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ペリクスの前におけるパウロの説教

NO. 171

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1858年1月10日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った」。――使24:25


 福音の力が、瞠目すべき壮大さで立ち現われるのは、福音にささげきった心が、苦難や、迫害や、悲しみにさらされたとき、いかに堅く福音につかまれているかを明らかにするときである。福音は何と強大なものであったに違いないことか。それは、ひとたびパウロの心に入りこむと、何をもってしても、そこから追い出すことができなかった! 福音のために彼はすべてを失ったが、それを彼は、キリストを得るためとあらば、ちりあくたとみなしていた[ピリ3:9]。真理を広めるために、彼は辛苦と、難船と、陸の難と、海の難に出会ったが、こうしたものの何物も彼を動かすことなく、彼はキリストを得、また、キリストの中にある者と認められるためなら、自分のいのちを少しも惜しいと思わなかった。迫害に迫害が続いた。ユダヤ人から彼は鞭で打たれた。法廷から法廷へと引きずり回された。ほとんどあらゆる町において、縄目と投獄が彼を待っていた。故国では暴行を受け、――エルサレムでは告訴され、カイザリヤでは法廷に召喚され罪状の認否を問われた。彼は自分のいのちのかかった審理を受けるために、法廷から法廷へと連れて行かれた。しかし、注目するがいい。いかに彼は、その魂の突出した情熱を常に保ち続けたことか。どこにいても、彼はジョン・バニヤンのようであった。バニヤンは云う。「もし私がきょう牢から出されたなら、明日、私は、神の恵みによって、福音を再び説教するでしょう」。否。それをも越えて彼は、福音を牢獄の中で説教し、自分の裁判官たちの前で福音を宣言した。議会の前に彼は立って、こう叫んでいる。「死者の復活のことで、私はさばきを受けているのです」*[使23:6]。アグリッパの前に立たされたとき、彼は自分の回心について物語り、神の恵みについて非常に甘やかに告げたため、この王自身がこう叫ぶほどであった。「あなたは、ほとんど、私をキリスト者にするところだった」[使26:28 <英欽定訳>]。そして、本日のこの聖句において、彼はローマ人行政長官の前に立ち、これから生死の分け目の審理を受けようとしているにもかかわらず、わが身の弁護を始めるどころか、「正義と節制とやがて来る審判」とを論じているのである。それは、彼の裁判官が恐れて震え出すほどであった。判事席に座っている者が被告の立場になり、それを被告が審くというその構図は、まさに聖徒たちが、キリスト・イエスの補佐役として、御使いたちを審く時代の先取りであった。何と、人がひとたび福音を信じ、それを広めようと決意するや、そのことによって彼は大人物となるのである。たとい彼が権力や知性や才質に欠けた人であったとしても、自分にできる小さな程度においてキリストに仕えようという熱烈な願望において、彼はすこぶる熱心になる。だが、もし彼が才能ある人だとしたら、福音は彼の魂全体に火を吹き上げさせ、そのあらゆる力を引き出し、隠れて横たわっている一切のものを打ち広げ、風呂敷に包んで埋められていたあらゆるタラントを掘り起こし、人の知的財宝の金銀すべてをふりまき、ご自分の血ですべてを買い取ってくださったキリストの誉れのために、そのすべてを表わすようになる。

 私たちは、しばしここでとどまり、この思想について敷衍しても良いであろう。このことが、いかにあらゆる時代において真実であったかを示しても良いであろう。福音の力は、人々の心に及ぼすその影響力において、比類なく証明されてきたし、パウロのこの言葉がいかに真実であるかを証明しているのである。すなわち、患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、彼らの主キリスト・イエスにある神の愛から、彼らを引き離すことはできない[ロマ8:35-39]。しかし、そうする代わりに私は、この聖句をもっと念入りに熟考するようあなたに勧めたい。私たちが前にしているのは、三人の登場人物を含む一幅の絵である。ペリクスとドルシラは、隣り合って判事席に座っている。被告のパウロは鎖で繋がれたまま引き出され、ドルシラとペリクスに向かってキリスト教信仰の教理を説明している。それにより、無罪放免されるか、死罪にされるかが決されるのである。ここにいる裁判官は、この囚人を死罪にすることに非常に心傾いていた。ユダヤ人たちの歓心を買いたかったからである。もう一方にいる囚人は、気後れすることなく、裁判官の前に出ては、福音を説き明かしている。彼が選んで論じた部分は、本日の聖句で述べられているように、「正義と節制とやがて来る審判」に関わっていた。この裁判官は震え上がって、急いで囚人を退出させ、折をみてまた話を聞こうと約束した。

 まずここで注意したいのは、適切な説教である。第二に、影響を受けた聞き手である。――というのも、この聞き手は確かに心動かされたからである。――「ペリクスは震えた」!<英欽定訳> そして第三に、嘆かわしい失望である。この使信に注意が払われる代わりに、「今は帰ってよい」、という言葉しかパウロは受け取れなかった。

 I. まず第一に、ここに記されているのは、1つの《適切な説教》である。しばしペリクスの経歴について話を聞くがいい。ペリクスは元々は奴隷であった。彼はクラウデオによって解放され、この皇帝の悪名高い寵臣たちのひとりとなった。もちろん、そうした立場にあった彼は、主人の種々の悪徳におもねり、彼の忌まわしい心のあらゆる好色な願いに、いつなりとも迎合した。これにより彼は栄達し、ローマ帝国の顕職を歴任した上で、ユダヤの総督職を獲得した。同地の総督であった期間中、彼は、可能な限りの収奪行為に手を染め続けたあげくに、ついには皇帝ネロが彼を罷免せざるをえなくなるまでとなった。当然彼はその数々の犯罪ゆえに厳格な処罰を受けるはずであったが、それを免れたのは、ひとえに、やはり解放奴隷であった彼の兄パラスが皇帝に対して有していた影響力のゆえであった。彼は厳しい叱責を受けた後で釈放された。ローマの歴史家タキトゥスは云う。「彼がユダヤで帝国の職務を果たしたのは、欲得ずくのためであった」。では、あなたは容易に見てとることができよう。使徒パウロが正義について論じたとき、その講話がいかに適切なものであったかを。それまでペリクスは不正な搾取者であり、使徒は故意に正義を自分の講話の一主題に選んだのである。ペリクスのかたわらにはドルシラが座っていた。本日の聖句の直前の節で、彼女は彼の妻と呼ばれている。彼女はユダヤ人であったという。このドルシラは、ヘロデ・アグリッパ大王の娘で――その時代にあっては、たぐいまれな美貌と、その艶めいた行状の奔放さで名を馳せていた。彼女は以前、アンティオコスと婚約していたが、彼はヘロデのの死後、彼女と結婚することを拒んだ。彼女は後にエメサの王アジザスと結婚した。彼は異教徒ではあったが、彼女をしごく好んで、結婚によって彼女を獲得するため、ユダヤ教の最も厳格な儀式の数々に服するほどであった。だが彼の愛は仇で返された。ほどなくして彼女は、ペリクスに口説かれて彼を捨て、パウロの演説がなされた時には、この好色なペリクスの妻となっていたからである。ということは、私たちは容易に理解できるであろう。使徒パウロがなぜ、その厳しい目をドルシラに向けて貞節について論じ、ペリクスとドルシラの両人を、彼らが公然と生きていたその恥知らずな情欲ゆえに公に叱責したかを。また、ここであなたは想像できるであろう。そこで1つの裁判が開かれており、ペリクス自身が裁判官であり、パウロが被告であったからには、いかにその最後の主題――「やがて来る審判」――が驚くほど当を得たものであったかを。

 思うに、私の兄弟たち。使徒がこの主題をいかに巧みに扱ったかは、さほど想像に難くないであろう。察するにペリクスは、福音の晦渋な主題のいくつかについて、壮大な論考を聞かされるものと予期していたであろう。もしかすると、使徒パウロが死者の復活について論ずるだろうと予想していたかもしれない。ことによると、予定や、選びや、自由意志が使徒の講話の話題になるだろうと思っていたかもしれない。「確かに」、と彼は思った。「彼は私に教えてくれるに違いない。イエスの福音がユダヤ教とは異なるところの、深遠な奥義のいくつかを」。そうではなかった。別の場所、アレオパゴス[使17:22]でなら、使徒は復活について語ったであろう。他の場所でなら、選びについて語り、神が陶器師であること、人が粘土にすぎないことについて語ることもあったであろう。だが、ここはそうする場所ではなかったし、この折はそうした主題のための時ではなかった。それは、福音の歯に衣着せない戒めを説教すべき時、抜きんでた権力の座に着いている悪人を厳しく取り扱うべき時であった。では、彼の開口一番の講話がいかに的を射たものであったか考えてみるがいい。――彼がいかに正義についてペリクスに語りかけようとしたことであろう。私には、彼が何をペリクスの脳裡に思い起こさせようとしたかが想像できる。相続財産を騙し取られた寡婦や、裕福な暮らしから転落し、パンを乞うまでになったみなし子たちである。私は使徒が、いかにこの卑俗な人間の脳裡に、彼がかつて裁判官の座に着いていたとき受け取った多くの賄賂について思い起こさせたか思い描くことができる。使徒は、彼が下した偽りの裁決を想起させたであろう。いかに民族としてのユダヤ人が抑圧されてきたか――いかに彼らが重税に虐げられてきたか。使徒は、強欲が公正を覆した場面を次々に思い起こさせ、この男の正確な性格を大胆かつ厳格に描き出したであろう。それから最後に、そうした人々が神の国を相続することは決してありえないと宣言したであろう。――こうしたもろもろの罪を赦していただくために、そのよこしまさを悔い改めるよう彼に命じたであろう。それから優しく、また気配りをこめて別の主題に移ったことであろう。私は想像する。いかに彼がその目をドルシラに据えて、彼女がひとりの婦人の生き甲斐とすべきすべてを失ってしまったかを思い起こさせ、彼女の多情な心に、強力きわまりない動機を厳粛に銘記させようとしたかを。また、いかにペリクスに向き直り、姦淫をする者や、不品行な者や、汚れた者は決して神の国を相続できないことを思い起こさせたかを。――支配者の悪徳が一国を汚染しがちなものであり、ユダヤという国の不義がその相当大きな程度を彼の責めに帰されるべきことを、いかに想起させようとしたかを。私は、いかにペリクスがしばしの間その唇を噛んだか思い描くことができる。だがパウロは、彼に怒りや激情を発させる暇を全く与えなかった。というのも、たちどころにその懸河の熱弁によって、「やがて来る審判」のことを持ち出したからである。彼はペリクスがまざまざと、あの大きな白い御座や、開かれる書物や[黙20:11-12]、自分自身がその審き主の前に召還されている姿を見ているかのように思わせた。彼はペリクスに聞かせた。あの喇叭の音を――「さあ、祝福された人たち」を――「のろわれた者ども。離れて行け」を[マタ25:36、41参照]。使徒は彼を石のようにこわばらせ、その座席に釘づけにし、その耳を開かせ、それに言葉を聞かせ、厳格で熱情のこもった真剣さによって、たとい両手は鎖に繋がれていても、福音の自由を用いて彼を厳しく叱責した。そのとき私は、ペリクスが震え始めたと思って良いであろう。卑しく、浅ましく、不実な者であった彼は、臆病な奴隷のように――実際、彼は奴隷だったが――震えた。そして、判事席に座っていながら彼は、自分がすでに審かれている姿を思い浮かべた。そのままであれば、彼がその次に何をしていたか分からないが、そのとき悪魔は、もういいかげんに立ち上がる時だろうと彼にほのめかした。それで彼とドルシラは大急ぎで判事席を離れて行った。「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」。

 では、私の話を聞くがいい、兄弟たち! 使徒パウロがしたことを、あらゆる教役者は行なうべきである。彼は自分の聞き手に適切な話題を選んだ。同じことを常に私たちはなすべきである。しかし、多くの教役者たちは、王や君主たちに語りかける場合、定命の者の口から発された中でも、最悪のへつらいやおべっかを注ぎ出そうとするではないだろうか? 多くの人々は、高位の人々や権力者たちが自分の話を聞いているのを意識すると、自分たちの教理を切り詰め、自分の話の痛烈な部分を削り、何とかして聞き手を快くさせようと努めるのではないだろうか? 無律法主義的な聴衆に語りかけている場合には、予定や、永遠の昔からの定罰についてだけしか語ろうとしない多くの教役者が見られるではないだろうか? 哲学者たちを聴衆にして語っている場合には、道徳についてのみ語り、決して恵みの契約や血による救いなどといった言葉に言及しない教役者たちが見いだされるではないだろうか? 一部の者らは、教役者の最高の目標は群衆を引き寄せ、彼らを喜ばせることだと考えているではないだろうか? おゝ、私の神よ! その点で咎ありと感じるとき、いかに厳粛に私たちひとりひとりは自分の罪を嘆き悲しむべきでしょう。人々を喜ばせたからといって何になるでしょう? そこに、臨終の枕の上に乗せた私たちの頭を安らかにできるものが何かあるでしょうか? 最後の審判の日に私たちを大胆にさせることのできるもの、あるいは、あなたの法廷に直面するとき私たちを幸いにしてくれるものが何かあるでしょうか? おゝ、生者と死者の《審き主》よ。否。私の兄弟たち。私たちは常に、私たちの全力をこめて自分の聴衆の胸にのしかかるような主題聖句を取り上げなくてはならない。私は、自分が決して会衆の前で説教しないことを望む。――私は常にあなたがたに向かって説教したいと願う。また私は雄弁の力を披露したり、何らかの学識の深みを誇示したりすることさえしたいとは思わない。私は単にこう云いたい。「私の話を聞くがいい。私の同胞たる方々。というのも、神は私をあなたに遣わしておられるからだ。あなたに関わる、あることがあるのである。それについて私はあなたに告げるであろう。あなたは死につつある。あなたがたの中の多くの人々は、死ねば、永遠に滅びるしかない。私の務めは決してあなたを面白がらせることではない。あなたの知性を教えはしても、あなたの心に入り込まないような深遠な事がらを開陳することではない。私の務めは、矢を弦につがえて、それを深々と突き立てること――剣を抜き放つこと――その鞘がいかにきらびやかに輝いていようと、それを捨てて、むき出しの真理の威光であなたの心を打つことである。というのも、あの最後の審判の日には、個人的に心を突く話のほかは何物であれ、木や、草や、わら[Iコリ3:12]として焼き尽くされるからである。だが、これらは金や、銀や、宝石のように残り、焼き尽くされることはありえない」。

 しかしある人々は云うであろう。「先生。教役者は個人攻撃すべきではありません」。教役者は個人を攻撃すべきであるし、そうしないとしたら自分の《主人》に対して決して忠実な者となれないであろう。私はジョン・ノックスを称賛する。というのも、彼は聖書を手に持ってメアリー女王の前に行き、厳格に彼女を叱責したからである。私も、彼がそれを行なったしかたのすべてが好ましいものではないと認める。だが、それを行なったこと自体を素晴らしいことだと思う。その婦人は罪人であった。そして彼は、彼女に面と向かってはっきりそう告げたのである。しかし、今や私たち、名もない者らの、あわれで、臆病な子らは、講壇に立っても当たり障りのないことしか云えないのである。私たちは、あなたに、あなたのもろもろの罪について個人的に指摘し、告げることを恐れている。しかし、神はほむべきかな。そうした恐れから私はとうの昔に解放されている。私は、この地上を歩んでいるいかなる人をも恐れずに叱責できる。あなたがたの中の誰ひとりとして、いかに私と信仰告白において、あるいは他の点で結びついていようと、神の国の事がらに関して、私が個人的に責めることを恥じるだろうような人はいない。そして、ただ大胆にまた勇敢に、真理を心に突き入れることこそ、最後になって私たちが自分の聞き手の血の責任から解放される道なのである。願わくは神が私たちに、パウロの力を与えてくださるように。私たちが適切な主題について論じるようになり、自分の聞き手の良心に真理を突き込んでしかるべきときに、当たり障りのないことを選ぶようなことをしないように。結局において、使徒パウロには何の頌徳文も必要がない。使徒に対して述べられうる最上の頌徳文は、「ペリクスは恐れを感じた」、という事実である。そして、そこから私たちは今回の主題の第二の部分に移ることにする。

 II. 「《ペリクスは恐れを感じた》」。しかり。このあわれな囚人は、真理を語る上で助けとなるものを何も有しておらず、むしろ、自分にとって不利なこと――鎖や、囚人服や、一国の中で暴動を先導したという評判――しか有していなかったが、このあわれな囚人は、信仰の手をもって真理の剣をつかむと、それによって関節と骨髄の分かれ目を刺し通した[ヘブ4:12]。彼は、獅子のねぐらでそのひげを引き抜いた。今でさえ私には見える。彼がこの総督を真っ向から決然と見据え、その心を攻撃し、その数々の言い訳から押し出し、真理の銃剣の切っ先でその言葉を突き入れ、彼をあらゆる偽りの隠れ家から追い立てて、彼を震えおののかせている姿を! おゝ、説教された福音の無比の力よ! おゝ、神が牧会者や伝道者とともにおられるという強大な真理よ。地の諸王が、共謀してはかりごとを巡らしても、これによってうろたえさせられるのである。ここに人間の雄弁以上の何かがあることを見てとらない者が誰かいるだろうか? 被告が裁判官となり、高位の君主が犯罪人となっているのである。「ペリクスは恐れを感じた」。この場には、ペリクスと同じ感情を経験したことのある人がいるではないだろうか? ひとりの率直に語る教役者があなたに告げたあることは、あなたにとって、あまりにも率直すぎた。最初あなたは怒った。だが、よくよく考えると、また、その人が自分の講話を進めていくうちに、あなたは無念に思うようになった。このようにあなたを丸裸にする――とあなたには想像された――機会を自分が相手に与えてしまったからである。それから、さらにあなたは、翻然と悟らされることがあった。この人物が、個人的にあなたを侮辱する意図など持ち合わせているはずがなかった。そして、あなたの感情は変わった。雷電に次ぐ雷電が彼の唇から降りかかり、彼は王座に着いているユピテル神そのひとのように思われた。あなたがたは震え出した。「まことに、ここにいる人は、私のしたこと全部を私に云った。この人がキリストから遣わされた人なのだろうか?」 あゝ! そして、このようにしてあなたは福音の真理について自ら証言した。あなたは、救いに至されるまでには、その力を感じなかったとはいえ、それでも、福音が真実であると不承不承ながら証言してきた。というのもあなたは、それがあなたの膝をがくがく振るわせ、あなたの目から涙をしたたり落とさせたとき、その力を感じたからである。

 しかし、何が《福音》の響きの下にあって人々を震えさせるのだろうか? ある人々は、それは彼らの良心だと云う。しかり。疑いもなく、ある意味でそれは正しい。かの詩人は云った。「良心はわれらをみな臆病にする」[シェイクスピア、『ハムレット』]。そして確かに、教役者の解き明かしが忠実なもの、私たち自身の事情に即したものであるとき、良心は、完全に麻痺した死んだものとなっていない限り、私たちの頬に赤らんだ外套をまとわせるものである。しかし、私が思うに、良心そのものは、人間性の他の諸力の一切とともに、あまりに徹底して腐敗したものであるため、決して人を震えさせるところまではいかないであろう。良心がただそれ自体の自然の力にまかされているだけで、何も良心に働きを及ぼしていないとしたらそうである。私の信ずるところ、ある人々が天性の罪の確信と呼ぶものは、結局のところは、御霊のみわざである。一部の非常に深遠な神学者たちは、聖霊が常に効力をもってお働きになるという教理を愛好しすぎて、こう考えるに至っている。すなわち、御霊が人の魂の内側に一時的な情緒を作り出すようなことは決してありえないのだ、と。そして彼らは、震えているペリクスのような人を見ると、云うのである。「これは、天性の罪の確信にすぎない!」、と。さて、彼らは見てとらないのだろうか? そうすることによって自分たちが、それと同じくらい彼らにとって愛しいもう1つの教理――全的堕落の教理――を傷つけているということが。というのも、もし人々が生まれながらに完全に堕落しているとしたら、震えおののくことは良いことである以上、人はそれすら、聖霊の何らかの影響がない限り、行なうことができないはずである。話をお聞きの方々。実は聖霊は、2つのしかたでお働きになるのである。一部の人々の心において、御霊は抑制の《恵み》をもってしか働かず、その抑制の《恵み》は、彼らを救いはしないものの、御霊の抑制から全く見放された一部の者たちがふけっているような、公然たる、腐敗した悪徳へと急激には突き進ませないように彼らを引き留めているのである。さて、ペリクスのうちには、この抑制の《恵み》が、僅かながらも分け与えられていた。そして、使徒が《福音》を彼の前に明らかに示したとき、この抑制の《恵み》は良心を活気づかせ、ペリクスを震え出させたのである。よく聞くがいい。この《恵み》に人は抵抗することができるし、実際に抵抗している。というのも、聖霊は《全能》であり、《全能に》働くときには、何者も抵抗できないとはいえ、それでも、時として強い人がその力のすべてを振るわずに、例えば、その指だけで働くとしたら、ぶよや蟻にさえ打ち負かされるのを許すことがあるように、そのように聖霊も、時として一時的にしかお働きにならないことがありえる。そして、それは御霊が常に成し遂げる、善にして最上の目的のためであるとはいえ、御霊は人々がご自分の影響力をかき消し、それに抵抗することを許し、それによって救いに近づけないようになさることがある。聖霊なる神は、人々のうちに何らかの良い願いや感情を作り出すことがあるが、それでも彼らを救う意図を全く持っておられないことがある。しかし、よく聞くがいい。こうした願いや感情の1つとして、確かな救いに伴う事がらではない。というのも、もしそうだとしたら、それらは立ち消えにならないからである。しかし、御霊が救いのために《全能に》お働きになるのは、ご自分の選民である者たちの内側においてのみである。そうした人々を御霊は確かにご自分のもとに連れて来られる。それで私はこう信ずるのである。ペリクスが震えたわけは、御霊の抑制の恵みが、彼の良心を活気づかせ、彼を震えさせていたからである、と。

 しかし、一度も震えることのないあなたがたの中のある人々について、何と云えば良いだろうか? あなたは今朝、厚かましい顔をして、生意気で傲慢な心をいだいて、ここへやって来た。あなたは、これまで数々の冒涜を高い天へと積み上げてきたし、今や神の家の中で全く感動することも、全く恥じ入ることもしていない。たといバクスターが墓からよみがえり、心動かす吐息と涙によって《福音》を説教したとしても、あなたは笑い飛ばし、蔑むであろう。たといボアネルゲ(雷の子)たちが雷鳴の舌をもってやって来て、あなたに説教したとしても、あなたは口を尖らして、彼の雄弁のあら探しをし、彼の言葉は決してあなたの心に届かないであろう。おゝ、不敬虔な世代よ! いかに神はあなたを見放し、いかに地獄はあなたを魅惑してきたことか? おゝ、悪を行なう者たちの種族! 堕落した子ら![イザ1:4] いかにあなたがたは麻痺させられていることか。あなたの魂は、預言者的な一瞥をもって壁に手書きされた文字を読んでいる! あなたはすでにさばかれている。あなたには何の望みもない。「根こそぎにされ、枯れに枯れた木」*[ユダ12]である。というのも、あなたがたが震えおののかないでいるその足のうちに、あなたの死の証拠のみならず、あなたの明確な堕落の証拠があるからである。あなたがたは、そのままのあなたで、望みもなく、信頼もなく、隠れ家もなしに死ぬであろう。というのも、感覚を失ってしまった者には望みがなくなっているからである。良心のなくなった者を、聖霊なる神は見放しており、もはやいつまでも彼とは争うことをなさらないからである。

 III. さて今、震えている聞き手というこの部分については足早に通り過ぎ、次のこととして、パウロが経験した《嘆かわしい失望》へと向かうことにする。彼はペリクスが急いで立ち上がり、自分の面前から彼を退出させたことを見てとった。「驚くべきことですね」、とある善良な人がひとりの教役者に云った。「驚くべきことですね、全会衆がみことばの宣教によって感動して涙を流しているのを見るというのは」。「しかり」、とその教役者は云った。「それは驚くべきことです。ですが、私はそれより十倍も大きな驚きを知っています。その驚きとは、こうした人々がこれほど素早く自分たちの涙を拭い去り、聞いたばかりのことを忘れ去ってしまうということですよ」。ペリクスがパウロの前で震えたのは驚くべきことである。だが、それよりずっと驚くべきことは、ペリクスが、「今は帰ってよい」、と云ったことである。これぞ奇妙、奇妙を通り越した奇妙である。みことばが良心に触れたとき、そのときでさえ、罪は強大な力を人々に及ぼしており、真理が撃退され、心から追い払われるのである。ペリクスよ、不幸なペリクスよ! なぜあなたはあなたの判事席から立ち上がるのか? あなたにはたくさん務めがあるからか? 待てよ、ペリクス。もう一分だけパウロの話を聞くがいい。あなたには務めがある。だが、あなたの魂のためには何の務めもないのか? 待てよ、不幸な人よ! あなたは再び我欲の権化となり、再びあなたの私財を増し加えようというのか! おゝ! 待てよ! あなたは、あなたのあわれな魂のために、もうほんの一分も割けないというのか? 魂は永遠に生きることになるのだ。あなたは、魂のために何も蓄えてきていない。――何の天国の希望もなく、何のキリストの血もなく、何の罪の赦しもなく、何の御霊の聖めもなく、何の転嫁された義もない! あゝ! 人よ。やがて来たるべきときには、今のあなたにはそれほど重要に見える務めが、白昼夢でしかなかったこと、あなたが忘れていた堅固な現実の粗末な代用品でしかなかったことが明らかになるであろう。あなたは答えるだろうか? 「いや、王が私を緊急の任務に遣わしたのだ。私はカイザルの云うことを聞かなくてはならない」、と。あゝ! ペリクスよ。だが、あなたにはカイザルよりも偉大な君主がいるのだ。天の《皇帝》であり、地の《主》であるお方がいるのだ。あなたはこのお方の命令に耳を傾ける時間を割けないのか? そのお方の御前では、カイザルなど虫けらにすぎない。人よ! あなたはその一方に従い、もう一方を蔑むというのか? あゝ! 否。私はあなたがあえて口にできないことを知っている。ペリクス。あなたは背を向けて、再びあなたの好色な快楽にふけろうとしているのだ。行け、ドルシラとともに行け! しかし、待てよ! あなたは、あの最後の言葉があなたの耳で鳴り響いているというのに、あえてそうしようというのか。「やがて来る審判」。何と! あなたは、すでにあなたを断罪している、あの放埒な戯れを繰り返そうというのか? 行って、あなたの手を再び情欲に染め、警告を聞いて感銘を受けた後に、二重にあなたの霊を断罪しようというのか? おゝ、人よ! 私はあなたのことを思って泣ける。屠殺人のもとに行く雄牛のように、短刀を舐める子羊のように、そのようにあなたは、あなたを滅ぼす罪のもとに行き、あなたを破滅させる情欲のもとに行くのだ。あなたも、あなたがたの中の多くの人々も、しばしば伝道活動の下で感銘を受けてきた。私は、深く心を探られた安息日の次の月曜日の朝、あなたが何と云ってきたか知っている。あなたは云った。「私は商売に身を入れなくてはならない。この世の事がらの世話を焼かなくてはならない」。あゝ! いつの日かあなたがそう云っているときに、地獄が面と向かってあなたの愚劣さを笑い物にすることになるであろう。今にも死にそうな人が毎日、「私は絶対に生きる」、と云い云いしながら、自分が死ななくてはならないことを忘れていると考えてみるがいい! おゝ、あわれな魂よ! その家のこと、あなたのからだのことは気にかけていながら、その中にいる住人のことをないがしろにしているとは! 他の人は答えるであろう。「私はもう少し快楽を楽しまなくてはなりません」。快楽とあなたはそれを呼ぶのか? 何と! 自分の魂を自殺させるよう仕向けることに快楽がありえるだろうか?――あなたの《造り主》に刃向かい、その律法を踏みにじり、その恵みを蔑むことに? もしこれが快楽なら、それはそのことで御使いたちが涙を流すべき快楽であろう。何と、人よ。あなたは自分がいざ死ぬときに、これを快楽とみなすだろうか? 何にもまして、あなたは、最後になってあなたの《造り主》の法廷の前に立つとき、これを快楽とみなすだろうか? 奇妙な迷妄によって、あなたは偽りを信じさせられているのである。あなたの魂に対する御怒りを窮みに達させるようなものには、何の快楽もない。

 しかし、普通返される答えは、「まだ十分に時間はあります」、である。若者は云う。「年をとるまで放っておいてください」。では、向こうの老人たち。あなたは何と云うだろうか? 若者なら人生を待望し、この先により良い折を見いだすことを期待できると考えられよう。しかし、あなたがたの中には、すでに七十回も冬の木枯らしに吹かれた頭をしている方々がいる。あなたは、いつになれば、より良い折を見いだせると希望するのだろうか? あなたはほんの数日もすれば墓に入りかねない。あなたが、その重く垂れ下がった目を見開きさえするなら、死がほんの眼前にあるのを見てとるであろう。若者も死ぬことはあるが、老人は必ず死ぬ! 若者が眠るのは、城の守りを固めた中で眠るようなものだが、老人が眠るのは、攻撃中の眠りである。何と! 人よ。あなたは自分の《造り主》の法廷にそれほど近づいていながら、なおもこの方を、「今は帰ってよい」、と追いのけるのか? 何と! 今、愚図ついていようというのか? 短刀があなたの喉仏につきつけられているときに、――虫が木の中心に食い入り、枝々が枯れ始めたときに、――今しも粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女の目は暗くなる[伝12:3]というときに? ひからびて黄ばんだ木の葉があなたに降り積もっているというのに、なおもあなたには自分の破滅に対する備えができていない! おゝ、人よ! ありとあらゆる馬鹿者の中でも、白髪頭をした馬鹿者は、最悪の馬鹿者である。片足は墓に突っ込み、もう片足は砂のような土台に乗せているあなたを、いかにして私は描写すれば良いだろうか? 神があの金持ちに仰せになったように云うほかない。「愚か者。おまえのたましいは、もう幾晩もすれば、おまえから取り去られる」*[ルカ12:20]。そして、それからあなたはどこにいるだろうか?

 しかし、なおも普通大声で返されるのは、「まだ十分時間はあります」、である。世俗的な道徳家でさえこう云った。「まだ十分ある時間というものは、常に、十分には足りない時間だ」。十分時間があると? 人よ! 何のために? 確かにあなたは、罪の中で十分時を費やしてきた。過ぎ去った時に、「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行なったものですが、それはもう十分です」*[Iペテ4:3]。何と! 永遠すら、主の賛美を口にするには十分長くないであろう。それゆえ、地上で神を愛し、あなたが地上で生きることになる、ほんのいくばくかの残りの日々に神に仕えるのが長すぎるということはありえない。しかし、待てよ! 私はあなたと論じるであろう。来よ、ペリクスよ! 私は今朝、私の全心全霊をあなたに傾け、両腕をあなたに回し、あなたに生きよと命じておられるお方の顔にあなたが背を向けるのを、これを限りにやめさせようと努めるまでは、あなたにここを出て行かせはしない。あなたは云う。「また別の時に」、と。あなたはいかにして、今あなたが感じているような思いをもう一度感じることがあると分かるのか? 今朝、ことによると、1つの声があなたの心の中で云っているかもしれない。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」[アモ4:12]。明日、その声は黙らされるであろう。舞踏室や劇場の陽気が、今あなたに警告しているその声をかき消し、ことによると、あなたは二度とそれを聞くことがないかもしれない。人々はみな警告を受けてきており、滅びに至るすべての人々は最後の警告を受けてきた。ことによると、これがあなたの受ける最後の警告かもしれない。あなたはきょう告げられている。あなたがたは悔い改めない限り、滅びなくてはならない。あなたの信頼をキリストに置かない限り、永遠に打ち捨てられなくてはならない。ことによると、正直な唇があなたに警告することは二度とないかもしれない。涙に満ちた目が愛情こめてあなたを見ることは二度とないかもしれない。神はきょう手綱を強く引いて、あなたの情欲から、あなたを引き留めておられる。ことによると、もしきょう、あなたがそのくつわをはねつけ、狂気のように突き進んでいくとしたら、神はその手綱をあなたの背中に投げかけ、「勝手にせよ」、と仰せになるかもしれない。そして、それは地上と地獄との間で行なわれる陰鬱な障害物競馬となるであろう。そしてあなたは、狂ったような困難の中でそれを走り抜け、地獄のことなど決して考えず、考えたときには、すでに警告も、悔い改めも、信仰も、希望もなくなっているであろう。

 しかしまた、たといあなたがこうした感情を再び有することがあったとしても、いかにして神がそのときあなたを受け入れてくださると分かるだろうか? 「きょう」、と神は云われる。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」[ヘブ4:7]。今の時、神の愛はあなたのことで涙を流し、そのあわれみの心はあなたを思って熱くなっている。きょう、神は云っておられる。「さあ、来たれ。論じ合おう。たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、羊の毛のようになる。たとい、紅のように赤くても、雪よりも白くなる」*[イザ1:18]。あなたはきょう、神に耳を貸さないのだろうか? きょう、神の招きを見送り、その警告を軽蔑するのだろうか? 用心するがいい! あなたはいつの日か、今あなたが軽蔑しているものを必要とすることになり、そのとき神に叫び求めるが、神はあなたの云うことなどお聞きにならないかもしれない。そのときあなたは神に祈るかもしれないが、神はあなたの祈りを遮り、ただこうお答えになるであろう。「わたしは呼んだのだ!」 「あの朝のサリー音楽堂を思い出すがいい! わたしは呼んだが、お前は拒んだのだ。お前は、桟敷席のあの柱にもたれかかっていた。わたしは呼んだが、お前は拒んだのだ! わたしは手を差し伸ばした、お前をわたしの胸に抱きかかえようとするかのように。だが、誰もわたしを顧みなかったのだ。お前はあの桟敷席にいた。お前は耳を傾けていた。だが、お前はまるで聞いてなどいないかのようだった。それゆえ」――そして、おゝ! 何と恐ろしい結論であろう!――「わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう」。待たれよ! これは私の言葉ではない、神のことばなのである。『箴言』を開いて、そこにこの言葉を見いだすがいい[箴1:26]。神についてこう語るのは私にとって苛酷なことであるが、神がこれを自ら語っておられるのであり、すべての人が偽り者であっても、神は真実である[ロマ3:4]。いかにあなたがたは神があなたの祈りをある日、蔑み、あなたの叫びを遮り、あなたを永遠に追放しないと分かるのだろうか?

 しかしまた、いかにしてあなたは、再び警告されるまで生きていると分かるのだろうか? かつて、ある教役者がこう云った。その日の彼が福音を宣べ伝えてはいませんでしたね、と私が物柔らかに示唆したとき、「そうです。私は午前中は罪人たちには説教するつもりがありませんでした。ですが晩には罪人たちに向かって説教しますよ」。「あゝ!」、と私は云った。「ですが、今朝あなたの話を聞きに来た人々のうちの誰かが、晩までに地獄に行くとしたらどうなりますか」。そのように、私はあなたにも云える。あなたはある友人の家にきょう行くことをすでに約束している。あなたは自分がその約束を破ることはできないと思っている。あなたは、それを破れたら良いのにと思っている。家へ帰って膝まずき、祈ることができたら良いのに思っている。だが、否。そうはできない。あなたは約束に縛られているからである。ここ数日のうちに都合の日もあるであろう! それで《全能の神》は、人間の都合を待たなくてはならないのである! いかにしてあなたは、あなたがその都合の良い時まで生きていると分かっているのだろうか? 脳内の熱が少し高くなったり低くなったりするだけで、――血液の流れが少し速すぎたり、その循環が少し遅れただけで、――体液の向きが少し間違った流れ方をしただけで、あなたは死んでしまうのに!

   「危険は地上に ひしめきて
    汝れを墓へと 行かせんとす。
    猛(たけ)き疾病(やまい)は 待ちかまえ
    定命者(しせる)を 家に送るらん」。

おゝ! ならば、なぜあなたはどっちつかずに愚図つき、「まだ時間は十分ある」、などと云うのか。あなたの魂は、「まだ時間は十分ある」、などとあなたが云っていることによって救われることがこれからあるだろうか? ティロットソン大主教はいみじくも云う。「人は、私は食べる決心をする、と云うかもしれないが、食べる決心をするだけでは、決してからだは養われない。人は、私は飲む決心をする、と云うかもしれないが、飲む決心をするだけでは、決して喉の渇きは消されない」。そして、あなたは云うかもしれない。「私は決心しました。そのうちに神を求めることにします」。だが、あなたの決心は、あなたを救いはしないであろう。すぐに忘れる聞き手ではなく、みことばを実行する人こそ、その行ないによって祝福されるのである[ヤコ1:25]。おゝ、あなたがたが今こう云うとしたらどんなに良いことか。――きょう、私の神よ。きょう、私は自分の罪を告白します。きょう、私はあなたの恵みを現わしてくださるように願います。きょう、私の咎ある魂を受け入れ、私に《救い主》の血を示してください。きょう、私は自分の愚かさ、自分の悪徳、そして自分のもろもろの罪を、主権の《恵み》に押し迫られて断ち切ります。きょう、私は自分の善行を、私の信頼の根拠としては打ち捨てます。きょう、私はこう叫びます。

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架にわれはすがらん」。

おゝ! このような聞き手を得た教役者の何と幸いなことか!――もし自分の会衆がこのように云ったことが分かるとしたら、その人はパウロよりも幸せである! 来てください。おゝ、聖霊よ。そして、不本意な心を引き寄せ、主権の恵みの王笏の前にそれらをひれ伏させてください。

 説教は、見ての通り、私の声を嗄らしてしまう。あゝ! そうではない。説教ではなく、あなたの魂を思ってつく吐息こそ、困難な務めである。私は永遠に説教していられるであろう。私の《主人》の愛を告げ、あわれな魂たちに警告するためなら日夜ここに立っていることができるであろう。だが、私がこの講壇の階段を下りた後で私を追いかけてくるのは、いま話を聞いている、あなたがたの中の多くの人々が、この警告を無視するだろうという考えにほかならない。あなたはこの場を去る。町通りに出る。冗談を口にする。笑い合う。私の主人は仰せになる。「人の子よ。あなたは、イスラエルの子らがあなたについて何と云っているか聞いたか。見よ。あなたは楽器を奏する者のようであり、彼らはあなたを冷やかし、自分たちの勝手な道へと向かう」。しかり。だが、それは小さなことであろう。笑い物にされることは、私にとって何の大きな困難でもない。私は蔑みやあざけりを喜ぶことができる。戯画や、風刺文や、誹謗中傷は、私の栄光である。こうした事がらを私は誇りとし、しかり、これらを私は喜ぶであろう。しかし、あなたがあなた自身のあわれみに背を向けること、これこそ私の悲しみである。私にはつばを吐きかけるがいい。だが、おゝ! 悔い改めよ! 私のことは笑い物にするがいい。だが、おゝ! 私の《主人》を信ぜよ! 私のからだは、表通りの泥のようにするがいい。それであなたがたが自分の魂を断罪しないというのであれば! おゝ! あなた自身のあわれみを蔑んではならない。キリストの福音をあなたから遠ざけてはならない。それ以外にも馬鹿なことをする方法は多々ある。石炭を胸にかかえて運ぶとか、自分の頭を壁に打ちつけるとか。だが、単に馬鹿者どもが笑うからといって、馬鹿者になっていたいがために、あなたの魂を断罪してはならない。もし何の来世もないとしたら、好きなように生きるがいい。もし何の天国もないとしたら、もし何の地獄もないとしたら、私を笑うがいい! しかし、もしこうしたことが真実であり、あなたがそれを信じているのだとしたら、私はあなたに命ずる。最後の審判の日に主イエスの審きの法廷であなたに面と向かっているかのように――私はあなたに命ずる。あなた自身の不滅の至福にかけて、こうした事がらを心に銘記するがいい。おゝ、イスラエルの子らよ、あなたの神に会う備えをせよ! そして、主がこのことにおいてあなたを助けてくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

  

 

ペリクスの前におけるパウロの説教[了]
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