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日食

NO. 183

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1858年3月14日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「わたしは光を造り出し、やみを創造し」。――イザ45:7


 明日、私たちはみな、宇宙の中でも最大の偉観の1つを目撃することになる。――太陽の金環食である。私たちの中の多くの者らは、この国で再びそのような光景が見られる前に、あらゆる肉の辿る道へと下ってしまっていることもありえる。それゆえ、私たちは、それなりの期待を込めてそれを待ち受けている。おそらく人類の何百何千人もの人々がそれに魅了され、数時間なりとも、天文学の研究にいそしむことであろう。わが国の天文学者たちは、このことを最大限に利用しようとするに違いない。あらゆる手を尽くして、このことに私たちを注目させようとし、太陽や、月や、星々に対して、これまで私たちがいだいていたよりも少しでも大きな関心をいだかせようと努力するであろう。ならば、たといキリスト教信仰がきょう前に進み出て、そうした関心を自らに寄せるように求め、そのためにこの日食そのものをすら利用したとしても、何の弁解の必要もないに違いない。疑いもなく、もし石の中にも説教があるとしたら、太陽の中には大説教があるに違いない。流れる小川の中にも書物があるとしたら、光が消滅させられる太陽には、きっと多くの大著が見いだされるはずである。私たちが目で見、耳で聞き、肌で感ずることのできる何物といえども、私たちを大きく教える経路となれないものはない。ならば今回のことは、今朝の私たちを一連の思想へ導いていくではないだろうか。それが神に祝福されるならば、私たちにとって日食を見るよりも、はるかに良いこととなるはずである。

 今朝あなたがたに語りかけるにあたり、私はこのことに注目してほしいと思う。すなわち、主が光と同じく闇をも創造される以上、まず第一に、いかなる種類の光の消滅も、神が世界を統治しておられる方法の一部である。第二に注意したいのは、神が光と同じく闇をも創造される以上、私たちは疑いなくこう結論して良いということである。すなわち、神は、光と同じく光の消滅――闇――にも何らかの狙いを有しておられる。そして第三に注目したいのは、神が創造されたものがみな、光であろうと闇であろうと私たちへの説教を有している以上、今回のことにも、いくつかの説教が見いだせるに違いないということである。

 I. まず第一に、《光の消滅は神のご計画の一部である》。古代英国の無知な人々は日食に怯えた。彼らはそれが何を意味しているか分からなかった。彼らは、これから間違いなく戦争が、あるいは飢饉が、あるいは猛火が起こるのだと思った。日食を、来たるべき災難の予言とみなしていたからである。彼らは、日食の説明をつけることが全くできずに右往左往し、今の私たちの精神を完全に安んじさせている理論について何も知らなかった。そして、あなたも承知している通り、まさに今日に至るまで、東洋その他の、いまだ未開の無知の中にある場所では、日食は身の毛もよだつほど恐ろしく、不可思議きわまりないこととみなされている。ヒンドゥー人は今も、巨大な竜が太陽を呑み込むのだと信じており、何千人単位の人々が彼らの聖なる河ガンジスに飛び込む姿が見られるであろう。神々に向かって、どうか太陽を解放してくれるように、また、竜が一度呑み込んだ太陽を吐き出すようにと願うためである。他にも何百もの全く愚鈍で滑稽な理論が、なおも世界の各地であからさまに信奉されており、私の信ずるところ、この場にいる私たちの中の非常に多くの者らすら、日食は自然の一般法則に逆行する何かであるとみなしている。さて、愛する方々。神のみわざを少しでも理解している人ならみなよく知っているように、日食は、通常の日光と同じく自然法則の一部であり、神のご計画を全く逸脱したものではない。むしろ、月と地球が太陽の周囲を回り合いながら動いていく自然の運動の必然的な結果として、定期的に日食は起こるのである。明日、日食を見るときの私たちは、それを奇蹟とも、神の摂理の通常の運行からはずれたものともみなさず、こう云うであろう。これは、神が地球を統治しておられる計画そのものに含まれている必然だったのだ、と。

 さて今、愛する方々。私がこうしたことを語ったのは、別の種類の光の消滅に、あなたの注意を引くためである。ある種の光は、神の摂理においても、神の恵みにおいても、消滅することがある。自然界における光の消滅が神のご計画の一部であり、事実、それに含まれているように、私たちの信ずるところ、摂理においても時として光が消滅し、地上が影となることがある。要するに、時として人類に降りかかる災難や、戦争や、飢饉は、地上を統治する神の天来の計画の一部にほかならず、それが私たちに降りかかるのは、何らかの益をもたらすためなのである。

 最初に、あなたの注意を全般的な摂理に向けさせてほしい。いかに何度となく私たちは摂理そのものが全人類に対する自らの光を消滅させたのを見てきたことであろう。見よ。主は世界を創造し、人をその上に置かれた。「増えて、増大せよ」*[創1:28]、が主の法である。人は増えて地を満たし、そこにひしめいている。全地が住居とされ、谷々や丘々は歌声で喜んでいる。突如、光が消滅する。神は激しい大雨を送り、大いなる水の巨大な源の栓を引き抜き[創7:11]、水を地上に噴出させられる。神はその雨に命じて、それを驟雨のようにではなく、一挙に大瀑布のように降らせ、地上は水で覆われた荒涼たる広がりとなり、後には泥で覆われた陰鬱な沼地となる。全人類は、たった八人の例外を除き、一掃されている。これが、私の意味する、摂理における光の消滅である。その後で再び神は人が増え、地が人で満たされることをお許しになる。年々歳々、地は収穫に笑い、田畑は神の豊穣さで喜ばされる。引き続く七年もの間、地上は有り余るほどの豊作となり、人々は神が与えられた蓄えをいかにして拾い集めるか分からないほどとなる。だが、この七年が過ぎ去るや、見よ! 神の豊穣さという光の消滅が起こる。牛舎からは子牛がいなくなり、橄欖は実らず、田畑は何の食物も生み出さず、全世界は穀物を買うためにエジプトに赴く[創41:57]。エジプトだけにしか穀物が見いだせないからである。世界中で、神の豊穣さという光は消滅してしまう。しかし、これまで歴史上で起こった一千もの事例をわざわざ列挙する必要はない。国々は興っては強大になるが、たちまちその栄光は消滅し、築き上げられたすべては瓦解してきた。幾多の広大な帝国が築かれては、大いなるものとなり、その統治下で幸福になる民もありはした。ところが、北方からの獰猛な征服者が、その野蛮な遊牧民らとともに下ってきては、あらゆる文明の痕跡を払拭し、地上は数百年も後退したかのように見受けられた。そこには、暗い光の消滅があった。あるいは、それは別のしかたでも起こってきた。ある町が繁栄して富裕になる。だが、ある不幸な夜に大火がそれをとらえ、炎の前の刈り株のように町全体が灰燼に帰し、自分たちの家々の灰の上に住民たちが座り込んでは涙を流し、死んでいく。別の時には、疫病が数多くの人々を襲い、穴という穴が死者で満たされる。国々は死滅して滅び、おびただしい数の人々がその墓場へと連れて行かれる。さて、こうした神の恩顧の大々的な消滅、また、こうした天の暗黒化、また、人類の上に突如として望む暗影は、神の摂理のご計画の一部なのである。愛する方々。嘘ではない。神の摂理によって、神の通られた跡にはあぶらがしたたり、もろもろの谷は喜びをまとう[詩65:11-13]。また、神のご計画の一部として、田畑は穀物をまとい、家畜には草がある。だが、それと等しく神の摂理のご計画の一部として、地上には飢饉が起こり、人類はある特定の時期に悲惨に陥る。彼らの益のためには、光の消滅が絶対に必要であると神がご覧になるからである。

 このことは、あなた自身の個人的な事がらにおいても、全くそれと同じである。あなたには摂理の神がおられる。見よ。この長年月の間、神はあなたを養い、あなたの必要を満たすことを決して拒まれなかった。あなたにパンは与えられ、あなたの飲み水は確保されてきた[イザ33:16]。あなたの子どもたちは、あなたの回りにいた。あなたの足跡は乳で洗われ[ヨブ29:5-6]、あなたは喜び、神の道に、また、幸いの道に堅く立っていた。あなたは、こう云うことができた。「私たちの道は楽しい道であり、私たちの通り道はみな平安である」*[箴3:17]、と。あなたは、ありとあらゆる人の中でも、最もみじめな人ではなかったし、むしろ、あなたの人生に結びついた、また、神の摂理の祝福を受けたいくつかの点では、人類の中でも最も幸福な人であった。だが今は、暗雲があなたの上に垂れこめている。神の摂理という陽射しは、昼間だというのに沈んでしまった。あなたが自分の光の輝きの中で喜んでいたときに、突如として真昼の真夜中があなたに降りかかり、あなたを恐怖と混迷に陥れた。あなたは、こう云うほかなかった。「こうした悪のすべてはどこから来ているのだろうか? これもまた神から送られているのだろうか?」 確実にそうである。あなたの窮乏、あなたの病、あなたの離別、あなたへの軽蔑、こうした事がらがみな、あなたのために定められていたこと、また、摂理の通り道において確定されていたことは、あなたの富や、あなたの慰めや、あなたの喜びがそうであったのと全く変わることはない。神が変わったのだと思ってはならない。日食が太陽を暗くするとき、そこにはいかなる太陽の変化も含まれていない。太陽は、その定位置から動いてはいない。それは、確固不動のものとしてそこにある。あるいは、もしそれが動いていることが本当だとしても、それでも、それは非常な規則性をもって動いているため、私たちにとっては静止して見えるのである。愛する方々。神もそれと同じであられる。神の種々の目的は、何らかの大いなる遠方の目当てへと動きつつあるのであろう。その目当ては、私たちに見えず、人知の推測をはるかに越えた大きな弧を描いて神の周囲を回っているのであろう。だが、このことは確かである。すなわち、私たちに関する限り、神は変わることがなく、神の年は尽きることがなく[詩102:27]、神はその定まった特定の通り道からそれたことがない。神の栄光は、目では見えないときでさえ、薄暗くなってはいない。神の愛は、その輝きが隠されているときでさえ、全く同じようにまばゆい。神は右にも左にも動いてはおられない。光を造られた父には移り変わりや、移り行く影はない[ヤコ1:17]。万物は過ぎ去るが、神は堅く、また、揺らぐことなくとどまっておられる。摂理における光の消滅は、自然界における日食のように、神ご自身の壮大なご計画の一部であり、そこに必然的に含まれているのである。

 私が思うに、地球が同じ軌道上で太陽の周囲を回り、月が絶えず地球の周囲を回転している以上、日食なしですまされることはありえない。神が楕円を、あるいは、円を、自然の大法則としておられる以上、日食が起こらずにすむことはありえない。さて、摂理においても、やはり円環が神の法則であることにあなたは気づいたことがあるだろうか? 地球はきょうここにある。それは来年のきょうも同じ場所にあるであろう。それはその円周上を回っているであろう。それを越えてはどこにも行かない。摂理においても全く同じである。神はエデンにおいてその摂理の円を開始された。また、それこそ神が終了なさる所である。神が人類に対する摂理的取り扱いを始められたとき、地上には1つの楽園があった。最後にも1つの楽園があるであろう。あなたの摂理もそれと同じである。あなたは裸で母の胎から出て来た[ヨブ1:21]。また、裸であなたは土に帰らなくてはならない。それは1つの円である。神は、お始めになった所で終わられる。そして、神が自然においてと同じく摂理においても円の法則をお取りになっている以上、光の消滅は確かに起こるに違いない。天来の知恵という予定された軌道上を動いているとき、神の統治のご計画においては日食が絶対に、また、不可避的に必要である。種々の困難はやって来ざるをえない。種々の患難は降りかからざるをえない。あなたがたは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならない[Iペテ1:6]。

 しかし、私は光の消滅は恵みにおいても起こらざるをえないと云ったし、それはその通りである。恵みにおける神の支配は、やはり円環である。人は元始はきよく聖なる者であった。そして、そのような者へと人は、神の恵みによって最終的には至るであろう。あの園で神によって造られたとき、人はきよかった。そのような者へと、神は人を変えられるであろう。ご自身の栄光に富むかたちに似た者へと人を形作り、完全な者として天国で立たせられるとき、そうされるであろう。私たちは、敬神の念をいだき始めたとき、この世を否定し、神への愛に満たされる。私たちがしばしば恵みにおいて減退すると、神は私たちを、私たちが最初に始めたときの状態へと引き戻し、私たちがキリスト以外の何も喜ばないようにし、私たちが最初のときにしたように、主に自分の心をささげるようにされるであろう。このように、恵みには光の消滅があるに違いない。なぜなら、そこにおいてすら、円が神の恵み深い統治の法則であると思われるからである。

 さて、愛する方々。あなたがたの中のある人々はきょう、光が消滅した状態にある。私には、あなたがこう叫んでいるのが聞こえる。「あゝ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに! あのときには、主のともしびが私の回りを照らしていた[ヨブ29:2-3]。私が光を待ち望んでも、見よ、闇がやって来た。平安を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない[エレ8:15]。私は自分の魂の中でこう云った、私の山は堅く立つ。それは決してゆるがされない、と。主よ。あなたは御顔を隠され、私はおじ惑っています[詩30:6-7]。私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません[詩69:2]。あなたの波は滑り行き、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました[詩42:7]。ほんのきのうの私は、わが称号(な)をさやかに読めたのに、きょうの私の証拠は薄暗くなり、希望は翳っている。きのうの私はピスガの山頂に登って、彼方の景色を眺め、乳と蜜の流れる田畑を数えることができ、自分の未来の相続財産を確信して喜ぶことができた。きょうの私の霊は、何の天国も見てとれず、何の希望もなく、多くの恐れしかない。何の喜びもなく、多くの苦悩しかない」。そして、愛する方々。あなたはこう云いがちである。「これが私に対する神のご計画の一部なのだろうか? これが、私を天国に連れて行く神の道でありえようか?」 しかり。まさにその通りである。あなたの信仰という光の消滅、あなたの精神の暗闇、あなたの希望の失神、これらすべての事がらは、かの偉大な相続地のためにあなたを成熟させようとする神のご計画の一部にほかならない。じきにあなたはその相続地に入るであろう。こうした数々の試練は、あなたをさらって岩の上に載せる大波でしかない。これらは、望む港へとあなたの船をいやが上にも軽々と運ぶ風でしかない。ダビデが詩篇の中で云うように、私もあなたに向かってこう云えよう。「そして主は、彼らをその望む港に導かれた」[詩107:30]。ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したり、豊かになったり、貧しくなったり、喜ばされたり、苦悩させられたり、迫害されたり、慰められたり、こうしたすべての事がらによって、あなたの魂のいのちは、また、これら1つ1つによってあなたは、進み続ける助けを受け、最後にはあなたの希望とする偉大な目標、また港へと至る助けを受けるのである。おゝ! キリスト者よ。あなたの数々の悲しみが神のご計画の一部ではないと考えてはならない。それらは、その必要な部分なのである。そして、神がその多くの相続人たちを栄光に導かれる限り、神が彼らを多くの苦しみを通してそこへ至らせることは必要なのである[ヘブ2:10; 使14:22]。

 このようにして私は、この最初の真理を明らかにしようとしてきた。すなわち、光の消滅は神の統治の一部であること、また、私たちの物質的な数々の患難や、私たち自身の心の数々の悲しみは、その壮大な計画の一部にほかならないのである。もう一時だけ、こう注目させていただきたい。すなわち、世界に対する恵みという神の偉大なご計画においても、それは全く同じである。時として私たちは、教会の中に強力な改革がなされるのを見ることがある。神によって人々が起こされ、彼らはエホバの軍勢の先駆をつとめる。見るがいい! 過誤は、陽光の前の影のように逃げ散る。見よ! 敵の最強のとりでも、ぐらついて倒壊してしまう。《王》の大喝がその最中で聞こえ、主の聖徒たちは勇気を奮い起こし、彼らの大いなる最終的勝利がついにやって来る。だが、それから数年経つと、この改革者たちも死んでしまい、彼らの外套は誰の上にも落ちかからない。大きな山々の後に深い谷間がやって来る。大いなる人々の子らはしばしば小人であり、小児である。そのように、あわれな、なまぬるい教会がやって来る。愛の状態フィラデルフィヤの後には、なまぬるい状態ラオデキヤがやって来る。教会は沈んでしまう! そして、教会が沈む度合に応じて、敵は前進する。勝利だ! 勝利だ! 勝利だ! そう地獄の軍勢は叫ぶ。そして、しゃにむに突進しながら、主の軍勢を押し返し、世界は天秤に載ったかのように揺れ動く。勝利が敵の側にあるように見えるからである。またもや、別の再活性の時、別のペンテコステがやって来る。何人か別の指導者たちが神によって起こされる。別の強大なさばきつかさがイスラエルに登場し、神のカナンに侵入したヘテ人やエモリ人を追い払う。

 再び世界は喜び、かくも長い間労苦してきた被造物はその奴隷状態から解放されるものと希望する。――悲しいかな! それは再び沈む。上げ潮があれば引き潮がある。夏が来れば冬が来る。喜ばしい時があれば、意気消沈の時が続く。これらすべては神のご計画の一部である。あなたは神がいかに海洋を制しておられるか見てとっているだろうか? 満ち潮にしようと思われるとき、神は海水が浜辺に向かってまっしぐらにやって来るようにはさせない。むしろ、浜辺に立っていれば絶対確実にわかるように、その砂は覆われ、大水が断崖に打ちつけるであろう。しかし、あなたが見ていると、1つの波がどんどんやって来ては、再び退いて行き、それから別の波がやって来ては、死に絶えて、だんだんと引き、また別の波が後に続く。神の教会もそれと全く同じである。主を知ることが、海を覆う水のように[イザ11:9]、地を覆う日は必ずや来る。しかし、これは波また波によってなされなくてはならない。成長と減少、増加と分割によってなされなくてはならない。勝利と戦勝によって、また、征服と敗北によってこそ、最終的に神の偉大な目的は熟成し、世界は私たちの主およびそのキリストのものとなる[黙11:15]のでなくてはならない。ならば、私たちの聖なるキリスト教信仰における数々の光の消滅が、あるいは、私たちの最中にいる偉大な人々の失敗が、神のご計画とは全く切り離されたものであると考えてはならない。それは、そこに含まれているのであり、円の上を動いて別の恵み深い目的を地上にもたらしつつある神の偉大な目的が成し遂げられるに違いないのと同じく、愛する方々、何らかの光の消滅は必然的に続かざるをえない。神がその恵みによって世界を統治しておられる方法そのものに、それが含まれているからである。

 II. しかし、第二に、《神がなさるすべてのことには狙いがある》。神が光を創造するときにはその理由があり、闇を創造するときにも、やはりその理由がある。神は必ずしもその理由を私たちにお告げにはならない。だが、常に理由をお持ちである。私たちが神を主権の神と呼ぶのは、時として神が私たちの知識を越えた理由から行動されるからである。だが、神は決して理不尽な神ではない。みこころにより目的に従って神はお働きになる。みこころによってではなく、みこころにより目的に従って[エペ1:11]である。それは、神が行なわれる一切のことに理由があり、知恵があり、目的があることをあなたに示すためである。さて、私は、明日日食を起こされる神の狙いが何かをあなたに告げることはできない。私たちの思いの中では、それによって果たされる多くの恵み深い目的を見てとることができるが、それが世界にとって何の役に立つかは分からない。もしかすると、日食が全くなかった場合、大気に何か大きな変化が起こるのかもしれない。現在のあらゆる自然科学知識を越えていて今後発見されるであろう何かが起こるのかもしれない。日食は、竜巻や暴風と同じく、私たちにはうかがい知れない何か神秘的なしかたでこの下界に恩恵を施しているのかもしれない。しかしながら、私たちは、他の種類の光の消滅に関しては、暗闇の中に残されていない。私たちが全く確信するところ、様々な摂理における光の消滅、また、恵みにおける光の消滅は、両方とも理由があってのことである。神が摂理における光の消滅を送るときには、人の子らを好きで苦しめるわけでも、ゆえもなく悲しませるわけでもない。疫病が地を闊歩し、何万もの人々をなぎ払うとき、神が何の意図もなしに考えなしの行為を行なっていると考えてはならない。戦争が、血塗られたその剣で幾多の国民を一掃し、母子をもろともに血祭りに上げるときにも、それが意味もなくやって来たと思ってはならない。神は、こうしたすべての事がらに何らかの狙いを有しておられる。そして、神が地上に苦難を送り込むとき、また、私たちの上に苦難をのぞませるときに、私が神の狙いと信ずることをあなたに告げさせてほしい。それはこうである。それは、私たちの注意をご自身に引き寄せるためである。古のある神学者の言葉は至言である。「誰しも太陽を見上げはしないが、日食の時は例外である」。きのうのあなたがたは太陽のことなど全く考えもしなかった。明日のあなたがたはみな太陽を見つめているであろう。煤で黒くした硝子や、望遠鏡や、手桶の水にまで至るありとあらゆる種類の発明品を用いて、太陽を見ようとするであろう。なぜあなたは明るく輝いているときには太陽を見ないのだろうか? そこには何も面白味がない。平凡なものだからである。さて、あなたはこのことに注目しないだろうか? 世界の万事が順調なとき、人は決して神について考えない。人々は常に、苦難に陥ると宗教的になる。この町で虎列剌が猛威を振るっていたときには、ロンドンの諸教会は、長いこと見なかったほどの人で満ちていた。そうした時には、それ以前には知られなかったほど多くの教役者たちが病人の見舞いに出かけていった。自分の聖書を一度も読んだことがなく、一度も祈ったことがなく、一度も神の家に行くことなど考えなかった人々が、息せききって礼拝所に駆けつけるか、自分の聖書を読むか、少なくとも祈るふりをした。後に悪疫が去ってしまったときの彼らは、それをことごとく忘れてしまったが、それでも、苦難の中にあったときの彼らは、多少はそうしたことについて真剣に考えたのである。「確かに苦難にあって彼らは主を求めよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」*[ホセ5:15]。疑いもなく、時たま起こる光の消滅が全くないとしたら、私たちは完全に神を忘れてしまうに違いない。神の御名が少しでも地上の人類によって覚えられているためには、神がその御名を彼らに思い起こさせ、ご自身の鞭で叩き込まなくてはならなかったのである。飢饉、疫病、剣、洪水、これらすべてが私たちのもとにやって来て、すさまじいしかたで思い起こさせなくては、私たちは雷鳴を御手に握り、稲妻を意のままにされる恐るべき《王》のことを思うことがありえないのである。しかし、別の狙いもある。時として、騒然たる時期には、より良い何かのために世界を備えさせる傾向がある。戦争はひどいものである。だが、私としては疑いもなく、それは道徳的雰囲気をきよめるものである。さながら暴風が疫病を一掃してしまうのと同じである。飢饉について、あるいは、悪疫について聞くのは恐ろしいことだが、そうしたいずれも何らかの効果を人類に及ぼす。1つの悪は、一般には、より大きな善のための余地を作る。人々はロンドン大火[1666年9月]を痛哭するかもしれない。だが、それは神がロンドンに送ることのできた最大の祝福であった。それは、所狭しと建てられていた一連の老家屋を焼き払ったのである。それは、悪疫をもたらさずにはおかなかったはずの町並みで、そうした古い物が全焼したときに、より衛生的な処置を取る余地ができたのである。そして、それ以来、悪疫も疾病も格段に少なくなったのである。この広大な世界にやって来る苦難の多くは、斧のようになるべく意図されている。どこかの猛毒のウパス樹を切り倒し、地面に横倒しにするための斧である。その木が立っていたときには、徐々にではあっても、非常な害毒を撒き散らしていた。それは、神が突如として送られた損害が引き起こしたものにまさる害毒であった。急転直下で神が送られるものが、人の思いにはより如実に映るとしても関係ない。あゝ、話をお聞きの方々。神はあなたに摂理における苦難を送っておられる。あなたは神の子どもではない。神の御名を恐れも、神を愛しもいない。あなたはこう云っている。「なぜこのような苦難が私に起こったのだろう?」 そこには神の恵み深い狙いがあるのである。多くの人々は、苦難によってキリストに導かれる。多くの罪人が《救い主》を求めることになったのは、その病床においてであった。それ以外のどこでも彼らは主を求めはしなかったに違いない。商売が繁盛している多くの商人は、神なしに生きていた。だが、彼らが《救い主》を見いだして喜ばされたのは、自分の商社がよろめいて破産に陥ったときであった。私たちの知っている多くの人々は、流れが滑らかに流れていた間は神を軽蔑する余裕もあったが、その同じ人がいやでも自分の膝をかがめて、キリストの血による平和を求めざるをえなくなったのは、彼が苦悩の渦に巻き込まれ、苦難の旋風にとらえられたときであった。ある物語が伝えられている。今は昔、アルタクセルクセスと別の大王が熾烈な戦闘を行なっていた。その戦いの最中に、突如として日食が起こった。全兵士がすさまじい恐怖に打たれ、彼らはその場で即刻和平を結んだという。おゝ! もし苦難という日食によってあなたが武器を地面に投げ出し、神と和解させられることを求めるとしたら! 罪人よ。あなたは神と争っており、あなたの反逆の腕を神に向かって振り上げている。もしも今あなたに降りかかっている苦難によってあなたが自分の反逆の兵器を投げ出して、神の御腕に飛んで行き、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」、と云うとしたらどんなに幸いなことか。それは、あなたがこれまで有した中で最高のこととなるであろう。あなたの苦難は、あなたにとって種々の喜びがそうでありえたものに、はるかにまさるものとなるであろう。もしあなたの悲しみがあなたをイエスのもとへ飛んで行かせるとしたらそうである。イエスはその十字架の血によって平和を作る[コロ1:20]ことがおできになる。願わくは、このことがあなた自身の苦難と悲しみの幸いな結果となるように。

 しかし、さらに、恵みにおける光の消滅にも、その目的や狙いがある。キリスト者はこう尋ねる。なぜ神は、以前そうされたのと同じように自分の良心において自分に恩顧を与えておられないように思えるのだろうか、と。「なぜ私はもっと信仰がないのだろうか? なぜ種々の約束はその甘やかさを失ってしまったのだろうか? なぜ神のことばは私の魂に及ぼすその力を減じさせてしまったのだろうか? なぜ神はその御顔を私から隠してしまわれたのだろうか?」 キリスト者よ。それは、あなたが自分を探り始めて、こう云うようになるためである。「なぜ私と争われるかを、知らせてください」[ヨブ10:2]。神の民が患難に遭わせられるのは、彼らが道に迷わないためである。「苦しみに会う前には」、と詩篇作者は云った。「私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」[詩119:67]。キリスト者を放置しておくと、錆に覆われた鉄片のようになり、その輝きをことごとく失ってしまう。患難というやすりを手に取るや、その輝きは再び明らかになる。苦難に遭わないキリスト者たちは、何の病にもかかっていない牡蛎貝のようなものであり、何の真珠も生み出さなかったであろう。真珠貝に真珠を生み出させたければ、何らかの病気にかからせなくてはならない。そして、もしそうした苦難がキリスト者に不意に降りかかることがないとしたら、その人の人生には、聖なる、満ち足りた敬虔という真珠が生み出されないであろう。神の鞭は改善者である。それは私たちの上に打ちすえられるとき、常に私たちの誤りを改めてくれる。神がキリスト者を探るのは、彼からその雑草をきれいに取り除くためである。神がキリスト者に深い畦溝を刻むのは、その下層土を掘り起こして空気にさらし、《天来の》御霊の影響が彼にとどまるようにするためである。神が私たちをるつぼに入れ、炉に入れるのは、その熱が私たちの金滓を焼き尽くし、私たちの不純物をことごとく消滅させるためである。神が私たちを深い海の中に送り込むのは、それが私たちにとって聖なるバプテスマのようになり、私たちの聖化を助けるためである。それが私たちを自分の高慢から、自分の情欲から、自分の世俗性から、そして自分のうぬぼれから解放してくれるのである。幸いなことよ、このことを理解している人は。――神を愛する人々のためには、すべてのことがともに働いて益となる[ロマ8:28]ことを知っている人は。また、神の御顔の光の消滅にさえ目的と狙いがあると信じている人は。それは彼を完璧に主なるキリスト・イエスのかたちに似たものとするためなのである。

 III. さて今、これ以上長くあなたを引き留めないために、もう1つか2つの説教をこの日食からあなたに宣べ伝えなくてはならない。明日は、キリスト者よ。もし私がこれからあなたに告げようとしていることを覚えていさえしたら、あなたは有益な教訓を学ぶことになるであろう。明日、私たちから太陽を隠すことになるのは何だろうか? それは恩知らずの月である。月は、その光のすべてを太陽から毎月毎月借り受けている。もし太陽が月を照らさなければ、黒い斑点にしかならない。だのに今、月がいかなる恩返しをしているか見るがいい。月は厚かましくも太陽の顔の前に割り込み、その光が私たちを照らし出すのを邪魔しようというのである。あなた自身の人生において、あなたはそれに似たことを何も知らないだろうか? あなたが地上で享受している非常に多くの慰めは、まさに月のようではないだろうか? それらは、その光のすべてを太陽から借り受けている。それらは、神がそれらを照らされなかったとしたら、また、神の御顔の光を照り返さなかったとしたら、あなたにとって何の慰めでもなかったであろう。あなたの夫、あなたの妻は何だろうか? あなたの子どもたち、あなたの友人たち、あなたの家屋、あなたの家庭は何だろうか? これらはみな、太陽からその光を借り受けている月たちではないだろうか? おゝ、私たちが自分を慰めを私たちの神よりも重んじるとは、何と恩知らずなことであろう。私たちがこうした、私たちの慰めとなるべく神が与えてくださった物事を、神ご自身の御座に置き、私たちの偶像とするとき、光の消滅に遭うのも不思議はない。おゝ! もし私たちの子どもたちが私たちの心の半分を占めているとしたら、また、もし私たちの友人たちが私たちの魂をイエスから取り去るとしたら、また、もしソロモンの場合のように妻が心を迷わせるとしたら、また、もし私たちの財産が、私たちの家が、私たちの土地が私たちの人生の目標になるとしたら、また、もし私たちが上にあるもの[コロ3:2]を思う代わりにそうしたものを思っているとしたら、光の消滅があるとしても不思議はない。おゝ! 恩知らずな心であることよ、こうした慰めの月たちが太陽を隠させるままにしてしまうとは。古の大家ブルックスはいみじくもこう云っている。夫はその妻に指輪を与え、妻は夫の愛のかたみとしてそれを自分の指輪にはめるものである。かりに、ある妻が愚かにも自分の宝石を夫以上に愛するようになったとしよう。かりに彼女が自分の心を、夫が愛の贈り物としたものにかけ、夫自身をないがしろにしたとしよう。おゝ、ならば夫がその指輪や宝石を取り上げて、彼女に再び自分を愛させようとするとしても、どこに驚くことがあるだろうか。私たちもそれと全く同じである。神はご自分の子どもたちを愛し、私たちに強い信仰を与え、愛と慰めを与えてくださる。ならば、その後で、もし私たちが自分の心をこうしたものにかけて、神をないがしろにし始めるとしたら、神はやって来て、それらを取り除かれるであろう。神はこう仰せになるからである。「わたしは、あなたの愛のすべてを得なくてはならない。わたしがこうしたものを与えたのはあなたの愛をかちとるためであって、あなたの愛を奪い取られるためではないのだ。そして、あなたがあなたの心をこれらに向かわせ、あなたの愛をわたしへの単一の経路で流れないようにしている限り、わたしはあなたの慰めの経路をふさぎ、あなたの心がわたしに、そして、わたしだけにすがりつくようにさせよう」。おゝ、愛についてだけ歌った、アナクレオンの立琴のような心があればどんなに良いことか! その立琴は愛のほかいかなるものについても鳴り響こうとしなかったのである。おゝ、私たちの心がそのように神に向かい、種々の慰めやあわれみについていくら歌おうとしても、神のことしか歌わないようになるとしたらどんなに良いことか! おゝ、あらゆる弦があまりにも天来のものとなり、それが歌を奏でる指は唯一、私の弦楽器の第一奏者、主イエス・キリストの指でしかなくなるとしたら、どんなに良いことか! キリスト者よ。気をつけるがいい。あなたの種々の慰めが月のようにあなたの太陽の光を消滅させることがないように。これは、あなたに対する説教である。覚えておくがいい。そして、そこから知恵を得るがいい。

 また、キリスト者は別の説教をも思い起こすがいい。自分の子どもを外に連れ出すがいい。その子を玄関の外に出せば、その子は、太陽が暗くなり始め、すべての物が次第に色褪せて行き、風景が奇妙な色合いを帯びて行くのを見て泣き出し、こう云うであろう。「父さん。お日様がなくなってくよ。お日様が死んじゃうよ。もう何の光もなくなっちゃうよ」。そして、黒い月が太陽の広い表面に這い上り、そこに、うっすらとした一筋の光しか残らなくなるにつれて、その子の目からは涙が流れ落ち、その子は云うであろう。「お日様がほとんど消えちゃったよう。神様が吹き消しちゃったんだ。もう二度と照ることはないんだ。これからはずっと暗いままなんだ」。そして、その子は心の悲しみのあまりに泣き出すであろう。だがあなたは、その子の頭を手でなでて云うであろう。「いいや、坊や。お日様は消えたんじゃない。月がお顔の前を通り過ぎてるだけなのさ。すぐにまたぴかぴか輝き出すよ」。そして、あなたの子どもはすぐにあなたを信ずるであろう。そして、光が戻って来るのを見て、その子は良かったと感じ、あなたが先に云ったこと、太陽がいつも同じであることを信じるであろう。さて、あなたは明日、子どものようになるであろう。あなたが苦難に陥るとき、あなたはこう云うであろう。「神は変わってしまったのだ」。そのとき、神のことばをして、小さな子どもに語りかけるように、あなたに語らせるがいい。そして、こう云わせるがいい。「いいや。神は変わってはおられない。神には移り変わりや、移り行く影はないのだ」。

   「わが魂(たま)多くの 変化(かわり)経るとも
    主の愛 つゆも 変移(うつり)はあらじ」。

 さて今、最後の最後に、皆既食はかつて見られた中でも最も恐るべき、また最も壮大な光景の1つである。私たちは、今回の日食で、その威厳ある恐ろしさのきわみまで見ることはないであろう。だが、日食が皆既日食である場合、それは荘厳である。旅行者たちは、彼ら自身の経験についてそれなりに記録してくれている。太陽がはるか彼方で沈んでいったとき、山々はその頂を除き暗闇に覆われたかのように思われた。山頂部にのみ一筋の光があり、その下はことごとく暗闇にくるみ込まれた。諸天はますます暗くなり暗くなり暗くなって、とうとう夜のように暗黒となった。そして、そこここに星が輝くのが見えたが、それ以外には何の光もなく、何1つ見分けがつかなかった。私は考えていた。もし突然太陽が沈んでその十倍も暗くなり、二度と上ることがなかったとしたら、世界は何と身の毛もよだつ恐ろしい所になることであろう! もし明日、太陽が本当に死滅してしまい、二度と輝かなくなったとしたら、この世は何と恐るべき住まいとなることであろう! そしてそのとき、この考えが私には浮かんだのである。――ある人々、それも、この場にいるある人々は、いつの日か、自分たちのあらゆる慰めの光が完全に消滅することになるではないだろうか? 神に感謝すべきことに、いかなる光の消滅がキリスト者に起ころうとも、それは決して完全な消滅ではない。そこには常に慰めの環が残されている。その人を照らす愛とあわれみという細い三日月が常にある。しかし、よく聞くがいい。罪人よ。あなたがやがて死ぬときには、今のあなたの喜びがいかに輝かしいものであろうと、また、今のあなたの未来がいかに有望であろうと、あなたは完全な光の消滅をこうむらなくてはならないのである。じきにあなたの太陽は沈み、永遠の夜がやって来る。もう数箇月もすれば、あなたの歓楽は終わりを告げる。あなたの快楽の夢は、審きの喇叭というすさまじい叫喚で雲散霧消する。もうほんの数箇月もすれば、地上での乱痴気騒ぎという陽気な踊りはすべて過ぎ去り、それが過ぎ去ってしまえば、覚えておくがいい。この世であなたに期待できるものは、ただ、「さばきと……激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]のである。あなたは《救い主》がこう云われたとき何を意味されたか推測できるだろうか? 「外の暗やみ……そこで泣いて歯ぎしりするのです」[マタ8:12]。光が消滅しきった霊たちのほか誰に告げることができようか。彼らは、永遠の審きという苦悶の中で何年ももだえ苦しんでいる。その「外の暗やみ」によって何が意味されているか誰に分かろう! その暗闇はあまりにも分厚く、いかなる場所でも生き延びるはずの希望がほんのかすかな光の箭すら放つことができないほど貫通不能な暗黒にほかならない。その暗闇の黒さは、あなたの空想、あなたの美しい想像というともしびによっても決して照らし出せない。さわれるほどの暗黒であったエジプトにおける暗闇[出10:21]よりも分厚い恐怖がその霊をつかむであろう。「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]、が暗雲と闇の塊のように、呪われた霊の上で轟きわたるであろう。「呪われた者ども、呪われた者ども、呪われた者ども」、と《聖なる三位一体》によって三度宣言されたことばがやって来る。言語を絶する深さをなす三重の大海のようにやって来る。そして、希望も届かぬその洞窟の中にその魂を隠してしまう。

 私は、私たちの中の誰も完全には理解できないことを、単に比喩やたとえで語っているにすぎない。だが、それは、恵みによって救われない限り、私たちの中の誰もが知らざるをえないことである。私の同胞の罪人よ。あなたはきょう、死がやって来るとき自分がキリストの中に見いだされるだろうという希望を何か有しているだろうか? もしも全く有していないとしたら、用心して、震えるがいい。もし何かを有しているとしたら、それが「恵みによる素晴らしい望み」*[IIテサ2:16]であるように気をつけるがいい。もしあなたに何の希望もなく、希望を求めているとしたら、私の言葉を聞くがいい。救いの道をあなたに告げよう。神の御子イエス・キリストは人となられた。主はこの世界に住み、苦しみを受け、死なれた。そして、主の死の目的はこのことであった。――信ずるすべての人が救われることである。あなたが信ずるように求められているのは、ただこのことである。キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた[Iテモ1:15]。あなたは自分が罪人であると感じているだろうか? もしそうなら、主はあなたを救うために来られたのである。あなたにしなくてはならないことは単に――そして、それも恵みがあなたにそうさせてくださることだが――主が来られたのは罪人を救うためであると信じ、それゆえ、あなたを救うために来られたのだと信ずることである。よく聞くがいい。主はすべての人を救うために来られたのではない。罪人を救うために来られたのである。罪人との称号を主張することのできるすべての人を救うためにキリストは来られた。もしあなたが、罪人になるには善良すぎるとしたら、あなたはこのことについて何の関係もない。もしあなたが、罪人であると告白するには誇り高すぎるとしたら、このことはあなたとは無縁である。だが、もしへりくだった心をもって、また、悔悟の唇をもって、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」、と云えるとしたら、キリストはあなたのもろもろの罪のために罰されたのであり、あなたがそれらのために罰されることはありえない。キリストはあなたに代わって死んでおられる。キリストを信ずるならば、あなたは今や自分が救われたこと、永遠に救われていることを喜びながら帰って行くことができる。願わくは聖霊なる神がまずあなたに、あなたが罪人であることを教えてくださるように。それから、あなたを導いて、キリストが罪人たちのために死なれたことを信じさせてくださるように。それから、この約束を適用して、あなたが、キリストは自分のために死なれたのだと見てとれるようにしてくださるように。そして、それがなされたならば、あなたは、「神の栄光を望んで大いに喜」ぶ[ロマ5:2]であろう。また、あなたの太陽は決して沈んで光を消滅させることはなく、地上で沈んでも上の領域において十倍もの光輝とともに上ることになる。そして、そこでは決して雲間も、日没も、日食も知ることはないのである。

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日食[了]

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