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大信仰復興

NO. 185

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1858年3月28日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」。――イザ52:10


 古の勇士たちが戦闘準備をするときには、その武具をまとった。だが神が戦いに備えるときには、その御腕を露わにされる。人は二方向を見なくてはならない。――敵への攻撃だけでなく、自分自身の防御も心がけなくてはならない。だが神が御目を向けなくてはならないのは、ただ一方向――ご自分の敵の覆滅だけであり、神はいかなる防御の手立ても気にかけず、あらゆる武具を軽蔑なさる。主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。人も、真剣に務めに励もうとする時には、服を脱ぐことがある。例えば、かの古の戦士は、トルコ人と戦いに行くときには、決してその腕をむき出しにしないでは彼らと戦おうとしなかった。「あのような奴ばらに」、と彼は云った。「恐れは無用。我が輩が奴らの偃月刀を恐れるよりは、奴らが我が輩の素手を恐れるが良いわ」。人々が何らかの仕事を行なう準備ができたと感ずるのは、まとわりつく衣服を脱ぎ捨てたときである。それでこの預言者は、そのように主を描き出している。しばらくの間、そのご威光の衣をわきへやり、その御腕をむき出しにすることによって、ご自分のみわざを真剣に行ない、ご自分の教会を打ち立てるというご目的を果たそうとなさるお方の姿である。

 さて、このたとえは非常に壮大なものであるが、それは取り上げずに、私があなたに思い起こさせたいのは、神が偉大な信仰復興をお送りになるときには常に、この言葉がその完全な意味において成就される、ということである。この日、私の心は私のうちで喜んでいる。というのも、私は良い知らせを携えているからである。私の魂は、いま合衆国中で信仰の大復興が起こっているという知らせによって、この上もない幸いに満ちている。ほぼ百年かそこら以上前に主は、かつて知られている中でも最も素晴らしいキリスト教信仰の覚醒の1つを送られた。合衆国の全土が隅から隅まで神のことばを聞きたいという熱情によって揺さぶられたかのように思われた。そして今、一世紀を経た後で、同様のことが再び起こっている。金融界はようやくその窮乏を脱したが、その後に残ったのは多くの大身代の残骸であった。多くの人々は、かつては王侯だったのに今や乞食に成り果ててしまい、米国の人々は英国の人々以上に、もろもろの人間的な営みのはかなさを思い知らされていた。人々の精神は、このように思いもよらぬすさまじい恐慌によって地上に嫌気が差されている場合、さらにすぐれた国からの訪れを容易に受け入れ、自分の奮励努力を天的な方向へ振り向けようとしがちであると思われる。現在の米国の事情に通じた人であれば誰もがこう告げるであろう。そこでは、どこへ行こうと、キリスト教信仰が素晴らしいしかたで躍進しているという途方もないしるしが見られる、と。その大信仰復興――と今では呼ばれているもの――は、市場で商人たちが交わす日常会話となり、あらゆる新聞が取り上げる題材となり、世俗紙でさえそれに言及している。それは、それほど驚愕すべきもの、それほどあらゆる身分と地位の人々に影響を及ぼしているもののように見受けられるのである。見たところ何の原因もなしに、人々の心は恐れにつかまれ、あらゆる胸が興奮で撃ち抜かれているように思われる。また世に聞こえた名士たちの確言するところ、東海岸地方の一部の町々では、どれほど捜し回ってもただのひとりも未回心の人を見つけることができないという。この偉大な帝国内におけるキリスト教信仰の突然の、また瞬時の伝播はまことに素晴らしく――まことに奇蹟的、と云いそうになったが――、それと告げられたとしても、ほとんどその半分も信じられないほどである。さて、あなたも気づいているように、私はこれまで、種々の信仰復興についてはことのほか執拗な疑いをいだくのが常であった。私は、信仰復興運動家と称される人に会うたびに、お話にならない小人物として扱った。私は、自分にそのような肩書をつけるのをいさぎよしとはしないであろう。神がある人を用いて何らかの信仰復興を押し進めてくださるとしたら、それは大層結構なことである。だが、もし誰かが信仰復興運動家というようような肩書と職業を自分のものとし、国中を歩き回って、自分は自分の行く所どこにおいても、キリスト教信仰の復興を伝播すべく任命されたあわれみの器なのだなどと信ずるということは、ほんのひとかけらでも慎みがあれば、いかなる人にも耐えられないほど傲慢な増上慢だと思う。そしてまた、時おりわが国の町々でも、また、時にはこの町ですら、おびただしい数の信仰復興が起こるが、それはまがいもので、無価値であると私は信ずる。聞けば人々は、朝も、昼も、夜も、どこかの著名な信仰復興運動家の話を聞きに群がり、彼の説教の下で、ある者は叫び、ある者は金切り声を上げ、ある者は床に倒れ、ある者は痙攣して転げ回るという。また、その後で彼が悔悟した者たちに一定の形式を定め、ひとりかふたりの「さくら」を集会全体の中から飛び出させて、罪の告白をさせると、数百人もが前に進み出て、その1つの説教によって感銘を受け、自分はその場で自分の誤った生き方と訣別したのだと宣言したという。また先週の私は、わが国のある場所で、こう述べている記録を見たばかりである。曰く、某年某月某日、何某師の説教のもとで、十七名が全く聖化され、二十八名が罪の確信を受け、二十九名が義認の祝福を受けた。そして翌日にはさらに多数の人々がやって来て、その翌日には、いやまして多数の人々がやって来た。そうした後でこの人々は全員合計されて、総計何百人の人々が、三回の集会中に、何某氏の伝道活動によって祝福されたというのである。これらすべては、私に云わせれば茶番である! そこには、何か非常に良いものがあったかもしれない。だが私にとっては、その外側があまりにも腐って見えるため、その内側にある良いものが大した嵩になるとはまず考えられない。人がわざわざ算数で正確な計算をしようとするとき、私には常に、何か間違ったことがされている気がする。ある特定の折に、たくさんの人が教会に加えられたと云うことは簡単かもしれない。だが、罪を確信させられた人、義と認められた人、聖化された人それぞれについて人口調査を行なうのは馬鹿げている。それゆえ、あなたは私が信仰復興について語っていることに驚くであろう。だが、あなたも、私が今から説明しようとしていることを聞けばそれほど驚かないかもしれない。私は、心のうちで熱烈で強烈な願いを感じているのである。米国で始まったばかりの、そして長く同地にとどまるであろう信仰復興と同じようなものを、神がこの国の津々浦々に送ってくださることを。

 私が第一のこととして注目したいのは、あらゆる真の信仰復興の原因である。第二に、そうした信仰復興の結果である。そして第三に、一、二の警告を示して、私たちがこのことで間違いを犯したり、人のわざでしかないものを神のみわざと取り違えたりしないようにしたい。それからしめくくりとして、キリストへの信仰を有するすべての兄弟たちに対して、1つの勧告を行ないたいと思う。わが国の諸教会のただ中に信仰の復興が起こるように労し、祈るようにとの勧告である。

 I. まず第一に、《真の信仰復興の原因》である。ただの世俗的な人には信仰復興が理解できない。その説明がつかない。一体いかにして突発的な敬虔さの発作――と彼が呼ぶだろうもの――が、また、ある種の神聖な流行病が、大量の人々を一斉にとらえてしまうのだろうか? 何がその原因でありえるだろうか? しばしばそれは、あの信仰復興専門の大先生たちが全くいない所で起こる。いかなる特定の手段を大本とすることもできない。それを引き起こすために用いられた特別な手立ては何1つなかった。――いかなる種も仕掛けもなく、いかなる協会も設立されなかったのに、それはやって来て、天的な暴風のように目の前にある一切のものをさらっていった。それは全土に襲いかかり、人々はそれについてこう云った。「風はその思いのままに吹き、私たちはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」*[ヨハ3:8]。ならば、何がその原因だろうか? 私たちの答えはこうである。もしもある信仰復興が真に本物であるとしたら、それは聖霊によって引き起こされているのであり、聖霊だけによって引き起こされているのである、と。ペテロがペンテコステの日に立ち上がって、あの記憶すべき説教を行ない、それによって三千人の人々が回心したとき、あなたは彼の伝道活動の尋常ならざる成功を聖霊のお働き以外の何かに帰することができるだろうか? 私はペテロの講話の草稿を読む。それはごく単純なものでしかない。事実が平易に物語られているだけである。確かに、非常に大胆で、非常に心を刺し、的をついた、身に迫るものであった。というのも彼は、彼らこそ、いのちと栄光の主を死に至らしめた張本人であり、その血の責めを負うべきであることを、恥じることなく彼らに告げたからである。だが、単に字面を読んだだけでは、私の読んだことのある多くの説教の方がペテロの説教よりもはるかに効果的に思われると云いたくなるし、私の信ずるところ、これまで生きていたことのある多くの説教者たちの説教を読むと、それらの方がはるかに目覚ましく、はるかに――少なくとも批評家たちからは――尊重されることであろう。ペテロの説教は、この上もなく単純で、適切で、この上もなく真剣に思われる。だが、こうした事がらは、いずれも、このように異常な成功の原因となるほど、卓越して異様なものではない。

 では、何が理由だろうか? もう一度答えよう。聖霊がある言葉を祝福してひとりの人を回心へと至らせるのだとしたら、お望みになる場合、同じ言葉を祝福して一千人の回心へと至らせることもおできになる。そして、私の確信するところ、キリスト教国の中でも最も卑小な説教者が今朝この講壇に立ち、最も単純な説教を、最も無学な様式で行なうとしても、聖霊は、もしそう望まれるとしたら、その説教を祝福して、この場にいるあらゆる男女と子どもを回心させることがおできになるであろう。というのも、御霊の御腕は短くなく、その御力はせばめられておらず、また、御霊が《全能者》である限り、私たちの務めは、御霊がそのみこころにかなうことなら何であれ行なうことがおできになると信ずることだからである。ある説教が用いられたと聞くとき、その説教そのものがそうした働きを行なったのだと想像してはならない。ある特定の説教者が魂の回心において大いに祝福されたからといって、その説教者のうちに何かがあると思ってはならない。いかなる説教者であれ、決してそうした誉れを横領して自分のものと主張してはならない。他のどんな説教者であれ、同じしかたで祝福されたなら、同じくらい用いられるであろうし、他のどんな説教も、それが真実で真剣なものである限り、大群衆がキリストへと導かれる契機となったために注目された、いかなる特定の説教とも同じくらい祝されるものとなりえるであろう。神の御霊は、そう望みさえすれば、人の子らへと吹きつけられる。御霊は人々がかたくなで無頓着であるのを見いだし、彼らの思いに1つの願いを投げ入れられる。――彼らの霊の中にそれを蒔き散らされる。――主の家へと向かう思いを。すると、なぜかは知らず、たちまち彼らは群れをなしてみことばが宣べ伝えられるのを聞きに押し寄せてくる。御霊は、説教者の思いの中に種を――同じ種を――投げ入れる。すると彼は、いかにしてかは分からないが、以前よりも熱心になったのを感じる。彼が自分の講壇に立つとき、彼は厳粛ないけにえへと赴くようにそこに赴き、そこで彼は、大いなることが自分の伝道活動によって生ずるであろうと信じながら説教する。祈りの時がやって来る。キリスト者たちが大挙してやって来るのが見いだされる。彼らには、何が自分たちに影響を及ぼしているのか分からないが、主の家に来て祈らなくてはならないと感じる。そこでは熱心な祈りがささげられ、そこでは熱心な説教が語られ、そこには熱心な聞き手がいる。そのとき、《全能者》なる神はかたくなな心を柔らかくし、強情な心を屈伏させ、彼らを真理の知識へと導かれる。唯一の真実の原因は、人々の思いの中で働く神の御霊である。

 しかし、これは唯一の現実の原因でありはするが、それでも、媒介的な原因がいくつかある。そして、ある大信仰復興の主たる媒介的原因は、イエスにある真理を大胆かつ忠実かつ恐れなく説教することに違いない。何と、兄弟たち。私たちにはしばしば改革が必要である。1つの改革では決して教会の役に立たない。教会は絶えず活を入れられ、新たに始動させられる必要がある。というのも、教会の働きは徐々に止まり、教会は以前していたようには動かなくなるからである。ルターが明るみに出した大胆で露骨な諸教理は、少しずつ修正され始め、ついには層また層が堆積して行き、最後には古の岩のごとき真理が覆い隠され、表面にある底土から、瑞々しい花々が咲き乱れるように過誤が生じて来た。それは、美しく、麗しく見えるが、真理が腐敗した成れの果てという以外に、いかなる意味においても真理とは関わりがないものであった。そのとき、再び大胆な人々がやって来ては真理を表に出して、こう云った。「この屑を取り払ってしまえ。この詐欺的な美しさには枯れ病が降りかかるがいい。こんなものは要らない。昔からの真理をもう一度明るみに出そう!」 そして、それが表に出て来た。しかし教会にはひっきりなしに自らのありのままの単純さを覆い隠す傾向がある。そして、何の飾りもつけない真理が、神から与えられた栄光の中に立っているときにまして美しいことはないことを忘れてしまう。それで今この時に必要なのは、昔からの諸真理がその場所に回復されることである。説教者の精妙さや洗練ぶりはわきへ置かれなくてはならない。学者先生たちや、一体系として神学を研究していながら、自らの心の中でその力を感じてはいない人々の博学な専門的事項の類は放棄しなくてはならない。そして、古き良き真理がもう一度、祭壇の上から取った燃えさかる炭[イザ6:6]で唇に触れられた人々によって宣べ伝えられるとき、このことは、御霊の御手の中にあって媒介となり、大いなる、徹底した信仰の復興をこの国にもたらすこととなるであろう。

 しかし、これに加えて、教会の熱心な祈りがなくてはならない。いかに疲れを知らない伝道活動といえども、教会が、そのあふれる涙によって、蒔かれた種に水をやらなくてはことごとく無駄である。あらゆる信仰復興は、大量の祈りによって開始され、伴われる。今この瞬間における紐育市では、一日のうちの一時間たりともキリスト者たちが集まって祈っていない時はないと私は信ずる。ある教会では、その扉を五時から六時まで祈りのために開いている。別の教会は六時から七時まで開いており、祈る人々を招いては、願いのささげ物をささげさせている。六時が過ぎると、人々は自分たちの仕事へと出て行く。また別の種別の人々にとっては、それからの時が都合の良い時間かもしれない。八時か九時に勤めに出る人々である。――それで七時から八時の間に別の祈祷会が持たれる。八時から九時の間には別の祈祷会が、町の別の場所で持たれ、最も驚くべきことには、正午の十二時から一時の間に、紐育市の真中にある、とある大きな部屋で祈祷会が開かれているのである。それは毎日、人で満杯になっており、何百人もの人々がその外に立っている。この祈祷会を成しているのは、この町の商人たちである。彼らは十五分なりとも時間を割いて立ち寄っては、一言祈って、また出て行く。すると別の一団が中に入っては隙間をふさぐので、その祈りのための1つの場所には何百人もの人々が指定された時間に集まっていると思われる。これが信仰復興の起こるわけである。もしこのことがロンドンでなされるとしたら、――もし私たちが今度限りは、あの、昼夜を問わずその聖所に修道僧たちを詰めさせている古きローマ教会にまさるとしたら、――もし私たちがともに祈りという一本の黄金の鎖を繋ぎ合わせ、願いにおいてともに集まる聖なる兄弟たちという環に環を継ぐことができるとしたら、そのときには、私たちの神なる主からの《天来の》御霊のあふれるばかりの注ぎ出しを期待して良いであろう。現実にお働きになるお方としての聖霊――媒介としての、説教されたみことばと、人々の祈り――そして、このようにして私たちはキリスト教信仰の真の復興の原因を説明したことになる。

 II. しかし今、《信仰が復興した結果》はいかなることになるだろうか? 何と、その結果とは、私たちの心で教会の益のために願うことのできるすべてのことである。キリスト教信仰の復興がある国の中にやって来るとき、教役者は暖められ始める。聞けば米国では、いかに眠たげな説教者も目覚め出しているという。彼らは、一般の火によって自らを暖めており、草稿なしには説教できなかった人々、草稿があってもまるで効果的に説教できなかった人々が、腹蔵なく語り、全力を傾けて人々に対して語ろうという気になっている。信仰復興がやって来るとき、教役者は突如として講壇上の通則や慣例が、あまり時代に適したものではないことに気がつく。彼は1つの垣根を破って出て行く。すると自分が滑稽な立場にあることに気づき、もう1つの垣根を破らなくてはならない。彼は自分がことによると、日曜の朝に、神学博士でありながら、現実に逸話を語っていることに気づく。――例話や物のたとえを現実に用いることによって講壇の威厳を引き下げていることに気づく。――時には、はからずも自分の信徒たちを微笑ませたり、こうした謹厳な神学者たちにおいてはやはり大罪であるところの涙を、折に触れこぼすことがあるかもしれない。彼には、正確にいかにしてかは分からないが、人々は彼の言葉に耳を傾ける。「私は彼らのために何か良い物を示さなくてはならない」、と彼は云う。彼は、古い説教の山を焼いてしまう。あるいは、寝床の下に押し込んで、何か新しい説教を得る。あるいは、何の説教も得ないが、単にその日の聖句だけを得て、こう叫び始める。「兄弟たち。主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」。老執事たちは云う。「私たちの教役者はどうなってしまったのだろう?」 何年もの間、彼の話を聞いてきた老婦人たち、また、桟敷席の真前で決まって眠りこけていた老婦人たちは、目を覚まし出して、こう云う。「あの方は一体どうしてしまったのかしら? こんなことがあるかしら? 何てことでしょう、あの方は火がついたみたいに説教しているわ。あの方の目からは涙が流れているわ。あの方の魂は、魂に対する愛で満ちているわ」。人々にはその説明がつかない。彼らはしばしば彼が退屈で、さえなくて、眠気を催すと云ってきた。いかにしてこれらすべてが変わるのだろうか? 何と、信仰復興である。信仰復興がその教役者に触れたのである。明るく輝く太陽が、山頂の雪の何がしかを溶かしてしまい、それが土地を肥やす川となって流れ下り、谷間を祝福しているのである。そして、下界の人々は、この神の人の奉仕によって清新にされている。この人は、自らも自分の眠りから覚醒され、もうひとりのエリヤのように四十日間の労苦のために強くされたことに気づかされているのである。よろしい。それから、その直後から、信仰復興は一般の人々にも触れ始める。会衆は、かつては出席者数よりも、その空席の方が目立っていた。しかし突然、――教役者には理解できないことだが――彼は人々が自分の話を聞きにやって来ることに気づく。彼は一度も人気を博したことがなく、人気を博す希望もいだいていなかった。だが突然彼は、ある日目覚めると、自分が有名になっていることに気づく。――つまり、大会衆によってできる限りにおいて、である。そこには人々がおり、いかに彼らが耳を傾けることか! 彼らはみな目覚めている。みな真剣である。身を乗り出しては、その手を耳に当てている。彼の声は弱々しいが、彼らが彼を助けようとする。彼らは《いのちのことば》を聞けるとあれば何でもしようとする。それから教会員たちがその目を開くと、会堂が満員になっていることに気づいて云う。「これはいかにして起こったのだろうか? 私たちは祈るべきだ」。祈祷会が招集される。以前は牧師室で五、六人が集う会であった。今や五、六百人もいて、彼らは会堂へと向かう。そして、おゝ! いかに彼らが祈ることか! 以前は二十分も祈るのを常としていた古参会員は、五分くらいにとどめないと都合が悪いことに気づく。また、立ち上がると同じ古い決まり文句を繰り返し、戦いに突進する軍馬や、器から器に油が移されることだのについて語るだけだったあの善良な老人は、こうしたすべての事がらを自宅に置いてきて、ただこう祈るようになる。「おゝ、主よ。罪人たちをお救いください。イエス・キリストのゆえに」。そして、その祈祷会には啜り泣きと呻きが聞かれる。明らかにひとりではなく、全員が祈っている。全群衆が感動して願っているように見える。もう一度云うが、これはどういうことだろうか? 何と、それは信仰復興の効果にほかならない。というのも、信仰復興が真にやって来るとき、教役者と会衆と教会はそれによって益を受けるものだからである。

 しかし、それはそこでは終わらない。教会の会員たちはずっと厳粛になり、ずっと真面目になる。家庭における種々の義務はずっと良く果たされるようになり、家族の輪はずっと良く訓練されるようになる。家庭礼拝のために時間を割くことなどできなかった人々は、今やそうすることができることに気づき、自分の子どもたちを教える機会など持てなかった人々が、今やそうすることなしには一日でも過ごそうとはしない。というのも、彼らは、《日曜学校》で回心した子どもたちがいると聞いているからである。今や《日曜学校》には以前の二倍も生徒がおり、素晴らしいことに、小さな子どもたちが集まって祈りをしている。彼らの小さな心は感動させられており、その多くは恵みの働きが始まったしるしを示している。そして、父母たちは、自分の家族のひとりひとりのために、自分にできる限りのことをしようとしなくてはならないと感じている。もし神が小さな子どもたちを祝福しておられるとしたら、なぜ神は自分たちの子どもたちを祝福されないことがあろうか?

 そしてそれから、教会員たちが神の家に行くのを見ると、彼らがいかに落ち着き払った謹直な様子をしているかが注目されるであろう。ことによると彼らは、道々話をしているかもしれないが、イエスについて話をしているのである。また、もし彼らが聖所の門のところで囁き交わしているとしたら、それはもはや下らない噂話ではない。それは決して、「あの説教者は気に入ったかね? 彼について何と思ったかね? 誰それの様子に気がついたかい?」、などといった批評ではない。おゝ、否! 「私は祈ります。主がご自分のしもべの言葉を祝福し、高き所からの油を注いでくださるように。消えかけた炎が燃やされ、いのちがある所ではそれが押し進められ、強められ、新しい力を受けられるようにと」。こうしたことが、彼らの会話を覆っているのである。

 それからやって来るのが、大いなる結果である。そこでは求道者の集いが持たれている。その司会をしている善良な兄弟は驚愕する。彼は一生の間にこれほど多くの人々がやって来るのを見たことがない。「何と」、と彼は云う。「少なくとも百人はやって来て、主が自分の魂になさったこと[詩66:16]を告白するのだ! ここには五十人が一度にやって来ては、これこれの説教の下で自分が真理を知るようにされたと告白するのだ。誰が私に、この者たちを生んでくれたのだろう?[イザ49:21] いかにしてこのようなことが起こったのだろう? いかにしてこんなことがありえるのだろう? 大いなる神、主がこのようなみわざをなさったに違いないではないだろうか?」 そしてそれから、このようにして教会に導き入れられた回心者たちは、信仰復興が引き続いた場合、非常に熱心な者たちとなる。あなたは、このような人々を見たことはない。外部の人々は彼らを狂信者と呼ぶ。それはほむべき狂信である。他の人々は云う。彼らはただの熱狂主義者たちなのだ、と。それは天的な熱狂主義である。なされるすべてのことが、そのような精神でなされる。もし彼らが歌うなら、それは鳴り響く雷鳴のようである。もし彼らが祈るなら、それは鋭く閃く稲妻の一撃のようである。それは、冷たい心をした者の暗闇を光で照らし、一瞬の間、彼らにも、祈りには一理あるのではと感じさせる。教役者が説教するとき、彼はボアネルゲ[マコ3:17]のように説教し、教会が集会を持つとき、それは心底からの誠意をもって集われる。彼らが献金するとき、彼らは広やかな気前よさをもってささげる。病人を訪問するとき、彼らは優しさと、柔和さと、愛とをもってそうする。すべてのことが、ひたすら神の栄光のためだけになされる。それは人からではなく、神の御力によってなされている。おゝ! このような信仰復興を見ることができたら、どんなに良いことか!

 しかし、神はほむべきかな。それで終わりではない。教会の信仰復興は、その後、それ以外の社会にも触れる。人々は、前に進み出てキリスト教信仰を告白しはしないものの、恵みの手段に携わることにずっと几帳面になる。悪態をついてばかりいた人々は、それをやめる。彼らは、それが時勢にふさわしくないことを見てとる。安息日を汚していた人々、また、神を蔑んでいた人々は、それではやって行けないことに気がつく。彼らはそれをみなやめる。時勢が変わったのである。道徳が世に広まる。下層階級は感化される。彼らは、愚にも付かない一銭冊子を買っていた所で、一編の説教を買う。上流の階級もまた心を動かされる。彼らもみことばを聞くよう導かれる。分離派の集会などという卑しいものに行こうなどとは一度も考えたことのない、馬車に乗ったやんごとないご婦人は、祝福が受けられさえするなら、もはやどこへ行こうとも気にかけない。真理を聞きたいのである。そして、このご婦人の二頭の葦毛の隣に、荷車引きが自分の馬を止め、彼らはふたり並んで中に入り、ともに主権の恵みの御座の前で膝をかがめる。あらゆる階級に影響が及ぼされる。上院すらそれを感じる。政治家自身、それに驚かされ、こうしたすべてのことは何を意味しているのかと思い惑う。王座の上の君主でさえ、自分の治めている民が、以前よりも善良になったことを感じ、神が自分の領土で、自分のあらゆる考えを越えた何かをなさっていることを感じる。――自分のすぐれた模範にすらまさる王権を、また、いやまさる影響力を、大いなる《王》が振るっておられると感じる。それでさえ終わりではない。天国が満たされる。ひとりずつ回心者たちは死んで行き、それは天国にいる人々をより多くし、天国の立琴はより大きな音を奏で、御使いたちの歌は新しい旋律の息吹を受ける。というのも、彼らは御座の前に人々がひれ伏すのを見て喜ぶからである。宇宙が喜ばされる。それは神ご自身の夏である。宇宙的な春である。鳥たちの歌の季節がやって来た。山鳩の声が私たちの国に聞こえる[雅2:12]。おゝ! 神がこのような信仰の復興を私たちにお送りになるならどんなに良いことか!

 私は、教会員としての私たちに、大いに感謝すべきことがあるのを神に感謝する。わが国でも、ある程度はこの種の信仰復興があった。だが、私たちの欲するものにくらべれば何ほどのものでもない。私の耳にしてきたいくつかの信仰復興では、二十人が、三十人が、四十人が、また、五十人が加えられたという。だが、私たちの神の誉れのためにこう告げるがいい。私たちのバプテスマ槽が開かれなかった月は一月もなく、主の囲いに多くの者を迎え入れなかったような聖餐式は一度もなかった、と。一年で三百人もの人々を私たちはこの教会に加えてきたし、なおも、「まだ来ます! まだ来ます!」、と叫ばれている。そして、たとい私たちの新しい聖所が建ったとしてさえ、私の確信するところ、その建立から六箇月のうちに、私は、千二百人の会員を有するどころか、少なくとも二千人の牧師となるであろう。というのも、私の信ずるところ、この公会堂に午前中に集っているあなたがたの中の多くの人々は、夕方に会堂[ニューパーク街会堂]の中に詰めかけることは全く不可能であることに気づいて、今はただ待っているからである。切望しているからである。私に、また、私の兄弟たちに、神が自分の魂になさったことを告げられるようになる時のことを。このことを私は知っている。主は私たちに非常に恵み深くあられたし、主にこそその誉れは帰されるべきである。しかし、私たちはさらに多くを欲する。私たちの魂は欲張りである。――神のためには強欲である。おゝ! 私たちがみな回心させられたならどんなに良いことか!

   「われら見まほし、教会(つどい)の満ちて
    選びの種族(たみ)みな
    声と心と 舌(くち)をば合わせ
    贖いの愛 歌うその日を」。

また私たちは、やはりそれで終わりではないことについて神に感謝しなくてはならない。というのも、先週の安息日には、エクセター公会堂が満員になり、ウェストミンスター寺院が満員になり、この場所もまた満員になったからである。そして、私たちは必ずしも説教されていることすべてについて意見が一致しているわけではないが、それでも神は彼らを祝福しておられる! キリストが宣べ伝えられている限り、私は喜ぶ。しかり。これからも喜ぶであろう[ピリ1:18]。そして私が神に願うのは、ロンドンのあらゆる大きな建物がやはり満杯になり、みことばを宣べ伝えるあらゆる人が、真理を聞こうと欲する一万人もの人々につき従われることである。願わくはその日がすみやかにやって来るように!――そして、そうした日を、あなたがたの誰にもまして喜ぶであろう1つの心がある。――その心は、神の栄光が現わされる時には、最も高らかに打ち震えるのである。たとい自分自身の栄誉が減少しようとも。

 III. さて、私たちは第三の点に目を向けなくてはならない。それは、《1つの警告》である。ある信仰復興の時期に、ウェールズてクリスマス・エヴァンズが説教したとき、彼は人々を踊らせるのが常であった。会衆は彼の伝道活動の下であまりにも興奮していたため、積極的に踊った。さて私は踊ることが御霊のみわざであったとは信じない。彼らが、心においてかき乱されていたことは聖霊のみわざだったかもしれないが、聖霊は説教の下で人々を踊らせたいとはお思いにならない。そこからは何の善も生じない。時たま、私たちのメソジスト派の友人たちの間には、激しい興奮状態が突発し、聞くところ、ひとりの若い婦人がある説教の最中に座席の上に上ると、恍惚の中でぐるぐる回り始めたという。とうとう彼女が失神して倒れてしまうと一同は、「神に栄えあれ」、と叫んだのである。だが私たちの信ずるところ、それは馬鹿げたたわごとであり、それ以外の何物でもない。百年前の米国における古の信仰復興、いわゆる「大覚醒」においても、多くの奇妙な事がらが起こった。礼拝中に、連続して金切り声や叫び声をあげたり、頭を打ちつけたり、ひきつけを起こしたりといったことである。それを御霊のみわざと呼ぶことはできない。カンバスラングにおける、かの偉大なホイットフィールドの信仰復興は、いまだ知られた中でも最も大いなる、また、最も尋常ならざる信仰復興の1つだが、その信仰復興にすら、迷信的な驚異とみなさざるをえない事がらがいくつか伴っていた。人々は興奮のあまり、自分が何をしているか分からなくなった。さて、もし何らかの信仰復興において、こうした奇妙なからだのひきつりの類を見るときには、常に異なる物事の区別をつけることである。聖霊のみわざは精神に関わるものであって、そのようなしかたでからだに関わりはしない。そのような事がらが礼拝の進行に不面目を施すことは神のみこころではない。私の信ずるところ、そうした事がらはサタンの悪意の結果である。悪魔は、大量の善が施されていることに目をつける。「さあ」、と彼は云う。「俺様が何もかもだいなしにしてやろう。俺様が踏み込んでやって、何もかも滅茶苦茶にしてやろう。あそこでは魂がどんどん回心している。では、あいつらを興奮のきわみに追いやって、笑い者になるようなことをさせてやろう。そうすれば、すべてが蔑まれることになるだろう」。さて、もしあなたがこうした奇妙な事がらの何かが生じているのを見るときには、気をつけるがいい。そこでは、あの古きアポルオンが忙しく働き、みわざを傷つけようとしているのである。そうした突飛な行動はできる限りすみやかに押さえつけるがいい。というのも、御霊が働かれる所では、御霊は決してご自分の戒めに背いて働かれず、その戒めとは、「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい」[Iコリ14:40]、だからである。説教中に人々が踊ること、あるいは、福音が彼らに宣べ伝えられている間にわめいたり、金切り声を上げたりすることは、適切なことでも、秩序だったことでもない。それゆえ、それは全く御霊のみわざではなく、単なる人間的な興奮にほかならない。

 そしてまた、覚えておくがいい。信仰復興の働きにおいては、人と人との区別を常につけなくてはならない。キリスト教信仰が復興する際には、非常に大人数の人々が本当に回心する一方で、相当おびただしい数の人々が単に動物的な興奮によって気を高ぶらせただけで、その回心は純粋なものにならないであろう。常にそのことを予期しておき、そうしたことを目にしても驚いてはならない。人々が互いに真似をし合うのは精神の法則でしかないし、ある人が真に回心するときに、いまだ真の、また主権的な恵みを有していない別の人の中に、それを模倣したいという一種の願望が生ずることも、理の当然と思われる。ならば、信仰復興の最中でこうしたことに出会っても落胆してはならない。それは、それが真の信仰復興でない証拠では決してない。それは、その特定のひとりの場合に真実ではなかった証拠でしかない。

 さらにもう一言云わなくてはならないが、もし神が私たちに、キリスト教信仰の大々的な復興を送られるとしたら、私たちの義務は、戒規の束縛を緩めないことである。一部の教会では、人々が非常に増加するとき、彼らを無差別に加入させ、しかるべき適正な吟味を行なわない傾向がある。私たちは、信仰復興という激動期においても、漸進的な増加という、より冷やかな時期と全く同じように厳格であるべきである。そして、もし主がその御霊を暴風のように送られるとしたら、各種の帆布を熟練した手際で扱うことは私たちの義務である。その暴風が、私たちをどこかの致命的な岩礁に突進させ、深刻な損害をもたらして、私たちを沈没させることになるといけないからである。気をつけるがいい。あなたがた、教会の役職についている人たち。あなたがたは、人々が心をかき乱されているのを見るときにも、やはり聖なる警戒を払い、教会が、本当には救われていない人々を加入させることによって、敬神の基準を引き下げられないようにするがいい。

 IV. これらの警戒の言葉とともに、私はいま、力を奮い起こし、また、私の全力を傾けても、あなたがたを奮い立たせて、この国の端から端へと及ぶような、大いなる信仰の復興を神に求めさせたいと思う。

 兄弟たち、また、父たちよ。主なる神は私たちに祝福を送ってこられた。1つの祝福は、多くの祝福の前兆である。一、二粒の雨の滴が、四月の驟雨に先立つ。神がすでに私たちに授けてくださった数々のあわれみは、これから来たるべきさらに大きなもの、さらにすぐれたものの先駆け、また、前触れでしかない。神は私たちに初めのものを与えておられる。後の雨を神に求めようではないか。神の恵みが私たちの間で増殖し、神のご栄光が増し加わるように。今朝私が話しかけているあなたがたの中のある人々は、信仰が復興する行く手を塞いでいる。私は愛情をこめてあなたに訓戒し、懇願したい。主ご自身のみわざを妨げてはならない。ことによると、きょう、この場に今いるあなたがたの中のある人々は、裏表のある生き方をしているかもしれない。それでいながら、あなたは信仰の告白者なのである。あなたは聖餐の杯を自分の手で取り、その神聖な葡萄酒を飲んでいる。だがそれでも、あなたはこの世の人々が生きるような生き方をしており、彼らと同じように肉的で、貪欲である。おゝ、私の兄弟たち。あなたは教会の増加にとって深刻な障害である。神は決して汚れた民を祝福せず、私たちの汚れに応じて、私たちから祝福を引き込めなさるであろう。裏表のある教会とは、祝福されない教会にほかならない。神は、まずある家を掃ききよめてから、そこに来てお住まいになるであろう。ご自分の教会をきよいものとしてから、それをご自分の恵みのすべての祝福で恵んでくださるであろう。このことを覚えておくがいい。あなたがた、裏表のある人たち。そして、神に立ち返り、私を聖くしてくださいと願うがいい。あなたがたの中の他の人々は、あまりにも冷たい心をしているため、一切の進展を邪魔している。あなたは教会の車輪に噛まされた滑り止めである。教会はあなたのために動くことができないでいる。たとい私たちが熱心になっても、あなたは、一切の大胆で勇敢なことにあなたの冷たい手をかける。あなたは思慮深くて熱心なのではない。もしそうだとしたら、私たちは神があなたにその思慮を与えてくださったことで、神をたたえるであろう。もし私たちの間に思慮ある人がいるとしたら、それは私たちが常に神に感謝すべき宝石である。しかし、私が今ほのめかしているあなたがたの中のある人々は、思慮深くはあるが、冷たい。あなたには何の熱心さもない。あなたはキリストのために労していない。力を尽くしてキリストに仕えていない。そして、あなたがたの中の他の人々は、無分別に他の人々を押しやりながら、決して自分では前に立とうとしない。おゝ、あなたがた、ラオデキヤ人たち。あなたがた、熱くも冷たくもない人たち[黙3:15]。主があなたについて何と云われたか思い出すがいい。――「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」[黙3:16]。そして、主はあなたにも同じようになさるであろう。用心するがいい。用心するがいい。あなたは自分自身を傷つけているだけでなく、教会に損害を与えているのである。それからまた、あなたがたの中の他の人々は、あまりにも杓子定規に形式にこだわり、旧来のありかたに固執していて、いかなる信仰復興も欲してはいない。私たちがあなたを傷つけるといけないと思っているからである。あなたは教会が修繕されることを望まない。私たちがそれを覆っている古代の苔のひとかけらにでも触れるといけないからである。あなたはあなた自身の衣をきれいにしたがらない。そこに古代の泥がついているからである。あなたは、何かが古くからあるというだけで、尊敬に値するに違いないと考えている。あなたは骨董品の愛好者である。あなたは道路の補修をさせたがらない。なぜなら、あなたの祖父が自分の荷馬車をそこにある溝に沿って走らせていたからである。「それが常にそこにあるようにしておきなさい」、とあなたは云う。「その泥水が常に膝まで来るくらいにしておきなさい」。だが、あなたの祖父は、それが膝まで来るほどの泥で埋まっているときにも、そこを通ったではないか。では、なぜあなたが同じことをすべきでないのだろうか。あなたは常に会堂の中で安楽な椅子に着く。あなたは一度も信仰復興を見たことがないし、見たいとも思わない。そうしたことを、みなたわごとだと信じている。願わしいものではないと思っている。あなたは後ろを振り返ると、そうした何の前例もない。誰それ博士は、そうしたことについて何も語らなかった。すでに死んだあなたの尊崇すべき教役者は、そう語らなかった。それで、とあなたは云う。それゆえ、そのようなものは必要ないのだ。私たちがいくらそれが聖書的だと語っても無駄である。そんなものをあなたは欲していない。それは秩序に即していない、とあなたは云う。いくらそれは正しいことだと語っても無駄である。あなたは良いことよりも、古めかしいことの方が好みなのである。あゝ、あなたは今そうしたありかたから脱さなくてはならない。それは何の役にも立たない。あなたは私たちを食い止めようとするかもしれないが、私たちは、あなたが道からどかなければ、あなたを踏みつぶして行くであろう。ちょっとした警告とともに、私たちはあなたの種々の偏見を踏みつぶして行き、あなたの怒りを招くであろう。しかしあなたの偏見が私たちを引き留めることなどないに違いないし、できない相談である。その鎖は、これ以上ないほどの年代を経た錆だらけのもので、これ以上ないほどの権威をもって刻印されているかもしれないが、囚人は常にそれを喜んで打ち砕くものである。また、いかにあなたの枷が私たちの手足を拘束しようと、私たちは、もしそれがキリストの御国の進展を妨げているとしたら、粉々に粉砕するであろう。

 このように、邪魔になっている人々に向かって語りかけたので、私は、心を尽くしてイエスを愛している人々、御国の進展を押し進めたいと欲している人々に語りかけたい。愛する方々。私は切に願う。あなたの回りの人々が何千人単位で死につつあることを思い起こすがいい。あなたは、彼らが影の世界に向かっていくのを、ただ目で追っているだけで良いだろうか? 無数の人々は神なく、キリストを離れ、望みなく死んでいく。私の兄弟たち。彼らの恐るべき運命は、あなたの同情心を奮い起こさないだろうか? あなたが聖書の裏づけによって信ずるところ、信仰なくして死んだ人々が行く場所では、「彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」[マコ9:48]。このことを信じているとしたら、あなたの魂はあなたの内側で彼らの運命への憐憫をかき立てられないだろうか? あなたの回りをきょう見渡してみるがいい。あなたは、大群衆が一同に会して、神を礼拝していると告白している。あなたはまた、この場にいるいかに多くの人々が実は神を恐れることも、自らを知ることも、十字架を知ることもしていないかをも知っている。何と! あなたは自分自身、呪いの下にあることがいかに厳粛なことかを知っていながら、きょうその呪いの下にある、あなたの回りの人々のために祈りも、労しもしようとしないのだろうか? あなたの《主人》の十字架を思い起こすがいい。主は罪人たちのために死なれたのである。あなたは彼らのために泣こうとしないのだろうか?

   「罪人のため 主は泣きたるに
    汝れらが頬の など渇くべき」。

主がそのいのちのすべてを彼らにささげたのに、あなたはあなたのいのちを奮い起こして神と格闘しないのだろうか? 神のご目的が彼らのために成し遂げられることを願い求めないのだろうか? あなたには、回心していない子どもたちがいる。――彼らが救われてほしいと願わないのだろうか? あなたには、この日、苦い胆汁と不義のきずなの中にいる[使8:23]兄弟たち、夫たち、妻たち、父親たちがいる。あなたは、彼らのためだけでさえも、信仰復興を願わないだろうか? 見よ。いかに多くの窃盗、殺人、犯罪がこのあわれな国を汚していることか。あなたは、犯罪の炎を消し止めるためだけでさえも、信仰の復興を願わないだろうか? 見るがいい。いかに神の御名が日々冒涜されていることか。注目するがいい。いかにこの日、神の日ではなく人の日ででもあるかのように、商売が引き続きなされていることか。注目するがいい。いかにおびただしい数の人々が下り坂を歩いており、陽気に破滅への道を進みつつあることか。あなたは彼らを可哀想に思わないのだろうか? あなたの心は硬く、鈍感なのだろうか? あなたの魂は鋼鉄のように冷酷にされているのだろうか? それは氷山のように凍りついているのだろうか? おゝ、義の太陽よ。お上りになり、この氷の心を溶かして、私たちにみな感じさせてください。不滅の魂が滅びるということがいかに恐ろしいことかを。人々が神なく、望みなく、永遠へと急行することがいかに恐ろしいことかを。おゝ、あなたは今、この時から、祈り始めないだろうか? 神がそのみことばを送って、彼らを救い、神ご自身の御名に栄光が帰されるようになることを。

 神を恐れていないあなたがたについては、私たちがあなたについていかに大騒ぎをしているか見るがいい。あなたの魂は、あなたが思っているよりもずっと価値があるのである。おゝ、あなたがたがキリストを信じて、あなたの魂の救いを得るとしたらどんなに良いことか!

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大信仰復興[了]

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