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主の荒廃、その聖徒たちの慰め

NO. 190

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1858年4月28日、水曜日朝
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂
《バプテスト宣教協会のための説教》


「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」。――詩46:8、9


 キリストに似たものは何であれ、キリストの生涯に似た歴史を辿るものと思われる。主の始まりは小さかった。――飼い葉桶と馬小屋であった。私たちの愛するこの協会の始まりもそれと同じである。私たちは、この協会にはまさにキリストの御霊が受肉していると信ずる。その始まりもやはり小さかった。だが、その終わりは疑いもなく非常に大いなるものとなるに違いない。――というのも、キリストも終わりはこの上もなく栄光に富むことになったではないだろうか? 主は高き所に上られた。私たちの父なる神の右の座に着かれた。そして、疑いもなく、この、神がいま世界の回心のために用いておられる機関もまた、やがては高きに上り、神がそれを大いなるものとされるであろう。しかし、キリストが苦しむべく召されたように、キリストに似たあらゆるものもキリストとともに苦しまなくてはならない。自分の《主人》に誰にもまして似ているキリスト者は、「キリストの苦しみにあずかる」[ピリ3:10]という言葉の意味を、誰にもまして理解するであろう。そして、この《宣教協会》がキリストに似たものであり、キリストの心と、キリストの目当てを有している限り、これもまたイエスのように苦しまざるをえないであろう。この一年、私たちはその杯を喫させらされてきた。私たちの殉教者たちの血は流されてきた。私たちの信仰告白者たちは、主イエスを信ずる信仰への証しを立ててきた。血に飢えた残虐な者らの手によって最期を遂げてきた。このように、またしても教会の種は、殉教した聖徒の血において蒔かれてきたのである。

 この日の話をするに当たって私は、あなたがた全員の中でも最も若輩者である自分が、何らかの助言や忠告を差し出すなどとんでもないことだと感じた。だが、時として子どもが自分の両親を慰めることもあるように、現在の苦悩の中にあるあなたがたを励まし、かつ、魂の大敵に対する将来の戦闘に備えて、あなたがたの腕を力づけるような慰藉の言葉を多少口にすることであれば許されるであろうと感じた。また、今のこの主題以上に慰藉に満ちたいかなる主題について語ることができるだろうか? 「来て、主のみわざを見よ」。人の流血から目を離し、あなたの神が働いておられるのを見るがいい。また、反逆や殺戮や無政府状態といった荒廃から目を離し、ここで主が地にもたらされた荒廃に目を向けるがいい。あなたは見てとるであろう。戦いの弓がなおも唸りを立てて矢を放ち続け、槍は今なお人々の心臓の血で汚されつつあるとはいえ、それでも主は弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれるのである。私たちは今朝、この聖句のことを、第一に、すでに起こってきたことの宣言として考え、第二に、やがて成し遂げられることの約束として考えたいと思う。

 I. まず第一に、私たちはこれを《すでに起こってきたことの宣言》であるとみなしたい。「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」。

 1. さて今、私は、本日の主題のこの部分を論議し始めるに当たり、神が幾多の時代に、その摂理によって様々の国々にもたらされた数々の荒廃という悲しい光景へとあなたを招きたいと思う。人間については、心がかき乱されることで一杯だと云われているが[ヨブ14:1]、国々についても同じことが云える。国々もまた悲しみに満ちており、その中にはこの上もなく苦い悲しみがある。幾多の戦争が諸国を荒し回ってきた。数々の疫病が私たちの人口を乏しくしてきた。ありとあらゆる種類の悪が、いかに強大な帝国にも襲いかかり、その多くは最終的には滅びの御使いに屈さざるをえず、今や権勢を誇った死者たちとともに眠っているのである。疑いもなく、野蛮人たちの侵略によって文明の前途に終止符が打たれたときには、地の表からは1つの呻きが立ち上ったに違いない。――芸術や科学の文化によって名にし負う町々が突如として略奪され、焼き払われる。――知識において大きな前進を成し遂げてきた諸国民が補囚として連れ去られ、地球の歴史という日時計の針は大きく後戻りさせられるのである。

 しかし、ここでぜひ歴史の頁に目を向け、それを読んでほしい。この世に起こってきた種々の大災害に注目してほしい。私は、悟りのある人々、また、こうした事がらの中に主の御手を突きとめることのできる人々としてのあなたがたに訴えよう。――これらすべてのことは、ともに働いて益となってきたではないだろうか? また、これまで起こった種々の革命や、諸帝国の破滅や、諸王朝の没落は福音の進展にとってこの上もない助けではなかっただろうか? 私たちは人々の血の責任を神に負わせるつもりは毛頭ない。一瞬たりとも、世界に戦争をもたらしてきた罪や不義が神から出たものだなどと考える過ちを犯さないようにしよう。だが、それと同時に、予定の教理を堅く信ずる者として、また、天来の摂理という偉大な真理を堅く握る者として、私たちは主張しなくてはならない。神が光のみならず闇をも造り出されたことを[イザ45:7]。――神が摂理的な善のみならず摂理的な悪をも創造されること――高き所から慈雨を給わる一方で、破壊的な嵐の父でもあられることを。おゝ! ならば、私は云う。来て、この「アケルダマ、すなわち『血の地所』」[使1:19]における主の御手を見るがいい。来て、地上の様々な君主国の政体の支柱が一揺るぎするごとに主の御手をそこに見てとるがいい。天に届こうと熱望してきたあらゆる塔が崩落し、あらゆる尖塔が倒壊してきたことに主の御手を見るがいい。というのも、主がそれをなされたからである。――主がそれをなされたのである! 神はいずこにもおられる。

 さて今、私はもう一度云うが、あなたはこうしたすべてのことの中に、畏怖すべき神のみならず、恵み深い神をも見てとることができないだろうか? あなたは、世界にこれまで起こってきたすべてのことが、実は世界にとって益となってきたことを感じられないだろうか? 種々の戦争や、挫傷や、暴動は、神がこの地球という病んだ体から、その無数の病を取り除く手荒な薬にすぎない。それらは、道徳的な大気の中に潜んでいる疫病や熱病を神が一掃なさる大竜巻でしかない。それらは、神が聖堂の扉を打ち砕き[イザ45:2]、ご自分の民が通れるようにするためお用いになる大槌にすぎない。それらは、神が山々を踏みつけて粉々に砕き、丘をもみがらのようにし、イスラエルを主にあって喜ばせる[イザ41:15-16]ための打穀機でしかない。初めがそうであったように、終わりに至るまで同じであろう。印度における戦争の叫喚と激動は、益を生み出すであろう。私たちの姉妹たちの血は報復される。剣によってではなく、福音によってそうされるであろう。血で赤く染まった印度の神々の上に、主の御腕は感じられるであろう。御座に着いておられるお方の大能は、この騒擾の最初からイスラエルの神を冒涜してきた当の人々によって認められるであろう。私たちは、恐れないようにしよう。おののかないようにしよう。最後には、万物の終わりがやって来る。そして、その終わりは確かに願われてきた終わりとなり、人のいかなる憤りによっても神のご計画が挫折させられることはないであろう。過去の種々の騒乱によって私たちは現在の保証を得、未来のための慰めを得ている。「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」。

 2. しかし今、このいささか陰鬱な主題から目を転じて、私は次に、イエスに従う者の目にとって常に麗しいものであろう、いくつかの荒廃を眺めるようにあなたを招かなくてはならない。――偽りの礼拝の荒廃である。何と喜ばしい題目であろう! おゝ、それを真に詳述できる力がありさえしたら、どんなに良いことか! あなたは偶像礼拝の起源に思いを馳せて、できるものなら私に告げてほしい。人々が不敬にも最初に礼拝した神々は何という名前だっただろうか? それらは知られているだろうか? それらの名前は歴史から拭い去られてはいないだろうか? あるいは、たといそのいずれかが言及されるとしても、それは物笑いであり、軽蔑の的であり、恥辱ではないだろうか? それより後代の偶像崇拝については何と云えば良いだろうか?――聖書の中に書きとめられ、それゆえ、汚名へと引き渡されてきた偶像崇拝である。いま誰がエジプトの神に拝礼しているだろうか? 聖なるイシスは今、礼拝者たちを有しているだろうか? 誰かナイルの前にひれ伏して、その甘美な水を飲んでは、この川は神だと考える者がいるだろうか? こうした偶像崇拝は過ぎ去ってしまっていないだろうか? そして、その神殿や方尖塔はいまだに立ってはいないだろうか。――「主は地に荒廃をもたらされた」ではないだろうか? 私たちはペリシテの神々について話をするだろうか? バアルやダゴンについて言及するだろうか? 彼らはどこにいるのか? 私たちは彼らの名前は耳にする。それらは、過去の記録にすぎない。だが、彼らに敬意を表する者がどこにいるだろうか? あの天の女王[エレ7:18]に口づけを投げる者が今どこにいるだろうか? 木のアシュタロテ像に拝跪している者がどこにいるだろうか? 天の万象や太陽の車を礼拝している者がどこにいるだろうか? これらは失せ去っている! 失せ去っている! エホバは今なお、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」[ヘブ13:8]くあり続けている。1つの時代の偶像どもが過ぎ去ると、別の偶像どもがやって来る。そして、こうした荒廃は立ち続けるのである。――神の大能の記念碑として。

 さて、かの大帝国アッシリヤに目を向けるがいい。この国は孤高を保っていなかっただろうか? 自分は悲しみを知らないと云っていなかっただろうか? バビロンのことも思い出すがいい。それはアッシリヤと並んで自慢していた。しかし、これらはどこにあるだろうか? また、これらの神々は今どこにいるだろうか? 首に縄をかけられた彼らは、わが国の得意満面の発掘者らによって引きずられてきた。そして、今、わが国の諸処の博物館で、とうの昔に絶滅した民族の無知さ加減を示す記念物として立っている。それから、ギリシヤやローマの、まだ麗しい偶像崇拝に目を向けるがいい。見事な詩的構想、それが彼らの神々であった! 彼らの偶像崇拝は壮大なもので、決して忘却されることはないであろう。そのあらゆる悪徳や情欲にもかかわらず、その中には非常に純粋な詩情が気高く混ぜ合わされており、人間の精神は、確かに常に悲しみとともにそれを思い起こしつつも、敬意をもって評価するであろう。しかし、彼らの神々はどこにいるだろうか? 彼らの神々の名はどこにあるだろうか? ユピテルや、サトゥルヌスや、ウェヌスの名残は星々の名にしか残っていないではないだろうか? あたかも神がご自分の宇宙を、ご自分の滅ぼされた敵どもの記念碑としようとされたかのようである! それ以外のどこに彼らの名は見いだされるだろうか? その偽りの神格を崇拝している礼拝者をどこで見いだせるだろうか? これらは過ぎ去り、失せ去っている! その像はもぐらや、こうもりに投げやられており[イザ2:20]、その間、多くの屋根もない神殿、多くの荒れ果てた神社が、かつてあったが今はないもの――そして、永遠に過ぎ去ったもの――の記念碑として立っているのである。

 思うに、この世のいかなる王国に目をやろうと、ご自分の敵どもを打ち砕く神の手のわざを見ない場所はほとんどないであろう。偶像崇拝者が、自分の父祖たちの知らなかった神を礼拝していることは恥辱である。確かにそこには、ある程度は古色蒼然たる体系があるが、ほとんどの場合、その体系はまだ新しい。――あの、自然の初子である巨大な山々にくらべれば新しい。――忘却の密雲の中で死に絶えて久しい、こうした古の偶像崇拝の数々とくらべれば新しい。神がもたらしたこうした数々の荒廃について語るのは、私たちにとって非常に喜ばしい主題であるように思われる。というのも、よく聞くがいい。――もう一度私たちは云うが――それは初めにそうであったように、今もそうであり、常にそうあり続けるのである。偽りの神々はこれからその支配を明け渡すことになる。あの神殿の数々はこれから屋根をはがされることになる。彼らの住まいは火で焼かれ、彼らの名は嘲笑の的として残り、彼らの尊厳は尊ばれなくなり、その名に誉れが帰されることもなくなる。おゝ、あなたがた、主の箱のことを案じている人たち。あなたがた、虚偽がいかに堅固な王座に着いているかを思っておののいている人たち。こうした数々の荒廃を眺めやり、元気を出すがいい。神は大いなることを行なってきたし、今後もそうしたことを行なわれるであろう。このわが国においてさえ、人は、朽ち果てた大修道院や、破壊された小修道院や、取り壊された古い大聖堂の前を通り過ぎるとき、甘やかな満足を感じずにはいられない。それらは美しい廃墟である。それをいやが上にも美しくしているのは、それらが破壊されており、その住人たちのことが忘れ去られ、修道僧らがもはや二度とわが国の町通りをうろつかず、修道女たちが――ちらほらと見受けられはするものの――もはや敬われてはおらず、彼らの属する背教の教会が私たちの間で、かつて握っていたほどの権力を持たなくなっているということである。それゆえ、私たちは神に誉れを帰すことを求めよう。また、旅行するときには常にこの聖句のことを考えるようにしよう。――「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」。

 3. さて今、次のこととして、神が偽りの諸哲学にもたらされた種々の荒廃を思い起こしてみてほしい。石材や木材について云えば、それらは自然の通常の営みの中で朽ち果てざるをえない。そして、人によっては、私たちが見ている荒廃した神殿のいくつかは、神の御手の戦勝記念碑というよりは、時の猛威のそれであると考える向きがあるかもしれない。だが、思想は恒久的なものである。人々の心を占領したとりとめもない思想を、哲学は永続的な言葉にまとめあげる。いかに一部の哲学者たちはこう信じてきたことであろう。自分たちは代々にわたって読まれることになる本を書いているのだ、と! 彼らの信じていたところ、彼らの哲学は永遠に立ち、世の終わりの日まで彼らの弟子たちは畏敬されることになるはずであった。だが、古典をかじったことのある者は思い出すがいい。キリストの御国の進展の前に、いかに多くの哲学体系が過ぎ去ってきたことか。かの強大なスタゲイラ人[アリストテレス]は、かつてはあらゆる精神の圧倒的な主人であり、多くのキリスト者の精神さえ支配していたが、結局は、よりきよい真理の前におのれの帝国を失った。しかし私は、こうした事がらに言及するのを差し控え、むしろ、現代における偽りの哲学体系の衰亡について示唆したい。というのも、この場には私たちの長老たちが何人かおり、今しも白髪になったばかりのこの方々は、何らかの不信心の理論が七つか八つは興亡してきたのを思い起こすことができるからである。振り返ってみれば思い出せるであろう。かつてはトム・ペインの何とも我慢のならない呪うべき言説があり、それがヴォルテールによって何とも下品で険悪な代物にも変じさせられていた時のことを。あなたは覚えているであろう。いかに高雅で、優美で、思弁的で、精緻な言説をロバート・オーウェンが掲げていたかを。そしてまた、いかにしてそれが卑しく、下卑た、いわゆる《世俗主義》になっていったかを。人々はそれを苦にし、それがいつまでも続くだろうと思った。だが、私は最後の《世俗主義者》が葬られるのをこの目で見ることになると信ずる。そしてその葬儀には、何か別の不信心の体系の指導者が参列しており、神に対するその憎悪にもかかわらず、自分に先立ったその人物に対する悪意にかられ、墓石の前でこう云うに違いないであろう。「ここにひとりの愚か者が眠る。《世俗主義者》であったことを除けば」、と。あなたはこうした事がらを恐れる必要はない。これらはそれぞれ、ほんの短時日しか保たない。何箇月もしないうちに、その体系の新しい段階がもたらされる。彼らが心血を注いで形成し、熱誠こめて宣言してきたもの、また、彼らが確実きわまりない論理で証明したと考え、彼らの思うところ、ハデスの門も打ち勝てない岩の上に築き上げてきたもの、それがいかにたちまち木っ端微塵に破砕され、その痕跡すらもとどめず、――ほんの名残すら残さず、――すべて過ぎ去り、消え失せてしまうことか。これは常にそうあり続けるであろう。初めにそうであったように、今もそうであり、常にそうあり続けるであろう。「さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」[イザ54:17]。賢者の言葉は、いのちの木[黙22:2]の葉のようで、色あせることがない。だが悪人の言葉は秋の葉っぱのようで、みな枯れ果て、じきに筋しか残らなくなり、一陣の風で吹き飛ばされては、二度と音に聞かれなくなる。

 水路のそばに植えられた、教会という木はなおも杉の若木のように清新に、また青々と生長している。しかし、こうしたものらは、荒地のむろの木のようで、幸せが訪れるのに会うことがない[エレ17:6]。それは地面そのものから栄養を引き出すことがなく、天もこの呪われたものにはその慈雨を拒む。それゆえ、すぐにそれは死に絶え、記念物もなしに過ぎ去ってしまう。愛する方々。勇気を出すがいい! 敵が私たちの塹壕のどこを攻撃しようと関係ない。彼らは、これまでに敗走させられてきたし、これからもそうされるであろう。私たちはキリストの敵どもにこう告げる。以前にお前たちが喫してきた一千もの敗北を見るがいい、と。私たちは、再び私たちを攻撃する愚を彼らに警告する。わざわいなるかな! わざわいなるかな! ペリシテ人よ。たとい男らしくふるまっても[Iサム4:9]、お前たちはイスラエルに仕えるようになるのだ。わざわいなるかな。というのも、王の御声が私たちのただ中にあるからだ! お前の父祖たちは私たちの大能を感じていた。思い出すがいい。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは[イザ51:9]誰であったかを。お前の祖先たちは私たちの前で震えていたものだ。私たちの父祖たちは、お前の祖先たちを万人も敗走させたし、私たちもお前を同じ目に遭わせるであろう。そして、それをし遂げたとき、お前について、「あはは、あはは、あはは」、とあざ笑い、お前を私たちの子どもたちのなぶりものとし、召使いたちの物笑いの種とするであろう。

 4. しかし、本日の聖句は特に戦争に――戦争による荒廃に――言及している。あなたは、平和がいかに壮大な賞杯を戦争の手から獲得してきたか気づいたことがないだろうか? この国を眺め渡すがいい。思うに、もし平和の御使いが、この国を旅をする私たちに同行するとしたら、破壊された城や、いかなる建物の痕跡も一掃された小高い丘のある、数々の古い町に立ち止まるたびに、その御使いは私たちに面と向かってこう云うであろう。「これはみな私のしたことなのだ。戦争は、私の温和な家来たちを追い散らし、私の数々の小屋を焼き払い、私の数々の神殿を荒らし、私の数ある邸宅をちりにまみれさせてきた。しかし、私は戦争を彼自身の要塞において攻撃し、総崩れにさせてきた。彼の大広間の中を歩いてみるがいい。そこに戦士たちののし歩く音が聞こえるだろうか? 喨々たる喇叭や戦鼓の音は今どこにあるだろうか?」 羊たちは大砲の口から垂れた草をはみ、鳥たちはかつては戦士がその兜をかけた所に巣をかけている。骨董品として私たちは先祖たちの剣や槍を掘り出し、自分では頓着していなくとも、そうすることにおいて平和に賛辞を呈しているのである。平和は征服者だからである。それは長い闘争で、多くの血が流されてきたが、平和が勝者となった。戦争は、結局、散発的な勝利しか得ない。そして、再びそれは沈み込む。――死に絶える。だが平和は常に支配する。たとい地のある部分から追い出されても、別の場所に住みつく。そして、戦争がそのせわしない手によって、ここでは城壁を積み上げ、そこでは塁壁を巡らし、あそこでは塔を建てている間に、平和はその優しい指先で、城塞を草地や木蔦で覆い、天守閣の石を打っては、地面に払い落としている。

 これは平和を愛する者にとって素敵な考えだと思う。そして私たちのどこに平和を愛さない者がいるだろうか? また、私たちは信じてはいないだろうか? 福音が完全に宣べ伝えられ、日の目を見るとしたら、戦争は地の果てまで、やまざるをえない、と! それゆえ、私は云う。愛する兄弟姉妹。私たちは、近年勃発した、きわめて血腥い、残虐な殺戮のすべての下にあっても、この事実によって慰められて良いではないだろうか。すなわち、神は、戦争においてさえ、地に荒廃をもたらしてこられたのである。主は地に荒廃をもたらされた。そして、これまでそうであったように、それは世の終わりまでそうあり続けるであろう。今ある塁壁の中で、やがて平和によって封印されないものは1つもない。おゝ、年古りた稜堡たち。お前たちは、やがて破壊されるのだ。大砲の砲弾によってではなく、それよりも強力なものによって破壊されるのだ。愛によって装填し、この日、私たちはお前に向かってキリストの福音という大砲を発射する。そして、私たちの信ずるところ、それはお前をその根幹まで揺るがし、お前たちは崩れ落ちることになる。あるいは、たといお前たちが立っていても、お前たちには、みみずくと針ねずみ[イザ34:11]のほかには住まう者がいなくなる。私は、こう信じて嬉しくなることがある。すなわち、来たるべきその時には、記念碑の上に立つネルソン提督の像が転覆させられ、ホイットフィールド氏の像が、あるいは、使徒パウロの像が据えられるであろう。私の信ずるところ、そこの広場に立つネイピア将軍の像はその足場を失うであろう。私たちはこうした人々についてこう云うであろう。「彼らは、私たちの先祖たちの時代には非常に尊敬される人々であった。彼らは互いに殺し合うことしか知らなかったのだ。だが、今の私たちは彼らのことなどどうでも良い!」 ジョン・ウェスレーの像が、ネイピアの後釜に座ることになる! 福音の熱心な説教者であった他の者の像が、市門の上で騎馬に乗った別の戦士の立っている場所を占めるために、高く引き上げられる。こうした事がらはみな、無知な時代の詐欺であり、キリスト教信仰を告白しているにもかかわらず、流血を愛していた民衆の愛好する安ピカ物であって、いずれ、屑鉄か屑真鍮として解体されるであろう。ロンドンに立っている像という像は売り飛ばされ、その代金は使徒たちの足元に置かれ、必要に従っておのおのに分け与えられるであろう[使4:35]。戦争はやまざるをえない。また、戦争が支配し、今はその栄光を有しているあらゆる場所は、これから過ぎ去り、薄れ去り、しなびざるをえない。私たちがこうした人物たちにありったけの栄誉を与えているのは、今は私たちの無知の時代であり、神がある程度まで私たちを見過ごしておられる[使17:30]からである。だが、福音が世に広まるとき、私たちは、あらゆる心が福音で一杯になり、戦争という名前すら耐えがたくなるであろう。というのも、神が弓をへし折り、戦車を火で焼かれるとき、私たちはそうした像を砕き、そうした彫塑を粉微塵に粉砕するだろうからである。私たちは考える。この稼業が終わりを告げたとき、それを行なっていた人々は忘却されるであろう、と。

 II. 思うに、ここには私たちの心を大いに励ますものがあり、私たち全員を、キリストの大戦闘のために勇気づけるものがある。過去の荒廃は私たちをして、未来にも同じようなこと、そして、いやが上にも偉大なことがあるとの希望をいだかせるべきである。さて今、私は本日の聖句をごく手短に、《やがて成就されることになる預言》とみなしたいと思う。

 いくつもの項目をあげて、またもや逐一語っていくとしたら、それは必要もなくあなたの時間を無駄にすることになるであろう。なぜなら、実際、これまであったことが、いかにやがてより高い意味でもそうなるかを見きわめることにかけては、誰もが私と同じくらい卓越しているからである。しかし、これを預言とみなすに当たり、私たちは今ひとたび本日の聖句が用いている比喩に注目しなくてはならない。通例、大戦闘の後では、また、特に平和が最終的に打ち立てられた後には、戦勝者は、敗者側の武器を集めて山と積み上げ、そのすべてに火を付けるものであった。イスラエルがエリコの分捕り物を集めて、ことごとく焼き尽くしたのと同じである[ヨシ6:24]。いずれそのうち、キリストがそのご栄光のうちにやって来られる時、すなわち、この世の国が私たちの主およびそのキリストのものとなった時[黙11:15]、――私は、きょうのこの場では、再臨を宣言するように思われることは何ら告げるつもりはない。この上もなく堅く再臨を信ずる私ではあるが、また、わが国の宣教集会のいずれにおいても、私たちの非常な大多数の者の信仰に含まれている点の論議が少しでも許されてきたことを遺憾に思うものであり、このことを、神のことばの他のどの教理とも同じくらい尊く貴重な教理であると信じ、それゆえ、この教理に反対することが少しでも語られる場合にはそれを不当であると考え、キリストの福音の伝播という私たちに共通する一致の絆によってともに集まる際に、このことで攻撃されるのは心痛むことだとは思うが、しかしながら、それが霊的な来臨であるか、肉体をもっての来臨であるかは一切さておき、――私たちの信ずるところ、いずれそのうち、私たちはこのように告げる者によって寝床から目覚めさせられるであろう。「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」。そして、私たちが指定の場所に到着する時には、古のエペソ人たちが自分のすべての書物を通りで焼き捨てたように[使19:19]、私たちも、私たちの兵隊たち下士官たちが列をなして行進して来ては、自分たちの武器を、また、その所持する殺人の道具のすべてを投げ出し、山と積み上げるのを見るであろう。幸いなことよ、そこにいてそれを眺めることになる母親の子どもは! しかし、こうしたすべてのものを火が燃やす際に、このことが本当に云われるとき、ある人はこのことを見てとるであろう。「主は……弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」。

 幸いなことよ。その日には、あらゆる軍馬の足の筋が切られ、あらゆる槍が鎌となり、あらゆる剣が、かつては血で汚された土地を耕す道具とされる。それこそ、本日の聖句が預言していることであり、本日の聖句は自然と私を福音の偉大な絶頂としてのこのことに至らせる。これこそ、キリストの最終的な勝利となるであろう。死そのものが死ぬ前に、死の大いなる野犬である戦争もまた死ななくてはならないし、そのとき地には平和があることとなり、御使いは云うであろう。「私は地を行き巡りましたが、地は安らかで、穏やかでした[ゼカ1:11]。戦の騒ぎも、戦闘の騒音も全く聞こえませんでした」。これこそ私たちが望んでいることである。倦まずたゆまず熱心に戦い続けようではないか。

 そして今、このように本日の聖句について詳しく語ってきた後で、あなたは、より実際的な主題について私がいくつかの指摘を行なうことを許してくれるであろう。

 自然と浮かぶ問いはこうである。「なぜこの約束は、私たちの時代には、より広汎に成就していないのだろうか?」 多くの人々は云うであろう。「それは、神の主権です」、と。よろしい。私たちは心底から神の主権を信じている。それは、私たちが詳しく語ることを喜びとする教理であり、常に認めるにやぶさかでない教理である。だが、私たちは神の主権を、自分たちのもろもろの罪の大墳墓とすることはできない。あらゆることを神の主権のせいにすることはできない。私たちの信ずるところ、主権は常に、この世のもろもろの罪のみならず、教会のもろもろの罪をも越えて支配している。私たちはそれを最も高く、最もきよい意味において主張する。だが、こうも考える。自分が敗北するたびに、「これは神の主権だ」、と云うのは、途轍もなくはなはだしい間違いである、と。古のイスラエルはそうは云わなかった。彼らは、陣営の中の呪われたものを捜した。彼らは、ベニヤミンによって打ち破られたとき、「神の主権だ」、とは云わなかった。むしろ、主に伺いを立てた[士20:23]。これは神の主権だと云って満足しはしなかった。疑いもなくそれは主権であったが、彼らは別の理由を探し出そうとした。もし、それが発見されるとしたら、その問題を取り除く助けとなり、勝利のもととなるかもしれないからである。

 さて今、愛する方々。私たちがこの宣教という場において、自分の願えるほどには生き生きと成長していない理由は数多くあると思う。では、ごく手短に、それを1つか2つ示唆させてほしい。私は誰の感情も傷つけるつもりはない。

 1つの理由は、私たちがこの件に関して、完全かつ統一された意見を有していないからである。さて、私はバプテスト教派についてはいくらか知っている。私はこれまで英国のあらゆる土地のあちこちをきわめて広く歩いてきたし、非常に多くの教会に行ったことがある。そして、悲しいことに私が目にするのは、わが国の多くの教会が、今なお海外宣教の分野から全く超然と離れて立っている姿である。たとい彼らが私たちの特定の協会から超然としていても、彼らが自分たち自身の宣教協会を持つことを選んでいるとしたら、私もそれほど遺憾には思わないかもしれない。だが彼らは、彼ら自身の協会をも有していないのである。私は彼らには、大きな責めがあると思う。もし彼らが、教理的ないくつかの点で異なっていると考える人々と結びつくことに何がしかの反対を有するというのであれば、弁解の余地があるばかりか、称賛に値する場合すらあるかもしれない。だが、神の恵みの諸教理を強固に奉ずる私たちの誰かが、また、カルヴァンによって教えられた、そして、私たちも信ずる通りキリストによって教えられた真理を誰にもまして強調している者らが、それゆえに何の宣教協会も持たないというのは、はなはだしく大それた、大変な罪である。そして、私が本当に信ずるところ、私たちの団体の中の大きな部分が離反していることこそ、原因はどうあれ、私たちが神からあふれるような祝福を受けていない1つの理由であろう。というのも、この場を眺めてみるがいい! あなたがたは、彼らなしでもやって行けると云う。たいへんに結構。ヨシュアとともにいた民もそう云った。彼が自分の軍を率いてアイを攻めようとしたとき、彼らは云った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください」[ヨシ7:3]。彼らはそれを不必要だと思い、ヨシュアは背後に大部分の兵を残したまま、精強で頑健な兵士たちを率いて行った。しかし、アカンが隠しておいた「聖絶のもの」[ヨシ7:1]が彼らとともにあっては、イスラエルの全軍が欠けていたことは、アイにおける敗北のほんの一因でしかなかったと思う。私たちもそれと同じである。あゝ! もしも自分をバプテストと呼ぶあらゆる兄弟を糾合して、この協会に結びつける手段が何か1つあるとしたら、もし何らかの愛の手立てがあるとしたら、もし何らかの妥協をする道があるとしたら、もし私たちがみな教派として聖なる兄弟同士の共通の絆を結べるやり方か手段があるしたら、私たちはそれぞれ何とかやりくりできるはずだと思う。私は、自分に関する限りこう確信しているが、こう云える。すなわち、地の表のどこを探しても、私が信ずる通りの昔ながらの真理――昔ながらの、強固な、教理的な真理――にこれほど強固に結びついていると同時に、天の下のすべての造られたものに対する熱心な宣教を行なっている教派は1つもない。だが私は、《バプテスト宣教協会》の支援説教をすることを決して場違いだとは思わないし、それを助け、それに熱心に心を傾けることをお門違いなこととは思わない。私には、これが私たちによって創設されたものと考えられる。こうした諸真理を奉ずる当の人々は、その中の第一級の指導者であると思われる。では、何にもまして奇妙で、驚くべきこととと思われるのは、兄弟たちの誰かが、その健全な教理に対する愛ゆえに、種々の海外宣教活動から超然としているということである。私の確信するところ、もし私たちが身を挺して世界大の海外宣教を助けようとしなければ、それは、国内の諸教会として私たちが生き生きと成長することをえぐる刃となる。

 私が今このように語っているのは、おそらくはきょう出席していない多くの兄弟の耳にそれが届くかもしれないからである。私は彼らがこの問題を考え直してくれるものと思う。私は彼らが私たちとともに来るように頼みはしない。――そうしてもらえれば、私たちは非常に喜ぶであろうが、――だが、少なくとも彼らには、彼ら自身の宣教協会を有してほしい。彼らも何かを行なうべきである。また、地上の最果てまで《福音》を送ることを愛さないバプテストも存在しているのだなどと人に云わせてはならない。神がご自分のみわざを行なうのであって、私たちはただじっと座って何もしないでいて良いのだなどという気違いじみたたわごとは、とうの昔に葬られていてしかるべきであった。私はそれをどう評すべきか見当もつかない。それは私たちに途方もない損害をもたらしてきた。私たちの知るところ、神はご自分のみわざに伴ってきたが、常に手段によって働いてきたし、今後もそのようにお働きになるであろう。手段によって働くことに賛成せず、立ち尽くして、「私はそれには同調しない」、と云っている人々、そのような人々によって神がお働きにならないとしても私は不思議に思わない。彼らは、たといそう考えたとしても、神のお働きかけを受けるに値していない。そうしたたわごとは投げ捨てて、こう云おうではないか。「たとい私たちがこうした、海外宣教において連合している兄弟たちに賛同できないとしても、また、たとい私たちがある宣教協会に連合している人々と一致できないとしても、私たちはそれを何か他のしかたで行なうであろう。いずれにせよ、私たちは行なうであろう。というのも、この世の国が私たちの主およびそのキリストのものとなることは、私たちの念願だからである」、と。しかし、やはり、それがすべてではない。私の兄弟たち。もう1つの原因は、私たちの諸教会全体に、海外宣教に対する真の愛が欠如していることにある。そして、もしこのことが何の痛痒も与えず、誰かが、「私の属している教会ではそうではありませんよ」、と云うとしたら、それはそれで良い。私は、一般的な話をしているときに、あらゆる個々人をそれに含めるつもりはない。私の信ずるところ、私たちに成功が欠けている、あるいは、ごく限られた成功しか得ていない1つの理由は、海外宣教を本当に助けている諸教会のうちに、それに対する真の愛がないことである。多くの人々は海外宣教を愛している。キリストの御国の進展を愛している。だが、彼らはシオンを愛するよりも、自分自身の家庭を愛している。むしろ、私たちに判断できる限り、多くの人々が宣教の場に注意を払うのは、その宣教説教が語られる一年のうちの一日だけに限られている。彼らの中のある人々は、その日をも非常に綿密に限定している。というのも、ふところを探って見つかる雀の涙ほどの3ペンス銅貨が、この折の献金としてふさわしいものだからである。彼らは海外宣教を愛している。しかり。それに間違いはない。だが、彼らの愛は昔気質の愛であって、こう云われているような類のものである。「彼女は決して愛を打ち明けることがなかった」。彼らは、決してその愛を何らかの寄付によって語ることをせず、その愛に、彼らの心の中で音無しの構えを取らせ続けている。私たちは、彼らも福音が海外に雄飛することを本当は願っていると考えざるをえない。というのも、彼らはそのことを朗々と大音声で歌っているからである。だが、何か少しでも行なうべきことがあると、彼らはねじを締め上げる。――財布の紐は通常の半分ほども短くされ、それを引き開けることはできない。キリストのためにささげるべきものはほとんど何もない。キリストは、彼らの富のうち、取るに足りない残りかすで我慢しなくてはならない。あゝ! もし私たちの諸教会が海外宣教を愛しているとしたら、もし真の御霊がより多く私たちの真中におられるとしたら、私たちは私たちの青年たちが何十人も立ち上がっては、行って異教徒たちに福音を宣べ伝えるのを見いだしているはずである。そして、そのとき教会は、自らの腹中から生じた青年たちに関心を有し、その宣教師を支えることを自分の義務と考え、造られたすべての者に福音を宣べ伝える者を派遣するであろう。

 私は、エドワード・アーヴィングがかつて莫大な数の会衆に向かって、海外宣教に関する1つの説教をしたことを覚えている。彼は丸四時間も説教していたと思う。そして、その説教の目的は、私たちがみな間違っていると証明することにあった。――私たちは、私たちの宣教師たちを財布も旅行用の袋も持たせず、何も与えずに遣わすべきだというのである! エドワード自身は決して志願しなかった! もし彼がその説教の後でそうしていたとしたら、私たちは彼の哲学を裏書きしていたであろう。しかし、彼は国内にとどまり外地には出て行かなかった。さて、私たちはそうした方針を信じない者である。私たちが思うに、もしある人が支援を得られないとしたら、支援なしで出て行くことは彼の務めである。もしある人が伝道活動を愛しているとしたら、もし彼が貧しさの中でもキリストの福音を宣べ伝えることができさえしたら、神はその貧しさにおいて彼を祝福してくださる。もし彼がパウロのように天幕職人にならなくてはならないとしたら、また、自分で働いて生計を立てなくてはならないとしたらそうである。しかし、教会として私たちにそうすることはできない。「否、否」、と私たちは云う。「兄弟よ。もしあなたが外国に行こうというなら、また、あなたの人生と健康をささげるというなら、また、もしあなたがあなたの家族の慰安を放棄するというなら、私たちは何も持たせずにあなたを行かせることはできない。私たちに最低限できることは、あなたの必要物をあなたに供することである」。そして、ある人は云うであろう。「さあ! 財布や旅行用の袋は持たずに出かけるとしても、船がなければ海を渡ることはできませんよ。私があなたの船賃を払いましょう」。別の人は云うであろう。「あなたは、言葉を学習しなくてはこの人々に説教できませんよ。そして、言葉を学んでいる間は、あなたも飲み食いしなくてはなりません。信仰によって生きたくとも、まず、あなたの身を養えるものが何かなければ全く不可能です。ここにあなたを支援するための基金があります。あなたが、あなたの時間のすべてをみことばの宣教のために費やせるようにするためです」。あゝ! もし私たちはキリストをより良く愛していさえしたなら、私の兄弟姉妹。もし私たちが十字架のより側近くに生きていたとしたら、もし私たちが主の血潮の価値をいやまさって知っていたとしたら、もし私たちが主のようにエルサレムを見下ろして泣いているとしたら、もし私たちが魂の滅びとはいかなることか、人々の救いとはいかなることかをより強く感じているとしたら、――もし私たちがキリストとともに、そのいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する[イザ53:11]ことを見越して喜んでいさえしているとしたら、――もし私たちが、この世の国が確実に私たちの主およびそのキリストのものとなるという神の聖定に、より歓喜を覚えさえしているとしたら、私は確信する。私たちはみな、キリストの福音を送り出す道と手段とをより多く見いだすはずである、と。

 しかし、しめくくりとしよう。ことによると、私はこう云えようし、あなたがたの中のある人々も、涙とともに、それを真実であると告白するかもしれない。すなわち、私たちの国内諸教会で、復興した敬虔さが欠如していることこそ、海外で大きな成功が起こることに対する私たちの希望を妨げているものなのだ、と。あゝ! 兄弟たち。私たちは、自分自身の葡萄畑をより良く耕さなくてはならない。さもなければ神は、諸大陸における広大な田野全域に鋤を送り込もうとすることにおいて、私たちを成功させてくださらないであろう。私たちは、私たちの兄弟たちがより熱心に祈るようになってほしいと思う。私たちの祈祷会を見てみるがいい。――会衆全体にくらべれば、みじめな、一握りほどの人々である。私たちは彼らがより熱心に労苦するようになってほしいと思う。私たちの多くの諸機関を見てみるがいい。有能な働き手不足のため死にかけている。そうした働き手が見いだされても、彼らは進んで働こうとはしない。古の時代の熱心はどこにあるのだろうか? 私たちは、「昔の時代の方が今よりも良かった」、と云う人々の仲間ではない。ある点においては昔の方が良かったが、別の点ではそれほどでもなかった。だが、もし昔の時代の方が良かったとしたら、私たちは嘆いているべきではない。むしろ、今の時代をいやまして良いものとすべきである。私たちは欲している。――煎じ詰めれば、1つのことを欲している。――国内における私たちの諸教会に天来の御霊が注ぎ出されることである。注ぎの油がまずアロンの頭に注がれ、それから、それが彼の服のすそまで垂れていったように、聖霊は英国に注ぎ出され、それから居住可能な世界の最果てまで行くのである。私たちは国内でペンテコステを必要としている。そのとき、メジヤ人、パルテヤ人、エラム人[使2:9]がみことばを聞くことになる。「エルサレムから始まって」[ルカ24:47]こそキリストの定めであり、それこそキリストの方法である。私たちはそこで始めなくてはならない。そして、私たちがそこで始めるにつれて、その波紋はより広く、広く、広くなってゆき、福音はさらに広がって行き、ついには、「栄光(さかえ)の海のごと 極点(はて)から極点へ広まる」のである。

 さて、愛する兄弟姉妹。今朝、帰宅するに際して、少なくとも1つのことだけは持ち帰ってほしい。私たちは神の目的は必ず実現される、と堅く信じようではないか。私たちがその実現の媒介となりうることを、喜びとともに希望しようではないか。それから、私たちの願いが完成に達するために、祈り深く労働しようではないか。きょう、あなたがキリストのためにできることが何かあるだろうか? おゝ! もしあなたがキリストを愛しているとしたら、この日を、主のために何事かを行なわないまま過ぎ去らせてはならない。主のために語るがいい。主にささげるがいい。主のために祈るがいい。しかし、毎日を宣教日として費やすがいい。そして、日々あなたはキリストのための宣教師となるがいい。家の中で始めるがいい。あなたの愛は広げるべきである。だが、まずは家内から始めるがいい。あなたがた自身の家々について気遣い、それから、あなたがた自身の会堂について気遣うがいい。その後でなら、あなたがたは自分の宣教師たちを地のあらゆる部分に遣わすことができるのであろう。私はきょう、多くの献金がなされることを切に願う。私たちがこの場所に集まるのは初めてのことであり、ここには多数の人々がいる。もし私たちがきょう本当に多くの献金をささげないとしたら、それは私たちの名折れとなるであろう。否、それは控えめにすぎる表現である。きょう多くの献金が集まらなかったとしたら、それは私たちの恥辱となるであろう。だが、それだけでなく、もし私たちの名折れとなるようなことをしたら、私たちはイエスに対する自分たちの愛を証明しないことになろう。だから、神があなたに与えてくださったように、あなたも与えるがいい。

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主の荒廃、その聖徒たちの慰め[了]

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