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人生の絵図

NO. 3126

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1855年6月18日、月曜夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街


「あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか」。――ヤコ4:14


(この説教は、1834年6月19日生まれのスポルジョン氏が、まさに成年に達する前の晩に語られたものである。)


 私という存在にとって、再び一年が過ぎ去ろうとしつつあり、新たな年のとば口に立っている今、ことのほか私にとってふさわしいのは、自分について考えることであろう。私はどこへ行こうとしているのか、何を行なっているのか、だれにお仕えしているのか、そして、いかなる報いを受けることになるのか。しかしながら、それを私はあなたがたの前で公に行ないはすまい。その義務は、ひとりひそかに行なうことができればよいと思う。むしろ、それをきっかけに、あなたがたには別の話をさせてほしい。それは、人のいのちのはかなさ、時の移ろい行く性質、それがいかにすみやかに過ぎ去るか、私たちがいかにみな木の葉のようにしおれていくか、そして、私たちがいま姿を見せている場所から、いかに素早く永遠に姿を消してしまうか、ということである。使徒ヤコブは問うている。「あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか」。だが、霊感に感謝すべきことに、その答えを返す苦労はほとんどいらない。というのも、聖書の最良の解説者である聖書は、多くの非常にすぐれた答えを与えてくれているからである。今から私は、そのいくつかをあなたに示したいと思う。

 I. 第一に、私たちは、人生を《そのすみやかさ》に即して眺めてみよう。

 確かに人生は、若者なら長い見通しを立てられるように思えるとはいえ、老人にとっては常に短く、実のところ、すべての人にとって、ほんの短い期間でしかない。これは大いなる事実である。人間のいのちは長くはない。ある種の動物や樹木の寿命とくらべると、人の生の何と短いことか! それを宇宙の齢と比べてみるがいい。ほんの一手幅である。特に、それを永遠で測ってみれば、人生の何とちっぽけに見えることか! それは、大海に落ちた水一滴のように沈み、浜辺に落ちた一個の小さな砂粒のように取るに足らないものとなる。

 人生はすみやかに過ぎ去る。もしあなたが人生を絵に描きたければ、聖書に目を向けなくてはならない。そこで今晩、私たちは、聖書という画廊にかかった古い絵画の間を通り抜けてみよう。

 あなたは、そのすみやかさがヨブ記で語られてるいことに気づくであろう。そこには、3つのたとえが供されている。9章25節にはこう記されている。「私の日々は飛脚よりも速い」。私たちのほとんどの者は、駅馬の迅速さを知っているであろう。私も緊急時には、鉄道のない地方で駅馬を使ったことがあるが、その旅の速さには驚かされもし、喜びもしたものである。しかし、この古代の書で現代の駅馬のことが述べられているはずがないので、私たちは東方の風俗や慣習に目を向けなくてはならない。そして、そうするとき私たちは、古代の帝王たちが、その情報を受け取る驚くばかりの速さによって臣下たちを驚嘆させていたことを知るのである。しかるべく整えられた手筈や、早馬や、換え馬によって、彼らは驚異的な速度に達することができた。それは、今日では取るに足らないものであるとはいえ、より緩慢な当時にあっては、信じがたいほどの速さであった。それで、東洋人にとって、すみやかさを最も明確に示す観念の1つは、「飛脚」ということだったのである。いみじくもヨブは、私たちの人生が飛脚よりも速いと云う。私たちは、ある年が乗りつぶれるまでその年に乗っているが、それと同じくらい速い年がやって来て、それに乗って運ばれて行く。そして、じきにそれが姿を消すと、別の年が代わりの馬として働き、私たちは駅馬に次ぐ駅馬を、誕生日が次々に訪れるたびに乗り継いでいく。私たちは道草を食わない。ある年から別の年まで跳躍しつつある。それでも私たちは、前へ、前へ、前へと、先を急ぐ。私の人生は飛脚のようなものである。のたのたと、車輪をきしませながら道を行く荷馬車のようではなく、駅馬のように、最大の速力を出している。

 ヨブはさらに云う。「それは葦の舟のように通り過ぎ……る」[ヨブ9:26]。見ての通り、彼はその比喩を一段と強烈なものにしている。というのも、もしも東洋人の考えにおいて飛脚のすみやかさを越えうるものが何かあるとしたら、それは葦の舟であった。ある人々はこの箇所を、「願いの舟」と訳している。すなわち、故国へ急ぐ舟、港に着くことを切望している舟、それゆえ、あらゆる帆を張って押し進みつつある舟である。あなたは、迫りつつある嵐から、船員たちがいかにすみやかに逃げ去ろうとするか、あるいは、避難場所となる港に入ろうとするかを思い描くことができよう。あなたは時として、舟がうねる大波を押し分けて進み、白い航跡を引きながら、周囲の海を泡立たせている姿を見たこともあるであろう。それが人生だとヨブは云う。「葦の舟のように」、帆という帆に風をはらませ、波を蹴立てて進み、押し寄せる波を切って通り過ぎて行く舟。そうした舟は速いが、人生はさらにすみやかである。時の風が私を連れ去る。その動きを止めることはできない。私は、神の聖霊という舵で、その方向づけをすることはできる。確かに、何枚か小さな罪の帆をたたんで、さもなければずっと急速に進んでいったであろう自分の日々を落ち着いたものとすることはできる。だが、それにもかかわらず私の人生は、葦の舟のように、その港に至るまで、その航路を疾走するに違いない。その港とは、どこになるだろうか? それは、かの苦味と不毛さの国、失われた人々の陰惨な封土となるだろうか? それとも、私の霊の静謐な栄光にさざ波1つ立つことのない、永遠の平安という甘やかな港となるだろうか? その港が何になるにせよ、真理は変わらない。私たちは「葦の舟のよう」である。

 ヨブはまた、人生は「獲物に襲いかかるわしのよう」であるとも云っている[9:26]。鷲は、名にしおう速さで飛ぶ鳥である。私は、雎鳩(ミサゴ)に襲いかかった鷲についての記事を読んだことを思い出す。その雎鳩は、何かの獲物を海原からつかまえ、それをつかんだまま高く飛び上がるところだったが、その魚を取り落とし、魚は海へと落ちていった。だが、その魚が大洋に達する前に、鷲は魚が落ちるよりも素早く飛んできて、それを嘴でつかむと、それをくわえたまま飛び去っていったのである。鷲の素早さは計算できない。向こうの空に黒い点が見える。空を舞う鷲である。かりに鳥狩人が、どこかの山のごつごつした頂から、じきにそれを捕まえてやろうと想像したとしても、狩人が辿りついたときには、鷲は、とっくの昔に去ってしまっている。これが私たちの人生である。それは獲物に襲いかかる鷲のようである。単に、お決まりの道筋を飛んでいる鷲ではなく、獲物に襲いかかる鷲なのである。人生は、その結末に向けて急行しつつあるかに見える。死は、肉体をその獲物として求めている。人生は常に飽くことを知らぬ死から逃れつつある。だが死は、走って逃れるにはあまりにも迅速すぎる。そして、鷲が獲物に襲いかかるように、死も私たちに襲いかかるのである。

 人生のすみやかさについて、さらに例証が必要なら、ヨブ記のもう2つの箇所に目を向けなくてはならない。それらについては、長々と語るまい。1つは、その7章6節に見いだされるであろう。ヨブがこう云っている。「私の日々は機の杼よりも速い」*。機の杼は、機織りが目にもとまらぬ速さで投げかけるものである。しかしヨブは、それよりもずっとすぐれた比喩を、同じ章の7節に記している。「思い出してください。私のいのちはただの風であることを」 <英欽定訳>。さて、これは速度において、私たちが吟味してきた他のどのたとえをもしのいでいる。だれが風を追い越せるだろうか? 風の速さはことわざになるほどである。その最もかすかなそよぎすら、すみやかである。しかし、それが竜巻となって突進するとき、あるいは、暴風となって驀進するとき、大嵐が吹き荒れ、あらゆるものを引き裂くとき、そうしたときの風が何とすみやかなことか! ことによると私たちの中のある人々は、優しい微風であって、それほどすみやかに動いているとは思えないかもしれない。だが、他の人々の場合、いま生まれたかと思うと、もう天国へひっさらわれてしまっており、そのすみやかさは暴風にもたとえられるであろう。それは、いのちの絆をさっと断ち切ると、死んだ幼児を残すのである。確かに私たちの人生は風のようなものである。

 おゝ! 愛する方々。もしあなたがこうした考えを理解できたならどんなによいことか! 私たちは、この会堂にじっと座っているかもしれないが、知っての通り、みな実は移動しつつあるのである。この世界は、地軸を中心として二十四時間に一度、回転している。それに加えてそれは、一年三百六十五日の間に太陽の周りを動きつつある。それで、私たちはみな移動しつつあり、私たちはみな空間中を飛び去りつつあるのである。また私たちは、空間の中を旅しつつあるのと同じように、数えきれないほどの進度で時間の中を移動しつつある。おゝ、私たちに悟ることができさえするなら、これは何という思想であろう! 私たちはみな、あたかも、大きく張り伸ばした翼でばさりばさりと羽ばたきながら雷よりも速く飛びかける、巨大な御使いによってでもあるかのように運ばれており、風に乗せられているのである。私たちは、おびただしい数の群衆とともに先を急ぎつつある。――どこへ向けてかは、私たちの信仰が試される結果と神の恵みによって、やがて決されることになる。だが、私たちがみな旅しつつあることは確かである。あなたは、自分は安定しているのだ、1つの場所に固定されているのだ、と考えてはならない。自分は1つところに立っているのだ、と思ってはならない。決してそうではない。あなたの脈拍は一瞬ごとに、墓場への葬送行進曲を打ち鳴らしている。あなたは驀進する時間という戦車に鎖で繋がれている。その引き馬のくつわをとることも、その戦車から飛び降りることもできない。あなたは絶えず動いていなくてはならない。

 さて、ここまで私が語ってきたのは、人生のすみやかさについてである。

 II. しかし次に私は、《人生の不確かさ》に関して語らなくてはならない。これについて私たちにはふんだんに例証するものがある。

 本日の聖句を抜き出した聖書箇所に注目してみよう。ヤコブの手紙4章14節である。「あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまうにすぎません」。もし私がこれを説明するよう子どもに頼んだとしたら、何と云われるかはわかっている。子どもは云うであろう。「ええ。それは霧です。屋根まで飛んでいくあぶく玉のようなものです」。子どもはあぶく玉をふくらませては、それで遊ぶことがある。人生は、まさに、そのあぶく玉のようなものである。それは空中に飛んでいく。子どもはそれがふわふわ飛び回るのを見て喜ぶが、ほんの一瞬のうちに消えてしまう。「しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」。しかし、もしあなたが詩人にこれを説明するように頼んだとしたら、彼はあなたにこう告げるである。朝、時にはあけぼのの頃に、川という川は、しめやかなささげ物を、上つ太陽へと送り出す。そこには、川や小川からの蒸気、霧、もやが立ち昇っている。だが、ほんのしばらくして、太陽が昇ると、そうした霧はみな消え去っている。こういうわけで、「朝もやや、朝早く消え去る露」*について記されているのである[ホセ13:3参照]。もっと平凡な観察者ならば、霧について語るときには、時おり空中に浮かんでいるのを見かける薄い雲のことを考えるであろう。それは、あまりにも軽いため、たちまち吹き払われてしまう。実際、ある詩人はそれらを、はかなさの象徴として用いている。

   「彼らの軍は追い散らされん。そは薄雲が
    ビスケーの微風を前にするがごとし」。

風がそれらを動かすと、それらは消え失せている。「あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません」。それほど人生は不確かなのである!

 また、伝道者の書6章12節を読むと、そこでは人生が別のものにたとえられていることに気づく。霧よりも、はるかにはかないものである。この賢人はそこで、人生とは、「影のよう」なものにすぎない、と云っている。さて、影よりも実質に乏しいものがありえるだろうか? 影の中にいかなる実体があるだろうか? だれが影をつかめるだろうか? あなたは、通りがかりの人の影を目にすることはできるが、その人が通り過ぎるや否やその影もなくなってしまう。しかり、そして、だれが自分の人生をつかめるだろうか? 多くの人々は長生きをあてこみ、自分が永遠に地上で生きていると考えている。だが、だれが影などあてにできるだろうか? 行くがいい。自分の魂に向かって、こう云う愚か者よ。「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」[ルカ12:19]。行って、自分の部屋に影を蓄えておくがいい。行って、影を積み上げ、云うがいい。「これはみな私のものだ。そして、これらは決して離れて行かない」、と。しかし、あなたは、「私には影などつかまえられない」、と云う。しかり。そして、あなたは一年間をも、否、ほんの一瞬すら、あてにはできない。というのも、それは影のようなものであり、たちまち消散して、なくなってしまうからである。

 ヒゼキヤ王も、1つの比喩として、人生は断ち切られる糸のようなものだ、と云っている。イザヤ書38章12節には、こう記されている。「私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。私は、私のいのちを機織りのように巻いた」。機織りは、その糸をごく簡単に断ち切る。そのように、人生もたちまち終わらされる。

 私は、人生の不確かさに関するたとえを、いくらでもあげ続けることができる。探してみさえすれば、聖書の中にもう二十ほども比喩が見つかるかもしれない。例えば、草や、野の花、等々を取り上げてみるがいい。

 しかし、人生がすみやかで、また、それほど素早く過ぎ去るものだとはいえ、私たちはなおも一般的には、いのちある間は、それがいかなるものたるべきかを知ろうとして非常に心砕いている。というのも、私たちは、たといすぐにいのちを失うことになるとしても、それでも生きている間は生きよう、と云うからである。私たちは、地上にいる間は、それがいかにつかの間のものでしかないとしても、人生に何を期待すべきか知っておこうではないか。

 III. そこで、そこから私たちは、第三のこととして、《人生の移り変わり》を眺めることになる。

 もしあなたが人生の様々な変化の絵図をほしければ、この素晴らしい詩歌の書、聖書に目を向けるがいい。そこにあなたは、比喩の上に比喩が積まれているのを見いだすであろう。そして、最初にあなたは、人生が、善良な老ヤコブによって巡礼にたとえられているのに気づくであろう。創世記47章9節で、この白髪の族長は、パロから年齢を尋ねられたときに、こう答えている。「私の巡礼の年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖たちの巡礼の年月には及びません」 <英欽定訳>。彼は人生を巡礼と呼んでいる。巡礼は、朝に出発しても、目指す神社に達する前に、何日も旅をしなくてはならない。その道中に、この旅人はいかに様々な景色を目にすることであろう! 時には、彼は山々の上にいるであろう。別の折には、谷間に降りて行き、ここでは小川が銀のようにきらめき、鳥たちがさえずり、空気が芳しく、木々は緑で、甘美な果実がたわわに実って彼の味覚を満足させるが、別の折には、乾燥した砂漠に身を置き、何の生き物も見当たらず、空中で鋭く叫ぶ鷲の鳴き声のほか何も聞こえず、自分の足の裏を休める場所をどこにも見つけられない。――空は彼の頭上で燃えさかり、熱砂は彼の足元で焼きつけるようである。――覆いとなる木は一本もなく、身を休ませる家は一軒もない。また別の時には、彼は甘やかな緑地にあって、水の泉でからだを安らがせ、棕櫚の木から果実をもいでいる。あるときは、すべてが暗く見える山あいの岩々の間を歩き、別の時には、ミツァルの山を登る。涙の谷に降りて行くかと思うと、たちまちバシャンの山を登っている。だがしかし、再びひょうの山へと入って行き、試練と患難に遭う。

 それが人生である。絶えず移り変わる。次に何が来るかだれに知れよう? 今日それが好天でも、明日にはひどい嵐となるかもしれない。今日の私は足りないものが何1つなくとも、明日にはヤコブのように石を枕にし、天を窓帷にするほかない無一物の身となるかもしれない。しかし、これは何と幸いな思いであろう。私たちは道がいかに曲がりくねっているか知らなくとも、それがどこで終わるかを知っているのである。あちこちへと迂回していくことこそ、天国への直進路である。イスラエルの四十年間の放浪は、結局において、カナンに達する最短路であった。私たちは試練や患難を経なくてはならないかもしれない。その巡礼は大儀なものかもしれない。だが、それは安全である。私たちは、自分が航海している川の見取り図を描くことはできないが、それが最後には至福の大海に至ることはわかっている。私たちには、その道を追跡することはできないが、それがみな、神の宇宙の中心にある、天国の大首都へと集束していることはわかっている。願わくは神が私たちを助けて、敬虔な人生という真の巡礼路を追求させてくださるように!

 私たちには、もう1つ、人生が移り変わるものであるという絵図を示されている。詩篇90篇9節である。「私たちは自分の齢を語られる話のように終わらせます」 <英欽定訳>。さて、ダビデは語られる話のことを理解していた。おそらく彼は、そうした話で不愉快にさせられたことも、面白がらされたこともあったであろう。かつては、物語を語るのを仕事としている人々がいた。あの馬鹿げた本、『千一夜物語』にある物語のような話をひねりだしては、聴衆を面白がらせていた人々である。私も、その本を読むほど愚かだった頃には、それに妖精が出てくることもあれば、精霊が現われることもあり、宮殿の中にいることもあれば、じきにそこを出て、洞窟の中に入り込むといった具合だったことを覚えている。ありとあらゆる種類の異様な物事が、いわゆる説話の中には寄せ集められているのである。さて、ダビデは云う。「私たちは自分の齢を語られる話のように終わらせます」。ご存じの通り、人間の人生の浮き沈みほど驚きに満ちたものはない。それは陽気な詩歌になることもあれば、平凡な主題になることもある。崇高さのきわみに登るかと思うと、たちまち滑稽さに降りて行く。いかなる人も自分の完璧な伝記を書くことはできないと思う。もしある人の思想と言葉の完全な歴史を書き記すことができたとしたら、世界そのものもその記録をおさめることはまずできないであろう。それほど、語られるであろう話は驚くべきものなのである。私たちの人生はみな異様なものであり、私たち自身にとっても奇妙なものに見えるに違いない。そのことについては、多くのことが云われえよう。私たちの人生は、「語られる話のよう」である。

 別の思想が、イザヤ書38章12節から得られる。「私は牧者の天幕のように取り去られた」*。東方の羊飼いたちは、一時的な仮小屋を羊たちの近くに建てるが、それは群れの移動とともにすぐに取り去られる。暑い季節がやって来るとき、彼らはその天幕を、自分に見つけられる中で最も好ましい場所に張り、季節ごとに、それに適した所がある。私の人生は、牧者の天幕のようである。私は、自分の天幕をすでに、多種多様な場所に張ってきた。だが、いずれそれをどこに張ることになるかは知らない。私にはわからない。現在の見込みは、こういうことになると思われる。――

   「ここに据えしは わが休み場にして
    われ他のいずこへも 行き来せじ。
    もはや他人にも 客人にもあらず、
    ただ家にある 幼子のごとし」。

しかし私には何もわからず、あなたも予知できない。私にわかっているのは、自分の天幕が、神から「前に進め」と云われるまで取り去られることはありえず、神が堅く据えてくださるまで、堅く立つことはありえない、ということである。

   「わが道はすべて 常にわが主の
    御定めに よりて整えらるるなり」。

あなたは近頃新しい店を開き、その商売で身を固めようと考え、取引は繁昌しつつある。さて、将来を明るく描きすぎてはならない。これから自分に何が起こるか自信を持ちすぎてはならない。別の人は長いこと昔ながらの所帯に携わっている。あなたの父親もずっとそこで商売を営んできたし、あなたも余所へ移るなどとは全く考えていない。だが、あなたは地上にいかなる永続的な町も有していない。あなたの人生は羊飼いの天幕のようなものである。あなたは死ぬまで、至る所を転々とするかもしれない。かつてソロンによってこう云われたことがある。「人間の幸不幸は最期を見なければ分からない」。人は自分の人生の末路を知らないからである。だがキリスト者は、常に地上で自分を幸せな者と呼んでよい。なぜなら、彼らの天幕がどこに運ばれようと、彼らはそれを雲の柱が動いていかないところや、火の輪で囲まれていないところに張ることはありえないからである。神は彼らを囲む火の壁となり、その中で彼らの栄光となるであろう。彼らは、神が自分たちの救いのとりでとならないようなところに住むことは決してない。

 もし神の民であるあなたがたの中のだれかが自分の状態を変えようとし、ある状況から出て別の状況の中に移動しようとし、新しい仕事を始めるか、別の国に引っ越そうとするとしたら、恐れる必要はない。神は最後にはあなたとともにおられ、この下界でもあなたとともにおられるであろう。神はこう云っておられる。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」[イザ41:10]。嵐に遭ったカエサルの物語は、語りぐさになっている。水夫たちは全員恐れていたが、彼はこう大喝したのである。「恐れるな! お前らはカエサルと、そのすべての幸運をかかえているのだぞ」。それと全く同じことが貧しいキリスト者にもあてはまる。何らかの嵐がやって来つつあるが、恐れてはならない。あなたはイエスをかかえており、あなたが沈むにしても泳ぐにしてもイエスと一緒なのである。真の信仰者であれば、だれでもこう云ってよい。「主よ。もしあなたが私とともにおられるなら、私の天幕がどこにあろうと大した問題ではありません。私の人生が羊飼いの天幕のように取り去られても、すべては良いに決まっています」。

 また、私たちの人生は詩篇の中でにたとえられている。さて、話が異様であるとしたら、確かに夢はそれよりずっと異様であるに違いない。もし話が変化し流転するものだとしたら、夢はどうなるだろうか? 夢について云えば、その闇に包まれた幻想のはためきや、想像の乱痴気騒ぎが、何から成り立っているか、だれにわかるだろうか? 私たちはこの世にあるすべてのものについて夢を見、幾分かはそれすら越えて夢を見る! もし私たちが自分の夢を語るように求められたとしたら、そうするのは不可能であろう。あなたは、自分が宴会の席についているのを夢見る。すると見よ! そのごちそうが天馬に変わり、あなたは空中を駈けている。あるいは、また、突如として怪物の食事の一口に変容させられている。そうしたものが人生である。種々の変転が、夢の中ででもあるかのように突如として起こる。人々は、ある日金持ちだったかと思うと、翌日には乞食になっている。私たちは君主たちが亡命し、有力者たちが命からがら逃げ出す姿を目撃してきた。あるいは逆に、名もなく地位もない一介の男が、一足飛びに王座につく光景も見てきた。そして、あなたも、以前であれば通りで出会おうが近寄ろうともしなかったはずのその人を、一目でも見ようと馬鹿のように往来に群がったことであった。あゝ! そうしたものが人生である。シビュラが予言を書きつけた葉っぱの束といえども、これほど容易に風で吹き散らされることはなく、夢といえども、これほど変幻定かなきものではない。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ」[箴27:1]。未来を予測したいと願う人々の何と愚かなことか! 遠眼鏡の用意はできており、彼らはそれをのぞきこもうとする。だが彼らは、しゃにむに見ようとするあまり、その熱い息を水晶体に吹きかけて曇らせてしまう。それで彼らに見えるのは、もやもやとした暗い影でしかない。おゝ、あなたがた、常に呪文で、誰ひとり知らぬ深みから黒い悪鬼を呼び出し、愚かにも自分の思いを幻想で騒がしつつある者たち。あなたの幻想を戸口から叩き出し、決して裏切ることなき約束により頼むことを始めるがいい! 約束は、種々の吉兆凶兆よりすぐれている。「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え」[詩37:3]。

 ここまで私が語ってきたのは、この定命の人生の移り変わりについてであった。

 IV. さて今、しめくくりにあたり、こう尋ねさせてほしい。《この人生の結末はどうなるだろうか?》

 サムエル記第二14章14節には、こう記されている。「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです」。人間は、大きな氷柱のようなもので、時という太陽が絶えず溶かしつつあり、たちまち地面にこぼれた水のようになり、もう集めることはできない。だれが死んだ霊を呼び戻したり、その肺を新たないのちの息でふくらませることができようか? だれがその心臓に生命を注入し、よみから魂を引き戻せようか? だれひとりいない。それを集めることはもうできない。かつては姿がよく見られた場所から、もはや永遠に姿を消してしまう。

 しかし、ここで1つの甘やかな思想によって私たちは陶然とさせられる。この水は決して失われることがなく、それは土にしみこみ、千歳の《岩》に濾過されて、最終的にはきよらかな泉となって、天国で吹き出すのである。きよめられ、水晶のように澄み切った泉となるのである。それとは逆に、もしそれが、どす黒い罪の地面にしみ通り、忌まわしいしずくとなって、暗い破滅の洞窟の中にしたたり落ちるとしたら、何と恐ろしいことか!

 そうしたものが人生である。ならば、愛する方々。それを最善に活用するがいい。なぜなら、それは移ろい行くからである。別の人生を待ち受けるがいい。なぜなら、今の人生は大して望ましいものでないからである。これは、あまりにも変わりやすい。あなたの人生は神の御手にゆだねるがいい。なぜなら、あなたは人生の運行を支配できないからである。神の御腕に安らい、神の御力に信頼するがいい。神は、あなたの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことがおできになる[エペ3:20]。この方の御名に、栄光が、世々限りなくあるように! アーメン。

人生の絵図[了]

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