどんなに良いことか。絹と繻子に身を包んだ上流の令夫人よ。あなたは何日間も教会に通い、赤い外套を来た貧しい老婦人と隣り合って座ってきた。彼女はあなたと同じくらい善良な聖徒である。しかし、あなたは彼女に話しかけたことがあるだろうか? これまでの一生の間に、一度もないであろう。あわれな魂よ。あなたが彼女に話しかけないのは、たまたまあなたに年間何百ポンドも収入があるのに、彼女には数シリングしか収入がないためなのである。そこにあなたがいる。ジョン卿よ。あなたはあなたの座席にやって来て、あらゆる人から下にも置かぬしかたで敬われることを期待している。そして実際、彼らはそうすべきである。私たちはみな名誉を知る者であり、「王を尊びなさい」、と云っているのと同じ聖句は、「すべての人を敬いなさい」、とも語っているからである[Iペテ2:17]。それで私たちは、あらゆる人々を敬うべきである。しかし、あなたは、自分があらゆる人にもまして崇拝されるべきだと考えている。あなたは卑しい身分の者たちのところまで身をかがめることをしない。愛する方よ。あなたは、もしそのように偉ぶった様子をしていなければ、格段に偉大な人となるであろう。おゝ、もう一度云う。この命令のゆえにキリストはほめたたえられ、その御父はほめたたえられ、この世はこの命令が従われ、私たちが自分の隣人を私たち自身のように愛するときに祝福されるであろう!

 II. さて今、私が示さなくてはならないのは、《あなたがこの命令に従うべきいくつかの理由》である。

 世界中で最もすぐれた理由を最初に取り上げよう。私たちが自分の隣人たちを愛すべきなのは、神がそう命じておられるからである。キリスト者にとって、神のみこころほど強大な議論はない。神のみこころは、信仰者の法である。彼はそれが自分にとって何の得になるか、他の人々にとってどれほど良い効果があるか、などと問うことをせず、ただこう云うだけである。私の父がそう云っておられるのか? おゝ、聖霊よ。私を助けて従わせ給え。必ずしもそれが私にとって良いことであると見てとらなくとも、単にあなたがそう命じておられるがゆえに。「みことばの声に聞き従い」[詩103:20]、神の命令を行なうということは、キリスト者の特権である。しかし、あなたがたの中にいる、キリスト者以外の人々にとっては、他のいくつかの理由の方が、ずっと説得力があるであろう。

 まず指摘させてほしいが、利己心そのものがあなたの隣人を愛せよとあなたに命じるであろう。おゝ、利己心が自殺的な説教を語るとは奇妙なことではある。だが、もし自我に口がきけたとしたら、それが賢明である場合、このような演説を語るであろう。「自我よ。お前の隣人を愛すがいい。というのも、そうすればお前の隣人はお前を愛するであろう。自我よ。お前の隣人を助けるがいい。というのも、そうすればお前の隣人はお前を助けるであろう。おゝ、自我よ。不正の富で、自分のために友を作るがいい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはお前を、永遠の住まいに迎えるであろう[ルカ16:9]。自我よ。お前は安楽を欲している。ならばあらゆる人を優しく扱うことによって自分を安楽にするがいい。自我よ。お前は快楽を欲している。ならば、もしお前の回りの誰もがお前を憎んでいるとしたら、お前は何の快楽も得ることができない。彼らにお前を愛させるがいい。愛しい自我よ。そうすれば、お前は自分を幸いにするであろう」。左様。たといあなたがたが利己的だとしても、私はあなたがたが卓越して利己的になり、賢明に利己的になってほしいと思う。そのようにして、あなたがたが、自分を幸いにするために他人を愛するようになってほしい。

 あなた自身を幸せにする近道は他の人々を幸せにしようと心がけることである。この世は十分に悪い所だが、親切の力を感じられないほど悪く所ではない。召使いらを優しく扱うがいい。彼らの中には改めようもないような者もいるが、彼らを優しく扱うがいい。すると大抵の場合、彼らはあなたを優しく扱うであろう。あなたの主人を優しく扱うがいい。彼らの中には粗暴ではなはだ没義道な者もいるが、階級として彼らは良い召使いを知っており、彼らはあなたを優しく扱うであろう。さあ、もし私が幸いになりたいとしたら、私はこの世の富を得ることを願いはしないし、人々が慰安と呼ぶものを願いもしない。私が欲する最上の慰めは、私の回りに愛に満ちた人々がいること、また私が赴くところで私が幸いを振りまき、人々を喜ばせていると感じることである。それこそ幸いになる道であり、利己心そのものが云うであろう。「あなたの隣人を愛せよ」、と。というのも、そうすることによってあなたはあなた自身を愛しているからである。というのも、彼とあなたの間には強固な結びつきがあり、彼を愛することにおいて、あなたの愛の流れはあなた自身の心に再び戻って来るからである。

 しかし、私はこのようにけちくさい動機であなたを攻めたてはすまい。これはキリスト者にとっては、あまりにも貧弱すぎる。ただの人にとってさえ、あまりにも卑しすぎる。次のこととして、あなたの隣人を愛さなくてはならないのは、それがこの世で善を施す道となるからである。あなたは博愛主義者である。あなたがたの中のある人々は種々の宣教協会に寄付を行なっている。孤児のための協会や、その他の慈善的な目的のために寄付を行なっている。私の確信するところ、こうした機関は、卓越した、また良いものではあるが、ある点において損失である。というのも、いま人は、自分で施しをするならささげていたであろうはずの金額の十分の一しかある協会に寄付しておらず、一家族によって養われていたはずのひとりの孤児を十家族が集まって養っており、要するに、慈善の行為がほぼ十分の一になってしまうのである。私が思うに、時間を有している人は、種々の協会には一銭も寄付せずに、すべての金銭を自分で分配すべきである。あなた自身の協会となるがいい。もし、病人のための協会があるとしたら、そのとき、あなたに十分な金銭がある場合、あなた自身の協会となるがいい。もしあなたに時間があるとしたら、あなた自身で行って病人を訪問するがいい。それなら、あなたはその金銭が効果的に用いられていることが分かるし、事務員の経費も節約できるであろう。貧者のために熱粥を支給する協会というものがある。あなた自身の熱粥を作るがいい。それをあなた自身で与えるがいい。そして、もしも、その協会に自分の半クラウン貨[2シリング6ペンスにあたる銀貨]を寄付しているあらゆる人が、半ソヴリン[10シリングにあたる]を費やしてその熱粥を自分で支給するとしたら、より多くのことがなされるであろう。種々の協会は良いものである。私は、それらに反対するようなことを云うつもりは毛頭ない。それらのために、あなたにできる限りのことを行なうがいい。だが、それでも私は、残念ながら時としてそれらは個々人の努力の邪魔になっているのではないかと思う。そして、私はそれらが私たちから、自分で善行する際に有すべき楽しみの一部を奪っていることを知っている。――すなわち、私たちが自分で施し物を分配するときに、輝いた目を見る楽しみ、感謝する言葉を聞く楽しみである。

 愛する方々。思い起こすがいい。人々をより良い状態にしようとするとき、あなたは同胞たちに対して親切になることを要求される。あなたが世界をより良いものとする最上の方法は、あなた自身が親切な者となることである。あなたは説教者だろうか? ならばあなたの教会に向かって無愛想なしかたと、むっつりした声音で説教してみるがいい。じきにあなたの教会は、素晴らしい所になるであろう! あなたは《日曜学校》の教師だろうか? 顰めっ面をしながら、あなたの子どもたちに教えるがいい。彼らは、たいへんなことを学ぶであろう! あなたは一家の主人だろうか? 家庭礼拝を行なっているだろうか? 召使いたちに向かって激怒しながら、「さあ、祈るのだ」、と云っているがいい。そのようなしかたであなたは途方もない量の献身の念を発展させるであろう。あなたは監獄の看守で、あなたの下には囚人たちがいるだろうか? 彼らを虐待し、むごく扱うがいい。それから彼らのもとに教戒師を遣わすがいい。それは神のことばを受け入れさせるための見事な備えとなるであろう! あなたの回りには貧者がいる。あなたは彼らが高く上げられることを望むと云う。あなたは常に彼らの住居の貧しさや、彼らの趣味の卑しさについて不平を鳴らしている。行って彼ら全員に向かって大騒ぎするがいい。――彼らを向上させる見事な方法であろう! さて、あなたの顔からその暗黒の顰めっ面を洗い流し、どこかから夏の精油を少し買ってきて、それを顔につけ、唇に微笑みを浮かべて、こう云うがいい。「私はあなたを愛しています。私は、勿体ぶった偽善者ではありません。私はあなたを愛していますし、私にできる限り、あなたに対する私の愛を立証しましょう。私はあなたのために何ができるでしょうか? 踏越し段をあなたが乗り越えるの助けましょうか? あなたの手助けができるでしょうか? それとも、親切な言葉をあなたにかけましょうか? 私はあなたの小さな女の子の世話ができるでしょう。ご病気になっている奥さんのために、お医者を呼んでくることができるではないでしょうか?」 こうした親切な事がらはみな、この世を少しは良いものになるであろう。あなたの監獄や、絞首台や、そうしたすべては、いまだかつて決して世の中を良いものにしなかった。人々をいくら縛り首にしても、決して殺人を止めることはないであろう。私たち全員を縛り首にしても、私たちはそのためにこれっぽっちも良い者になるまい。実際誰をも縛り首にする必要などない。それで世の中が向上しはしない。優しく扱い、親切に扱い、愛に満ちて扱うがいい。そのとき、いかに人の形をした狼たちでも、親切によって溶かされずにはいられないであろう。そして、いかに女の形をした虎たちでも、崩れ折れて、赦しを求めないではいられないであろう。彼女の友人によって彼女に伝えられた愛を神が祝福してくださるならばそうである。もう一度云うが、世界に益するためにも、あなたの隣人たちを愛するがいい。

 そして今さらにまた、あなたの隣人を愛すべきなのは、世にはあなたの知らない悲惨なことがたくさんあるからである。私たちはしばしば、あわれでみじめな魂たちに対して厳しい言葉を語ってきた。私たちは彼らの悲惨さを知らなかった。だが知っているべきであった。探し出すべきであった。あなたに教えさせてほしい。愛する大家の方々。あなたは昨日、ある貧しい女の差押令状を請求しに行ったが、彼女は三人の子どもをかかえている。彼女の夫はとうの昔に亡くなっている。彼女は家賃を三週間溜めている。前回、彼女はあなたに支払うために、亡くなった夫の懐中時計と彼女自身の結婚指輪を売り払ったのである。それは、彼女にとって貴重であった一切合切であった。そして彼女はあなたに支払ったのである。それからて、あなたは翌週に彼女のもとに行き、彼女はもう少し勘弁してほしいと懇願した。そして、あなたは、そのように勘弁してやったので自分を見上げたものだと考えている。「あの女は」、とあなたは云った。「あえて云えば何の役にも立っていない。そして、もしそうだとしたら、あの女に三人の子どもがいようがいまいが、私の知ったことではない。家賃は家賃だし、商売は商売だ」。彼女は即刻立ち退くことになる。おゝ、もしあなたが、一文無しの宿なしになり、子どもたちを夜どこへやれば良いかも分からない彼女の心中を見てとることができたとしたら、あなたは云ったことであろう。「気にしなさんな。奥さん。ここにいれば良いさ。私には、やもめ女を家と家庭から放り出すなんてことはできんよ」、と。あなたはそれを自分では行なわなかったというのだろうか。確かにそうである。だが、あなたは自分の使いの者をやってそうさせたのであり、その罪は、どうあってもあなたの上にとどまっている。あなたにそのようなことを行なう権利は何もない。人の法の目にとっては権利があるが、神の律法は云っているのである。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」、と。ひとりの若者が先日あなたのもとを訪ねてきた。彼は云った。「旦那様。旦那様はあっしの商売のことを分かっています。あっしは死に物狂いで働いてきました。そして、旦那様はご親切にも、後払いでいくつかのものを売ってくれました。ですが、景気がどうにも悪くて、あっしはどういうことか、えらく厳しいとこにいるようなんです。旦那様。もし来月さえ乗り切れば、うまくやって行けると思います。あっしには、まだ商売を続けていける見込みは十分にあります。もし旦那様がもう少し後払いで物を売ってくだされば、もし旦那様がそれを許してくれさえしたらですが」。「お若いの」、とあなたは云った。「最近こっちも貸し倒れが多くなっててね。それにお前さんはまともな借金のかたを持ってきもしない。お前さんの云うことは信用できないね」。この若者はお辞儀をして、あなたのもとから去っていった。あなたは、彼がからだにおいてと同じくらい、精神においてもいかに頭を垂れたか知らなかった。この若者には病身の老母とふたりの妹が家にいた。彼は、自分自身のためばかりでなく彼女たちのためにもパンと乾酪を稼ぐために、小さな商売を軌道に乗せようとしてきた。先月の間、彼らはパンと乳酪のほか何も食べず、ごく薄いお茶が彼らの飲み物だった。そして彼は激しく苦闘してきた。だが、ある者が――この若者の今の状態よりも貧乏なある者が――彼に払うべき小さな借金を払わなかったので、彼はあなたに支払いができなかったのである。そして、もしあなたが彼を助けてやっていたとしたら、彼にとってすべては問題なかったかもしれなかった。そして今、彼は途方に暮れている。彼の心は砕け散り、彼の魂は彼の内側でふくれあがっている。あの彼の年老いた母親は、あの少女たちはどうなるのだろうか? あなたは彼の苦悶を知らなかった。知っていたとしたら、彼を助けてやっていたであろう。しかし、あなたは知っているべきであった。あなたは、彼の事情をもう少し詳しく知るまで、決して彼の訴えをはねつけたりすべきではなかった。それは事務的なやり方ではないであろうか。しかり。方々。事務的であるということは、時として悪魔のようになるということである。しかし、あなたがたには、そうした場合には事務的になってほしくはないと思う。事務的な処理など放り出し、キリスト者的になるがいい。もしあなたが信仰告白者であるとしたら、神の命令に従うことにおいて神に仕えようとするがいい。――「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。

 「それはそうですが」、と別の人は云うであろう。「私はいつだって貧乏な人にはとても親切にしてきましたよ」。この場にいるひとりの令夫人は相当な額の金銭を自由にすることができ、彼女にとって金銭は止め針と同じくらいありふれたものである。そして、彼女は病人を見舞いに行く。そして彼女が部屋に入ると、彼らは彼女に椅子を出し、彼女は腰を下ろしては、倹約について彼らに話を始め、それについて相当にご立派な講義を行なう。この貧しい人々は、自分たちが今している以上にどのように倹約すれば良いのかといぶかしむ。彼らにはパンしか食べるものがなく、それよりも安いものを手に入れられる見込みはないからである。それから彼女は、彼らに清潔について勧告し始め、子どもたちの服について、見当違いな指摘を五十ほども行なう。「さて」、と彼女は云う。「ねえ奥さん。お暇する前に、この小冊子を差し上げましょう。酒に酔う害について書いてあります。これをご主人にあげるのがよいかもしれませんね」。もしこの女がそのようなことをしたら夫にぶたれるであろう。それは間違いない。「さあさあ」、と彼女は云う。「ここに、あなたのために1シリングがありますよ」。さて今、この令夫人は考える。「私は私の隣人を愛してるのだわ」。あなたは、この女と握手しただろうか? 「いいえ、先生」。あなたは、この女と親しげに話をしただろうか? 「するもんですか。あれは身分が下の女ですもの」。ならば、あなたは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」、というこの命令に従っていなかったのである。あなたが立ち去った後、何が起こったか教えても良いだろうか。その女は、あなたがいなくなるや否や、泣き出したのである。彼女は、慰謝を求めて教役者のもとに駆けていった。彼女は彼に云った。「聞いてください、先生。私は今朝、多少の助けが与えられてとても神に感謝しています。でも私の心はほとんど張り裂けてしまいました。聞いてくださいまし、先生。私どもは以前はもっと良い暮らしをしていたんです。今朝、何某夫人がおいでになり、まるで私が犬か、子どもででもあるかのようなしかたで話をしていきました。あの人は私に1シリング恵んでくれましたが、私はどうして良いか分かりませんでした。私はのどから手が出るほどそのシリングが必要でした。さもなけりゃ、あの人の背中に投げつけてたと本気で思います。あの人の話し方には、もう我慢できませんでした。先生が私のところに来るとしたら、先生は私に優しく話をしてくれるって分かってます。そして、私に一銭も下さらなくとも、先生は私にひどい口をきいたり、私のあら探しをしたりしませんわ」。「おゝ」、と彼女は云った。「私の心は私の中で張り裂けてしまいました。私にはもう我慢ができませんでした。だって、私たちどもにも裕福な時代はあったのですし、私どもはあんな扱いをされることに慣れていませんでしたもの」。さて、あなたは彼女を愛さなかったのである。あなたのシリング貨幣は、あなたがその上に多少の愛を載せていなかったとしたら、何になっただろうか? ほんの少しでも愛をその上に広げていさえしたら、あなたはそれを黄金のソブリン貨幣ほどにもしていたであろうに。そしてこの女は、それを本来の値打ちをはるかに越えて尊んでいたことであろうに。「あなたの隣人を愛せよ」。おゝ、私が自分でもそれを常に実践することができていたとしたら、どんなに良いことか。また、私があなたがた全員の心にその感銘を与えることができたら、どんなに良いことか。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

 さて今、私が用いる最後の議論は、キリスト者にとって特にふさわしいものである。キリスト者よ。あなたのキリスト教信仰は、あなたが愛することを要求している。――キリストは、あなたがキリストを愛する前からあなたを愛してくださった。主があなたを愛されたとき、あなたのうちには何も良いものはなかった。主は、あなたが主を侮辱したにもかかわらず、あなたが主を蔑んだにもかかわらず、主に反逆したにもかかわらず、あなたを愛された。主はあなたをひたすらに愛し、決してあなたを愛することをおやめにならなかった。主はあなたの信仰が後退したときもあなたを愛し、愛によってあなたを引き戻してくださった。主は、あなたが自分のもろもろの罪の中にあり、自分の邪悪さと愚かさの中にあるときに愛してくださった。主の愛に満ちた心は、なおも永遠に同じであったし、主はその心血を注いであなたに対するご自分の愛を証明してくださった。主はあなたが地上で必要とするものをあなたに与えてこられ、天にはあなたのために住まいを備えてくださった。さてキリスト者よ。あなたのキリスト教信仰があなたに要求しているのは、あなたの《主人》が愛されたように、あなたも愛することである。あなたも愛する者とならない限り、いかにしてあなたが主にならっているなどということがありえるだろうか? 私たちはイスラム教徒やユダヤ人や不信心者たちに冷淡さや不親切はまかせよう。それらは、彼らの見解にはずっと即したことであろうが、あなたにとって不親切さは奇妙な変則である。それはあなたのキリスト教信仰の精神にとって途方もなく矛盾したことであり、もしあなたがあなたの隣人を愛さないとしたら、私はあなたがいかにして主イエスに従っている者でありえるのか見当もつかない。

 さて今、私はしめくくりに1つか2つ、重大な示唆を行なおうと思う。本日の聖句が最初に示唆しているのは、私たち全員の咎である。愛する方々。もしこれが神の律法だとしたら、この場にいる誰が自分は無罪であると申し立てられるだろうか? もし神の律法が私に私の隣人を愛することを求めているとしたら、私は私の講壇に立って、自分の咎を告白しなくてはならない。昨日この聖句について考えていた際、私の目からは涙がこぼれ落ちてきた。軽率にも私が口にした多くの無慈悲な言葉が思い出されたからである。私は私の隣人を愛することのできる多くの機会を自分がなおざりにしてきたことを思った。そして、私はその罪を告白しようと努めてきた。私が確かに思うところ、この広大な聴衆全員の中の誰しもが同じようにしようとするであろう。もしその人が御霊によって力強くこの律法が自分の魂に適用されるのを感じたとしたらそうである。

 おゝ! あなたは有罪ではないだろうか? 最も親切な霊、最も慈悲深い魂よ。あなたは有罪ではないだろうか? あなたはそう告白するではないだろうか? ならば、それは、このようなことを示唆しているのである。もし律法を完璧に守るのでない限り、誰ひとり自分の行ないによっては救われないとしたら、誰が自分の行ないで救われることなどできるだろうか? あなたがたの中に誰か自分の隣人を一生の間、心を尽くして愛してきた人がいるだろうか? ならば、あなたはあなた自身の行為によって救われるであろう。もし他のいかなる命令も破ったことがなかったとしたらそうである。しかし、もしあなたがそうしてこなかったとしたら――そうできたはずがないが――、そのときは、律法の宣告を聞くがいい。あなたは罪を犯した。それであなたの罪ゆえに滅びなくてはならない。律法の命令によって救われようと希望してはならない。そして、おゝ! いかにこのことは福音を私たちにとって慕わしいものとすることか! もし私がこの律法を破ってきたとしたら――そして私は破ってきたが――、そして、もし私がこの律法を破ってきたままでは天国に入れないとしたら、まことに尊いのは、私のあらゆる罪をその血潮で洗いきよめることのできる《救い主》である! 尊いのは私の愛の欠けを赦し、私の親切さの欠けを赦すことができるお方――私の荒々しさと私のがさつさを赦し、私のあらゆる無情な話し方、私の心の狭さ、私の不親切さを赦し、そのすべてを贖ういけにえによって、私のあらゆる罪にもかかわらず、天国での座席を私に与えることのできるお方である。あなたは今朝、罪人である。――あなたはそれを感じているに違いない。私の説教は、もし神によって祝福されるならば、あなたがた全員に咎を確信させているはずである。よろしい。ならば、罪人としてのあなたに、福音を宣べ伝えさせてほしい。「主イエスを信じる者は、だれでも救われる」。その人はこれまで神の律法を破ってきたが、神はその人を赦し、新しい心と正しい霊をその人の胸に入れてくださる。それによって、その人はやがて律法を守れるようになる。少なくとも、抜きんでてすぐれたしかたで守れるようになる。そして、そのうちに永遠の栄光におけるいのちの冠に達することになる。

 さて、私は自分が今朝、誰かに対して個人的な迫りを与えたかどうか分からない。私は真摯に自分がそうであったと望みたい。私は個人的に迫ろうとしていた。私の知るところ、世の中の非常に多くの人たちは、自分に正確にぴったり合う帽子を渡されない限り、決してそれをかぶろうとはしない。もしあなたが、「それは私の隣人に何とよくあてはまることでしょう」、と云わなくとも、一度でも、「これは何とよく私にあてまることでしょう」、と云うとしたら、私は希望する。この勧告から何らかの善が続くであろうことを。そして、たとい無律法主義者が顔を背けて、「あゝ! あんなもの、ただの律法的な説教にすぎませんでしたよ」、と云うとしても、私はその尊い律法主義者に愛を差し出している。私は彼の意見になど頓着しない。私の《救い主》はこのように説教なさったし、私も同じことをするのである。私の信ずるところ、キリスト者たちが何をすべきかを告げられるのは良いことである。また、キリスト教が私たちに何を行なわせるよう導くかをこの世の人々が知るのは良いことである。愛と親切と律法の最高の基準が世において高く掲げられ、絶えず人々の目の前に置かれ続けるのは良いことである。

 願わくは神があなたを祝福してくださり、あなたとともにいてくださるように。イエスのゆえに!

  

 

あなたの隣人を愛せよ[了]

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