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葦の海のほとりのイスラエル

NO. 72

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1856年3月30日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように」。――詩106:9


 何週間か前の聖日に、私たちは、イスラエル人が過越の血によってエジプトを脱出したことについて説教し、そのときあなたがたにこう告げた。すなわち、私たちの信ずるところ、この出来事は、神の民が霊的な奴隷の家から出て行くことを示す予型であって、その奴隷の家とは、神の全能の恵みによって、彼らがその回心の時に解放される精神的な苦悩の炉である、と。私たちは今朝、その話を進めようと思う。疑いもなくイスラエル人たちは、今やすべては落着したと思ったであろう。エジプト人は彼らに出ていってくれと懇願し、山ほどの富を持たせては、彼らを追い払ったのだ。エジプトの心は恐怖で打たれていた。上は王座に着く国王から、下は地下牢の囚人に至るまで、すべての民はイスラエルゆえに狼狽し、恐怖していた。エジプトは、彼らが出ていったとき大喜びした。それゆえイスラエル人は内心でこう云った。「私たちは今すぐカナンへ進軍していこう。もはや何の危険も、何の困難も、何の試練もない。エジプト人自身が私たちを追い払ったのだし、彼らは私たちのことを心から恐れているので、私たちを妨害することなどあるまい。さあ、さっさと砂漠を踏み越えて行こう。ほんの数日もすれば、私たちの所有の地に入ることだろう。――乳と蜜が流れる地に」。だが神は云われる。「それほど早くではない。あなたがたが安息を得る時はまだ来ていない。確かに、わたしはあなたがたをエジプトから解放した。だが、あなたがたがカナンに住む準備ができるまでに、あなたがたはまだ多くのことを学ばなくてはならない。それゆえ、わたしはあなたがたに回り道をさせて、あなたがたに悟りを与え、あなたがたを教えよう」。それで主は、イスラエル人を葦の海に沿う荒野の道に回らせ、彼らをバアル・ツェフォンの手前へと至らせなさった。それは、両端がごつごつとした山々で囲まれた場所であった。それを聞きつけたパロは、彼らのもとへ進軍し、彼らを打ち負かそうとした。こうして彼らは、恐ろしい危地に陥り、生命の危険にさらされることとなった。さて、愛する方々。信仰者の歩みも通常はそれと同じである。信仰者は、その回心の時に、霊的なエジプトから堂々と出て来ては、内心こう思う。「これから私はずっと幸福のままだろう」。その目はきらめき、心は軽い。その枷は叩き落とされ、もはや良心の鞭打ちを肩に感じていないからである。その人は云う。「まだ少しは生きなくてはならないだろうが、それは幸いな人生だろう」。

   「しばし歳月(とし)をば 経なば至らん
    われはカナンの 美(うま)し岸辺に」。

「ならば私には、もはや何の戦いもなく、何の戦闘もなく、何の動揺もあるまい。私は安息に入るであろう」。だが神は云われる。「あなたの願いがそのままかなうわけではない。おゝ! 小さい者よ。あなたがわたしの王宮に入る準備ができるまでには、まだまだ教えることがあるのだ」。そして神は私たちに回り道をさせ、私たちを窮地や危険に至らせなさる。私たちから完全に離れ去ったと思っていたもろもろの罪が背後から私たちを悩ませるかと思えば、渡りようもない大水が前途をふさぐ。葦の海のほとりで立ち止まって身震いしているイスラエル人ひとりひとりは、神の子どもが、通常はエジプトの地を出たほんの数週間後か数箇月後に陥る、こうした恐ろしい立場のおぼろげな象徴である。

 私が今朝語ろうとしている説教は、あなたがたの中でも、特に最近主を知るようになった人々に有益なものとなると思う。あなたは喜びの山々の頂上に幕屋を建てて、そこにいつまでも住んでいられるものと思っていた。だが逆にあなたが見いだしたのは、自分に非常に大きな困難と争闘があるということであった。ことによると今のあなたは、これまで生きてきた中でも最もすさまじい試練を経験しているかもしれない。私が努めてあなたに示したいのは、それこそあなたが当然期待すべきことだ、ということである。あなたが、あなたの奴隷の家を出てきた後には、すぐさま《葦の海》が待ち受けているのである。私の愛する方々。あなたがたの中でも、それ以外の方々は、こうした事がらを何年も前に通り過ぎてしまっているであろう。あなたはこう云うことができる。――

   「我れ、かの日より 多くの時日(とき)経て
    あまた変化(うつろい) 目の当たりにせり。
    されど今まで 支えられなん。
    かく我れ保つは 主ならずや」。

しかしあなたにとっても、神があなたをもろもろの苦悩から救出してくださった場所を再訪することは喜びであるに違いない。学童時代に勉強していた校舎を眺めたり、子どもの頃によく出入りしていた場所を尋ねたりするのは非常に楽しいことである。そのように、白髪になるまで《主人》の御国を押し進めるわざに携わってきたあなたも、少し昔に戻って、かの葦の海を眺めることを、それほど退屈なこととは思わないであろう。神が叱るとそれは干上がり、あなたは、さながら荒野を行くように、その間を通り抜けることができたのである。

 それでは本題に入ろう。イスラエル人にはその困難の数々があった。それと同じように、神の子どもも普通は、エジプトから出てくるなり、すぐにその困難を有するようになる。しかし、そのとき彼らには、頼りとすべきものがあった。神には、彼らが導き入れられたあらゆる困難の中に、かなえられるべき偉大かつ壮大なご計画を有しておられた。

 I. 第一の点を取り上げると、イスラエル人にはこの時点で、《3つの困難》――ことのほか大きな3つの危険があった。また、そのようにして、私の信ずるところ、天の相続人のひとりひとりは、その解放のときから間もないうちに、同じような困難に出会うものである。

 彼らの有していた最初のことは、神ご自身によって送られた大きな試練である。彼らの前面には葦の海があった《さて》、その海をそこに置いたのは敵ではなかった。神ご自身であった。それゆえ私たちは、この葦の海が、何か大きくて難儀な摂理的状況を象徴していると考えてよいであろう。そうした状況を、必ず主は、あらゆる新しく生まれた子どもの通り道に引き起こし、その信仰を試し、神へのその信頼が真摯なものかどうかをはっきりさせようとなさるものである。愛する方々。私は、あなたがたの経験が私の経験を裏づけるかどうかは知らない。だが、私にはこう云える。私がこれまでに出会った中でも、あるいは、これから出会うことになると思える中でも、最悪の困難は、私が神に回心したほんの少し後に起こったことであった、と。そして、あなたがたも通常はそう予期しなくてはならない。あなたが神を知り、神を愛するように導かれた直後には、何か大きくて、広くて、深い葦の海が、あなたの通り道の真正面に現われ、それをいかにして渡れるか、あなたにはほとんど見当もつかないであろう。時として、それは家族の中に起こるであろう。例えば、夫が――不敬虔な人である場合――こう云うことがある。――「お前がこれこれの礼拝所に集うことは許さない。私は、お前がバプテスマを受けることも、あの教会に加わることも、はっきり禁ずる」、と。あなたの前には葦の海があるのである。あなたは何も悪いことをしていなかった。神ご自身が、あなたの通り道の前にその葦の海を置かれたのである。あるいは、ことによると、あなたは、それまで商売を営んでいたのに、今では良心のゆえにそれを続けることができなくなるかもしれない。やはりそこには、生計の手段を捨てることによって渡らなくてはならない葦の海があるのである。あなたは、いかにしてそうできるかわからない。いかにして自活しつつ、すべての人の前で公明正大なことを示せるだろうか。あるいは、ことによると、あなたは仕事柄、それまであなたと仲良くつきあっていた人々の間にいるよう召されていて、突然彼らから、「さあ! 前にしてたことをやろうじゃないか」、と云われるかもしれない。ここでも、あなたの前には葦の海がある。それは激しい苦闘である。あなたは、自分の立場をはっきりさせて、「私にはできないし、するつもりもない。私はもうキリスト者なのだから」、とは云いたくないと思う。あなたは、前に踏み出すことをなかば恐れながら立ちつくす。あるいは、ことによると、それはもっと直接的に神から発したことかもしれない。あなたは、神があなたの心に葡萄の木をお植えになるとき、あなたの葡萄畑からあらゆる葡萄の木を枯らしておしまいになることに気づく。そして、神があなたをご自分の庭園に植えつけなさるとき、神はあなたのあらゆる慰めと喜びを引き抜かれる。《義の太陽》[マラ4:2]があなたの上に明け初めようとするまさにそのとき、あなた自身の小さな蝋燭は吹き消される。あなたがそれを最も必要としていると思われるまさにそのとき、あなたのとうごまは枯れ果て[ヨナ4:7]、あなたの繁栄は失われ、あなたの上げ潮は引き潮となる。もう一度云うが、あなたがたの中のすべての人々がこのようになるとは限らない。だが、神の民のほとんどの者らは、エジプトの隷属から脱出してさほどしないうちに、何らかの海が、おそらくは荒れ狂う風によって渦を巻いて通り道に直接打ち寄せてくることに気づくものである。彼らは肝をつぶして、こう云う。「神よ。どうして私がこれに耐えられるでしょう? 私はあなたのためならすべてを捨てられると思っていました。でも今は、まるで何もできないような気がします! 前はもう天国にいるように感じ、すべてが楽になると思っていました。でも、ここには私に渡れない海があります。――私を乗せて向こう岸まで渡してくれる船団もありません。あなたのあわれみによる橋すらかけられていません。私は泳がなくてはなりません。さもなければ、一巻の終わりでしょう」。

 さらにイスラエル人には第二の困難もあった。葦の海があるだけなら、彼らはこれっぽっちも気に病まなかっただろうが、彼らは背後から追撃してくるエジプト人によって恐怖に陥れられていた。このエジプト人たちは、今朝のたとえ話に即して云えば、私たちが、とうの昔に死んだもの、去ってしまったものと考えていた自分の罪であると解釈できると思う。罪は、回心の後しばらくはキリスト者を悩まさない。その人は赦されたことをひしひしと感じて、非常な幸福を覚え、浮き立っている。だが、何日もしないうちに、パウロのあの言葉を理解するようになる。「私のからだの中には異なった律法があって」、「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている……のです」[ロマ7:21、23]。その人は、自分の自由をかちえた最初の瞬間には笑い出し、喜びに陶酔して躍り上がる。その人はこう思う。「おゝ! 私はすぐに天国に行くだろう。罪について云えば、私の足で踏みにじることができる!」 しかし、よく見てみるがいい。次の聖日がその人の霊を喜ばせるが早いか、その人は罪が自分の手に負えないものであることに気づく。てっきり墓に葬り去られたと思っていた、かつてのもろもろの腐敗が復活しては新たに立ち上がり、その人はこう叫び出す。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。その人は、自分の昔ながらの罪が自分の後を疾駆してくるのを見てとる。パロとその軍勢のように、葦の海のへりまで追撃してくるのを見てとる。その人の前には大きな試練がある。おゝ! その人は、自分にそれが耐えられるはずだと思う。葦の海を歩いて渡れるだろうと思う。だが、おゝ! あのエジプト人が――彼らが背後に迫っているのだ! その人は、もう二度と再び彼らを見ることはないと思っていた。彼らは、その人の人生の疫病であり、苦悶であった。それがその人を煉瓦焼き窯で働かせていたのである。その人は自分のかつての主人、自分の肩に鞭を振り下ろすのを常としていた者が、自分のもとへ矢のように疾駆してくるのを目にする。そして、かの浅黒いパロの目は、遠くからでも火のように燃えている。その人は、この暴君のすさまじくゆがんだ顔が見える。いかにその人が身震いすることか! サタンが自分を追いかけているのだ! また、地獄の全軍勢が、できるものなら完全に自分の魂を破滅させようと、解き放たれたかのように思える。それどころか、このようなときに私たちの罪は、それらが赦される前よりも、ずっと私たちにとって手強いものとなる。なぜなら私たちは、エジプトにいたときには、エジプト人が軍馬に乗り、戦車に乗るのを見たことがなかったからである。彼らは常に、鞭を手にした、私たちの労役監督のように見えた。だが今この民は、武具をまとった、馬上のエジプト人を見ている。その勇士たちがみな、武器を手にしては自分たちを殺そうとしてやって来るのを眺めている。私について云えば、それと同じことを見いだした。私が最初に罪の重さを知ったとき、それは重荷であり、労苦であり、大儀なことに思えた。だが、二番目のとき、

   「われ主に求めぬ、わが成長を。
    信仰と愛、あらゆる恵み、
    主の御救いの 豊かな知識(さとし)、
    御顔をあおぐ 切なる待望(ねがい)を」。

そして、主が私に答えて、あらゆる罪を私から解き放ってくださったとき、それらは以前よりもはるかに恐ろしげなものに見えた。私は、エジプトの中にいるエジプト人は、エジプトの外に出たエジプト人より半分も恐ろしくないと思った。かつて私が知っていた罪は、冷酷な労役監督ではあったが、こうした兵士となった罪、槍と戦斧で身を固めた罪、鉄の戦車に乗って、大鎌を車軸につけた罪が私に襲いかかろうと急行してくることにくらべれば、半分も恐怖ではないと思った。私がそれらの奴隷だったときにはびくびくさせられ通しではあったが、確かに、それらがこれほど私の間近に迫ってきたことはなかった。神のあわれな子どもよ。あなたは、自分のもろもろの罪が、かつて罪の確信の下にあったときに感じたよりも、ずっとどす黒いものであることに気づいて驚愕し、肝をつぶしているかもしれない。以前よりも、望みが少なくなっていることに驚いているかもしれない。律法があなた頭の先から爪先まで打ちのめし、あなたの良心の傷に塩水をすりこんでいたときよりも、ことによると、自分の状態がはるかに悪化していることに驚くかもしれない。あなたはこう云っているかもしれない。「あゝ! 何ということだ。私はこんなことを考えてもいなかった。もし私が神の子どもになっているとしたら、もし私が真の赦しと赦罪を与えられたのだとしたら、どうして私が自分の咎を感ずることでこれほど悩み、苦しむようなことがありえるのだろうか? また、もし私のそむきの罪がみな海の底に投げ込まれているのだとしたら、どうして私の罪の軍勢の馬蹄や車輪の轟きを背後に聞くようなことになるのだろうか?」 愛する方々。私は主の御名によってあなたに云う。それこそあなたが予期しているべきことだったのである。私たちがエジプトを出た後の激痛は、時として、私たちが奴隷の家で感じていたものよりも、ずっと激しいものとなることがある。また、新生のしばらく後には、通常は試練のときがある。そうした時期は、以前の魂の苦悶ほど長引くことは普通ないが、それにまさって恐ろしく、すさまじいものである。これが第二の困難であった。

 しかし、そこには第三の困難があった。これは、ことによると、他の2つにまして彼らをみじめな気分にさせたものかもしれない。このあわれなイスラエル人たちは、非常に臆病な心をしていた。彼らはエジプト人を見るや否や叫び出した。また、自分たちの前にある葦の海を眺めたとき、彼らの解放者に向かって不平を鳴らした。臆病な心は、キリスト者が有しうる最悪の敵である。自分の信仰を堅く保っていられる限り、――その錨を深々と岩に固定していられる限り、キリスト者は決して嵐を恐れる必要はない。だが、信仰の手が麻痺するか、信仰の目がかすむとき、私たちはひどい目に遭わされる。エジプト人について云えば、たとい彼らがその槍を投げつけようと、私たちがそれを信仰の大盾で受けとめられる限り、私たちはその武器を恐れはしない。だが私たちが自分の信仰を失っているとき、その槍は致命的な投げ槍となる。私たちに信仰がある限り、葦の海は好きなだけ深く、暗く私たちの前に浮かんでいてかまわない。というのも私たちは、レビヤタンのようにヨルダン川をも一呑みにできると思うからである[ヨブ40:23]。しかし、もし私たちに全く信仰がないと、いかに細々とした小川であっても、――《信仰》ならば一瞬のうちに両手ですくい上げ、ギデオンの手兵のように飲んでしまえるようなものであっても――、あわれな《不信仰》は立って震えながら叫ぶのである。「あゝ! 私はこの大水の中で溺れてしまうか、敵によって切り殺されるかだ。私には何の希望もない。絶望するだけだ。ここまできて敵の手で殺されるくらいなら、エジプトで死んでいた方がましだった」、と。神の子どもは、生まれたばかりのときには、非常に小さな信仰しかない。なぜなら、小さな経験しか有していないからである。その人は、約束を試したことがない。それゆえその筋骨はまだ強靭になっていなのである。もう少し長く生きてみて、信仰が確立するようになると、その人は葦の海をも、エジプト人をもかまいつけなくなるであろう。だが、まさにこのときには、その人の小さな心臓は体内で早鐘のように打ち、こう嘆く。「あゝ、何たることか! あゝ、何たることか! 私は、ほんとうにみじめな人間だ! いかにして私は救い出されるだろうか?」 こうした霊的な地理の描写は、ある人々にとってはつまらないものであろう。なぜなら、そうした人々は、荒野のこの地方を旅したことがないからである。だが他の人々は、これを興味津々に眺めるであろう。クリミアの地図など、そこに戦争が起こるまで、だれが気にしただろうか? しかし、わが国の兵士たちが、その特定の地点で交戦し始めるや否や、だれもがクリミアの地図を買っては、ロシアの国境線を丹念に眺めるようになった。そのように、もしあなたがこうした苦境に陥ったことがあるとしたら、あなたは今朝、私が示している地図を非常に喜ぶであろう。そこに、神がご自分の家族を導かれる道を見てとれるからである。そこには3つの危険があった。――大いなる試練と、背後から追撃してくる罪と、はなはだしく臆病な心である。

 II. しかし、神に感謝すべきかな! イスラエル人たちには《3つの助け》があった。

 おゝ! 神の子どもよ。――あなたはこの奥義を見分けられるだろうか? あなたが3つの試練を有するところでは常に、3つの約束を有するであろう。また、もしあなたが四十もの患難に遭うところでは、あなたは四十倍の恵みを得るであろう。しかり。そして、もしあなたが百万もの困難に遭うとしたら、百万倍のあわれみを得るであろう。イスラエル人には3つの困難があった。そして3つの助けがあった。そして、その困難が摂理によって途上に置かれたのと同じく、摂理は救出をも備えたのである。

 彼らが得た最初の助けは、摂理であった。摂理は、そこに葦の海を置き、両側に岩山を積み上げる一方で、燃える雲の柱によって表わされた摂理が、彼らをその岸辺へと導き、その峡谷へと入り込ませていた。そして今、同じ摂理の柱が彼らの支援にやって来た。彼らは、そこへ道案内もなくやって来たのでない以上、防護もないまま放置されることはありえなかった。というのも、彼らをそこへ導いたのと同じ雲の柱が、彼らの背後に回って彼らを防護したからである。

 ならば、恵みの相続人よ。元気を出すがいい! 何があなたの試練だろうか? 摂理がそれをあなたに臨ませたのではないだろうか? もしそうならば、過つことのない知恵があなたをそこから救い出すであろう。何が今のあなたを悩ませているだろうか? まことにあなたのいのちにかけて云うが、神はそれを取り除いてくださるであろう。あなたは神の雲の柱が、あなたをある場所に導いておきながら、そこで神の右の腕があなたを失望させると思うのだろうか?――神があなたをある峡谷へ道案内しておきながら、そこからあなたを再び抜け出させることができないなどと想像しているのだろうか? 一見すると誤り導いているかに思える摂理は、本当はあなたを助けるものとなるのである。あなたを種々の困難に至らせているものは、あなたの敵からあなたを守るのである。それはあなたのもろもろの罪を影で覆うと同時に、あなたには光を与える。思い巡らしてみると、神の子どもにとって摂理は何と甘やかなことか! そうした人々はこの世を眺めては、こう云うことができる。「私の困難がいかに大きなものであろうと、それらは私の御父の力ほど大きくはない。私の状況がいかに困難なものであろうと、それでも私の周囲にあるすべての事がらはともに働いて益となる。彼方にある、星を散りばめた空の天蓋を柱も立てずに持ち上げておられるお方は、私の魂をも、目に見えるつっかい棒なしに支えることがおできになる。はためには迷走して踊り回っているように見える星々を、実は整然たる軌道上で導いておられるお方は、確かに私の試練をも支配して、混乱の中から秩序をもたらし、悪と見えるものから恒久的な善が生まれるようにすることがおできになる。嵐に手綱をかけ、暴風雨にくつわをつけるお方は、確かに私の試練を抑え、私の悲しみを征服することがおできになる。稲妻が御手のうちにあり、いかずちが御口の中で眠っている限りは、私が恐れる必要はない。大海が御手の拳から滔々と流れ、白雲が御手の掌にあり、河川が御足によって向きを変え、海路が神によって掘られている限りは、恐れる必要はない。確かに、その御力によって御使いを飛べるようになさるお方は、虫けらにも力を与えることがおできになる。智天使を導かれるお方は、私のような蟻一匹の試練に圧倒されることはないであろう。あの途方もなく巨大な天体を粛々と回転させ、その予定の軌道を保っておられるお方は、私のように小さな原子など容易にしかるべき方向に動かし、みこころのままに私を導くことがおできになる」、と。キリスト者よ! 摂理ほど甘やかな枕はない。たとい摂理が自分に逆らっているように思えても、それでも信じ続け、あなたの頭の下に置いておくがいい。というのも、その内奥に慰めがあることは確実だからである。神の子どもよ。あなたには希望がある! あなたが巡礼を始めたばかりの途上にやって来る、その大いなる困難は、愛によって計画されているのである。そして、その同じ愛が、やがてあなたの守護者として介入するであろう。

 さらに、イスラエル人には他にも頼りとすべきものがあった。それは、自分たちが神の契約の民であると彼らにはわかっていたという事実であり、これは彼らが困難の中にあろうと変わらなかった。神が彼らをそこに至らされたのであり、神には、(畏敬の念とともに云わせてほしいが)その名誉にかけても、ご自分が至らされた困難の中から彼らを助け出す責任があった。「よろしい」、と神の子どもは云う。「私は、自分が苦境の中にあることがわかっている。だがまた、私が自分の力でエジプトから出て来たのではないこともわかっている。――私は、神が私を導き出したことを知っている。私の力で脱出したのでないことを知っている。すなわち、私の初子たるもろもろの罪を自分で殺したのではないことを知っている。――私は、神がそれをなさったと知っている。そして、確かに私は暴君のもとから逃れ出たが、――神が私の足を強めて旅ができるようにしてくださったことを知っている。というのも、私たちの部族全員の中には、ひとりも足弱の者がいなかったからだ。確かに私は葦の海のほとりにいるが、私は呼ばれもしないでここまで走って来たのではないことを知っている。むしろ、神が私にそこへ行くよう命じられたのだ。それゆえ、私は自分の恐れを吹き散らしてしまおう。というのも、もし神が私をこの困難の中へと導き入れられたとしたら、やはり神は私を導き出し、完全に通り抜けさせてくださるであろうからだ」。

 しかし、私があなたの注意を何にもまして向けたい点は、このことである。イスラエル人が有していた三番目に頼りとすべきものは、ひとりの人のうちにあった。そして、他の2つのどちらとも、このことがなければ、何の役にも立たなかったであろう。それは、モーセという人であった。彼が彼らのためにあらゆることを行なった。おゝ、神の子どもよ。あなたのあらゆる試練における、格段に大きなあなたの避け所は、ひとりののうちにある。モーセにではなく、イエスにある。しもべではなく、主人のうちにある。主はあなたのためにとりなしておられる。あなたには見えず、聞こえないが、モーセがイスラエル人のためにとりなしたのと同じようにしておられる。もしあなたが、はるか遠くからでも、主の御口から漏れ出ている御声の甘やかな言葉の切れ端をとらえることができさえしたら、あなたは慰められるであろう。というのも、神はその人が嘆願するときには、お聞きになるからである。このお方は、あらゆる困難に打ち勝つことがおできになる。このお方は、杖ではなく十字架をもって、葦の海を分けることがおできになる。赦しの恵みという雲の柱をもって、あなたの敵の目をかすませ、遠ざけておくことがおできになるだけでなく、十字架を持っておられ、それが葦の海を開いては、あなたのもろもろの罪をしてその真中で溺れさせることがおできになる。主はあなたから離れることがない。彼方にある天国の岩を眺めるがいい。そこに主が、杖を手にしたモーセと同じく、十字架を手にして立っておられる。主に叫ぶがいい。かの高く掲げた十字架によって、主はあなたのための通り道を割って作り、海中を通ってあなたを導かれるからである。主は、永遠の友人同士であった、これらの白髪の大水たちを、敵同士ででもあるかのように離れて立たせることがおできになる。主に呼び求めるがいい。そうすると主はあなたのために、大海の真ん中に道を、道なき海に通り道を作ってくださるであろう。主に叫ぶがいい。そのとき、あなたの罪の1つとして生き残るものはなく、主がそれらをすべて一掃してくださるであろう。そして罪の王である悪魔もまた、のしかかる《救い主》の血に圧倒されてしまう。その一方であなたは歌うであろう。――

   「地獄(よみ)とわが罪 わが道ふさぐ。
    されど地獄(よみ)つみ、征服(まか)さる敵ぞ。
    わが主はそれを 十字架(き)に釘づけて、
    凱歌(かちうた)うたえり、よみがえりの日に」。

かつてカルバリに死んだお方を、見つけ続けることである!

 III. 《神はそこにご計画を有しておられる。》そして、ここでもやはり私たちは、あなたに注意深く、何が神のご計画であるかを見てとってほしいと思う。キリスト者を、その人生の初期の時点で、はなはだしく大きな試練に導き入れなさる神の意図はどこにあるのだろうか。このことを私たちに説明しているのが使徒パウロである。引照付き聖書は、世界一の注解者であって、最も天的な講解とは、類似聖句を調べて、その意味を比較することにほかならない。使徒はこう云う。彼らは「みな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け……ました」[Iコリ10:2]。御民を困難の中に導き入れ、彼らのあらゆる罪を彼らの追手となさる神のみこころは、徹底的なバプテスマを彼らに授けて、ご自分に奉仕する者とし、永遠に彼らをご自分のために聖別することにある。私は今朝、バプテスマということで、その儀式ではなく、バプテスマが象徴していることを指している。バプテスマとは、神への献身――神への奉仕に加入することを意味する。私たちは、最初に回心したときには、それほど完全には神に自分をささげることがない。後になって、何か大きな葦の海が渦巻くのを目の当たりにしたときほど完全にはそうしない。私は、あなたがたの中のある人々が困難に陥るのを見て喜ぶべきである。そのような願いを口にする私は無慈悲だろうか? よろしい。もう一度云うが、私はそれを喜ぶべきである。というのも、私は決してあなたがそうなる前には、あなたを教会員とはしないからである。あなたが初めて前に進み出て、自分を完全に神にささげることを表明するのは、あなたが何か激しい試練に遭ってからであろう。このことは確信しておいてよいが、種々の激しい試練は、数々の殉教者や、信仰告白者や、宣教師たちなど、自分の《主人》への奉仕に徹底的に自らを聖別した人々が行なった英雄的な献身のきっかけとなった大きな原因であった。私たちのあらゆる患難の大きな目的は、私たちの心全体において、キリストへの完全な献身を押し進めることである。悲しみという洗礼盤においてのみ、私たちはキリストのバプテスマによって受浸するのである。いかなる聖油も、バプテスマを授ける効力は有していない。御霊こそ、唯一私たちを艱難という海でささげることのできるお方である。若き信仰者よ。あなたがこうした苦境に導き入れられたのは、あなたがそのとき神のためのバプテスマを受けるためである。私は切に願う。決して時を失してはならない。というのも、一部の人々はこれを無視するために、後になると、決して完全には、「雲と海とでイエスにつくバプテスマを受ける」ことの意味がわからないからである。そうした人々は、「そうしたことは、ちょっと後になってもかまわないだろう」、と云うが、その結果、非常に後になる。そうした人々は、きょうすべきことを明日行なうと云う。神があなたに授けておられる好機、あなたが公にあなた自身を神にささげることのできる機会を取り逃さないように用心するがいい。回心の後で最初に私たちが窮地と困難に陥るとき、まさにそのときこそ、私たちがイエスのものとしてささげられ、生ける神の子どもたちとして公然と姿を現わすための機会なのである。

 さて、愛する方々。こうした思想を明記しておくがいい。あなたは、これを取るに足りないことと考えるかもしれないが、私は、そうではないと確信している。嘘ではない。実際あなたは、自分が主の側に立つ者であると口で認めるべきである。もし、神が神であれば、神に仕え、もし、バアルが神であれば、バアルに仕えるがいい[I列18:21]。この世の何にもまして私があなたに熱心に、かつ熱烈に強調したいのは、イエス・キリストを主として決断するという大いなる義務である。あなたがたの中のいかに多くの人々が、いざ死ぬときにはキリストの民になれるだろうという、かすかで、ぼんやりとした希望をいだいていることか。だがしかし、あなたは、自分がキリストを主であると決断していないと告白せざるをえないであろう。あなたは自分が主のものであると思っている。だがあなたはしばしば義務をないがしろにし、頻繁に、あなたが小さな罪と考えるもので自分の良心が汚されるのを許している。あなたは世俗の事がらにおいては敬虔ではない。しかし、私はあなたに懇願する。真理と義とを私たちの秤の一方に置き、あなたの世俗的な利得をもう一方に置いて、どちらがより重大なものか見てみるがいい。そして、もしあなたが、思慮分別からして、神よりもこの世の方に注意を向けるべきだと考えるとしたら、覚えておくがいい。それは地獄から出た思慮であり、悪魔から出た分別である。それゆえ、それを拒否するがいい。もしあなたがたがエジプト人だとしたら、私もあなたに別の主人に仕えるよう告げたかもしれない。だが、あなたが神の民である、あるいは、そう告白している以上、私は衷心からあなたに訴えたい。あなたに願いたい。告白するなら、徹底的にするがいい、と。いかに私たちはあの熱くもあり冷たくもあるという、どっちつかずの人々を忌み嫌っていることか! あなたがた、内股膏薬をやる人々、――自分の立場をくるくる変える人々、――半分は馬で、半分は鰐で、そのどちらでもない人々、――あるものと別のものとの合いの子である人々、自分の意見ではキリスト者でもなく、この世の子らでもない人々。私たちは、あなたがそのどちらであるかを知っている。私はしばしば、あなたがたの中のある人々、2つのものの中間に立っている人々にとって、ローマカトリック教は何と筋の通った宗教となるだろうかと考えてきた。あなたがたは、はっきり神の子らであるわけではないが、悪魔の子らと呼ばれたいとも思わない。つまるところ私たちは、あなたがたをどこに入れればいいだろうか? あなたがたのためには煉獄というものがあれば、非常に好都合であろう。2つのものの中間にあなたがたを押し込めるのである。しかし、そのようなものが何もない以上、私たちはそのような性格の人々がひとりもいてほしくないし、ひとりもいないと信ずる。あなたは神のしもべであるか、悪魔のしもべであるかのいずれかである。どっちつかずによろめいていてはならない。むしろ、一度限り決定的に、自分がどなたに仕えようとするかを口にするがいい。もし、悪魔を選ぶなら、彼を選び、彼を愛し、彼に仕え、自分の選択を喜ぶがいい。もし、地獄を選ぶなら、そこへ行くがいい。そこへ気違いのように突進するがいい。それは、ぞっとするような永遠の住まいである。――すさまじい永劫の家である! しかし、もしあなたが神を選ぶなら、私はあなたに懇願する。この件においては、徹底的に本気になるがいい。現在のキリスト教信仰は、それを少しでもキリスト教信仰と呼ぶのが茶番となるようなものであろう! 私が主張し、信ずるところ、今の時代にはびこっているキリスト教信仰は、それを告白する人々のうち半分も天国に連れて行かないであろう。これは、彼らがたやすく天国へかかえて行ける信仰であろう。それは、重荷にもならないくらい軽い信仰だからである。だが、これはあまりにももろすぎて、彼らを天国へ連れて行くことはできない。彼らが有している敬虔は、彼らの魂を食い尽くさないようなものである。私は以前にある教役者が一度、自分の教会員たちにこう云うのを聞いたことがある。「神の家を思う熱心さが、あなたがたを食い尽くすまでには、長い時間がかかるであろう」。そこら中の教会を寄せ集めてみるがいい。それは、何と眠りこけた兄弟たちであることか! この世の君と、天の君との間で、彼らがどちらに属しているかについて口論でも始まりそうな具合である。しかし私はあなたに切に願う。あなたと世との間には、はっきりとした決然たる違いがあるようにするがいい。あなたの心が敬虔に傾いているようにするがいい。あなたの人生がキリスト教信仰で飽和するようにするがいい。「食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝する」*[Iコリ10:31; コロ3:17]ように留意するがいい。そのようにするとき神は、ご自分の大いなるご計画が果たされるのをごらんになるであろう。あなたは、「雲と海とで」イエスにつくバプテスマを受けるのである。

 しめくくりに、このたとえには、1つの悲しい面があるので、そのことに注目してほしいと思う。あなたがたの中のある人々は、未回心の状態のまま、かの戻り来し人のなき目的地へと旅しつつある。死ぬときにあなたは、1つの葦の海があなたの行く手にあることに気づくであろう。――死という海が真正面からあなたをねめつけるであろう。その前に出るとき、あなたはいかなる橋も、いかなる船も見いださない。あなたは、たったひとりでその海を歩き渡らなくてはならない。そして、注意するがいい。もしあなたが今、不敬虔な状態で生き、死ぬときもそのままであるとしたら、あなたがこの場にいるのと同じくらい確実に、この大いなる死の海があなたの前で渦を巻くまさにそのとき、あなたのもろもろの罪というエジプトの全軍勢は、背後からあなたを攻め立ててくるであろう。あなたのあらゆる罪が、吠えたけりながら、あなたを追ってくるであろう。あなたのもろもろの不義が、野生の冬狼のように血に飢え、獰猛にあなたを追跡してくるであろう。あなたの耳には悪鬼どもの咆哮が鳴り響くであろう。そして、すでに荒れ狂うヨルダンの大水があなたの骨々を震わせ、あなたの骨髄をおののかせているというとき、まさにそのときに、あなたは、絶望という暗闇の中に、あなたの罪の赤い目がいくつも凝視しているのを見てとり、あなたの以前のそむきの罪が、あなたの魂の血を求めて、かの穴へと追い立ててる吠え声を聞くであろう。あゝ、話を聞いている方々。そのとき、あなたには、あなたに光を与える何の雲の柱もなく、あなたの敵を惑わす何の暗闇の柱もないであろう。むしろ、あなたの背後には、あなたのあらゆる罪があり、あなたの前にはかの暗黒の死の海があり、そこをあなたは渡らざるをえないであろう。しかし、見よ。その罪の群れは、その海をあなたとともに泳いで行くであろう。それらは、エジプト人のように溺れることはなく、あなたがその海を渡渉しているとき、あなたは自分のもろもろの罪が、牡鹿に食らいついた猟犬のように、あなたの心臓の血をすすっているのに気づくであろう。左様。あなたが永遠に上陸したとき、あなたはそれらの1つとして海で溺れておらず、すべてが生き残っていることに気づくであろう。あらゆる罪は巨人のように肥大しており、あらゆる情欲は千本もの腕を振りかざしており、そのあらゆる腕には千本もの恐ろしい炎の指が生えており、そのあらゆる指には鉄の鈎爪がついていて、あなたの魂を引き裂くのである。おゝ! 私はあなたの罪というこのエジプト人たちについてあなたに警告する。というのも、かの血があなたの門柱とかもいに振りかけられておらず、滅びの御使いがそうした罪をあなたのために打ち殺していない限り、それらは確実に海を越えてあなたを追って来るからである。私はそこにいるあなたが見えるような気がする! あなたは、まさにヨルダンの真ん中にいる。あわれな魂! その川そのものが、歩き渡るには一苦労である。死は決して容易なことではない。その水は、口の中に入り、渦巻きのように喉の中でゴボゴボ流れる。見よ、いかに彼が震えていることか! 自分の回りの大水のように蒼白になりながら、その波浪そのもののように身震いしている。そして、あゝ! そのすさまじい絶望の中で彼が悲鳴をあげるとき――、見よ、翼ある悪鬼どもが彼に地獄の暗黒の果実を食らわせるのを。そして、彼が最もおののきを覚えるとき、見よ、そこで《全能の神》の焼ける硫黄が彼のからだに雨と降るのを。死の苦悶の中で彼が悲鳴を上げるまさにそのとき、そのときこそ、サタンがここを先途と彼の面前で怒号し、その炎と燃え上がる眼光を彼に見せつけ、死そのものよりも彼のあわれな魂を恐怖させるときである。罪人よ! 死ぬときには、あなたが2つの死を経ることを覚えておくがいい。1つの死は、私たち見ることになる死だが、もう1つの死は、ただ悲鳴と、呻きと、苦悶によってのみ知られる死である。それは墓のこちら側にいる私たちでさえ聞くことができる。しかし、あなたが来世で経験するだろうことを、私はあなたに向かって描き出すことができない。あなたに告げることができない。あの薄ぼんやりとした恐怖の影を、あなたに向かって描写できない。あの悲惨さの猛烈な火焔を、今は述べることができない。あの荒涼の陰鬱な哀感を、あの永遠のぞっとするような悲嘆を聞くことに私は耐えられない。私はかの恐ろしい光景を包み隠している垂れ幕をあえて持ち上げることはすまい。世を去った不敬虔な者たちの霊につきまとう、あの光景を。

 よろしい。では、この死から逃れるために、あなたは何をしなくてはならないだろうか? 救われるために、あなたには何ができるだろうか? 左様。罪人よ。第一のこととして、あなたは自分では何事も行なうことができない。しかし、第二のこととして、それを行なうことのできるお方がいる。――あなたのためにすべてを行なうことのできる《お方》がおられる。それは《人》なるキリスト・イエスである。もしあなたがこの方を信ずるなら、いかにあなたが汚れ果てた、みじめな、寄る辺のない、邪悪な者であっても、あなたは決して第二の死を見ることがなく、永遠のいのちを宿す者となるであろう。そして、あなたがこの世で死ぬときには、暗黒の悪鬼たちによってかの川を越えてまで追い立てられるかわりに、甘やかな御使いたちがその流れを越えて音楽を奏しており、あなたを軽々と持ち上げて栄光へと至らせようと待ち構えている。あなたは、輝く霊たちがあなたの熱い額をその柔らかな翼で扇いでくれるのを感じるであろう。あなたは、楽園の音楽のように甘美な歌を聞くであろう。そして、あなたの困難が最も頑強なときには、「人のすべての考えにまさる」神との平安を得るであろう[ピリ4:7]。「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び」を得るであろう[Iペテ1:8]。それによってあなたは、「勝利のうちに死を呑み込む」ことができるであろう[イザ25:8 <英欽定訳>]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。あわれな、震えている、悔悟した罪人よ。あなたの手をキリストの御手の中に差し入れるがいい。今、主のあわれみに身を投げかけるがいい。「きょう、もし御声を聞くなら……あなたがたの心をかたくなにしてはならない」[詩95:7-8]。私はキリストによって切に願う。「神の和解を受け入れ」るがいい[IIコリ5:20]。そして、もしあなたが悔悟しているならば、信仰者になれる信仰を神があなたに与えてくださるように! それ以外のあなたがたについて云えば、この場を出て行く前に、覚えておくがいい。私が話してきたのは、お伽噺ではない。真理である。外へ出て行き、「地獄なんかないさ」、とうそぶいてもよい。よろしい。地獄がなかったとしよう。それでも信仰者たちは、あなたと同じくらい幸福にしていられるであろう。しかし、地獄があった場合――そして、それは疑いもなくあるのである――、あなたがその中にいるとしたら、そのときには、もはや自分とは関わりのないことだなどと考えていることはできない。願わくは神が、イエスのゆえに祝福をお授けくださり、あなたがたの中の多くの方々を義としてくださるように。

 

葦の海のほとりのイスラエル[了]

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