摂理
NO. 187
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---- 1858年4月11日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」。――マタ10:30
先週の間、私の思いは、《摂理》という主題に大いに向けられていた。ある日の物語を少しばかり述べれば、それも不思議はないとあなたも思うであろう。先の水曜日、私はハリファックスで説教をする約束になっていたが、同地ではすさまじい吹雪が吹き荒れていた。八千人の会衆を収容する準備がなされ、木造の巨大な建造物が建てられてはいたが、この厳しい天候では、ほとんどの人は集まることができまいと私は考え、だだっ広い場所で、一握りの僅かな人々を相手に話をするという、ぞっとしない務めを予想していた。しかしながら、私が到着したとき見いだしたのは、五千人から八千人の人々がみことばを聞くため集まっている姿であった。また、これほど頑丈そうに見える場所を私は今まで見たことがなかった。それは確かに巨大で不格好な建物だったが、それにもかかわらず、目的には十分かなうように思われた。私たちは午後に集会を持っては神を礼拝し、晩にも再び集会を持って、それから別れて家に帰った。というよりも、別れて家に帰ろうとしかけた。そして、その間ずっといつくしみ深い神の摂理は私たちを見守っていたのである。私の真前には巨大な桟敷席があり、それはきわめてがっしりとした作りに見え、二千人は座れそうだった。これは、午後の集会にはびっしりと人で埋め尽くされたが、岩のように堅固に立っているものと思われた。また、晩にもそれはちゃんと立っており、小揺るぎもせずにどっしりとしていた。しかし、見よ、神の用心深い御手を。その晩、人々が家へ帰ろうとしていたとき、また、そこに百人少々の人々がいたときに、一本の巨大な梁が折れ、すさまじい音ともに桟敷席の床の一部が抜けたのである。板材とともに何人かの人々が真っ逆様に落とされたが、それでも神のいつくしみ深い御手は私たちを見守っていた。重傷を負った者はたったふたりしかおらず、それも足が折れただけで、下肢切断の必要もなしに継ぎ合わされるであろうと思われた。さて、もしこれがもう少し早く起こったとしたら、単にずっと多くの人々が負傷しただけでなく、人間的に云えば千対一の公算で、恐慌を引き起こしたに違いない。私たちが今も覚えており、かつ嘆いている、まさにこの場所で起こったものと似たような恐慌である。もしもそのようなことが起こったとしたら、また、もしも私がそうした折の不運な説教者だったとしたら、私は二度と講壇に立つことはできなかったに違いない気がする。あの最初の災厄の途方もない影響を思うと、私がそれを生き延びたことが不思議なほどである。いかなる人間の舌も、あのときの私の経験を告げることは到底できない。だが、桟敷席にいた人々の少なさのために、そうした破局が起こることは妨げられ、最悪の事故も避けられた。しかし、それよりさらに驚異的な摂理をなおも記さなくてはならない。すなわち、降り積もった膨大な雪の重みと、吹きつける強風のために、その建物から人っ子ひとりいなくなってから三時間後に、この建物全体は轟音を立てて崩落し、巨大な木材が粉微塵になり、そのあらかたが今後いかなる木造建築に役立たずなしろものに成り果ててしまったのである。さて、よく注意してほしい。――もしも降雪があと三時間早く始まっていたとしたら、この建物は私たちの上に落ちかかったに違いなく、いかに僅かな者しか難を逃れえなかったか私たちには見当もつかない。しかし、もう1つのことにも注意してほしい。その雪は急速に溶け続け、一日を通じて、その積雪は白雪ではなく、雪と水の混じったもののように思われた。これは私たちの上の屋根から漏れ落ちて来て、私たちにとって非常に煩わしいものと思われた。そして、私は、ほとんどそれに不平を云いそうになった。私たちは神の摂理から厳しい扱いを受けているようだ、と。しかし、もしそれが融雪でなく氷雪だったとしたら、あなたにも容易に分かるように、その場所は何時間も前に崩れ落ちていたことであろう。そして、あなたの牧師は、その会衆の大半とともに、おそらく今は別の世にいたことであろう。ある人々は、摂理を全く否定するかもしれない。だが、あの光景をともに眺めた人々の中に、ひとりでも摂理を否定できる者がいたとは思えない。このことだけは私にも分かる。もし私がそれまで神のご支配と賢明なご配慮という教理を信じていなかったとしても、今この時にはそれらを信じていたに違いない、と。おゝ、私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう[詩34:3]。主は私たちに大きな恵みを与え、私たちを覚えて、いつくしんでくださった。
さて、外の世界をのぞき込むと、神がおられる証拠はふんだんに私たちの眼前に広がっていると思う。それで私たちは、神の存在を否定する人に敬意を表したり、我慢したりすることがほとんどできないのである。私たちの信ずるところ、その人は故意に盲目になっているにすぎない。というのも、被造物のまさに表面には神の御名がくっきりと書かれており、《創造主》の存在を否定しようなどという者に私たちは我慢がならないからである。また、救いの件においても、私たちはみな、自分の救いの中に明確きわまりない主のお取り扱いの目印が見えるため、神を抜きにした救いを教えるような教理を云い立てる者のことは、非難がましい、また、とげとげしい扱いをしがちになる。そして、いま私が物語ったばかりのような摂理について見聞きしながら、神の御手を見てとれないというような人を、今朝の私たちが悪し様に思いがちになるとしても、それはごく当然であろう。摂理における神の御手は、被造物における御手と同じくらい明瞭であると私には思われる。私は、いやしくも人が救われるとしたら神によって救われるしかないと確信しているが、それと同じくらい強い確信をもってこう感じている。すなわち、日常生活において私たち全員に関わる一切の事がらは、私たちの神エホバの御手のしわざであるという明白な痕跡を帯びている、と。もし私たちが本当に神を信じたければ、また、いかなる《無神論》をも遠ざけたければ、神には、創造と恵みと摂理という三王国の王権をささげなくてはならない。しかしながら私たちは、その三番目の王国においてこそ、最も神を忘れがちだと思う。私たちは、少しでも心の目が開かけていれば被造物の中に神を容易に見てとるであろう。また、救われているとしたら、救いは主だけのものであるという告白を避けることはできないであろう。私たちの救われ方そのものが、また、私たちの心における恵みの影響が、常に私たちに神は正しいと感じさせずにはおかない。しかし、摂理はあまりにもまだら模様をしており、あなたや私はあまりにも神を見損ない、私たちに対するお取り扱いについて性急な結論を出しすぎるために、ことによると、これこそ、私たちが生来いだいている《無神論》の最大の要塞かもしれない。――すなわち、種々の外的な事件の取り計らいにおける、私たちへの神のお取り扱いを疑うということである。私は今朝、この問題に深く立ち入ることはできないであろうが、真心を尽くして立ち入ることはできるであろう。不思議を行なうその御力にこれほど間近にあずかった後とあらば、そうである。
この聖句から私は一、二の点を引き出したいと思う。まず第一にこの聖句は、「私たちの頭の毛さえも、みな数えられている」*と云う。ここから私が推論したいのは、摂理のきめ細かさである。さらに、信仰者たちについてその頭の毛がみな数えられていると云われている以上、私はこう推論したい。神はキリスト者たちの上に、いつくしみ深い思いやりと、寛大な心遣いを及ぼしておられる、と。その後でこの聖句から、また、私たちの《救い主》がこのことばを口にされた理由から私が引き出したいのは、自分の頭の毛がみな数えられているというこの真理を信ずる者が、いかなる精神と気性をしているべきかという実際的な結論である。
I. まず第一に、本日の聖句が非常に明確に私たちに教えているのは、《摂理のきめ細かさ》である。大きな事がらの中には、誰でも摂理を見てとることができる。アルプスの頂から雪崩が落ちてくるとき、そこに御手が、神の恐ろしい御手があることを否定するような人はめったにいない。旋風や嵐の中に神がおられることを感じない人はごくまれである。ほとんどの人は、地震や、暴風や、戦争の荒廃や、疫病による惨禍が神の御手から来ることを認めるであろう。私たちの見いだすところ、大多数の人々は、神が山の神であることは進んで告白しようとするが、神が低地の主でもあられることを忘れている[I列20:28]。神が大群衆を取り扱うことは認めるが、個々人をお取り扱いになることは認めようとしない。大わたつみを取り扱っても、一滴一滴の雫をお取り扱いになることは認めようとしない。しかしながら、ほとんどの人々は忘れているのである。種々の大いなる物事の中には摂理がある、という彼らの信ずる事実は、小さな物事の中にも摂理があるということでしかない。大きな塊が神の御手の中にあるのに、微少な原子は偶然にまかされていると信ずるのは平仄が合わないからである。それは実際、矛盾した信念である。私たちはすべてを偶然と信ずるか、すべてを神から出たものと信ずるか2つに1つである。すべてが定められ、取り計らわれていたのだとするか、一切が荒れ狂う偶然や偶発の旋風にまかされているのだとするか、2つに1つである。しかし私の信ずるところ、私たちは小さな物事の中には神を見ようとしない。それゆえ、今朝は、あなたの注意を小さな物事に引こうと思う。
私は本日の聖句が文字通りの意味であると信ずる。「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」。神の知恵と知識は非常に大きく、神は私たちの頭の毛の数さえ知っておられる。その摂理は、下は夏の突風の中にある微細な埃にまで至り、神は陽光の中の羽虫や、海の魚をも数えておられる。摂理は確かに天空で輝く巨大な天体をもつかさどっている一方で、この目から落ちる涙の粒をも恥じることなく扱っている。
さて、私があなたに注意してほしいのは、日常生活の微々たる事がら1つ1つが、それを総まとめにしてみると、いかに明白にその出所を示しているか、ということである。ある聖書の物語を取り上げて、個々の小さな出来事が、その大きな結果と同じように、いかに神から出たものに違いないかを示してみよう。ヨセフが兄たちによってエジプトに送られ、結局は飢饉の歳月に彼らに食物を供することになったとき、私たちはみなヨセフのこの断言に同意するであろう。「私をここに遣わしたのは神なのです」*[創45:8]。しかし今、この大いなる結果をもたらす手段となった1つ1つの小道に注目するとしたら、私たちはそのいずれにも神を見てとるであろう。ある日、ヨセフの兄たちは羊とともに放牧に出かける。ヤコブは彼らに使いを出したいと思う。なぜ彼はヨセフを遣わすのだろうか? ヨセフは彼のお気に入りの子であり、彼はヨセフをその兄たちの誰よりも愛していた。なぜ彼はヨセフを遠くへ遣わすのだろうか? しかしながら、彼はヨセフを使いにやる。また、そもそもなぜこの特定の時期にヤコブが使いを必要とするような用事が起こったのだろうか? しかしながら、彼は現実に使いを必要とし、彼は現実にヨセフを使いに出した。単なる偶然だとあなたは云うであろう。だが、これは構造物の基部のように全く必要なことであった。ヨセフは行く。その兄たちは牧草地が乏しくなったため、ヨセフが兄たちと会えるものと期待していたシェケムを離れ、ドタンに旅立つ。なぜドタンへ行くのだろうか? 彼らの前には地の全土が広がっていたではないだろうか? しかしながら、ヨセフはそこへ行く。彼がドタンに着いたまさにそのとき、彼らはヨセフとその夢のことを考えており、彼を穴に投げ込む。彼らがパンを食べようとしたとき、数人のイシュマエル人が通りかかる。そもそもなぜ彼らはやって来たのだろうか? よりによってなぜその時にやって来たのだろうか? なぜエジプトに行こうとしていたのだろうか? なぜそれ以外のどこかへ行く途中ではなかったのだろうか? なぜそのイシュマエル人たちは奴隷を買いたがったのだろうか? なぜそれ以外の何らかの物品を商ってはいなかったのだろうか? しかしながら、ヨセフは売られる。だが、エジプトへの途上で処分されはしない。その地まで連れて行かれる。なぜポティファルは彼を買うのだろうか? そもそもなぜポティファルに妻がいたのだろうか? また、なぜポティファルの妻はこれほど情欲に満ちているのだろうか? なぜヨセフは投獄されるのだろうか? いかにしてあの調理官と献酌官が主人を怒らせるようなことをしでかすのだろうか? この世的に云えば、みな、たまたまのことである。だが、それは鎖を作るのに欠かせない1つ1つの環にほかならない。彼らはふたりとも主人を怒らせ、ふたりとも監獄に入れられる。いかにして彼らがふたりとも夢を見るのだろうか? いかにしてヨセフがその夢の解き明かしをするのだろうか? いかにして献酌官はヨセフのことを忘れてしまうのだろうか? 何と、もし彼がヨセフのことを覚えていたとしたら、すべてがだいなしになっていたからである。なぜパロが夢を見るなどということがあるのだろうか? いかにして夢が神の摂理の取り計らいの下にあるなどということがありえようか? しかしながら、パロは現実に夢を見、献酌官はそのときヨセフのことを思い出す。ヨセフは牢から出され、パロの前に連れて来られる。しかし、こうした取るに足らない状況の1つでも取り除き、その鎖の環のどれか1つでも砕いてしまえば、この筋書きのすべてはばらばらに四散してしまう。からくり仕掛けは動かなくなる。歯車の中のごく小さなはめ歯1つでも取り去れば、すべてが混乱してしまう。思うに、この物語だけでなく、あなたの好むいかなる歴史上の物語をも腑分けしてみれば、誰でも明確に見てとるはずである。歴史の一頁となり、庶民が何度も歌で物語るような大きな結果の中と同じく、日常生活の小さな偶発事や行動の中にも、神はおられるに違いない、と。神は小さな事がらの中に見てとられるべきである。
さて私たちがいま摂理のきめ細かさにおいて注目したいのは、いかに摂理が常に時間に正確であるかということである。あなたが摂理について何にもまして不思議に思うのは、神がいかにご自分に対して時間を守られるかを考察するときであろう。先の物語に話を戻せば、――いかにしてあのイシュマエル人たちは、まさにその時に通りかかるのだろうか? 彼らの旅が、それ以前になされる可能性はいかに何千何万もあったことか! 確かにその場所には、その特定の時間に捕まえなくてはならない列車などなかったに違いない。兄たちが定時に出かけて行ってヨセフに呼び寄せるような取り決めは何もなかったに違いない。確かにそのようなものは何もなかった。だがしかし、もしそうした一切の取り決めがなされていたとしても、事はこれほどうまく運びはしなかったであろう。あなたも覚えている通り、ルベンは半時間後にヨセフを穴から引き出そうとしたが、「あの子はいなかった」*[創37:30]。神がこのイシュマエル人たちを待ちかまえさせておられた。あなたには、いかに神が彼らの旅を早めさせたか、あるいは遅らせたか、そして、いかに彼らを正確無比の理想的な瞬間にその場に至らされたかは、見当もつかない。
もう1つの例をあげれば、あのあわれな女がいる。エリシャによって死者の中から息子を生き返らされた女である。しかしながら、彼女は飢饉の時期に自国を離れ、地所を失ってしまった。彼女はそれを取り返したかった。神は彼女がそれを取り戻すようにお決めになった。いかにしてそれはなされるべきだっただろうか? 王がエリシャのしもべゲハジを呼び寄せ、彼は王に話をする。ある折に彼は、死者の中から子どもを生き返らせてもらった女について話をしている。何という不思議! その女当人がやって来る。「王さま。これがその女です」[II列8:5]。彼女は請願をしにやって来る。彼女の願いはかなえられるが、それは、まさにその折に、王の心が彼女に関心を寄せていたからにほかならない。みな、たまたまのことだろうか? ただの偶然でしかないだろうか? そのように愚か者たちは云う、だが聖書を読む人々、また、分別のある人々は云うであろう。このような状況がいくつも重なって起こるにはたまたまのことを越えた何かがある、と。それは、人が時として云うような、単なる偶然ではありえなかった。ここには神がおられたに違いない。神がおられると考えるよりも、おられないと考える方が困難だからである。一部の人々は、神を信ずるには、途方もなく信仰を引き延ばさなくてはならないと云うが、こうした事がらから神を排除するには、それよりも無限に軽率な信じやすさがなくてはならないであろう。しかり。そこには神がおられたのである。
新約聖書の物語の中には、もう1つ私が覚えている例がある。パウロが神殿に入ると、たちまちユダヤ人が殺到してきて彼を殺そうとする。彼らは彼を宮から引きずり出し、宮の門が閉じられる[使21:30]。彼らはまさに彼を殺そうとし、あわれなパウロのいのちは風前の灯火である。もう五分もすればパウロは死んでしまうというそのとき、千人隊長がやって来て、彼を救い出す。いかにしてこの千人隊長はこのことを知ったのだろうか? まず間違いなく、パウロを知っており、パウロを愛していた若い誰かがその群衆の中にいて、急いで通報したのであろう。しかし、なぜ千人隊長は在宅していたのだろうか? いかにしてこの責任者は一刻を争う緊急事態に駆けつけることができたのだろうか? そもそもいかにして彼はそこにやって来たのだろうか? 殺されかかっていたのは、ただのヘブル人にすぎなかった。何の値打ちもない者にすぎなかった。いかして彼はやって来たのだろうか? 彼が来たとき、町通りは人混みで一杯であった。エルサレム中に群衆がいた。いかにして彼は正しい通りにやって来たのだろうか? いかにして彼は、まさに際どい折にやって来たのだろうか? 「みな、たまたまのことだ」、と云うがいい。私はあなたを笑う。これは摂理である。もしこの世の中に、何にもまして物を考える人々にとって平明なことが1つあるとしたら、それは神がこうなさることである。
「定命(かいなき)ものみな くつがえし
われらが卑し 事(こと)つかさどらん」。しかし、よく聞くがいい。この若者の注進も、彼が正確な時間に到着したことも、そして、この司令官が正確な時間にやって来たことも、ただ《天来の》摂理が時間に正確であることを証明したにすぎず、何かを十二時に起こそうとする計画が神にあった場合、たといあなたがそれを十一時に定めたとしても、それは十二時まで起こらないであろうし、神がそれを一時まで遅らそうと意図しておられた場合、あなたがそれを一時より少しでも前に、あるいは後に企てても無駄である。摂理において神が時間に正確であられることは常に確実であり、非常にしばしば明白である。
また、私たちが摂理のきめ細かさを考えさせられるのは、単に時間の分秒においてだけでなく、1つ1つの小さな事が用いられることにおいてでもある。一羽の雀が一帝国の運命を変えたことがある。あなたもマホメットがその追手から逃亡していた際の話を覚えているであろう。彼がある洞窟に入ると、一羽の雀がチュンチュン囀っては、追手が通る頃に飛び去っていった。「おゝ」、と彼らは云った。「マホメットがあそこにいる恐れはないわい。さもなければ、あの鳥はとっくの昔に外に出ていっただろうからな」。それで、この詐欺師のいのちは雀によって救われたのである。ことによると、私たちは、神がレビヤタンの動きを指示しており、それが深い淵を白髪のようにしているとき[ヨブ41:32]には、神がそれを海中で導いていると考えるかもしれない。だが、ぜひ思い起こしてほしいが、一匹の小魚がその小さな池の中で導かれることも、深淵の中における大蛇の動きと同じく、摂理の手の中にあるのである。あなたは秋に鳥たちが寄り集まり、紫の海を越えて渡ろうとしているのを目にする。彼らは、そこここで奇妙に混乱した様子を見せつつ飛んで行く。だが摂理を信じている者は思う。その一羽一羽の翼には、それが飛んで行くべき場所が刻印されており、決してそれぞれが自分勝手な意志にまかせて飛んでいるのではない。それが百万分の一吋たりとも予定された航路からそれることはない、と。それは上空で、また、低空で、――東西南北のいずれかで、――好きな所のいずれかで旋回しているかもしれない。それでも、それはみな神の摂理的な御手に従っているのである。そして、私たちにそれと見てとれなくとも、もしその燕が正確な航路を辿らなかったとしたら、それによって、もう少し大きな何かが影響を受けたかもしれない。そして、また、それよりも少し大きな何かが影響を受け、ついには何か非常に大きなことが、小さな事によって引き起こされることになるかもしれない。幸いなことよ、些細なことの中に神を見てとる人は! それこそ、神を見てとることが最も困難な所であるが、神がそこにおられることを信ずる人は、小さな摂理から摂理の神へと向かうことができるであろう。確信するがいい。海の魚が回遊するとき、彼らには、星々と同じくらい、その指揮官がおり、指導者がいるのである。というのも、星々をその方路上に整列させ、惑星をその行進において導くお方は、蝿の主人であり、蝙蝠を飛べるようにし、小魚を導き、ご自分の被造物のいかに小さなものをも蔑まれないからである。あなたは地球の軌道が予定されていると云う。太陽の輝きの中には神の定めがあると信じている。では、昆虫の這い方にも、土蛍が暗闇で明滅させる光にも、それと同じくらい神の規定があるのである。何事も偶発することはなく、一切のことのうちに神がおられる。万物は、神の中に生き、動き、また存在している[使17:28]。それ以外のしかたで、万物が生きたり、動いたりすることはできない。神がそれを定めておられるからである。
ある人がこう云っているのが聞こえる。「よろしい。先生。あなたは運命論者のように思われますな!」 否。決してそうではない。運命と摂理には決定的な違いがある。運命は盲目だが、摂理には目がある。運命は盲目であり、あることは必ず起こらざるをえない。それは弓から射られた矢であり、前に飛んで行かずにはいられないが、それには何の的もない。摂理はそうではない。摂理は目で満ちている。あらゆることには目当てがあり、かなえられるべき目的がある。すべてのことはともに働いている。益になるべくともに働いている[ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>]。それらがなされるのは、それらがなされなくてはならないからではない。何らかの理由があるからである。あることが存在するのは、単にそうならざるをえないからではない。そうあることが正しいことだからである。神は、恣意的に世界の歴史の運命を定めてはおられない。神は、時という建物の中で歴史というあらゆる通路を区画し、出来事というあらゆる柱を置いたとき、完成された大建造物に目を注いでおられたのである。
やはり私たちが思い起こさなくてはならないもう1つのことがある。それは、ことによると、物事の微少さ以上に私たちを圧倒するかもしれない。摂理のきめ細かさはこの事実のうちにも見てとることができよう。すなわち、人々の思いすら、神の御手の下にあるのである。さて、思いは、私たちが摂理について語るとき、通常は私たちの注意からすり抜けるものである。しかし、場合によっては、一片の思念にいかに大きなことがかかっていることか! しばしば一個の君主のふとした思いつきは、一国に幾多の血なまぐさい戦いを強いることとなってきた。時として、ひとりの善人がいだいた1つの思いが、大群衆を地獄から救い出し、何万もの人々を無事に天国へと連れて行く手段となってきた。あらゆる想像、あらゆるかりそめの考え、あらゆる思いつき、浮かんでは消えて行くこうしたものはみな、疑いもなく神の御手の下にあるに違いない。そして、歴史の頁を繰って、いかに大きなことが、ほんの無駄な一言によって引き起こされてきたかを見てとるとき、あなたはしばしば強い印象を受けることであろう。ならば、嘘ではない。人の意志、人の思い、人の願い、こうした人間のいだくあらゆる意向は、じかに神の御手の下にあるのである。例えば、考えてみるがいい。――イエス・キリストはベツレヘムで生まれることになっているが、その母はナザレで暮らしている。キリストは絶対確実にそこで産まれるはずではなかろうか。否。そうではない。カイザルがふとこう考える。全世界の住民登録をさせよう。そして、人々をみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行かせよう、と。それに何の必然性があっただろうか? カイザルの馬鹿げた考えでしかない! もし彼に議会があったとしたら、彼らは彼の提案を否決したであろう。彼らはこう云ったであろう。「なぜ全住民をそれぞれの町へ行かせて登録させるのです? 現住所で登録させなさい。それで十二分に事足ります」。「いいや」、と彼は云う。「これが余の意志なのだ。カイザルの意向には何人たりとも逆らうことはできぬぞ」。人によってはカイザルを狂っていると思う人もいる。だが、神はカイザルを通して行なおうとしていることをわきまえておられる。マリヤは、身重のからだでベツレヘムまで難儀な旅をしなくてはならない。そして、そこで彼女の子どもは飼い葉桶の中に産み落とされるのである。キリストがベツレヘムで生まれるという預言を成就させ、このメシヤを信ずる私たちの信仰そのものを盤石のものとするためにはカイザルの気まぐれがなくてはならなかったのである。それで、人の意志、専制君主の権力、暴君の独裁制すら、神の御手の中にあり、神はそれをご自分のみこころを成し遂げるためにお望みのままどこへでも向けられのである。
私たちの数々の項目を1つの短い言明にまとめれば、こうなる。すなわち、私たちは御使いたちを飛べるようにするお方が一羽の雀をも導いておられると固く信ずる。私たちの信ずるところ、ご自分の御座の尊厳を天空の光輝のただ中で支えているお方は、それを深い海の深みの中でも保っておられる。私たちの信ずるところ、この世の上にも、下にも、周囲にも、神のご計画とみこころの決定によらないものは何1つない。そして私たちは、運命論者ではないとはいえ、この教理を最も真実に、また固く主張するものである。すなわち神は、起こり来るすべてのことを何であれ聖定しておられ、ご自分の栄光と益のためにこうしたすべてのことを越えて支配しておられる。それで、マルチン・ルターとともに私たちはこう云えるのである。
「いずこにても 主は統べ給い
ものみな御力(ちから)に 仕えなん。
みわざはなべて 祝福(めぐみ)のみにて
主の道はみな さやかな光」。II. 第二の点は、《御民へのご配慮における神のいつくしみ深い思いやり》である。この聖句を読んだとき私は思った。「この世には、私が自分で自分に配慮するよりもすぐれたご配慮があるのだ」、と。あなたがたはみな、ある程度までは自分のことに気を遣っている。だが、あなたがたの中の誰が自分の頭の毛を数えるほど自分に気を遣ったことがあるだろうか? しかし神は私たちの手足を守るだけでなく、頭髪という自然の生長物さえ見守っておられるのである。そして、これは私たちのいかに優しい友人たちの一切の配慮をもいかに凌駕していることであろう! 母親の姿を眺めてみるがいい。いかに気遣いに満ちていることか。わが子がちょっとでも咳をすれば、たちまちそれに気づく。少しでもぐったりすれば、決してそれを目に留めないことはない。その子のあらゆる動きを心配げに眺め、それがちゃんと歩いているか、その手足がみなくっついているか、五体がしかるべき機能を果たしているかを確かめている。だが、彼女がわが子の頭の毛を数えようと思ったことは決してはないし、それが一本や二本なくなっても大して関心は覚えないであろう。しかし、私たちの神は、母がわが子に注ぐ配慮にすらまさる配慮を私たちに注いでおられる。――私たちの頭の毛を数えるほどの配慮である。ならば、神の御手の下にある私たちは何と安全であろう!
しかしながら、この例えを離れて、再び私たちは、神が摂理の道において、その民の上に及ぼしておられる、いつくしみ深い守りの配慮に注目しよう。私がしばしばと胸を突かれるのは、ご自分の民が回心する前に彼らを生かしておかれる神の摂理である。この場にいるどのくらいの人々が、その回心の時が来るまでに何らかの特別な摂理によって生かされていなかったとしたら、今頃地獄にいたことか! これは私が以前も人前で言及したと記憶していることである。また、この部屋にいるほとんど誰もが、回心前に、なかば奇蹟めいた命拾いの話を有していたものである。私の覚えているひとりの紳士は以前は狩猟家であったが、後に卓越したキリスト者になった。彼が私に告げたところ、その回心の少し前に、彼が撃っていた猟銃が4つに破裂し、これ以上ないほどの至近距離の地面に、真四角の形を描いて真っ直ぐに突き立ったという。その破片が一吋ほども地面に突き刺さった中で、彼はかすり傷1つ負わず、無事に立っていて、衝撃すらほとんど感じなかったのである。また私はある日、ハーヴェイの著作集の中で、この主題に関する非常に美しい思想に注目したことがある。彼は云う。「その日一緒に狩猟をしていたふたりの人物は、次の晩一緒に眠った。そのひとりは夢の中で追跡を再開していた。そして、散々に追いかけ回したあげくに、とうとう雄鹿を倒すに至った。これに対して彼は断固たる熱烈さを込めて叫んだ。さあ殺してやるぞ、殺してやるぞ。そして、たちまち、隠しに入れておいた短刀を手探りした。彼の連れはたまたま目覚めて、起こりつつあることを察知すると、寝床から飛びすさった。危険の恐れのない所に立ち、月光が部屋の中を照らし出す中で彼はその出来事を目にした。云い知れようもない驚愕を覚えさせられることに、その無我夢中の狩猟家は、今の今まで自分の友人の喉笛といのちが横になっていた場所をめがけて、致命的な一刺しを何度となく加えたのである。――私がこのことに言及するのは、私たちが、睡眠中の狂気じみた突飛な行為にとらわれて他人の暗殺者になったり、自らの殺人者となったりすることから妨げられる道は、ただ私たちの《天の御父》の妨げのご配慮によるしかないという証拠としてである」。
神の摂理は、キリスト者である人々にとって、何と素晴らしいことか。それは彼らを誘惑から守る。私はしばしばこの事実に注目してきたし、あなたがたもそれを確認できると信ずるものだが、時としてあなたには、もしも誘惑がやって来るとしたら、それによって圧倒されるであろうような場合がある。だが誘惑はやって来ない。また、別の時には、誘惑がやっては来るが、あなたにはそれに抵抗できる超自然的な力がある。しかり! この世における最上のキリスト者といえども、あなたに告げるであろう。彼の情欲の力は今なおあまりにも強く、その対象が目の前に突きつけられたとしたら、確実に転落して薄汚い罪を犯すであろう瞬間があるが、その対象がそこにはないか、その罪を犯す機会がないかするのだ、と。別の時、私たちは誘惑の熱く燃える炉を通り抜けるように召されるが、私たちにはその特定の罪に対する何の欲望もなく、事実、それに対して嫌悪を感ずるか、それを犯すことが不可能でありさえする。不思議なことだが、多くの人々の品性は摂理によって救われてきた。この世に生を受けた中で最上の人といえども、自分が保たれてきたことについて、いかに多くを神の恵みのみならず摂理に負っているかはほとんど知ることはない。
また、摂理はいかに驚異的なしかたで私たち全員の身分を取り決めてきたことか。私は自分の個人的な経歴を思い出さざるをえない。というのも、結局のところ私たちは、他人のことよりも、自分で知っていることの方を事実として語るほかないからである。私は自分がここにきょう立っているという事実を常に、尋常ならざる摂理の実例としてみなさなくてはならない。おそらく私がこの会堂を占有していることも、大群衆に向かって説教することで神から祝福されていることも、それはひとえに、私にとって運の悪い災難と思われたことが起こったためだったのである。本当なら私は今のこの時、ここで説教している代わりに《神学校》で学んでいたはずだが、奇異な状況が起こったためにそうはならなかった。私は《神学校》へ行くことに同意していた。その教官が私の面接をするためにやって来ており、私は彼に会うために双方の友人であった人の家へ出かけた。私は召使いによってその家の中の応接室の1つに通された。彼は別の応接室に通された。彼はそこに座って、私のことを二時間待ち、私も座って二時間待った。彼はそれ以上待つことができず、私のことを失敬な者と考えながら立ち去った。私がそこから立ち去ったとき、この聖句が思い浮かんだ。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」[エレ45:5]。それで私は手紙を書いて、自分がはっきりと入学を断らなくてはならないこと、自分は自分の田舎の信徒たちの間で十分に幸せであり、説教に何の苦労も感じていないこと、それで《神学校》に行きたいとは思わないことを告げた。私は今や四年間働いてきた。しかし、人間的な云い方をすれば、その期間に救われた人々は、この尋常ならざる摂理がなかったとしたら――ともあれ私を媒介としては――救われなかったのである。その摂理があればこそ、私は思いのすべてを転回させ、事を新しい進路に載せたのである。あなたも、それと似た奇妙な事故にしばしば遭ってきたであろう。あなたは、もともと何かをしようと決意していたのに、どうあってもそれを行なうことができなかった。そうすることは全く不可能であった。そして神はあなたを別の道へ別の道へと向かわせ、摂理が実際あらゆる人間的な出来事の主人であると証明されたのである。
また、日々の糧を供するという点で、いかに神は、あなたがたの中のある人々への摂理においていつくしみ深くあられたことか。いかにちょっとした貧乏によって人が摂理を信じるようになるかは尋常ならざるものがある。特に、その人が摂理によって助けられている場合はそうである。もしもある人がその日暮らしをせざるをえず、日々マナが降ってくるとしたら、その人は、では摂理はあるのだ、と考え始める。自分の広大な地所に種を蒔き、その麦を刈り取り、倉に収めている紳士や、定期的に収入を得ている人は、あまりにも順調に暮らしているため、摂理がなくともやって行ける。その人は摂理のことなど全く頓着しない。何軒もある自分の貸し家からの家賃はみな上がり、《三分利付き公債》に投資した金銭は全く安全である。――その人が摂理に何を望むだろうか? しかし、日雇いで働かざるをえず、時には非常に逼迫する貧者、そして、自分の欲するまさにそのものを与えてくれる誰かにたまたま出会う人は叫ぶであろう。「よろしい。私は摂理があると分かった。――私は摂理を信じないではいられない。こうした事がらが偶然にやって来るはずがない」、と。
III. さて今しめくくりとして、兄弟姉妹たち。もしこうした事がらが真実だとしたら――、もしも私たちの頭の毛さえも数えられているとしたら、また、もしも摂理が神の民にこの世で必要なすべてのものと敬虔を供し、無限の、また過つことない知恵によってすべてを取り計らっているとしたら――、私たちはいかなる種類の人間であるべきだろうか?
第一のこととして、私たちは大胆な気質の者となるべきである。私たちに何を恐れることがあろうか? 別の人なら空を見上げて稲妻が閃くの見れば、その神秘的な力に震えるであろう。だが私たちは、稲妻にその予定された通り道があると信じている。私たちは立って、それを静かに眺める。増上慢になり自らを雷の前にさらそうとはしないものの、私たちは嵐の最中にあっても神に信頼する。私たちは外海に出ており、波浪が船に打ちつけ、船が右へ左へ翻弄されている。他の人々は、これがみなたまたまのことだと考えているためおののく。しかしながら、私たちはその波浪の中に秩序を見、風の中に音楽を聞く。私たちは平静で、落ち着いているべきである。他の人々にとっては暴風雨は恐ろしいものである。だが私たちは、その暴風雨が神の御手の中にあると信じている。なぜ震えることがあろうか? なぜ身震いすべきだろうか? 世界がどのように変動しようと、また、いかなる現世的な苦悩や危険の中にあろうと、私たちは穏やかに、また、落ち着き払って立ち、大胆に先を見越しているべきである。摂理を信じていない人とくらべた場合の私たちの信頼は、手術を受けることになった博学な医者が非常に驚くべきものを見てとりはしても決してそれにおののき震えることがない場合と同じようなものであるべきである。逆に、これほど不思議なことを一度も見たことがない無知な農民は、肝を潰して恐れを感じ、悪い霊が働いているのではないかとさえ考えるであろう。私たちはこう云うべきである。――他の人々には好きなことを云わせておくがいい。――「私は神がここにおられると知っている。そして、私は神の子どもであり、このすべては私の益のために働いているのだ。それゆえ、私は恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも[詩46:2]」。
特に私は、臆病な人々に向かって一言述べておきたい。あなたがたの中のある人々は、あらゆる小さなことを怖がっている。おゝ! もしあなたが、神はすべてをつかさどっておられると信じられさえしたら、あなたは夫の不在中にちょっとした雷や稲妻があるからといって、あるいは、居間に鼠がいたからといって、あるいは、庭の大木が大風で倒れていたからといって、叫びはしないであろう。あなたの義兄がオーストラリアに向かって旅立った後で、彼の航海している辺りの海上で嵐が起こったからといって、彼が難破したと考える必要はない。軍隊にいるあなたの息子が、ラクナウ[印度北部のウッタルプラデシュ州の州都]の前面にたまたまたいたからといって、必ずしも彼が殺されたと信ずる必要はない。あるいは、たとい確実にそう思えるとしても、それでも、神の摂理を信ずる者として、あなたはただ立って、神がなされたのだと云うべきである。また、すべてのことを神の御手にゆだねるべきである。
そして私は、あなたがたの中にいる、死別を経験したばかりの人々に対してもこう云えよう。――もしあなたが摂理を信じているとしたら、あなたは悲しんでもかまわないが、悲しみすぎてはならない。私はある友人の葬儀で、1つの麗しいたとえ話を聞いたことを思い出す。以前も語ったことのある話だが、もう一度お話しよう。そこでは愛する者を喪ったために多くの涙が流されていたが、教役者はそれをこのように云い表わした。「かりに、あなたが別の人によって雇われている園丁だったとしよう。それはあなたの庭園ではないが、あなたにその世話が命じられており、それであなたは自分の賃金を得ている。あなたは、何本かの薔薇を特に心を込めて育てている。あなたはそれを栽培し、今やそれらは麗しく花を咲かせている。あなたは、その薔薇のことが得意でたまらない。ところがある朝あなたが庭に出てみると、あの最上の薔薇が取り去られていたのである。あなたは怒る。同輩の召使いの所に行き、あの薔薇を取ったなと責める。だが彼らは自分たちは指一本触れていないと断言する。そして、ひとりの者がこう云う。『私はご主人が今朝ここを歩いているのを見ました。きっと、ご主人がそれを取ったんですよ』。では、その園丁はまだ怒るだろうか? 否。たちまち彼は云う。『それは嬉しいことだ。私の薔薇がご主人様のお目にとまるほど美しかったとは。それはご主人様の薔薇だし、ご主人様がお取りになった。ご主人様はお心のままに自由にして良いのだ』」。
あなたの愛する方々もそれと同じである。彼らは変化によって枯れしなびたのではない。墓は事故によって満たされはしない。人々は神のみこころに従って死ぬ。あなたの子どもはいなくなったが、《主人》がその子をお取りになったのである。あなたの夫はいなくなり、あなたの妻は埋葬される。――《主人》が彼らをお取りになったのである。彼らが地上にいる間、彼らのことを気遣い、彼らの世話をするという喜びを与えてくださったことについて、主に感謝するがいい。そして、主が与えたように、自らお取りになったことについて感謝するがいい。もし他の人々がそうしたのだとしたら、あなたには怒るべき理由もあるであろう。だが、主がそうなさったのである。ならば、あなたに不平が云えるだろうか? あなたはこう云うのではないだろうか?――
「われは絶えせず 汝れをばほめん、
汝れをいだかば すべてを持たん、
いかにてわれは 喪(うしな)いえんや、
われの汝れより 離れざらずば」。そして、こう云うことを許してほしいが、私が思うにこの教理は、もし完全に信じられたとしたら、私たちに常に平静な心持ちを保たせるべきである。私たちが最も欲するものの1つは、自分の平静を常に保っていることにほかならない。時として私たちは意気を高揚させられる。自分が意気揚々としていることに気づくとき、私は次に何が来るか分かっている。ほんの数時間もしないうちに抑鬱させられるのである。もしも秤が高く上がりすぎれば、それは確実にもう一度沈むことになる。最も幸福な精神状態とは、常に平静であるということである。もし良い物事がやって来るとしたら、それゆえに神に感謝するがいい。だが、それらにあなたの望みをかけてはならない。もし良い物事が去るとしたら、神がそれらを自らお取りになったことについて感謝し、なおも神の御名をほめたたえるがいい。すべてを忍ぶがいい。すべてのものが神のみこころに従って起こると感じている人には、自分の魂を支える巨大な大黒柱があるのである。その人は、風が拭くたびにゆらゆら揺れ動く必要はない。というのも、その人は固縛されており、動く必要がないからである。これは海中に投ぜられた錨である。他の船は遠く漂い流されても、その人は落ち着いて乗っていられる。
愛する方々。努めてこのことを信じ、その結果として、絶えざる静謐さと平安を保つようにするがいい。それは人生をきわめて幸いなものとする。明日来るかもしれない悪を恐れていてはならない。それは来ないか、さもなければ、善を携えてやって来るであろう。たといきょう、あなたのもとに悪があろうと、明日の悪を恐れることでそれを増幅してはならない。「労苦はその日その日に、十分あります」[マタ6:34]。おゝ、願わくは、あなたがたの中にいる、心配事と不安に満ちている人々が、摂理を信ずることによってそれらから解放されるように。あなたは、ひとたびこの教理から生ずる心安らかな心持ちに入ったとしたら、キリストとのいや高い交流と交わりを実践する用意ができているのである。そうした交わりにとって、あれやこれやの気遣いで心が落ち着かなくなることは常に、全くの妨げとは云わなくとも、恐ろしく有害なものなのである。
しかし、あなたがた、神を恐れない人たちについて云えば、覚えておくがいい。野の石はあなたに逆らって契りを結んでいる。諸天は地に向かって叫び、地は諸天に向かって答えを返している。あなたのもろもろの罪ゆえに、あなたには復讐が宣言されているのである。あなたのためには、良いものは何1つない。万物はあなたに逆らっている。万物はあなたに敵対している。おゝ! 願わくは神があなたをご自分との平和へと入れてくださるように。そうすれば、あなたは他のすべてとの安息を得るであろう。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」[マタ6:33]。主がこのことにおいてあなたを祝福してくださるように。イエスのゆえに。アーメン。
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--摂理[了]
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