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第31章
水晶宮における説教 いまだ多くの人々にとって謎であるスポルジョンの人気――『英国季刊評論』――感謝集会――印度暴動ゆえの祈祷の日――スポルジョン水晶宮で説教す――説教者に関する報道――ローストフトにおけるスポルジョン
1857年も深まるにつれて、スポルジョン氏に好意を寄せる大衆感情の反応は、ますます際立ったものとなっていった。日曜ごとに《サリー音楽堂》に押し寄せる群衆の数は増大し続け、ついには入口の扉が開き放たれるごとに、それ自体で一教会の大会衆にも匹敵する人数の人々が入場を許可されないまま、落胆して家路に着かなくてはならないほどであった。この無類の光景は、この町とその金棒引きたちが今なお理解できないと告白するものであった。しかしながら、わけ知り顔でこのように説明する人々もいた。――世界中でも最も容易なことは、ロンドンで大群衆を意のままにすることなのだ。もし誰かがこの単純な真理を疑うというなら、実地に試してみるがいい。チープサイドでしばらくの間、静止したまま立ち尽くしてみるがいい、と。それでも、このような理屈は大して役に立たなかった。というのも、常識の持ち主であれば誰でも、ある説教者が大群衆の聴衆を引き寄せて、それからずっと彼らを引き離さずにおくなどということは、実際、至難の業の1つにほかならないと分かるからである。スポルジョン氏の教えに完全には同調しないながらも、公平に記述したいとも願っていた、見る目のある人々は、このことを悟っては、この説教者に好意的なしかたで、寛大な斟酌を行なった。一部の者たちはさらに先へ進み、なされつつあることに神の御手を見てとった。このようにして、すでに発行されていた二冊の年次説教集の書評において、ある一流季刊誌は、こう指摘している。――
「私たちが自分自身でも信ずるところ、サリー公園の日曜集会において呈されている事実を説明するには、この説教者のうちに見いだされる人格的なものを越え、彼が提起している真理の大略を越え、彼がそれを提起する先の性質を越えて進まなくてはならない。――私たちが信じなくてはならないのは、まさに《天来の》御手そのものにほかならない。《全知》のお方はしばしば、世の知恵を嘲る目的のために選ばれたと思われる器や方法によって働いてこられた。それは、この方がキリスト教を創始されたときがそうであった。――このお方は、それと似たことを再びなされることがありえる」*1。
さらに、スポルジョン氏の成功に寄与していた何点かの特徴が言及されている。例えば、彼の語り口、彼の劇的な迫力、彼の倦むことを知らない真剣さ、そして、人のすべての必要を満たす《福音》に対する彼の信仰などである。それから、この主題はつぎのようにまとめられている。――
「しかし、ここにひとりの人物がやって来る。――声においても、押し出しにおいても、威厳においても、天才においても、決してホイットフィールドではないが、それにもかかわらず、その手の一振りで、こうした病的な感傷主義をも、こうした臆病な誤信をも、一掃してしまう人物である。彼は、単に聖パウロの昔ながらの教理を、パウロの言葉遣いのあらゆる力をこめて公然と云い立てるばかりでなく、彼自らの数々の誇張表現をもってそうするのであって、そうした表現はパウロが進んで否認するようなものなのである。この人物は、《福音》がどこから来たか、いかなるものであるか、あるいは、なぜ私たちの間に地位を占めているかについて、何の疑いも知らない。こうしたすべての主題に関して、彼の精神は、すっかり出来上がった人物のそれである。昔ながらの、信頼を受けてきた《福音》の諸教理がその働きをきわめて良く成し遂げてきたことを疑う代わりに、彼はそれ以外の何物からも善を期待せず、彼がそれらの回りに群がらせるのは、それらのためになることばかりなのである。哲学的な精密さや、文学的な洗練さや、私たちがある教理について分かっていることとそうでないこととの間に精緻な区別立てを設けることなどは、ことによると、その教理について理解する手がかりを、結局ほとんど何1つ私たちに残さないかもしれない。――こうしたすべては、一部の人々によれば、この時代が大いに必要としているものだが、スポルジョン氏の徹底した軽蔑の的である。彼は、パウロの教えに従った、昔ながらの真理を直裁的に、かつ独断的に宣言し、その輪郭や、その実質や、その結果をいささかも和らげようと試みることがない。――では、その結果、何が起こっているだろうか? まことに《摂理》は今ひとたび、この世の知恵を愚かなものとしているように思われる。しかるべき説教作法について実によく通じている紳士たちが、自分たちの深遠な教訓を空っぽの長椅子の前で、辺鄙な片隅で例証するにまかされているのを尻目に、このサリー公園の若者は自分の前にいる九千人の聴衆を指さして、こう問うことができるのである。――このような光景を目の前にしている者のうち誰が《福音》を、かの古き《良き福音》を、人間性の偉大な心において1つの力とすることについて絶望などするだろうか、と」。
新タバナクル(会堂)建立のための基金集めの働きはなおも続いていた。9月7日の月曜日、サザク本通りを歩いていた人は誰でも、その日の夕べにニューパーク街会堂で1つの集会が行なわれると告知する張り紙に気づいたであろう。その集会の目的は、「大衆を集めて《いのちのことば》を聞かしむるべき大タバナクル建立資金を獲得せんとするC・H・スポルジョン師の労苦に伴った成功について、《いと高き方》に感謝を返す」ことであった。
この折には、スポルジョン氏その人が、1つの声明を発表した。この運動に関心をいだくあらゆる人々が、現状を理解できるようにするだけの長さの声明である。まず、エクセター公会堂で持たれていた諸集会への言及がなされた。――その当時には、望ましくない新機軸だとしてあざ笑われ、鼻であしらわれていた礼拝集会である。だが、それは人々の回心において非常に実り豊かなものであり、他のしかたでも上首尾なものであったため、《国教会》の主教たちが今や同じ種類のことを自分たちでも行なうようになっていた。それから、ニューパーク街会堂の増築がほとんど役に立たなかったこと、それは諸集会が従来と変わらないくらい混雑していたためであったことを示した上で、彼は語を継いだ。――
「その目的のための資金集めを支援するため、エクセター公会堂における二期目の諸集会が始められ、それは、一期目と同じくらい大きな成功をおさめつつあった。だが、自分には摩訶不思議なある理由によって、私たちは、もはや同公会堂を使用することがまかりならないと告げられたのである。その件に関して、自分はいかなる人にも何らかの動機を負わせたいとは思わないが、いまだに自分は、なぜあの公会堂の使用が私たちに拒まれたのか、また、なぜ私たちが私たちの礼拝集会をその中で行なうことを中断しなくてはならなかったのか、その理由が理解できない。しかしながら、そうした事情にあって、私たちに何ができただろうか? 私たちの古い会堂に戻ることは何にもならなかった。礼拝集会に集うようになっていた人数の半分も、それは収容することができなかったからである。そこへ、サリー音楽堂が好適であると見いだされたため、そこを確保することが決議された。同音楽堂での礼拝集会を実験的に持ってみることになったのである。自分は、そこで行なわれた最初の集会にいかなる逆境が伴ったかをほのめかすことによって、あなたがたの感情に苦痛を与えようとは思わない。だが、そうした痛ましい序曲が先立った後で、この上もなく勇壮な数々の結果が生じた。そしてサタンは、そうした弾圧を加えようとしたときほど大敗を喫したことはいまだかつてなかった。あの折に起こった嘆かわしい事故がなかったとしたら、あれほどの、数千人もの人々が《福音》の聞こえる中に導かれて来ることは決してなかったであろう。あの事故は、そこでの私たちの集会がわが国の最高身分の人々の間でも知られるようにする手段となったのである。そして、確かに自分はこのことを過大視するものではないが、こうした人々の中の大勢がそれ以来、私たちの集会に集っており、《福音》をその素朴な形で聞いてきたのである。同所での私たちの諸集会は、この上もない成功をおさめた。だが、私たちの目的を完全に成し遂げるためには、自前の礼拝所を持たなくてはならなかった。私たちが好きなときに礼拝式を行なうことができ、それに集うであろう人々を十分に収容できるだけの大きさの礼拝所である。現時点において、自分は確実にこう述べることができる。もし私たちがそのような建物を得たとしたら、少なくとも五千席は優に占有者を見いだせるはずである。自分がそう云うのは、それにはるかにまさる数の人々が日曜日ごとに、自分の話を聞きにサリー音楽堂に定期的に集ってくるのを見ているからである。事実上、彼らは常に同じ座席を占める定期的出席者であって、もし新しい礼拝所を建てたとしたら、その話を聞きに来る人々として安心して数に入れることができる。そして、自分はいかなる疑いもいだいていないが、もし私たちが自分たちの目的を果たすことができたとしたら、私たちはロンドンで最もすぐれた、最も強大な教会となるであろう。さて、その目的を実行するため、1つの委員会が任命され、彼らはうまずたゆまず、その建物の建設資金の調達、そして、それを建てるべき用地取得のために働いてきた。ほぼ三箇月前に、自分はS・M・ピトー卿と朝食をともにする栄誉にあずかった。卿が自分に約束されたところ、そのような建物の礎石が置かれた時に、卿は百ポンドの寄付を行ない、さらに建設が完成した時には、もう百ポンドの寄付を行なうと云われた。また、それ以外にも援助の約束をされた。卿がやはり自分に告げたところ、卿は自分の差配人に命じて、そうした建造物の建設に適した用途を探させようとのことである。その件に関して、卿は委員会と連絡を取るとのことである。だが、自分はM・ピトー卿がそれ以来ずっとポルトガルに旅行していることを理解しているため、その件では何の結論にも達していない」。
この時点では、四千ポンドが手元にあり、さらに多くが約束されていたものと思われる。そして、ほとんど六百ポンド近くは、この牧師自身によって、その諸集会の後で行なわれる募金というしかたで集められていた。その前の週の間に、彼はそうした手段によって百七十九ポンドを確保していた。だが、そのとき、彼は長距離を旅行しなくてはならず、毎日二度説教せざるをえなかった。この集会の目的は、この牧師を動かしていた、この事業に対する熱情を人々に吹き込むことにあった*2。
この年最も重要な説教が行なわれたのは、10月7日の水曜日、水晶宮で催された大集会の折であった。印度暴動のため、へりくだりと祈りの日として取り分けられた日である。今の世代の若い人々は、その暴動の残虐行為が生じさせた激しい感情を悟ることができないであろう。キャンベル博士のように善良な友人でさえ、スポルジョン氏があまりにも懲罰的な調子で語ったと考えた。だが、叛徒たちの行動を特徴づけていた忌まわしい所業の詳細を読んでいるときに、平静さを保つのは必ずしも容易ではなかった。
その日は、この機会を休日にしようと願っていた人々にとっては都合の悪いことに、雨降りの寒い日であった。だが、シデナムの硝子張り宮殿の袖廊でなされる説教には、何千人もの人々を引き寄せる魅力があった。午前7時半から行列が並び始め、正午には途方もない数の会衆が集まった。袖廊の北東の角に立てられた講壇は、すでにサリー公園であれほど立派な働きを勤めてきたものであった*3。短い祈りの途中で、説教者はこの暴動によって苦しんできた人々を神にゆだねた。――やもめと、父を無くした子どもたちである。兵士たちについて、彼は神にこう祈った。彼らが「単に戦士であるばかりでなく、処刑者であることを思い出すよう命じてください。そして、願わくは彼らが確固たる足どりで戦闘に赴くことができますように。敵を完膚無きまで破壊することが、神の望みであると信じてそうできますように。この敵は、単に英国を汚したばかりでなく、そうすることによって、人々の間で自らを汚してきたのです」、と。人々は二曲目の賛美歌を歌った。その響きの量は、この広大な建物に大きな効果をもたらした。それから説教となった。主題聖句はミカ6:9であった。「聞け。鞭と、それを定めたお方に」<英欽定訳>。
35分間続いた説教の中で、この説教者が告げたところ、彼は印度における出来事を、セポイ(印度人兵)という手段によってわが国に加えられた国家的な審きとみなしていた。彼らは、自発的に英国の旗下に加わり、女王陛下とその士官たちへの忠義の誓いを行なったのであり、不平を云う筋合は全くなかった。彼らは常に甘やかされてきたし、常に依怙贔屓の膝の上であやされてきたからである。もし印度の民衆が反乱を起こしたのだとしたら、彼らも、彼らのただ中に自国を暴君的な国から解放しようとした愛国者たちがいたと考えても良かったかもしれない。だが、彼らに反抗していたのは、情欲と帝権への野心に駆られた者どもにすぎなかった。彼らには今や、処刑されるべき反逆者たちがいたのである。そして彼は、いかなる絞首台もすさまじい悪とみなし、いかなるさらし柱もぞっとするほど恐ろしいわが国への災禍と考え、支配者の腕が死の罰へと差し伸べられるとき、それは常に、その国が深刻な悲嘆とみなすべきことでなくてはならなかったが、この者らは罰されなくてはならなかった。天も地もそれを要求していた。彼はこれが、用語の適正な意味において戦争であるとは全く信じていなかった。彼らの兵団は、敵の兵団と戦っているのではなく、反乱を起こした臣民たちに向かって行くのである。――その数々の犯罪により、また、その殺人により、また、口にすることもできない他のもろもろの罪によって、自ら死の罰を招いた者たちに向かって行くのである。だが同胞臣民の生命を奪い取ると考えるのは、ぞっとするほど恐ろしく、すさまじいことであった。その日、彼らは、他の種々の悪の中でも、このことを嘆かなくてはならなかった。――剣がその鞘から抜き放され、自分たちの同胞臣民を何千となく切り倒さなくてはならないということを。彼は、この戦争の中に神の御手を見ており、神がこうした悪を定められたのは、ただ、大きな善がそこからそれに続くためだけであることを願っていた。印度の統治当局のもろもろの罪はどす黒く、底深かった。責め苦を受けている現地人たちの悲鳴を聞いたことのある人、王位から退けられた王族たちの呪詛を聞いたことのある人であれば、じきに神がその剣を鞘から抜き、虐げられた人々の復讐をなさるだろうと予言できたはずであった。もし反乱を起こしたのが印度民族であったとしたら、彼は神に祈っていたであろう。文明に免じて、彼らが再び英国の支配下に引き戻されるようにと。だが、彼らは彼らに対する聖戦を説教するべきではなかった。抑圧された国を解放しようとしている愛国者たちを打つことになってはならないからである。彼の考えるところ、印度の統治当局は、決してヒンドゥー人たちの宗教をいささかも許容すべきではなかった。だが彼らは、その愚行を援助し、幇助して、それゆえに神は、その罰をもって彼らをいま訪れておられたのである。その悪の原因の一部は、英国の人々自身の罪であると語られた。そして、確かにこの共同体の中には、決して許されるべきではないような種々の罪があった。ホリウェル通りの有害行為は、長年の間、許され続けてきた。今ではそれらはほとんどさびれてしまったが、リージェント通りやヘイマーケットには何が見えただろうか? もし神が英国に罰を与えるべき罪悪が何かあったとしたら、それは、こうした場所において彼らの眼前で、破廉恥行為がその意図を果たすのを許しているという罪であった。同じように彼らは、この国の貴顕や淑女たちが芝居小屋に座り、上品なものとはほど遠い劇に耳を傾けているのを知っていた。そして、こうした罪こそ、部分的には、この鞭を彼らの上に引き寄せたものであった。彼はまた、自分の同胞たちを富への踏み石としかみなしていない者たちの行ないに、この悪の原因を帰した。しかし、彼は、それを至らせたすべての悪を数え上げることはできなかった。彼の意見によると、キリスト教会はその義務において怠慢であった。だが彼は、すでにその信仰復興が始まっていると希望していた。前年は、使徒たちの時代以来、いかなる年にもまして多くの説教が見られたからである。彼らは、その日は祈るであろう。だが、勝利が来たときに、彼らは花火を買い、打ち上げ花火を発射すること、また、色とりどりの提灯によって、神をたたえるであろう。先の戦争の終結にあたってそうしたように。
説教者は、この暴動のため苦しんでいる人々のために1つの強力な訴えを行なった。「ひとりでも、いま塗炭の苦しみを嘗めている同国人のための助けを拒むような者がいるだろうか? 否。そのような人は生きてはいまい。少なくとも、そのような英国人はいまい。それほどみじめな悪党がいるだろうか? 神が自分に十分なものを与えておられるというときに、あわれみの心を閉ざすような者が。否。私はそのような想定をしてあなたを中傷しはすまい。そのような怪物がこの場にいると考えることはできない。献金箱が回されるときには、自分のペンスをささげるがいい。もしポンドを持っていないとしたら。だが、みなが自分に割ける限りの額をささげるがいい」*4。《印度救援基金》のための募金は、675ポンド16シリング11ペンス半に達した。その中には、水晶宮会社がその日の収益の中からささげた二百ポンドも含まれていた。スポルジョン氏のこの集会は無償奉仕であると理解されていた。「ハレルヤの合唱」と祝祷によって、この集会の最後がしめくられた。この建物に入った人々の数は、23,654人であった。
水晶宮で説教するスポルジョン氏 この礼拝式は、この断食日に関連して行なわれた最も注目に値する事がらであると認められた。だが、何事にも満足しようとしない人種の人々は、けちをつける種を山ほど見いだしていた。それは水晶宮会社側の抜け目のない金儲けであり、その一方で、娯楽専用の場所でキリスト教の礼拝式を催すことはふさわしくなかった。キャンベル博士はスポルジョン氏の擁護者として立ち上がった。筋の通った反対論をあげることは決してできない。この場所は、このような機会に説教するには適切な場所である。その募金は、ロンドン中の他の募金を合わせた額に遜色ないほどの高額に達している。その間、「その集会は、欧州あるいは世界中で、《福音》の説教者が話をした中では最大のものであった」。
このように、自分の友人を弁護し、その講壇上でのいくつかの発現の基調に全般的な満足を表明した後で、キャンベル博士は、この水晶宮でささげられた、先に部分的に引用した祈りの精神には共感できない旨を云い表わした。この若き説教者が「いささか自制心を失った」ことは非常に遺憾であると考えられた。「しかしながら、スポルジョン氏の情状は大きく酌量すべきである」、と付言された。「彼の職業が武器を扱うものであったとしたら、おそらく彼は、第二のナポレオン一世とまでは云わずとも、第二のハブロックになっていたであろうからである。彼の内側にある魂には、偉大な事業をやり遂げるだけの力量がある。しかし、軍事的な殺戮は、敬虔の勤めには最もそぐわないものである」*5。
11月22日の日曜日、スポルジョン氏は黙3:19、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」、から説教した。彼は、ひとりの子どもの死によって、いささか説教するにはふさわしくない状態にあると述べ、当初はほとんどその場に出られないように感じていたと語った。また、その講話は、「普段ほど力強くはなかった」、と語られた。だが、会衆はその牧師に心から共感しており、堂内のあらゆる場所はびっしり人で埋まっていた。
『グラスゴー・エグザミナー』紙のロンドン通信員が、たまたまこの礼拝に出席しており、この説教と彼の働きに対する親切な言及が同じ週の同紙に掲載された。スコットランドの読者たちには、スポルジョンがヘブル人への手紙の、「主はその愛する者を懲らしめ」、との聖句から説教したと告げられた。このように間違った聖句を引用した後で、このスコットランド人新聞記者は幾分奇矯な注釈を行なった。「スポルジョン氏は今や華麗な大邸宅に住んでおり」、と彼は述べた。「堂々たる一頭立ての馬車と、大人数の召使いたちを従えている。――四人の女中と、二人の従僕である。彼の収入は一千ポンドをはるかに越えていると云われる」。もちろん、善良なるキャンベル博士は、人々がこのような言明を鵜呑みにしないように願う旨を云い表わした。それは、「多少とも私的な領域を」侵害することであった。この場合、その報道は、「本当だとしたらうますぎる話」と思われた。だが、もしそれが正しかったとしても、この若き牧師ほど、その境遇に起こったことにふさわしい人はいないと断言された*6。
12月1日の火曜日は、ローストフトにおける記念すべき日であった。というのも、スポルジョン氏はその町で二度、バプテスト会堂のために説教し、その拠金は約百ポンドに達したからである。その礼拝式は、北欧州蒸気航海会社の大陸貨物倉庫で開かれ、それぞれの折に三千人が出席した。入場費が低く抑えられていたため、人々は近隣の地域から大人数をなしてやって来た。ローストフトの教区牧師であった故S・モートン・ピトー卿や、多数の教職者たち、非国教会の教役者たちもまた、その地域に住む主要な名家の代表者たちと同じように出席していた。
*1 『英国季刊評論』、1857年7月号。[本文に戻る]
*2 この折の模様は、1857年9月11日付の『ブリティッシュ・スタンダード』に記されている。[本文に戻る]
*3 『世界』誌への投書で、「アトラス」氏はこの記憶すべき日について次のような懐旧談を寄せている。――「私が個人的にスポルジョン氏を体験したのは、水晶宮で彼が二万五千人に向かって説教した時のことであった。講壇に近い所に座った私は、スポルジョン夫人が夫君の登場する直前に自分の席に着くのが見えた。見るからに彼女は、この圧倒的な人々の集合に心を動かされていた。その全員が顔を上げて、ひとりの人物を見つめており、その全員が、この人物によって自分たちに向かってなされる、救われて生きよとの熱情のこもった訴えによって心底まで興奮しようとしていたのである。スポルジョン夫人が自分の感情をできる限り隠しつつある一方で、私は、この牧師が遠く離れた所で自分の人差し指により執事のひとりを差し招くのが見えた。それは恰幅の良い、ごま塩頭の、赤ら顔の人物で、片目に障害があった。彼は非常に光沢のある黒服に身を包んでいた。それが、はるか昔の正統的な非国教徒の制服だったのである。彼はびっこを引き引き歩いて行き、それがその講壇、あるいは、むしろ演壇までの彼の進み方をじれったいほどゆっくりなものとしていた。手短な、だが明らかに重要な指示が、ついにスポルジョン氏によって、この跛行者の耳に囁かれた。たちまち二万五千人が、一体このような時にそれはどうしたことかと知りたくてたまらない気持ちになった。その広大な場所は期待と抑えられた情緒的興奮で震えていたのである。たまたま私はスポルジョン夫人のごく近くに座っていたため、この立派な執事がその蟹めいた重々しいしかたで『彼女に向かって来た』とき、その、期待して待ち受ける、広大な静まりかえった群衆の中で、少なくとも私は、この牧師を手間取らせたもの、また、これほど重要な瞬間に伝えなくてはならなかった緊急の事がらが何であったかを聞かないわけにはいかなかった。しゃがれ声の囁きでこう云われるのが聞こえたのである。――『スポルジョン氏からの伝言ですが、奥様のお席を替えていただけないでしょうか。奥様が見えないようにしていただきたいのです。それ[「それ」とは疑いもなく、スポルジョン夫人の感情であった。]が見えると、気を高ぶらせてしまうとのことで』。そこで、この奥方はすぐさま説教者の場所からは見えない別の席に移っていった」。[本文に戻る]
*4 『ブリティッシュ・スタンダード』、1857年10月9日。[本文に戻る]
*5 同上、1857年10月9日。[本文に戻る]
*6 同上、1857年12月4日。[本文に戻る]
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