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ダビデの辞世の祈り

NO. 129

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1857年4月26日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。――詩72:19


 かつては、この祈りをささげることが不必要であったろう時代があった。事実、このような祈りをささげることなどありえない時期があった。願い求められていることが、すでに存在していたからである。かつてのその時、反逆という言葉が天の大いなる為政者に向かって口にされることはなかった。かつてのその日、蛇の這いずった跡に罪の粘液が残されることは決してなかった。そのときは何の蛇も、何の悪霊も存在していなかったからである。かつてのその頃のことは決して忘れられるべきではない。そのときには、たとい熾天使が永久にその翼を羽ばたかせていようと、決して神の宇宙の中に不協和だの、反逆だの、無秩序だのを見いだせなかったのである。力ある御使いたちは《いと高き方》の大広間に集まり、自分たちが臣従する主を例外なしに崇敬し、しかるべき敬意を表していた。巨大な被造世界はその中心――その大本山なる神の御座――の回りを回転し、日ごとに、また時々刻々、神に臣下の誓いをささげていた。被造世界の調和は常にある一地点まで来ると、その焦点を神の御座近くに見いだした。かつての時、あらゆる星は明るかった。すべての空間は麗しさで満ちており、聖潔ときよさと幸いが全被造物を衣のように包んでいた。この世界自体、かつては美しく麗しかった。――その美しさと麗しさのあまり、この過ちに満ちた時勢に生きる私たちには到底その美が推測できないほどである。それは歌の家であり、賛美の住まいであった。たといそれが、その姉妹の天体たちをしのいでいなかったとしても、確かにそのいずれにも引けを取ってはいなかった。美に取り囲まれ、楽しみを帯に巻き、その中には聖く天的な住人を有していた。それは、御使いたち自身でさえ訪れるのを愛していた家であった。そこでは聖い霊たち、明けの星々[ヨブ38:7]が、私たちのこの麗々しく美しい地球の上で、ともに楽しみ歌っていた。しかし今やそれは何と様変わりしたことか! 何と異なっていることか! 今や私たちの義務は敬虔に自分たちの膝をかがめて、これから地に神の栄光が満ちわたるよう祈ることである。

 ある意味でこの祈りは、なおも不必要である。というのも、ある特定の意味において、地は神の栄光で満ちわたっているからである。「神よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたを賛美します」[詩145:10 <英欽定訳>]は、パラダイスにおいてそうであったのと同じく、今も真実である。星々はなおもその《造り主》の賛美を歌っている。いかなる罪も彼らの声をふさいではいないし、いかなる不協和も天体たちの調和の間にきしるような音を立てていない。地球そのものでさえ、なおもその《造り主》を賛美しており、朝が来るとともに立ちのぼる靄は、なおもその《造り主》に受け入れられるきよいささげ物である。家畜の鳴き声、鳥たちの歌声、魚群の跳躍、動物世界の楽しみは、なおも《いと高き方》への奉献物として受け入れられている。山々は、なおも義をもたらしている[詩72:3]。彼らの白髪頭を神の聖なる御足は踏みしめることができる。彼らはまだきよく、しみがないからである。なおも緑の低地は、その青草とともに笑い声を上げ、《いと高き方》への叫びを上げている。神への賛美はあらゆる風によって歌われている。それは嵐の唸りによるすさまじい荘厳さによって雄叫びとなり、疾風がそれを鳴り響かせ、波浪はその一千もの手を打ち鳴らし、神の大いなる行進に合唱を伴わせ続けている。全地はなおも神を賛美する一大楽団であり、神の被造物たちはなおもその永遠の歌で種々に異なる声部を受け持っている。そしてその歌は、常に膨れ上がり、増し加わっており、次第にその絶頂へと高まっては万物が成就する時となる。それゆえ、そうした意味では、この祈りはなおも不適切である。神は、すべてをすべてによって満たしており、地も天も満たしており、そのご栄光の本質においては、いま以上の栄光を必要としてはおられない。というのも、なおも神は全地で栄光が現わされているからである。

 しかし、ダビデがこの祈りをささげた意図は別のところにあった。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」、《創造主》としてではなく、道徳的な《統治者》また《支配者》として。《統治者》としてこそ、私たちは神に背き、神に不名誉を加えてきた。私たちの《主人》、私たちの《支配者》、私たちの《審き主》としてこそ、私たちは神の栄光を侮辱し、神の冠を踏みにじってきた。それゆえ、この点においてこそ、ダビデは地に神の栄光が満ちわたることを願ったのである。彼が願ったのは、あらゆる偶像の神殿が引き倒されることである。――エホバの御名があらゆる口によって歌われ、神ご自身があらゆる心によって愛され、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]として永遠にあがめられることである。愚かな願いだ、とあなたは云うであろう。そんなことが実現するはずがないではないか。年古りた迷信の諸体系が死に絶える日など決して来ないに違いない。何と! 不信心と偶像礼拝という巨大な体系がよろめいて倒れるだと? それは長年の間、破城槌に抵抗してきた。だのに、それが消え失せ、神の御国が到来し、みこころが天で行なわれるように地でも行なわれるようになるのだろうか? よろしい。これは、小わっぱの白日夢でも、狂信者の願いでもない。この祈りを誰が口にしたか、また彼がそれを口にしたときどこにいたか注目してみるがいい。それは、世を去ろうとしているひとりの王の祈りであった。それは神の聖なる人の祈りであった。彼がピスガの頂に立ち、「彼方の景色を目にし」、まさに天の都を眺めてその目を明るく輝かせた際の祈りであった。――世を去ろうとしつつある詩篇作者が、人生の岸辺に立って大海を見晴らした際の祈りであった。――強大な国王が、自分の前で開かれた預言の巻物を見納めにし、自分の《造り主》の御前にまさに案内されようとしている際の祈りであった。彼はこの言葉を、自分の最後にして最上の祈念また願望として口にした。そして、それを口にした後で、彼はその寝床に沈み込み、「エッサイの子ダビデの祈りは終わった」、と云った[詩72:20]。これが彼の最後の祈りであった。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。

 第一に今朝、私はこの祈りの説明をしてみたい。それから、神の御助けにより、努めてすべてのキリスト者の人々の心を、この祈りの目標へと燃え立たせたいと思う。そして、ここで語られている目標の追求に関して忠告の言葉を一言か二言差し出したい。そしてしめくくりに、私たちの希望をつなぐべき約束に注目するであろう。やがて「地は御栄光で満ちわたる」ようになるのである。

 I. さて第一に、《この祈りの説明》をさせてほしい。これは大きな祈りである。――壮大な祈りである。ある町のための祈りは、信仰を大きく膨らませることが必要である。左様。時として、ひとりの人のための祈りが、私たちの信念をぐらつかせることさえある。というのも、私たちは、そのような者のためには、神も私たちの祈りをお聞きになるとは到底思えないからである。しかし、この祈りがいかに偉大で、いかにすべてを包みこんでいることか! 「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。これは、ただ1つの国をも免除しない。その国が、いかなる迷信の足に踏みしめられていようと関係ない。それは、ただ1つの民族をも除外しない。いかに放埒な人々であっても関係ない。文明人と同じく食人族のためにも、膝をかがめて嘆願する人と同じく戦斧を手に取る人のためにも、この祈りは口にされている。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。

 ごく手短に、詩篇作者が何を意味していたかについて私の信ずるところを述べさせてほしい。彼が願っていたのは、真の神信仰があらゆる国々に送り込まれることであった。その観点に照らしてこの祈りを口にするとき、いかにおびただしい数の想念が私たちの思いに殺到してくることか! 見よ。向こうに私たちは、太古の数々の迷信という年古りた諸体系を見ている。私たちは大群衆が仏陀や梵天の前にひれ伏し、神でも何でもない偶像たちに崇敬をささげているのが見える。私たちは彼らのために祈る。彼らが偶像礼拝者であることをやめ、神の御名が彼らの間で知られるようになることを。向こうに私たちは、青ざめた蒼白の光に輝く新月旗が見える。そして私たちが祈るのは、マホメットに従う者たちが十字架の前に額づき、偃月刀を放棄し、彼らを愛されたお方のもとへと立ち返り、以前の彼らの宗教のあらゆる汚れと不潔さを投げ捨てることである。向こうに私たちは、七つの丘の上に座した緋色の女を見ており、彼女をも私たちの祈りに含める。神がローマを投げ倒すことを祈る。神が彼女の深く地獄に根ざした土台を転覆させ、国々に及ぼされている彼女の圧制を頓挫させ、彼女がもはや殺された者らの血に酔う[黙17:6]ことなく、もはやその偶像礼拝と魔術によって諸国民を欺かなくなることである。私たちは彼女をも自分の嘆願に含める。私たちが眺めている民族の中には、あまりにも卑しむべきものと成り果ててしまい、人類の名簿に含まれえないほどの人々がいる。私たちは、その小屋にいるホッテントット人や、叢林地土人や、ベチュアナ人を見ている。そして私たちは彼らのためにも自分たちの祈りをささげる。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。かつては不毛と考えられていたが、今は素晴らしく肥沃な土地であることが発見されたアフリカの奥地が、恵みのみわざにおいても肥沃なものとなるように。肌の黒い兄弟たちが奴隷にさせられていた地域が祝福の家となり、神への賛美の地域となるように。私たちは他の地域にも目を向ける。はぎとった頭皮を今なお帯にぶらさげている北米度人たちの土地、今なお血で血を洗い殺戮に喜びを覚える人々の土地。あるいは私たちは、かの巨大な支那帝国を眺め、無数の人々がなおも不信心と部分的な偶像崇拝の中で失われているのを見る。それによって彼らは焼き尽くされ、滅ぼされつつある。そこで私たちは祈る。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」、と。しかり。これは偉大な祈りであるが、私たちは本気でそう祈る。私たちはジャガナートに対抗し、仏陀に対抗し、あらゆる形あらゆる流儀のにせ宗教に対抗して祈る。私たちは反キリストに対抗して叫び、来たるべき日にはあらゆる神殿が撤去され、あらゆる神社が素寒貧になり、万軍の主なる神の神殿以外のあらゆる神殿がなくなり、ハレルヤの歌のほかいかなる歌も歌われなくなることを祈る。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださった方」*[黙1:5]への歌のほかには。

 しかし私たちはそれ以上のことを意味している。私たちは決して、どこかの国が名ばかりのキリスト教国となることを求めているのではない。あらゆる国のあらゆる家庭が回心することを求めているのである。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。この願いは大きすぎるもの、高すぎるものだろうか? 私たちの期待はあまりにも楽天的だろうか? 否。「主を知ること」は、「海をおおう水のように、地を満たす」[イザ11:9]。それも永遠にそうなる。私たちは決して、そこここに乾いた場所があることを願わない。むしろ、深海の基となる深みが海で覆われているように、あらゆる国が神の真理でおおわれることを願う。そして、そのように私たちは、あらゆる家庭がそれを受け取ることを祈る。しかり。私たちはあらゆる家が朝な夕なに家庭礼拝を行なうようになることを祈る。あらゆる家庭が主を恐れる中で築き上げられ、あらゆる子どもが、その母の膝の上で、「われらが父よ」、と云い、その幼子の、「御国を来たらせたまえ」、という祈りがかなえられることを願う。しかり。私たちは神に求めている。あらゆる家がユダの天幕[ゼカ12:7]のようになり、神に奉献されることを。私たちは求めている。あらゆるホッテントット人の小屋が神への賛美をささげる会堂となることを。私たちの願いは、人が聖くなり、あらゆる食物が聖餐となり、あらゆる杯が聖餐杯となり、あらゆる衣が祭司の礼服となり、人々のあらゆる労働が主にささげられることである。私たちはそう期待せざるをえない。というのも、こう云われているからである。「馬の鈴の上でさえ、主への聖なるものとなり、主の宮の中のなべでさえ、祭壇の前の鉢のようになる」*[ゼカ14:20]、と。

 しかし、私たちはそれよりも先へ進む。私たちは決して単に家々の回心だけを求めるのではなく、この世に存在するあらゆる個々人の救いを求めている。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。神への賛美に鼓動していない心臓が1つでもある限り、あるいは、感謝の旋律においておしとなった口が1つでもある限り、なおも神への賛美によって満たされるべき場所があるであろう。そして、回心せずに残されているその一箇所は、地を神の栄光で満ちわたらせるという大いなるわざ全体にとっての汚点となり、汚すものとなるであろう。ひとりの宣教師がかつてこう云ったが、それは真実であった。すなわち、もしもシベリヤにいるたったひとりの人物を除いて世界の全民族が回心している場合、他のいかなる方法によっても、その人物の救いが成し遂げられないとしたら、英国中の全キリスト者がシベリヤまで長旅をする価値はあるであろう、と。そして事実その通りであろう。1つの魂の救いは、言葉に尽くせないほど尊いものであり、この祈りをささげるとき私たちは誰ひとり排除してはいない。私たちは、無神論者も、冒涜者も、強情に反抗を続ける者も、放蕩息子も、ひとりひとりが神の栄光に満ちわたるように祈っている。そしてそのとき、私たちは全地へのあわれみを求めているのである。私たちは、ひとりたりとも割愛せず、むしろ全人類が《救い主》の足元にひれ伏し、あらゆる手が贈り物をささげ、あらゆる口が歌をささげ、あらゆる目がその楽しみと賛美を語るようになる日を希望し、期待するものである。これが、この詩篇作者の祈りであると私は信ずる。――あらゆる人が回心すること、また、事実あらゆる場所、あらゆる心と良心において、神がいかなる競敵もなしに統治し、この偉大で広大な世界にとって最高のお方となることがそれである。

 II. よろしい。さて第二のこととして、私の兄弟たち。私は《あなたを奮い立たせて》、ダビデが祈ったこの大いなる、この素晴らしいことを願い求めさせようと思う。おゝ! かの古の隠者の荒々しく燃えるような雄弁があればどんなに良いことか。その雄弁によって彼は欧州の諸国を十字架のための戦いへと奮い立たせたのである! 神が今朝私に、大群衆が一同に会した際の彼がしたように語ることができるようにさせてくださればどんなに良いことか。あるいは、彼に続いて語った、かの教会の司教のように、私を語らせてくださればどんなに良いことか。この司教は、熱烈な雄弁による燃えるような言葉によって大群衆に語りかけ、ついには彼らが興奮の波により右へ左へ揺さぶられ、あらゆる者が立ち上がっては自分の剣をつかみ、「Deus vult」「主それを望み給う」、と叫んでは、戦闘および勝利へと突進して行くまでとなったのである。それよりも聖く、また高い意味において今日私は十字軍を説くものである。隠者としてではなく神に仕える説教者として、私はあなたを奮い立たせようとするものである。兄弟たち。この偉大で、信仰者にとって最も気高い願い、地がご栄光で満ちわたるようになることを追い求めるようにと。では、あなたを奮い立たせるために私がなすべきなのは、一二のことについて考えさせることにほかならないであろう。

 最初に、私は切に願う。神の威光を熟考するがいい。あるいはむしろ、今ここであなたにそうさせる手助けができない以上、あなたが神の神性という思想をそれなりにとらえたことのある時期をいくつかを思い出させてほしい。あなたには一度もなかっただろうか? 夜空に浮かぶ星々を見つめ、神がそれらすべての《造り主》だったのだと考え、畏敬を伴った称賛の思いで魂がとらえられ、驚嘆と賛美の念によって頭を垂れて、こう云ったことが。「大いなる神よ! あなたは何と無限なるお方でしょう!」 あなたには一度もなかっただろうか? 神の清浄な地球を眺め、その山々や雲や川や大水を見て、こう云ったことが。――

   「かく汝が栄えのみわざあり。善の基よ、
    全能の主よ! 汝がものなる、なべての世
    かくも麗し。さらば汝が美の いかにあらん!」

おゝ! 私はあなたも、白熱するような敬虔の念をいだいことがあると思う。シャモニー渓谷から発したその讃歌におけるコールリッジの爆裂に似た何かを。あるいは、《四季》をして神への賛美を歌わせた際のトムソンのそれに似た何か、あるいは、かの園でアダムに自分の《造り主》を賛美させて神をほめたたえた際のミルトンの比類なき迸りに似た何かを。しかり。そうした瞬間には、私たちも神の前でひれ伏し、自分自身が何者でもないことを感じ、神がすべてのすべてであられることをわきまえた。あゝ! もしあなたが今朝そうした思念を得られるとしたら、愛する方々。私にはわかる。これに似た次の思念はこうなるであろう。――「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。あなたは、神の前でひれ伏し、神をあがめるとき、人類の残りの者らもみな同じようにすべきだと願わずにはいられないであろう。あゝ! そして、その思いはさらに先に進んだ。あなたがたは、無生物たちでさえ神を賛美することを願った。おゝ! 山々よ。お前たちの脳天に生い茂る木々を、崇敬のうちにそよがせよ。禿頭のお前たちは、あの低い丘々よりもいや高く頭を持ち上げよ。お前が帯びている雲を智天使の翼のようにお前たちの顔を覆わせよ。しかし、おゝ! 神をあがめよ。神こそすべての崇敬を受けるにふさわしいお方だからである。主が常に称賛されるようにせよ。もう一度云うが、あなたが自ら神について偉大な思想を得るときには、おのずと立ち上がってはこう云わざるをえない。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。

 しかし、私の兄弟たち。あなたの目を彼方に向けるがいい。そこに何が見えるだろうか? そこに見えるのは、神の御子がその栄光の地位から踏み出し、その威光の衣を脱ぎ捨てて、土くれの衣をまとう姿である。あなたは向こうにいるこの方が見えるだろうか? この方は十字架に釘づけられている。おゝ! あなたがたは見えるだろうか? この方の頭が力なくその胸の上に垂れるのを。この方がこう云われたときの口調が聞きとれただろうか? 「父よ。彼らをお赦しください」[ルカ23:34]。なおも茨の冠をかぶり、頭から手から足から血を流しているこの方が見えるだろうか? では、この方があなたのもろもろの罪のためにご自分を投げ出している姿を見るとき、あなたの魂は崇敬の念に張り裂けないだろうか? 何と! あなたがたはこの奇蹟中の奇蹟、神の御子の死を見て、畏敬の思いが胸に巻き起こらないだろうか?――筆舌に尽くしがたい驚嘆すべき畏敬の念が起こらないのだろうか? 否。それは起こると私は確信する。あなたはその十字架の前にひれ伏し、すでに涙で一杯になった目をつぶり、カルバリ山の上に自分の頭をこすりつけて、あなたがこう云うのが私には聞こえる。「イエスよ。こんな私をあわれんでください」。そして、その血が自分の良心に降り注がれるのを感じ、主が自分のもろもろの罪を拭い去ってくださったのを知ったとき、あなたは、人でなしでもない限り、がばと身を起こして叫ぶに違いない。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。何と! 主がその荘厳な頭を死の影へと下らせたというのか? 何と! 主が十字架に吊り下げられ、血を流したというのに、地は主を賛美しないというのか? おゝ、あなたがた、おしたち。確かにこれはあなたの舌を解きほぐすことに違いない。おゝ、あなたがた、沈黙せる者たち。あなたがたは語り出すであろう。そうしないとしたら、確かに石が語り、かつて主の死に際して引き裂かれた岩々が再び裂け、ぱっくり口を開いては、そのハレルヤを天に立ち昇らせるであろう。あゝ! 十字架によって私たちは主を賛美させられる。イエスを愛する人たち。あなたは主を愛していながら、主の御国が来ますことを願わずにいられるだろうか? 何と! あなたがたは主の御前に額づいていながら、しかし自分の《君主》が世界の主人となるのを見たいと思わないのだろうか? 馬鹿な! 方々。あなたがたは自分の《主人》を愛しているふりをしながら、主が勝利者となるのを見たくないなどというのか? 私が僅かでも値打ちがあると思える敬神の念、それは自分に差し出されたのと同じあわれみが他の人々にも達することを願い、この祈りを祈らせずにはおかないというものである。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。

 しかし、もう少し長く見つめているがいい。罪人たちのために死なれたこのお方は墓の中で眠りにつく。しばらくの間眠っておられる。そのとき御使いがかの石を転がし、この方を自由にする。あなたは、その眠りからさめたこの方を見ているだろうか? 燦然たる威光を輝かせ、光の栄光に満ち、その番兵を恐怖させ、復活した人として立っておられるこの方を。あなたはこの方を見ているだろうか? 天に昇り、神のパラダイスまで上り、御父の右の座に着き、ご自分の敵たちがご自分の足台とされるのを待っておられるこの方を。あなたはこの方を見ているだろうか? 主権や力たちがその前にひれ伏し、智天使や熾天使らがその御足元に自分たちの冠を投げ出している際のこの方を。あなたはこの方の声が聞こえるだろうか? この方がとりなしをしているのを聞いているだろうか? また、常にこの方の御座の前で詠唱している栄化された霊たちの音楽が聞こえないだろうか? そして、あなたは自分たちについても、こうなることを願わないだろうか?

   「新たな誉れ 御名にぞそなえ
    かつて知られじ 歌をぞささぐ」。

おゝ! 栄光を受けたキリストを信仰の目で見ていながら、それに次いでこう叫ばずにいるなどということは不可能である! 「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。

 しかし今、もう1つ別のことが考えられる。普通の人道につき動かされても私たちはこの祈りを祈らされる。あなたは今まで、酩酊と冒涜に満ちた村を歩いて通ったたことが一度もないだろうか? 居酒屋という居酒屋に、あわれでみじめで傲慢な、かつては人間であった屑たちが立っているか、へべれけになって柱に寄りかかっているのを、一度も見たことがないだろうか? 人々の家の中をのぞき込んで、それが不義の巣窟のようになっているのを見て、魂がむかつかされたことが一度もことがないだろうか? その村を歩いて通りながら、その住民たちの貧困と堕落と悲惨さを見て、吐息をつかされたことが一度もないだろうか? しかり。あるであろう。しかし、後年、その村に福音が宣べ伝えられた後で、そこを歩いて通るという特権を一度でも得たことがあるだろうか? 私にはある。私は以前、罪と不義がかつては猖獗をきわめていた村で労するという楽しみを得たことがあった。そして私は喜びと幸いをもって云えるが、夕まぐれには、その村のほとんど端から端まで、あらゆる屋根の下から歌声が立ち上るのが聞こえ、あらゆる心にこだましていたのである。おゝ! その村を歩いて通ることは何と心楽しいことであったか。酩酊がほとんどなくなり、乱痴気騒ぎは完全にすたれ、人々は喜ばしい心をもって働きに出かけ、その道すがら永遠に生き給う神への賛美を歌い、日没には貧しいあばら屋に住む者がその子どもたちを近寄せ、真理の書から何らかの部分を読んで聞かせ、それからともに膝をかがめて祈るのである。――おゝ! 幸いな、幸いな家庭よ! しかり。私たち、こうした場所をいくつか見たことがある。そして、私たちの心がそうした眺めによって喜ばせられたとき、私たちは云った。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。時として私たちは、そうしたつつましい暮らしをしている人の家に寝泊まりする喜びを得ることがあった。私たちは暖炉のそばに席を与えられ、やがて眠る時間が近づいてきた。その家の善良に人は、その預言者のしもべにこう云った。「さあ、先生。今晩は先生がおられるのですから、私たちのために何か読んではもらえませんか?」 そこで私たちは、自分の回りにいる人々の顔に注意しながら、このような箇所をいくつか読み聞かせた。――「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い」[詩73:1]。それから私たちは云った。「いえ。私たちは今晩は祈りません。自分の家の中ではあなたが祭司でなくてはならないのですから、あなたがお祈りなさい」。そこでこの善良な人は、自分の子どもたちのために祈った。そして、その子たちが立ち上がり、両親に夜の口づけをするのを見たとき、私たちはこう思った。「よろしい。もしこうした種類の家庭をキリスト教信仰が作り出すとしたら、全地は神の栄光に満ちわたるがいい。人間の祝福と幸福のために、神の御国が来たり、神のみこころがならせ給え」。私の兄弟たち。これとヒンドゥー教の血生臭い儀式とをくらべてみるがいい。これと異教国の残忍さ野蛮さとをくらべてみるがいい。もし私がそうした野蛮人を誰かあなたの前に今朝立たせることができるとしたら、彼自らが私よりもずっと優秀な説教者となれるであろう。そのほとんど理解できない発音と舌打ち音によって、彼はあなたに自分の有しているいくつかの観念を告げ始めるであろう。その観念は、初めから最後まで、彼自身と、彼が食物にしているみじめなえじきについてでしかないであろう。あなたは云うであろう。「何と!――このようなみじめな種族がいるのか?」 私たちは、ひとたび膝まづいて、この祈りを口にしてから、立ち上がり、それを成就させるべく労苦しようではないか。――「その栄光は地に満ちわたれ」。私は、自分の願うほどあなたを今朝奮い立たせることができないのを感じている。(もし私がウェールズ人だったとしたら、あなたの心を動かすこともできたと思う。彼らには言葉で人々を目醒めさせるこつを心得ている)。おゝ! 私の魂はその日を切望している。それは、このほむべき時期を憧れ求める。願わくは、すべての人々がその日を憧れ求め、切望し、そのために働き、労し、目を覚まして祈り、ついには私たちが真実にこう歌えるようになるように。

   「ハレルヤ! 主なるキリスト
    神は王なり。万物(よろず)を統(し)らす。
    ハレルヤ! 神なるキリスト
    キリストなる神 すべてのすべて」。

願わくはこのような日がやって来るように。それは確実に来るのだから!

 III. さて今、私はあなたに《この目的を追求する際のいくつかの忠告》を与えたい。

 最初に、この祈りを祈る前に、あなたはキリストの御国の伝播にとって妨げとなるあらゆるものを自分の生活の中から除き去ろうとしなくてはならない。方々。あなたは、こう祈ることはできないし、こう云うことはできないであろう。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。――もしあなたが昨日、神を呪ったのだとしたら。いかにして神を呪った口が、「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」、などと云えるだろうか? 方々。あなたがそう云うことはできないであろう。――神の戒めを破り、神の律法に違反し、神の統治に反して放蕩していたとしたら。もしあなたが自分はよこしまな偽善者になろうと云ったのだとしたら。あなたの人格とふるまいの中には、何か福音の伝播を妨げがちなものがあるだろうか? おゝ! 私たちは痛みとともに云うが、諸処の教会に属する多くの教会員たちは、今のようなあり方をしている限り、キリストの福音が決して全地に満ちわたらないような人格をしている。というのも、それは彼らの心に満ちわたることができないからである。あなたはそうした人々を知っている。彼らは自分を神に喜ばれる民と呼んでいるが、喜ばれるのは彼らが叩き売られたときであろう。確かに誰も彼らを世間の最低相場でも買おうとはするまい。彼らは自分を神の尊い民だと云うが、確かに彼らは非常に尊い者であるに違いない。さもなければ、神は決して彼らのような一団にあわれみをかけようとはお思いにならないであろう。そして彼らは時として、「あゝ! われわれは主の選民なのだ」、と云っては、罪の中で生きていることがある。彼らは自分たちのような種類の人間はめったにいないと云い、私たちはこう答える。「それはありがたい!」 もしやたらといるとしたら、私たちはわが国の公共の建物の多くをすぐさま牢屋に変えて、そうした人々を閉じ込めておく必要があるであろう。否。私たちはキリスト教信仰を告白していながら、それにふさわしい生き方をしていないような人々の人格を信じはしない。そのような信仰告白のことは云々せず、ただ黙っているがいい。自分のことを信心深いと云いながら、他の人々のように行動していてはならない。それよりは、あからさまに荒れ狂う罪人が一心に罪に励んでいる方が私には好ましく思われる。罪にふけっていながら、それを包み隠して何食わぬ顔をしていてはならない。それは何の役にも立たない。そうした人は正直ではない。私は、あからさまな純血種の罪人が一心に罪に励み、それを恥じていない場合には何らかの希望があると思うが、小ずるく、もったいぶった偽善者――私たちの教会にもぐり込みながら、ずっと罪の中に生きている人――そうした者――を、《全能の神》よ、救い給え。だが、神がそうした人々をお救いになることはめったにない。神は彼らを放っておき、彼ら自身の道の実を刈り取らせなさる。彼らに、結局、偽善は確実に地獄に至る路であり、決して天国に至らせることはできないことを見いださせなさる。私たちは、神の御霊によって自分によく気を配っていなくてはならない。さもなければ、この祈りを祈ってはならない。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。

 それから、わが友、吝嗇氏がいる。確かに彼はこの祈りを祈れないに違いない。少なくとも私は、彼がその魂においてはこう云っているものと思う。「おゝ、主よ。あなたの栄光が地に満ちわりますように」。そこへ、その働きを支えるための援助要請がなされると、おゝ! 何も出て来ない。それは、私たちがみな聞いたことのある、あの黒人女とご同様である。彼女は、「あまねく翔(か)けよ、力の福音(みつげ)よ」、と歌いながら、非常に信心深げに天を見上げていた。それでその日献金箱を回していた兄弟の黒人は、全然彼女から気づいてもらえず、ついに彼女の肘を突っついてこう云った。「ああ。姉妹よ。『あまねく翔けよ、力の福音よ』、と歌うのはもういいってば。もしあんたが福音に翼を生えさせてやったら、それは飛ぶかもしんねえが、あんたは歌うばっかりで、何にもしねえではないか」。さて、たとい人がいかに歌っていようが、また、いかに「あまねく翔けよ、力の福音よ」と歌い、この祈り、「その栄光は地に満ちわたれ」、を唱えていようが、六千ポンドの年収のあるその人が指一本動かさない場合、その人が何の役に立つだろうか? ある人が主教の法衣を着て、「おゝ、私は敬虔に願う。全地が神のご威光で満ちわたることを」、と云っていても、それから世の注目を一心に集めて、自分は何と善良なことかと考えているとしたら、そのような人間は無用である。人が単に副牧師職やそうした類の何かを獲得し、自分の説教原稿を安く手に入れた上で、人前に出ては、二十分間の説教を2つ読み上げてから、晴れ晴れとした良心で帰宅し、自分は二度も義務を果たした、と思って、「その栄光は地に満ちわたれ」、と云っているとしたら、そうした人は無用である。何と、愛する方々。そうしたしかたでなされている限り、それが実現する見込みは全くない。世のどれほど薄弱な望みにもまして見込みがない。「その栄光は地に満ちわたれ」、と叫んでから、突っ立って何もしないとか、単に何か名ばかりの、実入りの良い仕事をし、それで全部が終わったと感ずるとしたらそうである。もう少し違ったものが牧会活動の中にない限り、私たちは、教役者たちにさえこの祈りを真摯にささげさせたくはない。私は自分の兄弟たちの誰にもけちをつけるつもりはないが、彼らには毎週十三回説教することを勧めたい。そうすれば彼らもこの祈りをもう少しましにささげられるようになるであろう。毎週三回では私は何にもならない。それではからだを壊してしまう。毎週十三回の説教が私の健康にとって良い運動なのである。しかし、あなたは自分の書斎に閉じこもっているか、それより十倍も悪いことに、何もせず、一週間の間中のらくらしている。そして日曜が来ると、古い雑誌から説教を拝借するか、教役者のための説教例集を1つ買うか、チャールズ・シメオンの説教骨子を1つ写し取っては、それを説教しているのである。わが善良なる人よ。あなたはそのようなしかたでは祈ることができない。この教会の最も不出来な《日曜学校》教師でさえ、あなたよりはこの祈りを祈れるまともな権利がある。あなたは、激しく燃えさかる火焔のところに出かけて行っては、「おゝ、これが消されるように!」、と云い、かくしに両手を突っ込んでぼさっとしている。そこに立って、水桶を手渡ししている小僧っ子なら、その祈りを真摯にささげられるであろうが、あなたにはそうできない。しかり。私の兄弟たち。あなたは自分も発破をかけて大いに忙しくしていなくてはならない。さもなければ、この祈りを祈ることはできない。あなたは、「私は自分の義務を果たしておる」、と云うが、愛する方。それは大した役に立っていない。あなたはそれよりももう少し多くのことを行なわなくてはならない。あなたの考えるところの、自分の義務を果たすとは、しばしばあなたの義務の非常に小さな部分を行なうことでしかない。人の義務とは何だろうか? 「何と、給料分の仕事をすることですよ、先生」。おゝ、否。私はそう思わない。人の義務とは、力の限りを尽くして、手当たり次第に何でも行なうことである。そして、そのようにするまで、人は何らかの真摯さをもってこの祈りをささげることはできない。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。あゝ、この場には、私も名をあげることのできる何人かの人々がいる。その人は、その比類なき慈善行為により、その同胞たちに対する並ぶ者もない無比の愛により、地を神の栄光で満ちわたらせるために多大なことを行なってきた。というのも、彼らは、神の愛に心を触れられたときキリスト者の男女に何ができるかを世に示してきたからである。ここに見られる何人かの人々は、自分の《主人》への奉仕に一心に身をささげ、彼のために財を費やし、自身自身をさえ使い尽くす[IIコリ12:15]ことによって、キリスト教に対する世の意見を大いに高め、キリスト教会を高く評価させてきた。こうした数名の粒よりの、力ある勇者たちが私たちの間にいなければ、教会はその声望を大いに失っていたに違いない。「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。しかし、人間的な云い方をすれば、それが実現するには、私たちひとりひとりが、神の御助けに従って、自分の《造り主》の御国を拡張しようと労苦し努力するのでなくてはならない。

 では今、愛する方々。私はあなたを不可能な骨折り仕事に追い立てていたのだろうか? 私はキリスト者である人々に向かって、決してかなえられるはずもないことを祈り求めるよう告げているのだろうか? あゝ! 否。神はほむべきかな。私たちが祈るよう告げられていることは、何であれ神が与えてこられたものなのである。神は私たちに、その御国が来るよう祈れと告げられたが、その御国はやって来るであろう。何にもまして確実にやって来るであろう。聞けよ! 聞けよ! 聞けよ! 私は戦闘への召集号令が聞こえる。はるか彼方に軍隊が集合しつつあるのが見える。しかり。私にはぼんやりとその旗印が見え、彼らに先立つ軍旗が見える! このようにやって来る人々は誰だろうか? 何者だろうか? それは私たちよりも高貴で、すぐれた人々である! キリストの戦士たちである。それは、ことによると、まだ生まれていない人々かもしれない。これらは勇者たちであり、敵の猛攻を食い止める後衛である。これらは天の近衛兵であり、長く戦い続けてきた人々である。敵は退却することもあったが、これまでのところ私たちはほとんど何も成し遂げていない。敵の密集隊形はなおもびくともせずに堅く立ち続けており、私たちは自分たちの刃を強者の盾に打ちつけてはなまくらにするばかりだった。今までのところ勝利は完全ではない。《主人》は丘の上に予備隊を伴って立っておられる。見よ! 私には彼らが見える。――彼らがやって来る。やって来る。私たちの中のある者らは生きて彼らを目にするであろう。――火でできた舌を持ち、火焔で一杯の心を有し、御使いのように語り、智天使のように宣べ伝える人々を! こうした人々がやって来るのであり、幸いなのはその勝利に注目する者である。彼らの喇叭はみな勝利の喇叭であり、彼らが長く吹き鳴らす音は霊的エリコの城壁をぺしゃんこにしてしまう。彼らの角笛の音はことごとく勝ち誇る敵兵をおびただしくなぎ倒す。彼らの剣の一振り一振りは、竜を真二つにし、彼らの腕による打撃の1つ1つは王座や王笏や王たちをひっくり返す! 彼らがやって来る。やって来る。そして、彼らがやって来るまで私たちは何をすれば良いだろうか?――何と、戦い続け、自分の持ち場を守ることである。

 しかし、彼らにやって来させるがいい。勝利は確実だと考えて勇気を出そうではないか。やがて来たるべき時には、この力ある勇者たちの一団が、勝利の御旗で地を一掃するであろう。そして、やがて来たるべき歳月には、あなたや私はその戦場を眺めて、壊れた偶像をそこに見るであろう。邪悪の巨大な諸体系が粉々に砕け散っているのを見るであろう。にせ預言者は打ち殺され、人を欺く者は打ち捨てられる。おゝ! その日は何と栄光に富んでいることであろう。完全な勝利が打ち立てられ、馬と乗り手はひっくり返され、この戦闘は、血もなく煙もなく戦士たちの衣が巻かれることもなく、私たちを愛してくださったお方の勝利の叫びによって完成されるのである。

 愛する方々。私たちはもう少し待つであろう。なおも私たちの《主人》とともにこちら側にとどまり続けるであろう。というのも、私たちはいま戦う者ではあるが、少しずつ勝利する者になっていくからである。しかり。男たちよ。女たちよ。あなたがた、誰からも知られず、注目されてもいないが、自分の《主人》のために祈りによって、賛美によって、労働によって苦闘している人たち。来たるべき日には、あなたがたの中の誰もが勝利の冠を得るであろう! 来たるべき時には、あなたの心は高鳴るであろう。というのも、あなたもその勝利にあずかるからである。来たりつつある人々なしにあなたが全うされることはありえないが、彼らがすべての誉れを独占するのではない。戦いの矢面に立ってきた私たちも、その栄光にあずかるであろう。勝者たちは分捕り物を分け合い、私たちは彼らと分捕り物を分け合うであろう。あなたがた、試練に遭い、苦しめられ、忘れられ、知られていない人たち。あなたはまもなく、しゅろの枝を握り、地上と天上の街路を騎馬で凱旋するであろう。あなたの《主人》がその勝利の日に主権と力たちを公然とさらしものにするときに! ただ踏みとどまり続け、ただ戦い続けていれば、あなたは冠を戴くことになる。

 しかし私はもう一言だけ語って、アーメンと云わなくてはならない。知っての通り、ローマ軍が戦う場合、特別の武勲には特別の報奨が与えられた。一番乗りで敵の塁壁によじ登り、その防壁の上に立った者には胸壁形の金冠があった。私は、このおびただしい数の会衆を見ながら、1つの考えに胸を騒がせている。青年たち! 青年たち。あなたがたの中には、その城壁冠を得ることのできる者はいないだろうか? この場には、働きと労苦を求めて進み出る、真のキリスト者の心が1つもないだろうか? 神とその真理のために自分自身をささげようとする人はひとりもいないだろうか? ヘンリ・マーティンよ! あなたは死んでしまった。では、あなたの外套はあなたとともに葬られてしまったのだろうか? ブレイナードよ。あなたは父祖たちとともに眠っている。では、あなたの精神も眠っており、別のブレイナードは決して現われないのだろうか? ニブよ。あなたはあなたの神のもとに上ってしまった。では、別のニブはどこにもいないのだろうか? ウィリアムズよ。あなたの殉教の血はなおも地面から叫んでいる。では、別のウィリアムズはどこにもいないのだろうか? 何と! これほどぎっしりと集まった若く燃える精神たちの中にひとりもいないのだろうか? その心の中で、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」[イザ6:8]、と云える者はひとりもいないのだろうか? 「さあ。今のこの時、神の恵みによって救われた私は、自分を神にささげます。神がその福音を外国の地で証しするためお遣わしになる所なら、どこへでも参ります」、と。何と! 今はただのひとりもパウロはいないのだろうか? ここには誰ひとり、万軍の主のための使徒となろうという者はいないのだろうか? 私は、口を堅く結んで、沈黙の決心をしている人が目に浮かぶような気がする。――「神の恵みによって、私はきょう、自分を神にささげます。苦難があろうと試練があろうと、神が私をお助けになるなら、私は神のものとなります。宣教師としての働きであろうと、他の何であろうと、私は自分のすべてを神におささげします。そして、もし私がウィリアムズのように死に、殉教という鮮血で染まった冠を戴くことになるとしたら、私は誇りに思います。また、もし私がブレイナードのように生きて私の《主人》に仕えることを許され、最後にはぼろぼろになって死ぬとしても、ここに私がおります。私をお取りください。《主人》よ。キリスト教の後衛を率いて孤独な希望を導く誉れをお与えください。ここに私がおります。私を遣わしてください」。おゝ、主よ。その青年を受け入れ給え! 見よ。私は彼を今日、あなたの御名によってその奉仕のためにささげます。十字架の若き勇士よ! ここに延ばされた両手は今朝、あなたへの祝福を与えるであろう。あなたの兄弟の心臓は、あなたとともに鳴っている。行くがいい。行って勝利するがいい。そして、たとい私の義務がここにとどまり、この葡萄畑の中の比較的容易で心やすい部分で労働することにあるとしても――そこをあえて離れることはできないが――、それでも私はあなたを羨ましがるであろう。あなたは、はるか遠くの国々へ行く誉れを得ているのだから。そして、私はあなたのために祈るであろう。あなたの成功が大きなものとなり、あなたを通してこの世の国がキリストへと引き渡され、主を知ることが地を覆うようになるようにと。しかし私たちはみなこの祈りを私たちの家々でひとり祈るであろう。――「その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン」。

 あなたがた、神の敵である人たち。用心するがいい。用心するがいい。用心するがいい! 正義の大いなる戦いにおいて、敵の側に見いだされることは辛いこととなるであろう。

  

 

ダビデの辞世の祈り[了]

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