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第19章

1855年における働きと進歩

1855年の年明け――『ニューパーク街講壇』の刊行開始――ロンドン協会のための説教――会堂の拡張――エクセター公会堂での諸集会――諷刺漫画――筆と墨による描写――虚偽の逸話――トテナムにおけるスポルジョン氏――ニューパーク街会堂の再開所――説教集の大規模な販売――誕生記念祝会――『キリスト者の私室』――廉価出版の使命――スコットランド訪問――高地地方にて――クライド川上での危険――ニューパーク街に関する一友人の回想

 1854年が暗澹たるうちに暮れたとはいえ、新年が明けたとき、人々は希望をもって先行きを眺めていた。物事がそれまで以上に悪くなることがありえるとは思えなかったし、おそらく何かが好転することになるであろう。スポルジョン氏について云えば、彼は今や自分が全くロンドンに腰を落ちつけたと考えることができた。彼の人気は翳りを見せるどころか、とどまるところを知らず、明けたばかりのこの年の間も、いやまして高まるものと思われた。説教を読む人々の渇望は、この若き牧師の、すでに印刷された数編の講話によって、国中で十分にかき立てられていた。そして、これに応じて、今や週刊の定期刊行物として、『ニューパーク街講壇』を定期的に出版することが決定された。このような企図に乗り出したいという願いは、スポルジョン氏自身から発したものではなかった。むしろ、当時、印刷と出版業に携わっていた青年ジョウゼフ・パスモア氏こそ、黄金の機会が自らを差し出しているのを見てとり、それを利用しようと決心したのである。パスモア氏は、ニューパーク街教会およびその会衆とつながりがあり、彼の家族は故リッポン氏の家族と親戚関係にあった。この若き印刷業者と若き説教者は、かの記憶すべきロンドンにおけるスポルジョン氏の最初の日曜日に、ひとときをともに過ごし、そこから終生の友情が始まったのである。もしも説教の毎週刊行に事業として成功する見込みがあるとしたら、スポルジョン氏としても、それを試してみることに何ら反対するつもりはなかった。パスモア氏と彼の共同経営者アラバスター氏は、ふたりとも信頼の置ける人物で、彼らの人柄を知って彼は、自然と確信が吹き込まれるのだった。

 その年最初の日曜日に、スポルジョン氏がニューパーク街で説教したのは、《神の不変性》についてであった。「主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない」。――とのマラキ3:6に基づいた説教である。この講話は、その全体を通じて、まさにこの説教者の初期の様式そのもので語られており、彼が後々説いた諸教理はその経歴の冒頭において彼が教えていたものと同一であったとはいえ、そこここに見られる語句は後のスポルジョン氏であればあまり使わなかったようなものであった。おそらくミルトンの比喩表現――ケンブリッジで彼がその生徒たちに朗唱するのを喜びとしていたような箇所における云い回し――が、今なお彼にとっては大きな魅力を有していたのであろう。高踏的カルヴァン主義者たちは、この説教の中に、自分たちの独特な立場からして安心させられるものを大いに見いだしたに違いない。選びの教理を証明するために、この件に関してジョン・ニュートンが物語っていた、ある立派な女性の云い分が引き合いに出されていたのである。「あゝ! 先生」、と聖メアリーウルノース教会の教区牧師[ジョン・ニュートン]に向かって、この古のロンドンの婦人は云った。「主は、私が生まれる前から私を愛しておられたに違いありません。でなければ、その後で私に愛すべきものなど何もごらんにならなかったでしょうから」。主の晩餐の執行に先立って行なわれた、その日の夕拝の講話は、「わたしを覚えて、これを行ないなさい」、とのIコリ11:24に基づいたものであった。

 それと同じ週の水曜日、1月10日の午後にスポルジョン氏は、ロンドン・バプテスト協会のためにニューパーク街で説教し、その会衆の中には、幾人かの著名な在ロンドンの教役者たちの姿が見られた。会衆席の1つには、その集会が始まる少し前から、ウェイハウス会堂のトマス・ビニー[1798-1874]がおり、それから数分後には、トテナムのジョン・デ・キューアー・ウィリアムズが、この市中牧師[ビニー]の隣に座を占めた。ウィリアムズ氏は、今もその折について生き生きと覚えており、特に彼の記憶に残っているのは、彼が云うところの、「サタンの要塞を強襲し、攻め取り、破壊すべきしかたを、いかにこの若き説教者が目で見えるようにまざまざと描き出したか」であった。この説教では、その途中で、「バプテストは選民中の選民である」、と述べられた。ここから明らかに示されるように、この説教者は、若くはあっても自分の精神において徹底的な確信を有していたのである。以下に示すこの講話の抜粋は、無律法主義とアルミニウス主義という正反対の教理に関して語られた部分である。――

 「私はアルミニウス主義を強く恐れるものであり(私の教会も、私の教会員たちも等しくそうである)、あらゆるキリスト者は無律法主義を強く恐れるべきである。時として私は、その精神がいかに私たちの間にはびこっているかを考えるとぞっとすることがある。思うに、無律法主義とアルミニウス主義の違いはここにある。――アルミニウス主義は真理全体の敵であり、完全な過誤の体系であるが、無律法主義は真理の濫用である。それは聖所からいくつかの石を抜き取って、ベリアルの家を建てることである。イエスの真理の上に、肉的な人間の想像物という木や、草や、わらを建てることである。アルミニウス主義は徹頭徹尾、虚偽であるが、この無律法主義は土台においては真実で、この基礎の上にことのほか忌まわしく、おぞましい推論を建て上げることであり、聖パウロがそれらの1つを言及した際、『絶対にそんなことはありません!』、と云ったのも当然である。 『何と! 恵みが増し加わるために、私は罪の中にとどまるべきでしょうか?』*[ロマ6:1-2] 何と! 私は完璧に達成できないからといって、神の聖なる律法を蔑むべきだろうか? 何と! 私の心の腐敗のゆえに、私は自分の弁解をすべきだろうか? 何と! 今の自分の状態では完全に全く達しえないように感ずるからといって、完全に近づこうと努力することを決してすべきではないと云うべきだろうか? 何と! 私は怠惰さの中に座り込み、『アドナイ・イルエ』[創22:14]と歌いつつ、なあに神はその畏怖すべき聖定を実現し、その恵み深い目的をみな果たしてくださるのだ、私は座り込んでそれらを待つべきなのだ、そうした目的たる、約束の祝福を獲得するために神から定められた手段など用いなくていいのだ、と想像すべきだろうか? そのような考えは消え失せるがいい。しかり、私たちはそれを忌み嫌おうではないか。それは『深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む』[箴22:14]。神が私たちをそこから救い出してくださるように! おゝ、その無律法主義!――不敬虔な人々に阿片剤を投与するもの。人々を神の家に寄せ集めては、もし彼らが失われてもそれは彼らの落ち度ではないと告げるもの。彼らを寝かしつけ、目隠しをしたまま地獄に突き落とし、もし自分が罪に定められることになっているとしたら、罪に定められてもしかたがないと思わせるもの。身の毛もよだつ恐ろしさよ! あなたがたと私、また、私たちのひとりひとりは、聖なる盟約によって結ばれて、アルミニウス主義に対してのみならず、無律法主義に対しても戦わなくてはならない。私たちは、こうした事がらのどちらかに対して少しでも反抗しようとするだけで、手一杯になるであろうが、神が私たちを助けてくださる。そして私たちは勝利者となり、勝利のしゅろの枝を振ることができるであろう」*1

 この著しい説教と、その後の茶会と、その夜の満員となった公開集会とは、当時はロンドン・バプテスト教会協会と呼ばれていたものの歴史に新時代を画することになった。この教派の機関紙は、旧時代と新時代を次のように対比している。――

 「この事実についていかなる理由があげられるにせよ、確実なことは、ロンドンにおける本協会の集会が、地方におけるそれとは非常に異なっているということである。ことによると、いくつかの教会の教役者や教会員たちは、頻繁に会合を持っているため、年次集会など全く目新しくないのかもしれない。ことによると、ロンドンの通りを歩いたり、乗合馬車や辻馬車に揺すられて行くことには、鉄道か快適な田舎の小道を行く聖霊降臨節の遠出にくらべると、魅力に乏しいのかもしれない。あるいは、ことによると、首都で耳目をひく無数の物事の間では、これがしかるべき注意を払われてこなかったのかもしれない。――だが、確実なことは、ロンドン特定バプテスト協会は、その義務感によって、現にそうしているように毎年集会を開いてはいても、概してどこか退屈な行事であるという印象を与えてきただけであった。実際、1月の平日の午後に、ニューパーク街会堂に行って、七十人ほどの会衆しか集まっていないというのでは、説教者にとっても、聴衆にとっても、大した励ましにはならない! しかし、今年はすべてが一変したと云わざるをえない。ニューパーク街に最近着任したC・H・スポルジョン師の人気によって、今月10日には満員の聴衆が引き寄せられた。首都における本教派の諸教会は、見たところ、そのほとんどの部分から代表が派遣されており、唯一の注目される例外は、幾人かの主要な教役者たちの欠席であった。説明されたところ、その理由は、同じ日に、年に四度の宣教委員会が開かれていたためで、このような間の悪さはおそらく二度と起こらないであろう。この説教者が非常な熱心さとともに説いたのは、私たちの征服すべき《悪い者》の『要塞』と、その務めに用いるべき、『神の御前で力のある』、『私たちの戦いの武器』についてであった[IIコリ10:4]。この説教の迫力と独創性は、私たちが一言述べずにはいられないものだが、この若き説教者の人気を十二分に説明するものであり、しかるべき修養をもってすれば、天来の祝福によって、大いに、また有益に来たるべき時代の教会の役に立つであろう数々の能力を示すものであった」*2

 その時、年配の説教者たちは、彼らが云うところのスポルジョン氏の図太さのうちに、賞賛すべきもの、また、ある意味ではねたましく思われるものを見てとった。こういうわけで、ウィリアムズ師が評しているように、「彼は、会衆の間にいるビニー師が見えなかったはずはないのに、見たところ毛ほども気後れした様子がなかった」。事実を云えば、本書の著者自身も証言できるように、この若き説教者は、ある程度は、自分自身の比類ない人気に戸惑っており、いかに高名な個々人々もはるかにまして、群衆のことを強く恐れていたのである。

 この頃までにニューパーク街の管理者たちは、絶えず増大しつつある群衆をどうにか収容するためには、この古い会堂を何とかしなくてはならないと決定していた。この地所には、建物の拡張を行なう余裕がややあった。そこでこの事業のための基金が集められた上で、この会衆はエクセター公会堂に移った。――それは、当時は、まだ比較的新しい建物で、その大講堂で礼拝を司式することになった説教者の年齢よりも二、三年しか古くはなかった。

 どこかの会衆がこのような建物を通常の礼拝式のために賃借するなどというのは、きわめて鮮やかな新機軸であった。そして、その集会の第一日目――2月11日の日曜日――には、好奇心に駆られた大群衆が引き寄せられた。従来、エクセター公会堂は、一方では聖楽合唱団のなじみの演奏会場であり、もう一方では、五月に集中して行なわれる宗教的・慈善事業的な諸集会がよく催されるだけの場所であると思われていた。その座席はおろか、通路にまで立錐の余地なく人を詰めこめる説教者が起こるなどということは、全く新奇な経験であった。ストランド街の一部が、日曜の朝10時過ぎには、きれいに着飾り、手に手に聖書とリッポンの賛美歌集をかかえた人々の群衆でふさがれてしまうなどというのは、どうしたことだ? その不都合を引き起こしていたのは、ニューパーク街から来た若い説教者なのだ。その教会員たちは万難を排してもこの男の話を聞く決心をしているらしいのだ。そこで口々に云い交わされた問いは、「そいつは何者だ?」、であり、その答えは、「ウォータービーチからぽっと出の青二才だ」、であった。次から次へと、このスポルジョンという若僧についての話が漏れ出てきた。じきに広く知れ渡ったのは、彼が独立派の教役者の息子だということ、彼自身はバプテスト派になったということ、また、彼は妥協を知らないカルヴァン主義者だということであった。

 大概の場合、新聞は公正で寛大であったように思われる。こういうわけで、ロンドンの夕刊紙の中でも最も立派で尊敬すべき新聞の1つは、このような時評を掲げた。――

 「この紳士が最近になって大衆の前に姿を現わした状況は奇妙なものであり、簡単な注意を払っておく必要があるであろう。彼がニューパーク街会堂の教役者となって数箇月もすると、その建物は、広々としたものであるにもかかわらず、この若き雄弁な神の人の話を聞きに群がるおびただしい数の群衆を収容するには小さすぎることが、まもなくわかったのである。事ここにおよんでは、会堂を拡張する以外に選択肢はなかった。そして、こうした処置が取られつつある間、彼のためにエクセター公会堂が予約された。過去数週間にわたって、彼はそこで毎日曜の朝と晩に説教をしている。だが、彼はニューパーク街会堂を満員にしたのと全く同じくらい易々とこの大会堂をも満員にしている。日曜の晩の六時頃にストランド街を通りかかる旅人は、公的な交通の運行を文字通り途絶するこの群衆は何事かといぶかるであろう。そのため、不幸な歩行者たちは、広大な大通りをくぐり抜ける何の望みもないまま、裏通りへ迂回することを余儀なくされるのである。ホイットフィールドの時代からこのかた――そして、この誉れも高い名前は、この講壇上の盛名への新たな候補者によって影を薄くされる危機に瀕しているかに思われるが――、これほど広汎にわたる宗教的熱狂は絶えてなかった。スポルジョン氏は偉大な説教者となるものと見受けられる。もっとも現在のところ、彼の白熱した熱烈な雄弁は、時として彼を脇道にそらさせ、彼の無類に適切な様式の美しさを損なうこともある」*3

 ほぼ同じ時期に『グラスゴー新聞』は、ロンドンの人気説教者と「緑の目の怪物」[嫉妬]について、以下のように述べた。――

 「いくつかの敬虔な競敵たちを戦慄させることに、ニューパーク街会堂は、急速に群衆でにぎわうようになり、同会衆は、彼らの会堂が拡張されるまで、エクセター公会堂に頼らざるをえなくなっている。そのエクセター公会堂でさえ、この若き、今や高名なC・H・スポルジョン師を目で見、耳で聞こうとしてやって来る群衆を収容しきれないことが判明している。ある人は、たとい空席ばかりでもぼろくそにけなしていたと推察されるが、何紙かの新聞に投書して、この成功をおさめつつある競敵が、自分の満足の行くように説教したり祈ったりしていないのをあざ笑っている。――すなわち、私たちの想像するところ、彼が通例の単純平凡な眠たげなやり方でそうしなかった、と。それゆえ若きスポルジョンは、こうした目当ての役に立ちたがるような新聞紙上では嘲笑の的とされるに違いない。私たちは、彼の混み合った会衆の中で礼拝をしてきた紳士たちと面談したが、彼らの言葉によると、その礼拝式はきちんと適正に執り行なわれており、礼拝の中では、『お上品な耳の方々』を腹立たせるようなことすら何もなされていないという。彼らが私たちに請け合って云うところ、彼の講話は実質的な内容で満ち満ちており、生き生きとした、適切な言葉遣いで云い表わされているとのことである。彼は、諸学派の定説には一顧だにせず、自分の見解を自分なりの言葉遣いで表現しようとしており、その言葉遣いには、講壇でよく聞かれる紋切り型の文句など全くない。だが、そこには、その主題にとってふさわしくない表現や、神学についての玄人が否認するような表現は何1つ用いられていない。彼を弁護する投書は数多く現われ、そうした投書には、非常に尊敬すべき党派の名前が付されている。競敵の人々は他人にかまけるのはやめた方がよいであろう。スポルジョン氏のような精力を有する青年は、ねたみがましい競敵によって引き倒されはしないだろうからである。他の若き説教者たちと同じように、彼には独特の特徴がある。だがそうした特徴はしばしば天才のしるしであって、時を経れば輝かしい円熟へと至るものなのである」。

 このようにして、この若き牧師の令名とふるまいは、伝統的に宗教界として知られてきたものの外部においても、たちまち世間の話題の的となった。諷刺漫画家たちがわらわらと働き出した。当時はそれなりに人気を博したある作品において、ニューパーク街の牧師は、[地獄の責め苦を云い立てる]「硫黄」氏として描き出されていた。そして、何の誤解もないようにと、もうひとりの当時の人気説教者であるトリークル氏が同じ絵の中には描き込まれていた。別の漫画は「はえ取り紙」であり、こうしてスポルジョン氏の説教は、当時使われていた、強力な効き目の蝿取り紙にくらべられていた。その間、忙しい口先や、筆や、鉛筆が、すでに類例のないものとなっていた人気を増大させるのに一役買っていた。

「"硫黄"とトリークル」

 この時期におけるこの説教者についての筆と墨による素描はこう述べている。――

 「この名を冠した二十一歳の青年は、わが首都の説教者たちの間に忽然と姿を現わし、宗教界で非常な評判となっている。彼は、サザクのパーク街会堂の教役者として着任してほんの数週間しか経っていないが、すでにこの広々とした場所からは人があふれ、何百人もの人々が、毎回の礼拝に入り込むことができずに去って行きつつある。その結果、合意されたのは、この会堂を拡張すること、そしてこの若き説教者が、自分の礼拝所の再開所まで、八週間の間エクセター公会堂の大講堂で、説教することであった。こう云えば、このほとんど少年と云っていい説教者の人気がいかに大きなものかは容易に信じられるだろうが、昨日は、朝と晩の双方において、四千人から五千人を収容できる大講堂のあらゆる部分が満員になったのである。スポルジョン氏はバプテスト派に属しており、この教派内で、彼の父親はケンブリッジの近郊で教役者をしている。彼は身長が低く、どちらかといえばずんぐり型で、ことのほか幅の広い、堂々とした顔をしており、そのため二十一歳というよりも、二十六、七歳の風貌に見える。彼の諸教理はカルヴァン主義者の学派のものである。伝えられるところ彼は、非常に博識であって、特に神学的主題に通じており、教養の高い精神の青年だという。疑いもなく彼は優秀な才能の持ち主であるが、一段と興が乗ると、その講壇上の雄弁には格段に拍車がかかる。彼が卓越しているのは、哀感においてである。彼自身はその事実に気づいていないとしても関係ない。私たちは、この若き神の人が、いくつかの欠点を別にすれば、非常に用いられる人物になると期待できよう。なぜなら、彼は大衆の注意を引きつけ、それを釘づけにするのに格別に適した資質を有しているだけでなく、未回心の人の良心に向かって真実な、力強い訴えかけをしているからである。だが私たちは、真摯な友情の精神によって彼に、その習い性となっている芝居がかった態度を打ち捨てることが必要であると、はっきり云っておきたい。昨日のエクセター公会堂で彼は、自分のための一種の講壇に改装された小さな場所に自分を閉じ込めておく代わりに、まるでドルリーレーン劇場の舞台の上で、何か波瀾万丈の悲劇でも演じているかのように、壇上をどたばた歩き回ったのである。しかしながら、こうした点において彼は向上するであろうと期待したい。彼は全く独創的な説教者であり、それゆえ常に大規模な会衆を集めるであろうし、その結果、普通であれば、誠実に解き明かされた福音を耳に入れることなど決してないはずの種々の階層の人々に、大きな善を施す卓越した媒介となるであろう。明らかに彼は、ジョージ・ホイットフィールドを自分の手本としている。そして、かの比類なき説教者、かの講壇上の雄弁家の王者のように、印象的な頓呼法[文の中途で急転してその場にいない人または擬人化したものに呼びかけること]を非常に好んでいる。また、彼のように力強い声音を有している。ただし、時としてそれは、甲高くなりすぎて、多少聞き苦しくなり、やや感動を損ねることがある」*4

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「はえ取り紙」

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 この時期のスポルジョン氏の友人たちも認めていた通り、彼のような立場を占めていた人物は批判を免れなかった。首尾一貫して彼を擁護していた一雑誌はこう述べている。――

 「講壇であれ公会堂であれ、同じように人の注目を集め、批判を招くものである。また、この試験が正当に、また誠実に適用される限りは、いかなる公的な人物も、正しい心をしているならば、その判決からしりごみはしないであろう。しかし、批判という形が罪人呼ばわりする手段とされたり、新聞の批評家たちが、その筆を用いて卓越したものを推賞したり、峻烈ではあっても公平に過ちをとがめたり矯正したりする代わりに、悪口や虚偽によって人の評判を損ない、人を躍起になってけなすことで相手の有用性を減じさせようとするのであれば、彼らは、通常は誉れあるはずの仕事を、薄汚く、見下げ果てた中傷者の仕事に引き落としているのである。こう云うのは残念なことだが、スポルジョン氏の批判者の何人かは、このように自身自身の名を汚しているのである」*5

 『イプスウィッチ急報』のロンドン通信員が、この時期のニューパーク街における礼拝式の1つについて記事を書いた。そして、すべての講話は「悪趣味と、俗悪さと、わざとらしさの臭気がある」と云い立てるとともに、概してこの説教者のことをけなしていた。それに続いたのが、出所の疑わしい逸話の数々であり、特にその1つは、若い婦人たちから受け取った、おびただしい数の刺繍入り室内履きの話であった。イプスウィッチ紙の編集者は、どうやらこの牧師を弁護する数々の手紙の正当性を手放しで認めたらしい。そして、通信員たちは、偽りの話を憤然と否定した。その一方で彼らは、反駁しようのない真実さと情熱の証拠を示していた。室内履きの物語は陳腐な作り話であり、目端の効く新聞記者ならだれでも避けていたはずのものであった。結局において、スポルジョンの場合、事実は虚構よりも奇であった。というのも、ほぼ欠かさず礼拝に出席していたひとりの友人がこう云っているからである。――

 「この若き牧師の足は一度も神学校の床や大学の講堂を踏んだことがなかった。彼は生まれを誇らず、自慢できる家柄もなかった。だがそれでも、こうしたことにもかかわらず、彼の教会員は、いやまさって増加し続け、彼の教会は、いやまさって広がり続け、彼の聴衆は、いやまさって増し加わり続け、彼の奉仕は、いやまさって広汎に用いられるものとなり続けていた。そして、今や彼がその裏表のない性格と、その説教の力と、その牧会生活のきよい敬虔さと、その牧師職の働きの熱心さとによってかちとった卓越した高みに置かれると、罪人呼ばわりと嫉視の矢雨が至るところから彼に降り注いだのである。それならば、それでよい。『けんかは理のある方が三人力』[シェークスピア、『ヘンリー六世・第二部』3幕2場]である。私は、スポルジョン氏がそうしたすべてを忘れさせるほど、立派に生き抜くであろうと信頼するものである」*6

 ひとりの地方の教役者は、スポルジョン氏の弁護役を買って出つつ、他の友人たちに、この説教者の評価についてはもっと自重するように促している。――

 「彼は、一部の人々が熱狂的に云い張っているような、巨大な知力を有してもいなければ、有していると主張してもいない。彼の偉大さは、彼が大いに用いられているという点にある。…… 一部の無思慮な友人たちの捧げている度外れの賛辞が、スポルジョン氏の意に添わないものであることは、キリスト教精神に反する攻撃者たちから投げつけられる罪人呼ばわりの毒矢が、その意図された目的を果たせないのとほとんど変わらない。後者を動かしている憎悪や、それがうまく働くかどうかという見込みについては、老イソップの寓話がまさにうってつけの例示となるかもしれない。狐は、葡萄が自分の手に届かないくらい高みにあるために、それを侮辱するのであろうし、眼鏡蛇の毒牙をそこなうには、その嫉妬による憤りが注がれる対象によるしかないであろう」*7

 この投書の筆者は、スポルジョン氏の反対者たちが悪口を云うのをやめ、むしろ自分たちの賜物ある兄弟が「牧師また伝道者として精励し、たゆまず努力している」点をみならうように勧めていた。

 しかしながら、真摯な友人たちは、こうした初期の時代には、時として率直な批判を口にすることもあった。その例として、次のような言説を取り上げてみるがいい。――

 「私たちは、この働きをけなそうというつもりはない。これは、全体としては非常に卓越したものであり、その目当ては、私たちの同胞たる定命の魂の益のみである。さもなければ、様式や趣味の点に関する短所に注意を向けることはいともたやすいであろう。そうした短所がいささかなりとも存在しているのは、非常に残念である。もしスポルジョン氏がこうした欠陥を非常に重要な事柄であるとみなしているとしたら、明らかに彼は、よりすぐれた良識を働かせて、その講話を、彼が突如として得た、また私たちには至当と思われる人気に値するものとしなくてはならない。

 「彼は、非常に尊敬されるべき出版社と、一冊の説教集を発行する契約を結んだとのことである。人の噂によると、その版権の見返りとして途轍もない金額を受けとることになるという。スポルジョン氏は、聖霊の導きのもとにあって、自分の直観に従ってほしい。そうすれば彼は、嫉妬と偏見にかられた批判者たちの意地悪い予言が偽りであることをすみやかに立証するであろう。そして、このようにして、神聖な霊感と、彼自身の天才によらしむるところにより、講壇の雄弁家としての首座を占めることになるに違いない。願わくは神が、彼を長く《教会》にとどめおき、このエクセター公会堂の説教で語られたような言葉を語り続けることができるようにしてくださるように」*8

 この当時スポルジョン氏について云われた事がらのいくつかは、彼のその後の経歴に照らして読むと、少々驚かされるものである。多くの人々にとって、この若き説教者の人気は全く束の間のものであり、その世間をあっと云わせるような、向こう見ずな行き方は、非常な短時日のうちに終息するはずであった。こうした人々にとって、それは、まさに打ち上げ花火のようなものであった。その火矢は火焔の流れのように駆け上るが、いずれその軸は煙と暗闇の中を落ちて来ざるをえない。この説教者も、いずれそれなりの場所に――鈍重で平々凡々な場所――に落ちつくであろうし、その時には彼の熱烈にすぎる信奉者たちも羊のように後を追い合うことをやめるであろう、と。とある地方の町で行なわれた1つの礼拝で、ひとりの教会役員は、その会堂で説教したばかりのスポルジョン氏のような講話が、その教派の教役者たちの平均的な説教の見本であると受けとってほしくはないと表明した。しばらくの間は、ビニー氏でさえ、スポルジョンのことを、田舎を行きつ戻りつしながら支離滅裂な説教をして歩く若僧とみなしていた。他の人々にとって、彼は真理よりはたわごとの方を多く話す山師であり、神学知識などその英文法程度にしか精通していない人間であった。それに加えて、いかに辛辣な逸話が彼について語られていたことか!――それまでも奇矯な教役者たちについて、一世代以上もの間ずっと語られ続けてきた逸話の数々である。こういうわけで、巷間伝えられるところ、この牧師は、気にくわない執事の死に際して、自分の満足を表わすため、この立派な紳士の告別説教の主題聖句を、「この貧乏人は死んだ」*[ルカ16:22]としたという。また、やはり噂によると、彼は、信仰後退の容易さを例証するために講壇の手すりを滑り降り、その後で、その回復の困難さを強調するため、それをよじのぼろうとあがいたということであった。しかしながら、人々をもっぱら怒らせたのは、このエセックス出身の若者が導入した新しい説教方法であった。謙遜に自分の長上たちの教えを聞く代わりに、図々しくもスポルジョンは、その素朴なサクソン語によって、物事をどう行なうべきかを彼らに教えようとさえしたのである。多くの者にとって、これは厚かましいにもほどがある所業と思われた。

 事実を云えば、変化の時期はすでに到来しており、物事の進展をはばむことは不可能となっていたのである。ロシア相手の戦争の不首尾や、クリミアにおける連合軍の激しい損耗は、民衆に1つの教訓を教えつつあった。それは、飲み込むまでには時間がかかるが、結局は健全な教訓である。新聞に印紙を貼ることを義務づけていた条例が撤廃されたこともまた、知識が一般に伝播するのを促し、特に紙税が確実に廃止されることになっていたことが拍車をかけた。国民教育にも、いやまさる関心が寄せられつつあった。こうした事がらから明らかなように、ニューパーク街の若き牧師というような講壇上の一大現象は、まさにうってつけの時期に起こったのである。だが、真相がいずれにせよ、いかなる敵対的な批判も、適切あるいは不適切と考えられた、いかなるもっともらしい警告も、あるいは、激越な悪口雑言でさえも、群衆が自分たちの気に入った人物につき従うのをくいとめることはできなかった。普通の観察者の目に映る以上に多くのことが表面下で起こりつつあったのである。スポルジョン氏は、大衆の耳をとらえて、福音を民衆に与えただけではなかった。熱烈な伝道者にとっては助けとなるよりも妨げとなるような、全く廃れかかった多くの物事を一掃しつつあったのである。そして、じきに他の人々が、彼の知恵と勇気から出た健全な成果を刈り取ることになった。もし故ロウランド・ヒル[1744-1833]が、サタンの隠れる四隅がないからといって、自分の円形会堂を満足げに眺めたとしても、スポルジョンもそれと等しく天晴れであったではないだろうか。彼は、ロンドン中の大集会場や、その他の場所のすべてを悪魔が手中にしていることを恥辱であると考えた最初の人物だったのである。マーク・ガイ・ピアズ師[1842-1930]は、この件について、こう指摘している。――

 「もし今日私たちが、何ら偏見を受けることも、何ら威厳を欠くこともなしに聖ジェームズ公会堂に集まるとしたら、このような場所の扉をこのような目的のために最初に開いた大胆な手のことを、感謝とともに思い出そうではないか。そして、もし今日の説教が、もはや『死につつある人による死につつある人々へ』のものではなく、むしろ、生きている人による生きている人々へのもの――自分の生計を立てなくてはならない人々、また、それを誠実かつ首尾良く行なうために、神のあらゆる恵みを必要としている人々へのもの――となっているとしたら、それは、このほむべき人の勇気と聖められた常識とに一にあずかっているのである」。

 それは偉業であった。だが、もしスポルジョン氏があのような性格をしていなかったとしたら、彼が最初から自分のものとしていたような人気を享受することは決してありえなかったであろう。彼の才質がいずれも堂々たるものであったとはいえ、その性格こそは大衆の愛顧をかちとった主たる手段となった。こういうわけで、かの卓越したウェスレー派の説教者[ピアズ]は、こう付言することができたのである。――

 「私は、この神のしもべ――大いに愛された人――の追憶に自分の証言を加えないではいられない。生ける人の中で、この人ほど大きな恩恵を私に施してくれた人はいない。私は彼の説教の一編を取り上げて読むたびに、いつであれ、たちまち自分の魂が愛と賛美に燃え立つことに気づかずにはいられない。沈滞し、打ちひしがれているときにも、彼の説教の何かを読み始めると、それは、古の惑乱した魂に対するダビデの立琴と同じものとなるのである。何度となく私は、希望に照らされ、賛美にわき立ちながら自分の務めについた。なぜなら、神がそのしもべの印刷された言葉を通して私に語りかけてくださったからである。私は彼を愛し、尊敬している。私にとって彼は、もうひとりのルターである。――彼らは同じ剛毅な信仰、同じ恐れを知らぬ剛胆さ、同じ即妙の剽軽さ、すべての明るくきよい事がらに対する同じ愛、同じ単純素朴さと無私無欲さの持ち主であった」。

 現在ハクニーで教役者をしているデ・キューアー・ウィリアムズ氏は、1855年にはトテナムで牧会しており、スポルジョン氏がロンドンで伝道活動を始めた時代について、いくつか興味深い事がらを告げることができる。1855年の夏の間、この若き牧師は、ウィリアムズ氏に代わって説教したことがあった。それは、当時は新しかったトテナム・アンド・エドモントン会堂においてであり、主題聖句は、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知る」[エペ3:19]であった。会衆は満杯の状態であり、来会者の中にはプリマス・ブレズレン派の人が一、二名いて、礼拝後にこう評したという。「あの若者は、大きな恵みを必要とするようになるでしょうね」。「まさに、その通り。私たちはみなそれを必要としていますぞ。それを知っていさえすればだが」、とウィリアムズ氏は答えた。それからほどなくして、この若き牧師はトテナムのバプテスト派を訪れ、その説教の中で、様々な説教者たちとその流儀について彼一流のしかたで言及した。しかしながら、彼はそれ以上のことをした。というのも、それとは知らずして彼は、聴衆にとって少なからぬ驚きとならざるをえないようなしかたで、その教会の卓越した教役者のことを「やっつけた」からである。そのときの聖句は、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」[ヨハ7:46]、であり、説教者たち自身に対して与えられた助言は、それを聞いた人々が忘れられないような種類のものであった。「福音を宣べ伝えるとしても、人々がそれを聞きにやって来ないとしたら、何の役に立つだろうか?」、と問われ、こう云い足されたのである。「私は、赤い外套を着て説教したり、他のしかたで説教する方が、空っぽの会堂で語るよりもよほどましだと思う」。それからしばらくしてから、デットフォードでなされたのは、「私たちは主を見た」[ヨハ20:25]との言葉からの説教であった。そして人々は、果たして彼らがこのようなことをトマスに告げたことが一度でもあるか問われた。「私たち英国人の間には、ある種とりすました風があって、互いにこの何にもまして重要な主題について語ることができないのである」、とスポルジョン氏は云った。「私がある教会に最初に加入したときには、キリスト者の人々は兄弟でなくてはならないと思っていた。だが二度《聖餐式》に集った後でも、だれひとり私に話しかけようとはしなかった。そこで私にわかったのは、多くの同胞キリスト者たちは兄弟ではあるが、実の兄弟ではないということである」。この折こそ、ウィリアムズ氏が教会付属室で、何人か他の人々とともにスポルジョン氏に面会したときであり、ある会衆派の教役者が、この一団の人々に加わるなり、イズリングトンにある会堂で説教してくれまいかとスポルジョン氏に要請したときであった。このような頼み事をした紳士は軽率にもこうつけ加えた。「もしあなたが日曜日に来てくだされば、われわれにとって大変ありがたいことです。なんなら私が、あなたに代わって説教してもよろしい」。こうした新奇な提案を聞いて、「スポルジョン氏は面食らった様子をした」という。だが、彼はたちどころに会話の流れを変えて、だれの気も悪くすることなく、この窮地を脱した。彼は云った。「そうですね、――先生。もし悪魔が講話をするという通知を出したまま、姿を現わさず、御使いのかしらガブリエルがたまたまその場にいたので悪魔の代わりに講話をしたとしたら、聴衆は気に入らないと思いますよ。彼らは、つまりガブリエルの話を聞きにやって来たのではないですからね」*9

 5月の最終日の木曜日に、ニューパーク街会堂は、いわゆる「大規模な建て増し」の後で再開所された。サリー会堂の元牧師であるシャーマン氏が午前中に説教し、夜にはスポルジョン氏自身が説教した。そのときには大勢の人々が入場を許されることができずに、扉の前から帰されなくてはならなかった。

 それゆえ、1855年6月の第一日曜日に、牧師と信徒たちは再びサザクで集会を持つこととなった。だが、ニューパーク街会堂が以前よりも三百人も多くの人々を収容するようになったものの、群衆に対応する困難さは実質的に何も変わっていなかった。しかしながら、四箇月の間、週に二度、エクセター公会堂で説教したことは、この説教者を社会の選良たちの間でより知らしめる効果があったに違いない。そして、今や西端ロンドンからそぞろ歩きをして来る人々が、サザクのこの若き天才の話を聞きにテムズ川を越えてくる姿が、いや増して多く見られるようになっていた。牧師と会衆は、新しい会堂が必要であるとの事実を、いやがうえにも認識させられたに違いない。

 この時点では定期的に刊行されるようになっていた説教に刺激されて、前年の夏から始まっていた、この説教者に対する毀誉褒貶はますます活発になっていた。彼自身が高踏的カルヴァン主義者であった事実にもかかわらず、スポルジョン氏の最も激越な中傷者たちは、やはり同じ派のより過激な成員たちの間に見いだされるのだった。こういうわけで、この若き説教者により好意をいだいていた同派の一指導者は、自分の信奉者たちに対して、彼に反対することによって神に逆らうことになるかもしれないとの警告を発しているのである。「それゆえ、兄弟たち。用心するがいい」、と彼は云った。「それとともに、思い出そうではないか。不信心な理屈屋や、イエズス会士、モルモン教徒、そして公然たる敵たちの大群が、人々を騙して、彼らを死の門に至らせよう、栄光ある福音に恥辱を投げつけようと必死になっていることを」*10

 人々がスポルジョン氏の功罪を論じている間、一部の著述家たちは、アルミニウス主義的な意見を有する新しい説教者たちが、カルヴァン主義的な教理が宣べ伝えられてきた講壇に認め入れられていることに抗議していた。ニューパーク街会堂に行ったウェルズ氏の信奉者のひとりは、サリー会堂のシャーマン氏がスポルジョン氏から実際に高く評価されていることを知って、衝撃に近いものを受けとった。「それでも、私は決してあの若いのを非難しはすまい」、と彼は鷹揚に述べた。「彼は若く、勇ましく、その崇敬すべき主への熱心に満ちており、主の力強い行ないを広めようとの明らかな願いをいだいている」。しかしながら、ニューパーク街会堂の牧師だけが、そうした講壇上の「結婚関係」にふけっていたわけではない。そして、だれに対しても公正であろうとする人々は、硝子の家に住んでいる者は石を投げるべきではない、と強く主張していた。「ここしばらく考えてきたことだが、スポルジョン氏の過誤と呼ばれるものを指弾するのに非常に前向きな人々の多くは、彼をはるかに越えた誤ちに陥っている」、と先に引用したばかりの書き手は云っている。「そして、この若者に対して人々がこれほどまでに悪意に満ちた攻撃をしているのは、(こう云うことを許してほしいが)ねたみからにほかならないのだ。――彼の講壇上の才質はそれほどまでにすぐれている。もしこうした紳士たちが自分たちの説教を綿密に観察してみるとしたら、私たちが、少なくとも時には、その不健全な意見に衝撃を受けたとしても不思議ではあるまい」*11。それでも、彼に好意をいだく一部の人々が見られはしたが、高踏的カルヴァン主義派の大多数は、スポルジョン氏に対する糾弾の叫びを熱烈にあげていた。「あれは、二番煎じの伝道活動で、アルミニウス主義的な精神にどっぷりと漬かっている」、と。

 大衆の判断が異なっていたことは、この説教者の話を聞きたいという、いやまさる願いと、彼のエクセター公会堂の講話が一冊の本にまとめられたとき非常に好調な売れ行きを示したことによって証明された。ニューパーク街の、建て増された会堂に戻ってきてからほどなく、すなわち、6月19日に、スポルジョン氏はその生涯の二十一年目を閉じ、これは特別礼拝によって祝われた。『人生の絵図』と題されたその説教は、2ペンスの価格で刊行され、そこには、この若き牧師の最初の銅版画肖像がついていた。この説教は、非常によく売れたが、今では、これを手に入れるのは相当に困難である。

 この誕生日の講話の主題となる聖句はヤコブ4:14であった。――「あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか」。冒頭部では、地上における存在のすみやかさが指摘された。世に出たばかりの若者にとって人生は長く思われるかもしれないが、その行程の最後にさしかかりつつある老人にとって、それは常に短い。それは宇宙の齢に比べれば、ほんの一手幅であり、大海と比べられた場合の水一滴である。その後に続くのが、この特徴的な一節である。――

 「人生はすみやかに過ぎ去る。もしあなたが人生を絵に描きたければ、聖書に目を向けなくてはならない。そこで今晩、私たちは、聖書という画廊にかかった古い絵画の間を通り抜けてみよう。あなたは、そのすみやかさがヨブ記で語られてるいことに気づくであろう。そこには、3つのたとえが供されている。9章25節にはこう記されている。『私の日々は飛脚よりも速い』。私たちのほとんどの者は、駅馬の迅速さを知っているであろう。私も緊急時には、鉄道のない地方で駅馬を使ったことがあるが、その旅の速さには驚かされもし、喜びもしたものである。しかし、この古代の書で現代の駅馬のことが述べられているはずがないので、私たちは東方の風俗や慣習に目を向けなくてはならない。そして、そうするとき私たちは、古代の帝王たちが、その情報を受け取る驚くばかりの速さによって臣下たちを驚嘆させていたことを知るのである。しかるべく整えられた手筈や、早馬や、換え馬によって、彼らは驚異的な速度に達することができた。それは、今日では取るに足らないものであるとはいえ、より緩慢な当時にあっては、信じがたいほどの速さであった。それで、東洋人にとって、すみやかさを最も明確に示す観念の1つは、『飛脚』ということだったのである。いみじくもヨブは、私たちの人生が飛脚よりも速いと云う。私たちは、ある年が乗りつぶれるまでその年に乗っているが、それと同じくらい速い年がやって来て、それに乗って運ばれて行く。そして、じきにそれが姿を消すと、別の年が代わりの馬として働き、私たちは駅馬に次ぐ駅馬を、誕生日が次々に訪れるたびに乗り継いでいく。私たちは道草を食わない。ある年から別の年まで跳躍しつつある。それでも私たちは、前へ、前へ、前へと、先を急ぐ。私の人生は飛脚のようなものである。のたのたと、車輪をきしませながら道を行く荷馬車のようではなく、駅馬のように、最大の速力を出している」。

 人生のすみやかさに関する別のたとえが語られ、その後で、人生の不確かさについて語られた。人生とは、霧でなくて何だろうか? その移り変わりについて語る中で、説教者は、族長ヤコブが彼の時代にしたのと同じく、人生を巡礼の旅にたとえた。

 「この白髪の族長は、パロから年齢を尋ねられたときに、こう答えている。『私の巡礼の年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖たちの巡礼の年月には及びません』 <英欽定訳>。彼は人生を巡礼と呼んでいる。巡礼は、朝に出発しても、目指す神社に達する前に、何日も旅をしなくてはならない。その道中に、この旅人はいかに様々な景色を目にすることであろう! 時には、彼は山々の上にいるであろう。別の折には、谷間に降りて行き、ここでは小川が銀のようにきらめき、鳥たちがさえずり、空気が芳しく、木々は緑で、甘美な果実がたわわに実って彼の味覚を満足させるが、別の折には、乾燥した砂漠に身を置き、何の生き物も見当たらず、空中で鋭く叫ぶ鷲の鳴き声のほか何も聞こえず、自分の足の裏を休める場所をどこにも見つけられない。――空は彼の頭上で燃えさかり、熱砂は彼の足元で焼きつけるようである。――覆いとなる木は一本もなく、身を休ませる家は一軒もない。また別の時には、彼は甘やかな緑地にあって、水の泉でからだを安らがせ、棕櫚の木から果実をもいでいる。あるときは、すべてが暗く見える山あいの岩々の間を歩き、別の時には、ミツァルの山を登る。涙の谷に降りて行くかと思うと、たちまちバシャンの山を登っている。だがしかし、再びひょうの山へと入って行き、試練と患難に遭う。それが人生である。――絶えず移り変わる。次に何が来るかだれに知れよう? 今日それが好天でも、明日にはひどい嵐となるかもしれない。今日の私は足りないものが何1つなくとも、明日にはヤコブのように石を枕にし、天を窓帷にするほかない無一物の身となるかもしれない。しかし、これは何と幸いな思いであろう。私たちは道がいかに曲がりくねっているか知らなくとも、それがどこで終わるかを知っているのである。あちこちへと迂回していくことこそ、天国への直進路である。イスラエルの四十年間の放浪は、結局において、カナンに達する最短路であった。私たちは試練や患難を経なくてはならないかもしれない。その巡礼は大儀なものかもしれない。だが、それは安全である。私たちは、自分が航海している川の見取り図を描くことはできないが、それが最後には至福の大海に至ることはわかっている。私たちには、その道を追跡することはできないが、それがみな、神の宇宙の中心にある、天国の大首都へと集束していることはわかっている。願わくは神が私たちを助けて、敬虔な人生という真の巡礼路を追求させてくださるように!」

 人生が移り変わるものであることについては、ダビデの言葉が引用されている。――「私たちは自分の齢を語られる話のように終わらせます」 <英欽定訳>。そして、それから説教者自身の経験の一部を示す一節が現われる。――

 「さて、ダビデは語られる話のことを理解していた。おそらく彼は、そうした話で不愉快にさせられたこともあったであろう。東洋には、物語を語るのを仕事としている人々がいた。あの馬鹿げた本、『千一夜物語』にある物語のような話をひねりだしては、聴衆を面白がらせていた人々である。私も、その本を読むほど愚かだった頃には、それに妖精が出てくることもあれば、精霊が現われることもあり、宮殿の中にいることもあれば、じきにそこを出て、洞窟の中に入り込むといった具合だったことを覚えている。ありとあらゆる種類の異様な物事が、いわゆる説話の中には寄せ集められているのである。さて、ダビデは云う。『私たちは自分の齢を語られる話のように終わらせます』。ご存じの通り、人間の人生の浮き沈みほど驚きに満ちたものはない。それは陽気な詩歌になることもあれば、平凡な主題になることもある。崇高さのきわみに登るかと思うと、たちまち滑稽さに降りて行く。いかなる人も自分の完璧な伝記を書くことはできないと思う。もしある人の思想と言葉の完全な歴史を書き記すことができたとしたら、世界そのものもその記録をおさめることはまずできないであろう。それほど、語られるであろう話は驚くべきものなのである。私たちの人生はみな異様なものであり、私たち自身にとっても奇妙なものに見えるに違いない。そのことについては、多くのことが云われえよう。私たちの人生は、『語られる話のよう』である」。

 この講話のしめくくりには、人生の結末のことが言及され、サムエル書の言葉が引用された。――「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです」[IIサム14:14]。――

 「人間は、大きな氷柱のようなもので、時という太陽が絶えず溶かしつつあり、たちまち地面にこぼれた水のようになり、もう集めることはできない。だれが死んだ霊を呼び戻したり、その肺を新たないのちの息でふくらませることができようか? だれがその心臓に生命を注入し、よみから魂を引き戻せようか? だれひとりいない。それを集めることはもうできない。かつては姿がよく見られた場所から、もはや永遠に姿を消してしまう。しかし、ここで1つの甘やかな思想によって私たちは陶然とさせられる。この水は決して失われることがなく、それは土にしみこみ、千歳の《岩》に濾過されて、最終的にはきよらかな泉となって、天国で吹き出すのである。きよめられ、水晶のように澄み切った泉となるのである。それとは逆に、もしそれが、どす黒い罪の地面にしみ通り、忌まわしいしずくとなって、暗い破滅の洞窟の中にしたたり落ちるとしたら、何と恐ろしいことか!」

 やはりこの年の間に、スポルジョン氏は再び文筆を取ることとなった。小論『反キリストとその子ら』が、アーサー・モーリー氏の賞を授与できなかったとき以来、彼は文筆家として立つことに気乗りがしていなかったかもしれない。だが今回の彼は、雑誌寄稿家として現われ、ほぼ一年もの間、『キリスト者の私室』誌に毎週、援助の手を差し延べることとなった。同誌は、この種の一銭雑誌としては英国で最初に刊行されたものである。ある指摘によると、「一方で、新聞や雑誌は強力に光を広めるものではあるが、それは、あまりにもしばしば暗闇と過誤を伝播する手段にもなってきた。そして、こうした悪をある程度まで食い止めようとすることこそ、バンクス氏がその全力を傾けて『キリスト者の私室』やその他のキリスト教紙の刊行を開始した目的であった。それらによって彼は、より多くの怪しげな文書の影響を中和しようと期待したのである」*12。故チャールズ・ウォルターズ・バンクスが、トゥーリー街ユニコーン広場の由緒ある会衆の牧師となったのは、スポルジョン氏がロンドンに腰を落ち着けたのと同じ年であった。バンクス氏は非常に有能な人物で、純粋な熱情をもって新聞・雑誌による宣教活動に打ち込んでいた。そして、高踏的カルヴァン主義者に属してはいたものの、スポルジョン氏に対して深甚きわまりない敬意をいだいていた。この若き牧師は、この、自分よりずっと年長の友人と同じ派に身を置くことは決してしなかったが、攻撃的なキリスト教の働きという点に関して、両者は心から一致していた。バンクス氏は、野外説教や、一般伝道の働きの主唱者であった。だが、一部のずっと極端な型の信仰告白者たちにとって、こうした企てのすべては律法主義めいたものに思えた。そうした人々のひとりがいささか衝撃を受けたことに、ニューパーク街会堂で彼は、近隣の地域にキリスト教的な働きかけを行なおうという間接的な言及を聞いたのである。もちろん、こうしたことによってこの牧師は、律法主義的な傾向を有する人物との烙印が押された。それにもかかわらず、評判をとろうが悪評を立てられようが、この働きは勇敢に押し進められた。スポルジョン氏の在ロンドン第二年目に、彼と彼の信徒たちは、《国内宣教》の奉仕に熱心に取りかかった。その主たる中心となったのが、同会堂と関係して開所されたサザク宣教会館である。このような努力は、極端な見解をいだく人々には律法主義めいたものとみなされはしたが、バンクス氏は、このような企図に対して、スポルジョン氏その人と同じくらい心からの賛意を示した。

 1855年7月、スポルジョン氏は英国北部へ旅行に出かけ、スコットランドを初めて訪れた。彼は、途中のいくつかの大都市に招かれていたように思われる。ある日曜の朝、ブラッドフォードの《音楽堂》で彼は、エクセター公会堂に入れるよりも一千人も多い会衆を前にして説教した。だが、それでも数多くの人々が入場を許されることができずに帰っていったのである。夕べには、その興奮はいやまさって高くなった。音楽堂周辺の街路には人々が群がり、その大きな建物そのものは、聴衆がぎっしり詰め込まれていたため、この説教者は。説教している間ほとんど身動きもできないほどであった。同じようなことは、ストックトンオンティーズでも体験された。エジンバラでは、クイーン街公会堂に大群衆が詰めかけた。別の説教者が呼び物であったとしたら、おそらく多くの人々の熱望を冷ましただろうような激しい雨が降っていても関係なかった。グラスゴーでは――それが可能だったとしたらだが――さらに多くの群衆が集まった。そして、このスコットランドの商業上の首都では、多くの紙面がその説教の報告や、この説教者に関する記事のために割かれた。『グラスゴー・エグザミナー』紙は、尊敬に値するしかたで身を処し、スポルジョン氏の手法や天才について偏らない評価をしようと努めた。人々は彼のことを、昔からのしきたりを捨てて自分独自の道を切り開こうとする勇気があるからといって、やぶ医者だとけなすかもしれない。だが、そうした大胆不敵さは、使徒パウロに始まり、十六世紀のルターやノックスといた古強者に至るまで、世に知られてきた最大の改革者たちの特徴だったのである。世間の常道をはずれることは、必ずしも独創性の目印でも、例外的な才質の目印でもない。だが、そうすることが当を得ている場合もある。――

 「キリスト教の礼拝式におけるしきたりは、所定の形式に気乗り薄に、なまぬるく従うだけのものとなる一方で、その精神、すなわち旺盛な意志が次第に沈滞していくことが甚だしくありがちである。ことによると人々は、実に忍耐強く座っているかもしれない。何人かは、きちんと耳を傾けることさえしているであろう。だが、おきまりの数の詩歌が歌われると、その日のお務めは完了する。普通そこには、それ以上何もない。いかなる人も、これが、現在のわが国における諸教会の大多数の実状を述べただけでしかないことは否定できまい。多少の立腹を振りまくことによって理知を磨きたければ、説教者は、《詩篇書》の上に手巾を落とすか、普段よりもほんの少し声高に語って、教会式の握り拳を固めてみせるがいい。それは注目を集め、記憶に残り、論評されるであろう。それでいながら、その論議の内容や性質については完全に忘却されるのである。こうした壊死の過程を断ち切り、ひからびた骨を揺さぶって生きたものとすることこそ、現代の説教者の大目的たるべきである。だが、それはだれもができることではない。流儀や様式をひけらかすことでは、それはなされないであろう。特殊な性格の才質、天才とも云えるものが求められるのである。そして、私たちは何のためらいもなく云うが、スポルジョン氏には、そうした必要なものが尋常なるざるほどにあるのである」。

 それにもかかわらず、分別のある人々が、「この若き説教者の非正統的な表現」のいくつかを、ある程度の疑念をもってみなすことは、きわめて正当なことのように思われたし、よしんば彼らが彼を食わせ者とかやぶ医者だと呼ぶとしても、大目に見られるべきであった。というのも、世間の風評で、この若者は、正規の教育を受けていないとか、生来奔放であるとか云われていなかっただろうか? それでも、彼には何かがあり、彼の伝道活動が成功していることは「嘲る者も押し殺せない」事実であった。なぜ彼はこれほどの成功をおさめていたのだろうか?

 「それは、決してその主題そのものの新奇さではありえない。スポルジョン氏が出現する以前から、それについて詳説していた説教者は何千人もおり、それについて語る書物や小冊子は何百万部もあったのだ。また、何か新しい教理というわけでもありえない。というのも、これはジャン・カルヴァンと同じであり、彼の回りのあらゆる福音派の教派によって宣べ伝えられているものだからである。さらに、これは彼の若さでもありえない。英国の諸教会には、彼と同じくらい若い説教者はごまんといるからだ。そして、それは、こうした講話にちりばめられている、少々の突飛な文章でもありえない。ロンドンには、彼がいまだかつて口にしたことのあるいかなることよりも奇妙奇天烈なことを語る多くの人々がいるからである」。

 それから言及されたのは、スポルジョン氏が集めている平均的な会衆の性格であった。そして、そうした人々は、「尊敬に値する、教会に通う典型的な人々で、公共の注意を引きつけるようなあらゆる主題について、理性的な判断を完全に下すことのできる人々」であるとみなされた。こうした時代を振り返り、スポルジョン氏の履歴の中でも、ことさらに注目に値するこの時期、彼が世間でいかなる種類の人物と目されていたかを思い起こすとき、私は、このような彼の影響力の評価は全く見当違いなものだと思う。この若い説教者について、その独特な経歴の初期の年月の中でも驚くべきことは、彼の影響力が、「尊敬に値する、教会に通う典型的な人々」をはるかに越えて及んでいたという事実であった。「底辺層の人々、無学な人々、文盲の人々、首都の浮ついた軽薄な若者たち」は、彼の口から福音を聞いた多くの人々の間の、ほんの例外などではなかった。全く教会の外にいると思われる階層の人々が、大挙して引きつけられていた。ウォータービーチ出身の若者は、ずっと落ちついた人々にとってと同様、こうした人々にとっても、摩訶不思議な存在となっていたのである。彼の名は、近隣の労働者階級の住む裏通りでも日常云い交わされていたし、公の礼拝などとは無縁で通して来た人々が、他のどの呼び物を追いかけていくのとも同じように「スポルジョンを聞きに」出かけた。この点では、グラスゴーもロンドンと変わりなかった。というのも、何回かの礼拝の間、魅せられたように耳を傾けていたと報じられたおびただしい数の聴衆は、英国における場合と同じく、現実にあらゆる階層、あらゆる年齢の人々からなっていたからである。このような、実証された事実についてはしかるべき注意が払われるべきである。彼の後年の説教の方が、それ以前のものよりもすぐれていたことは認められている。では、何がこのような異常な成功の秘訣だったのだろうか? 『グラスゴー・エグザミナー』は次のような理由をあげた。――

 「第一のこととして、彼には心からの、あけっぴろげな、英国人特有の率直さがあり、それが自分の意見や好悪を何のためらいも隠し立てもなしに口にさせている。機敏で鋭敏な知覚力があり、それが注意を向けたいかなる聖句からも、清新で、胸を打つような例証を引き出すことができる。また、文学作品に広く精通しており、抜群の記憶力に助けられて、一瞬にして話し手にはえり抜きの、最も適切な材料が得られる。そして最後に、声量の豊かさと、よどみない言葉の巧みさがあって、それによって彼は、細心の注意を払いつつ、力強い効果を込めて自分の意見を述べ続けることができているのである。彼よりも正確かつ深遠な論の展開ができる説教者はざらにいるかもしれない。彼よりもすぐれた古典的な典雅さや洗練さを示せる説教者は少なくないかもしれない。だが、彼よりも力強く人々の注意をわしづかみにし、聴衆を自分に共鳴させることのできる人物を私たちはひとりとして聞いたことはない」。

 その評論家は、各講話を自分の見いだした通りに扱った。そして、もしそうした報告に目を通した読者たちが同じことをするとしたら、彼らは、自分が例外と受けとるだろうようなものをほとんど見てとらないものと思われていた。それでも彼は、その手法においてあまりにも独創的であるため、万人を喜ばせるわけにはいかなかった。――

 「福音を宣べ伝えるとは、一、二の枢要な点を同じようにくどくどと述べることであると考える人々や、それはいくつかのお気に入りの教義を厳格に教会的な決まり文句で繰り返すことであると考える人々は、この説教者の様式や思想の自由奔放さや多彩さに怒りを発するに違いない。ありきたりの例話に自分を閉じ込める代わりに、彼は自然に目を向け、科学に目を向け、社会に目を向け、それらから、自分の主題を明らかに説き明かすのに適切であるとみなすものを取り入れる。中世の神学教師や、聖職者や、神学者たちの言葉遣いに自分を閉じ込める代わりに、彼は、大量の文学作品をくまなく捜し、いかなる文章をも決して、それがシェイクスピアだの、スコットだの、ジョンソンだの、否、バーンズだのといった人物によって造り出されたり用いられたりした言葉だからといって、自分の講話の中に位置を占めるのがふさわしくないとみなしたりはしない。これまでは、演劇か、小説か、小唄の中にのみ適切だとみなされてきた言葉遣いが、この説教者にとらえられ、しばしば彼の論議の中に、きわめて独創的かつ、適もふさわしい形で持ち込まれてくるのである。こうした意見や言葉遣いが、いついかなる場合も適切なものであるかを私たちは尋ねようとは思わないが、この事実を指摘するものである。すなわち、彼は、その独立不羈のあまり、それと同等の自由奔放さで、神聖な記者たちの文章も選び出し、その奇蹟的な同化力によって、他の人々から出たならばごちゃ混ぜの、支離滅裂な塊となったであろうところのものが、彼の手にかかると独特のもの、完全なもの、美しいものとなるのである」。

 彼は何の覚え書きも用いていなかったが、彼の講話は構成がすぐれていると思われていた。また、彼は教理を重んじていたが、そうした教え――普通のカルヴァン主義者の教え――は必須のことと思われていた。スポルジョン氏の祈りは、「不敬で、増上慢で、冒涜的な」ものと評されていたが、その種のことは、彼のグラスゴーの評論家によっては全く認められなかった。「それとは逆に、それは正確で、適切で、美しいものであった。彼は確かに通常の講壇の様式に従ってはいないが、その目を社会状況のあらゆる形と段階とに向けて、自分の告白と嘆願と感謝を順応させた。彼は時代特有の罪をも、人間性に固有の不変の堕落をも同じように告白した。居間における罪、会計事務所における罪、公の集会における罪を告白した。種々の階層や性格の人々のための嘆願をささげた。――不品行で無頓着な人々のため、老人や青年や小さな子どもたちのため、諸教会や国々や世のため、そのすべてを何かしら新奇なしかたで嘆願した。彼が特別な祝福のために感謝をささげて、純粋な信仰者以外の何者も自分のものにできないような言葉遣い、また、彼でさえ時にはためらいながら認めざるをえないような言葉遣いを用いている間も、彼は、すべての人があずかるような共通の恩恵、すべての人が授かるような共通の祝福を忘れてはいない」。

 こういうわけで、グラスゴーのこの明敏な観察者は、今この若き説教者と初めて出会ったにもかかわらず、他の一部の人々が非難しているような「不当な無遠慮さ」も、「図々しい不敬虔さ」も、何1つ見つけることができなかった。このようにして彼らは、他の多くの人々が後に知るようになったことを知ったのである。すなわち、新聞のスポルジョンと、現実生活のスポルジョンは必ずしも同一ではない、と。この説教者についてあれほどせっせと報じられてきたあらゆる好ましくない事がらにもかかわらず、今や真実は明らかになった。彼は、「まず類例を見ないような熱心さと、油注ぎと、流暢さと、切迫感」によって特徴づけられる人物であった

 講解の伴った聖書朗読は、説教と同じくらい実に良いものと考えられた。その語気や強調に対する注意も特に際立っていた。聖書朗読には注釈などない方が良いと考える人もいるが、そうした人々にとってさえ、スポルジョン氏の手法には何ら異論の余地あるものではなかったであろう。こういうわけで彼の説教はこう述べられている。――

 「一部の説教者は、講壇上におけるその人物に多くを負っている。その口を開く前から彼らは、ある種の畏怖と敬意を聴衆にいだかせるものを漂わせている。この説教者の風采は、威を払うというよりは興味深い。彼は非常に若々しく、少年めいた顔つきをしている。中背の、どちらかと云えば小柄な方で、その見かけには雄弁家としての肉体的な利点はほとんど、あるいは全くない。しかし、見かけで欠けているものを、彼は実質において有している。彼が語り出すや否や、この上もなく豊かな旋律の音色が聞こえる。朗々たる甘美で音楽的な声があらゆる耳に達し、音の響きに共鳴できる、あらゆる魂のうちに快い情緒を呼び覚ます。声という声の中でも最も卓越したこの声は、完璧に制御されており、その持ち主の思いのままに囁くことも轟くこともできる。そして、その声は音楽のように、そのあらゆる起伏、あらゆる動きに詩情が伴っている。その顔つきは語り――その体全体が共鳴する。その身振りは、口から出たその言葉と完全に同調しており、目はほとんど耳に劣らず、この甘美に流れる雄弁を聞くことができる。三万人の英国人説教者、三百人のスコットランド説教者の中には、これと同じくらい甘美な声が数多くあるし、雄弁術を磨くためにこの上もなく精励してきた者も数多くいるが、彼らは聴衆を惹きつけることができないでいる。スポルジョン氏は、単なる「叫んでいる声」以上の存在である。彼には類いまれな観察力と記憶力と同化力と創造力がある。彼の観察範囲は広く、多様である。彼はその目を、自然のあらゆる様相に向け、科学のあらゆる発見に向け、文学のあらゆる分野に向けて開いているように見受けられる。人の目が眺めることのできるあらゆるもの、人の耳が聞くことのできるあらゆるものが、彼の精神の諸力の上に拭いがたい印象を残しているように思える。その印象は、単に明確に残されているだけでなく、抜きがたく維持されているのである。かつて彼が人生行路で出会ったいかなる山も、いかなる谷も、いかなる本も、いかなる文章も、永遠に彼の記憶に固着してしまうのである。そして固着するだけでなく、驚嘆すべき同化力が精力的に働きかける材料となる。彼の目が見てとる美の形から、それとは異なる、より一層麗しい形が創造されるのである。この上もなく麗しい自然の風景が、洗練されて磨き上げられた空想力の助けによって、さらなる美しさをもって飾られるのである。とうの昔に過ぎ去りった時代から漂い下ってきた数々の思想は、彼の精神というるつぼに投ぜられ、不快な部分を除去され、彼自身の彫像と銘柄を帯びて出てくる。彼のうちには如実に、同化作用に長じた天才の偉大な力があり、時には、さらに高い次元の天才ぶりさえ窺わせることがある。――すなわち、彼自身の精神の明らかなしるしを帯びた、新たで清新な美の形を創造してのける天才である」。

 グラスゴーは、このたびの英国北部への訪問の間、この説教者の本拠となった。そしてこのとき、このスコットランドの商業上の首都には、いまだかつてないほど多くの会衆が集まったと云われる。7月15日の日曜日、朝の礼拝はホープ街のパターソン博士の教会で執り行なわれ、夜の礼拝は西ジョージ街のウォードロー博士の会堂で行なわれた。スポルジョン氏は、その道々眺めたスコットランドの風景に大いに魅了された。彼は北へ向かって、パース、ダンケルド、アバーフェルディに赴いた。そして、最後に言及した場所[アバーフェルディ]で岩々を眺めている間、このような神の力の現れを見て喜びのあまり手を打ち鳴らしたという。しかしながら、彼はスコットランド高地の熱狂を呼び覚ますことには成功しなかった。アバーフェルディでは、町の触れ役が出歩いては、独特のしかたで会衆を呼び集めた。「皆様方の古き遊び仲間、古き馴染みのショーニイ・カーステアズが物申す。皆様方には、七時に独立会堂にお集まりいただき、わが親愛なる友C・H・スポルジョン師の説教をぜひ聞かれたい。師が皆様方に益とならんことを告げるため五百哩を越えて来られたことを思われよ。C・H・スポルジョン師と私自身は、皆様方の来場と、心からの握手を心待ちにしておりますぞ」。その説教の間中、多くの人々は大いに立腹を感じ、祝祷が唱えられるや否や、一同は戸口へ殺到して出て行き、この人気説教とその友ショーニイ・カーステアズはぽつねんと建物に残された。

 この時期の観察者たちがやはり感銘を受けたように思われるのは、この若き説教者が、自分の成功によって野放図にのぼせあがらなかったという事実である。これほどおびただしい数の群衆が自分の足元に集まり、自分の一言半句をも聞き漏らすまいとしている場合、その説教者には、悔悟とともに神の足台のもとに導かれる他の人々と同じ精神に自分自身ではあずからないという危険がなくはなかった。ことによると、この初期の時代の彼には、熱狂的な賞賛者と同じく、激越な誹謗者もいたことが功を奏したのかもしれない。この2つの極端な意見は、絶え間なく公の新聞雑誌に現われ続けていた。それゆえ、ある人はこう述べている。「彼は、背丈が大してなく、顔つきは鈍重で、知性は卑しむべきものだと罵倒される。それと同じ日に、彼の人物は魅力的であり、彼の知力は途方もないものであり、彼の雄弁は圧倒的であると激賞されるのである。彼は、数え切れないほどの声が自分を非難し、数え切れないほどの声が自分を賞賛するのを聞いてきた。多くの毒筆が嫉妬する競敵たちによってふるわれ、多くの甘言が寛大な評論家たちによって記されてきた」。

 その結果、この説教者は自分を過大評価することも、過小評価することもしないようになったと思われる。彼は自分の力を自覚していた。だが彼は、多くの人々が主張するように自分を凡人であると思ってはいなかったものの、自分を持ち上げようとする、いかなる誘惑も感じていないように見えた。疑いもなく、これほど早い時期から彼は、人を高慢な状態に陥らせることから守る神の恵みの力を素晴らしく例示する存在であった。一部の人々の考えによると、スポルジョン氏がその後半生に多くの病を得たのは、彼をへりくだらせておくために必要な一種の肉体のとげであったという。だが、彼の健康が完璧であった青年期の黄金時代においても、彼が用いられなくなるような高慢な状態に陥る危険は全くなかったように思われる。このような初期においてさえ彼は、常に決まってというわけではなかったかもしれないが、しばしば説教謝礼を辞退するのであった。

 この旅行から帰国する前に、スポルジョン氏は一度クライド川で溺死する危険に遭った。「私は一艘の渡し船でクライド川を渡った」、と彼自身が述べている。「その船を操っていた男は、『相当に聞こし召して』おり、船を操ることなど全くできなかった。だのに彼は、二十六人もの乗客を、それよりはるかに少ない人数乗りの船に乗せていたのである*13。私が何人かの婦人の方から知らされたところ、人の噂では私は、川に投げ出され、髪の毛をつかまれて引き上げられたのだという。さて、それは事実ではない。私たちは単に危険な目に遭ったが、ちょっとした締めつけと説諭によって、悪罵や呪詛で恨まれはしたが、無事に陸地に着いたのである」。この遊覧の間には、ウィンダミア湖への旅もなされた。彼が訪れた町という町で、おびただしい数の群衆が引き寄せられ、それはグラスゴーで頂点に達した。同地では、あるときなど、礼拝への入場が許されなかった人が一万二千人もいたという。

 その初期の時代にスポルジョン氏は、しばしば、こうした都市全体の会衆が覚醒することとは対照的なものを見ることがあった。彼は、必ずしも常にあふれるほどの聴衆を集めるわけではなかった。だがそれは、人気がなかったために起こったというよりは、むしろ彼の人気がありすぎたためであった。こういうわけで、彼がエンフィールドを訪れたときには、チェイスサイドの小さな会堂はほとんど空っぽであった。なぜなら、人々は不可避と思われた押し合いへしあいを慮って出席を見合わせたからである。また、ひとりの老婦人の場合、彼女は近くに住んではいたが、この若者の虚栄心をあえて励まさないために欠席をしたのであった*14

 スポルジョン氏がロンドンのニューパーク街で働きを始めた最初の数箇月のことを覚えているある人は、『自由人』誌に投書して、当時の会衆は「おおかた少年少女の聴衆」だったと云っている。この説教者が、まだ「教会全体に完全には『受け入れられ』ていなかった」からである。そこに生み出された印象は、まざまざと記憶されている。「その頃の講壇は古い型のもので、付属室から階段で上っていくものでした。説教者の後で扉が閉ざされるのが、初期の時代のやり方でした」、と述べられている。また、こう云い足されている。「彼の所作は、その講壇の枠内に閉じ込めておくには活発に過ぎて、彼は時々、船の舷墻に腰掛けるように、講壇の端に腰掛けるのでした」。説教は読まれるべきであると主張していた学者たちは、彼の成功によって沈黙させられてしまったようである。あるとき彼は、伝9:4、「生きている犬は死んだ獅子にまさる」、から説教する中でこう述べた。「さて、もし私がこの言葉を語ったのだとしたら、私は粗野で野卑であると非難されるであろう」。彼が自分の主題から引き出した教訓や結論は、常に真剣で実際的なものだったと云われている。「その頃、ロシアの皇帝は死んで横たわっていました。それで私は彼に向かって、その比喩を使ったらきっと役に立ったでしょうねと云ったところ」、とこの初期の友人は云っている。「『なぜ教えてくれなかったんだい?』、と彼は語気を強めて答えました。もちろん私は、その講話がどんな内容になるか自分には知るよしもなかった、と応ずるしかありませんでした」。初期になされた別の説教は、深い印象を生んだと云われているもので、レビ19:19を主題聖句としていた。「二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない」。このように記憶に残り、今でさえなお記憶されている講話の多くは、一度も印刷されることがなかった。ある平日の午後に彼は、とあるバプテスト協会のためにIコリ14:8から説教した。「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう」。それから彼は、アルミニウス主義に対して痛烈な批判を口にしたのだが、この際こそ、故ビニー博士が、かの長く記憶された一言を口にした折であった。「あいつは、私が生まれてこのかた耳にした中でも一番生意気な青二才だわい」。謹厳な人々の中には、この説教者に非常に適切な助言をした人々がいた。「用心することです。あなたは、とても若いのですからね」。スポルジョン氏はこう答えた。「聖書に大罪人として記されているのは、老人でしょうか。若者でしょうか? ノアや、ロトや、ダビデその他の人々がいますね。ですから私は云いましょう。『用心することです。年老いた方々』、と」。 

 この時期に守られた1つの規則、すなわち、敵対的な批判者に応酬しようとしないことは、生涯を通じて守り抜かれた。そして、疑いもなくこのことによってスポルジョンは、多くの苛立ちを感じることなくすんだのである。もしかすると、ちょっとした手間をかければ、偽り伝えられた言葉や逸話を反駁することもできたかもしれない。だが、こうした事がらすら、咎めだてされることなく野放しにされた。このようにして、根も葉もない多くの事がらが事実として受け入れられてきたのである。そのため何年もの間、スポルジョン氏自身の出版社によって発行された彼の「伝記」が、スタンボーンには二百年の間、四人しか牧師がいなかったという話を広めてしまい、この四人という数が八人に訂正されたのは、[スポルジョンによる]『スタンボーンの思い出』が刊行された後であった。

 ニューヨークの『キリスト者同盟』に興味深いスポルジョン氏の懐旧談を掲載したウェイランド・ホイット博士は、この大説教者の初期の時代について多少とも言及している。それは、この箇所で示してよいであろう。――

 「スポルジョン氏にとって、キリスト教信仰は決して、うわべだけのものではなかった。それは常に確固とした、すべてを貫く影響力であり、あらゆるものを明々と照らす色であった。私は、これほど口先だけのもっともらしい偽善を露ほども有していない人とは一度も会ったことがない。彼の語ったあらゆること、彼の行なったあらゆることには、完全きわまりない自然さがあった。ある日、私は彼とロンドン郊外の森を散歩していた。真夏の日を避けて木陰に入ったき、私たちは、通り道に斜めに横たわった丸太に行き当たった。『よしきた』、と彼は、空腹時にパンが目の前に差し出されたかのように自然に云った。『さあ、お祈りいたしましょう』。そして、丸太のそばに膝まづき、魂を神に向け、最も美しい、ほとばしるような、それでいて敬虔な祈りをささげた。それから同じくらい自然に立ち上がり、あれこれ話し合いながら、散歩を続けたのだった。その祈りは、決してちょっと挿入句を差しはさんだようなものではなかった。それは、からだが息をするのと同じように、心の習慣として彼の一部になっているようなものであった。……スポルジョン氏は、この上もなく驚くべき自己統御と自制力の持ち主であった。この点で彼は、常に私にビーチャー氏のことを思い出させた。彼は、いついかなる時も、いかなる状況に臨んでも、完全に自信があるように見えた。……彼の講壇のための備えは、常に礼拝の直前までなされなかった。彼は一度私にこう云ったことがある。すなわち、もし彼が何か大きな祭典において説教するよう六箇月前に指名されたとしたら、その務めの備えのことは、ぴったりその時間になるまでは全く考えもしないはずであった。――その間他の事がらに従事するだろうというのである。このように迅速に自分を制し諸力を糾合する驚くべき力によって彼は、常に変わらず悠然とした心を保っていられた。彼は決して、その場に臨んで失敗するのではないかと恐れることがなかった。彼は、そのときには自分が瞬時に応じられる状態にあると知っていた。それで、緊張したり不安がったりする代わりに、彼の精神は、そこに流れ込んでくるあらゆるものに対して美しく開かれていた。だがしかし、特に若年の頃の彼は、自分の準備が整い、自分の話を聞きに集まって来つつあるはずの群衆に直面しようとする直前には、この上もなく恐ろしい、ほとんどひきつけにも似たような、神経質な懸念を覚えるのが常だった。一度彼が私に告げたところ、その初期の伝道活動の頃の彼は、何年も何年もの間、極度の緊張のあまり、必ずや前もって嘔吐しないではいられなかったという。後年の彼は、こうした神経症の傾向も克服するようになった。スポルジョン氏に関して、何にもまして喜ばしいのは、彼の如実な子どものような信仰であった。自分を通して神がご自分のために大きな事がらをなされることは、彼には母親がわが子の必要を満たしてやるのと同じくらい当たり前のことと思われた。彼は一度私に、自分の種々の事業を維持するために支払わなくてはならない金額について告げたことがある。私たちはしばらく口をつぐみ、唖然として彼を見つめるばかりであった。彼は、母親の手を握っている幼子のように、まるで何も気に病んでいなかった。全く眉根を寄せることはなく、その顔には何の懸念の影もなく、ただ大きな、気立ての良い英国人風の微笑みが浮かんでいるだけだった。私は、彼が養わなくてはならない孤児たち、彼が配慮してやらなくてはならないキリスト者の老婦人たち、彼が払わなくてはならない彼の《牧師学校》の教授たちへの給与、彼が教えるだけでなく、パンと衣類を与えてやらなくてはならない学生たち――その多くが極度の貧しさのために自分では買うことができなかったのだ――について考えていた。私は、ちょっとした驚愕にとらわれて彼に云った。『どうしてあなたは、それほど気楽にしていられるのですか? こうした数々の責任は、押しつぶすような重みとなってあなたにのしかかってはこないのですか?』 彼は、一種の聖なる驚きとともに私を見て答えた。『いいえ。主は素晴らしい銀行家です。私は主に信頼しています。主は今まで一度も私を裏切りませんでした。なぜ心配しなくてはならないことがあるでしょう?』」

 若い頃のスポルジョン氏は、円熟した頃と同じく、「大立者」といった風情を全く漂わせないことによって、多くの人から愛されていた。そして、彼が「信仰の家族」[ガラ6:10]の中の貧しい人々に対して払おうとする注意は、初めからずっと彼を特徴づけていた。これは私がじかによく聞いたことだが、説教のために遠出をしたとき彼は、期待されていたような邸宅でもてなされるよりも、たまたま知り合った極貧の人々とともにお茶を飲む方を選んだ。非常に年若い青年としてポンダース・エンドを訪れたとき彼は、朝夕の礼拝の間の時間のほとんどを、自分の会衆がお茶の会で大いに美食している間も、南通りに住む寝たきりの老キリスト者とともに過ごし、ともに座って会話を交わしていたのである。こうした事がらは、彼に浴びせかけられていた敵対的な批判に答えて余りあるものであった。

  


*1 『バプテストの使者』、第2巻、25。[本文に戻る]

*2 『自由人』、1月24日、1855年。[本文に戻る]

*3 『世界』、3月22日、木曜日、1855年。[本文に戻る]

*4 『バプテストの使者』、第2巻、54-55での引用。[本文に戻る]

*5 『バプテストの使者』、第2巻、72。[本文に戻る]

*6 W・レモン・オリヴァー、『バプテストの使者』、第2巻、74にて。[本文に戻る]

*7 「地方の一牧師」。『バプテストの使者』、第2巻、73 に掲載。[本文に戻る]

*8 『バプテストの使者』、第3巻、36。[本文に戻る]

*9 J・デ・キューアー・ウィリアムズ、「わが友スポルジョン」、『バプテスト』、1892年3月11日号に掲載。[本文に戻る]

*10 『土の器』、第11巻、204。[本文に戻る]

*11 『土の器』、第11巻、204 における「B」氏の意見。[本文に戻る]

*12 『チャールズ・ウォルターズ・バンクスの生涯』、p.135。ある折に、『市中新聞』の編集者W・H・コリングリッジ氏への手紙の中で、バンクス氏は自分について以下のような愉快な評伝を述べている。――
 「あえて断言しますが、世間のいかなる人にもまさって珍無類の開拓者・出版人・故ウィリアム・マドフォード殿(その子息が今の『スタンダード』誌の編集者です)の編集助手・英国およびウェールズその他の講壇説教者の見本は、この小さな、時代遅れの、刻苦勉励する、六十五歳の、チャールズ・ウォルターズ・バンクスという風変わりな名をした、あなたのしもべです。あなたは彼のことを覚えているでしょうか? 十四歳の時には、クランブルック教会の合唱歌手をし、『探求者』というユニタリアン派の最初の雑誌の印刷業者兼発行者となり、『小ケントの森林地帯』という、最初に知られた地方誌の編集者・印刷業者・発行者となりました。カンタベリーで私は、故モールズワース博士のために、英国国教会最初の一銭刊行物、『一銭日曜読者』を印刷し、何十万部も発行しました。保守派の大執筆者ウィリアム・マドフォード殿のもとで、私は『ケント州タイムズ』、『ケント州オブザーバー』、『カンタベリー・ジャーナル』、『カンタベリー・マガジン』の編集助手を務めました。マドフォード氏は、私が説教するのを聞きによくやって来られては、私の云ったこと行なったことすべてに同感だと云い、ただし「アーメン」の発音だけはよろしくないと云うのでした。「アウメン」と発音すべきだというのです。ロンドンで私は、ほぼ四十年前に、『キリスト者の私室』という最初のキリスト教一銭週刊誌を創刊し、編集し始めました。また、『土の器』誌の創刊者兼たったひとりの編集者兼所有者として四十年以上も働いています。この雑誌は、今では何千部単位で、英語圏全域に発送されています。また、三十三年間、『はげましの言葉』の編集者兼所有者をしています。この小さな子は、多くのあばら屋にもぐりこみ、また貴婦人たちの告げるところ、いくつかの邸宅にも入りこんでいるそうです。こうしたことを聞くと、悲しみに打ちひしがれそうなときなどは励まされます。もし私の仕事と戦いのすべてが書き記されたとしたら、私のいたく苦しんできたことが明らかになることでしょう。しかし、神が私を召されたいかなるわざにも、いまだ子どものように元気に喜んで当たっています。編集者を六十五年間、説教者を五十三年間務めて、どちらもまだ現役であり、神の多くの貧しい民に施しを分配してきました」。――『チャールズ・ウォルターズ・バンクスの生涯』、pp.41-42。[本文に戻る]

*13 「彼の決然たる性格を窺わせる事件が、その北方旅行の間に起こった。クライド川の渡し守が十二人までしか乗れない船に二十六人もの人々を乗せていること、また、その男が酩酊していることを知ったスポルジョン氏は、男から櫂を取り上げ、さんざん悪態をつかれたにもかかわらず、これほど多くの人命をそのような不確かな手に握られるわけにはいかないと云い張ったのである」。――『愛国者』、1855年9月21日号。[本文に戻る]

*14 この種の事例は、もう一度起こった。約三十年前に、ウィリアム・ウィンターズは、チャールズ・ウォルターズ・バンクスにこう書いている。「サリーガーデンでの災厄からほどなくして、スポルジョン氏がチェサントの大学小路――当時はウォーター小路――にある厳格バプテスト会堂で説教するためにやって来たときには、実に異様なことに、きわめて僅かな人々しか彼の話を聞きにやって来ませんでした。だれもが、その会堂は群衆で滅茶苦茶に混み合うだろうと考えたのです。その結果、彼は非常に少人数の聴衆を相手に説教せざるをえませんでした。そして彼は、講壇に立つや否や、激しい差し込みに襲われるのを感じ、いつもの率直さによって、それが『どっとやって来た』と云いました。その後しばらくしてから、同地で私は、彼が説教するのを生まれて初めて聞きましたが、そのときには素晴らしい会衆が集まりました」。――『チャールズ・ウォルターズ・バンクスの生涯』、p.154。[本文に戻る]


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