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キリストを覚えて

NO. 2

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1855年1月7日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。――Iコリ11:24


 ということは、キリスト者がキリストを忘れることもあると見える。この聖句の含むところ、キリスト者には、その感謝と愛情からして覚えていずにはいられないはずのお方を忘却する可能性があるのである。本来なら、この愛のこもった勧告は不必要だったかもしれない。だが恐ろしいことに、私たちの記憶はあてにならず、私たちの物覚えは底の浅い性格の、移ろいやすい性質をしたものであると思われるのである。また、単にそう思われるどころか、悲しいかな、これはあまりにも私たちの経験において、1つの可能性ではなく、嘆くべき事実としてはっきり認められるのである。一見するとこれは、いやしくも回心した人々の犯す罪悪としては、あまりにも毒々しすぎるように思える。死に行く《小羊》の血によって贖われた人々が、自分の《贖い主》を一瞬たりとも忘れることがあるとか、永遠の《神の御子》から永遠の愛によって愛されてきた者たちが、一瞬たりともその御子を忘れることがあるなどというのは、ほとんど不可能に見える。だがそれは、たとい耳にとっては驚くべきものと聞こえようとも、悲しいかな、目にとっては、あまりにもあからさまで、否定しようのない事実にほかならない。私たちを決して忘れることのないお方を忘れる! ご自分の血を私たちの罪のために注ぎ出されたお方を忘れる! 死に至るまでも私たちを愛されたお方を忘れる! そのようなことがありえるだろうか? しかり。それは可能であるばかりか、良心の告白するところ、私たちはみな、他の何を覚えていてもキリストだけは忘れてしまうという、あまりにも悲しい過ちを犯すものである。私たちは、自分の心の君主とすべき対象を、あろうことか何にもまして忘れがちなのである。ここなら記憶はすたれず、無頓着さも決して闖入して来はすまいと考えられるところこそ、物忘れによって踏みにじられている点であり、あまりに記憶の顧みること少ない場所なのである。私はこの場のあらゆるキリスト者の良心に訴えたい。あなたは、私が口にしていることの真実さを否定できるだろうか? あなたがたは、自分がイエスについて忘れがちであることに気づいていないだろうか? 何らかの被造物があなたの心を盗んでおり、あなたは、自分の愛情を注ぐべきお方について無頓着になっている。十字架に堅く目を据えておくべきときに、何らかの地上的な取引があなたの注意を奪っている。絶えず寄せては返す世間の波、波、波、また年がら年中がなりてる地上の音、音、音が、魂をキリストから奪ってしまう。おゝ、愛する方々。これは悲しすぎるほど真実ではないだろうか? 私たちは、何を思い出せてもキリストについてだけは忘れてしまい、私たちが何にもましてあっさり忘却してしまうのは、私たちが是が非でも覚えていなくてならないお方なのである。記憶の中に、毒入りの雑草ははびこっているのに、《シャロンの薔薇》は枯らされているのである。

 この原因は明々白々である。それは、一、二の事実に存している。私たちがキリストを忘れるのは、たとい真に新生した者であっても、なおも腐敗と死が、新生した者の中にすらとどまっているからである。私たちが主を忘れるのは、私たちが罪と死との古いアダムをかかえているからである。もしも純粋に新しく生まれた者であったとしたら、私たちは、決して自分の愛するお方の御名を忘れはしないはずである。もし完全に新生した存在だったとしたら、自分の《救い主》が行なわれ、苦しまれたすべてのこと、また、いずれ行なうと輝かしく約束してくださったすべてのことについて、じっと思い巡らし、決してとりとめない思いにふけったりしないはずである。1つの目標に永遠に心を束ねられ、釘づけられ、固定されて、自分の主の死と苦しみを絶えず黙想していたはずである。しかし、悲しいかな! 私たちの心には一匹の寄生虫が巣くっている。私たちの内側には、悪疫病棟があり、納骨所があり、種々の情欲があり、腐敗があり、よこしまな想像力があり、強大な悪しき情動があり、それらは、毒水の泉のように絶えず不潔な流れを湧き出させているのである。神はご存じだが、私の中にある心、それは私が自分の肉体からもぎ取って、無限の彼方にぶん投げてやりたいと願うようなものである。私の魂、それは汚れた鳥たちの洞穴、おぞましい生物どもの巣窟、龍たちが出没し、梟たちが寄り集まり、あらゆる不吉な悪獣たちのねぐらである。この心は、何ともくらべようがない。――「何よりも陰険で、それは直らない」[エレ17:9]。これこそ、私がキリストのことを忘れがちな理由である。また、それが唯一の原因でもない。別の理由もあると思う。私たちがキリストを忘れるのは、私たちの注意を引きつけるものが私たちの周囲に多すぎるからである。あなたは云うであろう。「しかし、そんなことがあるはずありません。確かにそれらは私たちの周囲にありますが、イエス・キリストにくらべれば無にも等しいものです。確かにそれらは恐ろしいほど私たちの心の間近にありますが、キリストにくらべればそれが何でしょう?」 しかし、愛する方々。あなたは知っているだろうか? ある物の近さは、それが有する力にとって非常に大きな効果をもたらすのである。太陽は、月よりも何倍も何倍も大きなものだが、潮の満干に対して、月は太陽よりも大きな影響を及ぼしている。なぜなら、近くにある月の方が、より大きな引力を発揮するからである。それと同じく、私の見るところ、地べたを這いずる小さなうじ虫の方が、天におられる栄光に富むキリストよりも大きな効果を私の魂に及ぼす。手のひら一杯の砂金や、一場の名声、拍手喝采、商売繁盛、わが家、わが家庭、といったものが私に及ぼす影響の方が、天上の世界のあらゆる栄光のそれよりも大きい。しかり。かの至福に輝く幻そのものよりも大きい。なぜなら、地上は近く、天上ははるか彼方にあるからである。幸いな日よ。私が御使いたちの翼に乗って高く引き上げられ、私の主の間近に永遠に住むようになり、主の微笑みの陽光に浴し、主の麗しい御顔の云い知れない光輝に呑み込まれるそのときは。さて、ここに忘れやすさの原因は明らかになった。私たちは、そのことのゆえに恥じ入ろう。これほど自分の主をないがしろにしていることを悲しもう。そして、いま主のこの言葉、「わたしを覚えて、これを行ないなさい」、に心を傾けよう。その厳粛な響きの魅惑によって、卑しい忘恩の悪霊が追い出されてしまうことを期待しよう。

 私がまず第一に語りたいのは、このように記憶すべき、ほむべき対象についてである。第二に、この《お方》を覚えていることから引き出される益についてである。第三に、私たちの記憶に対する、恵み深い助けである。――「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。そして、第四に、この優しい命令である。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。願わくは聖霊が私の唇とあなたがたの心を開いてくださり、私たちに祝福を受けさせてくださるように。

 I. まず第一に語りたいのは、《この栄光に富む、尊い、記憶の対象》についてである。――「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。キリスト者には、記憶という小部屋にしまい込んでおくべき宝物がいくつもある。彼らは自分の選びを覚えているべきである。――「時の始まる以前から神に選ばれ」。彼らは自分が引き抜かれたことを心に留めておくべきである。彼らは、ぞっとするような穴から切り取られた泥まみれの土くれから取り出された。彼らは自分の有効召命を思い起こすべきである。彼らは神によって召され、聖霊の力によって救出されたからである。彼らは自分の受けた種々の特別な解放を覚えているべきである。――彼らのためになされたすべてのこと、彼らに授けられたすべてのあわれみを覚えているべきである。しかし、彼らが自分の魂の中で最も高価な香料に浸して永久保蔵すべきお方がいる。――他のあらゆる神の賜物にまして、永遠に覚えておくに値するお方がいる。私がお方と云ったのは、それが何かなされたわざのことではないからである。行為のことではないからである。否、それはひとりの《人格》であり、そのお方の肖像を私は、黄金の額に入れて、魂の大広間にかけておきたいと思う。むろん私は、あなたが勝利のメシヤのあらゆる行為を熱心に学ぶ者となってほしい。私たちの《愛するお方》の生涯について精通してほしい。しかし、おゝ、この方ご本人を忘れてはならない。というのも、この聖句は云っているからである。「《わたしを》覚えて、これを行ないなさい」。栄光に富むキリストご自身こそ、私たちが覚えておくべき対象にほかならない。主の像こそ、聖霊のあらゆる神殿に祭られるべき像である。

 しかし、ある人々は云うであろう。「いかにして私たちはキリストご本人を覚えておくことができるのか? 私たちはキリストを一度も見たことがないのに。私たちは、キリストの顔立ちの独特の造作がわからない。キリストの容貌は、他のいかなる人よりも美しかったであろうと私たちは信ずる。――悲しみと苦難によって、いかなる人よりも損なわれていただろうが。だが、見たことがない以上、それを覚えておくことなどできない。私たちは、キリストがそのあわれみの旅を踏みしめて行かれた御足を一度も見たことがない。あふれるほどのいつくしみをもって伸ばされたその御手を一度も見たことがない。熾天使の雄弁も越えて群衆を恐れかしこまらせ、彼らの耳をとりこにした、その声音の素晴らしい抑揚を覚えておくことはできないし、かつてキリストの唇に浮かんでいた甘やかな微笑みを思い描くことも、キリストがパリサイ人たちに向かって呪いを宣告した際の恐ろしい不興の色を思い描くこともできない。キリストが苦しみや苦悶を忍んでいる際の様子も覚えておくことはできない。私たちは一度もキリストを見たことがないのだから」、と。よろしい。愛する方々。確かにあなたは、そのときには生まれていなかったのだから、見た目を覚えていることはできないと思う。だが、あなたは知らないのだろうか? 使徒ですら、かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしない、と語っていることを[IIコリ5:16]。生来の見かけや、特徴や、血統や、貧困や、粗衣などは、使徒がその栄光に富む主についていだいていた思いの中では無に等しかった。こういうわけで、あなたは、たとい主を人間的な標準で知らないとしても、主を霊的な標準で知ることはできる。このようなしかたであなたは、ペテロや、パウロや、ヨハネや、ヤコブや、その他、主の御足の後を踏み、主と肩を並べて歩み、主の御胸に頭をもたせた、お気に入りの者らのだれかれに全く劣ることなくイエスを覚えていることができるのである。記憶は、距離などないものと考え、時を跳び越える。そして、栄光のうちにあげられている主をすら仰ぎ見ることができるのである。

 あゝ! 5分ほどかけてイエスを思い出してみよう。そのバプテスマにおける主を思い出してみよう。そのとき、ヨルダン川の水の中に入られた主には、こう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[マタ3:17]。その流れから、ぽたぽた雫を垂らしながら上がられた主を見るがいい。確かに水に意識があったとしたら、それは自分の神をお包みしたことに恥じ入ったに違いない。主は一瞬の間、その波間の中で眠り、バプテスマという墓所を神聖なものとしてくださった。その墓所の中にこそ、キリストとともに死んでいる者たちは、キリストとともに葬られるのである[ロマ6:3-4]。また、その浸礼の後で直行なさった荒野における主を思い出してみよう。おゝ! 私はしばしば、その砂漠の情景を思い浮かべてきた。キリストが衰えやつれて腰をおろしたのは、どこかの古木のふしくれだった木の根っこだったかもしれない。四十日間断食した後で、主は空腹になられた。そこに、その弱さの極みにあるときに、悪の霊がやって来た。彼は、その魔王めいた様相を、どこかの年老いた巡礼の風体にやつしていたかもしれない。そして彼は石ころを1つ手に取ると、こう云った。「やつれた巡礼よ。もしあなたが神の子なら、この石に、パンになれと云いつけなさい」。その姿が目に見えるようである。抜け目ない微笑みと、悪意のこもった流し目をもって、彼はその石を手にとって、こう云っているのである。「もし」――何たる冒涜――「もしあなたが神の子なら、この石に、わしとあなたの食べ物になれと云いつけなさい。わしらはふたりとも飢えておるし、それは慈悲の行ないですぞ。あなたになら、お茶の子さいさいのことでしょうが。その言葉を云いなさい。そうすれば、それは天のパンのようになるでしょう。わしらはそれを食べて、あなたとわしは永遠の友となりましょうぞ」、と。しかしイエスは云われた。――そして、おゝ、いかに甘やかにそう云われたことか――、「人はパンだけで生きるのではない」。おゝ! いかに素晴らしいしかたでキリストは誘惑者と戦われたことか! それは空前絶後の戦闘であった。激しく刃を切り結ぶ決闘、――全力を尽くした一騎打ちであった。――獅子の穴の最強の獅子とユダ族の強力な獅子とが互いに戦ったのである。何と壮烈な光景! 御使いたちは、傑出した戦士たちの武芸大会に座して見入った古の人々のように、この華々しい光景の周囲に立って目を凝らしていた。そこでサタンは渾身の力を込め、ここでアポリュオンは、その悪魔的な力を結集させ、この大格闘において、かの女の子孫[創3:15]を投げ倒そうとした。しかしイエスは、彼の手に負える相手ではなかった。その格闘によって悪魔に致命的な転倒をくらわし、圧倒的な勝利者となられた。神の小羊よ! 私は次にサタンと戦うとき、砂漠におけるあなたの奮闘を思い出すであろう。次にほえたける悪魔と争闘するとき私は、ここで決定的な勝利をおさめ、この龍のかしらを苛烈な一撃でお砕きになったお方に目を向けるであろう。

 さらに私はあなたに願う。主がその一生続く闘争の間に経てこられた日々の誘惑と、一刻ごとの試練を思い出すがいい。おゝ! キリストの死の何と大きな悲劇であったことか! そして、その生涯もそうではなかっただろうか? 歌によって幕を開けたそれは、「完了した」との悲鳴とともに幕を閉じた。かいばおけの中で始まり、十字架上で終わった。だが、おゝ、その間の悲しい合間よ! おゝ! 暗黒の迫害絵図よ。その中で、主の友人たちは主を忌み嫌い、主の敵たちは通りを歩く主に苦虫をかみつぶしたような顔を向け、主は、主を罪人呼ばわりする囁き交わしを耳にし、嫉妬という悪臭を放つ歯で噛まれ、悪霊つきだの狂人だのと中傷され、酔いどれだの大酒飲みだのと誹謗され、――主の義なる魂は悪人のふるまいによって悩まされた。おゝ! 神の御子よ。あなたが私のために生きてくださった、この辛苦と困難の歳月を思うとき、私はあなたを覚えていなくてはならない。覚えていざるをえない。しかし、あなたがたも私のえり抜きの主題を知っているであろう。――それは、私が常に最もよくキリストを覚えていられる場所である。それは橄欖の木が生い茂る、木陰につつまれた庭である。おゝ、その所よ! あなたをそこへ連れて行ける雄弁が私にあれば、どんなにいいことか! おゝ! もしも御霊が私たちをさらって行き、エルサレムの山々のごく近くに下ろしてくれさえするなら、私は云うであろう。あのキデロンの流れを見るがいい。そこを王ご自身がお渡りになったのだ、と。――また、そこにあなたは橄欖の木々を見るであろう。もしやその橄欖の根元に、あの三人の弟子たちが横たわって眠っていたのかもしれない。そして、そこに、あゝ! そこには血のしたたりが見える。ここにしばし立つがいい。わが魂よ。その血のしたたりを――お前はそれを見ているだろうか? よく見るがいい。それらは傷を受けての血ではない。――そのときには無傷のからだをしていた人の血である。おゝ、わが魂よ。苦悶と汗まみれになって、ひざまずいていたこのお方を思い描くがいい。――汗は、この方が神と格闘しておられたしるしである。――御父に必死の訴えをしておられたしるしである。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」[マタ26:39]。おゝ、ゲツセマネよ! お前の暗がりは私の魂にとって深く厳粛である。しかし、あゝ! その血のしたたりよ! 確かにこれは悲惨さの高まった極みである。それは、この驚異のいけにえの大いなる行為の極みである。愛はこれよりも深く進めるだろうか? それよりも大きなあわれみの行ないにまで身を屈められるだろうか? おゝ! 私にその雄弁があれば、そこにある血の一滴一滴に舌を授けるであろう。――そしてあなたの心をして、自分の無気力さと冷淡さに反抗して立ち上がらせ、燃えるイエスの思い出を熱心に語らせるであろう。そこで、ゲツセマネに別れを告げよう。

 しかし私は、あなたをもう少し別の場所に連れて行くであろう。そこであなたは、なおもこの「悲しみの人」を見つめるはずである。私はあなたをピラトの公邸に案内し、この方が残虐な兵士たちの嘲弄を忍んでおられる姿を見せるであろう。鎧の手袋で強打され、握り拳で殴打され、辱められ、つばを吐きかけられ、髪の毛を引き抜かれ、残虐な乱打を受ける。おゝ! あなたには《殉教者たちの王》が思い描けないだろうか? その衣服を脱がされ、――鬼畜のごとき者らの凝視にさらされているお方が。あなたは、そのこめかみの周りの王冠を見ていないだろうか? そのとげの一本一本が槍状刀のように頭部に突き刺さっているのを見ないだろうか? この方のずたずたに切り裂かれた肩と、血塗れの肉から飛び出し始めた白い骨が見えないだろうか? おゝ、人の子よ! 私はあなたが鞭と笞で打ち叩かれるのを見ていながら、いかにしてこれからあなたのことを覚えているのをやめられるだろうか? 私の記憶が、常にエッケ・ホモ――「この人を見よ」――と叫ばないとしたら、それはピラトよりも柔弱なものであろう。

 さて、この悲哀の場面のしめくくりにカルバリを眺めるがいい。突き通された両手と、血を流す脇腹を思うがいい。身を焦がす日差しと、その後の完全な暗黒を思うがいい。焼けつくような熱と、すさまじい渇きを思い出すがいい。あの死の悲鳴を、「完了した!」を、そしてその前奏曲であった数々の呻きを思うがいい。これこそ記憶すべき対象である。私たちは決してキリストを忘れないようにしよう。私は願う。キリストの愛ゆえに願う。キリストには、あなたの記憶の主たる位置を占めていただくがいい。この偉大な価値ある真珠を、あなたの不注意な手から転げ落として、忘却の暗い海洋に落ち込ませないようにするがいい。

 しかしながら私は、この項目を後にする前に、もう1つのことを云わずにはいらない。それは、あなたがたの中の一部の人々についてである。あなたは、私が今まで述べてきたことをあらかた記憶しておけるであろう。それを以前からしばしば読んできたし、しばしば聞いてきたからである。だが、それでもあなたは、キリストについて何1つ霊的に覚えていることができない。なぜなら、あなたにはキリストが一度も明白に啓示されたことがなく、人は自分が全く知りもしないことを覚えることは決してできないからである。神は感謝すべきかな。私はあなたがた全員についてそう云っているのではない。というのも、この場には、恵みの選びによって残されている敬虔な民がいるからである。そして、そうした人々に私は目を向けるものである。ことによると、私はあなたに、どこかの古い納屋か、生け垣か、農家について語れるかもしれない。あるいは、もしあなたがずっとロンドンに住んでいたというなら、どこかの屋根裏部屋か、どこかの暗い路地や通りについて語れるかもしれない。そこで初めてあなたはキリストに出会ったのである。あるいは、そこであなたは、どこかの会堂にさまよい込んだのである。そしてあなたはこう云えるであろう。「神よ、感謝します。私は、主が初めて私に出会ってくださったときの席を思い出せます。初めて私の魂に愛の囁きを語りかけ、ご自分が私を買い取ったと告げてくださったときのことを思い出せます」、と。

   「イエスが汝れに 最初に出会いし
    ところと場所を きみは思うや」

しかり。そして心から私は、その地点に神殿を建て、そこに何らかの記念碑を据えたいと思う。そこで、エホバ-イエスが初めて私の魂に語りかけ、ご自分を私に現わされたのだ、と。しかし、神は一度ならず私にご自身を啓示してくださった。――そうではないだろうか? そしてあなたは、主が以前からあなたの前に現われ、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」、と云ってくださった、いくつもの場所を思い出せるはずである[エレ31:3]。あなたがたの全員がそうした事がらを思い出せないとしても、あなたがたの中のある人々には思い出せるはずである。そしてその人々は、私が、「来て、キリストを覚えてこのことを行なうがいい」、と云うとき、私の云わんとすることをわかってくれるものと私は確信するものである。――愛に満ちた主の訪れのすべてと、主の甘やかな求愛の言葉と、あなたに向けられ、あなたをとりこにする主の微笑みと、主があなたの魂に語りかけ、伝えてくださったすべてのこととを覚えて、これを行なうがいい。もしも記憶に、恵みの一切合切をかき集めることが可能だとするなら、今晩、こうしたすべての事がらを覚えるがいい。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」[詩103:2]。

 II. 私たちの記憶のほむべき対象について語ったので、二番目に私たちは、《キリストを愛に満ちて覚えることから引き出される益》について多少とも語っていこう。

 愛は決して、「Cui bono? [そこに何の利があるのか]」、とは云わない。愛は決して、それがいかなる利益を愛から引き出すのか尋ねはしない。愛はその性質上、私欲のないものである。それは、自分の愛する相手のために愛するのであって、他の何のためでもない。キリスト者には、キリストを愛するための何の理屈も必要ない。母親がわが子を愛するのに何の理屈も必要ないのと全く同じである。母親がそうするのは、それが母親としての性質だからである。新しく生まれた被造物はキリストを愛するに決まっている。愛さざるをえない。おゝ! イエス・キリストの比類なき魅力にだれが抵抗できるだろうか?――万人にまさって美しく、万人にまさって麗しいお方に。この完璧な君主、美の鏡、尊厳に満ちた神の御子を崇めるのをだれが拒否できようか? しかし、なおも私たちにとっては、キリストを覚えることの種々の益を観察することは役に立つであろう。というのも、それらは決して少なくも小さくもないからである。

 それでは第一に、キリストを覚えることは、自分の罪の重荷に苦しんでいる人に希望を与えるものである。今晩、この場にいる何人かの人々に注意してみるがいい。そこにあわれな様子をした人が来ている。見るがいい、その人を! その人は、この一箇月というもの、自分のことなど全くかまいつけていない。まるで何日もまともにパンを食べていないように見える。何があなたの問題なのだろうか? その人は云う。「おゝ! 私はずっと自分の咎にのしかかられるように感じています。私は何度となく悲嘆に暮れてきました。自分が決して赦されないのではないかと恐れているからです。――以前は自分が善人だと思っていましたが、聖書を読んでいくと、自分の心が『何よりも陰険で、それは直らない』ものだとわかったのです。私は、心を入れ替えてやり直そうとしましたが、努力すればするほど、深く泥沼に沈んでいくのです。私には全く何の希望もありません。自分は、何のあわれみも受ける価値がない気がします。――神は私を滅ぼして当然だと思います。神はこう宣言しておられるからです。『罪を犯した者は、その者が死ぬ』[エゼ18:4]。だから私は死ななくてはなりません。さばかれなくてはなりません。私は自分が神の律法を破っていると知っているのですから」。あなたがたは、いかにしてこのような人を慰めるだろうか? いかなる優しい言葉をかけてこの人を落ちつかせるだろうか? 私は知っている! 私はその人に、キリストを思い出すよう告げるであろう。その窮状の莫大な負債を払ってくださったお方がいることを告げるであろう。しかり。私は、たとい今までのあなたが酔いどれであれ、悪態つきであれ、何であれ、こう告げるであろう。――あなたのために、完全な贖いを成し遂げてくださったお方がいるのだ。もしあなたがこのお方を信じさえするなら、あなたは永遠に安全になのだ、と。このお方を覚えておくがいい。あわれな、死につつある、望みなき者よ。そうすればあなたは、喜び楽しみながら歌わさせられるはずである。見るがいい。その人が信じているのを。そして陶酔のうちに叫んでいるのを。「おゝ! 神を恐れるすべての人たち。来てください。わたしはあなたがたに、神が私の魂に何をなさったかを告げましょう」。

   「告げよ。罪人らに告げよ。
    われは 確かに地獄を出たり」。

ハレルヤ! 神は私のもろもろの罪を群雲を晴らすように拭い去られた! これこそ、キリストを覚えていることから引き出される1つの益である。それは私たちが罪意識にのしかかられるときにも希望を与え、いまなおあわれみがあると告げてくれるのである。

 さて、私は、もうひとりの人物を示さなくてはならない。さてその人は何と云うだろうか? 「私はこれ以上もう耐えられません。――私は迫害を受けてきました。意地悪されてきました。私がキリストを愛するからというので、私はあざけられ、笑い者にされ、さげすまれています。私はそれをがまんしようと努めてきましたが、もう絶対にできません。人間として耐えられないことがあります。一寸の虫にも五分の魂です。私の堪忍袋の緒はほとんど切れそうです。今の私の立場は異常すぎて、忍耐するよう忠告されても何の役にも立ちません。忍耐することなどできないからです。私の敵たちは私を中傷しており、私はどうすればいいのかわかりません」。このあわれな人に対して、私たちは何と云うだろうか? いかにしてこの人に忍耐を与えるだろうか? この人に何と説き教えるだろうか? あなたがたは、この人が自分についての思いのたけをぶちまけるのを聞いた。これほど大きな試練のもとにある人を、私たちはいかにして慰めるだろうか? もし私たちが同じ目に遭っているとしたら、私たちは友のだれかには何と云ってほしいだろうか? 私たちはその人に、他の人々も同じくらい我慢しているのだよ、と告げるだろうか? その人は、「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」、と云うであろう[ヨブ16:2]。否。私はその人に告げるであろう。兄弟よ。あなたは迫害されている。だが、イエス・キリストの言葉を思い起こすがいい。いかに彼が私たちに語っておられるかを思い出すがいい。「その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました」[ルカ6:23; マタ5:12]。私の兄弟よ! 考えるがいい。死にたもう際に、自分を殺そうとする者たちのためにこう祈られたお方のことを。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:34]。あなたが忍ばなくてはならないすべてのことは、彼の大いなる苦しみにくらべれば無に等しい。元気を出すがいい。男らしくそれに立ち向かうがいい。決して死ぬなどと云ってはならない。忍耐をなくしてはならない。日々あなたの十字架上を負い、キリストについて行くがいい[ルカ9:23]。キリストをあなたの座右の銘とし、キリストをあなたの目の前に置いておくがいい。では今、こうしたことを受け取って、その人が何と云うか聞くがいい。その人は、たちまちあなたに云うであろう。「ごきげんよう、迫害よ。ようこそ、辱しめよ。イエスのための不面目は私の栄誉、嘲りは私のいや高い栄光となるでしょう」。

   「いま愛ゆえに われ御名を帯び
    利益(とく)たりしもの 損とせん。
    わが恥をみな われはさげすみ、
    わが誉れを主の 十字架につけん」。

おわかりであろう。キリストを覚えておくことには、もう1つの効用があるのである。それは、私たちに、迫害を受けつつある際の忍耐を与えてくれる。それは腰を引き締める帯となり、私たちの信仰を最後まで持ちこたえさせるのである。

 愛する方々。さらにいくつかの益に詳細に立ち入れば、あなたがたの時間を取りすぎることになるであろう。それで私は、受けるべき祝福の1つか2つを小走りに眺めるだけにしよう。それは、私たちが誘惑に遭う際に私たちを強めてくれるであろう。私の信ずるところ、いかなる人も、すさまじい誘惑の時期に至る時がある。大海原の上で過ごしたことのある船であれば、一隻残らず、時おりは嵐と戦わなくてはならなかったはずである。そこに船がある。古い帆船である。怒り狂う荒波の上で激しく揺さぶられている。怒濤がいかにその船を波から波へ投げ渡し、いかにひっきりなしに中天に放り上げているかを見るがいい。風はその船をあざけり笑う。老いた大海はその船を、ぽたぽた滴の垂れる指先でつまみ上げ、前後左右に揺する。水夫たちがいかに恐怖して叫ぶことか! あなたは知っているだろうか? いかにすれば、この波打つ水に油を注ぎ、すべてを鎮めることができるかを。しかり。1つの力強い言葉がそうすることができる。イエスに来させるがいい。そのあわれな心に、イエスのことを思い起こさせるがいい。すると、その船は安定して航海するようになる。というのも、キリストが舵をお握りになるからである。風はもはや吹かなくなる。キリストが、その大口に向かって、黙れ、とお命じになると、二度とそれらは、キリストの《子ども》を悩ませはしない。誘惑において、何にもましてあなたを強くし、あなたが嵐を乗り切る助けとなるものは、神の受肉した御子、イエス・キリストの御名にほかならない。それと同じく、それは――キリストの御名は――病床についたあなたに、いかなる慰めを与えてくれることか! それによってあなたは、自分の看病をしてくれる人々に忍耐強くなることができ、耐えなくてはならない苦しみを辛抱できるように助けられるであろう。しかり。それがあなたから離れないので、あなたは、健康のときよりも病気のときの方が大きな希望を有し、苦い胆汁の中にあってもほむべき甘やかさを見いだせるほどであろう。あなたは困難によってむかつきを感ずるかわりに、神があなたに負わせたあらゆる試練と困難のただ中にあっても蜂蜜の甘やかさを見いだすであろう。神は「夜には、ほめ歌を与え」てくださるからである[ヨブ35:10]。

 しかし、キリストを覚えておく利点のしめくくりとして、あなたは、あらゆることの中でどこで最も益を受けるか知っているだろうか? あなたがもっぱら、キリストについて考えるたびに喜ぶことになる場所がどこか知っているだろうか? 私はそこにあなたを連れて行こう。シーッ! 静かに! あなたは階段を上って孤独な部屋に入っていこうとしている。帳が下りている。だれかがそこに立って泣いている。子どもたちが寝床の周りにいて、友人たちもそこにいる。横たわっている人が見えるだろうか? それはあなた自身である。見るがいい。その目はあなたの目であり、その手はあなたの手である。それはあなた自身である。あなたはすぐにそこに行くことになる。人よ! それはあなた自身である。見えるだろうか? それがあなたの姿である。それが、まもなく死んで閉ざされようとしているあなたの目である。――硬くなり、何の動きもしなくなろうとしているあなたの手である。――乾いて、ひび割れて、人々が水の滴を垂らすことになるだろう、あなたの唇である。それが、空中にたたずんでから、ゆっくりと、あなたの死につつある唇に落ちてくる、あなたの言葉である。あなたがそこでキリストのことを覚えていられるかどうかと私は思う。もし覚えていられないとしたら、そのあなたの姿を私がありありと描き出してみよう。寝床で身をこわばらせているその人を見よ。――見るがいい。その人の両目が今にも飛び出しそうに突き出るさまを。友人たちはみな周囲に立ち、何が見えるのか尋ねている。その人は感情を押し殺し、自分には何も見えないと告げる。だが彼らには、何かがその人の目の前にあるのがわかる。その人は、再び目が飛び出るような目つきになる。善なる神よ! 私は何を見ているのか。――私が見ていると思っているのは何か? あれがそれなのか? あゝ! ため息がもれる! 魂は去った。肉体はそこにある。その人は何を見たのだろうか? その人が見たのは、火と燃える審きの御座である。王笏を手に、そこに着座しておられる神である。その人は、数々の書物が開かれるのを見、神の御座を目にし、ひとりの使者が剣を宙に振りかざして彼を打ち伏せようとするのを見たのである。人よ! それがあなた自身である。そこに、あなたはまもなく行くであろう。その姿はあなた自身の肖像画である。私は実物通りのあなたを写真に撮ったのである。それを眺めてみるがいい。それこそ、あなたがほんの数年もすれば行くことになる場所である。――そう、ほんの数年のうちに。しかし、もしあなたがキリストを覚えていられるとしたら、あなたがどうするか告げてみようか。おゝ! あなたは困難のただ中にあっても微笑むであろう。そのような人の姿を描かせてほしい。彼らはその人の背中に枕をあてがう。その人は寝床の上に身を起こし、愛する人の手を取って云う。「さようなら! 私のために泣かないでください。親切な神は、みなさんの涙をみな拭ってくださいます」。周りにいる人々はこう語りかけられる。「あなたの神に会う備えをしてください。そして、私の後について至福の国へと来てください」。もはやその人は自分の家を整え終わっている。それは完了している。見よ、その人を。善良な老ヤコブのように、自分の杖によりかかり、今にも死のうとしている。見るがいい。その人の目が輝いているのを。その人は自分の手を打ちならす。――彼らは、その人が何と云うか聞こうと周りに集まる。その人は「勝利だ!」、と囁き、もう少し力をふりしぼって、「勝利だ!」、と叫ぶ。そして、とうとう、その最後のあえぎとともに、「勝利だ! 私たちを愛されたお方のゆえに!」、と叫ぶと死ぬ。これこそ、キリストを覚えておくことから引き出せる大きな益の1つである。――ほむべき平静さをもって死に直面できるようになることである。

 III. 私たちは今や、私たちの瞑想の第三の部分に達している。すなわち、《記憶に対する甘やかな助け》である。

 学校にいたころ、私はある種の本を使っていた。その題は「記憶を助ける法」である。私の確信するところ、そうした本は私を助けるよりも困惑させる方が多かった。それは、旅人の腕に杖の束をかかえさせるのと同じくらいしか役に立たなかった。確かに、その人は歩くのにそれを一本一本使えたかもしれないが、その間、それ以外の、絶対に使わないであろう杖を何本も持って歩いていたのである。しかし、私たちの《救い主》は、人間のいかなる教師よりも賢かった。そして、主の記念は記憶にとって真の、また本当の助けである。主の愛のしるしは、取り違えようもない言葉遣いであり、それらは甘やかに私たちの注意をかちとるのである。

 見よ、この聖なる聖餐式の神秘のすべてを。このパンと葡萄酒は、イエスのからだと血の生き生きとした象徴である。記憶を呼び起こすその力は、ここで五感に対してなされる訴えのうちに存している。そのパンは、食され、口の中に入るとき、感覚の中でも最も強大な感覚たる味覚に働きかける。葡萄酒はすすられる。――その行為は肌で感じられるものである。私たちは自分が飲んでいることがわかり、このようにして通常は魂の妨げとなる諸感覚が精神を瞑想に引き上げるために歓迎されるものとなる。さらにまた、この典礼の影響力の多くはその簡素さのうちに見いだされる。この儀式が、いかに美しいほどに単純であることか。――裂かれたパンと注がれた葡萄酒。そこには、それを聖餐杯と呼ぶことも、聖パン皿と呼ぶことも、聖体と呼ぶことも必要ない。ここには記憶にとって重荷となるようなことは何もない。――ここにあるのは、単純なパンと葡萄酒である。自分がパンを食べたこと、葡萄酒を飲んだことすら覚えていられないような人には、何の記憶力もないのである。さらに注意したいのは、こうしたしるしが非常に含蓄に富んでいるということである。――それらに、いかに充実した意味があることか。パンは裂かれた。――そのようにあなたの《救い主》も裂かれた。パンは食された。――そのように主の肉もまことの食物であった。葡萄酒は――押しつぶされた葡萄の汁は、注がれた。――そのように主の肉体も――そのようにあなたの《救い主》も、神聖な正義の足下で踏み砕かれた。主の血は、あなたの最も甘やかな葡萄酒である。葡萄酒は、あなたの心を朗らかにする。――イエスの血も同じようにする。葡萄酒はあなたを強くし、元気づける。――この大いなる犠牲の血も同じである。おゝ! そのパンと葡萄酒を、今晩、あなたの魂にとって、甘やかでほむべき助けとするがいい。ひとたびカルバリで死なれた、あの親愛な《お方》を思い起こす助けとするがいい。あの小さな雌の子羊のように[IIサム12:3]、あなたは今、あなたの《主人》のパンを食べ、その葡萄酒を主人の杯から飲もうとしている。あなたにそれを与えてくださる御手のことを思い起こすがいい。

 しかし、ここであなたがキリストのことをよく思い起こすには、聖霊の助力を求めなくてはならない。私の信ずるところ、主の晩餐の前にはそれなりの備えをすべきである。私はトゥーグッド夫人の備えが正しいとは思わない。彼女は、一週間を備えをすることに費やした後で、それが聖餐式のある日曜でないことに気づいて、丸一週間無駄にしてしまった、と云ったのである。私は、そうした類の備えが正しいとは思わない。だが、主の晩餐のための聖い備えはすべきだと思う。できるものなら土曜日に、一時間を費やして静かにキリストについて、イエスの受難について瞑想できれば、――また、特に、安息日の午後に、敬虔な思いで居住まいを正して主を見上げることができれば――、そのときには、一部の人が徒労であるとみなす、こうした情景は実質を有するものとなる。私は大いに恐れるものである。あなたがたの中のある人々は、今晩パンを食しても、キリストについて考えもしないのではなかろうか。あなたがたのある人々は、葡萄酒を飲んでも、主の血について考えもしないのではなかろうか。そして、そうする間、下劣な偽善者となるのではなかろうか。自分で用心するがいい。「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが」――どうすることになるだろうか?――「自分をさばくことになります」[Iコリ11:29]。これは、明々白々な言葉である。自分のしようとしていることに気をつけるがいい! 無頓着にしてはならない。というのも、地上のありとあるゆる聖なる物事の中で、これは最も厳粛なものだからである。聞くところ、ある人々は自分たちの腕から血を流し、それをすすり合うことによって団結を固めたという。これは最も恐ろしいと同時に、最も厳粛なことであった。今あなたは、キリストの血管から出た血を飲み、主ご自身の愛に満ちた心から噴き出した流れのしたたりをすすろうとしている。それは厳粛なことではないだろうか? それをいいかげんに扱うべきだろうか? 教会に行って、6ペンス頂戴するために、それを受けとる? 慈善金を受けるために、ここに集って私たちに加わる? 冗談ではない! それは《全能の神》に対する恐ろしい冒涜である。地獄に堕ちた者らの中で、最も大きな呪いを受けるのは、あえてそのように神の聖なる定めを馬鹿にした者らであろう。これはキリストを覚えることなのである。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。もしあなたが、キリストを覚えてこれを行なえなければ、私は願う。自分の魂を愛しているのなら、決してこれを行なってはならない。おゝ! 新生した方々。祭司たちの庭に入ってはならない。イスラエルの神がその闖入に憤るといけないからである。

 IV. そして今、最後のことである。ここには《甘やかな命令》がある。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。この命令はだれにあてはまるのだろうか? 「《あなたがたは》これを行ないなさい」*。この問いに答えることは重要である。「《あなたがたは》これを行ないなさい」。これはだれを指しているのだろうか? わたしに信頼をかけているあなたがた、である。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。よろしい。さて、あなたは、キリストが今晩あなたに語りかけていると思うがいい。そしてキリストはこう云っておられるのである。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。キリストは扉のところであなたがたを見ておられる。あなたがたのある者らは帰宅する。キリストは云われるであろう。「確かわたしは、『わたしを覚えて、これを行ないなさい』、と云ったはずだが」、と。あなたがたの中のある人々は、傍観者のように席を占めている。キリストはあなたの隣に座って、こう云われる。「確かわたしは、『わたしを覚えて、これを行ないなさい』、と云ったはずだが」。「主よ。私もあなたがそう云われたことを知っています」。「では、あなたはわたしを愛しているのか?」 「そうです。私はあなたを愛しています。愛しています、主よ。あなたは私が愛していることをご存じです」。「しかし、わたしは云っているのだよ。そこに下って行き、――そのパンを食べ、その葡萄酒を飲むがいい、と」。「そうしたくはありません。主よ。その教会に加わるためには、私はバプテスマを受けなくてはなりません。そして、私は風邪を引いたり、人目にさらされたりするのがこわいのです。教会の前に行くのがこわいのです。思うにあの人たちは、私が答えられないような質問をいくつかするでしょうから」。「何だと」、とキリストは云われる。「それが、わたしに対するあなたの愛のすべてなのか? これが、あなたの主に対する愛情のすべてなのか? おゝ! わたしに対して、あなたの《救い主》に対して、何と冷たい仕打ちをするのか。もしわたしがあなたをそれしか愛さなかったとしたら、あなたはとうに地獄にいたであろう。もしその程度が、わたしの愛情の限度だったとしたら、わたしはあなたのために死にはしなかったはずである。大きな愛は大きな苦難をも忍ぶのだ。――では、これがあなたのわたしに対する感謝の気持ちのすべてなのか?」 あなたがたの中のある人々は、こうした言葉をかけられたなら、恥じ入らないだろうか? あなたは心の中で、「それは全く間違ったことだ」、と云っていないだろうか? キリストは云われる。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。では、あなたは遠巻きに立っていることを恥じ入らないだろうか? 私は、イエスを愛するすべての人に、この卓子のもとに出てくるよう諸手を開いて招くものである。私はあなたに願う。教会に加入することを拒んで、自分をこの特権にあずからせないようなことをしないようにするがいい。もしあなたが、なおもこの定めを罪深く無視しながら過ごすというなら、キリストがこう云われたことを、あなたに思い出させてほしい。「この時代にあって、わたしを恥じるような者なら、わたしも、父の栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥じます」*[マコ8:38]。おゝ、十字架の兵士よ。臆病風に吹かれないようにするがいい!

 そして、あなたが思い違いをしないように、1つのことだけつけ足さなくてはならない。それで終わりとしよう。私はいま、あなたに主の晩餐の定めを受けとるように語りかけているが、一瞬たりとも誤解してはならない。私は決して、そこに何か救いに至らせるようなものがあるなどと思わせようとしているのではない。ある人々の云うところ、バプテスマの定めは本質的なことではなく、主の晩餐の定めもそれと同じだという。確かにそれは、救いの光に照らして眺めれば、本質的なことではない。一片のパンを食べることによって救われる! たわけたことだ! べらぼうにたわけたことだ! 葡萄酒をひとしずく飲むことで救われる! 何と、それは、議論の俎上に載せるのもはばかられるほど、常識的に考えて馬鹿らしすぎる。あなたも知る通り、イエス・キリストの血こそ、キリストの苦悶の功績こそ、キリストの苦しみによる獲得こそ、キリストがなさったことこそ、唯一、私たちを救えるものにほかならない。キリストに身をゆだねるがいい。完全にゆだねるがいい。そのとき、あなたは救われているのである。あわれな、罪を自覚している罪人よ。あなたは救いの道を聞いているだろうか? もし私が来世であなたに会うことがあるとしたら、あなたはもしかすると私にこう云うかもしれない。「先生。私はある晩、あなたのお話を聞いていました。ですが、あなたはわたしに決して天国への道を語ってくれませんでしたね」、と。よろしい。ではそれを聞かせよう。主イエス・キリストを信じるがいい。その御名に信を置き、その十字架に隠れ場を見いだすがいい。その御霊の力に頼り、その義に信頼するがいい。そうすれば、あなたは律法の応報からも、地獄の力からも救われている。しかし、あなた自身の行ないに信を置くなら、あなたは、あなたが生きているのと同じくらい確かに失われているのである。

 さて、おゝ、永久に栄光に富む神の御子よ。いま私たちは、あなたの食卓に近づき、恵みの御糧で満たされようとしています。願わくは私たちのひとりひとりが、あなたの御霊により頼みつつ、あなたご自身の詩人のひとりの言葉によってこう叫ぶことをお許しください。

   「覚えまつらん。汝を、汝が痛みを、
    また、われに対する汝が愛のすべてを。
    しかり。血潮と息のつづく限りは
    われは汝を 覚えまつらん。

   「また、それらを欠けば 唇にぶり
    思いと記憶は 消え去せん。
    汝が御国にて 来たるとき
    イエスよ。われを覚え給え!」

キリストを覚えて[了]

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