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天的な競走

NO. 198

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1858年6月11日、金曜日午後の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於エプソム競馬場、正面観覧席


「ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」。――Iコリ9:24


 私たちが日々絶え間なく強調しているのは、救いが行ないによるものではなく、恵みによるものだということである。私たちはこのことを、福音の中でもまさしく第一の諸教理の1つとして宣言する。「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」[エペ2:9]。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」[エペ2:8]。しかし、私たちの見いだすところ、次のことについて宣べ伝えるのも同じくらい必要である。すなわち、最後に天国に到達するためには、キリスト教信仰に立った生き方が絶対に必要だ、ということである。私たちは、確かに人々が自分たちの行ないゆえに救われることはないと確信しているが、それと等しくこう確信している。すなわち、いかなる人も行ないなしに救われることはなく、聖くない生き方を送っている人、また、この大いなる救いをないがしろにしている人は、しぼむことのない、いのちの冠を相続することが決してない、と。ある意味で、真のキリスト教信仰は完全に神のみわざである。だが、いくつかの尊く重要な意味において、私たちは自分で「努力して狭い門からはい」らなくてはならない[ルカ13:24]。私たちは1つの競走を走らなくてはならない。苦闘の限りを尽くさなくてはならない。戦闘を行なわなくてはならない。そうして初めていのちの冠を相続できるのである。本日の聖句では、キリスト教信仰の行路が1つの競走とみなされている。そして、世には幾多の非常に間違った動機からキリスト教信仰の告白に至る人々が数多くいるために、使徒は私たちに向かってこう警告している。すなわち、競技場ではすべての者が走っても、全員が賞を受けられはしない。彼らがみな走ろうと、賞を受けられるのはたったひとりである。それゆえ彼は私たちに、賞を受けられるように走れという実際的な勧告を与えているのである。というのも私たちは、勝者になるのでない限り、初めから走者になどならないほうがましだったからである。勝者にならない者は敗者である。キリスト教信仰を告白していながら、最後にいのちの冠を獲得しない人は、自分の信仰告白によって敗者となる。というのも、その人の信仰告白は偽善か、形式尊重だったのであり、自分の信仰告白によって転落するくらいなら、何の告白もしていない方がましだったからである。

 さて今、この聖句に取り組むに当たり、私が注意しなくてはならないのは、私たちは何のために走るべきかということである。「ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」。第二に、私たちが心がけなくてはならない走り方である。――「ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」。それから私は、この天的な競走においてだれぎみの、怠慢な人々をかき立てて、前進させるであろう、いくつかの実際的な勧告を示して、彼らが最後には「賞を受けられる」ようにさせたいと思う。

 I. 第一のこととして、《私たちは何を受けることを求めるべきだろうか?》

 一部の人々がキリスト教信仰に入らなくてはならないと考えるのは、体裁を良くするためである。世のおびただしい数の人々が教会に行き、会堂に行くのは、他の誰もがそうしているからである。日曜日に神の家に行く姿を見せず、のらくらしているのは外聞の悪いことである。それゆえ彼らは会衆席を占め、諸集会に出席し、それで自分の義務を果たしたと考える。彼らは、自分の隣人がこう云っているのを聞けるときに、自分の目当てとしたすべてのものを得たのである。「誰それさんは、とても立派な人だし、この上もなく感心な人ですね」。まことに、もしこれがあなたのキリスト教信仰においてあなたが求めていることだとしたら、あなたはそれを得るであろう。というのも、人々の賞賛を求めたパリサイ人たちは、「すでに自分の報いを受け取った」*[マタ6:2]からである。しかし、それを得るとしても、それは何と貧しい報いであろう! それが、その単調な骨折り仕事に値するだろうか? 私は、人々が体裁の良い人だと呼ばれるためにいやいや行なっている単調な骨折り仕事が、彼らの得るものによって埋め合わされるとは信じない。確かに私自身としては、他人から何と呼ばれようが、何と思われようが、少しもかまわない。また、星々の下を歩んだことのあるいかなる人を喜ばせるためであれ、私自身にとってうんざりするようなことは何1つ行ないたいとは思わない。その人がいかに偉大な、いかに権力ある人であろうと関係ない。人々が自分の体裁を良くするようなことを常に行なおうと求めているとき、それは卑屈な、阿諛追従の精神のしるしである。人々の尊重など、追求する値打ちはない。そして、このことが、一部の人々が実践しているあわれなキリスト教信仰において目指されている唯一の賞であるのは、悲しいことである。

 ある人々は、もう少し先まで行く。彼らは体裁が良いと思われるだけでは満足せず、より多くのものを欲する。彼らは、卓越した聖徒と思われたがる。こうした人々は、私たちの礼拝所にやって来ては、しばらくすると、私たちの教会に加わることはできないでしょうかと申し出る。私たちは彼らを吟味するが、その偽善は私たちにはその腐れぶりを発見できないほど奥深いものである。それで私たちは彼らを私たちの教会に受け入れる。彼らは主の晩餐の席に着く。教会集会にやって来る。もしかすると、執事職へと選出されることさえあるかもしれない。時として彼らは、神からは決して召されていないにもかかわらず、講壇に立つことすらあり、自分の心では一度も感じたことのないことについて説教する。人はこうしたすべてを、単に人々の賞賛を楽しむだけのために行なうことがありえる。そして、そのためには、何らかの迫害をこうむることさえある。なぜなら、聖徒と思われ、キリスト教信仰に専心した人々から正しい人だ立派な人だとみなされ、シオンで暮らす人々の間で令名を得ることは、一部の人々がこの上もなく渇仰することだからである。彼らは、「罪人のかしら」[Iテモ1:15]の間に書き記されたいと思わないが、自分の名前が聖徒たちのかしらの間に書かれるとしたら、この上もない栄誉を得たと考えるであろう。残念ながら、わが国の諸教会にはこの種の人々が相当数混じり込んでいるのではないかと思う。単にキリスト教に熱心そうなふりをし、神の教会の中で信仰者としての地位を得たいがためにだけやって来るという人々である。「まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」[マタ6:2]。そして、彼らは決して、地上で得るもの以外のものを受けることはないであろう。彼らは、その報いをごくわずかな間は受ける。ほんの短い間は、彼らも尊敬されている。だが、ことによると、現世においてすら彼らはつまずき、失墜してしまう。教会は彼らの正体を見破り、彼らは獅子の皮をはがされた驢馬のように追い出され、再び生まれ故郷の刺草をあさる羽目になる。もはや生ける神の教会のただ中で栄光に富む者ではなくなる。あるいは、もしかすると彼らは、その生涯最後の日まで隠れ蓑をまとい続けるかもしれない。それから死がやって来て、彼らの安ピカの衣裳をことごとくはぎ取る。そして、キリスト教界という舞台の上で王や君主たちのようにふるまっていた者たちは、その舞台の陰に追いやられ、服を脱がされ、乞食のような自分を見いだすという恥をさらし、裸になって永遠の恥辱を受ける。これは、あなたや私がキリスト教信仰において追い求めたいことではない。愛する方々。もし私たちが走るとしたら、こうした事がらよりも高く、より栄光に富んだ賞を求めて走りたいと思うであろう。

 別の種別の人々が信仰生活に入るのは、それによって得られるもののためである。私の知っている小売商店主たちが教会に出席するのは、単にそこにやって来る人々から引き立てを得るためだけである。私はこうしたことを聞いたことがある。人々は、自分のパンのどちら側に牛酪が塗られているかを知って、その特定の教派に行くのだという。そうすれば、最大限の利得があるからである。パンと魚は、キリストに従う者たちの一部を引き寄せた[ヨハ6:26]。そしてそれらは、今日においてさえ非常に魅力的な餌なのである。人々はキリスト教信仰によって何かが得られることを見いだす。貧者の間では、ことによると、それは何らかの僅かな慈善が得られることかもしれない。また、商売に携わっている人々の間では、そこで得られる見込みがあると彼らの思う引き立てである。「まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」。というのも、教会は常に愚かで、疑うことを知らないからである。私たちは、自分の同胞たちが浅ましい動機から私たちに従っていると疑うことを好まない。教会は、人が単に自分の得られるものだけのためにキリスト教を信じているふりをするほど卑しいものになるなどと考えることを好まない。それゆえ、私たちはこうした人々を容易にもぐり込ませ、彼らは自分の報いを受け取る。しかし、あゝ! いかなる代価によって彼らがそれを買っていることか! 彼らは黄金ゆえに主のしもべたちを騙してきた。一片のパンのために卑しい偽善者として主の教会に入り込んできた。そして、最後には、アダムがエデンから放逐されたように、神の怒りを背にして追い出されることになる。燃える智天使と、輪を描いて回る剣がいのちの木を守るのである[創3:24]。そして彼らは、このことを振り返っては、永遠にそれを自分の犯した最も恐ろしい罪悪とみなすであろう。――彼らは神の民でもないのに、そうであるふりをして、自分が羊の皮をかぶった狼でしかないときに、その囲いの真中に入り込んだからである。

 もう1つの種別がある。この人々に言及して切り上げることとしよう。ある人々がキリスト教信仰に携わるのは、自分の良心を鎮めるためである。そして、いかに僅かなキリスト教信仰が時としてそうすることがあるかには驚嘆すべきものがある。ある人々によると、嵐の時には油の瓶を何瓶か波間に注げばたちまち大凪になるという。私は一度もそれを試したことはないし、十中八九、決して試そうとはしないであろう。というのも、たとい私がいくら信じやすい質だったとしても、それほど大規模な言明を受け入れることはできないからである。しかし、ある人々は、波立つ良心にキリスト教の告白という油を少量注ぐだけで、荒れ騒ぐ良心の嵐を鎮められると信じている。そして、これが実際いかに驚くべき効果を及ぼすかは唖然とさせられるほどである。私の知っていたある人は、平日は何度も酔っ払い、不正直なしかたで自分の金銭を手に入れていたが、日曜になると常に自分の教会、あるいは、会堂に行くことによって、良心を安らかにしていた。私たちは、ある人が「やもめたちの家を食いつぶ」すことができたと聞いている[マタ23:14]。――自分の行く手にあるあらゆるを呑み込みながら、決して祈らずには床に就くことをしない弁護士である。そのことが彼の良心を静めるのである。また私たちは、別の人々についても聞いたことがある。特にローマカトリック教徒の間においてだが、彼らは盗みには反対しない一方で、金曜日に魚以外の何かを食べることは最も恐ろしい罪とみなすのだという。金曜に断食をすることによって、週の間のありとあらゆる不義を取り除けると考えているのである。彼らは、キリスト教信仰の外的な形によって良心を静かにしておくことを欲する。というのも、《良心》はけんか腰になると、あなたの家の中に置いておくには最悪の同居人のひとりだからである。彼とともにとどまることはできない。彼と寝床を共にすることはできない。横になっているときも居心地悪く、起き上がっても同じくらい煩わしい。罪の意識のある良心は、世界の呪いの1つである。それは太陽をかき消し、月光からその明るさを取り去る。罪の意識のある良心は、大気に有毒の呼気を放散し、風景から美しさを奪い、流れる川から美観を除き去り、うねる大水から壮大さを除去する。罪の意識のある良心を有する人にとって美しいものは何もない。その人を告発する必要はない。万物がその人を告発している。こういうわけで人々は、それを鎮めるだけのためにキリスト教信仰に携わるのである。彼らは時として聖礼典を受ける。礼拝所に赴く。時々は賛美歌を歌う。慈善のため1ギニーを与える。自分の遺言状には、その遺産の一部で施設救貧院を建てるように指示しておく。そして、このようなしかたで良心はなだめて寝かしつけられてしまう。彼らはキリスト教信仰のあれこれを遵守することによって良心を揺り動かし、眠り込ませる。良心の上で彼らは偽善の子守歌を歌い、あの金持ちとともに目覚めるときまで目を覚まさない。その金持ちは、現世では紫の服をまとっていたが、来世では地獄でで苦しみながら目を上げ[ルカ16:23]、自分の焼ける舌を冷やすだけの水一滴すら有さなかったのである。

 では、私たちは何のためにこの競走を走るべきだろうか? 何と、天国、永遠のいのち、信仰による義認、罪の赦し、《愛する方》において受け入れられること、そして、永遠の栄光のためである。もしあなたが救い以外の何かのために走っているとしたら、それを勝ち得たとしても、勝ち取ったものは走るだけの価値を有していない。おゝ! 私はあなたがたひとりひとりに切に願う。永遠のための堅固な土台を作るがいい。決して生ける《救い主》にある生きた信仰以下の何かで満足してはならない。聖霊があなたの魂の中で働いておられることが確かになるまで安心してはならない。キリスト教信仰の外側が、あなたにとって有用であると考えてはならない。ただキリスト教信仰の内側の部分をこそ、神は愛されるのである。悔やむ必要のない悔い改めを求めるがいい。――キリストだけを仰ぎ見る信仰、また、ヨルダン川が一杯になる所へ入り込むときにも、あなたの傍らに立ってくれる信仰を求めるがいい。束の間の炎のような、一瞬燃えたかと思うと消えてしまうものとは違う愛、むしろ、いや増し加わり続けて、なおも増し加わる愛、ついにはあなたの心がそれに呑み込まれてしまい、イエス・キリストという名があなたの情愛の唯一の対象となるような愛を求めるがいい。私たちは、この天的な競走を走ることにおいて、キリストがご自分の前に置かれていたもの以下の何物も自分の前に置いてはならない。主は救いの喜びをご自分の前に置き、十字架をも、恥ずかしめを忍ぶことをも、ものともせずにお走りになった。私たちもそのようにしよう。そして、願わくは神が私たちを成功させ、その良き御霊によって、私たちの主のイエス・キリストの復活を通して私たちを永遠のいのちに到達させてくださるように。

 II. このようにして私は、私たちが何のために走るべきかに注意してきた。さて今、使徒は云う。「ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」。私は、決して賞を受けられないだろう何人かの人々に注目し、その理由をあなたに告げることにする。そして、そうすることにおいて私は、《この競走の規則》を例示するであろう。

 ある人々が確かに賞を受けることがないのは、彼らが出場しもしないからである。彼らの名前は出場者名簿になく、それゆえ、彼らが走らないことは全く確実である。あるいは、たとい走るとしても、賞を受けると期待できる何の裏づけもなしに走ることになる。この午後、この場にはそうした何人かの人々がいる。それは、自分からこう云うような人々である。「私たちは何の信仰告白もしていませんよ、先生。――どんな告白もね」。ことによると、あなたがそれをしていないのは全く良いことかもしれない。なぜなら、もしそんな告白をするとしたら偽善者になるからである。何の信仰告白もしない方が偽善者になるよりはましだからである。それでも、思い起こすがいい。あなたの名は出場者名簿に含まれておらず、それゆえ、あなたが勝つことはないのである。もしあなたの仕事上の取引相手が、自分は正直であるなどとは決して告白しないよ、などとあなたに云うとしたら、あなたには彼が根っからのごろつきであると分かるであろう。そして、もし人がキリスト教信仰を重んずる告白を全くしていないとしたら、あなたは彼が何者かが分かる。――彼は無宗教なのである。――自分の目の前に神への恐れを有していないのである。その人にはキリストに対する何の愛もない。天国に入る何の希望もない。彼は自分自身そう告白している。人々がこのことを、これほど進んで告白するのは奇妙なことである。町通りでは、自分は根っからの酔っ払いだなどと進んで認める人は見つからない。普通、人は、そうしたことを蔑んで否認する。あなたは決して人からこう云われはしないであろう。「私は、貞節に生きている人間だなどとは告白しないよ」。また、このように云う人もいはしない。「私は、自分が貪欲な卑劣漢以外の何者かだなんて告白しはしないよ」。しかり。人々は、自分たちの過ちをそれほどあっさり告げようとするものではない。だがしかし、あなたは人々が、人間が耽溺しうる最大の過ちを告白するのを聞くのである。彼らは云う。「私は何の信仰告白もしないよ」。――これは、こう云うことに等しい。――彼らは、神に当然神に属するものを与えないというのである。神は彼らをお造りになったが、しかし彼らは神に仕えようとしない。キリストは罪人を救うために世に来られたが、しかし彼らはキリストを顧みようとはしない。福音は宣べ伝えられている。だがしかし、彼らはそれを聞こうとしない。聖書は彼らの家にあるが、しかし彼らはその訓戒に注意を払わない。彼らはそうするという告白を全く唱えようとしない。最後の大いなる日に、彼らはたちまち始末されるであろう。数々の書物が開かれる必要はなく、その判決が長々と考察される必要はないであろう。彼らは罪赦されたとの告白をしてない。彼らの咎は彼ら自身の額の上に書き記されている。彼らの青銅のような破廉恥さは全世界によって見てとられ、それが彼らの額そのものの上に書き記された破滅の宣告となる。あなたは、あなたの名前がこの競走の出場者として記されるまで、天国を勝ち取ることは期待できない。もし何の試みもなされないとしたら、すなわち、キリスト教信仰を告白しようとすることが全くなされないとしたら、もちろん、あなたはただ座り込んでこう云って良い。「天国は私のためのものではない。私はイスラエルの相続分には何の関係もないし、それにあずかることもできない。私には、私を贖う方は生きておられる[ヨブ19:25]、とは云えない。そして、私は完全にこう確信して良いであろう。すでにトフェテは整えられ、特に私のために備えられている[イザ30:33]、と。私はその苦痛を感じ、そのもろもろの悲惨を知るに違いない。というのも、死後には、2つしか住む場所はないからだ。そして、もし私が《審き主》の右手に見いだされないとしたら、そこにはもう1つしか選択肢はない。――永遠の暗黒の暗闇へと投げ捨てられることだ」。

 それから、別の種別の人々がいる。その名前は出場者名簿の中にあるが、決して正しく始めなかった人々である。悪い始まりは悲しいことである。もし、ギリシヤまたはローマの古代の競走で、これから競走に出ようという人が道草を食っていたとしたら、あるいは、時間が来る前に走り出したとしたら、きちんと走り始めない限り、いかに速く走ろうと問題ではない。旗が振り下ろされて初めて競走馬は走り出すことができる。さもなければ、ある馬が一番に決勝点に達したとしても、何の報いも受けられない。ということは、この競走の開始についても注意すべきことがあるのである。私は、キリスト教信仰という競走に全力を尽くして走っている人々を知っている。だがしかし、正しく走り出さなかったために敗れてしまった。あなたは云うであろう。「よろしい。どのようにしてそうなったのですか?」 何と、ある人々は、発作的に突然キリスト教信仰に飛び込む。彼らはそれを素早くつかむと、しばらくの間は保っているが、最後にはそれを失ってしまう。なぜなら、その信仰を正しいしかたで得なかったからである。彼らはこう聞かされる。すなわち、人が救われたければは、聖霊の教えによって、その人が罪の重みを感じること、それを告白すること、自分自身の行ないに対する一切の希望を放棄すること、そして、イエス・キリストだけを仰ぎ見ることが必要であった。彼らはこうしたすべての備えを不愉快なこととみなし、それゆえ、悔い改めを心がけたり、聖霊が自らのうちに良い行ないを作り出される前に、また、一切のものを捨てて、キリストに頼るように導かれる前に、信仰を告白するのである。これは商売道具もなしに商売を始めるようなもので、失敗するに決まっている。もしもある人が元手もなしに始めるとしたら、しばらくの間は見栄え良くしていられるかもしれないが、それは鍋の下でいばらがパチパチはぜるようなものである。音は騒々しく、火は明るく燃えるかもしれないが、やがては消えて真っ暗になる。いかに多くの人々が、心の内側でみわざが必要であることを決して考えもしないことか! しかしながら、覚えておくがいい。多くの霊的な苦しみを経ることなしに人が真に新しく生まれることは一度もなかった。まず心がみじめにされることもなしに心が変えられた人はひとりもいなかった。私たちは、罪の確信というあの暗い隧道をくぐり抜けて初めて、聖なる喜びという高い土手の上に立つことができるのである。私たちは最初に《落胆の沼》を通り抜けなくては、《救い》の石垣に沿って走ることはできない。種を蒔く前には土を耕すことがなくてはならない。多くの凍てつく霜と、多くの激しい雨を経なくては、いかなる収穫もない。しかし私たちはしばしば、潅木から花々を引き抜いては、自分たちの庭に根もないまま植える子どもたちのように行なう。その後で彼らは、自分の小さな庭がいかに美しく、いかに可愛らしいことかと云うが、しばらく待ってみるがいい。彼らの花々は、何の根もないために枯れてしまう。これこそ、正しい始め方をせず、「事の根っこ」[ヨブ19:28 <英欽定訳>]を有していないことの効果である。たといキリスト教信仰の見かけという花や葉があろうと、もし私たちの内側に「事の根っこ」がないとしたら、それが何になるだろうか?――もし私たちが罪の確信という鋭利な鉄の鍬で深々と掘られることがなく、また、御霊の鋤によってあぜを作られることがなく、また、その後で福音という聖なる種を蒔かれて、豊かな収穫を生み出す希望を持つことがなかったとしたら、それが何になるだろうか? 正しく始めなくてはならない。それに十分注意を向けるがいい。というのも、始まりが正しくなければ、希望をもって走れないからである。

 また、この天的な競走を行なう一部の走者が勝ちを得ないのは、重すぎる重荷をかかえているからである。もちろん荷物は軽い方が有利である。ある人々は、かかえて歩くには途方もなく重すぎる荷物を有している。「金持ちが神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう!」*[マコ10:23] なぜだろうか? 重荷をかかえすぎているからである。その人には、この世の心遣いや快楽が多すぎる。その人には、とても勝ち目がなさそうな重荷がある。神がその人にそれを負えるだけの巨大な量の力を与えてくださらない限りそうである。私たちは、多くの人々が口では救われたいと願っているのを見いだす。だが彼らは、みことばを喜んで受け入れても、しばらくすると、いばらが生えてきて、みことばをふさいでしまう[マタ13:20-22]。彼らには、しなくてはならない仕事があまりにも多い。彼らは、自分たちも生きていかなくてはならないと云っては、自分たちが死ななくてはならないことを忘れている。彼らは気を遣わなくてはならないことが多すぎて、キリストのそば近くに生きることが考えられない。彼らは静思の時のためにほとんど時間がないことに気づく。朝の祈りは短く切り詰めなくてはならない。仕事が早朝から始まるからである。夜に祈ることはできない。仕事が深夜にまで及ぶからである。いかにして彼らが神の事がらについて考えることなど期待できるだろうか? 彼らには、この問いに答えるために行なうべきことが山ほどあるのである。――「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」[マタ6:31]。確かに彼らも、天におられる自分の御父を信頼すれば、御父がこうした事がらにおいて彼らの面倒を見てくださると聖書の中で読みはする。しかし彼らは、「いや、そうではない」、と云う。摂理により頼む人々は、彼らの意見によれば、熱狂主義者なのである。彼らによると、世界で最高の摂理は勤勉なのだという。その言葉は正しいが、彼らは、自分たちの勤勉さの取り決めの中に、このことをを含めるのを忘れている。「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、心労の糧を食べるのも、それはむなしい。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしいからだ」*[詩127:1-2]。ここで、ふたりの人が競走しているのが見える。そのひとりは、始めるときに一切の重荷を捨てて[ヘブ12:1]、自分の衣を脱ぎ捨てて走り出す。そこに、もうひとりのあわれな男がやって来る。彼は一切合切の金銀の荷物を背負っている。また、彼の腰には、将来自分はどうなるのだろうか、年老いたとき自分にはどんな見込みがあるのだろうか、といった類の百もの疑り深い疑念を数多くぶらさげている。彼は、自分の重荷を主に投げかけるすべを知らない。見るがいい。このあわれなな男が、いかに弱り果ていることか。また、もうひとりの人がいかに彼を追い越し、遠く背後に置き去りにしては、角を曲がって、今にも決勝点に到達しようとしていることか。もし私たちが、必要なただ1つのものを除き、一切のものを投げ捨てて、こう云えるとしたら良いことである。「私の務め、それは地上で神に仕えることである。私は天国で神を喜ぶことになるのを知っているのだから」。というのも、私たちが自分の仕事を神におゆだねするとき、私たちはそれを、自分自身で面倒を見るよりもすぐれた御手にゆだねるからである。自分で肉を切り分けようとする者たちは、普通は自分の指を切り刻む。だが、自分たちに代わって神に切り分けていただく者たちは、決して皿が空っぽになることはない。雲が出発した後に歩く者は正しく進むが、雲に先立って走る者はたちまち自分が無駄足を踏んだことを見いだす。「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」[エレ17:7]。「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」[詩34:10]。私たちの《救い主》は云われた。「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」[マタ6:28-29]。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」[マタ6:26]。「主に信頼して善を行なえ。そうすれば、まことにあなたがたは養われる」*[詩37:3 <英欽定訳>]。「そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される」[イザ33:16]。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」[マタ6:33]。この世の心遣いという重荷にまつわりつかれていると、あなたはそれをかかえて、その重荷の下で真っ直ぐに立っているだけで精一杯となる。そのような荷物をもって競走することなど全くの不可能である。

 やはり人が競走することを妨げるものがもう1つある。私たちの知っているある人々は、途中で立ち止まっては、自分の仲間の者らを蹴り飛ばす。こうしたことは、時として競馬でも起こることがある。馬が、目標をめざして一心に前へとひた走る代わりに、怒りっぽい気質をしていて、自分の後ろを走っている馬を蹴り始めるのである。――彼が一着になる見込みはほとんどない。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ」。しかしながら、決して賞を得ることがない者がひとりいる。それは、自分ではなく、自分の同胞たちに常に注意を払っている人である。摩訶不思議なことながら、私は長柄の鍬を肩にかついだ人が、自分の隣人の庭を掘り起こすのを一度も見たことがないし、ある農夫が自分の馬一組を送り出して、隣人の土地を耕すのを見ることもまずない。だが、この上もなく異様なことに、一週間のうちに私は毎日、他の人々の性格に注意を払う人々に出会うのである。彼らが神の家に行き、云い古されたことを聞くと、彼らはたちまちこう云う。「あれは、スミス夫人やブラウン夫人にはうってつけのことでしたね」。彼らの頭には、それが彼ら自身にうってつけのことだという考えは全く浮かばない。彼らは他のあらゆる人に耳を傾けるが、自分のこととしては聞かない。彼らが会堂から外に出ると、ことによると、家路を辿りながら、彼らが最初に考えるのはこのことかもしれない。「よろしい。いかにすれば私は私の隣人たちに文句をつけられるだろうか?」 彼らは、他の人々を引き下ろすことによって、自分たちが高く上げられるのだと思うのである(これほど大きな間違いはない)。自分の隣人たちの外套の穴をほじくることによって、自分の外套の穴をつくろうのである。彼らは、あまりにも僅かしか自分自身の美徳を持ち合わせていないため、他の誰かが何らかの美徳を持っていることを好まない。それゆえ、彼らは全力をあげて、隣人の中にある良いものすべてを奪い取ろうとする。そして、少しでも欠点があると、彼らはそれを拡大鏡で見ようとするが、自分自身のもろもろの罪を見るときには、それを逆さまにしようとする。彼ら自身の欠点はこの上もなく小さなものとなる一方で、他の人々の欠点ははなはだ大きなものとなる。さて、これは単に信仰を告白している信仰者たちの欠点であるばかりでなく、信仰者ではない人々の間にもある欠点でもある。私たちはみな、自分の膝元にある問題に注意を払う代わりに、他の人々に難癖をつけがちである。私たちは他人の葡萄畑に注意を払う。だが、私たち自身の葡萄畑の方は手入れしない。世俗的な人に、なぜ信仰を持たないのか尋ねてみるがいい。彼はあなたに云うであろう。「それは、誰それが信仰を告白していながら、裏表のある生き方をしているからですよ」。あゝ、それがあなたの知ったことだろうか? あなたが立つのも倒れるのも、あなた自身の《主人》の心次第であり、その人もそれは同じであるに違いない。神が彼らの審き主であり、あなたではない。かりに、途方もなく多くのキリスト者に裏表があったとしよう。――そして、私たちはそれが事実であると認めざるをえない。――だがそれは、あなたが良いキリスト者になるべきより大きな理由である。かりに非常に多くの人々が他人を騙しているとしよう。だがそれは、それだけあなたが純粋なキリスト者とはいかなるものかという模範を世に示すべきより大きな理由である。「あゝ、ですが」、とあなたは云うであろう。「残念ながら、そうした人は非常に僅かではないかと思いますよ」。なぜなら、なぜあなたがそのひとりにならないのか? しかし、結局において、それがあなたの知ったことだろうか? 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある[ガラ6:5]ではないだろうか? あなたは他の人々の罪ゆえに審かれはしないし、彼らの信仰ゆえに救われはしないし、彼らの不信仰ゆえに罪に定められもしないであろう。各人は自分のものである血肉において神の法廷に立ち、善であれ悪であれ、その肉体にあってした行為の申し開きをしなくてはならない[IIコリ5:10]。最後の審判の日にあなたがこう云うとしても、それはほとんど何の役にも立たないであろう。「おゝ、主よ。私は隣人たちを見ていました。おゝ、主よ。私は村の連中のあらを探していました。私は彼らの愚かさを矯正していました」。しかし、主はこう仰せになる。「わたしが、いつお前を彼らの裁判官や調停者に任命したというのか? 何と、もしお前にそれだけ余分な時間があったとしたら、また、それだけ大きな批判的識別力を有していたとしたら、お前はそれを自分自身について発揮したか? なぜお前は自分を吟味して、神の日のために備えのできた、受け入れられる者と見いだされるようにしなかったのか?」 こうした人々が競走に勝つ見込みはほとんどない。なぜなら、彼らは他の人々を蹴りつけているからである。

 さらに、この競走に勝てないであろう別の種別の人々がいる。すなわち、非常に見事な走り出しを行なったように見えるが、じきに道草を食う人々である。彼らは、最初は脱兎のように前方に突進し、他のあらゆる人々を大きく引き離す。そのときの彼らは、踵に翼がついてでもいるかのように疾走する。だが、その競走がもう少し続くと、困難が生じてくる。鞭や拍車を使わないと、全く進まなくなり、ほとんど立ち止まっているも同然となる。悲しいかな! こうした人種は私たちの諸教会のすべてで発見することができる。前に進み出て、キリスト教信仰を告白する青年たちがある。それで彼らと話をすると、彼らには何も問題がないと思われるし、しばらくの間、彼らはよく走っていると思われる。彼らに欠けたものは何もない。私たちは、他の人々を見習わせる鑑として彼らを取り上げることもできた。だが何年かすると、彼らは次第に脱落して行く。ことによると、最初は平日の集会出席がないがしろにされるようになるかもしれない。それから、平日集会には全く出席しなくなる。それから、安息日の集会の1つへの出席が取りやめになる。それから、ことによると家庭礼拝がなくなるかもしれない。そして、個人的な祈りがなくなる。――次から次へとやめられて行き、とうとう最後には、かつてあれほど真っ直ぐに立ち、あれほど美しく見えた建築物のすべてが、砂上に建てられていたがために、時の衝撃の前に崩壊し、がらがら倒壊し、すさまじい廃墟となってしまう。思い起こすがいい。競走に勝つ秘訣は、走り始めることではない。道のすべてを走り通すことである。救われたいと願う者は、最後まで持ちこたえなくてはならない。「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」[マタ10:22]。最後に達する前に立ち止まって道草を食えば、およそ起こりうる中でも最悪の間違いの1つを犯すことになる。進め、進め、進め! 生きている限り、進み続けよ。進み続け、進み続けよ! というのも、墓に行き着くまでは、あなたは休み場に至っていないからである。墓場に達するまでは、「休め!」、と叫んで良い場所に来ていないのである。勝ちたければ、常に進み続けよ。負けて満足するとしたら、もし自分の魂を失いたいというのであれば、「止まれ」、と云っても良い。そうしたければそうするがいい。だが、もしあなたが永久に救われたければ、進むがいい。進むがいい。賞を受けるその時まで。

 しかし、さらに別の種別の人々は、こうした人々よりも悪い。彼らも出だしは良く、最初は非常に速く走るが、最後には杭も柵も飛び越えて、完全に走路の外に走り出てしまう。そして、どこへ行ったか分からなくなる。こうした人々は、しばしば現われる。彼らは私たちの中から出て行くが、それはもともと私たちの仲間ではなかったためである。もし私たちの仲間であったのなら、私たちと一緒にとどまっていたであろう[Iヨハ2:19]。私は、安息日に私たちの集会に集まる人々の中で、ひとりの人をほとんど指させるであろう。走り出すのを私自身が見守っていた人である。私は彼が実によく走るのを見ていた。彼がその喜びを常に保っていられるように思われた様子は、見るも羨ましいほどであった。その信仰は、常に弾むようで、歓喜に満ちていた。悲しいかな! 彼が急速に賞へと進みつつあると私たちが思っていたときに、何らかの誘惑が彼の通り道を横切った。すると彼はわきへそらされてしまった。彼ははるか彼方へと荒野をよじ登って行き、正しい道を棄ててしまう。すると人々は云う。「あはは! あはは! われわれの望みどおりだ。われわれの望みどおりだ」*[詩35:25]。そして彼らは笑い、彼のことで大喜びする。なぜなら、いったんイエス・キリストの御名を呼んだ後で逆戻りした者の末路は初めよりもさらに悪くなるからである。神が走り出させてくださった者は決してこのようなことはしない。彼らはキリスト・イエスにあって保たれているからである。

 かの《契約》の大巻物に、あらゆる永遠の前から「記入されて」いた者たちは、善なる御霊の助けによって持ちこたえる。彼らのうちに良い働きを始められた方は、最後に至るまでをそれをなし続けてくださる[ピリ1:6]。しかし、悲しいかな! 多くの人々は独力で、また自力で走っている。そして、彼らは蝸牛のようである。這っていくにつれて、そのいのちを自らの通り道に痕跡として残していく。そして彼らは溶け去る。その性質は腐敗していく。彼らは滅びる。そして、彼らは今どこにいるだろうか? 教会にはおらず、あらゆる望みにとって失われている。彼らは、自分の吐いた物に戻る犬や、身を洗ってまた泥の中にころがる豚のようである[IIペテ2:22]。「その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」[マタ12:45]。

 私はいま、他の種別の人々について言及しようとは思わない。私はあなたの前にこの競走の規則を提示してきた。もしあなたが望むなら、もしあなたが「賞を受けられるように走り」たければ、あなたはまず第一に、良い出だしを切るように心がけなくてはならない。あなたは走路を保たなくてはならない。ぴったりと離れずに保たなくてはならない。途中で立ち止まったり、横にそれたりしてはならない。むしろ、《天来の》恵みに促されて、常に前へと疾走しなくてはならない。「強き射手(いて)持つ 弓より放たる矢にぞ似て」。そして、この行進が終わるまで決して休んではならない。そうすれば、あなたはあなたの神の家における柱とされ、もはや二度と出て行くことはない。

 III. しかし今、私はあなたに、いくつかの理由をあげて、《この天的な競走を前進させることを促す》ことにしたいと思う。――あなたがたの中の、すでに走り始めている人たち。

 私の理由の1つはこうである。――「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」[ヘブ12:1]。向こう側の荒地で、賞を得ようとして血気に逸る競走馬たちが平原を疾駆するとき、その荒地全体は、馬たちを熱心に見ようとする、おびただしい数の人で埋まる。そして疑いもなく、馬たちを励まして走らせようとする彼らの歓声と、目を注ぐ何千もの目には、馬たちに全力を尽くさせ、彼らをぐんぐん前へ進ませがちなものに違いない。使徒が暗示している競技についても同じであった。そこで人々は一段と高くされた壇の上に座り、競走者たちは彼らの前で走り、彼らは走者たちに向かって叫んだ。また走者たちの友人たちは彼らに進めと促し、その親切な声は彼らを常に前へ進むよう命じていた。さて、キリスト者である兄弟たち。どれほど多くの証人たちがあなたを見下ろしているだろうか? 見下ろす! 私はそう云っただろうか? まさにその通りである。天の胸壁からは御使いたちがあなたを見下ろし、きょうあなたに向かって甘やかな、銀鈴を振るような声で叫んでいると思われる。「失望せずにいれば、刈り取ることになりますよ[ガラ6:9]。キリストのわざと信仰を堅く守り続ければ、報われることになりますよ」、と。また、聖徒たちもあなたを見下ろしている。――アブラハム、イサク、ヤコブ、殉教者たちや信仰告白者たち、また、すでに天に上ったあなた自身の敬虔な親族たちがあなたを見下ろしている。そして、もしこう云ってよければ、時としてあなたは、誘惑に抵抗し、敵に打ち勝ったとき、彼らの拍手喝采を聞けることがあると思う。そして、あなたが走路でのろのろ歩きになるときには、彼らの緊迫感を見てとり、彼らの友好的な警告を聞けることがある。彼らはあなたに命じている。腰に帯を締め、あらゆる重荷を捨てて、なおも速度を増すように、また、息継ぎのために決して休まず、永遠に休むことのできる天国の、花で飾られた寝床に達するまで一瞬の安逸も決してむさぼらないようにと。そして思い起こすがいい。こうしたものだけが、あなたを見つめている目ではない。全世界がキリスト者を見つめている。キリスト者は、目のある者すべてから観察されている。キリスト者の中にある、あらゆる誤りは見られている。世俗的な人は一千もの誤りを犯しても、誰も彼に注目しない。だが、キリスト者がそうすると、たちまちその誤りはこの広大な世界中で喧伝されるであろう。至る所で人々はキリスト者たちを眺めている。そして、彼らがそうするのはきわめて正しい。私の覚えているひとりの青年は、とあるキリスト教会の一員だったが、きわめて下劣な性格の酒場の娯楽場に足を向けた。すると、彼が階段を上り始めるや否や、そこにいた人々のひとりが云った。「あゝ! ここにメソジストがやって来たぜ。1つ説教してやろうじゃねえか」。彼らは、彼を部屋に入らせるや否や、まず最初に彼をあちこちへ引きずり回してその場の全員に、自分たちの間にやって来たメソジストの姿を見せ、それから彼らは彼を階段から蹴り落とした。私は、彼らがそうしたことについて、敬意のこもった賛辞を呈した。というのも、彼はそうされて当然だからである。そして私は、後で彼が別の意味でも階段から蹴り落とされるように取り計らった。彼が教会から蹴り出されるようにしたのである。この世は彼を受け入れようとせず、教会も彼を受け入れようとはしない。ならば、この世はあなたを見つめているのである。それは決して、あなたのキリスト教信仰をあなたにねじこむ機会を見逃しはしない。もしあなたが一点の曇りもなく道徳的ではないとしたら、また、もしあなたがあらゆる点で水準に達していないとしたら、それは世間の噂になるであろう。この世が一度でも眠ることがあると思ってはならない。私たちは、「教会のように熟睡している」とは云うし、それは非常に云い得て妙な格言である。だが、「この世のように熟睡している」とは云えない。というのも、世は決して眠らないからである。それは常にその目を開けている。私たちのやることなすことを常に眺めている。この世の目はあなたに注がれている。「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」。「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」[ヘブ12:1]。そして、さらに暗く、いやまして悪意のこもった目も私たちを睨みつけている。この大気に住んでいる霊たちがいる。日々私たちが歩を止めるのを待ち受けている、空中の権威を持つ支配者[エペ2:2]の配下の霊たちである。

   「われらが眠る時も、目覚めている時も、
    幾百万もの霊的被造物らはこの地上を歩き回っている」[『失楽園』4.677]

そして、悲しいかな! この霊的被造物らは、すべてが善良ではない。そこには、まだ暗闇の穴[IIペテ2:4]の中に閉じ込められておらず、ほえたける獅子のように[Iペテ5:8]食い尽くすべきものを捜し求めている者らがいる。彼らは、この世を歩き回ることを神から許されており、常に喜んで私たちを誘惑しようとしている。そして、彼らの頂点にはかの敵、サタンと呼ばれる者がいる。あなたは彼の仕事を知っているであろう。彼は神の御座に近づくことができ、それをこの上もなく恐ろしいしかたで利用している。というのも、彼は日夜その御座の前で私たちを告発しているからである[黙12:10]。この兄弟たちの告発者は、まだ投げ落とされていない。――それは《人の子》の喇叭が鳴り響く、かの大いなる日に起こることである。むしろ、イエスが私たちの《弁護者》として御座の前に立っておられるように、古のサタンはまず私たちを見守り、私たちを誘惑しては、私たちの告発者として神の法廷に立つのである。おゝ、私の愛する兄弟姉妹。もしあなたがこの競走に出場しているとしたら、また、それを開始しているとしたら、こうした多くの目によって前へ進めさせられるがいい。

   「雲にも似ゆる 証人(あかしびと)
    汝れを囲みて 目を注ぎたり。
    すでに踏み来し あゆみ忘れて、
    ひたすら前へ 汝が道すすめ」。

さて今、さらに緊要に考えるべきことがある。思い起こすがいい。あなたの競走は勝つか負けるかである。――死かいのちか、地獄か天国か、永遠の悲惨か永遠の喜びかである。いかなる賭け金のためにあなたは走っていることであろう。もしこう云い表わして良ければ、あなたは自分のいのちをかけて走っているのである。そして、それでも誰かが走らないとしたら、何物をもってしても無理である。人を向こうの丘の上に立たせて、もうひとりに抜き身の剣を持たせてその人の後ろに立たせ、その人のいのちを狙わせるがいい。もしその人に走る力があるとしたら、すぐにあなたはその人が走るのを見るであろう。私たちがその人に向かって、「走れ、おい、走れ!」、と叫び立てる必要など全くないであろう。というのも、その人は自分のいのちが危険にさらされていると全く確信しており、全速力で疾走するからである。――その血管が鞭縄のように額で膨れ上がり、熱い汗が体中の毛穴から流れ出すまで疾駆する。――そして、それでも前へ向かって逃走する。さて、その人が後ろを振り返ると、血の復讐者が彼を追いかけて疾走しているのを見る。その人は立ち止まらない。大地を蹴り立てて、安全になれる逃れの町に着くまで逃走する。あゝ! もし私たちに見る目があるならば、また、もし誰がはるか彼方で私たちを追いかけているかを知っていたとしたら、いかに私たちは走ることであろう! というのも、見よ! おゝ、人よ。地獄があなたの後ろにあり、罪があなたを追いかけ、悪があなたに追いつこうとしているのである。《逃れの町》はその門扉を大きく開いている。私は切に願う。確信をもってこう云えるようになるまで休んではならない。「私はこの安息に入った。今や安全だ。私は知っている。私を贖う方が生きておられることを」。そして、そのときでさえ休んではならない。というのも、ここは安息の場所ではないからである。あなたの六日間の働きがなし終えられるまで、また、あなたの天的な《安息日》が始まるまで休んではならない。現世を、信仰が絶えず労苦する、あなたの六日間とするがいい。あなたの《主人》の戒めに従うがいい。「この安息にはいるよう力を尽くして努めよ」*[ヘブ4:11]。信仰が欠けているため入れない者が多いことに鑑みてそうするがいい。もし、それが人に全速力で進ませないとしたら、何がそうできるだろうか?

 しかし、さらにもう1つのことを描き出させてほしい。それが、あなたを助けて先へ進ませるように! キリスト者よ。先へと走るがいい。というのも、決勝点にどなたが立っておられるか思い出すがいい。あなたは常にイエスから目を離さずに先へと走るべきである[ヘブ12:2]。ならば、イエスは最終地点におられるに違いない。私たちは決して後を振り返らず、常に前をめがけているべきである。なぜなら、イエスがそこにおられるに違いないからである。あなたは道草を食っているだろうか? 御傷を開いているこの方を見るがいい。あなたは走路から離れようとしているだろうか? 血を流す御手をしたこの方を見るがいい。それによってあなたは、いやでも自分自身をこの方にささげさせられないだろうか? それによってあなたは、全速力で自分の走路をひた走り、冠を得るまで決して道草を食わないように仕向けられないだろうか? あなたの死につつある《主人》はきょう、あなたに向かってこう叫んでおられる。「わたしの苦悶と血の汗にかけて、わたしの十字架と受難にかけて、進むがいい! あなたのためにささげたわたしのいのちにかけて、あなたに代わって私が忍んだ死にかけて、進むがいい!」 そして、見よ! 主が差し出しておられる御手には、多くの星々をちりばめた冠が載っている。そして主は云われる。「この冠にかけて、進むがいい!」 私は切に願う。私の愛する方々。進むがいい。前進するがいい。というのも、「私は、しぼむことのないいのちの栄冠が私のために用意されているのを知っているからです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」*[IIテモ4:8; Iペテ5:4]。

 このように私は、ありとあらゆる人格の人々に語りかけてきた。あなたは、この午後、最も自分に良くあてはまるものを家へ持ち帰ってほしい。あなたがたの中にいる、キリスト教信仰を全く告白していない人たち、神なく、キリストから離れて生活している人たち、イスラエルの国から除外されている人たち[エペ2:12]、――愛情をこめてあなたに思い起こさせてほしい。来たるべきその日には、あなたはキリスト教信仰を必要とするであろう。人生のなめらかな海面の上を、滑るように航海するのは、今は素晴らしいことである。だが、ヨルダン川の荒れた波浪によって、あなたは《救い主》を欲するようになるであろう。希望を持たずに死ぬのは辛いことである。あの最後の跳躍を暗闇に向かって行なうのは、実際恐ろしいことである。私は、ある老人が大声で死にたくないと云った後で死ぬのを見たことがある。彼は死の瀬戸際に立っており、こう云っていた。「何もかも暗い、暗い、暗い! おゝ、神よ。わしには死ねません」。そして、かの破壊者の手が崖っぷちの彼を押したかに思われたときの彼の苦悶はすさまじいものであった。彼は断崖の上で震えながら愚図ついていた、そして身を乗り出すことを恐れていた。そして、その足が滑った瞬間は恐ろしいものであった。それは堅固な大地から離れ、その魂は永遠の御怒りという深淵へと没入していったのである。そのときには、あなたは《救い主》を欲するであろう。あなたの脈が微かで、途切れがちになるときには、あなたの枕頭に立つ御使いを欲するであろう。また、霊が離れ去るときには、死の密雲を越えてあなたの水先案内となり、あなたにかの鉄門をくぐらせて、死後の国にあるほむべき館へと導く聖なる護衛隊を必要とするであろう。おゝ、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い』」[イザ55:6-9]。おゝ、主よ。私たちを帰らせてください。そうすれば、帰ります[エレ31:18]。私たちを引き寄せてください。あなたの後から急いでまいります[雅1:4]。そして、栄光はあなたのものです。私たちの競走の冠はあなたの足元に投げ出され、あなたは栄光を代々とこしえにお受けになるからです。

  
 

天的な競走[了]

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