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第33章

大宣教説教

サリー公園における厳格バプテスト派――キャンベル博士によるさらなる注目――ハリファックスにおける災害――バプテスト宣教協会のための年次説教――エプソム競馬場における諸集会――とある米国人訪問者による描写――ケンブリッジシアにおける諸集会――アイルランド訪問――病気――ニューパーク街会堂における集会

 1858年は多くの事がらにおいて尋常ならざる年であった。まず、現代の天体観測者が見たこともないような大彗星が現われた。ほとんど皆既と云って良い日食があった。合衆国では一大信仰復興が起こり、国内でも――特にサリー公園におけるスポルジョン氏の連続諸集会との関連において――ある程度の覚醒が見られた。しかしながら、今やこうした働きの負担は、この若き説教者の体にこたえ始めていた。そして、この年が終わる前に私たちは、彼がその最初の重病に襲われる姿を見いだすことであろう。

 この年の初め、銀行には新しいタバナクル[大会堂]のための資金が五千ポンドあり、さらに二千ポンドが約束されていた。諸集会に関しては、非常におびただい数の回心が報告され、《教会》には毎月加入者があった。この頃は、スポルジョン氏自身が《教会》の会員として受け入れられた人々にバプテスマを授けていた。後年の彼が断念せざるをえなくなった慣行である。ニューパーク街会堂における、ある記憶すべき週日の夜、牧師が十八名に浸礼を授けた後で、やはりひとりの青年が、とある幼児洗礼論者の教役者によって浸礼を授けられた。この教役者は、ケニントンにある独立派の会衆を代表して列席していたのである。しかしながら、このように成人に対して浸礼を授けつつも、この独立派の牧師は、幼児洗礼の執行は聖書の教えに従ったものである、とバプテスマ槽の中から断固として抗弁したという*1

 この説教者の人気は、今や英語圏の民族に関する限り、全く比類ないものとなっていた。彼が説教を行なうと通知されると、時と所を問わず、驚異的な群衆が集まり続けた。そして、スポルジョンに関する話は、国内でも合衆国でも、新聞各紙にとって魅力的な主題となっていた。米国では、出版された彼の説教集が途方もない売れ行きを見せていたのである。キャンベル博士の断言によると、この人気は単に「偉大な事実」であるばかりか、「この地の表における同種の事がらの中でも最も尋常ならざること」であった。

 だが彼の同輩たちの一部にとって、まるで他の説教者ではこのような建物で説教する能力がないかのようにスポルジョン氏が《音楽堂》を独占している姿が、きわめて不愉快なものに映ったことは想像に難くない。それゆえ、降誕祭休暇のすぐ後で街頭に並んだ看板では、ジェームズ・ウェルズ氏が1858年1月10日に同所で講話を行なうと宣伝されていたのである。それと同じ日の午前中に、ペリクスに対するパウロの演説について語っているスポルジョン氏の声は、いささか伸びやかさを欠いているように思われた。

 ウェルズ氏が講壇に上ったとき、そこには一万人を越える人々が彼の話を聞くために集まっていた。彼は、聖霊が人類に負わせている十三の告発に言及し、それがみなキリストによって対処されていることを示した。彼の追従者たちの中でも、ジェームズ・ウェルズその人よりも厳格な考え方をしている者らは、こうした実験がなされることに憤慨していた。だがチャールズ・ウォルターズ・バンクスは、同派の機関誌の編集長として、たまにはサリー・タバナクル[ジェームズ・ウェルズの牧会する]が閉ざされることに何の異存もなかった。特に、サリー公園に集まった大会衆が、《キリスト教盲人救済協会》基金のために献金した額が五十ポンドに上ったとなればなおさらであった。その会衆は、午前中のスポルジョン氏の集会に集まったのと同程度の大人数であり、暗い冬の晩に催されたにもかかわらず、いささかの滞りもなく執り行なわれた。

 二月初頭に、キャンベル博士は再び、その時点に至るまでのスポルジョン氏の働きと著作についての批評を世に示した。この若き説教者は自分で自分の道を切り開いてきた。彼の私心なき目当てはただ1つ、善を施すことであった。彼は、一部の人々がしてきたように、何編かの説教を用意し、それを説教しながら国中を回り、その後それを出版するようなことはしなかった。彼は、説教するにも出版するにも、用いられていた。その数々の講話は百万人のための神学書であり、その一方で、この《音楽堂》の説教者は、雄弁家としては、三週間で説教集三巻分の説教を行なったアースキンその人をさえしのいでいた。「この世が始まって以来、これに類することは聞かれたことがない」、と付言されている。「一週間に十度も説教する人物には、華麗な段落や洗練された句読点を推敲している余裕などない」。すでに出版された数々の講話については、こう述べられていた。「英語で書かれた書物の中で、説教者が、信者未信者の入り混じった会衆に最も効果的に語りかける方法について、これほどの洞察を得られる本は他に一冊もない」。合衆国についても言及されていた。
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 「現今の米国人は、いま生きている英国人の世代と、これから生まれるべき世代との中間に立っているものと受けとめられて良いかもしれない。また、彼らの立てる意見が、実質的には後世の意見となるであろう。彼らは、こうした抗争の現場からはるかに懸け離れている。この件に関して、これほどの無知と愚行、また、誤解と誤伝、そして、嘘八百が示されていた場所から隔絶している。スポルジョン氏は、疑いの余地もなく、現世代において最も誹謗中傷にさらされているとともに、最も誉めそやされている人物である。だが、彼がそのどちらかによって、何らかの影響を受けていると信ずべき理由はほとんど全くない」。

 こうした説教が正統信仰に立つものであることも、暖かく称賛されている。――

 「スポルジョン氏は徹底したバプテスト派であり、万々やむをえないと自ら判断する場合には常に公然とそう認めることにやぶさかではないが、決して一部の人々のように、膝まで水に浸かりながら《福音》を宣べ伝えたりはしない。ニューパーク街講壇はさらさらに乾いている。バプテスト派が顔を出すのは、たった一度きりであり、それもほんの一瞬のことであって、彼の態度も発言も全く不快感を与えるようなものではない。しかしながら、自分の意見に偏狭に凝り固まった人々に対しては、それがいかなる立場の人々であれ、何度となく、辛辣きわまりない酷評がなされている」

 これらの説教の英語は完璧であると宣言されている。「実に見事な、堂々たる文章で、ジョン・バニヤンその人の書き物とくらべても、引けを取らないほどである」。その後で、もう1つの特色が指摘されている。――これらの説教は、「散文と韻文との、異様なほどの混合物である。これらは、他の、いかなる言語による出版物にもまして、大量の詩的な断片から成っている。いま生きている人々の中で、これほど聖なる詩歌を記憶に蓄えている者が他にいるかどうか、私たちは疑うものである。思うに、たとい現存する一切の詩歌集が明日焼き尽くされたとしても、スポルジョン氏は何の困難も感ずることなく、礼拝のあらゆる目的にかなうものを1つ、あるいはそれ以上に記憶の中から引っ張り出してくるであろう。……しかし、この点において、スポルジョン氏の独特の才能を有さない凡人が彼を模倣するのは危険であろう。こうした詩的な散弾がいかに手応えあるものであろうと、スポルジョン氏の唇に上る、えり抜きの聖句の方が無限にすぐれている。そして、スポルジョン氏でさえ、その詩人たちからの厳しい取り立てを減らすことなく、預言者や使徒たちからより広汎に引き出すことによって、自分の説教を大いに向上させることであろう」*2

 4月7日、まるで冬のように寒い天候の中、スポルジョン氏はハリファックスを訪れた。そこで起こった災害は、その日のもう少し早い時間に起こったとしたら、あの《音楽堂》での恐慌をもしのぐ最悪の結果を招いていたであろう。「この事故が起こった原因が、この折に備えて《平和堂》内に一時的に作られた建物に何か不備があったためかどうは、まだ何とも云えない」、と当時の記事は伝えている。「だが、桟敷席に座っていた人々が解散しつつあったとき、何枚かの板あるいは厚板が大音響とともに外れ落ち、多数の人々がたいへんな勢いで互いの上に投げ倒されたのである。女たちからは恐怖に満ちた叫び声がいくつも発せられた。そして桟敷席が崩壊したという噂が広まった」*3。強風と豪雪が、この事故の原因であったと思われる。ひとりの男性とひとりの女性が担架で運ばれた。ふたりとも足を骨折していた。また何件か窃盗の被害も出た。だが、人命が全く失われなかったことを、スポルジョン氏は常に摂理的な介入のおかげだとするのだった

 ニューパーク街会堂の牧師は、日増しに高まるその人気によって、各種の特別な折に奉仕を求められることがより頻繁になった。ロンドンの教役者層から完全に「受け入れられる」以前の彼がどう考えられていたにせよ、現存する他のいかなる説教者の力量をもはるかに越えたことを成し遂げることのできる人物を、ただの山師として無視することはもはや通用しなくなったのである。その頃、バプテスト宣教協会の委員会が思いついたのは、彼らの働きに支援を呼びかける年次説教の奉仕をスポルジョン氏に依頼することであった。そして、それをスポルジョン氏は応諾し、その結果は、同教派の歴史においてそれまで知られていたいかなる機会をもしのぐものとなった。その集会は、4月28日の水曜日の午前中、サリー公園の《音楽堂》で催される運びとなり、開始時刻になる前から、この広壮な建物は期待に満ちた聴衆によってびっしりと埋め尽くされた。その聴衆が献金皿にささげた総額は百五十ポンドに上った。その場にいたらしく思われるキャンベル博士は、その集会を「荘厳な一事件」と述べている。また彼は、こうも記している。「この大説教者は、普段のように完璧に落ち着き払って、旺盛な気力と、陽気さと、身振り手振りを発揮していた」。その光景は、サリー会堂で一、二名の指導的な教役者が「大」説教をしていた昨年までの年次大会とは何と対照的であったことか。「スポルジョン氏は、数箇月はおろか、数週間も、こうした説教の準備だけのためにかかりきりになることはできない。また、大会当日の二週間前から体力を温存しておくこともできない。彼の集会はすべてが大会であり、それは次から次へと目まぐるしい速さでやって来るため、入念な仕上げや推敲など論外である。しかし、彼は大物になることなどかけらも目指してはいない。見場を良くすることなど彼の思いを全く占めていない。……適切な意味で彼は説教をする。それも、教役者たち相手にではなく、民衆を相手に説教する。そして、その報いを得るのである」*4

 その説教の主題聖句は、詩篇46:8-9であった。「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」。その主題の冒頭で、説教者は世界ですでに起こったことを描写し、自分が支援を呼びかけている協会の起源と進展についてある程度物語った。それから彼は、究極的に成し遂げられるであろうことについて語り継いでいった。世界の歴史の中で折に触れ起こってきた種々の荒廃に関して云えば、すべては神の善なる摂理の運行の中で益をもたらしてきたのである。――

 「戦争や暴動は、神が世界をお清めになる手荒な薬にすぎない。初めがそうであったように、終わりに至るまで同じであろう。私たちの姉妹たちの血は報復される。剣によってではなく、《福音》によってそうされる。印度において、神の御腕は感じられるであろう。神の御名は認められるであろう。それゆえ、おののかないようにしよう。すべてのことはともに働いて益となるからである。それから説教者は、聴衆の注意を偽りの礼拝の荒廃へと向けた。バビロンおよびアッシリヤの偶像礼拝を振り返って吟味し、彼らの礼拝の大部分が破壊されており、過去の時代の記憶となってしまっていると述べた。さらに彼は、彼らの注意をローマの神々に向け、それらがとうの昔にもぐらや、こうもりに投げやられている[イザ2:20]と告げた。その後で聴衆の注意は、神が偽りの哲学にもたらした荒廃へと喚起され、様々な不信心の形が次々に描写された。そのように語り継ぐ中で、彼はこう告げた。自分の信ずるところ、たとい自分がいつの日か、最後の不信心者の葬られる姿を見ることになるとしても、その葬儀の当日に、別の誰かが新しい体系を創始することになるだろう、と。この聖句は、と彼は云った。特に戦争による荒廃に言及している。もし私たちが世界中を通り抜けるとしたら、戦争が何をしてきたか、それがいかなる荒廃をもたらしてきたかを見てとることであろう。印度の民は屈服させられるべきである。剣によってではなく、《福音》によってそうされるべきである。《福音》という砲弾を彼らめがけて発射すべきである。彼の信ずるところ、来たるべきその時には、記念碑の上に立つネルソン提督の像は覆され、代わりにホイットフィールドの像が据えられるであろう。ネイピア将軍の像は投げ捨てられ、そこにジョン・ウェスレーの像が建つであろう。来たるべきその日には、ロンドンでこの世的な偉大さを象徴している像という像は、屑鉄か屑真鍮として売り飛ばされるであろう。民衆は、今はこうした人物たちにありったけの栄誉を与えているが、今は彼らが無知な時代なのである。《福音》が彼らに取って代わるとき、民は心に光を受け、そのとき彼らは忘却されるであろう。私たちはこの聖句を、やがて成就されるべき預言として眺めるべきである。この聖句の比喩を眺めるべきである。彼が思うに、いつの日か彼らは目覚めて、互いにこう云うであろう。『来て、主のみわざを見よ。主は地にいかなる荒廃をもたらされたことか』。私たちは、わが国の兵隊たち下士官たちが行進し、その武器を下に降ろすのを見るであろう。彼の確信するところ、いずれかの人は、それを見るであろう。そうすることを許される人は幸いである。この説教者は熱烈な願いとともに話をしめくくった。バプテスト宣教協会と関係を持っていないあらゆる教会が――そして、そうした教会が多いことを彼は知っていた――すみやかに関係を持つようになってほしいという願いである。彼は海外宣教に対しては、まだ十分な関心が払われていないと思っている。彼の信ずるところ、大勢の人々はこの年次説教が語られるまで、海外宣教について全く何も考えず、この日には、雀の涙ほどの小銭――3ペンス銅貨ほど――を献金皿に入れるにすぎない。彼らは海外宣教に好意をいだいてはいる。だが、決して愛を打ち明けようとしない少女のようであって、何かなすべきことがあっても財布の口をどこまでもきつく固く締め上げるのである。それからスポルジョン氏は、海外の国々に派遣されている宣教師たちの必要に言及し、彼らの求めている様々な事がらに触れた。彼によると、本国において真のキリスト教信仰が欠けているために、海外で目覚ましい成功を見ることが妨げられているのである。兄弟たちがより熱心に祈りを積み、より熱心に労苦することが必要である。彼は、昔の時代の方が今よりも良かったと云う人々に賛成した。私たちには、本国で《天来の》御霊が注ぎ出されることが必要である。私たちは本国で《福音》を宣べ伝え始める必要がある。そうするとき《福音》は、栄光の海のように、岸辺から岸辺まで広がるであろう」*5

 「教会の義務の日」と呼ばれたものが6月11日にやって来て、スポルジョン氏はエプソム競馬場の正面観覧席に立って、在エプサムのとある会堂のために説教した。「このような人物がこのような場所に姿を現わすことは、この地上でも新奇なこと――時代の尋常ならざるもう1つのしるしである」、とキャンベル博士は述べた。「来年、私たちは、スポルジョン氏がダービー競馬の日の最高の呼び物になっているとしても驚かない方が良いであろう! 彼は明らかに大胆不敵な行為を行なうために生まれた人物であり、何物も彼の敬虔な大望を、あるいは、彼の非凡な能力を越えたものとは思われない」。その日は並はずれた日として長く記憶された。午後晩の集会にはほぼ千五百人が集い、会堂基金のために総額六十ポンドが献金された。

 6月13日の日曜日、『紐育伝道者』の編集者のひとりヘンリー・M・フィールドがサリー公園における礼拝式を訪れ、もちろん自分の受けた印象を本国に送った。スポルジョンのことは、こう述べられている。彼は「ロンドンの獅子たちのひとりである。――確かに、どちらかといえば若獅子には違いないが、この野への登場以来、あらゆる国々にその咆哮を聞かせてきた。そして、このバビロンの名所を『見物』したいと思う他国人はみな、少なくとも一度は彼を見、その話を聞かなくてはならない」。この説教者の風采の描写は、真に迫るものでは到底なかったが、彼の比類なき声については公正に評価され、「喨々たる喇叭のように」場内に響き渡るとされていた。賛美の歌は、大群衆の声ゆえに格別に壮大なものであった。説教が始まる前に、集会全体の同情を呼び覚ましたに違いない小さな場面が起こった。――「スポルジョン氏は、たった今、電報が届いたと通知し、その場にいると思われるひとりの人物を、深刻な家庭内の不幸のゆえに呼び出した。その名を呼ばれた人は、非常に動揺した様子で講壇へと進み出て、その使信を受け取った」。

 その説教は、伝道者の書8:10を主題聖句とした、悪人の生涯と葬儀と墓碑銘に関するものであった。この米国人訪問者は、いささかの疑惑の念をもって来訪したのだが、完璧な安堵とともに立ち去ることとなった。――

 「私は、スポルジョン氏が英国の新聞雑誌で、いかさま聖職者として批判され、嘲弄されているのを見てきた。そして、彼のことを、講壇に立った役者のように見えないとも分からないと思っていた。しかし、スポルジョン氏を山師として嘲ることのできる批評家は、いかなる雄弁の力にも全く無感覚であるに違いない。……同じ日の晩、私たちはニューパーク街にある彼自身の会堂でもう一度、彼の話を聞き、その礼拝式の後で牧師室にいる彼のもとを訪れ、非常に愉快な会見の時を持った。当然ながら私は、彼が過度の労働により疲労困憊しているのではないかと懸念していた。しかし彼は私に頑健そのものであると請け合った。彼によると、絶え間なく説教していることは、彼にとって最適の運動なのであり、もしも一週間に十回から十二回も説教していないとしたら、死んでしまうだろうという。私が彼に、学びのための時間をいつ見つけているのですかと問うと、彼は説教準備のためにほとんど時間を取ることができず、講壇に立つときにはしばしば、その主題について、直前の十五分間で考えた内容しか語るものを持っていないことがあるという。

 しかし、彼は最近、ある程度の余暇をひねり出す計画を立てた。自分の会堂から数哩の距離にある、クラパム広場沿いの一軒の家を借りて、邪魔の入らない時間を手に入れることにしたのである。彼の執事たちが、あらゆる牧会上の訪問を行なうことになり、このようにして彼はようやく、その公の義務と義務との間に、学びと読書に用いることのできる数時間を手に入れることができるようになった。また、彼はこれまで、非常に広範囲な読書をしてきたと思う。彼は古の神学書に非常に通じているらしく、特にバニヤンに詳しい。そのバニヤンのことを彼は最大の英国人と呼んでいる。……彼は、もしも数ある大学の1つで教育を受け、その年月をラテン語やギリシヤ語の学習に費やしていたとしたら、益を受けるよりも害を受けていただろうと思う。その分の年月を彼はバニヤンや英国の人々を学ぶことによって、より良く活用してきたのである」

 7月2日、私たちは、スポルジョン氏が再びケンブリッジシアの愛らしい村メルボーンで、そのバプテスト派の会堂のために説教している姿を見いだす。同会堂は、《学校》で教育を受けた青年のひとりE・ベイリー氏が、当時はまだ二十歳前の身でありながら牧師を務めていたのである。天幕が張られ、不安定な天候にもかかわらず、その茶の席には六百名の人が着いた。集会は野外で催されたものと思われる。午後には約三千人の人々が集まり、夜にはその二倍を越える人々がやって来た。夜の主題聖句は、「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」[イザ55:1]であった。一年前にメルボーンで連続集会が開かれた際、ロンドンにおける大タバナクルのためにささげられた献金額は、シェフィールドを除く、他のいかなる所でなされた献金をもしのいでいた。ベイリー氏のような若い人の成功は、《牧師学校》の創設者を大いに励まして、自分の事業を忍耐強くやり抜かせるのだった*6

 7月6日の火曜日、スポルジョン氏は聖ジェームズ講堂にて、ハヴァストックヒルの《孤児労働学校》の百周年記念説教を行なった。この頃、広まっていた噂によると、サリー公園の《音楽堂》は日曜の夜に、娯楽のために開場しようとしているとのことであった。その場合、スポルジョン氏は午前中に同音楽堂を使用することを拒否すると暗示した。それと同時に、あのように《福音》を聞くために群れをなしてやって来る人々を収容できる、どこか広壮な場所を探すことが必要になるであろう。というのも、この若き牧師はサリー公園で公然と、ニューパーク街では日曜に一度しか説教するつもりはないと通告し、もし国内に適当な建物が見つからなければ、米国へ行くことすら口にしたからである。これは、たちまちサリー公園会社の支配人からの手紙をもたらすこととなった。それには、その理事たちがこの大会堂を日曜に開く目的は、ただ神礼拝のためだけでしかないと示されていた*7

 この夏の間、興味深いアイルランド訪問が実現した。そして、評者たちによって寄せられたその詳細からすると、スポルジョン氏の説教は、ある特定のアイルランド人の間では、せいぜい彼らに劣らず批判的だった高地人たちを相手にした場合並みの成功しかおさめなかったらしい。ベルファストのフィッシャリック街教会の牧師ジェームズ・モーガン博士は、こうした集会に何回か集った上で、こう言及している。――

 「8月28日。――ロンドンのスポルジョン氏が当地に来訪した。彼は四度説教し、私はその話を三回聞いた。私は失望させられなかったが、多数の人々は期待はずれだったという。彼の説教は健全かつ効果的であり、ためになる適切な逸話が散りばめられていた。時としてその説教の中には、講壇の謹厳さにはふさわしくないほど軽妙で滑稽な部分も見受けられた。それでも、彼の礼拝集会の1つの魅力はそこに存していた。そうしたものが用いられなかったとしたら、彼の人気がこれほど高まることはなかったであろう。あるいは、実際、人気などまるで出なかったであろう。彼の語り口は非常に素晴らしく、彼の声は実に見事であった。彼が一度そうしたように《植物園》で説教したとき、彼の声は七千人の人々――そこに出席していたと云われる人数――に十分に届いた。私は彼の伝道活動によって有益な結果が得られると思う。彼はなかなか評判が良く、彼の平明で、正直で、善良な説教や行状からすれば、それはもっともなことである。しかしながら、私は彼の影響が、彼より数箇月前に来訪したギネス氏のそれほど良いものであったかどうか大いに疑問に思う。彼らは大いに対照的であった。スポルジョン氏は陽気で、活発で、剽軽である。だがギネス氏は、謹厳で、真面目で、非常に控え目であった。スポルジョン氏の方が断然に有能である。だが、もしも明日ベルファストでふたりの優劣を競う世論調査が行なわれたとしたら、ギネス氏の方が勝ちをおさめるであろう。深い真剣さと真面目さは重要である。――非常に重要である。疑いもなく、それらは私たちのほむべき主の非常に目立った特徴であった。私は、幸いで恵み深い数々の結果がギネス氏の伝道活動から出ていることに気づいている」*8

 9月最後の日曜日、スポルジョン氏は自分の会衆に次の事実を伝えることができた。すなわち、とうとう、「象と城」の近くにある1つの用地が新しいタバナクル[大会堂]のために確保されたというのである。その所有者たち――魚屋商会――は総額五千ポンドを受け取ることになるであろう。それゆえ、望ましいのは全員が建設基金の募金努力を続けることであった。このように、ロンドンで大群衆が《福音》を聞けるようにする建物の建立のために全員が働いている一方で、この若き説教者にとって大きな喜びであったに違いないことは、テヴァーシャムに村人たちの必要にかなう会堂が立てられたことであった。それは、ほんの七年前に彼が最初の説教を行なった村である。この頃もう1つの満足のもとであったのは、英国北部で非常に大きな会衆を引き寄せているジェームズ・スポルジョン氏の成功であった。一部の人によれば彼も、兄と同じくらいの人気を博するであろうと思われていた。

 テヴァーシャムの会堂に関しては、1855年にこの事業に着手する願いが表明されはしたが、その企図は1858年になるまで完成しなかったのである。その小さな聖所はスポルジョン会堂と名づけられることが提案されたが、そうした申し出がスポルジョン氏に対してなされたとき、彼はそれに全く賛成しはしなかった。9月の開会式で説教してほしいとの招待状――会堂名の示唆もその手紙の中に言及されていた――に答えて、以下のような手紙が教会幹事によって受け取られた。――


 「クラパムにて、1858年8月7日、

 「愛する兄弟。――

  「テヴァーシャムの会堂の開所式については、少し行き違いがあったようです。私がヴィンター氏にお話したのは、もし少しでも負債が残るようなことがあったら、それを完済するために私が説教しましょうということでしたが、その会堂の開所式を行なうことは一度も考えたことがありません。私にとって9月は、約束や予約という点では、とうの昔に終わっています。しかしながら、このための礼拝式を行なうことは、例えば来年の夏であれば、喜んで承知するつもりです。名前について云えば、それは悪い夢としか云えません。確かに、全国のあちこちに、1つか2つは私が中心になって建てた会堂がありはしますが、これらには建設者の名前がついています。ですが、今回の場合は、私には何の断りもなく、私としては何も望まずにできたものなのです。

 「私が最初の説教を行なったあの古い家には崇敬の念を覚えています。そして、告白すれば私は愚かにも、その事実が決して忘れられることはないだろうと信じています。ですが、私は忘れられないだろうものを記念するようなことは全く望んでいません。これは、私の冗句の1つとしておいてください。そして、何にもまして、絶対にそういうことはしないでください。特に、どこかの強力な兄弟たちはそれを好まないでしょうから。――

敬具

「C・H・スポルジョン」*9

 すでにほのめかされたように、この年の秋こそ、ロンドンに上京して以来、スポルジョン氏が初めて重い病気に倒れた時であった。彼は10月10日、サリー公園で説教したが、11月7日になるまで、再びその講壇に立つことはなかった。その間、この危機の深刻さに関する、非常に不安を招く噂がはびこっていた。明らかに、この説教者は、それまであまりにも自分の体力に頼りすぎていたし、この衰弱は過労の結果であった。「私たちは、この件において満腔の、また深甚なる同情心を告白するものである」、とキャンベル博士は書いている。「私たちが耳にした風聞は、あまりにも由々しい性格のものであったため、私たちは特別な聞き込みをしないまま安閑としてはいられなかった。そしてその結果は、こう云うのは遺憾なことながら、私たちの耳に入ったほぼすべてのことを確証することとなった。だが私たちは喜んでこう云い足すものである。私たちに判明したのは、そのことだけでなく、明らかに最悪の峠が越されたこと、今や、たといゆっくりとではあっても、完璧な回復を希望すべき十分な根拠があるということである、と。現世紀において比類なき人物であるスポルジョン氏が、とうとう次のことを思い出させられたとしても、それは驚嘆すべきではない。すなわち、彼は、そのあらゆる精神的、道徳的力および肉体的能力をもってしても、やはりそれでも定命の人間なのである」*10。その数日後、患者は急速に体力をつけつつあると報じられた。そして、11月の最初の日曜日、あの馴染み深い声がいま一度サリー公園の音楽堂に響きわたったのである

 この時点までには、新会堂のための用地には総額五千四百ポンドの費用がかかっており、その場所に立てられた大きな看板では、寄付金が募られていた。12月13日、月曜の晩に、進捗状況を報告するための茶会がニューパーク街会堂で催され、九百人が出席した。総計ほぼ一万ポンドがこれまでに集められていた。スポルジョン氏の回復に対しては多くの祝辞が呈され、多くの人々は、非常に長々しい度重なる交渉の後で、自由保有権つきの用地が確保されたことを喜んだ。見れば奇妙なことに、これほど早い時期から、次のような疑問が口にされていた。「もし牧師が死ぬようなことになったら、この大タバナクルはどうなるでしょうか?」 その場にいたある人がこう答えた。「スポルジョン氏をお送りくださったのと同じ神は、彼の後継者をも送ってくださるでしょう」。スポルジョン氏自身はこう云った。――

 「私は今晩、話ができるような状態ではないと感じている。なぜなら、私の心の中には、こみあげるような大きなものがあり、それを表に出すことができないという気がしているからである。また、ここまで述べられたことに、何かつけ足すことができるとも思われない。しかしながら、私はある話題について、ほんの一言か二言語りたいという誘惑に逆らうことができない。それは、この集会の目的からはかけ離れている、と考えられかねない話題である。私たちの生きている時代は、この上もなく素晴らしいものである。そして私は、将来のこの教会が、過去そうであったところのものとなることを願っている。――すなわち、時代の先駆けとなることである。これはいやでも目についてきたことだが、この四、五年の間に、キリスト者精神には1つの素晴らしい変化が及ぼされた。英国国教会は目覚めさせられている。これはいかにして成し遂げられたのだろうか? また、いかなる手段が用いられてきたのだろうか? 数々の大集会が催されてきた。思い出さざるをえないように、神を私たちに誉れを与えてくださり、私たちをこの大運動の最前列に立たせてくださった。私たちの手本から、このほむべき炎は野火のように広がり、いまでは容易に消火されえないような火焔へと燃え立たされている。国教会の聖職者たちがエクセター公会堂で説教することになっていると初めて聞いたとき、私の魂は私のうちで踊った。そして、今にもこう叫びそうになった。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、安らかに去らせてくださいます」[ルカ2:29]。ウェストミンスター寺院が《福音》の宣教のために開かれ、その後、聖ポール大寺院が開かれると聞いたとき、私は感謝の念で圧倒され、こう祈った。ただイエスにある真理だけがこうした場所で宣べ伝えられるように、また、その教役者たちが魂のために産みの苦しみをするように、また、キリストが彼らのうちにあって栄光の望み[コロ1:27]であられると見いだされるように、と。私は、今の私が感じているほどのほどの連帯感を英国国教会に対していだいたことは一度もない。事実を云えば、郡部にいる若者だった頃の私は、聖職者という名前を狐狩りやそうした類のものと結びつけて考えるのが常であった。今や私は、彼らが真剣に魂をキリストのためかちとろうとしているのを見てとっており、彼らを愛している。愛さないではいられない。そして、彼らが魂の価値を感じるようになっている限り、彼らのために祈り続けるであろう。さて、主がこのように私たちに誉れを与えてこられたことを見てとっている以上、私たちは先に立ち続けなくてはならない。私たちの種々の運動は注目されており、私たちは一歩たりとも後戻りしてはならない。私たちは私たちの種々の運動とともに前進しなくてはならない。私たちは、私たちをみくびる言葉を一言も聞きたいとは思わない。私たちは今なお先駆を務めなくてはならない。もしも神が最近の信仰復興を広めてくださり、ニューパーク街会堂教会をその前衛としてなおも進め続けられるとしたらどうだろうか? さて、このタバナクルについてだが。私は、それが建てられることになると、また、自分がそこで説教することになるだろうと全く確信している。そして、資金がすぐに手にはいることにも何の疑いもいだいていない。――それは、私にとって何の重荷でもない。あなたがたの中の一部の人々は、非常に大きな負担をになってくれたが、あなたがたは、さらにずっと大きな負担を負うべきであった。ある人々は、「べき」かどうかで量られるとしたら、あれほどのことを行なうべきではなかったが、その一方で別の人々は、骨惜しみをして、自分たちの不浄の富を保っているのである。それでも私たちは、結局それほど手元不如意になっているわけではない。というのも、用地を買収した後でも、私たちにはまだ三千六百ポンドの預金があるからである。私は、この場所が最も望ましいものであることに全員が同意してくれるだろうと希望している。一部の人々はケンジントンを、他の者らはホロウェーを、また別の者らはクラパムを推薦しはしたが*11

 1858年はこのように幸いに幕を閉じた。未来には明るい見込みがあった。結局、西部地方の善意の人が建設資金のために五千ポンドを寄付し、別の人が無利子で多額の貸付金を送ってきたため、勘定を払うことには何の困難もなくなった。

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*1 『バプテストの使者』、viii、50。[本文に戻る]

*2 『ブリティッシュ・スタンダード』、1858年2月12日。[本文に戻る]

*3 前掲書、1858年4月16日。[本文に戻る]

*4 前掲書、1858年4月30日。[本文に戻る]

*5 前掲書、1858年4月30日。[本文に戻る]

*6 『土の器』、第14巻、p194。[本文に戻る]

*7 『ブリティッシュ・スタンダード』、1858年7月2日。[本文に戻る]

*8 『わが生涯と時代の追憶』、神学博士ジェームズ・モーガン著、p.314-315。[本文に戻る]

*9 原文は、ケンブリッジのジョージ・アプソープ氏所蔵。[本文に戻る]

*10 『ブリティッシュ・スタンダード』、1858年10月28日。[本文に戻る]

*11 『バプテストの使者』、viii、165。この集会の模様は、同誌の一部には掲載されなかった。[本文に戻る]

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