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愛する者らは懲らしめられる

NO. 164

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1857年11月22日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」。――黙3:19 


 人の子らに対する神のお取扱いは、それを理解しようと試みた、いなかる地上の賢人たちをも戸惑わせてきた。神の啓示を離れては、この世でエホバがご自分の被造物たちをお取扱いになるしかたは、完全に説明不能と思われる。なぜ悪者が繁栄し、横暴の限りを尽くすのか、誰に理解できよう? 不敬虔な者は生い茂る野性の木のように[詩37:35]富み栄える。見よ。彼はその根を川に伸ばし、日照りの年を知らず、その葉は枯れず、その実は時期はずれに落ちることがない。見よ。こうした不敬虔な人々はこの世で富み栄え、うなるほど財産を有し、ちりのように黄金を積み上げ、その豊かさを、その幼子らに残す[詩17:14]。畑に畑を加え[イザ5:8]、町歩に町歩を加え、国の君主らとなる。それとは逆に、義人がいかに打ち倒されているか見るがいい。いかにしばしば美徳は貧乏な襤褸を着ていることか! いかに頻繁に、この上もなく敬神の念に富む人が飢えと、渇きと、裸に苦しまされることか! 私たちは時として、こうした事がらに思いを馳せたキリスト者がこう云うのを聞く。「確かに私は、むなしく神に仕えたのだ。私が朝ごとに自分を責めたことも、断食で魂を悩ませたことも何にもならない。神は私を打ち倒し、罪人を引き上げている。なぜこのようことがありえるのか?」 異教徒の賢者たちはこの問いに答えることができず、それゆえ、この黄金の結び目を断ち切るという便法を採った。「そんな理由など分からない」、と彼らは云ったのかもしれない。それゆえ彼らは、その事実そのものに襲いかかり、それを否定した。「繁栄する人は神々のお気に入りなのであり、不運な人は《至高者》の気に障る者なのだ」。そのように異教徒は語り、それ以上のいかなる知恵も有さなかった。もう少し光を受けていた東方人たちも、ヨブの患難の日に彼と語り合った人々のように、それと大差はなかった。というのも、彼らの信ずるところ、神に仕えるすべての者は身の回りに垣根を巡らされ、神によって富を増やされ、幸福を増し加えるはずだったからである。逆に彼らは、ヨブの患難の中に、彼が偽善者であるという確実なしるし――と彼らの思ったもの――を見てとった。神は、ヨブが偽善者だからこそ彼のともしびを吹き消し、暗闇の中で彼の光を消してしまったのだ、と。そして、悲しいかな! キリスト者たちでさえ、これと同じ過ちに陥ってきた。えてして彼らは、もし神がある人を引き上げるなら、その人のうちには何か卓越したものがあるに違いないと考え、神が懲らしめ、苦しめるとしたら、普通それは御怒りの表われに違いないと考えがちなのである。だが、この聖句に聞けば、謎はことごとく解けてしまう。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」。

 実を云うと、この世は刑罰の場所ではない。折に触れ著しい審判が下ることはあるかもしれない。だが原則として神は、現在の状態の中では、いかなる人をも罪ゆえに完全に罰することはなさらない。神は悪人がその邪悪さの中を突き進み続けるにまかせておられる。彼らの首から手綱を放してほしいままにさせておられる。彼らがその種々の情欲をしゃにむに追求するままにしておられる。ある程度は良心による歯止めがあるかもしれない。だが、これは罰というよりも戒告である。そして、それとは逆に、神はキリスト者を引き倒される。最も敬神の念に富む者に、最も苛酷な患難をお与えになる。ことによると、最も聖化されたキリスト者の胸の上を神がうねり越えさせている苦難の波浪は、この世に生きているいかなる者の心の上に生ずる苦難よりも多いかもしれない。それで、私たちは覚えておかなくてはならない。罰と報いは、来たるべき世に期待すべきなのである。そして、信じなくてはならない。神がご自分の民を苦しめられる唯一の理由はこのことである、と。――

   「愛もて懲らし 汝が黄金(かね)錬りて、
    終(つい)には与えん わが似姿を」。

私が今朝、注目しようと思うのは、第一に、ご自分の子どもたちの内にある何を神は懲らしめられるか、ということである。第二に、なぜ神は彼らを懲らしめられるか、そして第三に、私たちが私たちの神の叱責や矯正の下であえいでいるとき、何が私たちの慰めとなるか、ということである。私たちの慰めは、そのときでさえ神が私たちを愛しておられるという事実でなくてはならない。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする」。

 I. まず第一に、愛する方々。《キリスト者の内にある何を神は叱責されるか》である。英国国教会の《信仰箇条》の1つは、いみじくもこう語っている。すなわち、生来、「人間は、原義からはるか遠くに離れ去り、自分自身の性質によって悪に傾くものとなっている。それで、肉は常に霊に逆らう情欲をいだくのである。それゆえ、この世に生を受けたあらゆる人間において、それは神の御怒りと断罪に値している。また、この性質の汚染は、新生した者たちのうちにすら残存している。それにより、ギリシャ語で phronema sarkos と呼ばれる、肉の欲(人により、肉の知恵とも、官能性とも、感情とも、願望とも解釈されるもの)は、神の律法に服従しないのである。また、信じてバプテスマを受けた人々が罪に定められることはないが、使徒は、むさぼりと情欲そのものに罪の性質があると告白している」、と。新生した者たちのうちにも悪が残存しているがゆえにこそ、その悪は厳しく非難される必要があるのである。左様。そして、非難では十分でないとき、神はさらに厳しい手段に向かう必要があるのである。神は、ご自分の叱責が功を奏さないと、懲らしめという処置を講じられる。「わたしは……しかったり、懲らしめたりする」。こういうわけで、神はご自分の民を懲らしめ、また叱責する手段を供されるのである。時として神は、ご自分の子どもたちを牧会職の下で叱責される。福音の教役者は、慰藉を与えるだけが能ではない。《慰め主》なる同じ御霊は、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを確信させる[ヨハ16:8]。そして、甘やかな蜜に満ちた言葉を語り、私たちの魂にとって神の御使いたるべき同じ教役者は、時として神の鞭となり、《全能者》の御手の中にある杖となって、神が私たちのそむきの罪ゆえに私たちを打つものとなるべきである。そして、あゝ! 愛する方々。いかにしばしば私たちは、牧会職の下で叱られてしかるべきだったときに、そうされずにきただろうか? ことによると、教役者の言葉は非常に説得力があり、真の熱意をもって語られ、私たちの場合に当てはまるものだったかもしれない。だが、悲しいかな! 私たちはそれに対して自分の耳を閉ざし、自分の代わりに自分の兄弟にそれを当てはめてきた。私は自分が説教しているとき、何度となく驚嘆したことがある。私は、自分の教会員の中のある人々についてこの上もなく露骨に描写したと思っていた。私は彼らの中にあれこれの罪があることに注目していた。そして、キリストに仕える忠実な牧師として、彼らのあり方を講壇で描き出すことを避けはしなかった。それは彼らに、しかるべき叱責を受けとらせるためであった。だが、私を驚嘆させたことに、後で話し合ってみると、彼らは私に感謝し、私の語ったことが教会内の、似たような別の兄弟に物の見事に当てはまると思ったというのである。私は彼らのことだけを意図し、微に入り際を穿った描写をし、彼らの特徴を逐一明らかにして、これは自分のことだと思い知ることができるようにしたはずであった。しかし、悲しいかな! 愛する方々。あなたも知る通り、私たちはみことばの声の下に座っていながら、それがどれほど自分に当てはまるかを考えることがめったにない。特に自分が《教会》の役職に就いている場合そうである。ある教役者が、同労の教役者の話を聞いているとき、彼が自分を叱責している言葉を語っているかもしれないと思うのは困難である。長老や執事の役職に引き上げられると、自分向けに語られたみことばに対する鈍感さが、その役職とともに生え出ることがある。そして、役職に就いている人は、そのことばが当てはまるであろう何百人もの求道者たちのことや、そうした言葉が時宜を得たものであるはずの大勢の恵みにおける幼子たちのことを考えがちである。左様。愛する方々。私たちは、もし牧会職の下で語られる神の叱責にもっと耳を傾けていさえしたら、また、安息日ごとに語られるみことばをもっと傾聴していさえしたら、多くの矯正を受けずにすんでいたであろう。というのも私たちは、数多くの叱責を見下すまでは矯正されず、私たちがそれらを拒否した後で初めて鞭がやって来るからである。

 また、時として神は、ご自分の子どもたちを、何ら目に見える手段なしに、彼らの良心の中で叱責される。あなたがた、神の民である人たちは、ある特定の時期があることを認めるであろう。明らかに何の媒介もないのに、自分のもろもろの罪が思い起こされ、自分の魂が内側で打ちしおれ、自分の霊がいたく悩まされるときがあるのである。聖霊なる神ご自身が厳しく罪を審問しておられる。御霊はともしびをかざしてエルサレムを捜しておられる[ゼパ1:12]。そして、あなたが今のような体たらくに安住しているがために、あなたを罰しておられる。周囲をぐるりと眺めてみても、あなたの気を滅入らせるようなものは何もない。家族は無病息災、商売は繁盛、五体は満足である。ならば、なぜこのように霊が沈んでいるのだろうか? あなたは、その時には意識していないかもしれないが、何らかのはなはだしい罪の行為を犯してしまっていたのであり、その暗い抑鬱がなおも続いているのである。そして、とうとうあなたは発見するのである。自分が、知らぬ間に罪の中に生きていたことを。――何らかの無知の罪、隠されていた、また、感知されることのなかった罪の中に。それゆえ、神はあなたからご自分の救いの喜びを取り上げ、あなたが自分の心を探り、どこに悪があったかを発見するようにしてくださったのである。私たちには、神が時としてこのような道を採り、懲らしめの前に私たちを叱ってくださることで、神をほめたたえるべき多くの理由がある。

 別の時期には、この叱責は、全く間接的なものである。いかにしばしば私が出会ってきた叱責は、全く意図することなく発されたものであったことか! しかし神は種々の状況を益のために転じてくださった。あなたは一度も子どもによって叱られたことがないだろうか? 無邪気で小さな幼児は時として全く知らずして、あなたの心まで切り裂き、あなたの罪を明らかに示すようなことを口にしてきた。もしかすると、あなたは町通りを歩いていて、誰かが悪態をつくのを耳にしたかもしれない。そして、ことによると、このような思いがあなたの胸を打ったかもしれない。「私は放埒な者たちを改心させるために、いかに僅かしか行なっていないことか!」 それで、このようにして罪を目にすることそのものが、あなたを怠慢ゆえに非難し、悪を耳にすることそのものが神によって用いられ、別の悪についてあなたに確信させるのである。おゝ! もし私たちが自分の目を開いていさえすれば、放牧地の雄牛や、梢の雀一羽といえども時として叱責を示唆しないものはない。真夜中の星1つ、真昼の光一筋といえども、もし私たちがエホバの叱責の優しい囁きに目覚めていさえするなら、私たちの心に隠されている何らかの悪を私たちに示唆しないもの、私たちに自分の内なる人を取り調べさせないものはない。あなたは私たちの《救い主》が小さな事がらを用いてその弟子たちを叱責されたことを知っている。主は云われた。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。空の鳥を見なさい。彼らがいかに養われているかを!」[マタ6:26、28参照]。そのようにして主は、百合や烏をして弟子たちに語らせ、彼らの不満を厳しく批判しておられる。地は勧告者で満ちている。私たちに必要なのは聞くべき耳だけである。しかしながら、こうした叱責すべてが役に立たないとき、神は叱責から矯正へと進まれる。神はいつまでも叱るばかりではない。むしろ、ご自分の叱責が顧みられない場合には、鞭を掴み、それをお用いになる。神がいかに鞭をお用いになるか、あなたに告げる必要はないであろう。私の兄弟たち。あなたがたはみな、それで疼かされたことがある。神はあなたを打ってこられた。時としてあなた自身を、時としてあなたの家族を、しばしばあなたの財産を、往々にしてあなたの目論見を打ってこられた。あなたに最も近しい親友を打ってこられた。あるいは、さらに悪いことに、あなたの「肉体に一つのとげ……あなたを打つための、サタンの使い」*[IIコリ12:7]をお与えになったかもしれない。しかし、あなたがたはみな、キリスト者生活について少しでも知っているとしたら、契約の鞭と杖がいかなるものかを、また、神によって矯正されることがいかなることかを理解しているはずである。ほんのしばし、神が私たちの中の何を矯正されるのかを詳しく示させてほしい。

 非常に多くの場合、神は過度の愛情を矯正される。私たちが自分の親族を愛することは正しい。――だが彼らを神にまさって愛することは間違っている。ことによると、あなたは、きょうのこの日、この罪を犯しているかもしれない。いずれにせよ、愛する方々。私たちがこの点についてつぶさに語るとき、自分を深く見つめないですむ者は、私たちの中にほとんどいない。私たちには誰かお気に入りの者がいないだろうか?――ことによると、私たちの最愛の配偶者、あるいは、私たちの愛しい子どもたちが、いのちそのものよりも自分にとって大切なものとなっていないだろうか? この場にいる何人かの人々のいのちは、自分の子どもである若い息子のいのちと堅く結びつけられていないだろうか?――何人かの母親の魂は、自分の赤子の魂に編み込まれていないだろうか?――何人かの妻、何人かの夫にとって、伴侶を失うことはいのちを失うも同然になっていないだろうか? おゝ、私たちの多くは親族に対する過度の愛情という罪を犯している。よく聞くがいい。神はそのことゆえに私たちを叱責されるであろう。このようなしかたで叱責されるであろう。時として神は、教役者によって私たちを叱責されるであろう。それが十分でなければ、私たちが自分の心をかけている当の者たちに不健康や病気を送ることによって私たちを叱責されるであろう。そして、もしそれでも私たちが叱責されず、もし私たちが熱心に悔い改めようとしなければ、私たちを懲らしめられるであろう。その不健康はそれから死に至ることになる。その病気は、より恐ろしいすさまじさで吹き出し、私たちが自分の偶像としていたものは打たれて、うじ虫のえじきとなる。世にある偶像のうち1つとして神がその地位から引きずり落とさなかったもの、これから引き落とさないものはない。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神」[出20:5]。そして、もし私たちが何かを、たといいかに善良で、この上もない性格をしたものであれ、また、いかに私たちの愛情に値するものであれ、それを神の御座に着けるとしたら、神はこう大喝されるであろう。「そいつをぶち倒せ!」 そして、私たちは多くの涙を流すことになる。だが、もし私たちがそうしていなかったとしたら、私たちは自分の宝を保っておき、それをはるかに長く、失うことなしに楽しむことができたであろう。

 しかし、他の人々はこれよりも下劣である。子どもたちや、妻や、友人たちを大事にしすぎる咎は、神の御目においてははなはだしく重いものであるとはいえ、人間的には相当に大目に見られて良い。だが、悲しいかな! ある人々は、血肉を愛するには浅ましすぎる。彼らの愛するもの、それは汚物である。ただの汚れた土くれ、すなわち、黄色い金である。それこそ彼らが執心するものである。彼らは自分では、自分たちの金入れなど金かすであると云う。だが、私たちがやって来て、そのいくらかでも取ろうとすると、私たちは彼らがそうは思っていないことに気づくのである。「おゝ」、とある人はかつてこう云った。「先生。もし私から寄付金をほしければ、まず私の心をつかまなくては、私の金入れをつかめませんよ」。「そうですね」、と私は云った。「その点については全く疑っていませんよ。なぜって、私の信ずるところ、そこにこそあなたの金入れはあるのですからね。そう云っても、さほどひどい間違いではないでしょう」。そして、いかに多くの人々が、キリスト者であると自称しながら、自分の富を1つの神としていることか! 彼らの庭園、彼らの邸宅、彼らの地所、彼らの倉庫、彼らの大判の台帳、彼らの多くの店員、彼らの拡張しつつある仕事、あるいは、もしこうしたものでないとしたら、彼らの引退する機会、彼らの《三分利付き公債》。こうしたすべての物事が彼らの偶像であり、彼らの神々なのである。そして私たちは彼らを自分たちの諸教会に受け入れ、この世は彼らに何のあらも見いださない。彼らは思慮深い人々である。あなたは、彼らの多くを知っている。彼らは非常に体裁の良い人々であり、多くの体裁の良い地位を保持し、非常に思慮のある人々である。ただ、あらゆる悪の根であるという、かの金銭愛[Iテモ6:10]が、彼らの心の中で、打ち消せないほど目立っているのである。それは誰にでも見てとれる。ことによると、彼ら自身は見てとっていないかもしれないが関係ない。「むさぼり……すなわち、そのまま偶像礼拝であるもの」*[コロ3:5]が、生ける神の教会において非常に大きなものを支配している。よろしい。よく聞くがいい。神はそれゆえに懲らしめられるであろう。神の民の間で富を愛している者は誰でも、まず、そのことを叱責されることになる。彼がきょう私によって叱責されているのと同じように。そして、もしその叱責が受け取られないと、懲らしめが与えられることになる。それは、その黄金が太陽の前の雪片のように溶け去るということかもしれないし、あるいは、もしそれが貯蔵されているとしたら、こう云われることになる。「あなたがたの金銀にはさびが来て、しみが衣を食い尽くし、あなたの栄光は滅ぼされる」*[ヤコ5:3; イザ51:8参照]。さもなければ、主は彼らに病を送ってやせ衰えさせ[詩106:15]、その頭にほとんど何の誉れもなく、その心にほとんど何の慰めもないまま彼らを墓に下らせられる。なぜなら、彼らは自分の黄金を自分の神よりも愛し、地上の富を永遠の富にまさって尊んだからである。願わくは主が、私たちをこのことから救ってくださるように。さもなければ、私たちを確かに矯正してくださるように。

 しかし、このことが唯一の罪ではない。私たちはみな、神がこの上もなく忌み嫌われる別の罪悪にとらわれた者である。それは、高慢の罪である。もし主が私たちに多少とも慰めをお与えになると、私たちは図に乗り、自分をどうして良いかほとんど分からないほどになる。こう記されている、古のエシュルンのように。「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった」[申32:15]。少しの間でも信仰の全き確信を楽しむことがあると、うぬぼれがこう囁く。「お前は一生の間この香気を保っていることだろう」。そして、囁きにもならないもの、それよりはるかにかすかなものが云う。――「お前には、今や聖霊の影響に頼る必要などないのだ。お前が何と偉大な者となった見てみるがいい。お前は主が最も尊ばれる者たちのひとりになっている。お前はサムソンである。ハデスの門を引き倒しても恐れることはない。お前はもう、『主よ。私をあわれんでください』、などと叫ぶ必要はない」。あるいは、他の時、これは別のしかたになる。神が私たちに物質的な数々のあわれみを与えてくださると、私たちは思い上がってこう云う。「私の山は堅く立っている。私は決してゆるがされない」[詩30:6-7参照]。私は貧乏な聖徒たちに出会うと、彼らに威張り散らし始める。あたかも自分が大物で、彼らが小物ででもあるかのように。私たちは誰かが苦難の中にあるのを見いだすと、彼らに何の同情もしない。彼らの苦難について彼らと話をするときも、ぶっきらぼうで、つっけんどんに接する。しかり、無礼で冷酷な口の聞き方さえする。深い苦悩の中にあり、気がくじけそうな人に出会うと、自分も気がくじけそうであったことを忘れ始め、彼らが自分と同じくらい走れないからといって、どんどん先へと駆け出して行き、後ろを振り返って彼らを眺めては、彼らを無精者呼ばわりし、彼らは怠惰で、のらくらしているのだと云う。そして、私たちが説教者である場合、ことによると講壇においてさえ、自分と同程度に進歩していない人々に向かって厳しい言葉を発するかもしれない。よろしい。よく聞くがいい。これまでに、自分の見事な尾羽を自慢した聖徒のうちひとりとして、やがて主からそれを抜き取られなかった者はない。これまでに、自分の心に高慢をいだいた御使いのうちひとりとして、サタンとその堕落した御使いたちのようにその翼を奪われてゲヘナに落ち込まなかった者はいない。そして、今後も決して、うぬぼれと高慢と自信にふけっている聖徒のうちひとりとして、主によってその栄光をぶちこわされず、その誉れを泥土に踏みにじられず、再びこう叫ばされない者はいないであろう。「主よ。すべての聖徒たちのうちで一番小さな、こんな罪人のかしらの私をあわれんでください」。

 神が叱責されるもう1つの罪は、怠惰である。さて、わざわざそれを描写する必要はないであろう。あなたがたの中のいかに多くの人々が、これ以上なく見事な、きわめつけの怠惰さの見本であることか! 私は商売上の意味でそう云っているのではない。というのも、あなたは、商売には「勤勉で怠ら」ない[ロマ12:11]からである。だが、神の事がらと真理の進展とに関しては、何と、キリスト教信仰を告白する十人中九人までが、――あえて私は主張するが――これ以上ないほどの怠惰に満ち満ちている。わが国の至る所にある諸教会を取り上げてみるがいい。この世のいかなる団体にもまして――それがいかに腐敗したものであろうと――自らの公言する利益に気を入れていないのは、キリスト教会である。確かに世間には、自らの推進すべき諸利害に気を入れていないがために、大いに非難に値するような多数の団体や施設がある。だが、神の《教会》こそ、その中でも最大の罪人だと思う。《教会》は、貧しい人々に福音を宣べ伝えるものであると云う。では彼らに福音を伝えているだろうか? しかり。そこここで、時たまは、散発的な努力がなされている。だが、いかに多くの者らが、神のみことばを語ることのできる舌と能力を有していながら、音無しの構えで満足していることか! 《教会》は、無知な者を教育するものだと公言し、ある程度まではそうしている。だが、あなたがたの中の多くの人々は、今朝この場にいる権利は全くない。――あなたは《日曜学校》で教えるか、年少者を導くか、他の人々を教えているべきであった。あなたがたは、今は何の教師も必要ではない。あなたがたは真理をすでに学んだのであって、それを他の人々に教えているべきである。教会の告白するところ、教会は福音の光をさらに世界中に照らすべきだという。そして、海外宣教事業において少しは事を行なっている。だが、あゝ! 何と僅かな! 何と僅かな! 何と僅かなことか! それを、教会の《主人》が教会のために行なわれたこと、また、イエスが教会に対してなしておられる要求にくらべてみよ! 私たちは、怠け者の一団である。そこら中の教会を取り上げてみると、私たちはこれ以上ないほどに怠惰である。それで私たちは、迫害という鞭を受ける時期によって、もう少し真剣さと熱心さを叩き込まれることが必要なのである。神に感謝すべきことに、今は十二箇月前とくらべてさえ、それなりに状況が好転している。というのも、もし教会が全体として、また私たちひとりひとりがその肢体としてまず叱責されず、また、私たちがその叱責を受けとらないと、私たちは後に、自分たちのこの大いなる罪ゆえに懲らしめられることになるからである。

 時間の都合上、私は、神が叱ったり懲らしめたりする他の一切の理由について立ち入ることができない。これだけ云えば十分であろうが、そうした罪の1つ1つのために、神の鞭の先には、それに見合う一本の小枝がついているのである。これだけ云えば十分であろうが、神の御手の中には、あらゆる個々のそむきの罪に対する罰があるのである。そして、この上もなく不思議なことだが、聖書の歴史を見るとき、いかにほとんどあらゆる聖徒が、自分の犯した罪ゆえの懲らしめを、その罪そのものが頭上に落ちかかることによって受けてきたことか。そむきの罪は最初は快楽であったが、後になると天罰となってきた。「心の堕落している者は自分の道に満ち足りる」[箴14:14 <英欽定訳>]。そして、それはこの世で最も厳しい刑罰である。

 このように私は、この最初の項目――すなわち、神は叱ったり、懲らしめたりされる――ということを解き明かそうとしてきた。

 II. さて、第二に、《なぜ神は叱ったり、懲らしめたりされるのだろうか?》 「何と」、とある人は云うであろう。「神がご自分の子どもたちを叱るのは、彼らがご自分の子どもたちだからですよ。彼らを懲らしめるのは、ご自分の子どもたちだからですよ」。よろしい。私も、それが偽りであるとまでは述べない。だが、あえて云おう。それは、真実でない、と。もし誰かが、ある父親がわが子を懲らしめた後で、「なぜあなたは子どもを懲らしめたりするのですか?」、と彼に対して云うとしたら、彼は、「それは私がこの子の父親だからです」、とは云うまい。ある意味でそれは正しいが、彼はこう云うであろう。「私がこいつを懲らしめたのは、こいつが悪さをしたからですよ」。もし彼が自分の子を懲らしめた最たる理由が、自分はその子の父親だから、ということでないとしたら――確かにそれは、その大きな理由の1つとして、全く関係がなくはないが、――その厳然たる第一の原因はこのことであろう。すなわち、「私がこいつを懲らしめたのは、こいつが悪いことをしたからですし、そのことでこいつを懲らしめてやりたいからですよ。こいつが二度とそうしなくなるようにね」。さて、神は、ご自分の子どもたちを懲らしめるとき、決してご自分が彼らの御父であるがために、何が何でもそうされるのではない。むしろ、1つの賢明な理由からそうされるのである。神には、ご自分が父であること以外にも理由があるのである。とはいえ、神がその子どもたちを苦しめ、他の者らを苦しめない1つの理由は、神が彼らの御父であられるからである。もしあなたがきょう家に帰る途中、町通りで十何人もの少年たちが石を投げては窓を割っているのを見かけたとしたら、おそらくあなたはその全員を追い払うであろう。だが、もしそこに頭を軽くどやされる子がいるとしたら、それはあなたの実の子であろう。というのも、あなたはこう云うであろうからである。「何をしとるんだ、ジョン? 何でまた、こんなことをしなきゃいけないんだ?」 あなたは、他の子たちに手をあげたりしたら、正しく事を運んだことにはならないかもしれない。――あなたは、その子たち自身の父親に彼らの面倒を見させるであろう。だが、あなたは彼の父親であるため、あなたは彼にこのことを忘れさせないようにしようとするであろう。それで、何らかの特別の懲らしめが神の子どもたちに加えられるとき、それは、彼らが神の子どもたちだからである。だが、ある特定のとき神が彼らを懲らしめられるのは、彼らが神の子どもたちだからではなく、むしろ、彼らが何か悪いことをしていたためである。さて、もしあなたが懲らしめの下にあるとしたら、この真理をあなたの肝に銘じておくがいい。あなたにとって神の慰藉は大したことのないものになっているだろうか? あなたには何か秘密の部分があるだろうか? あなたはあなたの仕事において懲らしめられているだろうか? ならば、いかなる罪をあなたは犯してきただろうか? あなたは自分の霊において打ちひしがれているだろうか? ならば、いかなるそむきの罪がそれをあなたにもたらしたのだろうか? 覚えておくがいい。「私が懲らしめられるのは、私が神の子どもだからだ」、というのは公正ではない。正しい物の云い方はこうである。「私は神の子どもである。それゆえ、神が私を懲らしめるとき、神にはそうなさる理由があるのだ」。さて、それは何だろうか? あなたがそれを判断する手助けをしてみよう。

 時として神が私たちを懲らしめ、苦しめられるのは、罪を防ぐためである。神は情欲の萌芽が私たちの心の中にあるのをご覧になり、その害毒の小さな卵が孵り始め、罪を生み出し始めているのをご覧になったので、やって来ては、ただちにそれを踏み砕かれるのである。――その罪を芽のうちに摘み取られるのである。あゝ! キリスト者たちがその患難によって、いかに多くの咎から救われてきたかは見当もつかない。私たちは自分の破滅に向かって狂ったようにひた走りつつある。そのとき、何らかの苦難が暗く出現し、その道一杯に立ちはだかる。そこで大きな恐怖に驚かされた私たちは、素飛んで後戻りしていく。私たちは、なぜあんな苦難が?と問う。おゝ! もし私たちが大洪水へと突き進んでいたことを知っていたとしたら、ただこう云うほかないであろう。「主よ。あなたに感謝します。あの恐ろしい苦難によって、あなたは私を罪から救ってくださいました。その罪の方が、はるかに大きな苦難であり、無限に危険きわまりないものだったでしょう」。

 別の時期に神が私たちを懲らしめられるのは、すでに犯された種々の罪のためである。私たちは、ことによると、それを忘れてしまっているかもしれない。だが、神は忘れておられない。思うに、ある罪と、その罪ゆえの懲らしめとの間には、時として数年も隔たっていることがある。あなたの若い頃のもろもろの罪は、私たちの白髪の老年期に罰されることがありえる。あなたがたの中の年老いた人々は、二十年前に犯したそむきの罪を、きょうのこの日、あなたの骨々の中に見いだすこともありえる。神はその子どもたちを懲らしめるが、時としてその鞭を取りのけておかれることがある。ことによると、その時期がふさわしくなかったのかもしれない。彼らはまだ、それに耐えられるだけ強くなっていないのである。それで、神はその鞭を使わずに取りのけておき、こう仰せになるのである。たといわたしがこの鞭を取りのけておくとしても、彼がわたしの子どもであることはまぎれもなく真実であり、わたしは彼をこのことゆえに痛い目に遭わせるであろう。それは、わたしが最後には彼をその罪から解放し、彼をわたしに似た者とするためだ、と。しかし、よく聞くがいい。あなたがた、神の民よ。こうしたすべての懲らしめの下にあって、1つとして罪のための罰はないのである。神があなたを懲らしめるとき、神は裁判官として罰しておられるのではない。むしろ、父親として懲らしめておられるのである。神は、その鞭を振り下ろし、何度も痛烈に打ち叩くが、その心には怒る気持ちは全くない。――その御目は不快な眼差しを全く浮かべていない。神はそのすべてをあなたの益のためにしておられる。その最も重い打撃も、神の愛情の贈り物であることは、その最も甘やかな愛撫と変わりがない。神の動機は、あなたの益と、ご自分の栄光のほか何もない。ならば、こうしたことが理由である以上、元気を出すがいい。むしろ、この命令を果たすように注意するがいい。――「熱心になって、悔い改めなさい」。

 私は先日、昔の清教徒のある著者が書き記したたとえを読んで、非常に良いものであると思った。彼はこう云っている。「船にとって、真後ろから吹いてくる追い風は、横風ほど好ましいものではない。奇妙なことだが」、と彼は云う。「風が港に向かって真っ直ぐに船に吹きつけているときには、斜めから横風を受けているときほど、うまく進まないのである」。そして、その説明として彼はこう告げている。「船乗りたちによると、風が真後ろから吹くときには、船の帆の一部をはらませるだけで、前の方にある帆には届かない。なぜなら、風に一杯に膨らんだ帆が、それよりも前にある帆に風が達する邪魔になるからである。しかし、風が斜め横から吹いてくるとき、帆は一枚残らず風をはらみ、船は風の完全な力によって敏速にその航路を進まされるのである。あゝ!」、とこの老清教徒は云う。「横風ほど神の民を天国へと駆り立てるものはない。追い風は彼らの帆の一部を膨らませる。すなわち、彼らの喜びを満たし、彼らの楽しみを満たす。だが」、と彼は云う。「横風はその帆のすべてを膨らませる。それは彼らの警戒心を満たし、彼らの祈り深さを満たし、霊的な人のあらゆる部分を満たし、そのようにしてこの船はその港を目指してまっしぐらに疾走させられるのである」。このような意図をもって神は患難をお送りになる。私たちの種々のそむきの罪ゆえに、私たちを懲らしめるために。

 III. さていま私がしめくくりとして注意したいのは、《神が私たちを叱ったり懲らしめたりするとき、何が私たちの慰めとなるか》ということである。

 私たちの大きな慰めは、それでも神は私たちを愛しておられるということである。おゝ! 私たちが私たちの神を信じられるようにさせられるとき、信仰とは何と尊いものであろう! また、そのときには、あらゆる苦難を耐え忍び、乗り越えることが、いかに容易になるであろう! 屋根裏部屋にいるあの老人の言葉を聞くがいい。そこにはパンの皮と一杯の水しかない。病が彼を何年もこの狭い部屋に閉じ込めている。彼は貧しさのあまり、付き添いをかかえておくことができない。何人かの婦人が朝夕やって来ては、彼の世話をしてくれている。貧乏のどん底にありつつ、彼はそこに座っている。さて、あなたは彼が座っては呻いていると思うであろう。否。兄弟たち。彼はからだが弱るときには呻くこともあるが、通常は、座って歌っているのである。この、人間が暮らすことなどほとんど許されまじき古家の軋る階段を上って、訪問者が、この貧しく狭苦しい部屋、人間よりは豚を住ませた方が良いような部屋の中に入ると、まず底の抜けた椅子に腰かけ、なるべく上手にその横材の上にかがんでは、彼に話しかけ始める。すると、この老人が天国に満ちていることに気づくのである。「おゝ、先生」、と彼は云う。「神様はわしに、とても親切なお方すよ」。枕でつっかいをされ、からだの節々が途方もない苦痛に満ちているというのに? だが、彼は云う。「御名はほむべきかな。神様はわしを見捨てなさらんかった」。「おゝ! 先生。平安と幸福を、わしはこの部屋の中で楽しんできましたよ。もう何年も出たことはありませんがな」。――(私がいま描写しているのは、本当の話である)「わしは、一生の間でそれまでなかったほどの幸福を、ここで楽しんできたすよ。わしの苦痛はえらく大きいもんすが、先生。それも長くは続きますまい。わしはじきに故郷へ行きますでな」。左様。彼が今なお少し苦しめられるとしても、これほど豊かな慰藉がその心に注がれている以上、彼はすべてを莞爾と耐え忍び、炉の中にあっても歌うことができるであろう。さて、神の子どもたち。あなたは同じことをすべきである。思い出すがいい。あなたが苦しまなくてはならないすべては、愛によって送られているのである。父親から懲らしめられているとき、その鞭を愛の象徴とみなすことは、子どもにとっては難しい務めである。あなたの子どもたちにそうさせることはできない。だが、彼らが大きくなって成人したときには、いかに彼らはあなたに感謝することであろう? 「おゝ、父さん」、と息子は云うであろう。「私はなぜ自分があんなに何度も懲らしめられたのかが分かりましたよ。私には、横柄で、癇癪を起こしやすい心がありました。もし父さんが私から鞭でそれを叩き出してくれなかったとしたら、身の破滅となっていたでしょう。今は、父さん、そうしてくれたことに感謝しますよ」。

 そのように私たちも、この下界にいる間は、小さな子どもでしかなく、鞭をありがたく思うことはできない。成年に達したとき、また、パラダイスにある自分の地所に入ったとき、私たちは《契約》の鞭を、アロンの杖にもまさるものとして振り返ることであろう。というのも、それは、あわれみの花を咲かせるからである。私たちは、それに向かって云うであろう。「お前は、私の宝物の一覧の中でも、最も驚くべきものだ。主よ。私はあなたに感謝します。あなたが私を苦しめられもせずに放っておかれなかったことを。さもなければ私は、今のこの場所にいることはなく、今の私、パラダイスにいる神の子どもとなることはなかったでしょう」。「私は先週」、とある人は云うであろう。「商売上で非常に深刻な損失を被って、もう完全におしまいではないかと思っているのですよ」。そこには愛があるのである。「私が今朝この場所に来たとき」、とある人は云うであろう。「私は家に死んだわが子を残してきたのです。――心から愛していたわが子を」。そこには愛があるのである。その棺は、また、その屍衣は双方とも愛で満ちており、あなたの子どもが取り去られたとき、それは怒りによってなされたのではないのである。「あゝ!」、と別の人が云うであろう。「ですが私は、この上もなく病んできたのです。そして、今でさえ私は外出したりするのではなかったと感じています。私は寝床に帰らなくてはなりません」。あゝ! 主はあなたの患難の中にあなたの床を設けておられるのである。あらゆる痛み、あらゆる神経の高ぶりの中には愛がある。からだの各部分に走るあらゆる激痛の中には愛がある。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「それは私自身のことではありません。ですが、私の愛する者が病んでいるのです」。そこにもやはり愛がある。神が何をなさろうと、ご自分の民に対して愛のない行為を行なうことはおできにならない。おゝ、主よ! あなたは《全能なる方》です。何でもおできになります。ですが、偽りを云うことはおできになりません。また、選びの民に対して不親切になることはできません。しかり。《全能》は一千もの世界を作ること、それを幾多の賜物で満たすことはできる。《全能》は山々を粉々に砕いてちりとすることも、海を灰燼と化し、空を焼き尽くすこともできる。だが、《全能》は信仰者に対して愛のないことを行なうことはできない。おゝ! 全く確信するがいい。キリスト者よ。神がご自分の民に対して冷酷なこと、愛のないことがなさるのは全くの不可能なのである。神は、あなたを牢屋に叩き込むときも、あなたを王宮に連れ込むときと同じくらいあなたに対していつくしみ深くあられる。あなたの家に飢饉を送るときも、あなたの納屋を満杯にするときと同じくらい善であられる。唯一の質問は、あなたは神の子どもだろうか?、ということである。もしそうだとしたら、神はあなたを愛情をもって叱ってくださったのであり、その懲らしめの中には愛があるのである。

 話を終える前に、最後にもう1つだけ訴えなくてはならない。私はいま、神の民から、あなたがたの中のそれ以外の人々に目を向けなくてはならない。あゝ! 話をお聞きの方々。あなたがたの中のある人々は、全く神を有していない。あなたには、あなたの種々の苦難をゆだねるべき何のキリストもない。私が目にしているあなたがたの中のある人々は、きょうは服喪の衣裳を身にまとっている。あなたは、誰か身近な人を喪ったのだと思う。おゝ! あなたがた、黒衣をまとっている人たち。神はあなたの神だろうか? それとも、あなたは今、あなたのあらゆる涙をあなたの目から拭ってくださる神もなしに、嘆き悲しんでいるのだろうか? 私は知っている。あなたがたの中の多くの人々は、今、あなたの商売において、非常に険しく、困難な時期の中で葛藤している。あなたは自分の数々の苦難をイエスにお告げすることができるだろうか? それとも、すべてを自分ひとりで耐えなくてはならないだろうか?――友もなく、助けもないままに。多くの人々は狂気に駆られている。なぜなら、彼らには自分の悲しみを分かち合う者が誰ひとりいないからである。そして、いかに多くの他の人々が、狂気よりも悪いものへと駆り立てられてきたことか。それは、彼らが自分の悲しみを告げたとき、彼らの信頼は裏切られたからである。おゝ、あわれな嘆いている霊よ。もしあなたが、そうすることができたように、行って主にあなたの悩みを洗いざらい告げたとしたら、主はあなたを前にしてあざ笑わなかったであろうし、決してそれを他人に告げたりなさらなかったであろう。おゝ! かつて私の幼い心が少年時代に痛んでいた頃のことを思い出す。私が最初に《救い主》を愛した頃のことである。私は両親からも、私の愛するすべての人々からも、遠く離れた所におり、自分の魂が張り裂けてしまうのではないかと思った。というのも私は、何の同情にも助けにも出会えないような場所で、とある学校の助教師をしていたからである。よろしい。私は自分の私室に赴き、私の小さな悲嘆をイエスの耳にお告げした。それらは今の私にとってはどうということがなくとも、当時の私にとっては大きな悲嘆であった。膝をかがめて、それを、永遠の愛によって私を愛しておられたお方の耳に囁いたとき、おゝ! それがいかに甘やかなことであったか、誰にも分かるまい。私がそれを誰か他の人に告げていたとしたら、彼らはそれを人に漏らしていたであろう。だが、主は、私のほむべき信頼よ。主は私の秘密を知りながら、決して人に漏らすことはなさらない。おゝ! 自分の苦難を告げることのできるイエスを全く有していないあなたは、何ができるだろうか? そして、最悪なことに、あなたにはもっと多くの苦難があるのである。時勢はいま厳しいかもしれないが、いつの日かもっと厳しくなるであろう。――それが終わりに達したとき、いやまして厳しいものとなるであろう。生きていくのは厳しいと人は云うが、死ぬのはきわめて厳しいことである。人が死ぬことになり、イエスがともにおられるとき、そのときでさえ、死ぬのは難儀なことである。だが、《救い主》もなしに死ぬとは! おゝ! 愛する方々。あなたは、その危険を冒したいのだろうか? あなたは、あの冷酷な君主に直面し、かたわらに何の《救い主》がおられないということになるのだろうか? 思い出すがいい。あなたはそうしなくてはならない。すぐにも死ななくてはならない。部屋はじきに沈黙のうちに静まりかえる。時の経過を常に告げている時計の囀りのほか、何の物音も聞こえなくなる。医者は、「叱!」、といい、自分の指を上げると、低く抑えた声で、「もう何分も保ちません」、と囁く。――そして妻や子どもたち、あるいは父や母があなたの寝台を取り囲んで立ち、ある人々に向かって私が何度もしてきたように、悲しい悲しい心であなたを眺める。彼らがあなたをもうしばらく眺めているうちに、あなたの顔を死の変化が通り過ぎるであろう。「ご臨終です!」 そう云われる。そして、掲げられていた手は再びぱたりと下に落ち、目はどんよりと黒く濁り、そのとき母上は顔を背けて云うであろう。「おゝ、可哀想な子! お前の最後に希望がありさえしたら、いくら辛くても我慢できるのに!」 そして教役者がやって来て家族を慰めようとするとき、彼は父親にこう尋ねるであろう。「ご子息はキリストの血の恩恵にあずかっていたと思われますか?」 その答えはこうであろう。「おゝ、先生。私共には分からんのです。ですが、私は一度もそうしたきざしを見たことがありません。私には希望を持てる理由が何もありません。これが一番悲しいことですよ」。方々! 不敬虔な友人の埋葬にくらべれば、私はどんな友人をも涙1つこぼさずに葬ることができるであろう。おゝ! 血の絆によってあなたと同族である者が死んで地獄にいるというのは、すさまじいことに思われる。

 私たちは一般に死者については非常に穏やかに話をするものである。私たちは、「まあ、希望を持ちましょう」、と云う。時として私たちは大嘘をつく。というのも、私たちは自分が全く何も希望していないことを知っているからである。私たちは、そうであれば良いがと願うが、そう希望することができない。私たちは、自分に希望させるようないかなる根拠も見てとらなかった。しかし、もし私たちがこの恐ろしい現実を正面から直面するだけ正直であったとしたら、それはすさまじいことではないだろうか?――もし夫がそれを身も蓋もないしかたで眺め、こう云ったとしたらどうであろう。「そこに私の妻がいる。彼女は不敬虔で、無頓着な女だった。少なくともこれだけは私に分かる。彼女は一度も悔い改めとか、信仰に関して語ったことはなかった。そして、もし彼女がそのようなまま死んだとしたら、――また、私にはどう考えてもそうであったとしか思えないが、ならば――彼女は神から投げ捨てられたのだ」。こうしたことを云う私は不親切であろう。だが、それを私たちが知るのは、正直ということでしかない。――恐るべき真実を正面から眺めるというのは。おゝ! 私の同胞たる兄弟たち。おゝ! あなたがた、私と不滅のいのちをともにしている仲間の人たち! 私たちはいつの日か、神の御座の前で相会うことになるであろう。だが、その時が来る前に、私たちはひとりひとり離れ離れになり、それぞれ様々な道を通って、死の川のゆるい勾配の岸辺へと下っていくであろう。私の同胞の方々。あなたは、ひとりきりで死ぬ覚悟ができているだろうか? 私は、もう一度こう問いかけよう。――あなたは《救い主》なしに最後の審判の日によみがえる覚悟ができているだろうか? あなたは、あらゆる危険を冒し、あなたのために訴えてくれる弁護人もなしに、あなたを審こうとして来られるあなたの《造り主》に直面したいというのだろうか? あなたは神がこう云われるのを聞く覚悟があるだろうか? 「のろわれた者ども。わたしから離れよ!」*[マタ25:41] あなたがたは今、このお方の永遠の憤りを耐え忍ぶ覚悟があるのだろうか? この方は、打っては、一度打っては、永遠に打つお方なのである。おゝ! もしあなたが自分の寝床を地獄に設けたいと願い、もしあなたが断罪される覚悟があり、もしあなたがそうされたいと願っているのだとしたら、ならば、罪の中を生き、快楽にふけるがいい。――あなたの願いはかなえられるであろう。しかし、もしあなたがたがそう願っていないとしたら、もしあなたがたが天国に入りたい、救われたいと願っているとしたら、「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。願わくは、聖霊なる神があなたに罪を悔い改めさせてくださり、イエスを信じさせてくださるように。そうするときあなたは、聖なるものとされた人々の中にあって分け前を得るであろう。だが、悔い改めることなく、信じることをしないまま死ぬとしたら、あなたがたは神の御前から追い出されなくてはならず、永遠が続く限り、決していのちも、喜びも、自由も得ることはできない。

 願わくは主がこのことを防いでくださるように。イエスのゆえに。

  

 

愛する者らは懲らしめられる[了]

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