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無代価の救い

NO. 199

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1858年6月11日、金曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於エプソム競馬場、正面観覧席


「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」。――イザ55:1


 見ての通り、今晩の私には売り物がある。私はあなたをここに招いて、それを買うよう促さなくてはならない。それは、福音の中で今夜宣告されているものである。さて、人が何かを売ろうとするとき、普通は、その品物を陳列し、その性質について解説し、それがいかにすぐれたものであるか云い立てるものである。というのも人々は、陳列されているものの特性を知らされない限り、それを買う気分にはならないのが常だからである。それこそ今晩の私の第一の務めとなるであろう。それから、何かを売ろうとしている者は、次のこととして、話を聞いている人々を、自分が売ろうとしている値段へと引き上げようと努める。今夜の私の務めは、あなたをその値段へと引き下げることである。――「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」。それからしめくくりとして、私たちが宣べ伝える特権を与えられている、この栄光に富む救いを蔑み、この気前の良い条件――「金を払わないで、……代価を払わないで」――に背を向ける人々に向かって、いくつか熱心な説得の言葉を語りたいと思う。

 I. 第一のこととして、私が今夜宣べ伝えなくてはならないのは、《葡萄酒と乳》である。――「さあ……ぶどう酒と乳を買え」。ここに、福音が描写されている。――人の心を喜ばせる葡萄酒[詩104:15]、いのちに欠かせないすべてのものを含む、世界で唯一無二のものたる乳。いかに強壮な人も、乳だけでいのちをつなぐことができる。というのも、その中には人体にとって――骨にとって、腱にとって、神経にとって、筋肉にとって、肉にとって――必要なあらゆるものがあるからである。すべてがそこにあるのである。ここでは二重の描写がなされている。福音は、私たちを喜ばせる葡萄酒のようである。人が私たちの主イエス・キリストの恵みを真に知るとき、その人は幸せな人となり、キリストの御霊を深々と飲めば飲むほど、いや増して幸せになる。みじめになることを義務と教えるようなキリスト教信仰は、一目で偽りと分かる。というのも神は、世界を造られたとき、ご自分の被造物たちの幸福を考慮されたからである。あなたは、身の回りにあるすべてのものを見るとき、こう考えずにはいられないであろう。神は、細心の心配りをもって、周到に人を喜ばせる道を探り求められた。神は単に私たちに絶対必要なものを与えたばかりでなく、それ以上のものを与えられた。ただ役に立つものだけでなく、飾りとなるものさえ与えられた。生垣をなす灌木の花々や、天空の星々や、自然の数々の美や、丘々や谷々――これらすべてが定められたのは、単に私たちがそれらを必要とするからではなく、神が私たちに向かって、いかにご自分が私たちを愛しているかを、また、いかに私たちが幸せになることを切望しているかをお示しになろうとしたからである。さて、この幸福な世界を造られた神が、みじめな救いをお送りになるというのは、ありそうもないことである。幸せな《創造主》は、幸せな《贖い主》となるであろうし、主がいつくしみ深い方であることを味わった者たち[Iペテ2:3]は、キリスト教信仰の道が「楽しい道であり、その通り道はみな平安である」[箴3:17]、と証言できるであろう。そして、たとい現世がすべてであり、死が私たちの生のすべての埋葬であり、屍衣が永遠の経帷子だとしても、それでもキリスト者となることは明るく、幸いなことであろう。というのも、それはこの涙の谷を明るくし、その谷間にある泉を愛と喜びの流れでなみなみと満たすからである。こういうわけで、福音は葡萄酒のようなのである。また、福音は乳のようでもある。というのも、福音の中にはあなたが必要とするすべてがあるからである。あなたは、苦難の中にあるとき支えとなる何かを欲しているだろうか? それは福音の中にある。――「苦しむとき、そこにある助け」[詩46:1]がある。あなたは、義務に向かうとき自分を元気づけてくれる何かを必要としているだろうか? 神があなたをいかなることに召して、耐え忍ばせようと、あるいは、成し遂げさせようとなさるときにも、一切を満ち足らわせる恵みがある。あなたは、自分の希望の目を輝かせる何かを必要としているだろうか? おゝ! 福音には、あなたの希望の目を不滅の至福の炎で照り映えさせる喜びの閃光がある。あなたは、誘惑のただ中で自分を堅く立たせる何かを欲しているだろうか? 福音には、あなたを不動の者とし、いつも主のわざに励む者とする[Iコリ15:58]ことのできるものがある。いかなる情動、いかなる情愛、いかなる思想、いかなる力であれ、あふれるばかりに福音で満たせないものはない。福音は明らかに人類のためのものである。それは、そのあらゆる部分において人類にしっくり当てはまるものとされている。そこには頭のための知識があり、心のための愛があり、足のための導きがある。私たちの主イエス・キリストの福音には、乳と葡萄酒があるのである。

 そして私が思うに、この2つの言葉、「乳と葡萄酒」にはもう1つ意味がある。葡萄酒は、知っての通り高価なものである。多くの時間をかけて製造されるものである。葡萄の収穫があり、熟成があり、貯蔵があって初めて、葡萄酒はその完全な味わいに至る。さて、福音はそのようなものである。それは祭りのための特別のものである。それは、収穫された思想と、熟成した行動と、貯蔵された経験を利用させる力を人に与え、ついには敬神の念が泡立つ葡萄酒のように生じて、心を喜びで躍り上がらせるまでとなる。私は云うが、それこそキリスト教信仰にあるものである。それこそ、キリスト教信仰を特別のもの、まれな機会のためのもの、君主たちが宴席に着く時に持ち出されるべきものとしているのである。しかし、乳は平凡なものである。それは毎日どこででも手に入る。ちょっと農場に入ればそこにある。何の準備も必要ない。手を伸ばせばそこにある、ありふれたものである。福音もそれと同じである。それは日用のものである。私は日曜日に福音を愛しているが、神はほむべきかな。それは月曜日の福音でもある。福音は会堂のためのものであり、教会のためのものであり、そこでは葡萄酒のようである。しかし、福音は農場のためのものであり、あなたが鋤の背後に認めることのできるものであり、帳場のかげで鼻歌に歌えるものである。キリストを信ずる信仰は、あなたとともにあなたの店へ、取引所へ、市場へ、至る所へ入り込む。それは乳のようである。――毎日の飲み物――あなたが常に有するもの、常に舌鼓を打てるものである。おゝ! 感謝すべきかな。そこには、私たちが顔と顔とを合わせて《救い主》にお会いする祭日のための葡萄酒がある。私たちがヨルダンの流れを渡る恐ろしい日のための葡萄酒がある。――私たちの恐れを取り去り、《死》の暗澹たる波浪の最中でも歌うように命ずる葡萄酒である。だが、神に感謝すべきかな。そこには乳もある。――日々の出来事、日々の行動のための乳、私たちが生きてある限り飲める乳、また、最後の大いなる日が来るときまで私たちをはぐくんでくれる乳がある。

 さて、私は本日の聖句の比喩を説明し終えたと思う。だが、それでもある人は云うであろう。「福音とは何ですか?」 よろしい。私の受け取るところ、福音については多種多様な見方ができるが、今夜はそれをこのように云い表わしてみたい。――福音とは、イエス・キリストの贖いの血潮による完全で、無代価の、現在における、永遠の赦しを罪人に対して宣べ伝えることである、と。もし私が少しでも福音を理解しているしたら、その中にはそれよりもはるかに大きなものが含まれている。だが、それでも、これこそがその実質である。私が今夜宣べ伝えなくてはならない偉大な事実、それは、すべての人は罪を犯してきたが、キリストが死なれたことによって、完全に無代価で赦されることができるということである。――無代価というのは、それを得るために何もしなくて良いという意味である。罪に打ちひしがれた最も卑しい罪人でさえ、ただ自分の哀れな悲嘆を神の前に注ぎ出すだけで良い。それが、神のお求めになるすべてである。いかなる資格も必要とされない。――

   「主、汝れに要求(もと)む 資格(もの)みなは
    汝が主の必要(もとめ) 感ずことのみ。
    こは 主の汝れに 賜うものなり、
    こは主の御霊の 立ちし光なり」。

悔悟の年月を過ごす必要は全くない。難行苦行や辛苦の年月を経る必要は全くない。福音は、あなたが呼吸している空気と同じくらい無代価である。あなたは息をするたびに金を払いはしない。日光を見る料金を払いはしないし、喉が渇いたとき身を屈めて飲む小川の水に料金を払いはしない。そのように福音は無代価である。それを手に入れるためになすべきことは何もない。それを獲得するため持ち出す必要のある功績は何もない。イエス・キリストの血によれば、罪人のかしらにさえ無代価で赦しがある。しかし、私はそれが完全な赦しであると云った。その通りである。キリストが何かをなさるとき、それを中途半端にしておくことは決してない。主は今夜、この場にいて、神の恵みによって今そのあわれみを求める用意ができているあらゆる魂のすべての罪を拭い去り、すべての不義をきよめることを望んでおられる。罪人よ。もしいま神があなたの心に、主を求める思いを入れておられるとしたら、神があなたに与えようと用意しておられる赦しは完全なものである。あなたのもろもろの罪の一部分のためだけの赦しではなく、そのすべてを即座に赦すものである。――

   「こは古き そむきの罪の赦しなり。
    いかに黒きも 消されたり。
    わが魂(たま)、見るべし、驚きて。
    罪ある所に 赦しもあらば」。

ここには、あなたの酩酊のための赦しがあり、あなたの悪態のための赦しがあり、あなたの情欲のための赦しがあり、あなたの天に対する反逆のための赦しがある。あなたの若い日のもろもろの罪のため、また、あなたの老年のもろもろの罪のため、聖所におけるもろもろの罪のため、また、売春宿や居酒屋におけるもろもろの罪のための赦しがある。ここには、一切の罪のための赦しがある。というのも、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ」るからである[Iヨハ1:7]。しかしさらに、私たちが宣べ伝えなくてはならない赦しは、現在における赦しである。もしあなたが、自分には《救い主》が必要であると感じているとしたら、また、もし今あなたにキリストが信じられるとしたら、あなたはいま赦される。月並みな希望を有している人々は、自分も死ぬときには赦されたいものだ、と云う。しかし、愛する方々。それは私たちが宣べ伝えているキリスト教信仰ではない。もしあなたがいま罪を告白し、いま主を求めるとしたら、あなたはいま赦されるのである。人は、たとい自分のもろもろの罪を石臼のように首にかけてこの場にやって来たとしても、また、それが地獄の最底辺までその人を沈み込ませるほど重いものであったとしても、それでもこの扉から出て行くときには、あらゆる罪を拭い去られていることがありえる。もし今その人に主が信じられるとしたら、その人は今夜、完全な赦しを神の御手から受けることができよう。罪人の赦しは、その人が死にかけているときになされはしない。その人が生きているときになされる。――今なされる。そして、思うにこの場にいるある人々は、――それも、少なからぬ数の人々は、――今晩、自分が赦されている事実を喜ぶことができるのである。おゝ! 人がこのことを歌い、かつ口ずさみながら神の大地を踏みしめることができるのは素晴らしいことではないだろうか? 「私は赦されている。赦されている。私の罪は赦されているのだ」。これは、世界中で最も甘やかな歌の1つだと思う。――御座の前における智天使たちの歌にもほとんどひけを取らない歌だと思う。――

   「おゝ、かの流れ、甘き眺めぞ、
    たましい贖う 主の血の河は!
    神より堅く 知らされたれば、
    神との和解 主われに得しと」。

おゝ! あなたがた、嘆き悲しむ魂たち。このような救いを手に入れるためとあらば、あなたは何を惜しむだろうか? これは金も代価も払うことなくあなたに宣べ伝えられており、私はこう叫ぶように命ぜられている。「ああ。渇いている者はみな、もしキリストの必要を感じているとしたら、また、もし今あなたのもろもろの罪を告白する用意があるなら、ここへ来て、金も代価を払わないで受け取るがいい」。しかし、最も良いことが最後まで残っている。今夜宣言されている赦しは、単に無代価で、完全で、現在におけるものであるばかりでなく、それは永遠に永続する赦しである。もし女王が誰かを赦免するとしたら――無代価の赦しを授けるとしたら――、その人が同じ違反のために罰を受けることは不可能である。しかしながら、女王が執行猶予を授けることも多々あり、それは完全な赦しではない。いくつかの事件において人は、部分的には赦しを受け、その犯罪のために処刑されることはないものの、女王陛下の意向する間だけ禁固される。さて、私たちの主は、決してそうはなさらない。主はそのすべてをことごとく始末される。主が残しておかれる罪は1つもない。主がある魂を洗うとき、それは吹きだまりの雪よりも白くされる。神は事を完全に行なわれる。しかし、その最高の部分は、ひとたび神がなされたことが永遠になされているということである。これこそ福音の栄光そのものである。もしあなたが今夜赦しを得るなら、あなたはいま救われるが、決して今後罪に定められることはない。もしある人が心を尽くしてキリストを信ずるとしたら、その人の救いは何の危険もなく安全である。そして、私は常にこのことを救いの冠のまさに宝玉であるとみなしている。救いは、取り消しえないのである。もし私が自分の魂を神の御手にゆだねるとしたら、

   「わが主の栄誉(ほまれ) かかりたり、
    いかな小羊(ひつじ)の 救いにも。
    天父(ちち)の給いし ものみなを
    主の御手かたく 守り抜かん。

   「死も地獄(よみ)もなど 分かちえじ
    主の愛すものを 御胸より。
    御神のいとし ふところに
    御民(たみ)とこしえに 安くあらん」。

神は、きょうあなたをご自分の子どもとしておきながら、明日あなたを放り出すようなことはなさらない。きょうあなたを赦しておきながら、翌日あなたを罰するようなことはなさらない。神が神であられるのと同じくらい真実に、もしあなたが今夜あなたの赦罪を得るとしたら、キリスト者よ。たとい大地が、大波の上に浮かんではたちまち割れて永遠に消え失せる泡ぶくであるかのように溶け去り、この大いなる宇宙が、朝日の前の霜のように過ぎ去ることがあるとしても、あなたは決して罪に定められない。神が神であられる限り、署名され封印された恩赦状を有する者は、いかなる害も及ばないところにいる。私はこれ以外のことを宣べ伝えないであろう。――宣べ伝えるつもりもない。そんなものなど受け入れる価値はない。わざわざ説教する価値もない。だが、この救いはいかなる人も実際有すべき価値あるものである。というのも、それは確実な投資だからである。キリストの御手に自分をゆだねた人には、何が来ようと確実な守り手がいる。――そして、いかに強大な誘惑や激しい患難がやって来ようと、また、いかに非常な苦痛や、重い義務があろうと、私たちを助けてくださったお方は私たちを背負い続け、私たちをも圧倒的な勝利者[ロマ8:37]としてくださるのである。おゝ! 赦された者となること、また、永遠に自分が赦されているという確実な保証を得ていること、投げ捨てられる危険が全くないということは何と素晴らしいことか!

 そして今、やはり私が宣べ伝えるのは、この救いである。というのも、これは金も代価も払わずに宣告されている葡萄酒であり乳だからである。愛する方々。これらすべてはキリストを信ずる信仰によって得られる。――あの木の上で死なれたお方、また、私たちに代わってご自分のいのちを呻き捨てられたお方を信ずる者は誰でも――決して審かれることがない[ヨハ5:24]。その人は死からいのちに移っており、神の愛がその人のうちにとどまっているのである。

 II. さて今、このように品物を陳列した上で、私が次に行なうべき務めは、《入札者たちを、競り売り台の所まで連れて行き、それを売る》ことである。私の問題は、老ロウランド・ヒルが云ったように、あなたの払う代金を私の売値まで引き下げることである。彼はある市場で説教していた。そして、ひとりの人が自分の品物を売っている声を聞いて、「あゝ!」、と彼は云った。「そこにいる方々について云えば、その問題は人々の払う代金を自分の売値まで引き上げることにある。だが私の苦労は、あなたがたの払う代金を私の売値まで引き下げることにあるのだ」。

 さて、ここには、金も代価も払わずに完全に宣べ伝えられた福音がある。そこへ、ある人がやって来て、この聖なる講壇を、一瞬の間、競り売り台に変えてこう叫ぶ。「私は買いたい」。あなたは、そのために何を与えるだろうか? 彼が両手を差し出すと、持ちきれないほどのものが載っている。実際、彼は自分の前掛けを持ち上げて、さらに多くのものを差し上げなくてはならない。というのも、彼のあらゆる善行は、ほとんどかかえきれないほどだからである。彼には数え切れないほどの《アヴァマリア》[聖母マリヤへの祈り]があり、《パターノスター》[主の祈り]がある。ありとあらゆる種類の聖水によって十字を切ること、膝をかがめること、祭壇の前にひれ伏すこと、聖体を尊崇すること、ミサに出席すること等々がある。フランス語で、人々はミサのことを messe と呼ぶが、まさにこれは「滅せ」と云って間違いないものである。だが、非常に多くの人々がそれにより頼んでいる。そして、神の前に出るときには、こうした事がらのすべてを持ち出しては、自分のより頼む根拠とするのである。

 さてそれでは、ローマカトリック教徒殿。あなたは救いを得ようとしてやって来たのだろうか。それで、こうしたすべてをかかえて来たのだろうか。愛する方。まことに残念ながら、あなたはこの台から、あなたのすべての業績とともに去って行かなくてはならない。というのも、それは、「金を払わないで……代価を払わないで」得る救いであり、あなたが空し手でやって来る覚悟ができるまでは、決してそれを得られないからである。もしあなたがあなた自身のものを何か有しているとしたら、それを受け取ることはできない。「ですが」、と彼は云う。「私は決して異端者ではありませんよ。私は教皇に忠実ではないでしょうか? 私は告解を行ない、赦罪を得ては、自分の1シリングを払っていないでしょうか?」 あなたはそうしているのか、愛する方。では、あなたが自分の1シリングをそのために払っているからには、それは何の役にも立たない。何かの役に立つものは、「金を払わないで……代価を払わないで」手に入れることができるからである。私たちが代金を払っている明かりは病的な光だが、天から無料で手に入れている明かりは豊かに健康的な光であって、これこそ心を喜ばせるものである。そのようにキリストからやって来る赦しは、「金を払わないで……代価を払わないで」得られるのである。

 そこに別の人がやって来て、こう云う。「私はあなたがあのカトリック教徒をやりこめてくださって嬉しく思いますよ。私はローマ教会を憎んでいます。私は真のプロテスタント教徒であって、救われたいと願っています」。あなたは、何を持って来ただろうか? 「おゝ、私は《アヴァマリア》だの《パターノスター》だのは持って来ませんでしたよ。私はそうした名前には虫酸が走ります。そうしたラテン語の名前など好きではありません。しかし私は、国教会の特祷を毎日曜日唱えます。私は自分の祈りには非常に注意を払っています。私は教会堂の扉が開くなり、ほとんどすぐに礼拝に出るのです」。あるいは、(もしその人が非国教徒だとしたら)、「私は安息日には三回、会堂に出かけますし、祈祷会にも出席します。それに、誰の金銭をもごまかしません。むしろ、よけいに払ってやるくらいです。私は誰をも傷つけようとは思いません。できるものなら、虫けらも踏まないようにします。私は常に気前が良く、できる時には貧者を助けてやります。たまには、うっかり過ちを犯すこともありますし、少しばかり道を踏み外すこともあるかもしれません。それでも、もし私が救われないとしたら、誰が救われるのか見当もつきませんね。というのも、私にはほんの少ししか罪はないからです。そして、その少しも、他の人々を傷つけるようなものではありません。それらは、誰にも増して私を傷つけるものです。それに、ほんの些細なことなのです。私も一年に一日か二日は羽目を外しますが、結局人は、少しは娯楽を持たなくてはなりませんしね。請け合っても良いですが、私は誰よりも善良で、誰よりも正直で、誰よりも謹厳で、誰よりも宗教的な人間のひとりですよ」。よろしい。愛する方。私はあなたがローマカトリック教徒と仲違いをしていると聞いて残念に思う。双子の兄弟に行き違いがあるのを見たくはないからである。あなたがたはふたりとも、同じ親類縁者である。嘘ではない。というのも、教皇制の真髄は、行ないと種々の儀式による救いだからである。あなたは、彼の行ないや儀式は行なっていないが、それでも、あなた自身の行ないや儀式によって救われようと望んでおり、あなたは彼と全く同じくらい悪い。私はあなたを追い払おう。あなたのための救いはない。というのも、それは、「金を払わないで……代価を払わないで」得るものだからである。そして、あなたがこうした見事で立派な自分の行ないを持ち出す限り、あなたにそれを得ることはできない。よく聞くがいい。私は、そうした物事にいかなる難癖もつけているのではない。それらはそれなりに良いものではある。だが、それらは今夜ここでは役に立たないのである。そして、神の審きの法廷でも役に立たないであろう。こうした事がらを、あなたの好きなだけ実践するがいい。それらはそれなりに良いものである。だがそれでも、救いという問題に関しては、あなたはそれを打ち捨てて、あわれな咎ある罪人として救いのもとに来て、それを「金を払わないで……代価を払わないで」得なくてはならない。ある人は云うであろう。「あなたは、良い行ないにけちをつけているのですか?」 決してそうではない。かりに、ある人が家を建てているのを私が見たとしよう。そして、その人が愚かにも、煙突の天辺につける何本かの通風管を土台にしていたとしよう。たとい私が、「もしもし、煙突の通風管を土台に据えるのはいかがかと思いますが」、と云うとしても、あなたは私がその通風管にけちをつけているとは云わないであろう。むしろ、私はそれを間違った場所に置いている人間の方にけちをつけていると云うであろう。最底辺には、まともで堅固な石造の土台を置くがいい。そうすれば、家が建った後でいくらでも多く通風管をつけてかまわない。良い行ないや儀式についても、それと同じである。それらは土台としては役に立たない。土台はもっと頑丈な材料で作らなくてはならない。私たちの希望は、イエスの血と義以下の何物の上にも建てられてはならない。そして私たちは、それを土台とした後なら、好きなだけ多くの良い行ないをしてよい。――多ければ多いほど良い。しかし、土台としては、良い行ないはあてにならない、か弱いものであり、それらを用いる人は自分の家が地面に崩れ落ちるのを見ることになるであろう。

 しかし、別の人を見るがいい。彼は非常な遠方にいて、こう云う。「先生。あっしは、そちらへ行けねえと思います。あっしには、そちらへ行って、救いをいただこうなんてできねえです。先生。あっしは学のねえ人間です。これっぽっちも教養はねえし、字も読めねえです。読めりゃあいいですが。あっしの子どもたちは《日曜学校》に通っております。あっしの頃にもこうしたもんがあれば良かったすが、あっしは字が読めません。そんじゃ天国へ行こうなんて高望みはできませんや。時にはあっしも教会に行きますが、おゝ、何てこった! 何にもなりゃしません。教会の先生の使うような長ったらしい言葉は、まるで理解できねえです。時には会堂にも行きますが、てんでちんぷんかんぷんです。倅が歌ってる賛美歌を少しはあっしも知っております。

   『いとも優しく おだやかなイエス』――とか、
    『やがて来たるは 別れのない日』、とか

先生方も、こういった感じで説教してくだされば良いですが。そうすりゃ、もしかするとあっしにも分かるかもしれねえです。ですが、あっしは教養のねえ人間です。先生。それで、あっしが救われるとは思えねえです」。おゝ、私の愛する方。あなたは、そんなに後ろの方に離れて立っている必要はない。さあ、ここに来るがいい。天国に行くには、何の教養もいらない。疑いもなく地上では、物を知っているに越したことはない。だが、天国では、それはあなたにとって特に何の役にも立たない。もしあなたが「汝が称号(な)をさやかに 天空(そら)の邸宅(やかた)に」読めるとしたら、また、自分が失われた罪人であること、また、キリストは大いなる《救い主》であられることだけ知っているとしたら、それだけで、あなたが天国に行くために知るべきことは知っているのである。天国にいる多くの人々は地上では一文字も読んだことがなかった。――自分の命がかかっているような場合も、自分の名前を署名することができず、「トム・スタイルズのしるし」として×印を書くしかなかったような多くの人々が、天国の最も輝かしい人々の間にいるのである。ペテロその人でさえ、イエス・キリストを仰ぎ見て光を受けた、多くのあわれで無知な魂よりも輝かしい地位は占めていないのである。私はあなたの慰めとなることを聞かせよう。あなたは知らないだろうか? キリストは、貧しい者には福音が宣べ伝えられている、と仰せになり[マタ11:5]、それだけでなく、こう云われた。「人は悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」*[マタ18:3]。これは、私たちが小さな子どものように福音を信じなくてはならないという意味でなくて何だろうか? 小さな子どもに大した学問はない。云われたことを信ずるだけである。そして、それこそあなたがすべきことなのである。あなたは、神があなたにお告げになることを信じるべきである。神は、イエス・キリストが罪人を救うためにこの世に来られたと云っておられる[Iテモ1:15]。これは全く難しくないことではないだろうか。あなたはそれを信ずることができる。そして、もしそうできるとしたら、たといあなたがあらゆる人間の知識に欠けているとしても、あなたは疑いもなく、今のあなたが知らないことを、死後知るようになるであろう。

 さて、私にはある人がこの屋台店にやって来るのが見える。彼は云う。「よろしい。その救いをいただきたいのですが。先生。私は遺言状に教会を1つか2つ、また、私設救貧院を二、三軒立てるような規定を定めています。私は常に自分の財産の一部を神の国の進展のためにささげています。私は常に貧者や、そういった人々を救援しています。私には相当多額の金銭の持ち合わせがありますが、それをため込んでおかないように注意しています。私は気前がよく、物惜しみをしません。私は貧しい商店主たちの開業を手伝ってやったりまったりしています。これで私は天国に連れて行かれるではないでしょうか?」 よろしい。私はあなたのことが非常に気に入った。あなたのような種類の人々がもっといてほしいと思う。確かに気前の良さ、物惜しみのなさに代わるものは何もない。それが病者や貧者、貧窮者や無知な人々に対して、また、神の御国の進展のために披瀝されるときにそうである。だが、もしあなたがこうした事がらを自分の天国の望みとして持ち出すとしたら、私の愛する方。私はあなたの迷夢を覚まさせなくてはならない。あなたは黄金で天国を買うことはできない。何と、そこでは街路が黄金で敷きつめられているのである。私たちは黙示録で告げられていないだろうか? 都の大通りはみな透き通った硝子のような純金であった、と[黙21:21]。何と、たといあなたが二万ポンド有していようと、それで敷石1つ買えないであろう。ロスチャイルド男爵が有り金全部はたいても、天国を一呎たりとも買えないであろう。それは金銀で買うには尊すぎる場所なのである。たとい一目天国を見るために印度諸国の富のすべてが投げ出されようとも、それは無駄であろう。心が思い描くことができるか、貪欲が願うことのできるだろう一切の黄金をもってしても、天国の真珠の門の内側を遠望することすらできる人はいない。いくら寄付しようと無駄である。キリストは決してそれを売りはしない。――決して。――なぜなら、その価値に見合うものとして持ち出せるものは何1つないからである。キリストがで買い取られたものを、あなたが黄金で買うことはできない。主が私たちを贖われたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、ご自分の尊い血によった[Iペテ1:18-19]。そして、それ以外のいかなる代価も許されることはありえない。あゝ! 愛する富める方々。あなたは、自分の最も貧しい労務者と全く同じ水準に立っている。あなたは広幅の織物を着ており、彼は綿麻物を着ている。だが、彼はあなたと同じくらい救われる機会を有しているのである。あゝ! 愛する淑女の方々。繻子織りは、天国では、白木綿や木綿以上に好まれはしないのである。

「これよりは だれも除かることはなし。自らを 除き去る者ならざれば」。

富は地上では区別をつけるが、キリストの十字架のもとでは何の区別もつけない。あなたがたはみな同じようにイエスの足台へとやって来るか、全く来ないかのどちらかである。私の知っているある教役者がこんな話をしてくれたことがある。彼はかつて、ひとりのカトリック教徒の臨終の床に呼ばれたという。相手はこの世では非常に裕福であった。そして彼女は云った。「バクスター先生。私が天国に行くときには、下女のベッツィーもそこにいるとお思いになります?」 「そうですな」、と彼は云った。「私は奥様のことはよく知りませんが、ベッツィーならそこにいるでしょうよ。もし私がだれかひとり敬神の念に富む娘を知っているとしたら、あの子こそそうですからな」。「ようござんす」、とこの奥方は云った。「そこには多少は区別があるとはお思いになりませんか? というのも、私は、ああした種類の娘と一緒に席に着く気にはなれませんの。あの子ときたら、たしなみも、教育もなくて、私にはきっと耐えられないでしょうよ。少しは区別があって当然だと思いますわ」。「あゝ、そんなことでお悩みになる必要はありません。奥様」、と彼は云った。「奥様とベッツィーの間にはたいへんな区別ができるでしょうよ。もし奥様が今のようなお気持ちのままお死にになるとしたらですな。ですが、その区別は不都合なものとなるでしょうな。というのも、あなたはベッツィーがアブラハムのふところにいるのを目にしながら、ご自分は投げ捨てられることになるからです。奥様の心の中にそのような高慢がある限り、奥様は決して天国には入れませんな」。彼は非常に歯に衣着せないしかたで話をし、彼女は大いに憤慨した。しかし、彼女は自分の女中のベッツィーとともに席に着くよりは、天国の外にいる方を好んだと思う。そうしたければ、私たちは、地上では身分や称号を尊重しよう。だが、福音を宣べ伝えるとき、私たちはそうしたものは何1つ知らない。私は、たとい国王たちの居並ぶ集会で説教するとしても、どん百姓の会衆を相手にする場合と同じ福音を宣べ伝えるであろう。王座についた国王も、宮殿にいる女王も、あなたや私と異なる福音を有するわけでは決してない。私たちがいかに卑しく微賎の者であろうと、天国の門は大きく開かれている。私たちのためには、天下の公道がある。公道は富者のためと同様貧者のためのものでもある。天国もそれと同じである。――「金を払わないで……代価を払わないで」得られる。

 さて、私は向こうにいる親愛なカルヴァン主義者がこう云っているのが聞こえる。「よろしい。気に入りましたよ。ですが、それでも私は、自分もやって来ることができると思いますね。そして、確かに私もあなたとともに、――

『わが手にもてる もの何もなし。ただ汝が十字架に われはすがらん』

と云えるとしても、それでも私には、このことが云えます。――私には深い経験があるのです。先生。私は私自身の心の呪いを見てとるように導かれ、非常に強い感銘を心に受けてきました。私がキリストのもとに行くとき、私は自分の感情に大いに頼ります。私は、あなたがありとあらゆる種類の罪人たちにキリストのもとに来るよう招くのは正しくないと思います。ですが、私を招くことについては何の間違いもありません。私は正しい種類の者だからです。私はあの取税人のような種類の者です。私はそう考えるほどには十分パリサイ人的です。私がキリストのもとにやって来るべき特別の命令を受けていることは何にもまして確実です。というのも、私の有する経験は、もし私が自叙伝を書いたとしたら、あなたも、『これは素晴らしい経験だ、この人にはキリストのもとに来る権利がある』、と云うだろうようなものだからです」。よろしい。愛する方。あなたをうろたえさせることは残念だが、私にはそうせざるをえない。もしあなたがキリストのもとに行くとき、自分の経験をキリストのもとに持ち出すとしたら、あなたは自分のミサや《アヴェマリア》を持ち出すローマカトリック教徒と同じくらい悪い。私はあなたの経験が大いに気に入った。もしそれがあなたの心における神の恵みの働きだとしたらそうである。だが、もしあなたがキリストのもとに来るとき、それを持ち出すというなら、あなたはそれをキリストに先立つものとして置いているのであり、それは1つの反キリストなのである。そんなものは取り除くがいい! 取り除くがいい! 私たちは、あわれな罪人たちに向かって説教し、生まれながらの彼らの状態と彼らの感情を描写しようと努めてきたとき、結局私はこう恐れてきた。私たちは、自分を義とする思いを助長し、自分の聴衆たちに、ある特定の感情を持たなければ、キリストのもとに来ることができないと思わせるような教えをしているのではないか、と。できるものなら私に、ただ、考えうる限り最も広いしかたにおいて福音を宣べ伝えてさせてほしい。そして、それが最も真実なしかたである。キリストは、あなたの感情など、あなたの金銭と同じ程度にしか欲しておられない。つまり、全然欲しておられない。もしあなたが素晴らしい経験を欲しているとしたら、キリストのもとに来なくてはならない。――

「主、汝れに要求(もと)む資格(もの)みなは 汝が主の必要(もとめ)感ずことのみ」。

しかり。だが、待つがいい。――

   「こは 主の汝れに 賜うものなり、こは主の御霊の 立ちし光なり」。

あなたは、主のもとに来て何もかもを得なくてはならない。あなたは、こう云ってはならない。『よろしい。私はまず信じよう。そしてから、行くことにしよう』、と。否。信仰を求めてキリストのもとに行くがいい。あなたは、罪の感覚を得るためにすら、十字架を仰ぎ見なくてはならない。私たちは、十字架を見るまでそれほど自分のもろもろの罪を感じることはない。だが、その後になるとそれを大いに感じるのである。私たちはまずキリストを仰ぎ見る。そうすると、悔い改めが、滂沱の涙を流す私たちの両眼からあふれ流れる。覚えておくがいい。もしあなたがそれ以外のどこかに行って《救い主》を見つけようとするなら、それは間違っている。もしあなたが何かをキリストのもとに持って行こうとするなら、それは――素朴なことわざを用いると――ニューカースルに石炭を持っていくというものである。主は、あり余るほどお持ちである。――あなたのものなど、何1つ必要ではない。それどころか、主は、あなたの手に何かがあるのを見るなり、ただちにあなたを追い払うであろう。主は、あなたがこう云えるようになるまで、あなたとは何の関わりもお持ちにならないであろう。――

   「わが手にもてる もの何もなし。ただ汝が十字架に われはすがらん」。

私は、ひとりの黒人の話を聞いたことがある。彼は罪を確信させられていたが、同時に彼の主人も罪の確信の下にあった。黒人は神との平和を見いだしたが、主人は長いこと何の希望もなく求め続けていた。とうとう彼は云った。「わしには、どうしても分からん。どうしてお前はそんなにすぐ慰めを見いだせたのに、わしは全く慰めを得られないのだ?」 それで黒人は、思っていることを率直に云って良いと許しを得てから、こう云った。「旦那様。そらこういうことだと思いますだ。エス様が、『来なさい』、と仰るときには、『私はお前に、天辺から爪先までかぶる義をやろう』、と仰ってますだ。おらは、可哀想な黒んぼのおらは、自分を見下ろして、汚ねえぼろ切れしか着てねえのを見て、云うんですだ。『主よ。おらに着せてくだせえ。おらは素っ裸ですだ』。――すると、おらのぼろ切れは、なくなっちまいますだ。さて、旦那様。旦那様はそれほど悪くねえです。エス様が、『来なさい』、と旦那様に仰るときには、旦那様はご自分の外套を見て、こう云いなさるだ。『ふむ。これは少しはつくろわなきゃいかんが、もう少し着ていられるだろう。ここに大きな穴が開いてるが、つぎをあてて縫いつければまだ役に立つだろう』。それで、旦那様は、古い外套を着っぱなしなんですだ。旦那様はつぎをあてては、縫い物をするのに大忙しで、全然慰めを受けられねえですだ。だけんど、それを脱いじまえば、旦那様はすぐにでも慰めを受けられますだ」。まさにその通りである。私たちは、キリストのもとに行く前に何かを得ようとするものなのである。

 さて、おそらくこの会衆の中には、人間のこの異様な愚かさ――キリストに何かを持っていきたいという願望――を百もの異なるしかたで呈している人々がいるであろう。「おゝ」、とある人は云うであろう。「私はキリストのもとに行きたいのですが、私はあまりにも大罪人すぎます」。それも自我である。あなたが大罪人であることは、それとは何の関係もない。キリストは大いなる《救い主》であられ、あなたの罪がいかに大きくとも、主のあわれみはそれよりも大きい。主はあなたを単に罪人として招いておられる。あなたが大きかろうと小さかろうと、主はご自分のもとに来て、その救いを受け取るようにあなたに命じておられる。他の人は云う。「あゝ! ですが、私はそれを十分に感じていないのです」。やはり自我である。主はあなたに、あなたの感情のことなど尋ねておらず、単にこう仰せになっているのである。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。「ですが先生。私は祈ることができません」。それも自我である。あなたはあなたの祈りによって救われるのではない。キリストによって救われるのであって、あなたの務めは単にキリストを仰ぎ見ることにある。主はあなたを助けて、後で祈れるようにしてくださる。あなたは正しい取っ掛かりから始めなくてはならない。ただ主の十字架にすがりつき、それを頼りにすることから始めなくてはならない。「しかし」、と別の人は云うであろう。「私も誰それのように感じることができさえしたら良いのですが」。それも自我である。それが、あなたの知ったことだろうか? あなたが仰ぎ見なくてはならないのはキリストであって、あなたの自我ではない。「分かります」、とあなたは云うであろう。「キリストは誰でも受け入れてくださるでしょう。ですが私は別です」。待て。誰があなたにそのようなしかたで考えることを許可したのか? 主は云っておられるではないだろうか? 「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。何と、あなたは、自分の考えであなたの魂を永遠の滅びに入れようとしている。考えるのをやめて、信じるがいい。あなたの考えは、神の考えのようであろうか? 思い出すがいい。天が地よりも高いように、神の思いは、あなたの思いよりも高いのである[イザ55:9]。「しかし」、とある人は云うであろう。「私は神を求めてきたのに、まだ神を見いだしていないのです」。愛する方。あなたは、自分が本当に、手に何も持たないでキリストのもとに来たと云えるだろうか? 本当に、自分はキリストを仰ぎ見ることしかしなかったが、それでもキリストはあなたを捨てたのだと云えるだろうか? あなたに、そのようなことが云えるだろうか? 否。もし神のことばが真実であるとしたら、また、あなたが真実であるとしたら、あなたにそのようなことは云えない。あゝ! 私は、かつて私の母がこう云うのを聞いたとき、いかに私が心を打たれたか、まだ覚えている。私は何年かキリストを求めていたが、私をお救いになるとはどうしても信じることができないでいた。そのとき母が云ったのである。彼女は多くの人々が神を汚す悪態をついたり冒涜したりするのを聞いてきたが、1つのことだけは聞いたことがない、と。――彼女は、人がキリストを求めていながら、キリストからはねつけられたと云うのを一度も聞いたことがなかった。「そして」、と彼女は云った。「私は信じませんよ。神様が、どんな人にも、生きてそんなことを云わせるなんてことはね」。よろしい。自分ならそう云えるだろう、と私は思った。私は、自分が神を求めてきたし、神が私をお捨てになったのだと思っていた。ならば、それが自分の魂を滅ぼすことになろうと、そう云ってやろうと心に決めた。私は自分では真実だと思っていたことを云おうとした。しかし、私は自分に向かって、「もう一度だけ試してみよう」、と云い、私の手には何も持たずに《主人》のもとに行った。私をただそのあわれみに投げ出した。すると、私は主が私のために死なれたことを信じた。――そして、私は決してあの言葉を云わなかったし、主の聖なる御名はほむべきかな、決してそう云うことはないと分かっている。あなたもそうであろう。おゝ、主を試してみるがいい。

   「主の愛を ひとたび試さば
    身をもて知らん、
    いかなる祝福(めぐみ) ひたすらあらんや、
    主の愛をただ 頼む者らに」。

もしあなたが、自分の払う代金をこの売値にまで引き下げるなら、また、キリストをただで、あるがままに、「金を払わないで、……代価を払わないで」受け取るなら、あなたは主が厳しい《主人》であると見いだすことはないであろう。

 III. さて、私はあなたに対して《いくつかの議論》を用いなくてはならない。そして、願わくは神がそれをあなたの心にあてはめてくださるように! 私がまず語りかけたいと思うのは、あなたがたの中でも、こうしたことを全然考えていない人たちである。あなたがきょう、この場にやって来て神のことばを聞こうとしたのは、それが風変わりな場所で宣べ伝えられているからである。さもなければ、あなたが神の家に足を踏み入れることはなかったであろう。あなたが宗教的な問題で頭を悩ませることはめったにない。キリスト教信仰についてしきりに自問したりすることもない。なぜならあなたは、宗教についてあれこれ考えたりするのは気詰まりだと感じており、きっと生き方を変える必要が出てくると感じているからである。というのも、キリスト教信仰に関する思いと、現在のあなたの数々の習慣とはしっくり行かないものがあるだろうからである。私の愛する方々。ほんのしばし、あなたの心に深く突き入るような言葉を語るのを許してほしい。あなたは、駝鳥について聞いたことがあるだろうか? このあわれで馬鹿な鳥は、狩人に追いかけられると全速力で逃げ出す。だが、どうにも逃れようがないのを見てとると何をすると思うだろうか? 自分の頭を砂に埋めてしまうのである。そして、自分が目をつぶって、物が見えなくなったからには、自分は安全だと思うのである。これは、まさにあなたがしていることではないだろうか? 良心はあなたに安らぎを与えようとしない。そこで、あなたが行なおうとしているのは、それを埋めることである。あなたは自分の頭を砂に埋める。あなたは考えることを好まない。あゝ! もし私たちが人々に考えさせることができるとしたら、何と素晴らしいことか! 罪人よ。これは、キリストがおられない限り、あなたが行なおうとしない事がらの1つである。あなたは考えているだろうか? 私たちの聞いたことのある、ある人々は、半時間とひとりではいられないという。自分にとってあまりにも恐ろしすぎる考えが浮かぶからである。私は、あなたがた、神なき人々の誰にでもこう挑戦したい。向こうの荒地か、この桟敷席か、ここを出てから自分の家の中で、とくと一時間、次のような考えを噛みこなし、咀嚼してみるがいい、と。――「私は神にとって敵なのだ。私のもろもろの罪は赦されていない。もし私が今晩死ねば、永遠に罪に定められるのだ」。できるものなら、一時間そのようにし続けるがいい。そうはできまい。あなたは自分の影におびえるであろう。罪人たちが幸福になれる唯一の道は、考えないことによってである。彼らは云う。「覆い隠せ。私の頭を隠して、物が見えないようにするのだ」、と。彼らはそうした考えを追い払う。さて、これは賢いことだろうか? キリスト教信仰には一理あるのだろうか? ないとしたら、それを否定するあなたは筋が通っていることになるであろう。だが、もしこの聖書が真実だとしたら、もしあなたに魂があり、それが永遠に生きることになるとしたら、自分の永遠の魂をないがしろにするのは合理的なことだろうか? 分別のあることだろうか? 思慮深いことだろうか? もしあなたのからだが飢えを感じるとしたら、あなたは別に大した議論を繰り広げなくとも、ものを食べさせるではないだろうか。しかし、ここであなたの魂が滅びつつあるのである。だがしかし、いかなる定命の者の舌も、そのことにあなたの注意を向けさせることはできないのである。あゝ! 人々が永遠の中でいつまでも生きることになるというのに、彼らが決してそのための備えをしないというのは不思議なことではないだろうか? 私は、ある国王が自分の宮廷にひとりの道化を召し抱えていたと聞いたことがある。この道化は、非常に多くのおどけた冗談を口にした。そこで王は彼に杖を与えて、こう云った。「お前が、お前よりも大きな馬鹿者を見つけるときまで、これを取っておけ」。やがてとうとう、王は臨終の時を迎えることとなった。王が死にかけて横になっていると、あの道化者がやって来て、「ご主人、いかがなさったので?」 「わしは死出の旅に出るのだ」、と王は云った。「死出の旅。――それは何です?」 「死の国に行くということよ。今はわしを笑うでない」。「そこには、どのくらい長くおられるのです?」 「あゝ、これから行く国には永遠に住むことになるのだ」。「そこにお家はお持ちですか?」 「いいや」。「その旅のための準備はしておいでですか?」 「いや」。「そんなに長くお住みになるなら、入り用のものは何でもお持ちですか?」 「いいや」。「ならば、この杖をお取りくださいまし。あたしは馬鹿ですが、備えはしてますよ。あたしは自分の家もないとこに住もうとするほど馬鹿じゃありませんや」。キリストは、ご自分の民のために天国に住まいを備えておられる[ヨハ14:2]。この道化の言葉には深い知恵がある。あなたに向かって語らせてほしい。この道化の言葉を繰り返すことになるが、これは真剣なことである。もし人々が永遠に天国に住むことになるとしたら、彼らが来世について全然考えていないというのは、実に異様で、気違いじみた、血迷った酔狂ではないだろうか? 耐えがたいほどの狂気ではないだろうか? きょうのことは考える。だが永遠のこと――それは押しのけるのである。時間と、そのあわれな安ピカの玩具や手慰み物は心を一杯にしている。だが、永劫のこと――かの頂上なき山、対岸なき海洋、果てしなき河、船出すれば二度と帰らない水路――そのことは決して考えない。一瞬立ち止まって、思い起こしてもらえるだろうか? あなたは、いったん船出すれば二度と帰ることなく、地獄という燃える波浪を航海するか、燦然ときらめく栄光の流れを航海するかのどちらかでなくてはならないのである。あなたはどちらになるだろうか? じきにあなたはこのことを考えなくてはならなくなるであろう。何日も、あるいは、何箇月も、あるいは、何年もしないうちに、神があなたにこう云われるであろう。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」[アモ4:12]。そして、この召還があなたのもとに届くことになるであろう。それからあなたは、死の戦いの中で、ヨルダンの流れがあなたの血を冷やし、あなたの心は恐怖のために消沈する。ではそのとき、あなたは何をするだろうか? あなたが打ち滅ぼされる日、罪が膨れ上がるとき、あなたは何をしようというのか? 神があなたを審きに引き出されるとき、あなたはどうしようというのか?

 そして私は今、しめくくりとして、それとは違う性格の人々に語りかけるという喜ばしい務めを果たすことにしよう。あゝ! 愛する方々。あなたは無頓着ではない。あなたには多くの考えがあり、それらはあなたの心痛の種である。だが、確かにそれらを取り除ければ嬉しいだろうとはいえ、あなたはそうすることを恐れている。あなたはこう云える。「おゝ! 私には感じられる。もし私がキリストにあって喜ぶことができるとしたら、それは私にとって素晴らしいことだろう。――もし回心できるとしたら私は幸せになるだろう、と」。愛する方。私はあなたがそう云うのを聞いて嬉しく思う。神が、感銘を受けた心にみわざを行なわれるとき、それが完成するまでお離れになることはないと思う。さて、私は今晩あなたに、ほんのしばし厳粛きわまりない語りかけを行ないたい。あなたは、自分が《救い主》を必要としていることを現に感じている。覚えておくがいい。キリストはあなたのために死なれたのである。それを信ずるがいい。――信じてほしい。そこに主は、その十字架の上にかかって、死にかけておられる。その顔を見つめるがいい。それは愛に満ちている。赦しで一杯である。その唇が動いて、こう云っている。「父よ。彼らをお赦しください」[ルカ23:34]。あなたは主を仰ぎ見ようとするだろうか? 主がこう云われるのが聞こえるのに、背を向けようとするだろうか? 主があなたに求めておられるのはただ、仰ぎ見ることだけであり、そのように仰ぎ見るだけであなたは救われるのである。あなたは、自分に《救い主》が必要であると現に感じている。自分が罪人であると知っている。なぜ暇どっているのか? あなたは自分になど価値はないと云うのだろうか。思い出すがいい。主は無価値な者のために死なれたのである。あなたは主が自分など救ってくださらないと云うのだろうか? 思い出すがいい。主は悪魔にも見放された者のために死なれたのである。この世のごみや、かすをこそ主は贖われたのである。主を仰ぎ見るがいい。あなたは主を仰ぎ見ながら、主を信じられないのだろうか? あの血潮がその肩から流れ出し、その御手と御脇から滴り落ちるのを見ながら、主を信じられないのだろうか? おゝ! 生きておられ、死んだが、いつまでも生きているお方[黙1:18]にかけて私はあなたに懇願する。主イエスを信ずるがいい。こう書かれているからである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。

 かつてロウランド・ヒルが説教していたとき、アン・アースキン令夫人が馬車で通りかかった。彼女は人だかりの外辺を見て、御者に、あの人々は何をしているのかと尋ねた。彼は答えた。「あの者どもは、ロウランド・ヒルの話を聞きに出かけに行くところでございます」。よろしい。彼女は、この奇矯な人物についてたくさんの噂を聞いていた。説教者の中でもことのほか奇抜な人物だというのである。それで、彼女は近づいて行った。ロウランド・ヒルは、彼女を見るや否や、こう云った。「さて、ここで競売をすることにしよう。私は、アン・アースキン令夫人を売ることにする」。(もちろん彼女は立ち止まり、自分が一体どうされるのかと驚いた)。「買うかね、買うかね」。この世がやって来る。「彼女のために何を出すね?」 「私は彼女にこの現世のあらゆる勢威と虚飾を与えよう。彼女は地上で幸福な女になるだろう。非常に金持ちになるだろう。多くの賞賛者に囲まれて、この世を多くの喜びをもって過ごすことだろう」。「それでは彼女を手に入れられんよ。彼女の魂は永遠のものなのだ。お前が差し出しているのは端金だ。お前は単にほんの少ししか与えておらん。そして、たとい世界を手に入れても、彼女が自分自身の魂を損じたら、何の得があるだろうか?[マタ16:26]」 そこへ別の買い手がやって来る。――今度は悪魔である。「お前は彼女のために何を出すね?」 「そうだな」、と彼は云う。「俺様は彼女に、はかない罪の楽しみ[ヘブ11:25]を受けさせてやろう。彼女の心の欲するどんなことにもふけらせてやろう。目を喜ばせ、耳を喜ばせるものを何でも与えてやろう。どんな罪や悪徳にふけることも思いのままにさせてやり、つかのまの快楽を味わせてやろう」。あゝ! サタンよ。お前は彼女のために永遠に何をするのだろうか? 彼女はお前の手には入らない。というのも、私はお前が何者か知っているからだ。お前は彼女にけちな代金を払っては、彼女の魂を永遠に滅ぼそうとしている。しかし、ここに別の者がやって来る。――私はその人を知っている。――それは、主イエスである。「彼女のために何をお与えになりますか」、と彼は云う。「わたしはこれから与えるのではない。すでに与えたのだ。彼女のために、わたしのいのちを、わたしの血をすでに与えたのだ。わたしは彼女を代価を払って買い取っている。そして、わたしは彼女に永遠に天国を与えるであろう。わたしは彼女の心に今は恵みを与え、代々限りなく栄光を与えるであろう」。

 「おゝ、主よ。イエス・キリストよ」、とロウランド・ヒルは云った。「あなたに彼女をお渡しします。アン・アースキン令夫人。あなたは、この取引に何か異存がおありかな?」 彼女は完全に不意をつかれた。何の答えも返すことはできなかった。「これにて落札」、と彼は云った。「これにて落札。あなたは《救い主》のものである。私はあなたを主と婚約させた。この契りを決して破られないように」。そして、彼女は決してそうしなかった。そのとき以来、陽気で浮ついた婦人だった彼女は、この上もなく真面目な人物のひとりとなり、当時における福音の真理の偉大な支持者のひとりとなった。そして、天国へ入る希望を栄光に富むしかたで、また確実にいだきながら死んだ。私は今夜、あなたがたの中のある人々の仲人になることができれば、非常に嬉しく思う。もしあなたが今、「主よ、私はあなたをお受けします」、と云おうというなら、キリストは待ち受けておられる。もし主があなたを用意させておられるとしたら、主は決してご自分がもたもたすることはなさらない。あなたは何と云うだろうか? あなたはこの人とともに行くだろうか? もしあなたが、「はい」、と云うなら、神の祝福があらんことを! キリストも、「しかり」、と仰せになり、あなたは救われるのである。いま救われるのである。永遠に救われているのである!

  
 

無代価の救い[了]

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