HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第32章

「矛盾した福音」

厳格バプテスト派、再び――ジェームズ・ウェルズ、スポルジョンとともに説教することを拒否する――様々な意見――『聖徒とその救い主』――抜粋による例示――ある予言

 1857年の間にスポルジョン氏によって説教された諸教理は、またしても厳格バプテスト派の批判を浴びることとなった。厳格バプテスト派は、極端なカルヴァン主義者たちでもあった。この攻撃を率いていたのは、この教派の最も有能な人物として、同派の第一人者として認められていたジェームズ・ウェルズその人である。この雄弁な説教者が人々に吹き込んでいた崇敬の念は途方もないもので、彼の振るう影響力は使徒のそれに匹敵していた。「ジェームズ・ウェルズは、御民を奴隷の家から連れ出すために神から遣わされたのである」、と彼の弟子のひとりは言及した。「これが彼の独特の働きである。そして、彼のように、『義務としての信仰』という構造物と歯車を叩きのめしてガラクタにすることのできる者がどこにいるだろうか?」*1

 1857年の春、ウェルズ氏は在ブライトンの同労教役者のために説教する約束を交わしていたが、同じ建物の中でスポルジョン氏が説教するように招かれたことを知ったとき、この厳格バプテスト派の教師は依頼を断った。彼は、スポルジョン氏に対していかなる悪感情もいだいていないと断言し、その伝道牧会の働きの一部は満足のいくものだとした。ただし、全体としての彼の教えは、「支離滅裂なもの」ではあった。これにより、「敬して遠ざかる」方が、多くの人々のしているように、偽善的に彼の使信を受け入れると公言した後で、陰に回ってその説教の悪口を云うよりもずっと晴れやかなことであろう。このように語ることのできた人は、「公に出回っている文書で、スポルジョン氏の伝道牧会活動について語られた非難めいた事がら」には、いささかも共感していなかった。というのも、彼の信ずるところ、それらの出所は、「無知と、嫉妬と、偏見」であったからである。結局のところ、ニューパーク街の牧師は、自分が真理であると信ずるものを口にすることにおいて正直かつ率直であった。それからウェルズ氏は、聖書の試金石で試してみた場合、いかなる意味でスポルジョンの説教に欠陥があると理解しているかを手短に示した。「スポルジョン氏が私たちに知らせるところ、彼はマタ11:20、21、23、24と25、26節とを、あるいは28、29節とを調和させることができないという。それで、単なるニネベ的な悔い改め(最初の5節)を、神だけが授けることのできる悔い改めであると持ち上げることによって、聖霊を自己矛盾した証人とするのである。こういうわけで彼が宣べ伝えているのは、自殺的な《福音》であり、支離滅裂な《福音》なのである。これこそ、《福音》の偉大な諸真理を骨抜きにし、肉的な思いの好むものとする惑わしの一片にほかならない。そして、このような『福音』と私は、この上もなく厳粛かつ良心的に意見を異にするものである。このことによって、いかに私の不人気を招きかねないとしても、神の前におけるきよい良心こそ私にとって、世界中の何物にも換えがたい大きな宝なのである」。

 こうした言葉が語られた相手である、在ブライトンの牧師ウィルキンス氏は、これに抗議して、自分もウェルズ氏自身に劣ることなく、「完全で、無代価の、有効的な《福音》」に達さないいかなるものにも全く共感してはいないと言明した。彼は、ニューパーク街で教えられているあらゆることに同意していないかもしれない。だが、この若い牧師の教えにはあまりにも多くの主権的な恵みがあり、それが完全に拒否される余地は残されていないのである。「この首都には、神も、聖書も、安息日もおかまいなしの何万もの人々がおり、昨日もホワイトチャペルで、また他の至る所でそうした人々を見るにつけ、私はこう云えるものです。『願わくは神が、一千人ものスポルジョンを起こして、大群衆を引き寄せては、《いのちのことば》を聞かせてくださるように』、と」。

 しかしながら、ウェルズ氏は、ブライトンを訪れるようにとのいかなる懇願にも聞く耳を持たなかった。彼は、義務としての信仰を認めているような者――すなわち、人々が滅びるのは、彼らがキリストを信ずるのを拒否するからだと信じている者――とのいかなる交わりも持つことはできなかった。「たとい私が、そうした誤りを公然と認めるという誤りのしるしを私の額に受けていないとしても、それでも、もし私がそれに交わりの右手を差し出すとしたら、私はそれによって誤りのしるしを受けるであろう。私の額にではなくとも、私の手に受けるであろう」。東ロンドンの群衆に向かって説教すべき「一千人ものスポルジョン」について語られても役には立たなかった。人気はほとんど全く意味をなさなかった。「教皇制や、英国国教会派や、ウェスレー派や、回教の巨大さ」こそは、かくも多くの人々を畏怖させ、服従させてきたものなのである。その上、「贋金は、その重みや見かけが本物に酷似すればするほど、危険が増し、その欺きは完璧なものとなるのである」。

 ウェルズ氏とウィルキンス氏の間で交わされた書簡が公表されたことにより、他にも多くの投書が書かれることとなった。それは、スポルジョン氏が、厳格バプテスト派の最も純粋な派からいかなる目で見られていたかを示すものである。典型的な書き手のひとりは、こう云っていた。――「軽薄な大衆は、魅惑的な哲学が芝居じみたしかたで表現されるのを見て気晴らしをしたり、芸術めかした妙ちきりんな教えに耽溺したりするのが、好みにかなっているかもしれない。だが、『光の子ら』が人気芸人の罠にかかったり、単なる講壇上の雄弁に騙されたりすべきだろうか? 夢や惑わしがシオンをとりこにして良いだろうか? ……私は、説教師としての名声に憧れるこの愛敬のある若者に、いささかの偏見もいだいてはいない。だが私は、彼の説教集を読み、彼の説教を聞き、彼につき従う人々の信仰告白やふるまいをつぶさに観察してきた。そして、こうした事がらを一見したところ、私には、健康な子どもの生き生きとした特徴が見当たらないのである」。

 何通もの投書が現われた後で、ウェルズ氏はこの主題に戻ってきた。そして、何編かの説教を吟味し、そうした説教のいくつかの言明と聖書と比較した後で、到達された結論はこうであった。「スポルジョン氏は、義務としての信仰を是とする種別の説教者に属している。……彼は矛盾した《福音》を宣べ伝えている」。それからウェルズ氏はこう云い足している。――「毒は普通、何か良いものに入れて与えられる。さもなければ、毒など飲みたくないと思っている人々が、それを飲むよう欺かれることなどありえないであろう。義務としての信仰は、ひそかに、また、最も致命的なしかたで精神を毒する教理であって、それとともに説教される当の諸真理と真っ向から反するものなのである。かつて義務としての信仰を説いていた教会のいくつかは、これまで真理に知られた敵の中でも、最大の敵となり果てている。スポルジョン氏は、無意識のうちにこの毒を食物に投げ入れているか、これが毒であるとは信じていないのである。私は、このような非聖書的な取引に加わらないがために憎まれることになるであろう。それはそれでしかたない。私は自分の運命に満足している。そして、息を引き取るときまで、私の決定の真摯さを立証するものと希望しよう」。

 しかしながら、厳格バプテスト派の全体がウェルズ氏に同調していたと考えては間違いであろう。多くの人々は、氏の言葉によって自分たちの偏見をますます堅くしはした。だが、他の人々は、氏が完全に見当違いをしているものと正直に信じていた。C・W・バンクス氏は、説教者として、また編集者として、1854年にロンドンに上京したスポルジョンを真心こめて歓迎したし、今なおこの若き牧師の友人であった。「私たちは、神にふさわしいあらゆるもの、また、真の《福音》の性格をしたあらゆるものにおいて、彼への祝福を祈るものである」、とバンクス氏は書いている。「こうした事がらにおいて私たちは、ことによると、ウェルズ氏よりも一日の長があるかもしれない。私たちの信ずるところ、彼はスポルジョン氏と一度も会ったことがなく、その話を一度も聞いたことがないのである」*2

 1857年の年末にさしかかる頃に、それまで公刊された説教集を除くと、スポルジョン氏の最初の著書となるものが出版された。十二の章からなる本で、その題名は、『聖徒とその救い主:イエスを知る知識における魂の進歩』であった。著者の思いを越えて貴重であったその版権は、五十ポンドで売り渡され、この本の大規模な売れ行きにもかかわらず、この慎ましい謝礼金は一度も追加されることがなかった。私は、いかにしてこのような契約が、すでに驚異的な人気を博していた著者との間に結ばれることとなったのか、完全には一度も理解できなかった*3。何年か前に、《ヘレンズバラの家》の書斎にいたとき、私が思いきって、何らかの説明を求めてみたところ、その答えはこうであった。「その時の私には、五十ポンドは相当な大金だと思えたんだよ」。その刊行から二十年以上も経って、スポルジョン氏にはその版権を八十ポンドで買い戻す機会があった。だが彼はその提案を断って、こう言及した。自分としてはむしろ、新しい本を書くことの方が、それだけの額を払って古い本を手に入れるよりも好みだ、と*4

 確かに彼が告げている通り、スポルジョン氏がこの著作を執筆したのは、「おもに主の家族のため」であったが、いくつかの箇所は特に未回心の読者たちに向かって語られている。全体として見ると、この本には非常に興味深いものがある。というのも、これらの頁の上には単に青年の清新さが表わされているだけでなく、二十三歳のこの説教者がいかなる著者たちに魅力を感じていたかが見てとれるからである。彼が注意を払っているのは、詩人たちの中ではバイロン、トマス・テニソン、ハーバートである。セネカも幾分かは注目を集めている。その一方、神学者の中では、ギル、チャーノク、ユーダル、チャンドラーが言及されている。初期の何編かの説教のように、この本は、老練で幅広いキリスト者経験の持ち主の手になるものといって良かった。こういうわけで、ひとりの批評家が、この本は著書の年齢を思い起こせば驚嘆の念を引き起こす、と語っているのである。また、同書中の多くの箇所には、極端なカルヴァン主義者たちが義務としての信仰の所産と云ったであろうようなものがあった。この本はたちまち人気を博し、その売れ行きは今日に至るまで落ちることがないように見受けられる。ここでその一箇所か二箇所を、スポルジョン氏の若い頃の文章作法の見本として示して良いであろう。次の箇所は、悔悟した罪人たちへの配慮をおろそかにしない義務について語っており、彼の広い同情心を示すものである。――。

 「私たちは、罪人たちにもはや望みはないと想像しては、それを何の行動も取らない云い訳にする。汚れを恐れる潔癖な繊細さが、それと同時に自分の怠惰と高慢とを覆い隠そうとするのである。もし私たちが自分について正しい見方をしているとしたら、私たちは、いかなる人をも浅ましすぎて改心不可能だなどとは判断せず、群れから最も遠くさまよっている者をも、自分の同情の肩で背負うことを不名誉とはみなさないはずである。私たちの中のあまりにも多くの者らは、『そこに立っておれ。私はあなたより聖なるものになっている』*[イザ65:5]、という精神をしている。イエスが御手でつかまれたであろう人々を、私たちは火箸で触れようともしない。多くの信仰告白者たちは非常に高慢であり、古のパリサイ人の真の後継者であるとの名乗りを今すぐに認めてやってかまわないほどである。もし私たちがもっとキリストに似ているとしたら、私たちは今よりもずっと喜んで望みなき者のために望みをいだき、堕落した者を愛するはずである。次に示す逸話は、筆者が英国国教会のある尊敬する教役者の口から聞いたことだが、ことによると、事実として言葉よりもずっと力強い訴えを行なうかもしれない。アイルランドの一教区にいたひとりの教職者が、自分の群れの家庭訪問を行なう中で、あらゆる人を訪ねながら、ただひとりだけ例外としていたという。それは、この上もなく恥知らずな性格の女で、彼は彼女の家に入ることによって、反対者たちに攻撃の種を与え、自分の信仰告白に不名誉をもたらすのではないかと恐れていたのである。ある安息日に彼は、自分の教会の定期的な来会者の間に、その女がいることに気づいた。そして、何週間も彼女が《いのちのことば》に耳を傾けていることに注意した。また、会衆からの応答の中に、1つの甘やかで熱心な声があり、厳粛に罪を告白し、あわれみを懇願しているのが聞こえる気がするように思った。彼の憐れみの心は、この堕落したエバの娘をいたく気の毒に思った。彼は、彼女の心が本当に罪ゆえに砕かれているのか彼女に尋ねたくてたまらなかった。そして、彼女を燃える火の中からつかみとったと思われる、あふれる恩寵について彼女と話をしたいと強く願った。それでも、同じ繊細な感情によって彼はその家に入ることがどうしてもできなかった。何度も何度も彼は彼女の家の扉の前を、物欲しげな顔つきで通り過ぎた。彼は、彼女の救いを切に願いながら、だが、自分自身の名誉をも執拗に守りたかった。こうしたことがしばらく続いたが、ついにそれが終わる時が来た。ある日、彼女が彼を自宅に呼び、涙をさめざめと流してその張り裂けんばかりの心を表わしながら、こう云ったのである。おゝ、先生! もしあなたの《ご主人》がこの村に、あなたの半分ほども長くいらしたとしたら、きっと私をとうの昔に訪ねておられたことでしょう! だって、確かに私は罪人のかしらですもの。ですから、主のあわれみを一番必要としているはずですわ』。この牧師の心がいかに溶かされたか想像に難くはない。彼は、自分のふるまいが、自分の愛する《主人》との比較によって、優しく非難されたことを見てとったのである。その時以来、彼はいかなる者をも無視せず、『イスラエルの散らされた者たち』[イザ56:8]を集めようと決意した」*5

 ある箇所で彼は、ニューマーケットにいるひとりの友人に言及し、その人から自分は自分の神学の多くを学んだと云っている。――「筆者は、ひとりの老いた炊事婦に永遠の恩義をこうむっていることを告白する。彼女は、無律法主義者だとして軽蔑されていたが、その台所で筆者に神の多くの深みを教え、筆者の未熟な思いから多くの疑いを取り除いてくれた」*6。次の箇所は、死によって受ける損失に言及している。――。

 「私たちは、とある葬儀において、ひとりの説教者がこの真理をたとえ話にして、この上もなく美しいしかたで述べたのを聞いたことがある。彼は次のように語った。――『ひとりの貴族が広壮な庭園を持っており、それを忠実なしもべにまかせて世話させていた。このしもべは嬉々として格子に這う蔦の手入れをし、日照りの時は種に水をやり、弱い植物の茎には支えをし、その庭園を花々の楽園にするために、自分にできるあらゆることを行なっていた。ある朝、彼は喜びをもって起床した。自分の愛する花々の世話するのが待ちきれず、お気に入りの花々が美しさを増しているのを見るのが待ち遠しかったのである。驚いたことに、彼の最も美しい花々のうちの一本がその茎からもぎ取られていることに気づいた。それどころか、あたりを見回すと、あらゆる苗床から、自分の庭園の精華が、また、その咲き誇る花々の最も貴重なものがなくなっていることが分かった。悲しみと怒りに満ちて、彼は同輩のしもべたちのもとへと飛んで行き、一体誰が自分の宝物を盗んだのかと詰問した。それは彼らのしわざではなく、彼も彼らをそのことで責めなかった。だが、彼は悲しみに打ちひしがれてしまった。そのとき、彼らのひとりがこう云った。――「今朝はご主人様が庭園を歩いていらっしゃいましたよ。そして、花々を摘み取って持って行かれたのを私は見ました」。そのとき、まことに彼は、自分には思い惑う理由が何もないことが分かった。自分の主人が自分自身のものを摘み取って行かれたならば良いことだと感じた。それで出て来たときの彼は、自分が失ったものについて微笑んでいた。なぜなら、彼の主人がそれを持って行ったからである。そのように』、とこの説教者は会葬者たちに向かって告げた。『あなたがたは、こよなく愛していた方を失った。その親愛の情の絆は、この愛する婦人を地上につなぎとめておくことができなかった。私には、あなたがたの傷ついた感情が分かる。今のあなたがたは、この世の一切のすぐれたもの、愛すべきものの具現であった美しい姿形の代わりに、灰と腐敗のほか何も見ていないのである。しかし、思い起こすがいい。愛する方々。《主が》それをなされたのである。《主が》この優しき母親を、この愛情深い妻を、この測り知れない値打ちの友を取り移されたのである。もう一度云う。あなた自身の主がそれをなされたのである。それゆえ、つぶやいてはならない。また、極度の悲しみに身をゆだねてはならない』。この単純な寓話には、美しさのみならず大きな力があった。もしも主の全家が、あらゆる死別と患難の折に、この天的な教訓を実行に移す恵みを有していたとしたらどんなに良いことかと思う」*7

 ある注目に値する箇所には、実のところ自叙伝の趣がある。というのも、それは、あのサリー公園の大惨事が起こった直後の苦悩の時期に触れているからである。その時、この説教者は、その日常の働きを続けられなくなり、友人たちの目には、理性をなくしてしまうかのように思われた。私はスポルジョン氏がその時期について言及するのを聞いたことがある。そこでくぐり抜けたことについて語る際の彼は、常に自分の経験を生々しく描写するのだった。以下にあげるのは、彼がその最初の著書で、この時期について語っている箇所である。――

 「私の記憶から決して消し去られないであろうある晩、私の会衆の大多数は、よこしまな者どもの悪辣なしわざのために散らされ、大勢が傷を負い、何人かは殺された。危険の渦中にあって、私は力強く嵐と戦い、いかにすさまじい圧力にもくじけず、不屈の勇気をもって惑う者らを安心させ、大胆な者らをますます強めることができた。しかし旋風のように滅びが過ぎ去り、その惨禍が目に入ったときの私の霊の苦悶を、誰が理解できるだろうか? 私は慰められるのを拒否した。昼は涙が私の食べ物となり、夜は夢が私の恐怖となった。そのような感情を覚えたことは、それ以前に一度もなかった。『わが思い 刃(やいば)満つ鞘』となり、私の心はずたずたに切り裂かれ、ついには悲しみゆえの一種の知覚麻痺が私の薬となった。確かに私にはこう云えた。『私は狂ってはいないが、確かに思いふけるとしたら狂うに足るだけの目にあった』、と。私は、自分のためになると思われた孤独を求め、それを見いだした。私は自分の悲嘆を花々に告げることができ、朝露は私とともに泣くことができた。そこに私の精神は横たわり、砂州の上の難破船のように通常の動きができないでいた。私の聖書は、かつては日ごとの糧であったのに、今や私の苦悩の堰を切る手でしかなかった。祈りは私に何の鎮痛ももたらさなかった。事実、私の魂は幼児の魂のようであった。そして、私は厳かな懇願へと上ることができなかった。……そこにやって来たのが『多くの者のそしり』[詩31:13]であった。――厚顔無恥な嘘っぱちと、誹謗中傷と、野卑な云いがかりであった。……これらだけでも、私の幸福の杯から最後の慰藉の一滴すらえぐり出して行きかねなかった。だが、最悪のことは最悪に達しており、敵の究極の悪意もそれ以上は何もできなかった。すでに深淵のどん底にいる者は、それより低くは沈めない。みじめさそのものが、みじめな者の守護者である。すべての事がらが手を組んで、しばらくの間、私を、日も月も姿を見せない暗闇の中にとどめておいた。私は、徐々に穏やかな意識へと立ち戻ることを望んでいた。それで、忍耐強くあけぼのの光を待った。しかし、それは私が願っていたようにはやって来なかった。というのも、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すお方[エペ3:20]は、私の願いに対して、より幸いな答えをお送りになるからである。私は、カルバリの犠牲によって明らかに示された、エホバの測り知りがたい愛について考えようと努力した。高くあげられたイエスの栄光に富むご人格について努めて熟考しようとした。だが、瞑想という矢筒の中で自分の考えを揃えることができなかった。あるいは、実際、その鏃という鏃を私の傷ついた霊に突き立てるしかなかった。さもなければ、ほとんど幼児めいた無思慮のままに歩を進める自分の足に突き立てるしかなかった。突如、空から稲妻が一閃するように、私の魂が私に戻ってきた。私の脳の燃える溶岩は、即座に冷却した。私のずきずきする眉間は静まった。慰めの涼風が、炉の中であぶられていた私の頬を冷ましてくれた。私は自由になった。鉄の枷は粉々に砕かれた。私の獄舎の扉は開かれ、私は心からの喜びに躍り上がった。鳩の翼をかって私の霊は星々へと上った。――しかり、それをも越えた。それは、どこまで飛翔していっただろうか? また、どこでその感謝の歌を唄っただろうか? イエスの足元でである。その御名は、私の霊の恐れを魅了し、その悲嘆に終止符を打った。その御名――イエスの尊い名――はイスーリエルの槍のように、私の魂を自らのしかるべき、幸いな状態に引き戻した。私は再び人になり、それより良いことに、信仰者になった。私の立っていた園は私にとってエデンとなった。そして、そのときその場所は、私の最も感謝に満ちた記憶の中で、厳粛きわまりなく聖別された。幸いな時よ。非常な恵みの主よ。このように即座に私を、私の絶望の岩から解放し、私の悲嘆という禿鷲を殺してくださったとは! 私が私の回復の喜ばしい知らせを他の人々に告げる前から、私の心は歌で音楽的になっていたし、私の舌はゆっくりと音楽を表現しようと努めていた。それから私は、わが愛する者のために、わが愛する者についての歌を唄った。そして、おゝ! いかなる歓喜とともに私は主の賛美を閃かせたことか! だが、すべては――すべては主の栄誉である。最初であり、最後であるお方[黙22:13]、苦しみを分け合うために生まれた《兄弟》[箴17:17]、とらわれ人の《解放者》、私の魂の《回復者》の誉れである。そのときの私は、自分の重荷を主に投げかけた。私の灰を後に残して、賛美の外套[イザ61:3]で着飾った。その間、主は私に清新な油を注いでくださった。私は天空を引き裂いても主のもとに到達することができたであろう。主の足元に身を投げ出し、そこで喜びと愛の涙に濡れそぼってひれ伏すことができたであろう。私は、自分の回心の日以来、一度としてこれほど主の無限の卓越性をわきまえ知ったことはない。これほど言葉に尽くせない喜びに私の霊が躍り上がったことは一度もない。あざけりも、騒擾も、苦悩も、主にくらべれば無以下と思われた。私は腰に帯を締めて、主の戦車の前を走り、主の栄光を叫んだ。というのも、私の魂は、主の栄光に富む高挙と天来の同情という1つの観念で占め尽くされてしまつたからである」*8

 ここから示されるように、この若き牧師の精神は、その時期にくぐり抜けた経験によって、たがが外れる寸前であった。彼は、この破局の後では、二度と以前と全く同じ人間にはなれなかった。二十二歳になるまで、彼はほとんどいかなる病気の意味も知らなかったが、1856年以降、彼のかかる病気は数多く、しばしば重いものとなった。

 それが出版されたこの当時、この本は一部の批評家たちには、奇妙な著作と思われた。「本書は道学的な論考ではない」、とひとりの書評家は指摘した。「事実、論考ですらない。むしろ、親愛な関係で結ばれた、様々な種別の人々から成る混成の会衆に向けて語りかけられた、途方もなく巨大な一説教である。……雷鳴と稲妻、怒号と歓喜といった、彼が信者未信者の入り乱れた、いかなる大人数の聴衆をも支配する手段たるものは、ここには全く存在する余地がない。すべては穏やかで、優しく、思いやりに満ちている。この点では努力の跡がはっきり示されていたが、これに成功を収めるのは、決して容易なことではなかったに違いない。この著作は、スポルジョン氏の懺悔の書と称されて良いかもしれない。彼の数々の才能、趣味、気質はみな、正反対を向いており、ひとり寂しく文筆業の努力を行なうためには、あまり助けになっていない」*9

 この著作が、他の絶え間ない骨の折れる働きの最中で書かれたこと、また、その執筆が自分にとって奴隷の働きであったことを告白しつつも、この著者は、自分が、声によってと同様、筆によっても自分の《主人》に仕える者となりたい旨の希望を云い表わしていた。だが彼は、いま引用したばかりの批評家によって、「この方面では期待をほどほどにしておく」べきであると告げられた。それから示されたのは、弁舌と執筆の双方で成功したことのある、傑出した人々の数がいかに僅かであるかであった。ニューパーク街の雄弁な牧師が、一雄弁家として、そこに名をあげられたような多くの著名な人々に対する例外となることはありそうもなかった。「そして、筆を用いることに対する彼らの嫌気は、時とともに増し加わった。彼もそうなることであろう」。さらに、こう指摘されている。「また、彼らは、自ら物書き不能になってしまったあまり、ほとんど文通することもできなくなってしまった。彼もそうなることであろう」。おそらく、これほど大きく外れた予言がなされたことはなかったであろう。実は、著述業を愛する思いは、スポルジョン氏が年を重ねるにつれて大きく育っていったのである。そして、説教集を別とした彼の数々の著作や雑誌記事は、たとい彼がlitterateur[文士]以外の何者でもなかったとしても、きわめて尊敬すべき、畢生の事業を示すものであったろう。また、彼の書いていた膨大な数の私信は、私の耳にしたことのあるいかなる偉人をもしのいでいた。あるいは、その時間と精力をひっきりなしに要求されていた公僕の場合に可能であると考えられる限度を越えていた。

  ----  


*1 S・B・シーリ、『土の器』、第13巻、p.221。[本文に戻る]

*2 この主題に関する投書や記事は、1857年版の『土の器』5月号、6月号、7月号、8月号に掲載されている。[本文に戻る]

*3 実のところ、この最初の著書――と正式に呼んで良いもの――は、いささか変わった歴史を有していた。「自然とこう尋ねられる向きもあるはずである。すなわち、もし文章執筆がスポルジョン氏にとってそれほど難儀なことだとしたら、また、その講壇での働きがあれほど休む間もない圧倒的なものだとしたら、いかにして彼は、その重荷に加えて本書の著述などという労苦を負うに至ったのか? そうしなくてはならない義理など何もなかったに違いないのに、と。これは、いかにももっともらしく思われる。しかしながら、事実はそうではない。私たちの信ずるところ、真実は――そして、こう述べるのは、スポルジョン氏のおかげであるが――その名を本書が帯びている立派な出版社と彼が本書を著述する契約を結んだのは、彼がロンドンに到着してすぐのことであった。ということは、それ以来の彼がいかに無類の働きをすることになるかなど、全く予期もつかない時期のことであった。その頃の彼には十分な余暇があり、その後起こった数々の出来事がなければ、とうの昔にその務めを終えていたことであろうし、人気作者にすらなっていたであろう」。――『ブリティッシュ・スタンダード』、1858年2月12日。[本文に戻る]

*4 事を個人的利害という見地から眺めると、この提案さえ断るべきではなかった。それでこの版権は、ホッダー及スタウトン社によって購入された。[本文に戻る]

*5 『聖徒とその救い主』、pp.34-36。[本文に戻る]

*6 前掲書、p.131。[本文に戻る]

*7 前掲書、pp.282-283。[本文に戻る]

*8 前掲書、pp.371-375。[本文に戻る]

*9 『ブリティッシュ・スタンダード』、1858年2月12日。[本文に戻る]

*2 


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT