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出エジプト

NO. 55

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1855年12月9日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た」。――出12:41


 私たちが堅く確信し、日々その念を強めていることだが、聖書の歴史書は、種々の予型や象徴によって、私たちに霊的な事がらを教えるための書物である。私たちの信ずるところ、聖書の歴史のあらゆる部分は、実際に起こった物事を忠実に写しとった記録というだけでなく、神がその民をお扱いになる中で、あるいは世界全般に御恵みを施される中で、霊的に起こっていることをおぼろげに示す影でもあるのである。私たちは聖書の歴史書が、世俗の著述家でも書けたような単なる歴史絵巻であるとは思わない。むしろ、真実きわまりない、無謬の、過去の記録であるか、この上もなく輝かしい、栄光に富む、未来の予表であるか、さもなければ、私たちの間で真実に受け入れられている事がら、キリスト者の心の中で真実に感じられている事がらを何にもまさって驚くべきしかたで示す象徴であり、素晴らしい例証であるとみなす。私たちは間違っているかもしれない。――そうではないことを望むが、いずれにせよ、その間違いは私たちを教えてくれるし、その誤りは私たちを慰めてくれる。私たちは、『出エジプト記』を、神がその選びの民に与えてくださる解放を、様々な形で予型している書とみなす。これは、単に神が長子を打つことによって彼らをエジプトから脱出させ、紅海を通って導き、荒野をついて進ませた歴史というだけにとどまらず、御民すべて対する神の真実なお取り扱いの象徴でもある。神は、キリストの血によって彼らをエジプト人から取り分け、その強く力ある御手によって彼らを奴隷の家と隷属の地から取り出しておられる。先週の聖日の夜、私たちは《過越》――《過越の小羊》の予型について取り扱った。そして、そのとき私たちがあなたがたに示したのは、かの振りかけられた血と、食された子羊が、いかに私たちが義と認められるためにつけられる血と、イエスとの内なる交わりによって受け取られる肉体と、イエスを食物として生かされ養われる魂との予型であったか、ということであった。いま私たちは、『出エジプト記』を、すなわち、イスラエル人がエジプトから脱出する際の物語を1つの予型、あるいは象徴とみなしたい。これは、すべてのあわれみの器[ロマ9:23]が、その奴隷の家から出て行き、律法によるすべての囚われ人が、その冷酷な奴隷監督たちの鎖から解放される予型、あるいは象徴である。この解放は、主権的な全能の恵みにより、私たちの主イエス・キリストという《過越の小羊》を通してなされる。

 エジプトの地は、神の契約の民全員が、遅かれ早かれ、自分の罪ゆえに至らされる奴隷の家を象徴している。神は、カナンで相続地を与えようと意図しておられるすべての者たちを、まずエジプトに下らせなさる。イエス・キリストご自身でさえ、公に教師として世に現われなさる前にはエジプトに行かれた。それは、主の場合にも、あらゆるキリスト者の場合と同じく、この預言が成就するためであった。――「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」[マタ2:13-15]。キリストが私たちを解き放ってくださる自由を享受するあらゆる人は、まず最初に罪という苦渋の奴隷状態を感じなくてはならない。私たちの手首は、自分の不義の手枷によって痛めつけられなくてはならず、私たちの背中は律法――私たちをイエス・キリストのもとに追いやる奴隷監督――の鞭で血みどろにされなくてはならない。真に奴隷とならなければ、真の自由はありえない。罪から真に解放されるには、まず最初に私たちはみな、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民と同様、呻き、神に叫ぶのでなくてはならない。私たちはみな、煉瓦焼き窯の中で隷従しなくてはならない。私たちはみな、檻の中で重労働に衰え果てなくてはならない。さもないと、この栄光に富む節を決して実感できないであろう。――「あなたがたは羊のおりの間に横たわるとき、銀でおおわれた、鳩の翼。その羽はきらめく黄金でおおわれている」[詩68:13]。私たちの自由の前には隷属がなくてはならない。復活の前に死が来なくてはならない。いのちの前に腐敗が来なくてはならない。滅びの穴と泥沼[詩40:2]から引き上げられる前に、こう叫ばされなくてはならない。「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません」[詩69:2]。そして、ヨナのように鯨の腹から連れ出され、自分の罪から解放される前には、山々の根元まで下らされ、海草が頭にからみつき、自分の無価値さを痛感して身震いし、地のかんぬきが、いつまでも自分の上にあるのではないかと恐れなくてはならない[ヨナ2:5-6]。このことを鍵として、あなたはエジプトからの解放が、神の民全員が律法という隷属と自らの罪という奴隷状態から解放されることとの美しい象徴であることを見てとるであろう。

 I. 第一に、《彼らが出て行くしかた》を考察するがいい。イスラエル人がエジプトを出て行ったときに、注目すべき驚くべきことは、彼らがエジプト人たちによって無理矢理追い出されたということである。彼らを隷属させることで身を肥やしていた、このエジプト人たちは云った。「ここから出て行ってくれ。われわれもみな死んでしまう」*[出12:33]。彼らは、イスラエル人が出て行くように懇願し、乞い願い、しかり、彼らをせきたてて、宝石類まで与え、彼らが出て行き、その地を立ち去るようにさせた。そして、驚くべきことは、エジプトで神の子どもを抑圧していた、まさにその当の罪が、その子どもをイエスに追いやるということである。私たちがエジプトにいる間、私たちを奴隷にしている、私たちのもろもろの罪は、聖霊なる神によってかき立てられて私たちを責め立てるとき、いかに残虐な鞭で私たちを打ち、私たちの魂を極度の隷従のもとで衰え果てさせることか。だが、そうした当の罪は、神の恵みによって、私たちを《救い主》のもとに追い立てる手段となるのである。鳩は、鷲に追いかけられるまで、鳥小屋に逃れようとはしない。そのように、もろもろの罪は、鷲の群れのように臆病な魂を追いかけ、それを岩なるキリスト・イエスの裂け目の中へと逃れさせ、身を隠させるのである。愛する方々。かつて私たちの罪は、私たちをキリストから引き離していた。だが今は、あらゆる罪が私たちをキリストのもとに追いやり、赦しを求めさせる。私は、罪を知らなければ、キリストを知らなかった。エジプト人によって痛めつけられなければ、解放者を知らなかった。聖霊は、あのエジプト人たちが民をエジプトから追い払ったように、私たちをキリストのもとに追いやってくださる。

 また、イスラエル人たちは、宝石と晴れ着で着飾ってエジプトを出て行った。ユダヤ人たちは、その祭礼の期間には、宝石や、あらゆる種類の上等な衣服を身につけるのを常としてきた。それらを持っていないほど貧しい場合でも、そのために宝石類を借りようとするのであった。この驚くべき《過越》においても同様であった。彼らは、何年もの間、何の祭も祝わないほど抑圧されていたが、今や彼らは、みなその晴れ着で着飾り、神の命令によって、エジプト人から銀の飾り、金の飾り、それに着物を借り受けた。「主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った」[出12:35-36]。だれもこれを泥棒行為だと云ってはならない。神から命ぜられたのでなければ、そうも云えたであろうが、国王が自分の法律を一時棚上げにできるように、神はご自分の律法の上におられ、神がお命じになることは何であれ正しいのである。アブラハムは、その刀を取ってイサクをほふろうとしたとき[創22:10]、神がそれを命じておられなかったとしたら、殺人の咎を負ったであろう。しかし、神がそうお命じになったという事実により、それは筋の通った正しいこととされたのである。しかし、さらに、ここの「借り受けた」 <英欽定訳> という言葉は、最上の翻訳者たちによると、イスラエル人が彼らに、その宝石を求めたという意味でしかなく、そこには後で返すという何の意図も、何の約束もなかったのである。そして、彼らがそうすることは、きわめて正当であった。なぜなら、彼らは長年の間エジプト人のために骨折り仕事をしてきたが、何の報酬も受けなかったからである。必要の前には法が力を持たないこともある。あらゆる必要の上にいます神は、いかにいやまさって、ご自分の律法の主人であられることか。この偉大な《主権者》[Iテモ6:15]、知恵に富む唯一の神[ロマ16:27]、王の王は、お望み通りにいかなる法を作る権利もおありになる。無知な人間[ヤコ2:20]は、自分の《造り主》から命令を受けるとき、それを問いただそうなどとしてはならない。しかし、この事実は非常に注目すべきことである。イスラエル人は、みすぼらしい服を着てエジプトから出て行ったのではない。彼らはその晴れ着を身にまとい、さらに金の飾り、銀の飾り、着物を求めてから、その地を喜んで出て行った。あゝ! 愛する方々。これこそまさに、神の子どもがエジプトから出て行くときの様子である。その人が自分の奴隷状態を脱するときには、自己義という古い衣を身にまとってはいない。おゝ! 否。それを着ている限り、その人は常にエジプトの中にとどまるであろう。だが、その人はイエス・キリストの血と義を身にまとい、種々の立派な聖霊の恵みに飾られて、行進して行くのである。おゝ! 愛する方々。もしあなたが、罪の奴隷状態から出て行くイスラエル人を見ることができたとしたら、あなたは云うであろう。この「荒野から上って来るひとはだれでしょう」[雅3:6; 8:5]。これが、あの藁もなしに煉瓦を作っていた、あわれな奴隷だろうか? これが、襤褸と布きれしかまとっていなかった、あの惨めな人だろうか? エジプトの川の泥で全身をよごし、賃金も給料もなしにゴシェンの地でこき使われていた、あの可哀想な人間だろうか? しかり。その通りである。そして今、この人は王のように着飾り、君主のような衣裳を身にまとっている。見よ。この労務者たちのひとりひとりは、自分の婚礼のために装った花婿のようにやって来る。その妻たちは、婚礼衣装を身にまとった王家の花嫁のように見える。神のあらゆる子どもたちは、エジプトを出て行くとき、立派な衣裳を身にまとっている。

   「わが魂(たま)、汝れの 美麗(あや)に見ゆるは、
    高き《三一神》(みかみ)の 着せしゆえなり。
    甘き賛美(たたえ)の 調べ合わせて
    力のかぎりに 同意(うべな)えよかし」。

 さらに注意すべきは、この民がその宝石類をエジプト人から得たということである。神の民は、奴隷の家から出て行くことによって、決して何も失わない。彼らは、エジプト人からその最良の宝石類を獲得する。「これは奇妙に真実なことだが、もろもろの罪は私に善を施してくれる」、と古のある著述家がかつて云っている。「なぜなら、それらは私を《救い主》のもとに追いやり、それらによって私は善を得るからだ」。謙遜なキリスト者に、どうやってそのような謙遜さを得たのか聞いてみるがいい。すると、十人のうち九人までは、自分はそれを罪ゆえの深い悲しみの炉の中で得たのだと云うであろう。別の、良心の鋭敏なキリスト者を見てみるがいい。どこからその人は、こうした貴重な宝を得たのだろうか? それがエジプトからやって来たことは請け合ってもよい。私たちが罪の確信のもとで奴隷とされていることによって得るものは、私たちがしばしば自由によって得るものよりも多い。旅にやつれた悲しみの子よ。あなたがいま労苦している奴隷の状態は、あなたにとって良いことである。というのも、あなたがエジプトから出て行くとき、あなたはエジプト人たちから宝石類を盗み取るからである。あなたの罪の確信そのものから、真珠を獲得するのである。「おゝ!」、とある人は云う。「私は何箇月も、何年も、罪意識のもとで労苦してきたが、解放されることができていない」。よろしい。私はあなたが、すぐにそれを得てほしいと思う。だが、もしそうはならなくとも、あなたはそこにとどまることによって、いやが上にも多くの宝石を得て、いざ出て行くときには、おそらくは最上のキリスト者となることであろう。罪人たちにとってジョン・バニヤンほど傑出した説教者がいるだろうか? そして、彼ほど苦しんだ人がいただろうか? 何年もの間、彼は疑いとためらいの中にあった。時にはキリストが自分を救ってくださると考え、別の時には、自分など決して選民のひとりではないと考えて、絶え間なく嘆き悲しんでいた。だが、彼は、他のどこでも手に入らなかっただろうような宝石類を、奴隷状態の中で得た。『天路歴程』のように類まれな宝石の収集物が、エジプトで過ごしたこともない者に作れただろうか? かくも長い間エジプトにとどまっていたからこそ、彼はこれほど多くの宝石を集めることができたのである。そして、おゝ! 愛する方々。しばしの間、苦悩の中に足を止めることに満足しようではないか。というのも、私たちがそこで獲得する宝石類は、私たちの一生を通じて私たちを飾ることになり、いつの日か私たちはエジプトを出て行くはずだからである。それも、泣きながらではなく、歌と喜びの冠とともに出て行くはずだからである。私たちは、「憂いの心の代わりに賛美の外套を」[イザ61:3]着けるであろう。荒布は私たちの腰から、灰は私たちの頭から取り除かれ、私たちは宝石で身を飾り、金銀を光らせながら行進するであろう。

 しかし、そこには、彼らが出て行くしかたに関する、もう1つの思想がある。それは、彼らは大急ぎで出てきたということである。私が思うに、神の子どもは、奴隷状態から出て行く機会があるや否や、たちまちそれを自分のものとするであろう。ある人が私のもとに来て、「私は深い罪の確信のもとにあります」、とか何とか云うとしても、明日のこと、明日のこと、明日のことについて語って非常に満足しているように見え、「私はいつでも自分の好きなときに悔い改めることができますし、自分の好きなときに信じられます」、と云い、いつまでもぐずぐず引き延ばしているとしたら!――あゝ! 私は内心、これは主が解放しておられるのではない、と思う。というのも、主の民がエジプトを出て行くとき、彼らは常に大急ぎで出て行くからである。罪意識のもとにあるあわれな罪人の中で、大急ぎで自分の背からその重荷を降ろしたいと願わなかった人など、私はひとりも見たことがない。打ち砕かれた心をした人はみな、すぐさまそれを包んでほしいと願うものである。「きょう、もし御声を聞くならば……心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]、と聖霊は云われる。決して明日とは云っておられない。「きょう」こそ、御霊の絶えざる叫びであり、あらゆる真に生まれたイスラエル人は、機会があり次第エジプトを出て行きたいと慕いあえぐものである。その人は、わざわざ麦粉をこねて、パンを焼いてから持っていこうとはしない。種を入れないパンを背にかつぐであろう。それほど急いで立ち去るであろう。地下牢の悪臭を憎悪する者は、鍵穴がきしる音を立てて、自分が自由になれるときを待ちわびている。長い間穴にいた人は、急いで逃げ出そうとする。奴隷監督の鞭で苦しめられてきた者は、鳩がその窓めがけて飛ぶように、キリスト・イエスにある平安と解放を見いだそうとして逃げ去る。

 II. しかし、イスラエル人の脱出と神の民の解放との類似点を3つ注目してきた後で、第二に、私たちはあなたの注意を、《この解放の巨大さ》に関する言及に引きつけたいと思う。あなたは今まで、このイスラエルの民の脱出がいかに驚異的なものであったか、心打たれたことがあるだろうか? あなたは、人々が何人脱出したか知っているだろうか? どう低く見積もっても、そこには二百五十万人が一箇所に固まって、全員がその国を一度に出て行ったに違いない。そしてまた、それに加えて、彼らと連れ立って、きわめて多くの人々――混じってきた人々――が行をともにした。それは、あまりにも膨大な人数であり、想像するも不可能である。ロンドンの全住民が一度にどこかの荒野を通って行軍し出すとしたら、それは到底思い描くこともできないような、驚異的な歴史的事件となるであろう。だが、ここには、少なくとも二百万の人々が、全員一時にエジプトの真ん中から出て行き、その国から出た彼らは、「ラメセスから、スコテに向かって旅立った」[出12:37]、と云われている。セメセスは、彼らが王のための町を建設するために使役されていた場所である。彼らはスコテ、あるいは仮庵にとどまった。これほど莫大な大群衆が入れる家などなかったため、彼らは個々に仮庵を作った。こういうわけで、それ以来イスラエル人は、「仮庵の祭」[レビ23:34]を祝ったのである。それは、彼らが全員、最初にエジプトを出て来たときに、スコテで仮庵を立てたことを祝うためである。これほどの大群衆を指揮するには、モーセは何という精神を持っていたに違いないことか。あるいは、むしろ、いかなる霊が彼には宿っていたに違いないことか。彼は、彼らを一箇所に至らせ、それから荒野を通って導くことができたのである。この莫大な人数を念頭に置く場合、あなたは考えては驚愕に満たされるであろう。彼らを養うためにいかに大量のマナが必要とされたか、また彼らを追ってきた水の流れがいかなるものでなくてはならなかったか! クセルクセスの軍勢や、ペルシヤの大軍について語ってみるがいい。王や主権者たちが集めてきた大軍勢について話してみるがいい! ここには、それらすべてを凌駕する大群衆があるのである。しかし、おゝ! 愛する方々。キリストがその血によって贖われた大勢の人々を思うとき、そこには、いかにいやまさる壮大さがあることか。キリストはほんの数人を救うために死んだのではない。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、大いに満足する」*。「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義と」する[イザ53:11]。「だれにも数えきれぬほどの群衆」*[黙7:9]が、神と《小羊》の御座の前に立つのである。おゝ! 驚異的な脱出――おびただしい数の魂の脱出よ! 私たちは彼らを天の星にも、地のちりにも、海の砂にもくらべないようにしよう。むしろ、神がアブラハムに約束されたことを覚えていよう。――「海辺の砂のように、あなたの子孫はこのようになる」*[創22:17]。「だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか」[民23:10]。彼らは水のように地をなめ、土地は彼らの前でことごとく貪り尽くされる。おゝ、大いなる神よ! 星々よりも数限りなく、千の海辺の砂よりも無数の、あなたの選民の大群を導き出されるとは、何と偉大な解放でしょう! これらすべてを成し遂げる、あなたの御力に栄えあれ!

 あなたが、このみわざの偉大さについて、もう1つ考えさせられるのは、イスラエル人が占めていたに違いない立場の多様さについて考えるときである。私が思うに、彼らは全員が等しく困窮していたのではない。彼らはみなが煉瓦焼き窯で骨折り仕事をしていたのではなく、彼らの中のある者はある場所にあり、ある者は別の場所にいた。――ある者は王の宮廷で働いており、ある者は下位のエジプト人の家で働いていた。――あらゆる場所に散っていた。だが、彼らがどこにいようと、彼らはみなそこからやって来た。たといパロが自分の広間に奴隷たちを有していたとしても、彼らは同じ日に、モフかテーベにある、黄金の門の宮殿から足音も高く出て行った。彼らはみな、同じ日に、異なる境遇から出てきた。神に導かれて彼らはみな一箇所にやって来た。そして、そこに自分の仮庵を立て、そこをスコテと呼んだ。さながら秋が深まり冬が近づくにつれて、ピーチク囀る燕が屋根の上に集まり、別の国で別の夏を探せる蒼海の彼方への遠距離飛行に備えるように、このイスラエル人たちも、そのすべての地方からこのように集まり、ともに立って、路なき荒野を渡って、神がこう告げられた国への脱出に旅立とうとした。「わたしはあなたがたを乳と蜜の流れる地へ上らせる」*[出3:17]。おゝ! 神の偉大な、栄光に富むみわざよ! 「主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたは奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています」*[詩92:5; 139:14]。

 愛する方々。私は特にあなたに1つのことを覚えておいてほしいと思う。すなわち、この脱出は偉大なもので、エジプトから逃れた大群衆は膨大な数ではあっても、彼ら全員を自由にした《過越》はたった1つであった、ということである。彼らは2つの夕食の祝いを要さず、エジプト中を飛び回る御使いをふたり必要とはしなかった。2つの解放が必要ではなかった。むしろ、全員が一晩で、全員がその《過越の小羊》で、全員がその《過越》の夕食によって、救われた。天の彼方にいる大群衆を見てみるがいい! 血で洗われた魂の軍勢が見えるだろうか? 神に選ばれた、尊い[Iペテ2:4]魂たちが見えるだろうか? その数が数えられるだろうか? 御座の前にいる、美しくされた人々の、砂のような数々を勘定できるだろうか? あゝ! 否。だが、ここには、あなたを考えさせるものがある。彼らを救うためにふたりのキリストは必要なかった。彼らを解放するのに、ふたりの聖霊が求められはしなかった。また、彼らをそこに至らせるのに、2つの犠牲は要されなかった。

   「訊けや彼らが 勝利(かち)の出所(いずる)を、
    彼らは答えん、口をそろえて
    彼らが勝利は 《小羊》にあり、
    その凱歌(かちどき)は その死にあり、と」。

1つの苦悶するいけにえ、1つのカルバリ上の死、1つのゲツセマネでの血の汗、1つの「完了した」との叫びが、救拯のあらゆるわざを完成された。おゝ! キリストの尊い血よ! 私は、それがひとりの罪人を救うと考えるだけでも、愛さずにはいられない。だが、おゝ! それが救うおびただしい数の罪人たちについて考えるとき! 愛する方々。私たちは私たちの主イエス・キリストについて考えすぎるということはない。私たちは、この尊いご人格について、しかるべき程度の半分も尊重していない。私たちは主の血をその正当な値打ちで重んじていない。左様。あわれな罪人よ。あなたは今朝、「こんな血では私を救えない」、と云っている。何と! それが千の千、無数の無数の人々を救いつつあるというのに、あなたを救わないというのか? 群れ全体を1つに集めて、彼らを牧場に連れて行く羊飼いが、一匹でも子羊を見失うだろうか? あなたは、「私はちっぽけすぎる」、と云っているかもしれない。まさにその理由によってあなたは、自分の面倒を見てもらうには、大した御力を必要としないであろう。「しかし」、とある人はいう。「私は非常な大罪人だ」。左様。ならば、まさに好都合である。というのも、主は、「罪人を救うために来られた」*のであり、「私はその罪人のかしらです」、とパウロは云う[Iテモ1:16]。だから、主はあなたを救うために来られたのである。あゝ! 恐れてはならない。あなたがた、神の子らよ。イスラエル人全員を一晩で連れ出されたお方は、あなたがた全員を連れ出すことがおできになる。あなたがいかにまぎれもない奴隷状態にあっても関係ない。ことによると、あなたがたの中には、藁もなしに煉瓦を作らなくてはならないどころか、他の人の二倍も多く作らなくてはならないと思われる人がいるかもしれない。そして、あなたの奴隷監督は、あなたの回りで鞭を振り回し、四六時中あなたのからだを切り裂いている。あなは、だれよりも悪い奴隷状態にあり、あなたの隷属はずっと強く、あなたの炉はずっと熱く、あなたの壺はずっと作りにくい。よろしい。私はそれを嬉しく思う。自由はあなたにとっていかに甘やかなものとなるであろう! そして、私はあなたに云うであろう。あなたはエジプトに残されたりしない、と。というのも、もしあなたがそうなったとしたら、古のパロは何と云ったであろう? 「神は奴らを全員連れ出すと云っていたのに、そうしなかった。ひとり残されている」。そして彼は、そのあわれなイスラエルを町中引き回し、モフからテーベまで連れ回して、こう云うであろう。「神が解放しようとしなかった者がひとりいる。私ががっちり握っていたので、神にも連れ出すことのできなかった者がひとりいるのだ!」 あゝ! 悪魔君よ! お前は主の民のひとりについてすら、そのようなことは云えはすまい。彼らは全員、身分の高い者も低い者も、そこにいる。この無価値な手は、幸いな聖パウロの手を取るであろう。彼らはみな天国にいることになり、みな贖われ、みな救われるであろう。だが、よく聞いてほしい。全員が1つのいけにえ、1つの契約、1つの血、1つの《過越》によってそうなるのである。

 III. ここから私たちが、より詳細に語りたいと思うのは、《彼らの解放の完全さ》である。「四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た」。私たちの親愛なアルミニウス主義者の友人たちの考えるところ、主の民のある者らはエジプトを出て来ず、最後には失われてしまうという。あゝ! よろしい。善良なハートが云うように、――

   「あわれな罪人 ひとり堕つれば、
    さらばつまりは みなが堕つべし」。

そして、私たちの中のだれひとりとして、安全で安泰なものはいなくなる。それゆえ、私たちはそれを譲ることはしない。むしろ、全集団が、そのあらゆる者が、エジプトを出たのである。ひとりたりとも置き去りにはされなかった。そこに、あわれな足なえの人がいる。あゝ! あなたは彼がその松葉杖を投げ捨てるのを見る。そこに病気の婦人がいる。左様。だが彼女は突然床から起き上がる。別の人は中風で、どうしても身を起こすことができない。だが、一瞬にしてその人はからだがしゃんとする。「その部族の中でよろける者はひとりもなかった」――詩篇105:37。そこには、何もわかっていない、あわれな小さな赤子がいる。それでも、それは母親に抱かれてエジプトを離れていく。老いた白髪の家父は杖をついてよろめいてはいない。八十路を迎えてはいても、彼もイスラエルの子であり、出て来る。そこには、肩をすりむき始めたばかりの若者がいる。だが、若くはあっても、その時は彼のもとを訪れ、彼も出て行く。彼らはみな、あらゆる者が出て行き、ひとりも置き去りにされない。そこに彼らが病院を持っていたとは思わないが、もし持っていたとしても、確実に彼らは、だれひとり病院に残して行かず、思うに全員がたちまち癒されたに違いない。そこには、モーセの支配に逆らって、「だれがあなたを私たちの裁判官や調停者に任命したのか」*[出2:14]、と云ったイスラエル人がひとりいた。しかし、彼らはこの男をも残していかなかった。この男さえ出て行った。彼ら全員が出て行った。また、手足がほとんどきかなくなった者、半分白痴のようで、正気をほとんどなくしてしまった者、あわれな、よぼよぼの人々でさえ、そこに取り残された姿は見られない。愛する方々。それと同じく、もしあなたが「イエスの群れの ちさき子羊」であるとしたら、あなたは、「いまはイエスのうちに」ある。あなたに学問がほとんどなくても、常識がはなはだしく欠けていても、エジプトを出て行くであろう。もし主があなたを奴隷状態にしたとしたら、また、あなたがそこで呻かされたとしたら、主はあなたがそこから贖い出されたときに、次第に歌えるようにしてくださるであろう。置き去りにされる恐れは何もない。もしそうされたとしたら、パロがこう云うだろうからである。「神は強い者らは解放した。だが、弱い者を連れ出すことはできなかったのだ」。そして、そこには神の権能と全能に対するあざ笑いが起こることであろう。否。彼らは全員出て来た。

 しかし、ただそれだけではない。彼らは、そのすべての家畜を連れ出した。モーセが、「ひづめ一つも残すことはできません」[出10:26]、と云った通りである。彼らは、自分たちのからだだけでなく、そのすべての財産を携えて行くことになっていた。これは何を私たちに教えているだろうか? 左様。神の民全員が救われるだけでなく、神の民が有したことのあるすべてが回復されるのである。ヤコブがエジプトに下る際に持っていたものは、みな再び持ち出された。私はアダムにおいて完璧な義を失っただろうか? 私はキリストにあって完璧な義を有することになる。私はアダムにおいて地上における幸福を失っただろうか? 神はキリストにあって私たちに下界でも大きな幸福を与えてくださるであろう。私はアダムにあって天国を失っただろうか? 私はキリストにあって天国を有することになる。というのも、キリストは失われた人を捜して救うためだけに来たのではなく、失われたを捜して救うためにも来られたからである[ルカ19:10]。単に羊だけでなく、その羊が失った良い牧場をも――単に放蕩息子だけでなく、その放蕩息子のあらゆる身分をもである。あらゆるものがエジプトから持ち出された。ヨセフの遺骨すら後に残されなかった[出13:19]。エジプト人は、イスラエル人の持ち物の切れ端をも所有していると云うことができなかった。――そのこね鉢の1つや、古着一枚すら握っているとは云えなかった。そして、キリストが万物をご自分に服させるとき、キリスト者はエジプトでの骨折り仕事によって1原子すら失っておらず、こう云えるはずである。「よ。おまえのとげはどこにあるのか。よ。おまえの勝利はどこにあるのか」[Iコリ15:55 <英欽定訳>]。地獄よ。おまえの勝利はどこにあるのか? お前には、お前の勝利を示す旗や幟が一枚もない。戦場には、鎖かたびらであれ兜であれ、1つも残されていない。お前が地獄でキリストを嘲るために掲げることのできる戦利品は1つもない。主は、ご自分の民を解放されただけでなく、彼らはその軍旗を翩翻とひるがえし、その盾を持ちながら出て行った。立って、このようにご自分の民全員を解放しておられる主を賞賛し、愛するがいい。

 IV. ここから私たちは、第四のことに注目したい。《イスラエル人がエジプトを出てきた時》についてである。「四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た」。神はアブラハムに、自分の民が四百三十年間、奴隷となると約束しておられたが、彼らは、それより一日たりとも余分には奴隷となっていなかった。神の証文が満期になるや否や、それが四百三十年前に書かれたものであるにもかかわらず、神は勘定を支払い、そうするための時間を全く求めず、即座にそうなさった。クリストファー・ネスはこう云っている。彼らは、夜が来るまでその約束の成就を待たなくてはならなかった。というのも、神は、まさにその日にそれを成就なさったが、彼らの信仰を試すために、夜まで彼らをとどまらせなさったからだ、と。彼はこの点で誤っている。なぜなら、聖書は一日が夜に始まると云っているからである。「こうしてがあり、朝があった。第二日」[創1:8]。それで神は彼らを待たせたのではなく、即座に彼らにお支払いになったのである。その日が来るや否や、私たちで云えば夜になったとき、ユダヤ人の暦が今でもそうであり、聖書の一日が常にそうであったように――、神はその債務をお支払いになった。聞くところ、ある地主たちは、地代を請求しに十二時ぴったりにやって来るという。よろしい。私たちは人が彼に、きっかりその時間に支払うとしたら、その人の正直さを賞賛するものである。だが、神は決して、一秒たりとも、その約束を果たされるのを遅らせることはない。その御約束が遅れるように思われても、待つがいい。もし神が何かをある日約束しておられるとしたら、あなたは、その日付について間違っているのかもしれない。神は明日まであなたを待たせたままになさらないであろう。主がお約束になったその日に、イスラエル人は出て来た。そして、それと同じように主の民全員は、予定された瞬間に奴隷状態から脱するはずである。また彼らが、その定めの時より早く奴隷状態を脱することは到底ありえないであろう。おゝ、あわれな、苦悩する、天の相続人よ。罪のもとで呻き、安息を求めながら、それを見つけられないでいる者よ。あなたが、煙の立つかまど[創15:17]のある場所に、もう少しとどまることは、主のみこころであると信ずるがいい。もう少し待つがいい。神はあなたに善を施しておられる。昔イエスがそうされたように、神はあなたに厳しい言葉をかけて、あなたの信仰を試しておられるのである。神が今あなたに、あなたは犬だと告げておられるのは、あなたがこう云うのをお聞きになりたいがためである。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」[マタ15:27]。神があなたをお待たせになっているのは、そうすることであなたの熱心さが新たな力を得るがためである。神があなたを叫び求めさせ続けているのは、それを将来のあなたに対して、より良い恵みのしるしとしようと意図されたからにほかならない。それゆえ、待つがいい。あなたはやがてエジプトから出て行き、喜び歌いながらシオンに入り、その頭には歌ととこしえの喜びをいただく[イザ51:11]のだから。

 しかし、今、愛する方々。私たちは非常に厳粛な調子でしめくくらなくてはならない。イスラエル人とともにエジプトを出て来た同行者たちについて、思い起こしてほしい。イスラエル人がエジプトを出て行ったとき、エジプトの中には、王に向かって不満をいだく人々――おそらくは犯罪者や、有罪宣告を受けた者、債務者、破産者、自分の国に飽き飽きした人々、また、「自国を、自国の益のために離れた」、としゃれた云い方をされる流罪人のような人々がいた。しかし、こうした人々は、イスラエル人とともに出て行ったとはいえ、注意するがいい。彼らはイスラエル人のひとりではなかった。彼らは脱出しはしたが、その扉が開いたのは、彼らを出て行かせるためではなかった。それが開いたのは、ただイスラエル人を外へ出すためであった。こうした逃亡者たちは、イスラエル人にとって常に厄介者であった。このように混じってきていた者は、激しい欲望にかられたと云われている[民11:4]。この混じってきた者らこそ、彼らに金の子牛を礼拝することを教えた者らであった。この混じってきた者らこそ、常に彼らに道を踏み外させた者らであった。そして、この混じってきた者らには、今もその後継者たちがいる。多くの人々は、エジプトの地を出て来はしたが、決してイスラエル人ではない。そして、多くの人々は、教会員の交わりによって私たちに加わり、霊的なパンを食べ、彼らについて来る霊的な岩から飲んではいるが、だがしかし、その多くを神は喜んでおられない。それは、古にも神から喜ばれず、荒野にむくろをさらした多くの者らがいたのと同じである。「あゝ!」、とある人は云う。「だが、もし彼らがエジプトにいたとして、確かにもしそこから出て来たのだとしたら、彼らはキリスト者に違いないと思っていた。あなたは、そういう比喩を使っていたのだから」、と。左様。しかり。だが、こうした人々がエジプトでどのように過ごしていたか注意してみるがいい。この混じってきた者らは、決してエジプトで奴隷になってはいなかった。イスラエルこそ、その奴隷監督の鞭を感じ、藁なしで煉瓦を作らなくてはならない者らであった。しかし、こうした連中は何もすることがなかった。彼らは自らエジプト人――生粋のエジプト人――「罪の世継ぎ、かつ御怒りを受けるべき子ら」*[エペ2:3]であった。彼らは決して真に奴隷となったことがなかった。それゆえ、彼らは、真のイスラエル人がパロのくびきから自由にされたとき喜んだようには喜ぶことができなかった。私たちの間にいる、こうした人々の後継ぎたちは、私たちにこのように告げるであろう。「あゝ! 私は自分が罪人であったと知っています」。それは、あなたがエジプト人であったと云っているだけにすぎない。「ですが、私は、自分の罪を感じたことがあるとか、それを徹底的に忌み嫌ったことがあるとか、それゆえに泣き悲しんだことがあるとは云えません」。彼らはやって来て、「私は罪人です」、と云う。イエス・キリストについて聞きかじっては、想像上の信仰でそれに飛びつく。――その信仰は、私たちを《小羊》と結び合わせ、真の救いに導くものではなく、観念的な、まがいものの信仰だが、それなりの解放感を得させ、こうした人々の中には驚くほど幸福になる者らがいる。彼らは疑いも恐れも感じない。モアブのように安心しきっており、器から器へあけられたこともない[エレ48:11]。もちろん彼らはエジプトについて私たちに語ることができる。彼らは神の子どもと同じくらい、それについて知っている。もし神の子どもが煉瓦焼き窯について描写し、いかに自分たちが藁なしに煉瓦を作っていたかを語るとしたら、彼は、それを実感したことはなくとも、それを見たことがあり、それについて語ることができる。ことによると、あわれなイスラエル人よりも巧みに語れるかもしれない。というのも、そのあわれなイスラエル人は時々その口を打たれたことがあり、打たれたことのない他の人々のようにうまくは語ることができないかもしれないからである。その人は奴隷状態について何もかも知っている。ことによると、そのあわれなイスラエル人を試すために、そのいくつかを発明したことがあったかもしれない。そして、その人は、エジプトを出て行くことについて、荒野をついて旅することについて、非常に多くを物語れるかもしれない。しかし、エジプト人とイスラエル人の違いはここにある。注意するがいい。エジプト人は、門柱に血を振りかけなかった。そして、この混じってきた者らについては、過越の子羊を食べたとは一言も記されていない。というのも、こう書かれているからである。「外国人はだれもこれを食べてはならない」[出12:43]。ある人々は、「私は天国に行けると信じてます」、と云い云いしているが、決して血を振りかけたことがなく、決して過越の《小羊》を食べたことがなく、決してキリストと交わりを有したことがなく、決して主と生きた結合を有していない。

 おゝ、あなたがた、キリスト教会の教会員たち! あなたがたの中の多くの人々は、うわべだけの経験と、うわべだけの信仰しかない。あなたがたの中のいかに多くの者らが、敬虔さの見せかけだけしか有していないことか! あなたがたは白く塗った墓である。外側は、飾り立てられた墓地の庭園のように立派で、美しい。だが、内側は死人の骨や腐れで満ちている[マタ23:27]。私はあなたがたに願う。確信するがいい。《小羊》の血と、真にキリストを食する以外のいかなる方法によっても、解放されはしない、と。多くの人は、自分の良心を押さえつけることによって解放を得ている。「あゝ!」、とこうした混じってきた者らのひとりは云う。「ここで俺は牢屋に入っている。今晩は、イスラエル人がエジプトを出て行く夜だ。おゝ! 俺も出て行けたなら!」 彼は何をするだろうか? 牢番は恐れている。自分の長子を失ったばかりである。それで、この囚人は云う。「俺をここから出せ!」 それで彼は牢番に袖の下をつかませて、自分を外に出させる。そのように多くの人は、エジプトを出て行くために自分の良心に袖の下をつかませる。「ええ、良心の旦那様」、と彼は云う。「私は二度と酔っぱらったりいたしません。欠かさず教会に通います。そこに私の店があります。いつも日曜には開いております。――これからは鎧戸を二枚あげることにします。それは、ほとんど全く閉じるも同然です。それに、私は自分では商売をしないことにします。――私の代わりに奉公人にやらせます」。そして彼は外に出て来る! しかし彼は、こういうしかたで出て来るよりは、エジプトにとどまってた方がましであった。また、別の者は力ずくで外に出る。牢番が倒れて死んでしまい、それで彼らは牢獄の外に出て来る。ある人々は、良心に袖の下をつかませるばかりか、良心を殺してしまう。彼らは、ほとんど自分の良心が死んでしまうほどのところまで行き、ある日、良心が発作を起こしているときに、彼らはつき進んで脱獄する。それで彼らは、「平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」[エレ6:14]。自分ででっち上げた迷妄の囲いの中で、自分自身を包みこみ、自分自身で嘘っぱちの隠れ家を作り上げては、そこに信頼を置く。おゝ、あなたがた、混じってきた者たち。あなたがたは教会を滅ぼすものである。私たちを欲望にかられさせるものである。純粋なイスラエル人の血は、あなたとの結び合いによって汚される。あなたは、神の民が座るように座っているが、しかしあなたは神の民ではない。神の民が聞くように聞いているが、しかしあなたは、「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」[使8:23]。他の人々と同じくらい優美に聖礼典を受けとっているが、その飲み食いによって身に審きを招いている[Iコリ11:29]。教会の集会に出席し、聖徒たちの個人集会に集うが、そうしたところにいる時でさえ、羊のなりをした狼[マタ7:15]であり、いてはならない時に群れの中に入って行く。

 話をお聞きの愛する方々。自分を試して、自分が真のイスラエル人か見きわめるがいい。おゝ! キリストはあなたに対して、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」[ヨハ1:47]、と云えるだろうか? あなたの門柱には血が塗られているだろうか? あなたはイエスを食べただろうか? イエスを食物として生きているだろうか? イエスとの交わりを有しているだろうか? 聖霊なる神が、あなたをエジプトから連れ出されただろうか? それとも、あなたは自分で出て来たのだろうか? あなたは、主の愛しい十字架と、傷ついたわき腹の中に隠れ家を見いだしているだろうか? もしそうだとしたら、喜ぶがいい。パロその人もあなたを連れ戻すことはできない。しかし、もしそうでないとしたら、私は私の《主人》に願う。あなたの平安が、いかに麗しく愛らしく見えても、それを粉々に打ち砕いてくださるようにと。私は神に懇願する。罪の確信の風と、その御怒りの大水とを送ってくださり、あなたの家がいま倒れ、あなたが死ぬときまで立っているようなことがないようにと。そして、その最後の厳粛なときに、あなたが手ずから建てた大伽藍がよろめくようなことがないようにと。混じってきた者たち! これを聞くがいい! あなたがた、信仰告白者として集っている者たち! 「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です」[IIコリ13:5]。しかし、もしキリストがあたなのうちにおられないとしたら、あなたはまだ不適格な者であり、神が忌み嫌っておられる者なのである。願わくは主が、そのすべての御民をエジプトから連れ出してくださるように。その子らすべてを奴隷の家から解放してくださるように。

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出エジプト[了]

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