HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第18章

スポルジョン氏と厳格バプテスト派

ケンブリッジの友人たちの関心――ジョージ・アプソープ氏――T・W・メドハースト氏の思い出――ロンドンにおけるスポルジョン氏の最初の合同集会演説――さらなる虎列剌の様相――ジョサイア・デナム氏の死――墓地の傍らにおけるスポルジョン氏の弔辞――厳格カルヴァン主義バプテスト派――ジェームズ・ウェルズ――チャールズ・ウォルターズ・バンクス――スポルジョン氏の教えの性格に関する疑念――初期の説教数編からの抜粋――「非常に疑わしい人物」――ニューパーク街の牧師の描写

 ケンブリッジの友人たちは、彼らの中から出て行った若き説教者の進歩について、引き続き、この上もなく強い関心を感じていた。彼がウォータービーチの会衆を預かるようになったときには、その事実がしかるべく教会簿に記録されていた。また、彼がロンドンに旅立った後も、多くの友人たちは彼のための祈りと好意を絶やさなかった。最終的にケンブリッジを去る日の前日、彼はジョージ・アプソープ氏に向かって、自分の将来的な計画を告げ、ロンドンでは田舎にいるとき以上に頑張って勉強するつもりはない、と云い足した。これによって彼が意味していたのは単に、自分が首都でもただの知識のひけらかしはしないつもりだということ、また、ロンドンっ子の必要も田舎の人々の必要と同一のものである以上、自分は今まで行なってきたことを続ける――自分の最大限の能力をもって福音を宣べ伝え、その奉仕において、なおも《天来の》助けを仰ぎ求め続ける――つもりだということであった。この偉大な説教者の最も古い友人のひとりであるアプソープ氏は、彼について多くの愉快な記憶を有しており、折にふれ彼から受け取った多くの手紙を大切に保管している。奇異な事実だが、ニューパーク街における講話の出版がロンドンで始まったとき、この大学町の書籍販売業者たちは、その取引を快く引き受けようとはしなかった。そうした刊行物を手に入れたいと願う読者たちは、長い間アプソーブ氏の食糧雑貨店でそれを買うしかなかった。当然ながらアプソープ氏は、このようにして、聖アンドルーズ街の日曜学校の前同僚の在ケンブリッジ出版者として務めることに並々ならぬ満足を感じていた。そのうちに書籍販売業者たちもスポルジョンの説教を彼らの通常在庫に含めるようになった。そして、そのような出版物を読むことがもはや流行外れではなくなると、それらを買い求める客に不足することはなかった

 1854年に何が起こったかを鮮やかに思い出せる人々は、少数ながらもまだ存命している。その中に、T・W・メドハースト氏がいる。今ではカーディフの牧師職に就いている氏の信ずるところ、氏はスポルジョン氏がロンドンで最初に行なった合同集会演説を聞く特権にあずかったという。問題の年が明けて間もない、あまつさえ、スポルジョン氏が実際にニューパーク街の牧師として選ばれていさえしない頃のある日、メーズポンド会堂で、日曜学校連盟の記念集会が開催され、スポルジョン氏はその演説者のひとりであった。そのときメドハースト氏は、自分の未来の友を初めて目にし、耳にしたのである。彼は相当に強い印象を与え、「あれはだれだ?」、「どこから来たんだ?」、といった問いが口々に交わされるほどであった。そして、その答えを返したのは、この件についてあまりよく知らない人々であった。「あの若いのは、ウォータービーチの出身で、今は、そう遠くないニューパーク街で代理牧師をしているのだ」*1

 1854年の夏における、戦争や悪疫によって生じた人心を騒がせる見通しについては、すでにある程度言及した。同じ主題について書きながら、ロンドンにおけるスポルジョン氏の初期の友人であった故チャールズ・ウォルターズ・バンクスは、豊富な収穫という心励ます事実もありはしたが、南ロンドンの一牧師を取り巻く暗い様相をこう描き出している。――「私たちの周囲の光景は、今なお、きわめて厳粛な性格のものである。通りを歩けば、医者の馬車がそこここへ走り回っているのを見ざるをえず、――霊柩車や、葬送用馬車や、葬送行列が、ほとんど街角ごとに見られる。そして、だれかれがこの悲しみと罪の世から突然取り去られたという不幸の知らせが絶えず舞い込んでくる。実際に今は、堕落した人の子らにとって心痛ませる日々である。私たちの顔は青ざめ、私たちの霊はおののき続けている」*2

 バンクス氏自身、虎列剌にかかった。そして、あちこちで友人が死んでいくとき、この国家的な困難は個々人の心をも鋭く貫くように思われた。急死した人々の中には、スポルジョン氏がロンドンに来た当初から彼を支持していた堅実な友人たちのうちでも第一人者のひとりである人物がいた。――ユニコーン広場会堂のジョサイア・デナム氏である*3。氏は、ニューパーク街におけるスポルジョン氏の伝道活動によって大いに益を受けていた。生前のデナム氏は、貧民層に対して大きな恩恵を施していたが、彼が貧民たちの間で何をしていたかはほとんど知られていなかった。彼は9月1日に死に、その葬儀は5日にナンヘッド墓地で行なわれた。何人かの教役者が告別礼拝を執り行なったが、最も興味深い一幕は、スポルジョン氏によって墓地の傍らでなされた雄弁な弔辞であった。これは、それ以来長く忘れられていたもので、今は新たな興味とともに読まれるであろう。それは以下のようなものであった。――

 「眠るがいい、私の兄弟よ。眠るがいい。そのように主は、ご自分の愛する者に眠りを与えなさるのだから! あなたの床は暗く冷たいが、あなたはひとりにはならない。あなたのちりは御使いたちによって守られている。あなたは土で覆われても御使いのかしらの喇叭の響きを聞くことになる。あなたは死衣裳を脱ぎ捨てて、朽ちることなきからだをもって、その長い眠りから目覚めることになる。おゝ、愛する方々。私たちも彼とともに死のうではないか。信仰者にとって死は生の完成なのだから。それは争闘の終結である。剣を鞘におさめることである。眠るがいい、私の兄弟よ。眠るがいい! 戦いは終わり、あなたの働きは成し遂げられた!

 「しかし、あなたは眠るのだろうか? あなたの霊はまどろむのだろうか? 否! 否! あなたのからだは眠るが、あなたはその冷たい土くれからはるかに離れたところにある。私には、晴れ渡った空の彼方にあなたの声が聞こえるような気がする。あなたの声が聞こえたように思う! しかり。あなたはそこにいる、私の兄弟よ。――あなたはそこにいる! あなたの声が妙なる調べのように私のもとに下ってくる。あなたが云うのが聞こえる。『私は自分の衣を小羊の血で洗って、白くしました』、と。

 「おゝ、私はあなたのために泣いてよいだろうか? あなたに戻ってきてほしいなどと願えるだろうか? 否、栄化された者よ! 私はあなたのもとに行くことになるが、あなたに戻ってきてほしいなどと願うことはできない。だが私は、あなたのために泣かずにはいられない。古の涙せるエレミヤが、殺されたヨシヤのために哀歌を記したように、私もあなたのことを嘆く。私の兄弟よ! まさしく真のヨシヤ[ジョサイア]よ! もし慈悲心があなたを生かしておけたとしたら、あなたは死ななかったであろう。キリスト教信仰によって死の矢をかわせるとしたら、あなたはそこに横たわってはいなかったであろう。しかし、こうしたものは、死の時をそらす役には立たない。あなたの愛すべき親切心のすべてをもってしても、あなたは定命の存在であり、定命の者は死なくてはならない。おゝ、あなたの奥方が愛しく慕う者よ。彼女があなたを墓から救うことはできなかった。子息たち、兄弟たち、友人たちの入り交じった涙も、あなたの亡骸をいのちに引き戻すことはできなかった。しかし、《全能者》のことばは、それをすることになる。イエスの御声が、あなたの眠るからだを呼び起こすことになる。罪人としてあなたは死んだ。だが、愛する君に受け入れられたあなたは生きることになる。

 「おゝ、あなたには、自分自身の義は何もない。だが、あなたには無限にすぐれた義がある。あなたを永遠の愛で愛されたお方が、しみ1つない衣をあなたにまとわせてくださった。そして、そのお方の功績により、あなたは真珠の門の中に迎えられている。さらば、私の兄弟よ。復活の朝まで!

 「さて、この場の会葬者の方々。あなたがたの悲哀を和らげるものは数多く、あなたがたを喜ばせるものは数多い。暗い雲には銀色の縁取りがなされている。『望みのない人々のように悲しみに沈むことのない』ようにするがいい[Iテサ4:13]。彼が追求した走路――イエスの足跡――にならうがいい。そして願わくは、あなたがたがひとりの欠けもなく、御座のまわりで会うことができるように」。

 スポルジョン氏がロンドンに落ちついたとき、テムズの南岸にはもうひとり、多数の信奉者を集める説教者がいた。その会堂は、サリー・タバナクルという方が通りがいいが、どの集会も群衆で一杯になっていた。私が言及しているのは、故ジェームズ・ウェルズのことである。非常に大きな才幹を有する講壇上の天才であった彼は、多少の偏見を持っており、その性急さによって多少の誤りを犯しはしたものの、今なお彼の教派の会員たちによって、十九世紀最高の聖職者のひとりとして記憶されている。彼は厳格カルヴァン主義バプテストであった*4。彼は、その見解において、ニューパーク街の牧師よりも極端であるとみなされていた。だが、スポルジョン氏のロンドンにおける経歴の発端においては、結局のところ彼はこの団体に身を投ずるのではないかという疑問が、多くの人々の念頭に浮かんでいたように思われる。いかに彼が彼らと友好的な交わりをしていたかを示すのが、チャールズ・ウォルターズ・バンクスと彼との友情であり、ユニコーン広場会堂への彼の訪問であり、デナム氏の葬儀の一部を彼が執り行なったことであり、その後すぐに、厳格バプテスト派が編集者をしている週刊誌、『キリスト者の私室』に与えられた援助であった。こういうわけで、スポルジョン氏の初期の批判者たちは、彼を2つの異なる立場から眺めていた。1つは極端なカルヴァン主義者たちの立場であり、そうした人々の一部にとって、この若き説教者は単なる律法主義的なくわせ者であった。もう1つは、純然たるアルミニウス主義者ではないにせよ、バクスターの via media[中道]主義に立った人々の立場であり、こうした人々にとって、主権的恵みによる予定についてスポルジョン氏が口にする話は不快なものであった。いかに他のロンドンの教役者たちが、ニューパーク街の牧師を遠巻きにしていたかについては、すでに言及がされた通りである。――その主たる例外は、アレグザンダー・フレッチャー博士とパクストン・フッドであった。ここで読者にとっても興味深いのは、彼が、より甚だしいカルヴァン主義者たちから、いかなる者とみなされていたかを知ることであろう。

 スポルジョン氏が驚くばかりの成功をおさめていた事実は、心から認められていた。「しかし、その上で、非常に厳粛な疑念が生ずる」と、この厳格派の月刊機関誌は語っている。そうした「厳粛な疑念」は、非常に徹底的な種類のものであることが明らかになった。例えば、「彼は何をしているのか? だれに仕えているのか? 器としての彼の伝道活動は、心を探り、キリストを称揚し、真理を説き明かし、罪人を回心させ、教会を養い、魂を救うものであるという、いかなる証拠を示しているか?」、と。こうした疑念を述べること、また、それらに対する公平な答えとして受け入れてもらいたいものを挙げようとすることにおいて、先に言及した雑誌の編集者は、きわめて慎重な書き方を余儀なくされた。自分の読者の間でも、スポルジョン氏をしかるべき資格のある、福音の説教者として受け入れるべきであるという主張については、意見が割れていることを重々承知していたからである。この編集者自身は、スポルジョン氏に対して好意的な感情をいだいていた。だが、自分の個人的な証言など、他の人々の意見の支持がない限り、感傷に全く左右されない購読者たちにとって、ほとんど何の重みも持たないことを知っていたので、彼は、自分と同じくらい信仰において健全な信仰者たちが、ウォータービーチ出身の若者に何らかの美質――いずれにせよ美質となりうる見込み――を見てとっていると示せるのを喜んでいた。温情に富む、ある同志は、彼に次のような心強い書きぶりの手紙を書いて寄こした。――

 「昨夜、私はパーク街のスポルジョン氏を聞きに出かけ、途方もない押し合いへし合いのすえに、1つの座席に着いた。非常におびただしい数の人々が、何とか中にはいろうと甲斐なく試みたあげく、彼の話を聞けずに帰る羽目になったように見受けられる。彼の説教箇所は、『彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する』[イザ53:11]、であった。そして、私をたいへん満足させたことに、彼が語ったのは、聖書の壮大で根本的な諸教理の、短く、簡潔で、私にとっては力強く思える要約であった。キリストの満足に関する項目の下で彼が強力に論証したのは、もしキリストの選ばれたからだ――教会――の中のひとりたりとも、最終的に欠けるようなことがありえるとしたら、キリストが満足したはずはない、ということであった。

 「神はこの青二才に素晴らしい賜物をお授けになっておられる。彼には力強い声がある。よどみなく、滔々と語ることのできる内容がある。実際、自分の受けた印象からして私は、全体として、この若者が非常に用いられる、また刻苦精励するキリストのしもべとなるべく主によって定められているのだと結論せざるをえない。彼は権威のある者のように語り、私たちの時代の律法学者やパリサイ人のようには語らない。私の友人たちの中には、彼の若さが、彼を素直に受け入れることのできない障害であるとみなす者らがいる。だが確かに神は、ダビデのような、あるいはテモテのような手段によっても、より年輩の、経験を積んだ器によってと同じくらい効果的にお働きになることができるに違いない。そして、ほんの数年もすれば、この障害は取り除かれるであろう。しかしながら、あらゆる点から見て、この若々しい闘士の前には非常に大きく用いられる道が敷かれている。そして、もし彼が相当に濃厚に――だが、濃厚すぎずに――福音の告白に対応する種々の実について強調するとしても、本筋で彼が健全であるとわかっている限り、私たちはそれを律法主義と呼んではならない。実際、私が思うに、これは、私たちの時代に、真理の教役者として認められた人々が長いこと強く主張するのをないがしろにしてきたことなのである」*5

 キリスト教の伝道活動への《天来の》召しを成り立たせる本質的要素について説明した後で、この編集者は、スポルジョンのうちにはそうした召しを受けた証拠が見られると考えた。若年ながら彼は、世俗の悪徳の通り道へさまよい入らないように守られてきた。そして、その点において彼は、後にみことばの説教者として受け入れられるようになった他の多くの人々との好ましい対照を示していた。スポルジョン氏は、「無代価の恵みと真のカルヴァン主義とを、いかなる人にも劣らず熱烈に愛している」と信じられていたが、真理がある特定の専門用語の様式で表現されない限りそれを受け入れようとしない頑迷な人々からは認められていなかった。その一方で、中道派の人々は、彼らが呼ぶところの彼の高踏的な諸教理に怒りを発して歯ぎしりしていた。

 しかしながら、説教者を試す最も効果的なしかたは、その教えに訴えることであった。かの刈り入れ時に関する雄弁な講話からはいくつかの抜粋がなされたが、「キリストの証言およびキリスト者に縫い込まれた、その証言の真実さの証拠」に関する力強い説教から、いくつかの文章が抜き出されていた。こうした箇所は、この時期のスポルジョン氏の発言が、厳格派の中でも寛大な方の人々にいかに好印象を与えていたか、また、彼がその若さにもかかわらず、いかに驚くべき神学知識を身につけていたかを示すものであるため、ここにも再録してよいであろう。――

 「キリストがお語りになったときには、常に直接ご自分からお語りになった。それ以外のすべての者は、まず神から受けとったものを語った。彼らは、翼のあるケルブが燃えさかる炭を持ってくるまで望み待たなくてはならず[イザ6:6]、エポデとあや織りの帯を身に着け、そのウリムとトンミムを持たなくてはならなかった[レビ8:7; 出28:30]。『人の子よ。私にあなたへのお告げがあります』、との声があるまで、立ったまま耳を澄ましていなくてはならなかった[士3:20参照]。彼らは神の息によって吹き鳴らされる楽器でしかなく、神のみこころのままにしか音を出さなかった。だがキリストは生ける水の泉であった[ヨハ4:10]。――御口を開けば、真理がほとばしり出た。そして、それはみな直接ご自身から出たものであった。このことにおいて、忠実な証人[黙1:5]としてのキリストは他のあらゆる者にまさっていた」。

 それから、キリストの証言がむらのないもので、そうしたことは他のいかなる教師についても云えないことが示された。

 「ノアを見るがいい。彼は真理にとって非常に立派な証言者であったが、ただ一度、酔いつぶれたときだけはそうでなかった。そのときの彼は、真理にとって情けない証言者であった。ダビデは真理の証言者であったが、神に対して罪を犯し、ウリヤを殺した。同じことがイサクにも云える。そして、もしも聖なる人々の一覧をくまなく調べるなら、彼らには何らかの過失が見いだされ、私たちはこう云わざるをえないであろう。彼らは確かに非常に立派な証言者ではあったが、彼らの証言にはむらがあった、と。彼ら全員の上には、罪による悪疫発疹が残っていた。そこには、人は結局土の器でしかないと示すものがあった。しかし、キリストの証言にむらはなかった。一度としてキリストは自己矛盾することがなかった。『あなたが先に云ったことと、今のあなたは矛盾しています』、と云えるような場合は一回もなかった」。

 この厳格バプテスト派の批評者は、信仰者自身の経験におけるキリストの証言についてスポルジョン氏の語ったことを吟味する段になると、「やや失望した」と告白せざるをえないでいる。その主題には「ほとんどふれられなかった」からである。彼はその主題を何か特別の機会のためにとっておいたのかもしれない。だが、いずれにせよ、彼は忠実であるように促された。――「おゝ、パーク街の勇敢な小さな牧師よ! キリストのゆえに、また、あわれな、試みられつつあり、誘惑を受けつつある魂たちのゆえに、私たちは願う。あなた自身の魂に対する神の恵み深いお取り扱いを、私たちから隠さず、それを余すところなく忠実に宣言するがいい!」 同時に、若き説教者が自分について何の言及もしなかったとも考えられてはならなかった。彼は人の関心を引くようなしかたでそうしていた。そしてそこには、おそらく、さらなる向上の見込みが見てとれた。例えば、――

 「おゝ、愛する方々。それは、あらゆるキリスト者が携えている、福音の真理に対する最上の確証である。私はバトラーの『類比』を愛している。それは非常に力強い本である。私はペイリの『証拠論』を愛している。しかし私は、自分にとって役立つものとしては、決してそれらを必要とはしない。私は聖書が真実であるといういかなる証明も欲してはいない。なぜか。私のうちでそれは確証されているからである。私のうちには、いかなる不信心にも私を真っ向から立ち向かわせることのできる証人が宿っており、それで私はこう云うことができるのである。――

   「『人の生む いかなる手立て
       いかに巧みに わが魂攻めど
      われそれを よしなし嘘とし
       心に福音 堅く結べり』

私は聖書に反対する書物を読むことに関心はない。沼地の中を歩き回って、結局後で体を洗うしかないようなことを決してしたくない。何か異端の本を読むように求められるとき、私は善良なジョン・ニュートンのことを思う。ノリッジのテイラー博士は彼に云った。『あなたは私の「ロマ書への鍵」をお読みになりましたか?』 『ページをめくりはしましたよ』、とニュートンは云った。『ページをめくりはした!』、と博士は云った。『ですが、それは私が多年にわたり懸命な研究してきた書物が受けてしかるべき扱いでしょうか? あなたはそれを丹念に読んで、この深刻な主題に関する検討を慎重に比較考量なさるべきでしょう』。『ちょっと待ってください!』、とニュートンは云った。『あなたが私にあてがわれた仕事は、メトシェラ並みに長い人生のためのものですよ。私の人生は短すぎて、私のキリスト教信仰の反駁などに費やしてはいられません。私には、最初のページを読んで、その人が真理を掘り崩しているとわかれば、それで十分です。もし骨付き肉の最初の一口をほおばって、それが腐っているとわかったら、全部食べ切るまでもなく、これは突っ返すべきだと私は確信しますよ』。自分のうちで真理が確証されている以上、私たちは、いかなる議論もあざ笑うことができる。神の真理の証しを自分のうちに有するとき、私たちは鎧の延べ板の中で鍍金されているのである。この世のいかなる人も、神が私たちのうちに書き記されたことを、一点一画たりとも私たちに変更させることはできない。あゝ、兄弟姉妹たち。私たちは、真理が自分のうちで確証されてほしいと思う。では、そうするであろういくつかのことを告げさせてほしい。第一に、私たちの生き方という事実そのものが、私たちに真理を確証させるものである。キリスト者はこう云う。『おゝ、キリスト教信仰に何の力もないなどと云わないでください。私はそれを感じているのですから。私は他の人々と同じく無思慮な者でした。キリスト教信仰も、それに身を入れる人々もあざ笑っていました。私の云い草は、「食って、飲んで、人生の楽しみを喜ぼうや」、といったものでした。ですが今、キリスト・イエスによって私は、聖書が溢れんばかりにしたたり落ちる蜜蜂の巣であることに気づいたのです。私にとってその甘やかで結構な味わいとときたら、永遠に腰を据えて自分の聖書をしゃぶりつくしたいと願うほどです』、と。何がこの変革をもたらしたのか? それこそ、キリスト者の論法である。その人は云う。『恵みには力があるに違いありません。さもなければ、私が今のように変わったはずがありません。キリスト教信仰には真理があるに決まっています。さもなければ、このような変化が私に及ぶことは決してなかったはずです』、と。

 「ある人々は、キリスト教信仰とその信奉者たちをあざけっていた。だがしかし、あまりにも強大な《天来の》恵みによって、こうした当の人々自身が回心し、新生を感じてきたのである。そうした人々を、理屈で真のキリスト教信仰から引き離すことはできない。あなたは朝まだきから夕暮れどきまで立って彼らと語り合っても、神のことばに真理がないと彼らに信じ込ませることはできない。彼らのうちでは真理が確証されているのである。

 「また、もう1つのこともキリスト者に真理を確証させるものである。それは、神がその人の祈りをお聞きになるときにほかならない。神が自分に耳を傾けてくださると知ったとき、それは真理を最も強く確証することの1つだと思う。さて私はこの点で、自ら味わい、手に取ってきた事がらを語っている。悪人はこのことを信じようとはすまい。その人は云うであろう。『あゝ、行って、無知蒙昧な人々に聞かせてやるがいい』、と。私は云うが、私は祈りの力を百回も証明してきた。なぜなら、私は神のもとに行って種々のあわれみを求めては、それを得てきたからである。ある人は云う。『あゝ、それは単に《摂理》の普通のあり方だよ』、と。《摂理》の普通のあり方! それは《摂理の》ほむべきあり方である! もしあなたが私の立場にあったとしたら、そのようなことは云わなかったであろう。私には、まるで神が天を引き裂き、御手を突き出しては、『そら、わが子よ。ここにそのあわれみがあるよ』、と仰ったかのように見えた。それはあまりにも常軌を逸した現われ方であったため、それを《摂理》の普通のあり方などとは呼べなかった。時として私は、群衆の前に立つことに意気が阻喪し、消沈し、鬱々とすら感ずることがあった。それで私は云った。『私はどうすればよいのか? ここに再びやって来るくらいなら、他のどこかに飛んで行った方がましだ』、と。私は神に、私を祝福し、語るべき言葉を私に送ってくださるよう求めた。すると、そのたびに私は、自分が溢れんばかりに満たされるのを感じ、この会衆の前にも、どの会衆の前にも、出て行けるようにされた。それは《摂理》の普通のあり方だろうか? 特別な《摂理》である。――祈りへの特別な答えである。また、この場にいる方々の中にも、自分の日記を繰れば、そこに神の御手があからさまに干渉しているのを見てとれるという人がいるであろう。私たちは《不信心者》に向かって、こう云えるのである。『失せろ! 真理は私たちのうちで確証されているのだ。何物をもってしても私たちがそれを捨てることなどありえないほど確証されているのだ』、と。

 「私の愛する方々。あなたが大きな艱苦と患難の時の支えを見いだしたとき、真理はあなたのうちで確証されている。あなたがたの中には困難をくぐり抜けてきた人々がいる。困難から全く免れている会衆など決してありえないからである。あなたがたの中には、試みを受け、非常に辛い目に遭ってきた人々がいる。だが、あなたはダビデとともにこう云えないだろうか? 『主は……私がおとしめられたとき、私をお救いになった』、と[詩116:6]。あなたは、自分がいかに先だっての困難を耐えぬけたか、考えられないだろうか? あなたがあの子どもを失ったとき、自分には耐えきれないと思ったのに、あなたはあれほどよく耐えることができた。そして、『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』、と云った[ヨブ1:21]。あなたがたの多くは、愛する人々を葬ってきた。――あなたの母、父、夫、妻を葬ってきた。あなたは、両親を喪ったとき、自分の心が張り裂けると思った。だが、この約束は真実ではなかっただろうか? 『私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる』[詩27:10]。婦人よ。神はあなたに、わたしがお前の子どもたちの父親となろう、と告げられた。そして、あなたは、まさにその通りであるとわかったではないだろうか? あなたはこう云えるではないだろうか? 『主が約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した』*、と[ヨシ21:45]。それこそ神の真理の最上の確証である。人は、付属室にいる私のところにやって来て、自分のあずかり知らない真理を確証してほしいと云うことがある。彼らは、『あなたはどうして聖書が真実であるとわかるのです?』、と云う。私はこう云う。『おゝ、私はそのような質問は一度もしたことがありません。なぜなら、それは私のうちで確証されているからです。《監督》が私の信仰を堅めてくれました。――私の云っているのは、魂の《監督》のことです。私は他のどの監督によっても信仰を堅められたことがありません。――そして、私は、自分のうちであまりにも強く真理が確証されたので、いかなる人であれ、それを捨てるよう私に確証することはできないのです』*6

 これを始めとする多くのことはみな、一部の観察者たちによって、それなりに非常に良いものであるとみなされた。だが、それだけで彼らは満足しなかった。彼らは、おそらく自分でもはっきり事実として悟ってはいなかっただろうが、ニューパーク街の牧師の若さを侮りすぎていたのである。年輩の、経験を積んだキリスト者たちは、二十歳にしかなっていないような聖職者から、神の深い事がらについて教えられることを、素直に承服できなかったのである。また、ある人々の考えによると、スポルジョン氏は、これほど年若い人物の口から出るには「たしなみに欠ける」ことを語ることがあった。それに対しては、不完全さを全く伴わない説教者であれば、通常の規則には全く反することをするであろう、と答えられた。そして、このまま行けばこの若者が、大いに用いられる、また非常に広く影響を及ぼす神のしもべとなるだろうことは、疑われていなかった

 しかしながら、そこには、ずっと好みのやかましい coterie(同人会)があった。すなわち、自分たちの教派以外でなされる、いかなる福音の教えを承認することにも、真理からの背教の匂いをかぎつけるという、極端なカルヴァン主義者たちのことである。こうした一派に属する批判者のひとりは、カミング博士についてすら、こう問うていた。「一体、神によって教えられた者のうち、だれが彼の伝道活動のことを、福音と新しい契約とによる言葉の意味において、いのちと自由の伝道活動だなどと考えたことがあっただろうか?」*7 当然のことながら同じ筆者は、スポルジョン氏のことを「もうひとりの非常に疑わしい人物」とみなした。この人物の見解は、この若き説教者がロンドンでその伝道活動を開始した当初の数箇月の間に、にせ預言者から顔を背けるように彼から顔を背けた反対者たちの一分団を代表しているため、それらにはある程度の短い注意を払っておくのがよいであろう。

 この高踏的なカルヴァン主義者たちの機関紙がスポルジョン氏の弁護役を買って出たとき、「その陣営の一部には途方もない驚愕」が起こった。その記事は、お人好しが過ぎたあまりの手落ちであると考えられた。「勿体ぶった口ぶりの信仰告白者たち」がその一件にからんでいるとの見方もなされてはいたが。もしもこの雑誌が「主人を変えようとしているのなら、さっさとそうするがいい。エルサレムに住んでいる者らは、それと縁を切るであろう」。以下に挙げるのは、1854年のスポルジョン氏に関する、筆と墨による素描である。これも先に言及した「ヨブ」氏による言行録からの引用である。――

 「では、まず第一に明らかなことに、彼は子ども時代から、非常に勤勉かつ熱心に書物を――特に神学的な類の書物を――読んできている。また彼は、自分の神学的研究に古典的な、また科学的な特色の書物を結び合わせている。そして、このようにして一身に備えたありとあらゆる種類の情報を、彼は、連想の規則により思うがままに分け与えることができる。また、スポルジョン氏の中では、読書によるこうした教養に、見事な会話能力が結びついている。雄弁術の種々の規則がよく研究されており、彼は自分の身ぶりを自分の言葉にかなったものとしている。こうした話術の方式が押し進められたあまり、古代ギリシャの劇場では、ある人物が言葉を語り、別の者が、その時その時の主題の動きに合わせて、あらゆる種類の顔つきや姿態とともに、身ぶり手振りを演じなくてはならないほどであった。スポルジョン氏はこの考えを採り入れているのである。唯一の違いは、彼が両方の役割を自分ひとりで演じていることにある。

 「スポルジョン氏は、イライシャ・コールズを熟知しており、聖書の中に神の主権を見てとらずにはいられない。トップレディやタッカーの著作を熟知しており、聖書の中に予定の教理や、支配的な《摂理》を見てとらずにはいられない。故チャーマズ博士の難解な文章に精通しており、回転する惑星や、地と水の粒子が各々定まった領域を有しつつ規則的に運動することなどについて、哲学的思索を巡らさずにはいられない。しかし、これらに加えて彼は、気立ての良い人物であるように見受けられる。親切で、情け深く、慇懃で、同胞に対する善意に満ち、人の心を惹きつける態度があり、社交的であり、――嫌いになるのがほとんどむごく思われるほどの人物である。同じことは、それと寸分違わぬ真実さとともに、ピュージー博士やワイズマン枢機卿のふたりについても云えるであろう」*8

 このようにニューパーク街の牧師の性格のうち、より愛すべき特徴を描き出した後ではあるが、この批評家は、良心的な人物でありすぎるため、その人物描写を仕上げることから尻込みできない。そのような著述家に特有のくだりが以下のものである。――

 「しかし、そこで私たちが用心した方がよいのは、にせの、かつ『傲慢な謙遜さ』の粗い衣に対してだけでなく、アマレク人が計ったような優美な足どりに対してであり、洗練された愚劣な丁重さという柔らかい着物と(マタ11:8)、『ああ、死の苦しみは去ろう』(Iサム15:32)という魅力的な微笑みに対してである。しかしサムエルは、こうしたことで欺かれるには、誠実でありすぎた。ならば私たちは、牛酪よりもなめらかで、油よりも柔らかな言葉には用心しなくてはならない(詩55:21)。宗教改革者たちはひとりとして、こうした愛らしい気質の者であったようには見えない。だが、こうした被造物的洗練は、何千人もの人々にとってはキリスト教信仰として通用し、何万人もの人々がそれによって欺かれているのである。慇懃な、非常に慇懃な礼儀正しさによってこそ、蛇はエバを騙した。そして、不幸にも彼女の子孫たちは、そのようにされることを愛している。確かにサタンは暗闇の支配者であるばかりでなく、光の御使いにも変装し、できれば選民をも惑わそうとするのである」。

 しかし、一般に信じられるところでは、スポルジョン氏は回心した人物であり、心の変化をこうむった人であった。「願わくは、それが本当のことであるように! あの青年のためにも、他の人々のためにも!」、とすでに引用した著述家はつけ加えている。「しかし、私には、彼の回心に《天来の》実質が伴っているかどうかについて――きわめて厳粛な――疑いがある。私は、彼が新生した人間でない、とは云わない。――それは私の云うべきことではない。だが私は、神から出ていない回心もあることだけは知っているのである」。これによって意図されているのは、キリスト教の信仰や実践についてある程度の知識を有しながらも、聖書的な意味で新生していないこともありえる、ということであった。預言者や使徒たちによってはっきり示された通り道はいかなるものだったろうか? 「私の信ずるところ、スポルジョン氏はこうした通り道について実に良く語ることができる。だが、私には彼がそこを歩んでいるようには見えない」、と評されているのを私たちは見いだす。こういうわけで、このような伝道活動は、「この上もなくすさまじい欺きに満ちたもの」である、とこきおろされた。たといそれが「一部の人々にとっては道徳的に、また社会的に有益な」ものであるかもしれなくとも関係ない。この時点におけるスポルジョン氏のありようは、以後もずっとそうあり続けるであろうと信じられた。「彼の軌道は奇矯なものに見えるかもしれない。だが彼は知的には輝き続け、その彗星のような魅力をふりまき続け、他のあらゆる人々の軌道を横切り続け、だれに対しても友好的に見えながら、だれにも属さない者であり続けるであろう」。群衆に対するこの説教者の魅力は、通りの良い声と、彼がその書斎でこれほどまで勤勉に集めておいた材料を講壇上で用いることのできる能力とに存していた。その点において彼は、怠惰な人々や、信仰的な健全さを鼻にかけながら懸命な勉強をしなくともよいという気を起こしている人々にとっての叱責であった。

 その当時、こうした高踏的カルヴァン主義者たちの間における討論――すなわち、ニューパーク街会堂の牧師が果たして福音の説教者として彼らの承認を得るにふさわしいかどうかに関する討論――は、厳格バプテスト派の会員の間に大きな興奮を巻き起こしていた。その主たる[匿名の]攻撃者は――その酷評の一部をここで引用したばかりだが――、自分自身、影響力ある立場にある教役者であったように思われる。だがスポルジョン氏は、この攻撃を全く意に介さなかった。後年になると彼は、『土の器』が代表していたような団体の間に多くの友人を有するようになった。だが、その教派そのものと彼との関係が、彼がロンドンにやって来た当初に一部の人々が予想したような、際立って暖かな種類のものになったことが一度でもあったかどうか、私には定かではない。


*1 「以下に挙げるのは、、こうした初期の時代に関する別の回想で、『自由人』誌に匿名で寄稿されたものである。――
 「彼が実際にニューパーク街の教会の牧師職に選出される前に、私は、おそらく彼がロンドンで最初に行なった合同集会演説をメーズポンドで聞きました。それは、日曜学校連盟の年次集会の折であり、アーチボルド・G・ブラウン氏の祖父が議長を務めていました。それで、元来1つであったこの2つの教会にも関係を続ける見込みがあったとわかります。疑いもなくウィリアム・オルニー氏が彼を私たちに紹介したに違いなく、彼がこの働きの助けになると知っていたのでしょう。当時の彼は何という青二才だったことでしょう! 何という印象を与えたことでしょう! その折に彼は、自分が子どものときに覚えた難問――いかにして林檎が瓶の狭い首を通って中に入れたのかという――について物語り、その適用をこう語りました。『おゝ、ならば物は、まだ小さいうちに中に入れなくてはならない!』 また、それとほぼ同時期のある日曜の午後に、同じ教会で彼は、各種協会の1つのために説教しました。そのとき私の母は、彼の人物を見定めて、こう断言したものです。『あの人は第二のホイットフィールドになりますよ!』 メーズポンドの教役者ジョン・オルディス師は、たちどころに彼が非常に卓抜な経歴の持ち主となることを予見し、ロンドンで最初に彼の手を取った教役者のひとりとなりました。スポルジョン氏は決してそのことを忘れませんでした。というのも、総じて彼は、あまり同労者たちからの受けが良くなかったからです。何が云われていたかは、忘却された方がよいでしょう。というのも、彼らのほとんど全員は、最終的には意見を変えて彼を受け入れたからです。しかし、スポルジョン氏も出席するように招かれていた、とある霊想的な集会で、あるロンドンの牧師は、私たちの『若き友人は、あまりにも多くの真実に気づくべきであり、あまりにも多くの誤りに気づくべきですが』、と祈ったそうです。しかしながら、この件を私に語った人の話では、これを彼は全く気に病むことなく、これっぽっちも不快に感じた様子を見せませんでした。執事会が一致していることの大切さを何にもまして明白にしたのは、スポルジョン氏のニューパーク街への着任でした。彼らはほとんどが中年の人物で、逼迫した教会生活がいかなるものかを身にしみて知っていました。そうでなかったとしたら、この牧師の経歴は何と異なったものとなっていたでしょう! 『ひとりだけ、最後まで意見を変えようとしなかった反対者がいたことは事実である。そして、彼の意見により、タバナクルが建てられた後でさえ、旧会堂で諸集会を続けることは余儀なくされた。そして彼が死ぬまで、その建物は処分することができなかった』」。[本文に戻る]

*2 『土の器』、第10巻、p.221。[本文に戻る]

*3 彼が虎列剌によって死んだかどうか、私には不明である。[本文に戻る]

*4 あるとき、カルヴァン主義の教役者が、異なる信仰に立つ教役者に代わって説教することは正しいのか、という問題が持ち上がった。「スポルジョン氏は10月2日にキャノン街でそのようにした。また、ジェームズ・ウェルズ氏も同じことをしたと云われている。だが、彼らのふるまいからすると、ウェスレー主義は人の噂するほど悪いものでないか、彼らがそのようにしたのは非難すべきことであるかのどちらかだと思われる。知っての通り、ヨハネはこう云っているのである。『そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります』」。――『土の器』、1855年11月の「ローダ」氏による。
 これに対して、「ヴェリタス」氏が一箇月後に答えた。――「スポルジョン氏に関しては、私は、氏の教理的傾向によく通じていないので、氏があれこれの宗派と混合することについて、ことさらな評言は差し控えたい。しかし、ウェルズ氏については、真理に関する彼の見解を愛し、いつくしんでいる者として、私の正直な意見を告白しなくてはならない。すなわち、私には、なぜ彼がウェスレー主義者たちに向かって神の福音の無代価の恵みを宣べ伝えたからといって、人が噂する以上に良いものを彼らについて信じなくてはならないのか、わからない。また私は、それが彼の主義原則を緩めることだとも、生ける神の大使としての彼に非があることだとも思わない。彼は、いかなる聖書の権威によっても、自分の労を狭めたり、それをある特定の種別の人々にのみ限定したりするよう命ぜられてはいないからである」。[本文に戻る]

*5 『土の器』、第10巻、p.277。[本文に戻る]

*6 『土の器』、第10巻、p.281-283で引用された、1854年の『一銭講壇』より。[本文に戻る]

*7 『土の器』、第11巻、p.13の「ヨブ」氏の文章。[本文に戻る]

*8 前掲書。[本文に戻る]


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT